『5M Vol.3』に原稿を書きました
サブカルチャー評論同人誌『5M Vol.3』に渡辺寂名義で原稿を書かせていただきました。
12/6(日)に大田区産業プラザPiOで開催される文学フリマで頒布される予定です。
詳細は編集人の卯月四郎さんのエントリをご参照ください↓
http://d.hatena.ne.jp/ke_ta/20091128/1259393620
ゲームについて語る言説においてしばしば混同されがちな「プレイヤーキャラクター」と「主人公」というふたつの概念を、主にプレイヤーとプレイヤーキャラクターの関係とゲーム毎の話法という二点を軸にして整理することを試みました。
言及した作品は『ドラゴンクエスト』『タクティクスオウガ』『ONE~輝く季節へ~』の三つです。
拙稿は未熟ですが、他の方の文章はとてもいいものが揃っておりますので、当日会場にいらっしゃる方は委託先の「ぼっちーず」さんの『ぼっち本』と併せて手にとっていただけると幸いです。
ハルヒSS『エンダーズ・シャドウ』
ふたりが高校に入る前のある冬、日がようやく沈んだ頃、朝倉は長門で遊んでいた。頬をつねったり、髪をいじったり、眼鏡をはずしたりかけたり。長門は髪が短いので、髪型はあまりいじれないのが、朝倉には残念だった。あの長門さんの部屋なので当たり前なのだけれど、長門さんの部屋はぜんぜん一人の人間が生活しているという感じがなくて、そんな部屋で長門さんを生々しくさわさわぐにぐにといじるのは少し場違いかもしれない、と朝倉は思って、それが可笑しかった。
そのうちにオーブンがチンッと鳴り、クッキーが焼けた。長門の部屋のキッチンの、自分しか使わないオーブンを、熱に注意して開けるとき、朝倉は(ああ、わたしは長門さんを独占しているんだ)と思ったりする、傲慢。
そんな傲慢も朝倉は楽しんだ。
「長門さん、クッキー焼けたよ」
クッキーを紙ナプキンに包んで、テーブルの前に座る長門のもとまで持ってゆき、いかにも長門の部屋においてあるような味もそっけもない白いだけのプレートに新しい紙ナプキンを敷いて、クッキーを並べる。はじめの一個を置いたそばから早速つまもうとした長門を、朝倉は「めっ」としかる。
「行儀よくしなきゃだめよ」
長門は、ほんの、ほんの少しだけ、(いまは)朝倉にしかわからないくらい少しだけ、小首をかしげた。行儀という概念がよくわからないらしい。それに長門は食い意地が張っている。
「行儀よくしなきゃだめよ」朝倉はもう一度言った。
「どうして」
「理屈はいいの。とにかく、行儀よくしなきゃだめなの」
気まぐれで、今日の朝倉は、長門と話すとき、意識してあまり理屈っぽくならないようにしてみた。言葉数を減らすようにしてみた。その意図が長門に通じているかどうかはわからない。でも朝倉はそうした。そのほうが楽しかったから。
「どうして」
長門は繰り返したずねる。意地を張ったようで、かわいい、と朝倉は思った。
「長門さん……」
「どうして」
朝倉は意地を張る長門さんはかわいいと思ったけれど、それでもその意地にはやっぱりちょっと困ってしまい、クッキーを並べるためにテーブルに目をやっていたので顔を上げると、その隙に長門はすばやく朝倉の口にクッキーをさし入れた。
「ぐっ…ん…」
「おいしい?」
少しのあいだ呼吸ができなくなった。朝倉がようやくクッキーを噛み砕いて飲み込むと、長門は繰り返したずねる。
「おいしかった?」
「うん…わたしの作ったクッキー、長門さんに食べさせられて、おいしかった」
「もっと食べて」
長門はクッキーをさし出した。朝倉はちょっと悩んで、それをあーんと口をあけて長門の手から食べた。繰り返し繰り返し、そうやって、長門がさし出すクッキーを朝倉はその手から食べていったので、長門の指に朝倉の唾液がすこし付いた。そうして、プレートの上のクッキーは全部なくなってしまった。長門さんに食べてもらうために作ったのに、わたしが全部食べてしまった。嘘。ほんとうはまだキッチンの敷いたタオルの上に置かれたオーブンプレートの上にすこし残ってる。でも、長門さんにクッキーを全部食べさせられてしまった、と思うのが心地よかったので、朝倉はそう思った。
そのあと、朝倉が自分の部屋から持ってきた、駅から少し離れたところにあるちいさな雑貨屋でみつけたアンティークのティーセットで紅茶をいれ、ふたりでクッキーを食べた。長門さんのおやつや夜食にするために焼いたのに、一回で食べきってしまった。でも朝倉は満足だった。
だって、長門さんと一緒の時間をわたしは食べることができたから。でもまた長門さんのためにおやつを用意しなきゃ。コンビニで冬限定のチョコレートでも買ってこようと思って、このマンションからコンビニへの道の途中に冬の花をガーデニングしてある家の前を通ることを思って、この冬の時間がすぐに過ぎてしまうことを思って、そこまで連想して、朝倉は長門の指を食んでもう一度その指に唾をつけた。ふたりの体温が少しでもお互いに残ることを願って。でも、朝倉は自分と長門に与えられた三年間の猶予を、短いとも長いとも思わなかった。ふたりだけの大切な時間は、きっと永遠になるから、長さなんて関係ないと、朝倉は信じていた。
それでも、やっぱり、ちょっと不安になって。それが表情に出てしまったらしく、長門は少しだけ、ほんとうにほんの少しだけやさしい目になってくれたので、それだけで朝倉は心が暖かくなった。
ふたりはそのまましばらくそうやって過ごして、夜も更けてから、朝倉はコンビニに出かけた。この暖かさがあれば、冬の寒さなんていくらでも耐えられるから。
道を歩いているさなか、以前長門に借りた本の一節を、朝倉は思い返していた。それは朝倉にとって数少ない、有機生命体の残した好ましい言葉だった:
“永遠とはしかし、時間の静止ではないのだ。
永遠なものを思い浮かべるときに、何かわれわれの気持を圧迫するものがある。それは、永遠というもののなかに時間を経験しなければならないという、われわれにとっては不可解な是認の仕方である。そこから当然結果として生じる、あるがままでのわれわれ自身の是認である。”
(フランツ・カフカ)
2007年1月29日の日記.txtより
結局のところ、あらゆるゲームは時間と空間の問題に帰結するのだ。
今にあらざる時。
ここにあらざる場所。
そしてそれは、<いま-ここ>の自明性を失って、それに代わる新しい固有の論理と法則を獲得した、そのような時空である。
モニターに何かを映すという表現形式自体がこの時空を召喚する。おそらく、永遠の世界は両義的なのだ。
此岸と彼岸が、過去と未来が、絶望と希望が、衝突する場所。
ゲームをするとは、ひとが自分の時間を歩んでいるとき、ふと立ち止まってそこの景色を見回してみることに等しい。
きっとそこにはありえざる景色があるのだろう。しかし、彼に見えているものは、他の人々には見えないのだ。
たとえ、対戦ゲームであっても。(いや、二人の時空がぶつかり合うからこそ、そこにはどうしようもないATフィールドが生まれるのだろう)
体験の固有性。一回性。再帰不可能性。
そのようなものに根ざすゲームの時空は、だから書きあらわすことができない。
一度、物語に、歴史にしてみなければ、ゲームはテクストになることができないのだ。
そのためにエンディングは存在する。体験された時間を歴史化するために。
二次元の対象の形式について考えていたら昔の日記にそれっぽいのが見つかったので引用。
ゲームボーイミクロたんが可愛すぎてつらい+α(FFTAについて)
「ママが死んじゃってからずっとああなんだ。…かっこ悪いよね。」
「ミュートの家ってさ、パパとママ、仲がよかったんだね。」
キャラクターの存在と尊厳
http://anond.hatelabo.jp/20091105140528
われわれは、今のわれわれがどれだけのキャラクターを忘れてしまっているかを確かめることができない。「今日休んでる人、手を挙げて」という古典的なギャグと同じだ。存在が認識できないものの数は数えられない。
自分がこれまで摂取してきたフィクション、そのなかでほんの少しでも好意を覚えたことのあるキャラクターのうち、最期の瞬間まで忘れずにいられるのは一体どれだけだろうか? 一体どれだけの数のキャラクターを、われわれは忘却界に打ち捨てながら生き延びてゆくのだろうか?
愛着と忘却とは同じ一枚のコインの両面であり、そのコインはキャラクターを愛する人間に科せられた原罪のようなものだ。手からこぼれ落ちる一方の砂をいつまでも掴んでいようとする無駄な努力。そして既にこぼれ落ちてしまった砂は、そこにあることすらわからない。えいえんとは、幻想入りとはそういうことだ。
ほんとうは、キャラクターを構成するブラックボックスが実在している必要などないのだ。それではバルトが批判したような、古臭い実在論的な作家概念となんら変わらない。
「伺か」のように、いかにもブラックボックスそのものですよというそぶりのアイコンがWindowsのGUIシェル上に見えていようが、それがキャラクターの実体というわけではない。逆に、もしほんとうに十分な冗長性をもつブラックボックスが実現できたとしたとしても、それがキャラクターとしての輝かしさに寄与する保証などはどこにもない。
なぜか? キャラクターとはそのようにして存在するものではないからだ。シミュラークルにすぎない表象が不気味な幽霊(ゴースト)となって主体に襲い掛かる瞬間、その瞬間がキャラクターそのものであり、それこそがマテリアライズの意味だ。人工無能はあくまでも不気味さを担保するために取られた一手段であって、それ自体が目的として求められるようなものではない。VOCALOIDの本質はその機能であり、けっして実体としてのプログラムなどではないのだ。われわれがbotに萌えるのはそれがテクノ感という欲望のコードを喚起しているからに過ぎないが、しかしそもそも欲望のコードと切り離された表象は存在しない。キャラクターのアイデンティティはその程度のことで失われるようなものではない――ツンデレという概念の発明によってそれ以前のキャラクターの一回性が失わたりはしないように。
ブラックボックスなど必要ない(少なくともそれが新たなコードの創造に寄与しない限りは)。キャラクター実在論が目指すのはその先にあるものだ。即ち:
「われわれが一人一人のキャラクターに抱く愛着と欲望を、一体どのようにすれば彼/彼女自身の尊厳のために活用することができるのか?」
ユリヒ恋子「まいにちアップデート」追記
P112右側の上半分が竹本泉に見えてしまい、そうしたらなんか急に素敵に見えてきてしまった…。まだまだ功夫が足りないと誰かに言われてしまいそう。
オタ外人がそばかすめがねというのは珍しい気がする。例によって気がするだけですが。なんとなれば外人というのは普通は小綺麗さの象徴であって云々。
主人公が「これから」ボンクラ女子になってゆく過程をきらびやかに描けるのならば!
20091013 19:41追記:
この記事は一つ前のまんがタイムきらら11月号感想の補足です。ねんのため。
「まんがタイムきらら」11月号
ざら「ふおんコネクト!」
恐ろしく居心地が悪い。
普通に考えて、娘にギャルゲーシミュレーションを行われるというのは、家庭の安全を守りたい父親にとっては純粋な恐怖以外の何者でもないと思う。
いったいどういう達成を狙ってるんだろうか?
ところでP29右側3コマ目はかつて家出した子供時代の交流がふおんという麻枝主人公的存在と出会ったっていう暗喩を飛ばしてると見ていいんですかね。
三上小又「ゆゆ式」
「ゆゆ式は言語ゲーム」とはよく言われるが(何処でだよ)、会話というゲームルールの的確な運用だけではなくて、ルールそのものを積極的にハックしてゆく攻撃的な姿勢と、それを実現するのに十分な演算力、最後にそうした会話の楽しさを表現できるだけの表現力。
という才能依存の(=あんまり建設的ではない)話はさておくとして、やはりキャラごとの性質に基づいた会話のテンポのコントロールが上手いですね。こちらは純粋に技術的に。
異識「あっちこっち」
ゲーム回。その構成力と密度にレベルEを感じた。
ツッコミ・リアクションの悪魔的鋭さも合わせて、冨樫義博からの影響を公言している三上小又よりもさらに強い影響を受けているように見えるなあ。
荒井チェリー「三者三葉」
葉山ちゃんが可愛すぎる。タイトルもだけど、本編のポニテ+ユニクロパーカーの野暮ったさが破壊力ありすぎ。
荒井チェリーは普段あまりキャラを可愛く見せようとしない代わりに、ここぞというときを狙ってその技術と表現力を総動員して読者を殺しにくるのだけれど、そうしたキャラの一瞬の可愛さを切り取る目があまりにも精確なために、可愛さそのものが読者のキャラクター把握に根底からの見直しを要求するほどまでになっている。
今回でいえばタイトルとP68右側3コマ目の葉山ちゃん、P74右側3コマ目の竹園優、左側2コマ目の双葉。
え?P68右の葉山ちゃんのどこが可愛いのかって?葉山ちゃんがあの三人のなかで一番小物だってことがこれ以上なく良く表れてるからに決まってんだろ!
ユリヒ恋子「まいにちアップデート」
「ひろなex」のボンクラ女子表現がいかに的確で鋭く優れているかがよくわかる。
まああれは普通に最先端にして最高峰なので比べるのは酷だけど。なんとか独自の魅力を開発してほしい。
天城七輝「ハッピーホームベーカリー」
うーん意外と好きかも?
ユエちゃんみたいな肉感的・動物的な天然って萌え4コマには意外と少ない気がするなあ(他では「ぱにぽに」の白鳥さんあたりか、4コマじゃないけど)。でもまだまだ数読んでるとは言えないので確信をもっては言えない。
玉岡かがり「ダブルナイト」
やはり花音が強キャラすぎる。
開設
あまり何も決めていません。