僕がよく読んでいる経済系ブログに
田中秀臣さんという方と
bewaadさんという方によって書かれているものがある。
ところが最近、田中さんが出版した
『デフレ不況』(朝日新聞出版)という著作をめぐり、お二人のあいだで論争が起きている。両方を読んできた僕としては寂しい限りの話なので、お二人の論争を僕なりに整理してみたい。無論、経済学についてはまるで無知なので、「耳から脳みそが出ている」と言われても仕方がないと思っている。
まず、「日銀はなぜリフレ政策を採用しないのか」という問いに対して、とりあえず以下の3つの説を提起してみたい。
(1)陰謀説
「日銀の利益にとってデフレが継続することは都合がよい」という利己的な目的に基づいてリフレ政策を採用しない。つまり、その理由は「欲望」。
(2)無能説
「日本の景気が悪いのはわかるが、どうしていいのかわからない」ので、とりあえずこれまでの政策とできるだけ矛盾しないような方針を採用し、過去の責任を問われないようにしている。外部からの批判にも弱いので、「デフレの定義もいろいろ」と言ったり、「デフレです」と言ったりする。つまり、その理由は「保身」。
(3)信念説
「デフレよりもバブルのほうが脅威である」、「日本にとってリフレ政策は有害である」という信念に基づき、日銀法の規定は忘れてインフレ抑止にのみ中央銀行の使命を見いだしている。つまり、その理由は「考え方の相違」。
この分類を頭に置いて田中さんの著作を眺めると、とりわけ(1)と(2)の分類に当てはまりそうな記述が多いように思う。
たとえば、(1)については、「日銀は主要な天下り先である地方銀行や短期会社を保護するため、ゼロ金利政策などを避ける傾向があるのではないか」という堀内昭義・清水克俊の両氏の見解や、「伝統的日銀マンにとっては、金融緩和は自分たちの権力と存在意義の衰えであり、金融引き締めは権力の誇示、存在意義の発揚になる」という中原伸之氏の見解が紹介されている(pp.160-161)。
(2)については、日銀の企画局における「官僚の無謬性」に関する記述が当てはまるのではないだろうか。この日銀の無謬性に対する固執のため、自らの過去の過ちを認めることもできず、前例を否定するような批判や政策的改革も認められないと述べられている(p.60)。
ただ、田中さんの主たる強調点は、おそらく(1)というよりも(2)に近いんじゃないかと思う。実際、ご自身のブログで田中さんは日銀が「特定のミッションをとっているようにはまったくみえない」と述べている。
それに対して、bewaadさんが危惧しているのが、(3)の可能性ではないだろうか。つまり、彼らは利己的に動いているわけでも、保身に走っているわけでもなく、ある意味で信念をもって現在の反リフレ的な政策を採用しているのではあるまいか、ということだ。bewaadさんの「日銀にはマイルドインフレ実現よりバブル防止を優先すべしというミッションが課せられている」という言葉を僕はそのように解釈した。無論、日銀とて世論の動向にも気を使っているので白川総裁の発言が妙にブレたり、小手先の政策変更をやったりもするが、基本のところ(実質的なデフレターゲット)は頑として変えないということになるだろうか。
もちろん、(1)(2)(3)はあくまで理念的な分類なので、実際にはこれらの動機が混ざり合っているのだろうし、これ以外の要因も働いているかもしれない。ただし、上述の分類のうち、リフレ政策を採用しない主要因がどれなのかによって日銀へのアプローチの仕方も変わってくる。
(1)が主要因のばあい、その陰謀の根を断つことが必要だ。つまり、彼らの陰謀を白日のもとに晒し、日銀からパージするなりそれこそ貨幣洗浄のお仕事にまわってもらい、本当に日本の金融政策を危惧している人たちに日銀を委ねるべき、ということになるだろう。
(2)のばあい、そこまで極端ではないにせよ、日銀のガバナンスを改善し、政策委員の人選をもっと公正なものとするとともに、日銀理論に固執する企画局ではなく調査統計局に主導権を委ねるというような形になるかもしれない。まあ、このあたりはここでの話にとってそれほど重要ではない。
問題なのは、(3)が主要因だった場合だ。つまり、彼らが現在の日銀の方針は「妥当」または「それに代わる選択肢がない」と本気で信じている場合である。
この場合、日銀の中の人のイメージは上述の(1)や(2)とは全く違ってくる。(1)や(2)のばあい、なかには優秀な人物もいるかもしれないが、基本的には欲望や保身に身を委ねており、「国益」のことなど全く眼中にない姑息な連中ということになる。ところが、(3)のばあい、彼らは「国益」のことを真剣に考えており、信念をもって日銀理論の妥当性を信奉しているということになる。まさに平成の関東軍といったところだろうか。
もし(3)が主要因のばあい、(1)や(2)の場合よりも、日銀の金融政策への介入に対する彼らの抵抗はより激烈なものとなるだろう。なにせ彼らには信念があるからだ。欲望や保身が原動力ならガバナンスの変更で対処可能なのかもしれないが、人の考え方を改めるのはとても難しい。
実際、半径5メートルの話で恐縮だが、保身とかそういうのではなく、日銀OBの大学教員は本当に日銀理論を信じているんだなあと感じたことがある。その人物はリフレ的な主張に関して、金融がわかっていない連中の戯言といった感じで切り捨てていた。bewaadさんが「自らの分析は誤りで、田中先生と同じ意見であればと切に思っている」というのは、そういうことなのではないだろうか。
ただ、(3)が主要因のばあい、日銀の中の人は基本的に真摯なので、日本の経済学会の大多数がリフレ政策を支持するのであれば、それに従うのではないかという期待もある。すなわち、(3)の想定はある意味で性善説的な発想に乗っかっており、説得の余地もまたあるということになる。bewaadさんが日本の経済学学界でのコンセンサスを気にするのも、たぶんそのあたりに理由があるのだろう。
というわけで、田中さんとbewaadさんの対立点を僕なりの観点から整理してみた。想像するに、世間的には利権と天下りのことしか頭にないと見なされているにもかかわらず、(それが正しい方向を向いているかどうかは別として)実際には極めて真摯に仕事をしている官僚たちのあいだで働いているbewaadさんには、(1)や(2)での説明には素直に首肯できない心情が働いているのではないだろうか。
なお、田中さん自身もブログで言っているように『デフレ不況』は日銀のガバナンスだけを論じた本ではなく、リフレ派の論点を幅広くカバーしたものだし、記述も平易で読みやすい。なので、この種のテーマに関心がある人は読んでみてはどうだろうか。
(追記)
ちなみに、僕自身も『デフレ不況』は面白いと思いながら、ちょっと複雑な感覚を覚えるのも確かだ。
ブログ論壇を見ていてもそうなのだが、社会問題を論じるときに、非常に単純化された説明を目にすることがある。たとえば、「子どもたちの学力が低下しているのは日教組が悪いからだ」、「経済格差が広がっているのは小泉改革が悪いのだ」、「日本の景気回復の足を引っ張っているのは労組だ」、「政府財政が悪化しているのは官僚が悪い」、「若者がフリーターや派遣になるのは若者自身に原因がある」といった類の話だ。
こういう話を聞いて「いやいや、ちょっと待ちなよ」と思うのは、僕だけではないだろう。つまり、それらの問題の根底にはもっと幅広い社会的、経済的あるいは言説的な要因があって、単純に単一の要因に起因させることはできない、と考えるわけだ。リフレ派と呼ばれる人たちにもそう考える人はいるんじゃないだろうか。「世の中、もっと複雑だぜ」、と。
ところが、その経済的要因について考えようとするときだけ、「日銀が悪い!」という論法に依拠するというのは、どうにも居心地が悪いのだ。もちろん、責任者というのは責任をとるためにいるのであって、物価に責任を持つ日銀が責めを負うのは当然だ。ただ、上で述べた「幅広い社会・経済的な要因」を論じることに慣れた身からすれば、日銀がリフレ政策に否定的なのは、実は組織内的な要因だけではなくて、もっと幅広い要因があるのではないか、という疑念がどうしても浮かんでくる。
つまり、日銀の組織内部の話のみならず、その日銀の価値観を支える支配的な言説の構造がそこにあるのではないか…、だとすれば対決すべきはそうした言説の構造ではあるまいか…というような話になってしまうのだ。
もちろん、そんなのは責任回避の論法でしかないというのは確かなのだが、ヘタレ人文系としてはそういうことも考えてしまうのだ。ひょっとして、リフレ政策に対して反発が生じる要因のひとつには、「世の中、もっと複雑だぜ」という発想があるのかもしれない。
いやいや、ヘタレ人文系の戯言である。