2014年2月16日日曜日

『セルフサービス』

第二十一回SSコンペ(お題:『バレンタイン』)



「……なんだこれ、水牛か?」

 壁を埋め尽くす計器類に、天井から垂れ下がる無数の電源ケーブル。雑然とした景色とは裏腹に、室内の空気は極めて清浄に保たれており、部屋の主の意識の向かう先が伺われる。
 そんな研究室の中で、茶色の牛に肩を預けてもたれかかる少女を前に、青年は困惑を隠そうともせずにそう言った。
 
「違いますよ。牛は牛ですけどね」

 ふふん、と笑う少女に、青年の表情が渋みを増す。自分にはよくわからないことが起きていて、かつ少女が上機嫌な時、何かしら被害を担当するのは自分だと経験的に理解しているからだ。

「聞きたくもないけど聞くぞ。それ、何の牛なんだ。なんで研究室に牛がいる」
「おっと、もうちょっと渋るかと思ってましたが、イベント会話であることを看破しましたか。さすがは先輩ですね」
「正直、ミッション失敗判定でお開きにしたいんだけど……」
「残念、強制イベントです。特定キャラとの会話がトリガーの、ね」

 言いながら、少女は手元の端末に短いコマンドを続けざまに入力する。途端、彼女の背後に控えていた幾つものシャッターが次々と開き、中に隠されていたものたちが青年の視界に入ってきた。

「これは……牛……だよな…………?」
「なんで疑問系ですか。牛ですよ」
「いや、俺の知ってる牛とはだいぶ違うんだが」

 シャッターの向こうから現れたのは、色とりどりの牛の群れだった。純白の牛、ピンク色の牛、黒毛という言葉が馬鹿らしくなるほどに全身いたるところが真っ黒の牛。
 単色の彼らはまだマシな方で、中には黒の中に真紅の斑だったり、黒と茶の縞だったりと、幼い子供の塗り絵をそのまま現実に持ってきたような模様のものも存在した。

「なんなんだよこの悪夢みたいな光景は……」
「先輩、今日は何の日か知ってます?」
「ん……まあ、そりゃな」

 言い淀む青年の姿を見て、少女は勢いづく。

「おやおや、ってことは先輩、やっぱり期待して来ちゃいました? 期待しちゃってました? んんん? どうなんですそこんとこ……あっボディはやめてくださいよボディは」
「いいからさっさと教えろ。なんだこれ」

 いそいそと脇腹をかばいながら距離をとり、少女はひとつ咳払いをして、

「バイオ工学によってこの私に創造されたチョコ牛です」

 きりり、と音が聞こえてきそうな澄まし顔で、そう言った。
 言い終わると同時、既に青年は踵を返して入り口へと歩を進め始めていた。腰に縋り付くように少女がタックルを敢行する。たたらを踏みつつ、青年は止まった。

「待って待って待って待って! なんですかもう、まだまだパーティは始まってもいませんよ!?」
「やだよ俺もう……どうせチョコ味の牛を食えってんだろ? 色は味と対応してんだろ? またぞろ俺が実験台なんだろ? いいから義理ですーって言ってチロルチョコの一つでもくれよそれで納得するから」
「うわぁ……畳み掛けるように流れで義理チョコ要求とは本気で必死ですね……」
「なんで基本的に話聞かないのに流して欲しいところだけ拾うんだお前」

 傷ついた風に呟く青年に、少女は笑みを深める。

「愛ゆえに、ですよ。話を戻しますけど、色と味が対応してるのはその通りです。可食部は肉ではないですけどね」
「いや、まさか……お前、さすがに排泄物をチョコ扱いってのは……」
「しませんよ! 可憐な少女になんてこと言うんですか!」

 すまんすまん、とおどけた様子に、本気では言っていないことが知れた。まったく、と少女は溜息をひとつ。

「乳ですよ、乳。乳房からチョコが出てくるんです、このバイオ牛たちは」
「乳って連呼すんなよ自称可憐な少女。まあ、肉よりはマシか。依然としてイカれた絵面だけど」
「でしょう? 肉はナシとして、じゃあ尻から出すか乳から出すかで悩んだ末の英断ですよ。褒めてくれてもいいんですよ?」
「おい可憐な少女、おい」
「まあそんな訳で、わかりますよね?」

 にっこり、と微笑む少女に、青年が照れを滲ませた様子で頭をかく。

「んー、その、まあなんだ、チョコを用意してくれた……ってことでいいんだよな。ちょっとアレな絵面のチョコだけど、それは素直に嬉しい……ん、あれ、ちょっと待った」
「なんです?」
「それ、乳房から出るってことは液状のチョコなんだよな?」
「ええ、そりゃそうです」
「貰う側が事前にごちゃごちゃ言うのって凄く気が引けるんだけどさ、こういうのって型に入れて固めたりとかするんじゃないのか」
「いや、しませんけど?」
「ああ、ということは器から直飲み的な……? いや、ごめんな実際。用意してもらえただけでありがたいのにさ。なんか文句ばっかり言っちゃって。アレか、チョコレートドリンクって奴なのかな」
「いえ、器は先輩の口です」
「はい?」
「ですからこう、授乳の要領でですね?」

 牛の下に寝そべり、乳房の下であー、と口を開きながら、片手で何かをしごくような動きをしてみせた。
 青年は無言で近づくと、瓦割りの要領で手刀を落とす。

「なんですかもう痛い痛い! ボディはやめてくださいって!」
「なんで牛に授乳されなきゃならないんだよ! 百歩譲って蛇口捻って出てくるとかでもいいだろうが!」
「搾乳プレイは男の夢だって雑誌で」
「今すぐ捨てろよその雑誌……あーもう……」

 青年はためいきをひとつ。そのまま踵を返して歩き出す。

「えっ、あれ、怒っちゃいましたー? せんぱーい?」

 呼び声に応えて振り向いた青年の、その顔にはあからさまな照れの色。

「……器取ってくるんだよ、器。ここ、なんかしら冷やす機材とかあんだろ? オリジナルチョコ作って食おうぜ」
「おっと。ではでは、お供しますよ」

 よっこらせ、と身を起こそうとする少女に青年が手を差し伸べる。どうも、と起き上がったその表情には、満面の笑みが浮かんでいた。





「……ところで先輩、さっきパンツ見えてましたよね? どんなもんでした?」
「言わんでおけば綺麗に終わってたところを、お前は……」

2014年1月30日木曜日

『三者三様』

第二十回SSコンペ(お題:『二次創作』)
*『ゆゆ式』の二次創作SSとなっています。ネタバレなどは気にしなくてもよい、はず。
 

「……参ったな。小説って、こんなに書くの難しいものだったのか」
 もう一時間も経つというのに、机の上に開いたノートにはまだ何も書けていない。左側のページの上の端っこ、数行分だけが何度も書いては消しての繰り返しで汚れていて、後の部分はぜんぶ真っ白だ。
 何のイメージも湧かないまま、手だけが先に進む感じで、どこかで見たような物語を拙く書き始める。当然、そんなのがうまく流れに乗ってくれる訳がない。
 それでもどうにか続けようと頑張っているうちに、自分の書いたものがどうしようもなく恥ずかしいシロモノに見えてきて、反射的に消しゴムを掛けてしまう。
 そんなことを、延々一時間も繰り返していた。成果はくしゃくしゃになったノートの冒頭と、大量の消しゴムのカスだけ。
「制限がない、ってのも考えものだよなぁ……」
 はあ、とため息をついて体重を椅子に預ける。そのまま背を反らして、天井をぼーっと眺める。部屋掃除の途中で漫画を読み始めてしまった時みたいに、一気に精神が弛むのを感じた。
 緩んだ勢いで、思考が自然とどうでもいい方向に流れてゆく。悪い傾向だなー、と頭の隅っこで冷静に考えている自分がいたけれど、もう遅い。雑念が頭を覆っていく。
 ―――だいたい、ゆずこが悪いんだ。あたしにリレー小説のトップバッターなんて荷が勝ちすぎてるってあんなに主張したのに、唯ちゃんなら大丈夫、と言って譲らなかった。そのせいで今、あたしはほっぽり出して寝ることもできずに、こうして延々唸るハメになっている。
 ……そんな風に正当化してみても、やっぱりというか何というか、やらずに寝るなんて選択肢は浮かんでこなかった。
 いつだったか、4コマを描いていく流れになったことがあった。あの時もこうやって悩んで、結局、よくわからないものしか完成しなかった。翌朝、あたしはそれを披露しなかったんだけど―――ゆずこも縁も、あたしが見せたくないことを悟ってか、そのことに言及することはなかったし、そのことを今回、盾にとったりもしなかった。
 だから、できなかったと言えば流してくれるだろうとは思う。でも、だからこそ、やってやりたい。まして今回はリレー小説なのだし。きっと二人とも、自分が何を書くか、ある程度は考えているんじゃないだろうか。そう考えると、ますますやらなきゃいけない気がしてくる。
 よっ、と姿勢を戻す。そのまましばし、目をつぶる。
『唯ちゃんなら大丈夫』
『唯ちゃん、ファイトっ』
 別れ際の二人の顔を思い浮かべて、よし、と呟く。萎えかけていたやる気と一緒に、ちょっとしたアイデアが湧いてきた。二人の顔を思い浮かべたまま、シャーペンを手に取る。
「何もないところから書こうとしたのが間違いだったのかもな……」
 どこかで見たような、いや、毎日見ているようなお話を、少し脚色して書いていく。あたしたち3人におかーさん先生、それと岡野さんたちくらいしか解らないだろう、ニッチにも程があるネタを散りばめつつ。
「(……うん、これでいい、はず)」
 この一時間の苦闘が嘘のように、手が進む。そのままあたしは、少しの寝不足を覚悟しなければならない時間まで、手を動かし続けた。



 朝、唯ちゃんにノートを渡されてから、私はずっとそわそわしっぱなしだった。
 本当のところを言えば、今回はお流れになっちゃうかな、と思ってた。唯ちゃんが約束を破るかも、って疑ってた訳じゃなくて、むしろその逆。唯ちゃんは真面目すぎるから、適当に力を抜いてでっち上げるって選択肢をたぶん選ばない。気負って、こんなんじゃ駄目だ、と思ってしまうかもしれない。書いても書いても、こんなの見せられたものじゃない、なんて考えてしまうかもしれない。
 駄目そうだったらむしろネタにしてセクハラでも迫るのが唯ちゃん的には一番楽かな、なんてことまで考えてもいた。
 ……そんな風に思ってたから、登校してすぐに「ほら、書いてきたぞ。次はゆずこの番な」なんて言われた時には、喜びのあまり雄叫びをあげてしまったほどだ。即座に唯ちゃんの鉄拳と縁ちゃんの爆笑を頂いた。ありがとうございます。
 正直、渡されてからは早く読みたくて仕方なかった。授業も何も手につかなかったくらい。よっぽど解りやすい顔でもしてたのか、授業中に何度か唯ちゃんと目が合って、その都度睨まれたりもした。視界の端で羨ましそうな顔をする縁ちゃんが可愛かったなあ。
 休み時間も唯ちゃんは私から目を離したくなかったみたいで、よっぽど人前で読まれるのが嫌だったらしい。そんなことしないよー、と拗ねてみせるのも面白いかと思ったけれど、唯ちゃんの意識を惹きつけたまま過ごすというのも新鮮で楽しくて、ついつい思わせぶりな動きを繰り返してしまった。反省反省。縁ちゃんにもネタを多めに振ったとはいえ、悪いことしちゃったかも。
 ともかくそんな訳で、待ちに待った読書タイム。さっそく机の上にノートを広げ、読書用の眼鏡を掛けて、内容に目を通す。自分が続きを書くこともあり、二度三度と読み返していく。
「なるほどなるほど、そう来ますか……」
 思わず、腕を組んで頷いてしまう。
 二番バッターとして、私はどんな物語でもうまく縁ちゃんに渡さなければいけないと思ってた。だから色んなパターンを予め想定しておいたんだけど、唯ちゃんの選んだ方向性はそのどれでもなかった。完全に予想外。
 ……予想外だけれど、考えておいた他のパターンのどれよりも馴染んで、続きを書きたくさせる物語だ。何しろ、ここには『唯ちゃんから見た私たち』が描かれてる。私が何を書くべきかなんて、もう最初から決まってる。
「全く、これだから―――唯ちゃんは最高だねっ」
 シャーペンを手にとって、次のページから物語を続けていく。考える時間なんてほとんどいらない。書くべき言葉はノータイムでいくらでも湧いてくる。
 唯ちゃんの紡いだ言葉を受けて、咀嚼して、できるだけ面白くなりそうな流れの中に解き放つ。毎日毎日繰り返してきた、これからも何度だって繰り返したい遊び。このリレー小説だって、その延長線上にある。だから、いまさら頭を捻ることなんてない。
 ただ、いつもなら自分で拾い直したり、唯ちゃんに投げ返すことも考えて作るネタを、今は縁ちゃんのためだけに整えてゆく。そこだけ感覚が違って、なるほど、これは楽しい作業だ。
 可能性はなるべく潰さない。唯ちゃんが残してくれた伏線らしきものに全部乗っかって、自分でも更にフックを埋め込んでいく。これも、いつもの私たちの延長線上。頭の隅で自分のネタが縁ちゃんと唯ちゃんを経て戻ってきた時のことを想像したり、いや、でも縁ちゃんのことだから何をしてくるかわからない、本当に戻ってくるのかな、と笑いを噛み殺したり。
 さあ縁ちゃん、どこに枝葉を伸ばしてもいいよ―――そんなことを考えながら、私は唯ちゃんの物語を継いだのだった。



『縁の好きにやっていいぞ』
『縁ちゃんなら大丈夫! 私が保証するよっ』
 二人はそう言ってくれたけど、正直、何を書いたらいいのかさっぱり決まらない。
 そう、“決まらない”。書きたいことはたくさんあるんだけど、どれを選べばいいのか、私にはよくわからない。
 はいどうぞ、と渡されたお話が魅力的すぎて、私は何をどうしたらいいのか決められずにいた。唯ちゃんのお話はするっと私の中に入り込んできて、ゆずちゃんのお話はそこからたくさんの可能性を引っ張りだしていて。
 こんなに楽しそうな道がたくさんあるんだから、どれを選ぶべきかなんてわからない。
「……はあ。困っちゃうなあ」
 うーん、と唸りながらシャーペンをもてあそぶ。うまく回らないペンを何度も机に取り落としているうち、どんどんと無駄な時間が過ぎていく。さっき読んだ話を反芻しながら、とりとめもないことを考え続ける。
 ……
 …………
 ……………………あ、いま半分くらい寝てた。
 いけないいけない、と頭を振って座り直す。
『縁の好きにやっていいぞ』
『縁ちゃんなら大丈夫! 私が保証するよっ』
 改めて、ふたりの言葉を思い出す。好きにやっていい。大丈夫。
「うん、大丈夫……私は大丈夫……最強……最強……?」
 繰り返し唱えるうち、なんとなく変な気分になってくる。とりあえずシャーペンを持ち直してノートに向かう。好きに。大丈夫。よーし。
 いましがた、半分寝ながら妄想していた通りのお話を、そのまま書いていく。あっちこっちへ寄り道してしまうのも気にしない。とにかくたくさん、思った通りのことを書いていく。私が思った通りに。唯ちゃんと、ゆずちゃんの言葉を飲み込みながら。
「(……あ、これって―――)」
 なんだ、そうだったんだ、と安心する。そっか、やってることは変わらないんだ。いつものおしゃべりと、何も変わらない。
 そう思ってみれば、このお話はすごく面白い。さっきまでも面白かったけど、今は違う面白さを見せてくれる。
 唯ちゃんの見た私たち。ゆずちゃんの見た私たち。当たり前すぎて普段は気にしない、お互いの目を通してみた自分たちのすがた。
「なら、私がやらなきゃいけないことは―――」
 いつもどおり、唯ちゃんに甘えて、やりたいことをする。全くもう、とため息をつきながら、唯ちゃんは応えてくれるはず。そんな私たちに、ゆずちゃんはもっと面白い遊びを提案してくれるに違いない。
「戻ってくる時が楽しみだなあ……」
 にへら、と笑みを浮かべながら、私は唯ちゃんに託す無茶ぶりの内容をいそいそと詰め始めるのだった。



「そして出来上がったのがこれ、かぁ……」
 おかーさん先生、出来ました! と野々原さんがノートを渡してきた時には何のことかと思ったけれど、話を聞いてみれば、部の三人で回し書きしたリレー小説とのこと。
 思った以上に楽しくて、と少し照れ気味に櫟井さんが言った通り、ノート一冊分の小説というのは少し圧倒されてしまうくらいの量だ。頑張ったよね~、と誇らしげに呟く日向さんの表情に、思わずこちらも笑顔にさせられた。
 最初はやっぱりおかーさん先生に読んでほしいよね、などと言われては、こちらとしても気合を入れて読まざるを得ない。なんだか乗せられているような気もするけれど。
 預かっても大丈夫とのことだったので、家に持ち帰って読ませてもらうことにする。いつもは少し寂しい独りの家が、今日だけは三人と一緒に帰ってきたみたいで、少し暖かいような気がした。
 帰ってすぐに、ノートを開く。
「……そっか、あの子たちの目には、こう見えてるんだ」
 櫟井さんの目から見た二人、野々原さんの目から見た二人、日向さんの目から見た二人。互いに抱く好意と敬意がぐるぐると輪になって続いている。誰かのアイデアが次の人に、そしてまた次の人にと、伝播していく様子が見て取れる。なるほど、あの子たちのやりとりを遅回しに再現してみたら、こんな様子が見えるのかもしれない。
 夕食もそこそこに、集中して読み耽る。……たまに出てくる、自分と思しき年長者の美化されっぷりに、気恥ずかしいものを覚えたりもしつつ。きっとこう思うことまで織り込み済みで書いているのだろう。野々原さんの担当部分だろうか、やっぱり。
 読み終えた時には、心地良い疲労を感じる程度の時間が経っていた。伸びをして、寝支度を整えにかかる。
「っと、その前に」
 ノートの最後のページ、思わせぶりに開けられた空白に、赤ペンでさらっと輪を描いた。
「これでよし、と」
 ぱたんとノートを閉じる。きっと仲の良い子たちにも読ませるのだろう。あの子たちの見る世界を、他の子が垣間見る。それはとても、素晴らしいことのように思えた。

2014年1月14日火曜日

『交感契約』

第十九回SSコンペ(お題:『契約』)

「ん、あんた何見てんの?」

 ソファでくつろぐ少年の手に紙片が握られているのに気付いて、少女はそう問いかけた。
 ん、と唸って、少し口ごもると、少年は笑顔をかみ殺すような素振りを見せてから、少女にそれを渡した。
 首を傾げて訝しみつつ、どうも、と素っ気なく呟いて紙片を受け取る。裏返しに渡されたそれは、便箋のようだ。なぜこいつがこんなものを、などと疑問に思いながら、少女はためつすがめつ、紙片を眺める。
 よほど古いものなのか、粉っぽい紙肌が少女の指に引っ掛かる。淡い色と華やかな縁取りの装飾から、女子の持ち物であろうと知れた。そういえば幼い頃、ちょうどこんな便箋を遣っていた―――ような―――おぼえが―――?

 そこまで考えたところで、脳裏に記憶がなだれ込んでくるのを少女は感じた。忘れていた、否、封印していた記憶。数拍遅れて、顔面に血が集まるのを感じる。即座に、便箋に書かれた文面を検める。そこには、記憶通りの文章が踊っていた。
 勢いよく顔を上げれば、そこにはもう笑いを堪えきれないといった様子の少年。その様を見て、羞恥とはまた別の感情が少女の顔を更に赤く染めていく。

「なんっ―――であんたがこれを! 今! 持ってんのよ!?」

 記憶が正しければ、これは今も自分の机の奥底に封印され、そのまま日の目を見ずに今に至るはず。幼少のみぎり、眼前の少年を半ば脅すようにして書かせた契約書だ。そのまま完璧に存在を忘れていたが、何がどうあれ、いま少年の手元にはあるはずのない代物だといえる。
 当然の疑問を見て取ったか、少年は平然とした風に答えた。

「そりゃ、こっそりと取り戻したのさ。そんなの握られたままじゃ、怖くて夜も寝られないだろ?」

 少年の言葉に、すぅ、と少女の表情から怒りの色が抜け落ちる。
 あ、まずい、と少年は胸中で失策を悟った。流石に煽り過ぎたらしい、と否応なく理解させられる威圧感。ふーん、と呟くその声色が、どこまでも空々しい。

「あんたまさか、わたしの部屋に忍び込んだ訳?」

 少女の声は平坦だ。無論、平静に立ち返った訳もない。怒りの予備動作に過ぎない。
 一瞬後の爆発の予兆を見て取ったか、少年は顔を引き攣らせた。何かを言わねばならない―――とはいえ、気の利いた返しなど思いつく訳もなく。仕方なしに、気を逸らすための事実をひとつ、開陳する。

「まさか。弟さんに頼んだのさ」

 幾分か慌てた様子で告げられた言葉に、少女の顔から表情が消え失せる。へぇ、と呟き、顎に手をやり、視線を斜め上の空間に飛ばしてしばし沈黙する少女。息の詰まるような静寂の中を、死刑囚の気持ちで少年は待った。
 少女はやがて、うん、とひとつ呟いて、

「……シメるか」

 宙空に投げかけられた、極めて抑揚に欠けた呟きを、少年は努めて聞き流すことにした。すまない、と胸中で少女の弟に謝罪して、話をもとに戻しにかかる。このまま行けば、怒りの矛先が自分に向くことは火を見るより明らかだ。。

「しかしまあ、当時は本気で戦々恐々としてたけど、いま読むと何だか微笑ましくすら感じるよ」

 む、と少女が反応する。うまく興味を惹けたらしい。少年の脳裏に、いつか流行った釣り漫画の一コマが再生された。
 
「何ていうのかな、いまになってみれば、子供の発想だったんだなあ、って」

 う、と少女の顔が赤みを取り戻す。よし、と少年は心中、ガッツポーズを決めた。

「そりゃ、ね。いくら昔の私だって、大人目線でヤバいと思うようなものなんか書かないっつーの。……あん? 何よ変な顔しちゃって」

 髪をくるくると弄びながら早口に捲し立てる少女が、少年の呆けたような表情に気付いた。ドスを利かせた声で問い詰める。
 我に返った少年は、焦りながらも、何か言葉をひねり出そうとして、

「―――いや、何でも」

 出てきたのが、これだ。最悪だ、と少年は胸中で独りごちる。若干の間を置いての、意味ありげな否定。なにか腹に一物あります、と暴露しているも同じではないか。
 案の定、少女はじーっと少年の顔を凝視していた。またもや訪れた、生きた心地のしない沈黙。やがて少女は、ふっ、と表情を緩めた。すわ助かったか、と期待する少年だが、

「……『自覚あったんだね』って顔してるわよ、あんた」

 ぽつりと告げられた言葉に、ぶわっ、と少年は冷や汗を吹き出す。
 その反応だけで充分だった。疑惑を確信に格上げしたらしい、少女はいい笑顔を浮かべて、少年ににじり寄る。

「そっかそっか……そういうこと考えてたワケね。ん?」

「あっ、そういえば僕、今日はパーティーの約束が」
 
 それじゃあね、と部屋を辞そうとする少年の肩を、少女の手が万力のように締め上げた。
 
 
 
 
 
「おとなしくゴメンナサイって言えば乱暴はしないっつーのに、なんであんたはそう人をおちょくるのかしら」

 少年を文字通り尻の下に敷き、頬杖をついて少女は呟いた。げしげし、と肘で少年の脇腹を殴打しておくことも忘れない。
 
「そりゃ、おとなしく謝罪しても関係なく乱暴されてきたんだから、いっそ煽りに煽って最大限に楽しんでやろうって考えるようになるのが合理的思考ってやつじゃないかな」

 いわゆる局所最適化だよね、と少年は嘯く。ふうん、と感心したふうに、少女の声。

「なるほどねえ。道理ではあるわね―――っと」

 よっこらしょ、という呟きと共に、少女は全体重を少年の体に加える。臀部を通して、みしり、と嫌な音。 

「ぐえっ、重……あっ嘘です重くな……ぐえぇっ……ぁ…………」

 言い掛けたところで、更に重を加える。少年が喋らなくなったことを見て取ると、少女は念のため、更に肘打ちを繰り返し、完全に少年の意識が断ち切られたことを確認する。
 全くもう、と溜息をついて、少女は立ち上がり、

「だから口応えすんなっつーのに。よくよく進歩しない奴ね」

 言って、思い出したように件の便箋を手に取り、目を通す。
 
 
 ―――けいやく書。
 
 ―――わたしはあなたにおやつをあげます。
 ―――あなたはかわりにどれいになってわたしをたのしませます。
 ―――このけいやくはいっしょうつづきます。
 ―――おわり。
 
 
「……全く、我ながらどこで覚えたんだか、こんな言葉」

 自分のこととはいえ、末恐ろしい文面だ。不平等契約にも程がある。先ほど指摘された時には怒りを露わにしてしまったが―――まあ、それはそれ。別腹としておく。
 そんな風に少女がいつも通りの欺瞞を決めていると、キッチンから音が聞こえた。そう、少年を招いたのは他でもない、新しいお菓子のレシピを試してみたくて―――
 
「……おっと、進歩がないのは私もか」

 一本取られたわ、と未だ黙して語らない少年の方へと呟きを寄越して、少女は中断していた調理を再開しに掛かった。

2013年1月3日木曜日

『わたしの書架』

第十八回SSコンペ(お題:『本』)

 幼い頃から、脳裏に焼き付いていた景色がある。
 暗い図書館の中、ランプの光に仄明るく浮かび上がる、万年筆を走らせる女性の姿。
 お屋敷の中庭に建てられた図書館の大広間、書架が森のように乱立する空間の、その中心に据えられた小さな文机に座って、彼女は一心に何かを書き記していた。

 物心ついた頃から、図書館を訪れることが僕の日課だった。
 朝早く起きて、朝食も摂らず、図書館へ行く。すると、どんなに早い時間でも、彼女は既に作業を始めていた。入室してきた僕を認め、会釈をしてくれた時に見せる微笑みが、僕の一日の始まりだった。 
 彼女の傍らに座って、その作業を観察する。万年筆の先が紙を擦る音が断続的に響く。それを縫うようにして、二人の衣擦れの音と、僕の呼吸音が聴こえる。彼女の邪魔になるといけないと思い、僕は努めて静かにしていた。いつか、なぜ黙るのかと訊かれ、正直に言ってしまった時、彼女は笑って「気にしなくてもいいですよ」なんて言ってくれた。それでも僕は、自分の呼吸音がうるさく感じられるほどに、息をひそめるのが常だった。彼女の奏でる記述の音と、残りの空間に横溢する静寂とを、僕は愛していた。
 彼女が何を書いているのかを、僕は知らなかった。文字が読めなかったからだ。ただ、規則正しく奏でられる種々の音と、ランプに照らされた横顔の陰影とを享受するだけで、僕は満足だった。

 朝食、昼食、夕食と、食事時になるたび、僕は図書室を離れなければならなかった。彼女と一緒に食事を摂りたいとも思ったが、彼女は図書館を離れたがらなかったし、図書館で飲食をすることは彼女に伺うまでもなく憚られた。
 彼女と少しでも長く過ごすために、彼女の姿を目に焼き付けるために、僕は早起きに努めることにした。寝不足を窘められたりはしたものの、あの静謐の中で過ごす時間は、少しくらいの気怠さの対価としては過分と言っていいものだった。事実、朝の眠気の中にあってさえ、彼女の傍にいられれば、僕はそれ以上ないほどに満ち足りていたのだ。
 起きる時間を30分早めて、一時間早めて、などと繰り返すうちに、やがて日の出の前に図書館を訪れるようになって、僕は初めて違和感に気付いた。そんな早い時間に訪問するようになってさえ、彼女が図書館に出入りするところを、僕は一度も見たことがなかったのだ。或いは図書館で寝泊まりしているのかな、とも考えたけれど、寝具は見当たらなかったし、そんなスペースがあるようにも思えなかった。何より、仕事場で寝起きするような生活は、彼女に相応しくないように思えた。
 
 ある日、僕は夜中に目を覚まして、図書館へと向かった。
 夜の空気に身を震わせながら、図書館の扉を薄く開く。全く普段通りに記述を続ける彼女の姿があった。僕はそのまま部屋に戻って、少し時間を開けてから、また図書館の様子を探った。変わらず彼女は作業を続けていた。また同様に時間をずらして、確かめた。日を改めて、何度も繰り返した。僕は彼女が眠らないらしいと知った。

 ねえ、お姉さんは人間なの、と僕が聞いた時、彼女はあからさまに困った顔をしてから、いつもの微笑みを浮かべて、首を振った。
 拍子抜けするほどあっさりと明かされた真実に、僕は驚いていた。彼女が人間ではなかった―――アンドロイドであろうことに、ではない。本当のことを言えば、そのこと自体にも驚きを感じてはいたのだけれど、それ以上に、それならばなぜ、という驚きがあった。
 アンドロイドであるのなら、データの入出力にわざわざアナログの媒体を遣う必要はない。データとして文字を、媒体として本という形態を選ぶことは、読者に文字を読むことのできる存在を想定したことの証だ。しかし、僕を含めた現行の人類は、既にアナログの文字媒体によるコミュニケーションを主だって行なってはいない。それは趣味人の領分で、限られた人間の娯楽へと零落、或いは洗練されてしまっている。この屋敷に、文字を読むことのできる人間はいないはずだった。アンドロイドに読ませることは可能だけれど、ならば尚更、文字媒体を選ぶ必要はない。
 その疑問に気付いたのだろう、彼女は机からケーブルを取り出して、自分の首筋に挿した。そして、反対側のコネクタを僕に渡す。促されるまま、僕は首筋のインターフェースにコネクタを接続した。世界が混線―――いや、彼女がホストなのだろう、向こうのものに統合される。他人の感覚器で演算された世界の、異質な手触りに、酩酊感を覚える。
 気付けば、僕は元の図書館にいた。いや、彼女と僕を繋ぐケーブルが消えたところを見ると、これは彼女の見せる心象領域なのか。戸惑う僕に、彼女が先ほどまで記述していた本を差し出してきた。彼女の脳が視覚を乗っ取り、文字のデコードを担当しているのだろう。その内容は、読めないはずの僕にも理解できた。

 本の内容は、僕の行動に関してのものだった。……いや、精確に言えば、それは彼女が過ごす日々を、彼女の視点で綴ったものだった。僕が傍らで息を殺す様子、寝不足なのか船をこぐ様子、いつかの夜にドアの隙間から覗っていたことさえ、そこには書かれていた。
 自分の行動を客観的に記述される、という恥ずかしさに呻いていると、彼女は数冊の本を僕の視界の中に滑り入れた。そこに書かれた日付けは僕が生まれる前のもので、そこでは彼女は、屋敷の中を巡り掃除をしていたり、屋敷の主人のお世話をしていたり、今のように図書館に篭っていたりと、時代によって全く違う過ごし方をしていた。
 そして、それらの記録は全て、彼女の主観を通して記録されていた。アンドロイドであるのなら、それこそ映像や音声、やろうと思えばセンサを遣って空間そのものの様子を3Dで記録することも出来たはずだ。でも彼女は、敢えてしなかった。受容した世界を、言葉というあやふやな形式に便り、本に綴っていったのだ。

 なぜ、と質問した僕に、忘れるためです、と彼女は答えた。
 あらゆることを記憶できてしまえば、狭い世界での生活は、徐々に色褪せていく。可能性を食い潰しながら日々を送ることになる。だから、本という形で出力された記憶を、徐々に摩耗させていくような仕様にした。遠い遠い昔の主の仕業らしい、と彼女は含むもののありそうな声色で続けた。その顛末も、本で確かめて思い出したのだという。
 だったら尚更、記憶領域を順次凍結していくだとか、そういう手段を取れば良かったのに、と僕は言った。彼女はそうですねと微笑んでから、でも、と首を横に振った。そして、こう続けたのだ。何を以って人格としましょうか、或いは、成長としましょうか、と。だから結果オーライなんです、とも。
 
 その言葉を聞いて、合点がいった。そして、辺りを見回す。図書館に林立する書架に収められた本は、全てが同じ装丁で統一されていて、そこに刻まれた日付けは、規則正しく推移していた。
 記憶が人格を、変化が成長を。緩やかな忘却と、限定的な想起。つまり、彼女の仕様の、本当の狙いとは。
 道理で気付けなかった訳です、と僕は言った。彼女は嬉しそうに微笑んで、手元の本に、また新しい記述を付け足した。

2012年12月24日月曜日

『ごちそうさま』

第十七回SSコンペ(お題:『食事』)

 ぞぶり、と果肉を噛み切るような音がした。
 次いで、水音まじりの咀嚼音。生理的な嫌悪を、理性でねじ伏せる。

「……何度も言うけれど。つらいなら、外しなさい」

 口元を赤く染めた少女の声は、どこまでも平坦だった。
 そこに安堵を覚えながら、僕は首を振る。

「けじめ、だから」
「―――そう。ならいいけど」

 そう言って視線を切ると、少女は咀嚼を再開した。
 彼女に背を向けて、僕は佇立する。
 ぶしゅ、と何かの潰れる音。ぱたぱたと液体の滴る音。
 断続的に聞こえる音に、否が応にも、行為の様子を想像させられる。
 浮遊感を伴う気持ち悪さに耐えながら、僕は終わりが来るのを待っていた。

 ……どれくらい経っただろうか。
 気付けば、口から胸元までを真紅に染めた少女が、こちらを眺めていた。
 ハンカチを取り出して、彼女に渡す。軽く頷くと、彼女は口元を拭った。

「終わったわ。これで当分は保ちそう」
「そっか。後始末は僕がするから、少し待ってて」

 言って、彼女の食事跡に残る骨を、火ばさみで布袋に詰めていく。
 一塊に盛られた骨の山に吐き気を覚える自分と、律儀に整えられたその絵面に面白みを感じる自分とが、奇妙に共存していた。
 
「つらい?」

 熱に浮かされたような意識の隅で、骨の処理に考えを巡らしていると、彼女の声が降ってきた。
 覗きこむようにして投げ掛けられた言葉には、いつも通り、何の感情も読み込むことができない。
 ―――心配も、同情も、憐憫も、哀しみも、揶揄も、何もない。
 言葉通り、ただ彼女は、僕がつらいかどうかを確認しているだけなのだろう。

「ちょっと、きつい。でも大丈夫、好きでやってることだから」

 安堵と、名状しがたい感覚とが同時に去来するのを自覚する。
 即物的なものだな、という自己嫌悪と、行動原理を再確認させられたような所感とを、同時に抱く。
 彼女は少しだけ目を細めて、

「そう。……そう言うのなら、私は構わないけれど」

 やはり何の感慨も乗せずに、そう言った。
 何も変わらないその言葉に、救われている自分がいた。

 ……彼女と出逢ったのは、半年ほど前の出来事だ。
 あの日、路地裏で僕は、屍体に縋りつく少女と出逢った。

 最初は、気が狂れてしまったのかな、と思った。
 親しい人の死を受容できず狂ってしまったのかもしれない、と。
 でも、少女の居る場所から聞こえる水音が、明らかな異状を訴えていることに、僕は気付いた。
 視線に気付いたか、足音で察したか、ゆっくりと面を上げた少女の口元は、赤黒く染まっていた。

「……何かしら。取り込み中だから、手短にお願いするわ」

 異端者としての露悪も、異常者としての狂気も、捕食者としての敵意も、そこには無かった。
 言葉通り、食事中に人が訪れたから、対応しただけ。
 思えば、その在り様を見た瞬間に、僕は狂ってしまったのだろう。

「君は、人を食べるの?」

 出てきた言葉は、自分でも驚くほどに平静なものだった。
 理性と本能とが乖離したような感覚。

「ええ。食べないと死んでしまうから」
「その人間はどこで? まさか、殺したの?」
「そんな身体能力はないわ。行き倒れていたから、頂いたの」

 何の含みも感じさせない、事実だけを述べる発話。
 僕はその時点で、彼女に惹かれていたように思う。

「一ついいかな」
「何かしら」
「君と一緒にいたい」

 脈略も何もない、唐突な言葉に、

「構わないわ」

 ただ頷いた彼女に、仕えようと決めたのだ。





「……やっと見つけた。まあ、場所は移動してるわよね。隣町、とは思わなかったけど」

 路地裏で眠る少女のもとに、少女が一人、訪れた。
 眠っていた少女は、頭を預けていたもの―――死体から体を起こし、来訪者を茫洋と見据える。
 鉄パイプを肩に担いだ少女が、路地を塞ぐように仁王立ちしていた。

「誰かしら」
「あんたが誑かした男の妹よ。返してもらおうと思って、来てみたんだけど―――」
「そう。……そう。残念ね、彼は」

 少女の視線が、横たわる死体に落とされる。
 鉄パイプの少女は、ああ、とひとつ呻いてから、皮肉げな笑みの形を取り繕った。

 行き倒れの死体など、そう転がっているものではない。手を広げれば、足がつく。
 いつしか増え出した失踪者と、完全には消しきれなかった痕跡から、彼らの姿は容易に捉えられた。
 人を食べるだけの少女と、華奢な少年とでは、警戒を強めた人間を捕食することは困難で。
 二人組の食人鬼が目撃され、追われるまでに、そう時間は掛からなかった。

「まあ、そんなことだろうとは思ってた。……どうして死んだの?」
「一昨日の晩に自殺したわ。僕を食べて、って手紙を遺して」
「……まあ、そんなことだろうとは思ってた。本当に、馬鹿なんだから」

 やれやれ、と肩をすくめる少女に、敵意の色はない。

「憎くないの?」

 空虚な声が路地裏に響く。
 ぎちり、と鉄パイプを握る掌に力が篭る。

「……わたしはあんたを裁かない。あの馬鹿兄も、ね。裁かないことに、決めた」

 無表情に見据えてくる少女を強く睨みながら、言葉を続ける。
 そう、と少女は呟く。それきり沈黙した相手に、びしりと鉄パイプを突き付けて、少女は続ける。

「食べるにせよ、食べないにせよ……よく考えなさい。何がしたいのか、何を求められてたのか」
「……食べて、いいのかしら」

 投げ掛けられた疑問の、或いは自問の素朴さに、相貌が崩される。
 はあ、と溜息をひとつ吐いて、

「あんた、人を喰ったような奴だわ」
「そう。……まあ、事実ね」

 はん、とひとつ鼻をならして、少女は路地裏を去った。
 後には少女と、ひとつの死体が残された。

2012年12月9日日曜日

『きみがため』

「お姉さんはどう思います? 今回の話」

 小首を傾げながら問う少女の所作に、わたしは内心、気味の悪さをすら覚えていた。
 少女は弟の幼馴染で、お姉さんに相談がある、とわたしの部屋を訪れている。

「えーっと、転校生があんたたちのクラスに来たんだっけ。美人の」
「ええ。すっごく美人で、優しくて、クラスの人気者なんです」
「その娘が弟を意識してる、って?」

 はい、と神妙に頷く少女。
 話の流れだけ見れば、ごく健全な恋愛相談だ。
 でもわたしは、ここから段々と話が歪んでいくであろうことを知っている。

「この場合、どう立ち回ったら彼をいちばん幸せにできるんですかね。いっそ身を引くべきかな、とも思うんですが」

 うーん、とかわいらしく腕組みなどしながら発せられた言葉には、何の含みも感じられない。
 件の転校生への当てつけでもなければ、わたしのフォローを期待しての振りでもない。言葉通りの、素朴な疑問なのだろう。

「いや、そこは『私が幸せにしてみせるんだから!』くらい言うべきでしょ」

 "気のいいお姉ちゃん"ならそう言うであろう、と仮構したロールに忠実な発話。
 心の篭らない言葉を発することにも随分慣れてしまった。罪悪感も既に無い。
 畢竟、わたしがどう助言をしようとも、少女は己の考える最適を導き、また実行するのだろうから。

「でも、私の存在が彼の幸せに寄与するかどうか、まだ確定してる訳ではありませんし」

 無私の美しさ、を説いたのは誰だったか。
 存在をすら悟らせない献身。見返りの一切を期待しない奉仕。
 なるほど、そこには凄絶な美しさが宿っている、ような気がしなくもない。

「その論理だと、いま身を引くっていうのは尚早じゃないの?」
「いいえ、私はずっと彼と一緒にいることができますから。その点、転校生さんの感情は水物かもしれないので」
「気持ちがある内にくっつけておいた方が、ってこと?」
「ですね。そこに最善があるかも知れない訳ですから」

 盤上の駒を操るがごとく人を扱う、その暴力。
 恐ろしいのは、指し手が自らをすら駒と捉えていることだろう。
 ―――『一緒にいることができますから』。
 己の存在が最善への手筋に不要だと認識すれば、この少女は躊躇しないに違いない。

「でもさ。それが最善じゃなかったら、傷が残るよ。ふたりともに」
「そこなんですよね、問題は」

 珍しく見せた溜息に、僅かに安堵のようなものが芽生えるのを感じて、

「その傷が、ミスマッチの齎した不幸せが、巡り巡って最高の幸せに転嫁される可能性が捨て切れないんです」

 ―――すぐに、怖気に転じた。
 何を期待していたのだろう。転校生や弟への気遣いの言葉が出てくる、とでも?

「考慮すべき事項が多すぎるんですよね。一時的な不幸せが最高の幸せに繋がるかもしれない。そう考えると、可能性は無限です」

 刹那的な幸せと安定的な幸せ、という対比ですらない。最善を求める自律思考。
 他人の幸せを、相手にとっての主観的な(・・・・)幸せを、価値観の変遷まで含めて考察する生き物。

「なんで彼は一回しか生きられないんでしょうね。悠長に試してる暇なんてないのに―――」

 それは恋ではなく、もはや愛でもなく。
 きっと、幸せを希う概念と化してしまった少女に、わたしは恐怖していた。

2012年11月26日月曜日

『夢の奏でる歌』

 第十六回SSコンペ(お題:『サイバーパンク』)


 六面全てが白色で塗りつぶされた部屋に、少女が二人現れた。背の高い少女と、小柄な少女だった。
 何の前哨もなく中空から現れた彼女たちは、これもまた突然現れた椅子に座り、互いに目を合わせる。
 
「えー、それでは定期電脳演奏練習を始める」

 背の高い少女がそう言うと、部屋の壁は四角錐を敷き詰めた棘状の面を形成し、その内の一面には巨大なアンプが2つ出現した。
 その反対側の壁には、防音の扉と覗き窓。それなりに作り込まれたスタジオのディテールを目にして、小柄な少女が、うへえ、とうめき声を漏らした。

「そこまで凝る必要、ある? ぶっちゃけ部屋の外枠だって必要ない訳じゃない」

 二人の肩にストラップが、その先にギターとベースが現れる。急な重量の増加に、小柄な少女がたたらを踏んだ。
 へっ、と一つ笑って、背の高い少女が続ける。
 
「気分だよ、気分。何もない場所でぽつんと二人、楽器弾いて楽しいか?」
「それはそれでエモそうじゃん。なんかPVっぽいし」
「PVねえ。撮られるような身分にまで上り詰めてみたいもんだが」
「そう、だね。いつか、きっと」
「……ん、どうかしたか?」

 応酬のテンポが乱れる。
 少しだけ、トーンの落ちた応答。目ざとく察して、背の高い少女は怪訝そうに問う。
 応えるように首を振って、顔を上げて、

「なんでも。さて、さっさと準備しちゃおうか」

 そう言った時には、いつもの雰囲気に戻っていた。
 少しの逡巡を経て、背の高い少女は、まあいいか、と作業を継続する。

「あいよ。……いやしかし、実際問題どうやって遅延を解消してるんだろうな」

 がちりとエフェクタを踏み、換装済みの高輝度LEDが灯るのを確かめて、背の高い少女が言った。
 筐体の右側から伸びたケーブルは、少女の抱えるギターに接続されている。水を払うような動作でカッティング。手の動きと同期して、コードが鳴る。
 やっぱり遅れないんだよなあ、と小さな声。

「んー、正攻法で何とかなる問題とは思えないからね。やっぱりアレじゃない、先読みとかそういう」

 小柄な少女が言う。
 彼女が抱えるのは、少し小型の4弦ベース。クワガタのような、と評されたこともあるその形状は、背の高い少女の持つギターと相似形だ。
 ぶうん、と唸るような低音を奏でる。散漫な、しかし規則性に満ちた音列。数巡してから、ギターが乗った。

「時間領域での解析と補完、或いは私のモーションからの予測、ってとこか。正直、もにょる部分が無くはないんだが」
「どこらへんに?」
「生音じゃねえ、って所にだよ。単純にさ」

 喋りながらも、手は止めない。
 流れるような低音と、それを寸断するような和音とが、会話の調子と相互に影響し合う。

「そうかなあ。完璧に再現されてれば、わたしは本物と同じだって思うけど」
「私は嫌なんだよ、そういうの。私たちのジャンルは何だ? 言ってみ?」

 ブルースのセッションのような演奏は、やがて技巧を削ぎ落とし―――或いは振り払って、スピードを増していく。
 加速するギターに追従して、ベースもまた、単線的に純化されていく。

「パンク」

 小柄な少女がそう言うと、背の高い少女は叩きつけるように弦を弾いた。
 大音量のフィードバック。空間を埋め尽くす暴力的な音の中で、小柄な少女は黙したままアドリブを開始する。

「そうだよ。パンクだ、魂の音楽だ! ……理屈っぽい負け犬の歌だよ。そして魂の歌でもある」

 轟音の中、吠えるように、誇らしげに放たれた言葉に、小柄な少女の口元が釣り上がる。

「今、魂って二回言った」
「二倍大切だってことだ」

 笑われた、と認識した少女もまた、同様に笑みを浮かべる。
 フィードバックが収まると同時に、ベースソロも終了する。室内に静寂が戻る。

「あー……いい演奏だったな」
「曲としてはどうなの、って感じだったけどね」
「いいんだよ。エモーショナルなプレイでパッションがエクスプレッションされただろうが。それがパンクだ、たぶん」
「たぶん、かあ……」

 軽口を叩き合うのと同期して、空間を構成していた物体が消滅していく。
 白く染まっていく世界の中で、背の高い少女は、将来の展望を口にしていく。

「まあ、曲を合わせるばっかりが練習じゃないだろ。幸いにして、合同練習の回数は結構多く取れてるんだしさ」
「そうだねえ。たまにはこんな感じでも、いいかな」

 部屋が構築された時と同様の、白い空間。
 向き合って立つ二人の他に、実体感を持つものはない。

「そうそう。時間は沢山あるって言っちゃうのもまあ何つーか、意識低いんだろうけどさ。私たちにはそんな感じのペースが一番合ってるんだよ、たぶん」
「たぶん、ねえ。折角いいこと言ってるのに、適当に終わらしたら台無しだよ」
「いい感じだったか? さすが私だな」
「だから、そういうのが駄目だって言ってんの」
「手厳しいなあ、まったく―――ってお前、何で泣いてるんだ?」
「――――――!」

 瞬間、背の高い少女の姿が消滅する。
 参ったなあ、反射的にやっちゃったよ、と呟いて、小柄な少女は涙を拭った。

「さて、どうしよっか……記憶を保存するなら、言い訳考えておかないと」

 今日の分の記憶を、彼女の人格を構成するプログラムに渡す。これで、彼女の連続性は保たれる。
 次に会う時、彼女は聞くのだろう。なんで別れ際に突然落ちた、なんで泣いていた、と。心配を顔に浮かべて、真剣に。
 応答を考えることには、少しの楽しさと、莫大な虚無感とが宿っていた。

「―――完璧に再現できてれば、か。本当に、馬鹿みたい」

 ごめんね、とひとつ呟いて。
 次の邂逅を思い浮かべ、少女は部屋をログアウトした。 

2012年11月12日月曜日

『雪もやを抜けて、君に』

 第十五回SSコンペ(お題:『一人漫談』)

 雪虫対策は、雪国に生まれた子供の宿命です。
 ……いきなり何を、とお思いでしょうが、特におかしなことは言ってませんよ。まあその、唐突ではあったかもしれませんけど。内容そのものはごくありふれた、自明と言ってもよいものでしょう。たぶん。おそらく。

 ―――ああ、雪虫をご存じない? それはいけません、これからする話に支障が出ます。では、簡単にご説明しておきましょう。
 雪虫とは、綿毛を纏った羽虫のような虫のことです。……ええと、そんな微妙な顔をされても困るんですが。詳しい生物学的解説がご所望でしたら、後でグーグル先生にでも尋ねて頂けると幸いです。本筋には関係ありませんので。さて、雪虫ですが。遠目に見ると、これが本当に雪と見紛うほど雪らしく飛びます。殊に、集団で風に舞う様子などは完全に雪のそれです。遠目で窓越しにとなれば、雪国が長い人でも騙されるんじゃないでしょうかね。
 
 彼らは大抵、昼過ぎから夕暮れ時にかけて現れます。冬の白い太陽を受けて、或いは夕暮れ時の茜色に紛れて色づく様子はそれなりに幻想的なものですが、しかし雪国の子供にそんな悠長な感慨を抱いている余裕はありません。
 先にも言いましたが、雪虫は虫です。羽虫です。群れになって飛びます。その群れの中に突っ込んだら、さてどうなるでしょうか?

 くっつきます。死ぬほど。顔面が羽虫だらけ、眼鏡を掛けていればまだ良いものの、裸眼であれば洒落にならない事態が発生します。鼻にも口にも雪虫が侵入、秋物のコートはまだらに雪化粧されます。
 まあそれはいいよ、仕方ない、と考えたとしましょう。顔面はまあ不快だけど気をつけよう、服についた虫は後でほろえばいいや、と。そして家に帰ったあなたは体や服についた雪虫を強く弾きました。

 死にます。すごい勢いで死にます。

 背中に背負った綿毛を血痕のごとく引きずって轢死します。雪虫の脆弱さには凄まじいものがあります。顔面も服も今や羽虫の死体まみれです。これは気持ち悪いし罪悪感がひどい、と気分が鬱ぐこと請け合いですね。
 よし判った、不殺を貫こう、とあなたは考えました。払ったら死ぬのだから、空気で弾き飛ばそう、と。優しく鈍角に、息を吹きかけたとしましょう。

 それでも半数ほど死にます。むしろ付着した時点で瀕死の個体が割と多数派です。
 どうしたって死ぬのかよ、と落胆したあなたの視界に白い雪が舞います。まさか、と思って天を仰げばそこには無数の雪虫。なぜ、死んだはずでは、そう思ったあなたは一つの可能性に思い至るでしょう。

 そう、髪です。優れた柔軟性とトラップ力の低さを兼ね備えた理想の離着陸場、それがあなたの髪です。うわあと思って手櫛をさせば白粉のような粉末と羽虫の死体。そう、生きたまま付着したとはいえ、触ればやっぱり死ぬのです。あなたは愕然としながら、頭を洗って彼らを根絶やしにするか、或いは彼らを全て頭から離陸させるかの選択を迫られることになるのです。
 離着陸場と化したあなたは失意の中でこう思うことでしょう。どうやって除去するかではない、付着させた時点で完璧に負けているのだ、とね。

 ……以上が、わたしがあなたに騎乗槍突撃のような体で突っ込んでしまった顛末ですね。自転車に乗りながら彼らを避けるとなれば、傘を前方に構える以外に道はありません。流線型のフォルムにすべすべの表面、正に雪虫対策のためにあるような形質です。多くの命を殺めずにいられたけれど、こうやって一人の人間を害してしまったことは残念でなりません。不幸な事故と言うほかないでしょう。これは一種の緊急避難と解釈されるべき案件なのではと考えます。
 そんな訳で許……さない。ええ、そりゃあそうですよね。ですがあの、できるだけ痛くしないで欲しいんですけれども。善処はする、はい。えっ、そんな表情には見えな―――。

2012年11月3日土曜日

『映画みたいに』

第十四回SSコンペ(お題:『真実』)

 小学生の時分に親が離婚して、ほどなく再婚。
 鏡映しの、対称な境遇。互いに一人っ子だった少年と少女は、妹と兄を得た。
 とはいえ、物心のついた小学生。無邪気に仲良くなれるほどには幼くもなく、割りきって振る舞えるほどには大人でもなく。互いに躊躇し、遠慮しているうちに、それが当たり前になってしまった。
 踏み込めばきっと何かが変わるはずだと感じてはいても、実際に動くには気が重い。そんな、どこか寂寞とした緊張感の漂う関係性は、両者が中学生に上がっても続いていた。



 変化の切っ掛けは、少年がレンタルビデオ店でふと見かけた、古い作品だった。映画にさほど興味のない彼でも、名前だけは知っている洋画。
 たまには古い映画でも観てみようかと、少年はその作品を借りて帰った。

 少年はとした空気の流れる作品だった。普段観ているアクションやサスペンスとは違うけれど、なるほど、悪くない。そんなことを思いながら観ていると、彼は傍らに人の気配を感じた。
 ふと視線を上げると、そこには妹がいた。彼女は立ったまま、目配せをする。兄が軽く頷くのを見て、少女は静かに腰を下ろした。二人分の重みをうけて、ソファが軋む。
 きぃ、とスプリングの立てる僅かな音。収まる家へ帰ると、居間で視聴を開始した。
 ゆったりと、すぐに静寂が戻る。

 小さな変化も意に介さず、映画は淡々と進み、やがて終わる。
 少年はデッキを操作しようとして―――傍らから注がれる視線の存在に気づいた。じっと見つめる、妹の目。
 少年は少し考え、リモコンを妹に渡した。彼女は会釈を返して、巻き戻し操作を行う。教会のシーン、男女の戯れの様子が画面に映ったところで、巻き戻しが止められる。
 静かに見入る少女を眺めて、少年は内心で微笑ましいものを覚えつつ、自室に戻った。 



 翌朝。寝起きの少年が目にしたのは、視界いっぱいに広がる、彫刻めいたはりぼてだった。
 昨日、映画で観たばかりの形。絶句していると、はりぼての後ろから少女が顔を覗かせる。

「おはようございます。ローマの名所が朝をお知らせします」
「おはよう―――まさか無生物に起こされようとは」

 想像もしなかった、とわざとらしく呟く。
 軽口に軽口で応じてみたはいいものの、果たしてこれが正しい対応だったのか、彼にはわからなかった。
 間違ってはいないはずの自然な流れに、浮ついたような雰囲気が付き纏う。

「兄さんの目覚まし時計、生きてたんですか」

 眉も動かさずに言ってのける。
 冗談なのか、突っ込みなのか、天然なのか―――少年が二の句を継げないでいると、冗談です、と少女は漏らした。 

「しかし、一晩で作ってのけるとは……ちゃんと寝たの?」
「睡眠よりも優先順位の高い消費方法があるのなら、夜の時間はそのように使われるべきです」
「そのハリボテが?」
「ええ、極めて高い優先順位を」

 そうなんだ、と適当に納得する。そうなのです、と適当に相槌をうつ。
 寒々しいようでもあり、しかし阿吽の呼吸とも評せそうな、奇妙な距離感。

「という訳で。手を、どうぞ」
「……はい?」
「ですから、手を。口の中へ」

 言って、ずい、とはりぼてを前に押し出す少女。
 威圧感に気圧されつつ、少年は右手をはりぼての口へと差し込んだ。
 それを見届けると、少女は僅かに微笑む。

「では、質問を始めます」
「あー、そういう流れ」
「他にも候補が?」
「てっきり、映画通りのリアクションを求められているものかと」
「成る程。ですがまあ、今回は」
「質問だったね。いいよ、言ってみな」
「はい。では―――」

 少しだけ間を置いて、

「兄さんは、私を疎んでいますか」

 眉ひとつ動かさず、声色を変えるでもなく。
 それは、無造作に飛び込んで斬り付けるような問いだった。

「―――まさか。大事な妹だよ」

 彼自身驚いたほどに、平常通りの声。―――或いはそれこそが、動揺の証だったのか。
 言って、ゆっくりと引き抜きに掛かった、その動きは止められた。
 はりぼての向こう、彼の手をしっかりと握る、彼女の手。

「嘘ではないにしろ、本当でもないらしいですね」
「……そもそもこういうのってさ、先にいくつか無難な質問してから最後にやるもんじゃないの」
「刑事ではありませんし、妻もいませんから」

 ―――本題から入った方が、無駄がないでしょう?
 そう呟く少女の顔には、一片の稚気すらも浮かばない。状況の奇矯さと合わさって、ひどく滑稽だった。
  
「仲の良い兄妹、だと思うけどね」
「傍から見ればそうでしょうね」
「……いずれ打ち解けられるものだとばかり思ってたよ」

 言いながら、目を瞑る。
 その場凌ぎだと、言う前から判っていた。

「私もそうです。いずれ、ゆっくりとでも本当の妹になれるものだと」

 ですが、と呟いて。

「そうはならないって、気付いたんです」
「遠かったから?」
「逆ですよ。何も言わずに傍に居られる関係が、心地良すぎたんです」
「そっか。僕もだ」
「ええ、知ってました」

 大仰な演出に、唐突なやり取り。
 派手な仕込みが齎したのは、最後の一歩を詰める切っ掛け。

「今日は何か、用事はあるの?」
「いいえ、暇ですよ」
「そっか。なら、話でもしないか」
「どうしてそんなことを?」

 とぼける少女の顔には、隠しきれない微笑が浮かんでいて。

「大事な妹と、打ち解けたいと思ってさ」

 するりと抜けた手が、少女の頭を撫でた。

2012年5月29日火曜日

『ログアウト』

第十三回SSコンペ(お題:『雨』)

 見渡すかぎり何もない草原の、少し盛り上がって丘陵となっている部分にわたしは座っていた。見渡しても、視界を遮るものは何もない。全周にわたって地平線が確認できる。焦土でもないというのに木の一本すらも生えない土地。そんな不自然極まりない風景が成立しているのは、ここが仮想空間であるがゆえだ。
 極限までオブジェクトを削った機能的なマップと、しかしプレイヤーを魅せようと作りこまれた空のテクスチャとの狭間。体験型3DMMOの世界を完全なものとするにはPCスペックの足りなかった時代に、それでも最善の体験をと構築された旧世代の楽園。わたしがいるのは、そんな場所だ。

 作り物の太陽が天球を移動するのを眺めながら、視界の端で徐々に人が増えていくのを確認する。催しを前に、続々と集まってきているらしい。そのままぼーっと天を見上げていると、何とも形容しがたい音を合図に、青白い魔方陣が中空に出現した。光の模様が上から下へと宙をなぞった後に、フードをかぶった少年のアバターが立っていた。
「お、早いじゃん。さすがは真面目さん」久々に聞いた声は、変わらず稚気に溢れていた。
 魔方陣から出てきた少年はわざとらしく手を振るモーションなどしてみせてから、わたしの隣に腰を下ろす。
「久しぶりだってのに、随分と感動のない挨拶ね。らしいって言えばらしいけど」咎めるように言ってみせると、ますます彼は笑みを深める。

 わたしたちがこのゲームを主戦場としていたのは、随分と前の話だ。二人はここでの繋がりをどこにも持ち越していない。示し合わせて同じ新作に移住することもなく、各々が好きなように違うゲームへと活動の場を移していた。
「おー、来てる来てる。あんなに過疎ってたってのに、こういう機会があれば余裕で集客できるんだ」彼がひさしのように手を掲げて、遠方を見渡しながら言う。
 倣ってわたしも目を凝らすと、草原の至る所に魔方陣の出現する様子が見えた。刻限が近くなってきたからか、現れる魔方陣の数は飛躍的に増加している。この瞬間だけ見れば、現役のゲームと言われても疑うものは居ないだろう。そのくらいの数だった。
「まあ、そりゃあ……ね。でもまあ、何度もできやしないでしょ、こんなイベント」
 新作が発売される度に長足の進化を遂げるMMO界隈の、数世代も過去の作品である。何のリソースも追加されなくなった世界で可能性を食いつぶす作業に熱中できる人種はそう多くはなく、昨今の過疎化はもはや、作品世界の成立すらも阻害する域に達していた。こうまで人の集まったことが、過去何度あったろうか。そんな問いすら浮かぶほどに、遠い光景に見えた。
「わからないよ? ……ほら、あるじゃない。現実世界にもさ。閉店セールと開店セールを繰り返す店っての」薄っぺらい微笑みを貼り付けて、彼が言う。
 つまりは、そういうことだ。わたしたちは、世界が終わる様を見届けるためにここにいる。
 
 草原がマップ端まで人で埋め尽くされた頃に、運営らしきアバターが現れた。運営サイドの発言に傾注するのも久々だな、と気を引き締める。
 挨拶もそこそこに、運営サイドからの感謝の言葉が述べられていく。長期間に渡ってプレイしてくれたこと、こうして最後のイベントに大勢で集まってくれたこと。どこかしんみりとした空気が漂う中、新作に移っても変わらぬご愛願を、と〆た辺りはさすが商売といった風情で、少し笑った。
 やがて、話も終わる。一種異様な緊張が、俄に場を満たしていくのを、HUD越しに感じた。
「さて、最後に一つ、サプライズをご用意しております。尤も、内容は事前にリークされてしまっているようで……だからこそこの人数、ではあるのでしょうが」言葉を切ると、運営のアバターはゆっくりと時間をかけて草原を見渡し、
「―――本当に、最後のお別れです。ごゆっくりお楽しみください」そう言い残して、消滅した。
 直後、世界の崩壊が始まった。

 誰が企画したのか、正式なサービス停止に伴うデータの破棄に際して、徐々に落とされていく仮想世界の崩壊を内部から眺めてみようという、頭の螺子の外れた催しだ。アバターの維持に必要なデータだけは最後の最後まで保護され、重要度の低い情報から順に、マトリックスの向こうへと沈んでいく。どんなものが見えるかは予測不可能、最後に相応しい自棄気味のアトラクション。
 2進数で表現された世界の欠落は、すぐに視覚の異常という形で現れた。抽象画のような描像が宙に浮いては消え、景色が遠方から、霧のように輪郭を失っていく。わたしたちは少しでも長く正常な領域に留まることを選択したが、進んで世界の端に消えていく者たちも少なくなかった。どこへ行けば面白いものが見られるか、どこで終わりを観測したいか。人の数だけ、思惑があるのだろう。
「いやー……予想してたつもりだけど、これはすごい。イカれてるね」柄にもなく、本当に感嘆している風な声が隣から聞こえる。からかってやろうかとも思ったが、度肝を抜かれているのはわたしだって同じだ。
「テクスチャは殆ど滅茶苦茶ね。あ、魔法撃ってる連中がいる。あーあー、バグっちゃって……」見慣れたはずの魔法エフェクトが歪む様に、当事者も野次馬も歓喜に湧いている。もはや狂騒的と言うほかない盛り上がりっぷり。
「葬式と通夜と告別式が一緒に来たようなものだからねえ。テンション上がっちゃうのも仕方ないでしょ」心底楽しげな声色で少年が言う。どうやら調子を取り戻したらしい。
「ずれてる上に不謹慎」横目で伺うと、嬉しそうに笑う彼の表情が見えた。わたしたちはそのまま、動かずに崩壊を眺めていた。

「――――――雨?」
 暫くして、もはや正常な部分を探すほうが難しくなった世界に、誰ともない呟きが響いた。見ると、空から無数の線条が降り注いでいる。何がどうなった結果の描像かは判らないが、空間を埋める黒い筋はなるほど、雨に見えた。気づけば、大勢の人間が空を見上げていた。
「確か、新作では天候の再現も売りにしてるんだっけ?」少年が天を見上げたまま呟く。
 快適なプレイのために多くを切り捨てざるを得なかったこのゲームに、リアルタイムで雨粒をレンダリングする機能など備わっていない。見られるはずのなかった光景に、誰もがただ、空を眺めていた。
「最後の最後に仕様外の天候エフェクト、ね。何というか、出来すぎ」
 そんな言葉が口をついて出たものの、わたしは何かしら、衝撃を受けていたように思う。老いた世界の最後の徒花。力を振り絞った果ての、異常に蝕まれた末の奇跡。あまりにも読み込みが過ぎる、とは思うものの。
 皮肉を好む彼にしては珍しく、少年は追随してこなかった。

 それから、どれだけの時間が経ったのか。天も地も白く染まり、さながら合成写真用のスタジオのような様相だ。情報の少ない部屋に人間を閉じ込めると精神に良くないとは聞くが、なるほど、これはつらい。耳を嬲るホワイトノイズと、雨のような線条の動きだけが、世界がまだ終わっていないことの証左だった。
「おーい、まだ生きてる?」隣のあたりの空間から、ノイズでひび割れた声が聞こえる。
 もはや視覚で他アバターを捉えることはできない。代わりに、この空間のあちこちで、声を上げて残留を主張する者たちがいた。わたしと彼もその一部だ。定期的に声をかけ合っては、互いに存在を確認する作業。
「生きてる。何となく周囲の声も減ってきた感じだし、そろそろ終わりが近いのかしら。そうでなければ」
「僕らの聴覚系が死に始めたのかもね」途中で遮って少年が言う。「まあ、冷静に考えれば両方かな。せっかくだし、最後の最後まで見てみたいけど」
 いつになく真面目な声色で喋る彼に引っ張られたのか、何なのか。柄にもなく、感傷的なことがしたくなった。
「―――ねえ。新作でまたパーティ組まない?」何気なく漏れた、風に聞こえたはずだと思う。無言が続く。顔が見えないだけに、俄に不安感に襲われる。
 今のなし、とでも言おうかと考え始めた頃合いに、「なんでまた」と、驚いたような声が聞こえた。よくよくキャラの崩れる日だ、と内心笑う。
「……じゃあ、雨が降ったから、ってことで」
 言い終わると同時に、視界が真っ白に塗りつぶされる。一方的な約束を最後に投げて、わたしたちは世界の終わりに立ち会った。