2024年 03月 27日
前涼・前趙・東晋 |
張駿時代の前涼の対外関係は複雑怪奇.史淑に諷(仄)めかして,官爵を得る事ができ,建興を使用し続けた.一方で張茂の時代から引き続き前趙から涼王に冊封された.324年5月のことである.その後,12月には前趙に遣使もしている.その後,327年5月には,『通鑑』によると,前趙が後趙に敗北を喫したことから,「乃去(前)趙官爵,復称晉大将軍・涼州牧」とある.ということは,史淑を通じて得た西晋の大将軍・涼州牧はお蔵入りだったのか.ではこの間,前趙の元号を奉用していたのか.324年は前趙の光初7年,327年は光初10年だが,そんな元号を紀年にした文物は見つかっていない.たしかに涼王を名乗ったほうが領内にはにらみがきくだろう.なので領内では,西晋の元号を奉用しつつ,前趙からもらった涼王を称した,なんていうことはないだろう.涼王号を止めたら,それだけ領内における権威も失墜してしまうはずである.そして遅くとも333年には,前涼の使者が東晋に達し,鎮西大将軍を授与されている.さらに翌334年にはあらためて東晋から大将軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事に任じられ,以後は毎年のように使者を東晋に送り込んだ.前涼から東晋への使者が何時姑臧を発ったのかはなかなかわからないのだが,後趙が前趙を滅ぼし,その勢力が河西にも及んだことに脅威を感じた前涼が,新たに生み出された華北の後趙一強時代に対処するために,東晋との関係を模索したということではないか.直接に後趙が前涼に攻め込んだという記事はないが,前涼もこの状況変化の影響を被っていたことは確実だからである.
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by s_sekio
| 2024-03-27 20:58
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