幻の葛尾村になる前に 第三部 −5「合格!」

朗報が届きました。この度知り合った葛尾村の好青年(40代)川島さんからフェイスブック経由で本当にうれしい便りが届きました。

「震災後、初出荷が可能となる葛尾村の27年産新米放射性物質検査済み!ND(未検出)福島に幸多かれ」と。

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これは前にお知らせした松本操さんが丹精こめて再生した葛尾村の田んぼでとれた新米の検査済みのラベルです。ご苦労なさったもち米の新米です。もちろん川島さんのご報告通り、ND(未検出)です。操さんが予言していたとおりの結果です。凄い執念、故郷再生への一途な想いが稲を実らせたのでしょう。うれしくなって先ほど操さんにお電話差し上げました。操さんも電話の向こうでうれしそうな声で「もち米に対する想いをみんなにわかってもらいたかった」と話してくれました。「三春にいたら今夜は一杯一緒に飲みたいところです」と私がいうと「また来て下さいよ」と声をかけてくれた。今度三春町に行ったときこのもち米が残っていたら、少し分けてもらってわが家でお赤飯でも食べてみたいと思いました。

操さんの米作りの想いを次回から少しだけみなさんにお伝えできればと思っています。

幻の葛尾村になる前に 第三部 −4「水の記憶」

筆者は徳島県出身で、生まれ故郷は麻植郡美郷村字峠という田舎田舎した名前の、のどかな村です。三歳までをこの四国山脈山中の農家の家屋で暮らしました。この家屋は明治年間に建てられ築130年以上になりいまでも立派に建っています。その後は吉野川流域の鴨島町にて引っ越し18歳までを過ごしました。この町は吉野川の伏流水が町の西側でわき出し、江川という川となり東に下り、再び川下で吉野川に合流するので、水の豊かな町だったと思います。小学校の頃はこの江川で「たらい船」に乗って夏休みを楽しんだのも良い思い出です。水の傍で幼少期思春期を過ごしたので、今でも水の風景に心を動かされます。明治の家屋には屋外に井戸があり、幼い頃はつるべで水を汲んでいました。後に手こぎポンプが井戸の上に置かれシャカシャカと音を立てて水を汲んだ記憶があります。昭和の風景ですね。今は電動ポンプで水を汲み、さらに衛生管理の関係から市営の上水道が入っています。学生さんに「手こぎのポンプ」って知ってる?と聞くと、「隣のトトロでサツキとメイちゃんが水をくんでたやつ」と答えてくれました。見たことはないのでしょうね。ウェブで画像を探して見せるとヴェロニックというニックネームの美大の学生さんが下のイラストを描いてくれました。水の出るところには木綿の布が袋状に取り付けられていて、くみ上げられた水に含まれていたゴミを取ったりしていましたが、長く使っているとこの布が赤茶けてきて鉄分か何かが含まれていたんだろう想像します。井戸の底の水をくみ上げていたので季節や雨量によって水量がまちまちで、例えば風呂を使うと次の日は水が出なかったりと、水が少なくて困ったこともあります。水質検査などはなく、そんな水でも今の水道水よりずっと美味しく、冷たい水をごくごくとひしゃくに口をつけて飲んでいたことを鮮明に覚えています。

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このような話をしたのは、葛尾村に深井戸が掘られているということを聞いたからです。おそらくかつては筆者と同じように水の豊かな村であっただろうと想像できるからです。次回は「水の管理」についてお話しします。

幻の葛尾村になる前に 第三部 −3「田んぼの土」

田畑の美しい風景はお百姓さんたちの何十年何百年かけた血と汗の涙の結晶なのです。操さんの田んぼは除染業者によって表土が5cm削られたので、当然稲作にはその分の土をどこからか供給して補わなければなりません。操さんはその土を山の土に求めて田んぼに入れたそうです。そして平らにならして水を入れたところ、何と川上にある田んぼの上の方に水がたまり下の方へと水が流れず田んぼの高低が逆になったそうです。そこで下の土を一生懸命上に入れ替えて微妙な高低をつけるところから再スタートしたと言います。つまり除染業者の表土はぎ取りはなだらかな高低差をそのままうまく整地できなかったと言うことでしょう。残った元の土と新たな山の土をすき込んで田植えに適した土に変えていったということです。何年か前に仙台市津波に襲われた田んぼの土おこしのお手伝いを学生さんとしたときに、土の中のがれきを取るだけでなく、塩分を取り除くだけでなく、土を日光に当ててやらなければならないということを知りました。日に当たっていない山の土は、田んぼの土としてできあがるまでに何十年もかかると聞きました。「美しい日本をつくる」と政治家はなにもせず自慢げに言いますが、田んぼだけでなく、日本中美しい風景は、民衆の何代にもわたる丹精と、その間に流された血と汗の涙の結晶なのです。谷間に吹き渡る風と流れる水がそう伝えてくれました。

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幻の葛尾村になる前に 第三部 −2「田んぼ再生」

一度放射能に汚染された田んぼを再生するのがいかに難しいかがようやく少しだけわかりました。ますは田んぼの表土を5cmぶん削り取る。ところがそれを放置しておくと雑草やら木が生い茂りあっという間に草っ原になってしまいます。そうなるとすき起こすこともできなくなるので、また削り取らねばならなくなります。下の写真は、上野川地区でやはり稲作を試みている白岩さんの田んぼです。手前の田んぼは良く稲が実り見栄えがいいのですが、下の写真の田んぼはそのすぐ隣の田んぼで草ぼうぼう、手のつけようがありません。

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上の写真の向こう側に緑色のシートに覆われた盛り土が見えますか?悲しいことに、これは除染によってはぎ取られた汚染土の仮置き場です。こんな過酷な条件の下稲作を再開したのはなぜでしょうか?一度荒廃した田んぼが元に戻るのに何十年もかかるということ、汚染がなくなるのはさらに先だと言うことをまずは理解して下さい。それでも田んぼを再開しようとしているのは、ひとえに、いつかこの田んぼを引き継いでくれる若い人が出てきたときに、今自分たちが何もしていなかったら彼らに何も渡せない、という思いがあるからです。ほとんどの村人が「もう無理だ、できねえ」と絶望する中、仲間6人と田んぼ再生に向かったのは、自分たちのためでも、米を販売するのでもなく、村が消え去る運命にある中で、どうすれば村の再生をあきらめずに続けられるかを身を粉にして示そうといるのです。東電も政権も官僚も、このような気骨が理解できるでしょうか?いや、このような環境でも帰村せよと彼らは言い放ち、村人は仮設に残るのか、あるいはこのような田んぼも畑もままならぬ故郷に戻るのか不安で胸が一杯なんだと推察する次第です。遠くに山頂が雲に霞む竜子山が泣いているように見えました。

幻の葛尾村になる前に 第三部 −1「気骨の人」

8月31日半年ぶりに葛尾村を訪れました。折しも「ふるさとへの帰還に向けた準備のための宿泊」(準備宿泊)が開始された日でした。知人から松本操さんが稲作を始めたと聞いて驚き、翌日松本操さんを訪ねて、お忙しい中葛尾村をまた案内してもらいました。その時、操さんが丹精する水田の様子を撮影させてもらったので、何度かに分けてその様子を報告させていただきます。f:id:sebas-tyan:20150927202949j:plain

このあたお、9月10日から11日にかけて、台風から変わった低気圧の影響で関東から東北にかけて、鬼怒川堤防が決壊するなど甚大な被害が出たので、福島でも大変な被害が出て収穫前の稲穂に被害が出たのではないかと先日操さんにお電話差し上げて水田の様子をお聞きしました。「何とか持ち直して9月末に第一回の刈り入れ、10月6日に2回目の刈り入れをやる予定だ」とのことで本当に安心しました。この水田を再開するのにあたって相当な苦労があったことをお聞きしていたからです。刈り入れがうまくいきますようにお祈りしながら第三部をスタートします。

葛尾村野川地区松本操さんご実家近くの水田でりりしいお姿をまずは一枚。

 

 

 

 

幻の葛尾村になる前に 第二部 (閑話休題)

桜前線がゆっくりと北上してようやく福島県三春町に届いたとの知らせがありました。三春町は意外と涼しく北に位置する福島市の方が幾分暖かく果樹栽培にも適しているとのこと。先日三春町を訪ねた時参加してくれた大学生が「お母さんから三春町の名前の由来を教わりました」、「三春は三つの春が一度に訪れるから」だと披露してくれました。つまり、梅、桃、桜が一斉に咲くというのです。

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この時期大学の授業が始まっているのでなかなか福島県を訪れることはできませんが、友だちが送ってくれる写真で花を愛でています。次の写真は有名な三春の滝桜を下からのアングルで撮ったもの。みなさんも楽しんで下さい。
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幻の葛尾村になる前に 第二部 (7)「村祭り三景」

葛尾村には重要な村祭りが三つある。

葛尾川と野川の合流点で村役場のある落合を中心とすると、大まかに、東に野行集落、西には上野川と野川集落、北西に葛尾集落があり、それぞれの集落に伝統的な村祭りがある。葛尾村を知るには次の地図しかない。なにしろ、Google MapやYahoo Mapでも葛尾はほとんど何も書かれていないからだ。

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野行
 大正4年、愛宕明神の入口付近に建立された野行地区の開墾碑の除幕式で、浪江町から踊り手を招いて踊ったことが嚆矢とされる「宝財踊り」。悲しいことに、福島第一の事故で野行地区は帰還困難区域となり、この祭りが当地で行われることはないだろう。原発事故は多くの地域を人の住めない被爆地に変えると同時にその文化も消滅させた。

上野川・野川
 八幡神社の祭礼に奉納されるのが獅子神楽で、獅子がお囃子に合わせて太刀を飲み込む「長仕舞」が見所だという。松本操さんと白岩寿喜さんからうかがった話を総合すると次のようになる。

 この祭りは御神輿を担いで村を練り歩く「行列」が二,三日続いた後八幡神社に奉納される。村人の言う「行列」はかなり長いものだそうで、八幡神社から遠く大放まで行き、帰りに村の中心落合を通って八幡神社まで戻るという。江戸時代から続く行列で、推察するに「大名行列」を模したものではないだろうか。神輿行列は村人からお重に入ったご馳走やおひねりをいただくそうである。また村の有力者の家に泊めてもらってまた翌朝出発するという大がかりなもので、年によって内容が変わるというものだ。なかでも興味深いのがこの行列がきちんと進むように監視するという「籠馬(かごうま)」の活躍である。板を馬の形に切り抜き、取っ手をつけてその馬にまたがって、この行列を前から後ろから行列が乱れないように忙しく立ち回る役目を担い、何人もの小学生がこの役を担当するという。3月21日白岩さんに八幡神社まで案内していただいたが、社殿脇の倉庫に保管されている籠馬は、その日倉庫に鍵がかかっていたので見ることができなかった。松本さんは「当時は映写カメラもなかったので、今となっては行列や獅子神楽の映像が残されていない」と少し悔しそうにお

 

話されていた。葛尾村に子どもたちが戻ってくる可能性は低く、ここでもまた大切な村の文化が消えようとしている。原発事故の罪は重く、広く、深い。

葛尾

 村の北西に標高1057mの日山(天王山)がある。なだらかな姿で山頂は街道からだと望めない。この頂は葛尾、茂原、田沢の三地域にまたがるため、山頂には三つの神社が鎮座する。この日山神社の例大祭に奉納されるのが「三匹獅子」である。この祭りにはかなり興味を引かれた。次回から三回に分けてご報告する。