俺のことをすこしは好きだった子が、俺の好きな部分だけでやってきた。たぶん、今日、彼女が結婚式だったからなんだろう。

 

「ほ」

 

 と彼女が言った。たぶん、俺の名前の始めの一文字だけ言ったのだろう。一部だけだったから全部言うことができないのだった。

 

 一部だったからうっすら彼女は透けていた。彼女はペールブルーのサロペットを着ていた。俺が彼女に似合うよと言ったことがある服装だった。

 

「似合ってるよ」

 

 俺があの時と同じように言うと、彼女は顎先よりわずか上で斜目に切りそろえられた髪をゆらした。彼女は小さな声でありがとうと返した。

 

 

 

 翌朝、彼女をこの部屋に残して出勤したら彼女は居なくなってしまうのではないかと不安になった。思いつきがあって、試しに彼女からのプレゼントだった黒い革のブックカバーに彼女を挟んでみた。カバーには読みかけのミステリ小説。彼女はその文面の上で縮こまった。吸いこまれるように彼女は文庫サイズになった。彼女は彼女の魂の一部だけだったのだから、こんなことも可能なのだろう。持ち歩いているこのカバーを開けばいつでも彼女に会えるのは、良いことだった。

 

 それから数日の間、彼女は「嫉妬に狂った」や「情けない感情」といった文章の傍らを歩いたり、寝そべったりした。

 

 俺は彼女が好きだったし、結婚したのは残念だと思った。でも彼女も俺とデートしたりなんだり、あった。結婚を厭う彼女の部分だけが抜けでて、今本当に彼女がここにいるんだろうか。それとも俺の白昼夢だろうか。

 

 

 

 ある休日の午後の地下鉄車内で、急に彼女がうろたえだす。おろおろ。そして俺に訴えかけた。電車・降りて。

 

 何を突然と思っていると扉ひとつ向こうに彼女の実体がいた。隣に結婚相手らしき男性。二人とも笑っていた。目玉から大量のカチワリ氷でもねじこまれた気分。

 

 停車するまで一分以上あった。汗をかく。電車が停まる。文庫本を閉じて扉をかきわけるように出た。

 

 カバーを開くと彼女が消えていた。実体の彼女の方が幸福そうだとか、俺が思ってしまったからかもしれない。俺は脳みそに手を突っこんでひきちぎり、ひだの一枚一枚をかきわけてその記憶を抜きさりたくなった。

 

 そして次第に、カバーを持つ手が透けた。

 

 そっか。そういえば彼女より先に結婚したのは俺の方だった。俺の方も彼女を好きだった一部だったんだ。たぶん、彼女が結婚するって言うんで、あの頃の自分を思いだしただけ。