slm's tumblr
pdl2h:
“六本木にある新国立美術館の1階のレストラン。
”

pdl2h:

六本木にある新国立美術館の1階のレストラン。

鞘師里保が卒業した年には「RED」、そして工藤遥が卒業する年に「ハルカ」を発表するB'z。笑

二次の下請けが、ラッパを吹き鳴らした。すると、Javaは3年目です、というエンジニアのようなものが、現場に投げ込まれた。そして、現場の三分の一は血となり、現場の中の造られたソースコードのの三分の一は死に、開発環境の三分の一がこわされてしまった。

#IT神話

一次の下請けが、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじったソースコードと火がついた設計書があらわれて、現場に降ってきた。そして、現場の三分の一が焼け、エンジニアの三分の一が焼け、また、すべてのソースにバグが出てしまった。

#IT神話

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歴史あるメディアは嫌われる問題

youkoseki:

新聞、雑誌、ネット専業メディア、なんでもいいが、たとえばそういうメディアが、なにか鋭い意見の記事を出して、話題になったとする。すると「でもこのメディアって前はこうだったじゃん」という人が現れる。それは一週間前に書かれた正反対の意見記事であったり、半年前に思いっきり滑ったジョークだったり、一年前のポエミーな記事であったり、三年前の誤報であったり、25年前の不祥事であったりする。

「ここではいいこと書いてるかもしれないけど、前はこうだったじゃん!」と。

こういう古い話をいつまでも持ち出してくる人の気持ちは、もちろん分かる。私自身、とても執念深いので。

それはそれとして、インターネット時代のメディアというのは、速報性も網羅性も求められるわけで、たいへんである。ニュース現場から記者がTweetするというのも今では珍しくない。日々、難しい社会の問題について沢山の情報を他社に負けないスピードで配信する必要がある。

そうすると、当然失敗が起きる。誤報や不祥事のように明確な失敗もあれば、線引きの難しい問題に突っ込んでいったり、賛否が分かれている問題に意見を伸べて、一部の人々を怒らせることもある。まあでも、それがメディアの仕事でもある。

結果として、歴史を重ねれば重ねるほど、メディアは嫌われていく。「あの時の誤報が許せない」とか「あの時の書き方はひどかった」とか「あの問題で私と全く意見が合わなかった」とか。正直な話、長く続くメディアはみんな嫌われていると言っても過言ではない。歴史があって、だからこそ信頼しているメディアが、皆さんの心の中にどれだけあるだろうか?

もちろん、時には「なんて素晴らしい記事だろう。このメディアのことが大好きになってしまったし、過去にはひどい記事もあったけどこれで帳消しだ」と思うこともあるかもしれないけど。ないですかね?

一方、ネットで毎日のように新しいメディアが生まれていて、クリックしたくなるタイトルがあれば、歴史による信頼はなくても、ソーシャルメディアで拡散していく。LINEやFacebookやTwitterや流れてくるニュースをクリックするまえに、人は「おやおや、この配信元メディアはどこかな」なんてあまり考えないし、クリックしたら読んでしまう。ヤフーやSmartnewsといったニュースアグリゲーターでも、同じ力が働く。

以上を考えると、メディア業界の生きる道は、新しいピカピカのメディアを次々に作って、小粋なタイトルと議論を呼ぶ内容で嫌われるまでアクセスを集め、嫌われたら潰す、というものなのだろう。

私はいまメディア企業で働いていて、一つのメディアを長く持続させられたらいいなと思っているけど、そういう考えはもう古いのかもしれない。

そして、長く発信すればするほど、長期的には徐々に嫌われていくというのは、メディア以外の企業や、個人においても見られるパターンのように思う。つまり長生きは損なのだ、と。

嫌われるウェブ2.0

youkoseki:

クックパッドがハチミツを利用した離乳食レシピや、豚ユッケを掲載していた件で、批判を集めている。CGM(Consumer Generated Media)やウェブ2.0なんて言葉が死語に近付きつつある中、こうしたCGMサービス、Web 2.0企業に対する逆風が今になって強まっているのは偶然だろうか。

一番の例は、Naverまとめだろう。Naverまとめは誰でも投稿できるCGMプラットフォームだが、他者の著作物を転載、再利用したコンテンツが散見されながら、プラットフォーム側はその対応を十分に行っていないと言われている。無断転載はブログ時代にもあったことで、CGMと無法者の関係は今にはじまったことではない。しかし、これまでその矛先はブログ著者など個人に向かうことが多かった。今や批判は「まとめ主」など投稿者よりも、プラットフォーム側へ移りつつあるようだ。

似たような例として、海外でのYouTube騒動も挙げられる。こちらの問題は、一部の政治的なコンテンツ、いわゆるヘイト動画に、広告が掲載されてしまうことだ。広告収益が投稿者にも還元されるため、ヘイトを配信することにインセンティブが発生してしまうし、広告主としてはヘイト動画を支援しているように見られてしまう。そもそもはそんな動画を投稿するのがいけない、という意見もあるだろうが、そうした批判はもはや今更ということなのか、矛先はプラットフォームであるYouTubeへと向かっている。

なぜプラットフォームにこのような批判が集まるのだろうか。矛盾するかもしれないが、一つにはプラットフォームが強くなりすぎたのだろう。ひどい投稿への文句は投稿主へ、その収益は原則プラットフォームへ、という米国のDMCA、日本のプロパイダ制限責任法のありかたは、プラットフォーム企業が大きな収益を上げる今となっては、あまりに企業へ有利に見えてしまう。あの企業はパクリコンテンツ、ヘイトコンテンツで儲けている! という声は極端ではあるが、完全に間違っているわけでもない。

しかし、それ以上に感じるのは、CGMもそれなりの歴史を経て、多くのネットユーザが「自分たちのプラットフォーム」と捉えづらくなっているのでは、ということだ。ブロガーも、まとめ主も、クックパッドの投稿者も、自分以外の「他人」で、そうした他人の、少なくとも一部が質の低いコンテンツを作り、検索結果を占拠し、中にはお金まで貰っておいて、まわりに迷惑をかけている……それが平均的なネットユーザにとってのCGMの現在なのではないか。

有名ブロガー、YouTuber、インフルエンサーなど、CGMを駆使するセミプロフェッショナル層が一般化したため、本当の一般層と乖離し、一般にCGMはもはや投稿する場所ではなく、ただ見る場所と捉えられるようになったのも、背景にあるのかもしれない。

ウェブ2.0が生まれ、CGMが持ち上げられていたときは、もっと明るい未来が約束されていたはずだった。これまでマスメディアだけが保有していた情報発信の力が一般人に開放され、ネットユーザに声が与えられることで多様な知識がオンラインに集まり、そこから集合知が生まれる……そう喧伝されていたものだ。

それなのに、結局のところ平均的なネットユーザは、Twitterで呟く以上の情報を発信しないままである。いまや集合知など誰も信じない。情報発信をしているのはごく一部で、それも金儲けのためが大半で、そのためにはヘイトでも炎上でもなんでもやる……そういう例が目立ってしまう状態が、CGMの顛末なのかもしれない。

もっとも、どんなコミュニティも常連ユーザが生まれ、その反対に新規層がアクティブに活動できないと、そうした停滞感は生まれてくる。そう考えると、本当の問題はウェブ2.0が嫌われていることよりも、ウェブ3.0が来なかったことなのだろう。

パクリメディアに画像等をパクられていないか確認する方法としては

site:パクリメディアのURL+半角スペース+自身のサイトURL等

で検索することが多い

成人式で派手に装うのは、地元で生きていくって決めた子たちなんだよね、きっと。
成人式で派手に装うのは、地元で生きていくって決めた子たちなんだよね、きっと。