Sayer Says in Japanese

Tuesday, March 13, 2012

国立民族学博物館のポリタンク

12年3月13日(火)

先月、国立民族学博物館(民博)に研究会で訪れたときに、最近はポリタンクがアフリカ文化を紹介する部分で展示されていると耳にしました。そこで、見に行きました。ありました。みにくかった。ただのポリタンク。そりゃ現地の人にとっては、水を汲みに行く道具として重要でしょう。でも、現代文明から見れば、どこかのぱっとしない工場で生産されたモノにすぎません。それを堂々と博物館で展示している人々の気分が理解できませんでした。
 たしかに、民博の初代館長、梅棹忠夫さんは、展示物をガラクタと表現しました。でもそれは彼一流のてらいだったのではないでしょうか。博物館に来る人は、民俗資料であっても、それなりに美しいものを求めているのではないでしょうか?事実、このポリタンクをのぞけば、ギターですら美しかったです。
 昔、ウイーンの民族学博物館を見学したとき、ついにコハウロンゴロンボに出会いました。子供のころからの夢でした。イースター島の住民から略奪したのか、高額で引き取ったのか、知りませんが、とにかくガラスの容器にまもられて、博物館の重要なタカラでした。ポリタンクとは雲泥の差です。

 ここで、民芸運動を思い起こさずにはいられません。柳宗悦が主導した民芸運動は、私にとっては、産業革命が成熟しないあいだの、「あだばな」にすぎません。産業革命の初期の成果は、大量に同じような製品を安価に生産することでした。この論理は現在にも通じています。この歴史の流れに対して、抗しようとしたのが、民芸運動だったと思います。人間が、職人が介在することによって生じるランダムな揺らぎに由来する、個々の製品の独自性。しかも美しいものが生み出されている。これこそが民芸運動の理想だったのでは?
 私の父、斎藤光夫こと、原子光生は、民芸運動に心酔し、福井民芸の会を立ち上げました。私は高校生のころから、民芸運動に疑問でした。そして、まさに柳宗悦の息子、柳宗理氏が父親に反旗を掲げていたのです。彼は著名な工業デザイナーでした。これは私の父から直接聞いたことですが、柳宗理氏は、大量生産される工業製品にも美があり、それらもまた現代的な民芸品だと主張したそうです。これに対しても、私は疑問です。
 偶然の要素が無く、まったく同一の醤油瓶が何百万個も生産されたとき、それを民芸品だといえるでしょうか?キッコーマンのあのガラス製の醤油瓶は、たしかに美しいです。でもそれは、たしか えくあんけんじ という工業デザイナーがデザインしたものであり、工場の職人の名前は忘れられ、彼の、デザイナーとしての名前だけが残ります。これは民芸品の対極に位置するものです。
 一方、ランダム性は、工業化が進めば、NC制御で作り出すことが可能です。かすりの、あの美しいばらつきも、現在では疑似乱数かなにかを発生させて、機織り職人のわざをまねすることができます。
 ともあれ、これらの問題点があるので、民芸運動はあきらかにすたれつつあります。福井民芸の会も、若い人が加わらず、数年前に解散しました。
 さて、ここで民族学です。論理は民芸運動に似ているのではないでしょうか。
なぜ? これは皆さん、考えてみてください。次回に、私の考えをご紹介します。

斎藤成也

Sunday, February 19, 2012

3月30日の公開講演会

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公開シンポジウム「考古学における年代測定の重要性」
主催:総研大戦略的研究プロジェクト
「現生人類の拡散による遺伝子と文化の多様性創出に関する総合的研究」
日時 2012年3月30日(金)14:00~18:00
場所 東京都内神保町 一橋記念講堂(学術総合センター2階)

プログラム

14:00~14:10 挨拶
 斎藤成也(国立遺伝学研究所教授;本プロジェクト代表者)
 (内容:総研大および本プロジェクトの紹介と今回シンポジウムの企画意図について)
14:10~15:00 講演:炭素14年代法の実際と応用研究(Radiocarbon dating and its application)
 坂本稔(歴史民俗博物館准教授;本プロジェクトメンバー)
15:00~15:40 講演:古人骨の年代測定で確認された琉球諸島への更新世人類の拡散 
 米田穣(東京大学新領域創成研究科准教授)
15:40~16:10 講演:オセアニア考古学における年代測定
 印東道子(国立民族学博物館教授;本プロジェクトメンバー)
16:10~17:00 講演::旧石器時代の女性像の広がりと年代測定
 春成秀爾(歴史民俗博物館名誉教授)

17:00~17:15 休憩

17:15~18:00 パネルディスカッション
      講演者4名および他に数名が出壇

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Saturday, February 04, 2012

ツイッター始めました

12年2月4日 立春

いつのまにか科学紀元12年となり、しかももう2月になってしまいました。

昨日、三中信宏さんに教えていただき、ツイッターをついに始めました。

https://twitter.com/#!/Saitou_Sayer

このブログもなるべく更新してゆきますので、こちらもよろしく。

ブログだとどんどん書けるのですが、ツイッターは140字という制限があり、ちょっときゅうくつです。

そういえば、Face Bookも昨年立ち上げたのですが、開店休業状態です。URLも忘れました。

まったくインターネットの威力はすごいものです。

斎藤成也

Wednesday, December 28, 2011

欧米への旅行には段ボール箱は使わない方がいいでしょう

2011/12/29

今回のToulouse行きは1ヶ月という少し長い期間だったので、荷物が多くなりました。そこで、大型のスーツケースでは足りなくて、段ボール箱にいろいろ追加の荷物を詰めて送りました。成田空港ではなんの問題もなく、チェックインできました。段ボール箱をチェックインすることは、少なくとも日本や中国などアジアの空港では時折見かけます。
 ところが、フランスのトゥールーズ空港に到着して、荷物が出てくるBaggage Claimで待っていたら、スーツケースは出てきましたが、段ボール箱がいっこうに出てこないのです。最後まで待ってもだめでした。そこでスーツケースだけ持っていったん外に出て、迎えに来てくれた共同研究者に事情を説明し、航空会社の荷物に関する窓口に行きました。係員はきれいな英語を話す人で、彼が荷物担当係と連絡をとってくれて、なんと段ボール箱は届いたけれど、自動的にカーゴのほうに送られたとか。スーツケースだけが手荷物扱いになるそうです。10分ほど待って、無事段ボール箱が出てきました。
 帰国する時にも、段ボール箱をスーツケースと一緒にチェックインしようとしたら、断られました。段ボール箱はやはりカーゴ用の窓口に持って行けとのこと。成田空港では無事に出てきました。私の荷物が出てくるまでに、私の以外の段ボール箱が4個ありました。アジアでは現在でも段ボール箱が使われているという証拠です。ほっとしました。
 旅行業者の方にあとでお聞きしたところ、そういえば米国の空港でも段ボール箱は別扱いだったとのことでした。ということで、段ボール箱は欧米への旅行では使わないほうがいいという結論です。

斎藤成也

生物学の論文における生物種名

2011/12/29

今年は11月中旬から12月中旬まで、共同研究者, Blancher教授のいるフランスのトゥールーズに滞在していました。いろいろな話をしましたが、そのひとつが、生物学の論文における生物種名です。前から気になっていたのですが、モデル生物を使った研究では、時折その生物名を書かない論文を目にすることがあります。最近は減ったのかもしれませんが、十数年前、あきらかにパン酵母 (Saccharomyces cerevisiae)を用いた研究でありながら、この種名が論文内のどこにも出てこない論文にいくつかお目にかかったことがあります。おそらく、この生物を研究している人々にとっては、遺伝子名を見ればパン酵母であることは明らかなのでしょう。しかし、これはやはり問題だと思います。
 同じように、ハツカネズミ(Mus musculus)、最近は日本語でもマウスということが多くなりましたが、これも代表的なモデル生物なので、全世界に多数の研究者がいるためか、パン酵母と同じように、論文のどこを探しても学名はおろかmouseとすら書いていない場合があります。それをBlancher教授に伝えたら、彼も同じ経験があるよと言ってくれました。こちらも、遺伝子名が少しヒト (Homo sapiens)の場合と異なるので、マウスの専門家ならわざわざ書くことをしないのでしょう。しかしこれもまた傲慢というものです。モデル生物ばかり研究している研究者は、どうも生物の多様性をおろそかにする傾向があります。生物学の論文ならば、研究にはどの生物を用いたのか、きちんと書くべきです。

斎藤成也

Sunday, November 20, 2011

瑛九三昧

11年11月20日(日)

 今年は、画家瑛九の生誕100周年です。いくつかの展示会を見て来ました。
うらわ美術館と埼玉県立近代美術館で開催されていた瑛九生誕100周年記念回顧展を見ました。福井県を訪れた瑛九と一緒に写っていた人々の中に、若き父親、故原子光生を見つけました。埼玉県立近代美術館の、点描画で埋め尽くされた空間は圧倒的でした。パリのオルセー美術館にも点描の部屋がありますが、いろいろな作家の作品でごちゃごちゃしているし、なんといっても瑛九さんの点描はすばらしい迫力です。「つばさ」を含めて、本物の作品に出会ったのはこれが三回目です。1回目は1979年に東京新宿の小田急百貨店で開催された回顧展。父に連れて行ってもらいました。2回目は2000年ころだったか、宮崎市でゲノム関係の会議があった時に、宮崎県立美術館を訪れました。そして今回。瑛九さんの点描にかけた思い、死んでいった無念を思うと、涙がこみあげてきました。
 いつまでも、いつまでも、あの点描画で囲まれた空間にいたかったです。ひとつだけ、無題の作品がありました。いままでは「つばさ」がもっとも好きでしたが、象(しょう)のないこの無題の作品が好きになりました。
 この展示会を見てからしばらくして、福井に帰省しました。大野で開催されていた瑛九と彼に関連した画家の作品展を、友人の尾野和之さんご夫妻に連れて行ってもらって見学しました。その時に、会場に来ておられた方が話されていたのをふと耳にして、ご自身の持っておられる瑛九さんやあいおうさんらの作品を出品されていた堀先生が亡くなられたことを知りました。子供の時に何度かお会いしたことがありました。
 翌日、今度は鯖江市のまなべの館で開催されていた、故木水育男先生が収集された瑛九さんのエッチングやリトグラフの展示を尾野さんと見にゆきました。この日は埼玉県立近代美術館の学芸員の方が講演されました。二時間にわたって瑛九さんの作品を時代順に解説され、とても参考になりました。瑛九さんのエッチングとリトグラフは、どちらのジャンルもすばらしい作品ばかりですが、個人的にはエッチングの濃度の濃さに圧倒されました。
 瑛九さんの最後の作品は、点描画ではなく、不思議な詩です。文字ごとに色を変えた、不思議なものです。内容も、クマンバチが刺すという表現は、あるいは彼自身の体の痛みを表していたのでしょうか。こどもの時の情景が、死を前にしてあるいはよみがえってきたのでしょうか。いずれにせよ、巨大で深遠な精神世界を持っていた人だったと思います。

斎藤成也

Thursday, October 06, 2011

Steve Jobs 死去

科学紀元11年10月6日

今、ヒューストンのTexas Medical Center横のFannin Streetに面した建物の1階にあるStarbucksにいます。無料WiFiサービスを見つけて、さきほどEconomics誌に掲載されたSteve Jobs氏の評伝を読んでいました。
Steve Jobs氏の死去を知ったのは、昨日、ヒューストン留学以来の友人であるDan Graur氏と彼の奥さんと一緒に、昔なつかしいバーベキューの店に行って帰って来るときでした。長年のMacintoshファンとして、ショックでした。今も、MacBookAirを愛用しています。このブログもMacBookAirを使って書いています。
 昔、彼がNeXT Computerを作ったときに、わざわざ彼の講演を東京まで聴きにいったことがあります。本人が来たのではなく、放映だったと思いますが。
 彼をダヴィンチやエジソンになぞらえる人がいましたが、T型フォードを作って自動車を社会に広めたHenry Fordになぞらえた人が、一番正鵠を得ているような気がしました。

斎藤成也

Monday, October 03, 2011

足羽三山文化協議会 第7回講演会

科学紀元11年10月3日

現在、アメリカ現地時間で午前4時ですが、日本では午後5時。時差ぼけで眠れないので、またブログを更新します。

講演会のお知らせです。

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足羽三山文化協議会 第7回講演会

生誕100年を迎える瑛九の活動と福井
日時 11年10月15日(土)午後4時半~6時
場所 福井市おさごえ民家園 旧城地家(下記地図を参照ください)
講師 谷口等(画家)
定員 50名(入場無料)

講師 谷口等氏のご紹介
57才まで小学校の美術教師をしながら、児童美術を研究。らっきょう畑のモチーフをはじめとする油画作品を多数制作し、個展も7回開催。瑛九に何度か会い、瑛九作品のコレクターとしても知られています。

足羽三山文化協議会とは:
原子光生(10年1月逝去)は40年ほど前,福井市八幡山のふもとに時雨窯を開設し,陶芸を中心とした文化活動を行なってきました。この時雨窯の活動を拡大する形として,原子光生を顧問として本協議会を09年に設立しました。現在の協議会主要メンバーは,尾野和之,岩堀善広,今村真人,佐々木閑,小原裕一,三澤利博,斎藤文子,佐々木日嘉里,斎藤成也です。
 講演会への参加を希望される方は,ご自由にいらしてください。
足羽三山文化協議会事務局連絡先: saitou.naruya@gmail.com
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斎藤成也

デトロイトでの日曜日のBranch

科学紀元11年10月3日

 さきほどに続いて、デトロイトのことです。ホテルに1泊して、時差ぼけもあってか、現地時間の朝9:30,日本時間だと夜10:30ごろに目が覚めました。前日はチェックインしてから、下着などを洗濯後、すぐ眠ってしまって、夕食を食べませんでした。でも、昨日の昼、シカゴ空港でしっかりハンバーガーを食べたのであまりおなかがすいてなくて、朝と昼を一緒に食べようと考えました。Branchです。11時少し前にホテルを出て、ぶらぶら。ダウンタウンの中心なので、レストランがきっとあるだろうと、いきあたりばったりです。ホテルを出てすぐに、いくつか見つかりました。でもなぜかギリシャ風。ジョークでしょうが、「ギリシャ人以外駐車禁止」なんていう看板も見つけました。どうやらこの通りはギリシャ人街のようです。そういえば、私が泊まっているホテルの名前も、Atheneumという発音しにくいものですが、おそらくアテネにちなんだ名前なのでしょう。
 いろいろ迷って、結局混んでいるある小さな店に入りました。メニューがよくわからなくて、ギリシャ風でと、シシカバブおよびコーヒーを注文。うっかり日本風に「Hot Coffee」と言ってしまいました。アメリカにはまずアイスコーヒーは存在しないので、コーヒーと言えばホットなのです。日本だと、逆に「コーヒー」とだけ言うと、ホットですか、アイスですか、としつこく聞かれますから。
 そうこうするうちに、私が入ってきたときには、まだ十数席の空きがあったのに、なんと14名の団体さんが入ってきました。おかげで私もコーヒーと水とともに、4人がけのテーブルから2人がけのテーブルに移動してほしいと店のおにいさんに頼まれて、隣に移動。14人の団体さんのひとりである年配の女性から、「すみませんね」と言われました。その後も、6人の団体が来て、満席なので立ち去ったり、一度来て、満席っぽいので立ち去ったと思ったら、10分ほどあとにまた同じ黒人男性が来て、今度は奥に座れました。
 それにしても、ウェイターとウェイトレスが全部で4〜5人いるのですが、みんな座っているお客さんの世話で忙しくて、入って来た新しい客にまったく反応しないのには、やや驚きました。まあ、客のほうもそれがあたりまえという感じだったようですが。シシカバブはサラダと味付けインディカライスがついていて、まあまあでした。全部で、テーブルにおいたチップ2ドルを含めても、15ドル少々。安かったです。でも、30年前の15ドルは、日本円で4000円余でした。いまではそれが1200円程度です。日本円も強くなったものです。
 ギリシャ人街の店に入ったので、最初は実は客の全員がギリシャ系かもと思いましたが、黒人もいたし、そうではなさそうです。日曜日なので、教会の礼拝帰りの人達なのかもしれません。いずれにせよ、のべ50名ほどの客のなかで、東ユーラシア人は私だけでした。いいチョイスだったなと思いつつ、店を出ました。

アメリカの民度の低さ

科学紀元11年10月3日

 一昨日から米国のデトロイトに来ています。昨年11月に逝去したMolecular Phylogenetics and EvolutionのFounding Editor, Morris Goodman博士を記念したシンポジウムに参加するためです。成田空港からシカゴ空港を経てやってきたのですが、いろいろとトラブルに見舞われました。まずはささいなことから。
 現地時間の朝8時ごろにシカゴ空港に到着し、5時間ほど次のフライトを待ちました。最初カフェテリアでコーヒーだけ頼んで、1時間ほどテーブルで愛用のMacAirで仕事をしていたのですが、小さなテーブルの向こう側に人が座ったので、なんとなく気まずくなり、時間的にも午前11時を過ぎたので、昼食をと思い、空港内の別のカフェテリアへ。そこであるハンバーガーを注文しました。とても分厚くて、けっこうおいしかったのですが、請求書を見たら、私の注文したのではなく、エルビスバーガーとありました。チップを置いてゆくときに、注文とは別のものが来たよと、ウェイターの叔父さんに文句を言って立ち去りました。
 まあこれはたいしたことはありません。おいしかったから。次はからだにこたえました。ターミナルとターミナルのあいだを小走りしましたから。シカゴ空港に着いて、スーツケースをあずけた時にターミナル2へ行けと言われ、ターミナル間をつなぐ電車でターミナル2へ。電光掲示板で乗り継ぎ便のゲートを確認したら、たしかにターミナル2のF11ゲートとあったので、出発1時間まえになったらそこに行きました。ところが、搭乗予定時刻の10分前になっても、デトロイト行きの表示が出ません。そこでカウンターの人に聞いたら、いや、ここではなく、B14だとのこと。しかもターミナル1!急ぎなさいと言われ、あわてて小走りでおよそ15分。疲れました。ここでも、搭乗する時に、ユナイテッド航空の職員に「最初の表示はF11でしたよ」と捨て台詞。
 三度目は、デトロイト空港で。預けたスーツケースを受け取るために、Baggage Claimに行って、自分の乗った飛行機の荷物がどこの回転台に来るのかを確認して、20分ほど待っていました。ところが、み〜んな出てきて回転台はからになり、残っているのは、私だけ。不安になって、もう一度電光掲示板を確認しましたが、やはり回転台2となっています。係員がどこにいるのかわからないので、とにかく別の回転台を探そうと、ちらっと隣の回転台3を見たら、ラッキーなことに自分のスーツケースを発見しました。
 こんな具合で、表示が信用できないのです。そういえば、2年前にSMBE会議で米国のアイオワに行った時に、シカゴに1泊しましたが、空港近くのホテルにもどろうと、ダウンタウンから乗った電車も、ショッキングな表示の間違いがありました。プラットフォームの表示にしたがって、ある側に来るはずの電車を待っていたら、その側に来たのは、空港とは反対方向の地名が先頭に着いている車両でした。どちらの表示が正しいのかわからなくて、ドアがあいたらすぐに中の乗客に聞いたら、空港と反対側にゆく車両でした。結局、同じ側にあとで電車が逆方向から来ました。こんなようでは、上海の地下鉄事故のようなことも、米国ではおこるかもしれません。
 全体的に見て、米国の民度が低いなあと感じた今回のデトロイト行きでした。

斎藤成也