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瓦礫からアートは生まれるか?「平成美術 うたかたと瓦礫(デブリ)」三木学

 

平成美術ーうたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019

平成美術ーうたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019

  • 発売日: 2021/02/20
  • メディア: 単行本
 

 

椹木野衣先生監修による、「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」展が今週末に閉幕する。緊急事態宣言下で始まり、まん延防止等重点措置下で閉幕するのは象徴的である。

「平成美術」の美術評論は椹木野衣の時代であり、椹木史観ともでもいえる「悪い場所」論をはじめ、椹木先生の打ち出す歴史観や世界観は、その後、日本のアート業界全体に大きな影響を与えている。今回は、椹木先生の評論活動とそのまま重なる「平成」「美術」を大胆に読み取る試みになる。

 

1989年に始まる「平成」は、そのまま冷戦の終結グローバリズムの幕開け(と終焉)を表している。敗戦後日本は、国土の徹底的な爆撃によって焦土と化したにも関わらず、すぐさま東西対立が始まり、地政学的に西側に位置付けられたために、資本主義マーケットの中で、安価の労働力と、アメリカからの技術輸入を受け、いわばかさ上げされた実力で、「技術立国」としてGNP2位までかけのぼった。しかし、それは仮初にすぎなかったことが、失われた30年!の中ではっきりしたといえる。

 

悲しいかな、日本のマスコミは、まだ技術立国と呼称したりするが、科学技術の実態を理解している人は多くはない。アメリカの技術的支援と、西側陣営の市場の開放によって優遇されていただけなのだ。まさにアメリカの傘の下で、疑似的鎖国の中でぬくぬくしていたのが戦後であった。その最後のあだ花がバブル経済であった。

 

ただ、芸術に関しては不遇であった。というのも、まだ赤狩り以前のGHQによって、皇族、華族、財閥、大地主の既得権は徹底的に解体され、天皇家以外の国民はすべて平民になっため、芸術をコレクションするような富裕層が不在になったからだ。前衛作家はアンデパンダン展で売れない作品をやけくそで発表し続け、幾人かだけ渡欧・渡米し世界のシーンで認められるようになった。その他のクリエイターは、漫画やアニメ、ゲームなどの大衆文化の中で、創作活動をすることがメインストリームになり、現代美術家は大学に寄生するマイノリティに過ぎなかったのだ。「悪い場所」は、このような戦後の非階級構造の問題もある。

 

それが変わるのが1989年で、現代美術は現代アートとなり、漫画やアニメ、ゲームなどのサブカルチャーの世界的な人気をベースに、現代アートの文脈に置き換えて、世界のシーンで注目されるアーティストが登場する。その一部は、世界のキュレーター、ギャラリスト、コレクターに認められ、日本の「悪い場所」の「輪廻」から解脱した。いっぽう、日本にとどまったアーティストたちは、地域で勃興した行政主導の町おこし的芸術祭という新たな活躍の場がうまれた。その2つは明確に分けられるものではなく、相互に影響し合っているが、ときに揺れる不安定な湿地帯の日本では、物理的に形を維持しつつ残すのは難しく、必然的に瓦礫化していく運命にある(例えば、維持するためには、式年遷宮のように再演を繰り返す方法がとられる)。

 

本展では、冷戦下を象徴する巨大な壁に、30年間の大年表を作り、イデオロギーの塀が崩れ、階級がなくなり、グローバルに開かれた世界の中で、逆に梯子を外されて瓦礫(デブリ)になっていく状況が展開された(むしろ、この不安定な世界を受け入れていた明治以前ならば、デブリにならかったかもしれない)。

 

ここに登場する14組のアーティストは、今日ではコレクティブと言われる集団であるが、継続しているグループもいれば、すでに解散しているグループも多い。あるいは、すでに作家はおらず再制作のために一時的に集まった国府理のプロジェクトなど、アーティストグループでもないプロジェクトや運動も多い。それらはバブル=泡沫のように一時的に集まり、すぐに離散し、ゴミとして岸に打ち上げられ、デブリと化しているといった様相である。

 

展示もモダニズム的な等価なパーテンションではなく、相互に組み込まれ、どこからがどこのグループの展示なのか判別しにくい。そもそも、それぞれのグループの展示すら、どこまでが作品でどこまでが資料なのか判別がつかないので、その混乱はさらに深い。とはいえ、それはリサーチベースの近年の現代アートも同じような現象ではある。そういう意味では、コンプレッソ・プラスティコやアイデアル・コピーのような90年代初期に活動していた作家は、洗練されたフォームを持っており、際立って見える。それがぐちゃぐちゃに変わるのは、95年以降であろう。95年は、まさに椹木先生のいう平成の「傷ついた時間」を象徴的に表しており、バブルの余波が本確的に終わった年であった。

 

阪神淡路・大震災、東日本大震災を中心として国内の災害が続いた状況の中で、60年代の前衛とは違った形でアーティストたちが集まり共同作業をしてきた歴史が本展には現れている。それらが「平成美術」の代表作とは言い難いが、象徴的な運動群ではあるだろう。

 

本展は、日本三大随筆とれる一方、日本初の「災害のルポルタージュ」と言われる鴨長明の『方丈記』が着想の一つであるという。『方丈記』は「方丈庵」で記された。美術館という西洋由来の堅固で巨大な建物ではなく、解体も移動も可能な「方丈庵」こそが、建物が解体し、社会が解体し、価値観が解体する中で、生き抜く一つの知恵かもしれない。

 

平成の終焉とともに、開国された日本は、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で、再び鎖国化している。残っているのは瓦礫(デブリ)だけかもしれないが、令和のアートは瓦礫(デブリ)から生まれる。そんな予兆を感じる展覧会であった。

光から始まったカラー写真『永遠のソール・ライター』三木学

 

永遠のソール・ライター

永遠のソール・ライター

  • 発売日: 2020/01/09
  • メディア: 単行本
 

 

先日、ソール・ライターの展覧会「永遠のソール・ライター」をJR京都駅に併設されている美術館「えき」KYOTOに見に行った。ソール・ライターが数年前からブームと言われるくらい人気が出ていたのももちろん知っていたのだが、何度か行われた展覧会を見逃していた。今回、なんとか行こうと思ったのも、スライドショーがあると聞いたからである。

 

ソール・ライターはほとんど無名の写真家であったが、2006年、ドイツのシュタイデル社から写真集『EarlyColor』が出版されたことにより、カラー写真の黎明期に驚くべき美意識を完成させていた写真家として一躍有名となった。日本では2017年にBunkamura ザ・ミュージアムで初回顧展が開催されブームとなっていく。そして、インスタグラムの隆盛とも重なったこともあり、スマホでソール・ライター風の写真を撮る人たちが多数現れるという現象が起こった。

 

日本の浮世絵を思わせる、大きく画面を遮る物体、大胆な構図、斜め上空からの視点、窓越し、雪や雨などの季節の変化、鏡やガラスの反射などが多用されており、日本人にとっても共感が得られる作風だったということも大きいだろう。スマホによって、すべての人が写真家になった現在、なかば芸術的写真のお手本のようになったといえるかもしれない。

 

ソール・ライターは、画家を志し、抽象表現主義風の絵画を描いていたが、それだけでは生計を立てられず、写真家としても活動するようになる。『ライフ』誌にエッセイ「The Wedding as a Funeral」が掲載されたり、ニューヨーク近代美術館の「Always the Young Strangers」展に選ばれたりしており、芸術写真家として知られていった。その後、『ハーパーズ・バザー』『エル』『ショウ』『ヴォーグ(英国版)』『クイーン』『ノヴァ』などのファッション誌で活躍する。しかし、1981年にはニューヨークのスタジオを閉じ、それ以来、まさに、忘れられた存在だった。

 

ただ、「なぜ、何が忘れられたか」が問題である。忘れられた要因の一つに、カラー写真の黎明において、カラー写真はその品質の安定性の問題もあり、芸術写真として認められていなかったことがある。カラー写真が「ニュー・カラー」として芸術写真の仲間入りをするのは1970年代である。ニューヨーク近代美術館の写真ディレクターは、エドワード・スタイケンからジョン・シャーコフスキーに代わり、1976年にウィリアム・エグルストンの個展が開催されている。

 

ソール・ライターの一瞬のうちに色のコンポジションを捉える感性と技術は、ファッション誌おいて活かされた。しかし、大量に撮影されたポジフィルムはほとんど日の目を見ることなく残されていた。当時、カラー写真はフィルムも高価であるし、現像も高価であったので、プリントされることはなく、雑誌用に印刷されるか、ライトボックスで見るか、大きくしたい場合はスライドショーで楽しまれていたのである。つまり、カラー写真の最初は、紙ではなく、光であったということだ。それは、写真機の発明以前にいおいて、カメラ・ルシーダなどの画家の補助器具が、当然ながら印画できないので、光として、色付きの映像として見られていたことを想起させる。

 

実際、1950年代後半には、ニューヨークのアートスペース「ザ・クラブ」において、カラー写真によるスライド・トークショーを開催しているし、1957年にはエドワード・スタイケンが「Experimental Photography in Color」において、ライターのカラー写真20点をスライドで紹介している。

 

すなわち、スライドショーがラー写真の最初の鑑賞方法であったということである。今回、デジタルプロジェクターではあるがスライドショーが行われており(アナログのスライド・プロジェクターのように回転する音を入れて)、ライターがどのように撮影された写真を見ていたか体験することができた。それは彼の視線と動線の内側から色のコンポジションなぞるような鑑賞方法であり、明らかにプリントされた写真とは異なる質を伴っていた。

 

ブレッソンがその完璧な構図の『決定的瞬間』を可能にしたのは、彼が画家出身で大量の構図のリファレンスがイメージの中に入っており、外界と照合された瞬間に、シャッターが押されていたからである。その理屈は、はカラー写真においても可能ではあると思うが、非常に高度なので、「お手本」となるような人物はいないと思っていたが、ソール・ライターはまさにブレッソンがモノクロで成し遂げたことを、カラーで実現しており、さらに、ブレッソンよりももっとさりげなく、日常の風景を切り抜くことに成功していることを改めて感じた。それはウィリアム・エグルストンよりももっと洗練されていると思える。

 

このように、写真史において幾つもの忘れられたものが、何十年も経て「現像」されるようなことが起こるのが、写真のもっとも面白いところであると思う。カラー写真が光から始まったということは、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。

 

関連資料

 

ソール・ライターのすべて

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和田三造が牽引した色彩調和論の結晶『配色辞典 応用編 大正・昭和の色彩と商品デザイン』三木学

 

配色事典 応用編 (青幻舎ビジュアル文庫シリーズ)

配色事典 応用編 (青幻舎ビジュアル文庫シリーズ)

  • 作者:和田三造
  • 発売日: 2020/03/23
  • メディア: ペーパーバック
 

 

日本は柳田國男が「天然の禁色」と指摘したように、江戸時代までの日本は基本的には天然の染料・顔料を使って、絵画や織物などを制作しており、鮮やかさには自ずから限界があった。ただし、その中においても、ベロ藍(プルシアン・ブルー)などの化学染料が少しずつ入ってきて、若冲などが先駆け、江戸末期には北斎や広重などの浮世絵に多用されている。

 

明治に入ると、19世紀に西洋で発達した化学染料や顔料が大量に入ってくるが、それらを受容し自分のものとして使えるようになるには時間がかかった。江戸時代には奢侈禁止令の影響で、「四十八茶百鼠」と称されるように、茶色や灰色の種類は豊富にできたが、高彩度の色の配色をコントロールする感覚は備わっていなかったからだ。鮮やかな色を駆使できるようになったのは、大正や昭和初期になり、自国で化学染料や顔料が作れるようになってからのことだ。「銘仙」などの今見ても鮮やかな着物の斬新な配色はまさに一つの成果といえよう。

 

そのような西洋由来の色彩科学を取り入れる中で、和田三造の果たした役割は大きい。和田三造という名前は知る人は多くないかもしれないが、第1回文部省美術展覧会(文展)で、最高賞を受賞した《南風》は、一度は見たことがあるのではないだろか。教科書などにもかなり掲載されており、小舟に乗る筋骨隆々な半裸の男性らの絵から、西洋絵画の描法を見事に会得していることがわかる。

 

和田三造は画家として一流なだけではなく、装飾工芸や色彩研究にも力を注ぎ、日本標準色協会を創立し、当時日本にはなかった色見本の作成を行っている。日本標準色協会は改組し、日本において唯一の色彩研究の財団法人、日本色彩研究所になり、現在も続いている。

 

東京美術学校図案科教授にも就任し、若いデザイナーと一緒に、色見本に基づいて実践的な配色のカタログ『配色總鑑』を刊行しており、以前、『配色辞典 大正・昭和の色彩ノート』として青幻舎から復刻された。

 

今回、続刊として『配色總鑑 B篇』(昭和9-10年)、『五百選新作図案集』(昭和13年)の中から、日本の季節をイメージした72パターンの多色配色、昭和初期の服飾・インテリア・グラフィックデザインなどから161点の配色例を掲載した『配色辞典 応用編』が刊行された。

 

フランスに留学していた和田三造の配色理論は同色調と異色調からなり、類似と対照からなるシュヴルールの配色理論に近いものがあり、どこまで影響を受けていたかわからないが、西洋的な配色や染料と、日本的な季節感をうまく統合しているように思える。

 

現在の人々と好みは違うかもしれないが、大正・昭和初期において、西洋と日本の色彩調和理論とその実践が結晶化していることがわかるのではないだろうか。その後に戦争が激化してまさに灰色の時代となり、ひるがえって戦後は新素材の開発やアメリカ文化の流入によって、色彩文化は大きく変化していった。ただ残念ながら、原色が氾濫した景観や看板などの色彩環境はお世辞にもバランスがとれているとは言い難い。そういう意味では、ここで示されている大正・昭和初期に築いた配色文化は、和と洋のバランスがとれており、現在の我々にとっても示唆に富んでいるのではないだろうか。