あいまい

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See, that’s what the app is perfect for.

Sounds perfect Wahhhh, I don’t wanna

映画『炎のアンダルシア』を観た

イスラーム映画祭9でユーセフ・シャヒーン監督『炎のアンダルシア』(原題は『運命』:المصير、フランス語タイトル:Le Destin)を見た。

 『炎のアンダルシア』は中世イスラーム圏の哲学者イブン・ルシュド(ラテン語呼びではアヴェロエス)が主人公の映画。イブン・ルシュドはアリストテレスの著作の註解をしていてそれがヨーロッパ圏での哲学でかなり重要な位置にある有名な人物です。

 何年か前に「アヴェロエスの映画がある」という話を聞いて、そんなんあるんだ!? 観たい! と思っていたら観る機会が訪れたので観てきました。ありがたい。

 哲学者が主人公の映画だけど歌と踊りあり(アヴェロエスが歌い踊るわけではない)謀略と暴力がはびこるエンタメドラマ映画だった。タイトルにもある通り舞台は12世紀のイスラーム化しているアンダルス(現在のスペイン)なんだけど、この映画はエジプト映画(監督がキリスト教系の環境に生まれたエジプト人だそう)で撮影場所はエジプト、シリア、レバノン、フランスらしい。スペインでは撮影してない様子。映画の冒頭はフランスのラングドック地方。って字幕で出たけど、具体的にはカルカソンヌからスタートする。アヴェロエスの著作を翻訳した男が馬で引きずり回されカトリックの教会権力によって火炙りになるのが冒頭のエピソードである。この時代のカルカソンヌ、フランス南部ていえばカタリ派とかヴァルド派とかが思い出されるわけで、話の軸に(宗教は違えどどこにでも)異端弾圧があることを示し、その暴力を具体的に見せつけられるところから始まる。

 そこから場面はアンダルスのアヴェロエスの方にうつる。火炙りにされた翻訳者の息子がアヴェロエスの元に身を寄せるという流れなのだが、登場人物はここからガッと増えて群像劇になる。アンダルスのカリフの凱旋、その息子である王子たちとの親子関係のうまくいかなさ、カリフの親友であるところのイブン・ルシュド(アヴェロエス)は敵対する宮廷人の謀略にハマり徐々に信用を失ってゆき、思想が危険であるとみなされ、敵対者が支援するセクトが隆盛して王子の一人が拐かされ、イブン・ルシュドの友人である詩人は殺され、そして十字軍が迫ってきて……と盛りだくさんの内容だった。

 カリフからの信用を失ったイブン・ルシュドは追放を言い渡され著作が焚書になるのだが、カリフの息子たちの成長と改心などなどがありカリフの思い込みは覆され悪は追いやられ大円団となる。

 エンタメ映画なので史実としての人物像や出来事の話というわけではない。描かれているのは、言葉の力、あるいは、言葉があっても意味をなさないこと、どうやって人を、考えることなく判断することなく同じ言葉を繰り返し殺人を厭わないほどの従順な状態に置くか、誰を仲間とし誰を敵とみなしてしまうのか、人間の弱さと不信のありか、街に暴力が跋扈してもそれを冷静に見物して何も止めない民衆たちという図。

 この97年の映画が今上映されるのは、いくらでも現在に当てはめなおして読み直せるからなんだと思う。


 メモ:セクトの様で、聖典を字面通り受け取る教義なら多分歌と踊りを否定する派閥なはずだけど結構スーフィズムっぽく描かれているなーと思って見てたら、上映後の解説でもそれが指摘されていて、意図的に混ぜているんじゃないかなあということだった。スタイルがスーフィズムっぽくなるのは滲み出るエジプトっぽさ(?)なのかなと思って見ていたが、現実のテロ組織の動員方法を参照しているのであれば(因果が逆かもだが)その辺の一貫性のなさはむしろリアルなのかも。

 セクトの構成員は聖典の内容をちゃんと知らなくても読めなくても信仰さえあれば良いという感じに描かれていたので、いろんなものを想起せざるを得ずわりとつらい。あと自己開示せよみたいなかんじとかな。


 日本では「歌に力がある」というの、実際に意識や感情に侵食する効果があるものではあるが結構フィクション前提という感じだと思うのだが、この映画の登場人物の一人である詩人を演じている人はエジプトで有名な歌手だそうで、作中で繰り返し歌われる歌があるのだがそれは人を動かす力がある(なのでセクトに殺されてしまう)。

 2010年ごろの中東〜北アフリカで起こった民主化運動アラブの春の時期、エジプトでも若者による反政府デモがあって、詩人役だった彼はそれを応援する歌をyoutubeで発表したとかでごりごりに「歌に力がある」を地でいっており、お強いと思った。あるいは明確に私たちと文化が違う。


 書いてて思ったけど、日本で起こることの色々な問題はあらゆるものを「フィクションである」としてしまうメンタリティのようなもんのせいなんかなあってうっすら思ってしまうな。めちゃめちゃ影響があるにもかかわらず自己認識としてはこれは現実のものではない/本心ではない/こういうポーズである/実態ではないみたいな切り分けが無意識にあってみなそういうものという前提になっているというか。「フィクションと現実の区別がつかない」みたいなフレーズが何かを分かってますポーズとして人口に膾炙するのかなり実感を切り離しすぎている自己像が変な状況だと思うんだがな。「感じる」ことにおいて嘘も本当もなく、「感じる」ことは「ある」とみなすしかないので。

映画 日記 みたもの

NDTのオンライン配信を見た(二日目)

今日はマルコ・ゲッケ。

Marco Goecke
In the Dutch Mountains
NDT 1

これはトレーラー

これは作品詳細

マルコ・ゲッケ振り付けの、異様に細かくコマ切れな動き、好きなんだけどこの変な質感形容しがたいよな……って見るたび思う。

痙攣のようでもあるけどこわばってもいてでもがんがん動いてばちばちに細かく止めが入っててコントロールされまくっててて全体としてはなめらかに流れていて、激しい動きというわけでもないがノイジーででもよどみなくずっと動き続け、それでいてたまにイソギンチャクの群生みたいな湿度ある変な柔らかな質感がある。

最初の方の、背景に浮くスモークが雲のように漂う暗い空間で一人ずつ出てきて動いて、去って、というところと、後半の襟巻姿になってからの群舞の、首が二段階ギアみたいな形で振り向いてターンするところが好き。

最後の脚立に後ろ向いてたたずんでる少し上が波で、っていう構図もぐっとくるね。

日記 youtube ダンス dance 見たもの Youtube

NDTのオンライン配信を見た(一日目)

ネザーランドダンスシアターの作品配信を購入したので見た。24日25日それぞれ一日限り(ヨーロッパ中央時間)の配信なので、観たい方は今日明日中に。明日はマルコ・ゲッケ作品。

とりあえずのメモ。

1日目のプログラムはクリスタル・パイトとノエ・スーリエとヨハン・インガー

A triple bill of beloved works danced by NDT 2:
Ten Duets on a Theme of Rescue (2023) by Crystal Pite
About Now (2023) by Noé Soulier
IMPASSE (2020) by Johan Inger

ノエ・スーリエはこのあいだ日本公演があったんだけど観に行けなかったなー。

三作品見た中ではヨハン・インガー作品がキッチュ且つ不穏でニコニコしながら圧かけてくる感じの群舞とかがあってちょっと笑いながらみちゃった。好き。終わりの方の幕が下りてきて向こうとこちらを隔てる壁を越境しようとするさまとかがぐっときてしまう。

以下は作品トレーラー


私の場合、ダンス作品を見ているとき脳が活性化するので見ながらずっといろんなことをぐるぐる考えている。イメージの飛躍みたいなのが起こりやすくなるなとも思う。

あとNDTは今年日本ツアーをするんだけど、会場によって上演される演目が違うので全部観たければ二か所以上の会場へ行く必要があり、「オランダへ行くより安いと言えば安いが安い旅行ではない」になってしまい、確かに私はダンスが観たいがために生きてはいるが生きるためにダンスを見ているのであって、ダンスを見るために生活を犠牲にしては本末転倒なのではないか??? やってられるか畜生という気持ちが湧いたけどNDTの作品を見るのは好きです。好きな振付家の作品が一気にたくさん! だがぜんぶみるの生活上かなりきつい。

いろいろなご事情があるのはわかるがご無体な、という気持ちでいっぱい。

ゲッケ作品神奈川だけだし逆に神奈川ではフォーサイスをやらない。私はガブリエラ・カリーソ作品が第一に観たいものなので名古屋神奈川に行けばよいとなるが、7月に週末ごとに遠征を……?泊りで……? みんなどういう日程組んでる……?

ダンス 日記 メモ dance 見たもの Youtube

考えるってなんだ?


ゆる言語学ラジオがビジュアルシンカーの話をしていてぼーっと聞いていたのだけど、ビジュアルシンカーか否かという分類はまあどうでもいいんだけど(個人的には特段驚きがない内容だったので)、自分とは考え方が根本的に違う人がいるということを知る驚き、ということの方が驚きで、自分としては人生の体感が「なんでみんな全然違うのに>>>みんなおなじ<<<という設定で生きているんだ?」なので、「我々は同じ」と感じているあるいは考えていることがベースになっているのはなんでなんということのほうを解体したいんだがそういう話題にはならんのだなあ。という気持ち。

あと言語化優位の社会というが、まあ文書主義的といえばそうなんだが、文章化したところで筋もつじつまもないようなものにも感動したりなにかを見出してしまうようなかなり曖昧な運用が多くあるし概ねそれで回っているので、ヴィジュアル寄りの思考より「論理的」「正しい」なんてことはべつにないんだよな。言語化、というのは一体何をしているんだろうね。感情の発露として泣きわめいたり踊ったりするのとどういう違いがあるのだろうね。あと一応大学でデザイン専攻だった身から言えば言語ではないコミュニケーションや仕組みは普通にまんべんなくたくさんあるので、言語化優位の社会ってわけでもないです。どっちかっていうと「よくこんな言語化されてない共通認識頼りでいろんなもんが回ってんな……」ってなるし、グラフィックデザインなんかも言語化しようと思えばいくらでもできるが、グラフィック・ヴィジュアルの制作は視覚の各種の特性を利用したり考慮したり感触の操作したりすることなので、言葉ではない形でもあらゆるものに付随する情報伝達手段である。目が見えない人でない限り、当然のようにありふれている。意識しようがしまいが私たちはそれを使ってコミュニケーションしたり情報を読み取ったりアウトプットしたりしている。


そういえば私は誰かが話していると話を聞いてしまうので作業通話はできないし、「しゃべっていると考えがまとまる」ということもない。なので打ち合わせなどで今すぐアイディアを出すということが死ぬほど苦手なんだが、世の中の少なくない人は「話し合うとアイディアが出る」と思っているらしく、その場でなんかしらのクリエイティブが発生しないのをだめな会とされてしまうことがまあまあある。個人的には人の話を聞くときは人の話を聞くこととそれが何を言っているかを理解することに全振りするので、それをふまえて自分から何かアイディアを出すというのはそのあと、持ち帰って考える時間をしっかりとらないとたいして何も出てこない。まあべつにたいしてなんというものでもないリアクションのほうがコミュニケーションの場においては重要なのかもしれないが。

喋りながら考える人とは情報のイン・アウトのリズムが全然違うんだろうなと思う。


もしかして、>>>みんなおなじ<<<という設定運用だと説明なしで(実際は差異が多分にあるにもかかわらずそれをないものとして)同じものを同じように意味して振舞う共通認識があることになりそれに沿って物事が運ぶから自分には適合しなくても「便利」で「スムーズ」だからそういうことになっているのか? 実態に合っていないのに? そうすると主体は現象や運動そのものであって個人ではないのでは?

まあそうか、社会はそういうものか。そうね。

フィジカルを軸にすれば「考える」は脳の中のあれこれというより身振りの問題なのかもしれない。

言葉を知らないと考えることはできない、思考は言語的な営みと言われることがあるが、考えなどなくても身振りとして言葉を発することはいくらでもできる。それはなんらかの態度でもあるので、習慣がそうさせるとき、「考え」の理屈はあとから付け足されるものになる。

SNSで流行っているフレーズや構文を使うとか繰り返すとかそれに沿って発話するとか。ベタに言えば流行ってるお笑いのネタを真似するとか、流行っている歌を歌うとかもそう。多分これは考えというより身振り。なんでそういう身振りをするのかといえば、共通の身振りで仲間であることを確認するためなので、社会が主体なんだろうてなってしまうなやはり。


本は読んでないけど、ビジュアルシンカーは恐らく先天的に目が見えないひとでもありうると思う。目が見えなくても図形概念は当然あるし空間把握も「イメージ」も可能なので。寝ている間に見る夢は目で見ているわけではないが「見ている」と感じるのは、脳内の情報処理の問題で、光学的にどうこうしているわけではないことを思えば、「イメージ」は晴眼者が思い描くような「絵」「風景」のことではない。インプットが目を通した光学現象の動作でなくてもヴィジュアルで考える(言語ではない状態で考える)、は普通にあるだろうと思う。

日記

アラブ世界研究所でアサシンクリードミラージュとからめた展示をしているらしい


Bagdad : redécouvrir Madinat al-Salam, avec Assassin’s Creed® Mirage | Institut du monde arabe (imarabe.org)

えー いいなー 

アラブ世界研究所はパリにある研究・博物館施設です。昔行ったことある。

私のバグダードへの興味の中心はウマイヤ朝末期→アッバース朝初期あたりなのですが、アサシンクリードミラージュは9世紀のアッバース朝が舞台らしい。アル=マンスールよりちょっと後だな。

展覧会合わせなのか? なんかのキャンペーンなのか? ゲームを普段ほぼやらないのでよくわかってないのだけどアサシンクリードミラージュの2時間フリートライアルを今月中やってるらしいのでやってみるかあ。

ゲームをする暇がまじでないんだけどなんかどうにかちょっと触るぐらいしたい。

メモ

気になってるものメモ



『カナレットとヴェネツィアの輝き』

カナレットの展覧会が国内巡回する!!!やったーー!! カナレットの絵大好き。ありがとうありがとう。

今のところ静岡県立美術館とSOMPO美術館の情報が出ているけど来年京都文化博物館にも回ります。他の会場はあるのかな?

【カナレットとヴェネツィアの輝き】 | SOMPO美術館 (sompo-museum.org)


ASSEMBLY HALL DE CRYSTAL PITE ET JONATHAN YOUNG – COMPAGNIE KIDD PIVOT 

これめちゃめちゃ見たいな。


民族藝術学会誌 arts/ vol.40

特集:ミュージアムと「民族衣装」


Three Acts | Ammodo Docs

ピエール・オーディ ドキュメンタリー 公開期間:~2024年7月31日


台湾老卓遊 台湾レトロテーブルゲーム図鑑

https://shigakusha.jp/2024/04/05/taiwanretrogames/

日本語版が出る!!! ありがとうございます!!!!


イスラーム映画祭

『炎のアンダルシア』っていうアヴェロエスを題材にした映画があって、前から見たいなーと思いつつ見る機会が自分の環境では皆無だったので行きたい。


Nagamekurasitsu “Leave the heart behind”


Juggling - From Antiquity to the Middle Ages: the forgotten history of throwing and catching


遊園地と都市文学 アメリカン・メトロポリスのモダニティ

買います。


『夜の海賊遊園地からの脱出』

ジェネリック『ビクトリアン・パーク』じゃん!? 行きたい!!!

メモ 舞台 ダンス サーカス 映画 美術 Youtube

健康の話。

 ここ何年か、コロナ禍がはじまるちょっと前からだったので4、5年ぐらいか、ホルモンの出がトチ狂っとって調子悪い、デバフがデフォルトみたいな感じになっていて通院したり薬飲んだり数ヶ月おきに血液検査したりしていた。

 コロナ真っ只中の時期に通院をサボってしばらく経ってしまい、まあその間他の体調不良等で通院したりリハビリしたりで医者にはかかっていたんだけど、いやーさすがにちょっと間もあいちゃったしホルモンがちゃんと出てないとかいうの今どうなってんだ? ちゃんと確認しよと思って先月検査したりしてたんだが、なんか正常値になっていた。

 えっ しばらくなんもしてないのに? なんやったんや過去の数年間は……という気持ちでこれを書いている。実際ここしばらく「調子悪くないな」とは思っていた。風邪はひいたがそういうことではなく、全体デバフがないというか。

 最初の調子悪の時期はかなり気持ちが死んでる時期でもあったので振り返るとストレスのせいだったりするのか? とも思うが、悪くなったのも良くなったのも具体的な原因はなんだかまるでわからない。生活サイクルもそんな変わってないし。よくわからんけど、特に治療も必要ないし薬飲まなくてもいいことになった。ありがたい。とりあえず定期検診だけになるのは大変助かる。

 しかし体調にぶん回されてるなあ肉体からは逃れられないなあとしみじみ思う。


 あと、最近の出来事としては、古い知り合いがナチュラル排外主義言動をしていてダメージ食らったりとかしている。これは主にTwitter時代のここ10年以内で形成された実体験はないのにインストールされる価値観問題だと思っているが、染みついた思考手順を他人がどうこう言って覆すのはまあまあ難しい、難しいね。何故なら整合性ある理屈は特にないから。ファンタジー幻想を共有しているがべつに同じ思想(だと思っている者)同士であっても認識が共通しているわけではなく、「身振りが同じ」なのだと思って見ている。ある言葉があると、それに対するレスポンスの言葉・身振りが同じ。意味の問題ではなく(話をすり合わせる気が最初からない場合話が通じてないことは問題にはならないから)、身振りがどの文化に属しているかが問題なのだ。使われる語彙、言動が差別的なのは身近にいる者にとってはかなりきついことだし、自分とは属性が違うとラベルした相手に対して直接加害には発展しないでくれと思う。

 こういうことは私の親しい知り合いの中で過去何度かあって、できるだけ関わってひどい一線を超えないようにカバーできないものかとは思っているが、こっちのメンタルと体力も削られるので、身内だろうが親しかろうがもう人間関係自体やりたくないんだよなという気持ちも結構ある。

 しんどいね。何とかならないかとは思ってはいるが、ひどく間接的にしか行動を起こせない。話が通じないのはどうしようもなく、意思疎通の方向では解決できないので。

 こういうのを何度も経験すると、個性やオリジナリティ(だと共同体の中でみなされたもの)などがもてはやされる一方で、強力に身振りや発話の仕方を統一されたがるというメンタリティが少なくない人にあるなと感じる。そこで語られる「自由」みたいなもの、単に規範なのだと思う。やることを導いてくれる強い力が誰かにあって、それに倣って・身振りを与えられてそれを信じるというような。言葉の意味によって説得されたとか感動しているわけではなくて、共同体が先にあり、そこに属す安心のために信じている状態の維持をしている場合が多いと思う。自分自身がそこで生きづらくても。身振りを同じにする一体感と安心が必要なのは誰にとってもそうではあるが、その身振りが誰かに対する加害になっている場合、「その身振りはよくないよ」と言われることが、共同体・社会の崩壊のように感じられるのだと思う。だから強く反発してしまう。自分の安心が奪われる言葉に聞こえるのだろう。

 指針なく生きるのが難しいのはそれはそう。どんな時代だろうとそれはそうなんだろうけども。根底にある不安のようなものをどう解消していくかが必要なんだろうけど、言うても他者の人生なので、なあ、という。うーん。福祉や個人の尊重がもうちょっとうまく機能する社会であれば、と、思う。

日記

日記


読んでる。

舞台の見方がまるごとわかる 実例解説!コンテンポラリー・ダンス入門 Kindle版

 乗越さんの新刊を読んでいる。バレエチャンネルでの連載がまとまったもの。電子書籍の強みで、書かれている舞台の映像にリンクでとべる。

 私はダンスを観始めたのがコンテンポラリーからで、後追いでクラシックを観始めたのでこの連載が意図している「バレエのクラシック演目ファンに向けてコンテンポラリー作品を解説する」のとは逆の立場になるのだが、面白いなーと思って読んでいる。改めてコンテンポラリーダンスという枠組みというか概念の中で行われてきた様々なことを振り返れて、情報がまとまっているって重要なんだなあとしみじみ思う。文体というか語り口が講演で喋ってる感じなので、かなり口語っぽいニュアンスで進んでいく。これが大丈夫な人は大丈夫だと思うけどカジュアルなしゃべり文が苦手な人は苦手そうという気はする。


 継続的に観ているわけではない人にとっては「コンテンポラリーダンス」という語から何かを具体的に想像するのは相当難しいと思うしこれは歴史が進んでも無理だと思う。何故なら、各々のダンスジャンルの歴史はあれど「コンテンポラリーダンス」として統一された様式もないし、有名な振付家やダンサーがいるのは間違いないが、観る趣味者ではない人にまで人口に膾炙したジャンルの代表アイコンも存在しないからである。クラシック音楽におけるベートーヴェンとかモーツァルトみたいな人物記号も起こりづらい。歴史に残る有名な人はたくさんいる。だとしても、今現在やってることがみんな違うので(バレエはもちろんのこと、舞踏だったりストリートダンスだったり各国にある民族舞踊だったりするので)「コンテンポラリーダンス」で統一されたイメージ・記号・図像にはならない。モダンダンスっぽい雰囲気の人間シルエットみたいなんがかろうじてそれっぽいものとして受け取られる記号力があるかなあというのはある……あるけどコンテンポラリーダンスを語る上での歴史の一部であって全体を表せるわけではない。何を言っているかというとこういう感じの絵とか。

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お気に入りのハンカチ。しかしこれをコンテンポラリーダンスの絵柄として説明することはない。モダンダンスがコンテンポラリーダンスの歴史にとってめちゃくちゃ重要であってもだ。歴史の一部ではあるが代表してこれ、というわけでは全然ないからだ。

 このように記号化しづらいのは、全体を何かひとつの記号でひっくるめて解釈する、というのをめちゃくちゃ拒絶しがちなスタンスがコンテンポラリーダンスという概念にあるせいもあると思う。すでにある当然と思われている枠組みを疑問視して逸脱し続けるようなことをやっていくからだ。そもそもダンス作品を作る人たちがすべて「コンテンポラリーダンスだ」と思ってやってるわけでもない。「古典」に対してその枠組みから逸脱していく行為なので強いて言うなら「現代的な」か? みたいな意味なのだ。歴史のない場所に新しいものもない。身体表現をしていくなかで、様々な思想があり、もっと、違う景色を見に行こうという挑戦なんである。なので、面白いかどうかはともかくすごく色々なことが行われているし行われてきた。一口にいうのが無理なのだが、一つの空間で同時多発的に様々なことが起こり、観客は自分の意思で何を見るか決めなければいけない能動的なかかわりを求められたり、ランダム性が組み込まれた一回性の鑑賞だとか、身振りと踊りの連続性があって演劇とかなり境界線が薄くなるとか、なんなら演者がいないとか、音声コンテンツによって振り付けられるとか、とにかくいろいろある。

 最近、お台場のヴィーナスフォートを改装してオープンした常設イマーシブシアター施設が話題になったが、コンテンポラリーダンスとか、現代演劇の実験的な方の公演で今まで色々とやってきている、「観客が自分の意思で選び取らねばならない鑑賞」が、こんなかんじで商業化できるんだなあという気持ちになった。

IMMERSIVE FORT TOKYO

 イマーシブシアターというとイギリスのパンチドランク(Sleep no moreが有名)がはじまりとか有名だとかいうことになっているが、試み自体は舞台芸術をやる色々な人がずっとやり続けてきたのだ。商業化してうまくやる人たちが現れて、ああ、一般化したんだな……という気持ち。なので新しい表現ではなくようやく広まってこなれたもの、と思ってみているが、今までこういうタイプの作品に触れたことがない人のほうが大多数なわけで、「いままでなかった」「新しい」とされるんだなあと思うなどしている。


 安心安全にエンタメを享受したい、という気持ちはもちろんある。とはいえ、自分が主に見たいと思っているのは枠組みを疑い行動を起こすこと、その身振り、行為、言葉なんだなと思う。それを一番得やすいのが自分にとってコンテンポラリーダンスだし、現代演劇の実験的な方……なんだよな……と、本を読みながら再確認した。


 コンテンポラリーダンスや実験的な方の演劇、ぜんぜんつまらんものもやまほどあるし、そうはいっても見たいんだよな。つまんなくても見てる。エンタメを求めているわけではないので。いろんな試みを、見たいと思っているんだ。


 なんかより新しい方へみたいなことを繰り返してしまった気がするが、私は車輪の再発明も、何度だって再発明したらいいよと思っている。個人は全体への奉仕者などではないからだ。無知だと指摘されたら「そっかー昔からあるんだね」と思えばいいだけだ。多くの人にとって既知のものでも、知らなかったことに自力で辿り着くのは面白いからな。

ダンス 日記
ou-dan
ou-dan

以前装画を描かせてもらった北村紗衣さんの書籍『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(もとはwebでの連載)に関するリアルイベントが来月福岡で開催されるようです。書籍の発行元である出版社、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)さんが運営している書店&カフェ、「本のあるところ ajiro」での開催ですね。いつか行きたい。短歌が好きなので書肆侃侃房の本はちょくちょくチェックしていて、店舗行ってみたいなーと。

【本のあるところ ajiro】北村紗衣さん来福トークイベント「『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』ができるまで、そして終わるまで」(3/13)


2019年発行の本なのでもうそんな前か……! というきもち。書店へ行ってたまに見かけたりすると毎度新鮮に「おおー」ってなっています。自分の部屋以外で自分の絵を見るの結構ビビるので。

そういえば、昨年の京都国際舞台芸術祭(KEX)のなかのひとつの企画、インキュベーション キョウト「シアター?ライブラリー?」に行きました。これはロームシアター の中の、普段は劇場として使われている空間に舞台でもあり図書館でもあるという状況を作っているもの。図書館なので本を読んでいいのは当然として、パフォーマンスの打ち合わせをしている人がいたり、タイミングによってはイベントしていたり、というようなことが行われていました。

並ぶ本は色んな方が様々なテーマで選書されていたのですが、その中に『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』もあって、思いもよらぬ場所で出会ったのでした。劇場に行って自分の絵を見るの、以前劇団KIOさんに舞台で使う本の表紙に絵を提供した時以来だよ。毎回劇場と本だな〜と思うと、自分の興味の直線上でありがたいことだな。

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(撮影可でした)


著者の北村さんの作品批評はシャープで、演劇や映画、物語に接するのが趣味の方であれば新しい視点が得られてわくわくする本だと思います。

物語の何を好むかとか何が良さかって人それぞれだし、好みは違っていたとしても、誰かに提示されるものの見方の面白さっていうのは別にあって、作品を読み解くっていうのは面白いよなーとしみじみ思います。

書籍は下記から購入可能です。

日記