映画『炎のアンダルシア』を観た
イスラーム映画祭9でユーセフ・シャヒーン監督『炎のアンダルシア』(原題は『運命』:المصير、フランス語タイトル:Le Destin)を見た。
『炎のアンダルシア』は中世イスラーム圏の哲学者イブン・ルシュド(ラテン語呼びではアヴェロエス)が主人公の映画。イブン・ルシュドはアリストテレスの著作の註解をしていてそれがヨーロッパ圏での哲学でかなり重要な位置にある有名な人物です。
何年か前に「アヴェロエスの映画がある」という話を聞いて、そんなんあるんだ!? 観たい! と思っていたら観る機会が訪れたので観てきました。ありがたい。
哲学者が主人公の映画だけど歌と踊りあり(アヴェロエスが歌い踊るわけではない)謀略と暴力がはびこるエンタメドラマ映画だった。タイトルにもある通り舞台は12世紀のイスラーム化しているアンダルス(現在のスペイン)なんだけど、この映画はエジプト映画(監督がキリスト教系の環境に生まれたエジプト人だそう)で撮影場所はエジプト、シリア、レバノン、フランスらしい。スペインでは撮影してない様子。映画の冒頭はフランスのラングドック地方。って字幕で出たけど、具体的にはカルカソンヌからスタートする。アヴェロエスの著作を翻訳した男が馬で引きずり回されカトリックの教会権力によって火炙りになるのが冒頭のエピソードである。この時代のカルカソンヌ、フランス南部ていえばカタリ派とかヴァルド派とかが思い出されるわけで、話の軸に(宗教は違えどどこにでも)異端弾圧があることを示し、その暴力を具体的に見せつけられるところから始まる。
そこから場面はアンダルスのアヴェロエスの方にうつる。火炙りにされた翻訳者の息子がアヴェロエスの元に身を寄せるという流れなのだが、登場人物はここからガッと増えて群像劇になる。アンダルスのカリフの凱旋、その息子である王子たちとの親子関係のうまくいかなさ、カリフの親友であるところのイブン・ルシュド(アヴェロエス)は敵対する宮廷人の謀略にハマり徐々に信用を失ってゆき、思想が危険であるとみなされ、敵対者が支援するセクトが隆盛して王子の一人が拐かされ、イブン・ルシュドの友人である詩人は殺され、そして十字軍が迫ってきて……と盛りだくさんの内容だった。
カリフからの信用を失ったイブン・ルシュドは追放を言い渡され著作が焚書になるのだが、カリフの息子たちの成長と改心などなどがありカリフの思い込みは覆され悪は追いやられ大円団となる。
エンタメ映画なので史実としての人物像や出来事の話というわけではない。描かれているのは、言葉の力、あるいは、言葉があっても意味をなさないこと、どうやって人を、考えることなく判断することなく同じ言葉を繰り返し殺人を厭わないほどの従順な状態に置くか、誰を仲間とし誰を敵とみなしてしまうのか、人間の弱さと不信のありか、街に暴力が跋扈してもそれを冷静に見物して何も止めない民衆たちという図。
この97年の映画が今上映されるのは、いくらでも現在に当てはめなおして読み直せるからなんだと思う。
メモ:セクトの様で、聖典を字面通り受け取る教義なら多分歌と踊りを否定する派閥なはずだけど結構スーフィズムっぽく描かれているなーと思って見てたら、上映後の解説でもそれが指摘されていて、意図的に混ぜているんじゃないかなあということだった。スタイルがスーフィズムっぽくなるのは滲み出るエジプトっぽさ(?)なのかなと思って見ていたが、現実のテロ組織の動員方法を参照しているのであれば(因果が逆かもだが)その辺の一貫性のなさはむしろリアルなのかも。
セクトの構成員は聖典の内容をちゃんと知らなくても読めなくても信仰さえあれば良いという感じに描かれていたので、いろんなものを想起せざるを得ずわりとつらい。あと自己開示せよみたいなかんじとかな。
日本では「歌に力がある」というの、実際に意識や感情に侵食する効果があるものではあるが結構フィクション前提という感じだと思うのだが、この映画の登場人物の一人である詩人を演じている人はエジプトで有名な歌手だそうで、作中で繰り返し歌われる歌があるのだがそれは人を動かす力がある(なのでセクトに殺されてしまう)。
2010年ごろの中東〜北アフリカで起こった民主化運動アラブの春の時期、エジプトでも若者による反政府デモがあって、詩人役だった彼はそれを応援する歌をyoutubeで発表したとかでごりごりに「歌に力がある」を地でいっており、お強いと思った。あるいは明確に私たちと文化が違う。
書いてて思ったけど、日本で起こることの色々な問題はあらゆるものを「フィクションである」としてしまうメンタリティのようなもんのせいなんかなあってうっすら思ってしまうな。めちゃめちゃ影響があるにもかかわらず自己認識としてはこれは現実のものではない/本心ではない/こういうポーズである/実態ではないみたいな切り分けが無意識にあってみなそういうものという前提になっているというか。「フィクションと現実の区別がつかない」みたいなフレーズが何かを分かってますポーズとして人口に膾炙するのかなり実感を切り離しすぎている自己像が変な状況だと思うんだがな。「感じる」ことにおいて嘘も本当もなく、「感じる」ことは「ある」とみなすしかないので。