最近読んだ本から2024年04月18日 08時48分03秒

[コメントを寄せていただきましたさえ様へ]

コメントをありがとうございます。神の意志を受容すること、
すべてを受容することは、百パーセント、ポジティブだと
私も思います。


[イベント】
◎リアルの実験会「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年5月7日(火曜日)午後1時半から午後4時半頃まで

場所:東京都新宿


◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年5月16日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年5月19日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで


[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が

発行されました。詳細はこちらはへ。



シャーマン・ヒーラー・賢者』アルベルト・ヴィロルド(ナチュラルスピリット)

南米のアマゾンとアンデス地域の伝統的ヒーリング・メソッドを解説した本。久しぶりにこういった心身のスピリチュアル系ヒーリングに関する本を読んだ。

私が本書を読んだのは、スピリチャルな文献でよく話題にされる、目に見えない様々なボディの概念が普遍的なものか、地域によって異なるのか、知りたかったからだ。現在制作中のMaster Key to Self-Realization (自己覚醒へのマスター・キー)の本の中に、目に見えない様々なボディ(subtle-body, causal-bodyなど)についての解説があり、そういったインドのアドヴァイタ系の教えの中のボディの概念が、アンデスの伝統的ヒーリングにもある概念なのか、調べてみたかったからだ。(ただし、Master Key to Self-Realizationはヒーリングの本ではなく、そもそも本の目的も違っているが)。

結論から言えば、目に見えないボディに関する概念は、それぞれの伝統の中で似たような概念はあるものの、まったく同じではなく(ボディの区分けも異なっている)、特有の説明がある。

本書の中では、ボディの話よりも、私には、チャクラの説明が一番興味深かった。特に過去のネガティブなエネルギーが結晶化し、チャクラにいわゆる憑依し、人の物の見方、考え方、健康に多大な影響を与えているという話は、そうかもと納得でき、実際に著者がヒーリングにあたった様々な人たちの事例が紹介されている。私のどこかのチャクラにも、何かそういった結晶が憑依している(笑)と感じるときがある。

『ふだん使いの言語学』川添愛(新潮社)
少し専門的であるが、こういう本は楽しい。本書では、私たちが日常で使う言葉がどれだけ可笑しいか、そしてときには、どれくらい誤解を生みやすいか、たとえば、「よい宿がいっぱい」、「あなた、歯医者やめたの?」、「あなたのせいじゃない」など、様々な事例が紹介されている。

実際、言葉を誤解を与えることなく使うのは非常に難しい。何十年、言葉を書く仕事をしていても、言葉の世界は複雑で、ときに騒がしく、やっかいであると感じる。それに比べれば、瞑想して言葉のない世界にいるときは、何と平和かと思うのだ。だったら、言葉を使う仕事なんて、全部やめればいいのかもとも思うが、一方で、私は言葉に中毒してもいる(苦)。だから、その葛藤を生きるしかない――神の意志がそれを止めてくれるまで。

さて、昨年「言葉の向こうに人がいる」のブログでも、言葉の言外の意味を読み取られる話を書いたが、最近も某県の(前)知事さんが新人職員に向けた下記の訓示が差別発言として炎上した(「差別発言」というより、常識欠如の「無知発言」という感じだ)

「県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです」

「違って」という言葉が、県民のリーダーである知事の発言としては、決定的にまずく、せめて、「同じく」にすればよかったのにね。

『悪童たち』(上・下)柴金陳(早川書房)

中国のミステリーを初めて読んでみた。著者は、「中国の東野圭吾」と言われている人気ミステリー作家だそうで、文章は読みやすく(たぶん翻訳がよいおかげでもある)、最後まで飽きずに読むことができた。海外の小説を読む利点は、その国の文化・歴史を知ることができると同時に、おおげさに言えば、人間という生き物がいだく感情は、国、政治体制、時代を超えて共通していることを理解できることだ。本書の中では、現代の中国社会の状況を背景に、社会や親との関係で不幸と鬱屈感をいだく子供たちが出会い、しだいに大胆に犯罪に突き進んでいく姿が描かれている。

『天国でまた会おう』(上・下)ピエール・ルメートル(早川書房)

第一次世界大戦後のフランス社会を背景に、戦争末期の悲劇的状況で出会った二人の青年たちの苦難と社会への復讐を描いた小説。ここでも、父親に愛されなかった非凡な青年と母親に期待されすぎている普通の青年、彼らの葛藤、怒りという人類共通のテーマが小説の縦軸となっている。

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない』妹尾武治(光文新書)
ラメッシ・バルセカールの「すべては神の意志」の心理学版というところか。「人間には自由意志がない」という話のときにほとんど必ず引用される、ベンジャミン・リベットの実験をはじめ、様々な分野の知見が紹介されている。著者は、自分は発達障害であり、過去に自殺未遂を起こしたことも告白しているが、心理学的決定論に救いを見出い出したようである。

『前巷説百物語』京極夏彦(角川書店)

色々読んだ京極夏彦さんの小説の中で、一番気に入ったのは、昨年紹介した「書楼弔堂」シリーズと、「巷説百物語」シリーズである。このシリーズは、人気時代劇「必殺仕事人」のように、法で裁けない悪を裁く話であるが、その雰囲気はかなり違っている。

本シリーズに登場する仕事人たちは、ほとんどが無宿者、つまり、江戸時代の士農工商という身分制度の外にいる。そして彼らは、「弱者にこんなひどいことをするのは赦せない」というような正義感ももってない。彼らにあるのは、「業(カルマ)を清算する」とか、「確かに依頼人は損をしている。その損を取り戻すお手伝いをしましょう」的な考え方である。彼らはほとんど自分たちでは殺しはせず、相手に自らの非を悟らせたり、自殺に追い込んだり、悪者同士がお互いを滅ぼし合うように仕組んだりする。様々なありそうでなさそうなびっくり仕掛けを考え、実行するのが彼らの役割だ。

その仕事人たちのリーダー的存在、御行の又一、別名、小股潜り(こまたくぐり=詐欺師)が非常に魅力的である。彼は一切の武器をもたず、あらゆる人のところへ出かけては、自分たちの目的のために、変幻自在の言葉の技を駆使して、物語を語り、ときには騙り(=騙し)、ときには言葉で人の心を切り裂き、ときには慰める。ペン(言葉)が剣よりも強いヒーロー物語を読むのは、爽快である。

『朝日新聞政治部』鮫島浩(講談社)
紙面には、いつもリベラル派の立派な論と言葉が立ち並ぶ「朝日新聞」。その「朝日新聞」のエリート部局である政治部に長年所属し、エース記者だった著者が朝日新聞のエリート記者に上り詰め、それから小さなミスが元で、社内外からバッシングを浴び、閑職に追いやられ、最終的には退職を選択する顛末を語った話。

本書の中で、印象深い話は、当時の安倍政権がいかに朝日新聞を天敵として、執拗に攻撃をしたのかという話と、著者が内外のバッシングを受けているとき、朝日新聞の経営陣は自社の記者である著者を守ることなく、非常に冷たかったという話である。普段は立派なことを書いている新聞社も、普通の会社と同じく、いざとなれば、動物園的保身に走ることがよくわかる。

朝日新聞というと、亡くなった父を思い出す。父は、朝日新聞のリベラルな論調が大嫌いだったにもかかわらず、長年、自分が好きな産経新聞と嫌いな朝日新聞の二紙を購読していた。あるとき私は父に言ったものだ。「そんなに朝日が嫌いなら、購読をやめれば?」すると、父曰く、「朝日と産経を読み比べて、朝日がどれだけ間違ったことを書いているか知るためだ」

私が思うには、新聞に掲載されるような立派な意見も含めて、リベラルな意見にしろ、保守的な意見にしろ、誰も意見も絶対的に正しいものはなく、それは書いている人の世界観を表現し、多かれ少なかれ偏向している。そして、意見は世界を「変えない」。そして、いつの世も悲しくも、「剣(権力と暴力)はペン(言葉)より強し」である。意見は、政治と政治家を変えず、戦争を止めず、貧困を止めず、少子化を止めず、格差を止めない。それでも、人という種は何かについての想い、自分の考え(意見)を言葉で表現せざるをえない生き物なのである。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト






















人は記憶でできている2024年03月26日 08時58分53秒

[ハム様へ]
コメントをありがとうございます。

Sam Harrisの本は一冊読んだことがあります。今手元にないので、題名は忘れましたが、その中でダグラス・ハーディングのワークを好意的に紹介し、またインドの賢者への言及も確かあったように記憶しています。スピリチュアルに関して、素晴らしい理解をもった人だと思います。今のところ、私が翻訳する予定はないですが、将来のことはわからないです。 


[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」
*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。




親の介護は大変なことも多いが、まじかで人の老いを観察できることがとても興味深い。特に認知機能、思考・感情機能の老化というか変化を、私は関心をもって眺めている。

母は92歳くらいまでは認知機能にほとんど問題がなかったが、93歳くらいから徐々に衰えた感じだ。その頃、何があったか記録を付けているわけでもないのでだいたいの推測であるが、まず料理・洋裁をやらなくなり、近所の親しい友人が亡くなって、話相手がいなくなった頃に、一気に認知機能が衰えたようだ。

物と人の名前、そして関係を忘れ続け、現在、人名で覚えている名前はついに3個になった。自分の名前と子供たちの中の一人の名前と、そしてなぜか岸田首相(笑)。岸田首相がテレビに映ると、「岸田さん、岸田さん」と言って、喜ぶ。

母が一番執着していた「母という自己像」も完全に消えて、それと同時に、子供たちも母の記憶から消えている。今は、自分のまわりで見る人は全員、自分の世話係か自分の相手をしてくれる人で、たぶん母の今の自己イメージ(がもしあれば)は2歳くらいの子供である。

そんな母の記憶と感情の変遷を眺めていると、人は記憶でできているが、記憶がなくなっても、生きることは続くので、生の本質は人(=記憶)ではないということがわかる。そして、母の場合、思考機能が衰えるにつれて、感情のほうはどんどん自由奔放になり、昔は自分の感情をめったに表に出さない人だったのに、今は喜怒哀楽を自由に発散させている。

長い間の、よき母、よき妻であらねばならないという、人(=記憶)としての重荷から解放されて自由になり、ある意味では母は幸福なのかもしれないし、その一方で、現実が一瞬かい間見え、いつも人の世話になっている重荷を感じるとき、「もう何もできないから、自分は死んだほうがいい」とか、「死にたい」と、落ち込んでつぶやくこともある。

そんなとき私は、母に意地悪くこう声をかける。「あのね、もうすぐ夕食だけど、死ぬなら、夕食、食べないよね?」すると、母は突然元気になって、大きな声で、「夕食、食べる!」と言う。

最近、一番可笑しいことは、父(母の夫)がいつの間にか「将軍様」になったことだ。それは、たぶん、母と一緒にテレビを見ている部屋に父の大きな遺影が壁にかけてあり、そして最近ずっと、時代劇「暴れん坊将軍」を見ているせいだ。母はテレビの映像と現実の区別がつかず、父の遺影とテレビの中の将軍が一つになっている。

「今晩は、将軍様のところへ泊めてもらう」と毎日のように言い、そのたびに私は、テレビを指差し、「ほら、将軍様は、今お仕事中だから、仕事が終わったら、二人で頼みに行こう」と言うと、うれしそうに、「私、この人、大好き!」と、ほとんど目がハートマークになり、うっとりと父の遺影を眺めている。

父が生きているときに言ってあげれば、どれだけ父も喜んだかと思うのだが(昔は散々、父についての不満を子供たちは聞かされたものだ)、それでも母にとって父(夫)の記憶がいつのまにか「よい」イメージだけになったことは驚きだ。それはひょっとしたら、母の場合、脳の老化のよい面なのかもしれない。

人=記憶、非常に重要ではあるけれど、本質ではない。そのことを心に留め、日々老いる(変化する)記憶機能を自分のことも含めてユーモアをもってこれからも眺めていきたいものだ。



[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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「自己責任論」とは、自分を責めることではない2024年03月17日 08時29分14秒

[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」

(1)スピリチュアルとお金
()ラメッシ・バルセカールの教え①
 
()ラメッシ・バルセカールの教え② 

(4)ラメッシ・バルセカールの教え③

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。



前回、いま流行りらしい「公正世界仮説」を紹介した。「公正世界仮説」をめぐる議論とは、別の言い方をすれば、人の人生の問題は、個人のせいなのか、社会のせいなのかという議論でもある。そして、一般的には、「公正世界仮説」を信じる人たちは、問題の原因を個人に帰し、「公正世界仮説」に反論する人たちは、問題の原因を社会に帰す傾向がある。

しかし、問題の原因は個人か社会かという単純な話ではないだろうし、私たちの人生に起こる問題の原因はそれこそ無数にあり、特定の一つに絞れるものではないと私は思う(そもそも、非二元系の教えでは、個人も社会も幻想なので、非二元の教えの観点から言えば、こういった議論そのものが無意味で、「起こることはすべては神の意志。」(笑)。でも、そんなことを言ってしまえば、身も蓋もなくなるので、今回は、いちおう個人も社会もあるという前提で話を進める)。

前回も書いたが、最近のネットには、「自己責任論(つまり、「公正世界仮説」的考え方)で、自分が責められているような気がして辛い」という記事をよく見かける。そして、いわゆるリベラル派の知識人も、「問題を個人に帰してはいけない。それは社会や政治の側の問題である」と、社会にはびこる自己責任論を批判する。

私自身も、自分が背負っている(背負わされている)重荷に最初に気づいたとき、非常に怒ったものだ。20代の前半、私はものすごく怒っていた。親に対して、自分が受けた教育に対して、常識的な生き方を押し付ける世間の大人たちに対して。そして、何よりも無知無能な自分に対して。怒りを発散すると、何か自分の中からパワーが出て来るような感じがして、一時的には心が軽くなる。しかし、怒りと様々な葛藤が長く続くと、心身が極度に消耗し、また気分が落ち込むという状態になり、気分の高低差が激しかった。

それから、スピリチュアルに入門し、最初の頃はセラピー的ワークを多く体験した。そのおかげで、自分の過去のトラウマを理解し、それをかなり手放すことができ、重荷が自然にかなり落ちた感じだった。そのとき、前回も書いたように、自分の人生の問題を誰かのせいにすると、そのほうがみじめだとわかり、他人や社会を責めなくなったら、人生の歯車がよい方向に回転し始め、私はスピリチュアルな道が自分にとって間違いのない道であることを確信した

この時期、私がバイブルのように読んだ本が、『なまけ者のさとり方』(タデウス・ゴラス 地湧社)という本で、スピリチュアル的「公正世界仮説」と自己責任論の権化のような本だ。

その文章を一部紹介すると(『なまけ者のさとり方』については以前のブログでも何度か紹介したが):

「他の人が何をしようと、あなたに起こることは、あなたの責任です。外部のいかなる事柄も、あなたの感情や体験を左右することは絶対にありません。あなたの人生の体験は、あなたのバイブレーションに百パーセント支配されているのです。バイブレーションが送ってくる情報と、その情報に対する反応の仕方によってあなたの人生は決まります」(80p)

「しかし、あなたが自分のバイブレーションを高めさえすれば、いつでも問題(精神的にも肉体的にも)を上手に避けられるようになり、世界が文字通り、よい方向へと変わってくるのです。愛は最も強力な魔法なのです。地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはもう天国に住んでいます」(80p)

「人がやっていることを否定すると、その行為を自分にも否定することになります。私達は自分を律する法律を常に自分が作っているのですから、あなたが発するすべての言葉と言動は、あなたがどんな世界に住むかを決めてゆくのです。あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見を同じくする人達だけに、有効である」(44p)

「あなたはどれくらい許され愛されたいですか。それと同じだけのものを他の人にもあげてください。とことん他の人にあなたの愛をあげてください。他の人のあなたに対するカルマをすべて許してあげなさい。自分の欲しいと思っているのと同じだけの自由と愛と注目を他の人にもあげなさい」(44P)

以上のような言葉を私は非常に納得して読んだものだ。私自身にとっては、スピリチュアル的「自己責任論」とは、自分にパワーを取り戻す考え方であり、それをほとんど辛いと感じたこともなかった。たぶん、『なまけ者のさとり方』の文章がとても温かい雰囲気だったせいもある。

それから、また長い探求の最後に、ダグラス・ハーディングやラメッシ・バルセカールなどの非二元系の教えに出会ってからは、「自己責任」さえも放棄し、今は、「神責任」(笑)に落ち着いている。

ここで、「責任」という言葉に関して私が思うことは、多くの人は「責任」に「批判」というニュアンスも入れるせいで、自分や人を苦しめる、ということだ。本当は、「責任」追求とは、批判するターゲットを探すというより、原因を究明する科学的態度をもって、自分の内面、自分が生まれ落ちた環境、社会制度を冷静に調査するということである。

そして、先ほど紹介したような『なまけ者のさとり方』のような見方も、たとえ気にいったとしても、鵜呑みにするべきではなく、自分の中で何度も検証すべきことである。検証できたら、古い考え方はしだいに抜け落ち、新しい見方が心身に馴染んでいくものである。

私たちがもっている様々な考え方(観念)は、本当は洋服のようなもので、いつでも取り換えることが可能だ。だから、私たちはいつも自分自身を調べて、問いかける必要がある。私がいだいている(着ている)様々な考え方(観念)は、私を平和と幸福へと導いているだろうか? 私はどこから誰からそういった考え方を受け取ったのだろうかと。そういった問いかけが、自分にへばりついているネガティブな観念からの束縛を少しずつ緩め、幸運なら、ある時期に自分の側の努力もなく、抜け落ちるという経験が起こることがある。

もし自分自身の過去のトラウマを自分自身で解きほぐすのが難しいと感じる場合は、必要ならカウンセリングやセラピー、自助グループの助けを借りることもお勧めする。自分が心を開けば、世の中には助けの手を指しのべてくれる人や団体はたくさんあるものだ。

本日は、昔、私が熱心に愛読し、非常に心が軽くなった本、『なまけ者のさとり方』の文章を紹介した。辛いときに読むと、よく効く本なので、もし現在、辛い気持ちや状況で苦しんでいる人がいれば、お勧めします。


昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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「公正世界仮説」2024年02月25日 09時27分39秒

[イベント】

◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年3月3日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


[お知らせ]

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。


先日、『逃亡者』(中村文則著 幻冬舎発行)という小説を読んでいたら、「公正世界仮説」という心理学の用語が詳しく説明されていた。少し前に読んだネットの文章の中でも、「公正世界仮説」の話が書かれてあり、「公正世界仮説」という言葉(最近まで私は知らなかった)は、最近の流行の心理学の用語らしいことに気づいた。

ウキベディアの情報によれば、「公正世界仮説」は次のように定義されている。

「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC

実は、こういった「公正世界仮説」的考え方は、キリスト教や仏教など伝統的宗教から、最近のスピリチュアル系の教えの中にも暗黙に含まれている。なぜなら、伝統宗教も含めてほとんどのスピリチュアル系の教えは、「カルマ」=「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」ということを教えているからだ。昨年出版されたジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』(ナチュラルスピリット発行)にも、聖書の中に出てくる「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」の話が山ほど言及されている。

しかし、「公正世界仮説」に反論する人たちも非常に多くいるようで、実はその反論が興味深かったので、本日の話題に取りあげたわけだ。中村さんは『逃亡者』の中で、その反論をこう書いている。

「公正世界仮説は社会の問題を個人の問題に還元する。公正仮説的な物語が世の中に広がると、その分だけ、世界や社会を改善しようと思う人間が減る」。「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」。(以上『逃亡者』より)。だから、中村さんは、「自分は公正世界仮説的ではない小説を書きたい」、という主旨のことも書いている。

それから、ネットには、公正世界仮説的考えを信じている人から説教されたり、批判されたりして、苦痛を感じるという話がたまに出ている。たとえば、こんな感じだ。

「あなたが色々なことをうまくやれないのは、あなたの努力が足りないからだ」とか、「あなたは自分の苦しみを、親とか、子供の頃の環境とか、社会のせいにしている」とか。

私の印象では、「公正世界仮説」的な信念を強くもっている人たちは、「自分の努力のおかげで、あるいは自分のポジティブな考え方・人生観のおかげで、自分は成功した。あるいは、自分はこの世界での快適な立場を獲得することができた」と信じている人たちが多いように感じる。そういう信念をもっている人たちから見ると、多くの人たちは自分で努力もせず、他人ばかりを責めているように見え、よせばいいのに、つい批判したくなるわけだ。

「私にできたことが、なんであなたにできないの? あなただって、親や社会や家族のせいにしないで、自分で頑張れば、人生がもっとうまくいくようになるはず」みたいなことを言い、本人としては、正しいことを言って、相手を励ましているつもりになっているが、言われたほうは、非常に苦痛を感じる。

ここで対照的な二人の人(AとB)を想像してみよう。二人は30代の半ばのほぼ同年代だが、生まれ落ちた環境は真逆だ。Aは経済的に恵まれた家庭に生まれ、親は愛情深く、子供に理解があり、なんでもしたいことをさせてくれたので、Aは子供の頃から好きなことをして、今は自分の才能を生かして、高給を稼いでいる。一方Bは、父親は暴力をふるい、母親は育児放棄をするような家庭に生まれ、児童養護施設で育てられ、そこを出たあとは、真面目にずっと働いている。でも、時々精神の状態が悪くなるので、働けないときもあり、収入も多くはない。

誰が見ても、Aは圧倒的に有利な環境から人生をスタートし、Bは圧倒的に不利な環境から人生をスタートさせている。BにもAと同じく生まれつきの才能があるはずだが、自分の才能を発揮する前に、まず残酷で冷たい敵だらけのこの世界(のように見える場所)で、どうやって生き延びるかのほうがはるかに重要になる。別の言い方をすれば、「才能を発揮」などという贅沢なところまで、自分の感情やメンタルが追い付いていかないわけだ。

人が「公正世界仮説」的な信念をもつことそれ自体は個人の信念の問題なので、間違っているわけではないが、自分のその考えをもってして、人生がうまくいかなくて、生きることに苦しんでいる人達を批判したり、説教したりするのは、彼らに想像力と理解が欠如し、また自分の考えが絶対に正しく、誰にでも当てはまると考えるからだ。

もちろん、どれだけの想像力と理解力をもってしても、私たちは他人の苦しみを本当には理解できない。なぜなら、同じような体験をしていないから。それでも多少の想像力と理解力があれば、もし自分もひどい環境に生まれ落ちたら、彼らのように、自分自身や親や生育環境に対してネガティブに考えるかもしれないと思うだけの謙虚さをもつことはできる。

私の中にもかなり「公正世界仮説」的考えはあり、私は自分の苦しみを他人や社会のせいにしないことを20代の後半に決心した。なぜなら、私の場合は、社会や自分以外の人を責めるほうが苦しく、みじめに感じたからだ。ただし、上記のウキベディアの定義の中で、「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ、という部分は、私には当てはまらないし、私はそういうことを信じていない。大宇宙の絶対的摂理(神の摂理)は確信しているが、それは人間が考える正義ではない。

私たちの肉体が所属しているこの二元世界は、非常に不公平で不正義に満ちている。二元的人間社会の中では、人間の正義や公正であろうとする努力はほとんど報われないというのが、私たちが見聞している事実である――ある子供たちは恵まれた家庭環境に生まれ、何の苦労もなく、才能を発揮して、人生の成功をつかみ取る一方、ひどい家庭環境に生まれた子供たちは、その環境の束縛に長い間苦しむ。正義感の強い人たちは権力者に抹殺され、権力者はのうのうと生き延び、庶民は真面目に働き、強制的に税金を払わされる一方、政治家たちは楽に金を集め、税金逃れをして、それでも罰せられないでいる。以上の社会的事実は、日本だけでなく、先進国でも後進国でも見られることだ。そして、いつの時代でも。

中村さんは、「公正世界仮説」への反論、「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」と書いているが、「公正世界仮説」が流行してもしなくても、社会という場所にはいつの時代でも悲劇は起こり続けると、私はそうは思っている。

多くの人間はいつの時代も、「改革」「改善」に取りつかれている。だから、「公正世界仮説」が広まっても広まらなくても、多くの人たちは社会制度、技術を「改革」「改善」するために働き、社会は長い目で見れば、人間が考える「改革」「改善」に向かっている。少なくとも、日本という国を長い目で見たとき(数百年くらいの長い期間)、江戸時代より、明治時代よりも、現代は改善、改革されただろうか? 多くの点で、はるかに人々は快適な生活を送っている。江戸時代は、武士以外に人権はなかったが、現在では庶民にもいちおう「人権」がある。江戸時代、女性にはまったく自由がなかったが、現在は、そのときよりも女性の自由は「改善」されている。

それにもかかわらず、どんなに社会制度や技術が改善、改革されようが、社会の中で、不正義と不平等と不正は横行し、その社会の中で多くの人たちは苦しみ、悲劇は起こり続ける(最近、世界でもっとも公正で幸福な国の一つであるとされているフィンランドでは、自殺が非常に多いことを知って驚いた)。

そして、小説家はその悲劇、人々の苦しみをネタに反「公正世界仮説」的小説を書き続ける。もし小説家が、人々に楽しんで読んでもらえる小説を書きたいなら、反「公正世界仮説」的小説を書く以外にはない。なぜなら、もし小説の登場人物が、「私は自分の努力とポジティブな人生観のおかげで、人生の成功をつかんだ」というような「公正世界仮説」を信じるような人たちだけだと、小説としては非常につまらなくなるから(笑)。私は中村さんの小説のよい読者ではないけど、それでもなぜか彼の小説が気になる。だから、これからも頑張って、反「公正世界仮説」的小説を書き続けていただきたいものだ。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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生への未練2024年02月02日 07時35分01秒

[イベント】

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年2月18日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2024年2月29日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで



◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年3月3日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


[お知らせ]

遅くなりましたが、今年のブログを開始します。お時間があるときに、気楽にお付き合いください。


元旦の午後、母の家で家族全員でくつろいでいたとき、全員のスマホからいっせいに大音響の地震アラートが鳴り響き、その1、2秒後、ものすごい大揺れが家を襲った。すぐに家中の暖房を消したあと、そのあとどうすればいいか、パニックで行動が思い浮かばす、全員で固まっていたら、ほどなく揺れが止まり、テレビをつけると、テレビからは、「津波です。すぐ逃げてください」とアナウンサーの絶叫の声が聞こえてきた。震源地から遠く離れていて、海からも離れているので、津波の心配はなく、家も比較的新しいので、倒壊はないだろうと思ってはいたものの、それでも震度6弱の強烈な揺れは一瞬、家の倒壊の恐怖を呼び起こした。

「大地震が来る」と専門家はいつも警告し、日本ではどこでも地震は起こる可能性はあるので、地震が起こっても驚くことではないはずなのに、それでも個々の人間にとっては、地震はいつも突然来るものだ。大地震のときに湧く一瞬の恐怖心は、(私の場合)人生で経験する最大の恐怖心の一つで、ハートに突き刺さるようなイヤな感じである。地震の揺れが収まっても、そのイヤな感じがしばらく続くのもイヤなことである。そして、自分のところは被害がなくてホットしたあと、被災地の惨状を見ると、さらに胸が痛む。

その元旦の夜にそのイヤな感じについて考えてみた――考えても仕方のないことだけど、愚考が湧くのを止めることもできず、しばらくマインドのおしゃべりに付き合っていた。

たぶんそれは、諸々の恐怖心なのだろう。肉体が傷つくことへの恐怖、生が突然に終わることへの恐怖など、肉体の生への未練なのだろうと思い至った。自分の本質は不死であることは確信しているし、肉体年齢が70歳を超え、生きることに特別に強い未練があるわけでもないと思いながら、しかし実際は、まだ頑張って生きている(笑)母を残して死ぬわけにもいかないとか、やりかけの仕事があるとか、色々なことが片付いていないとか、人間としては未練が残っているような感じである。では、時計の針を進めて、今から10年後に突然に肉体の死を迎えそうになるときだって、もしそのとき、体が元気なら、何かをやっているはずで、やはり未練が残るにちがいない。

生への未練について考えていたら、日本の偉大な禅僧、一休(室町時代の禅師)が臨終のときに言ったとされる言葉、「死にたくない」を思い出した。それから、ダグラス・ハーディングの晩年のワークショップ(彼が車椅子生活になってからのワークショップ)のあとで、みんなでお茶を飲んでいるとき、ダグラスがぼそっと、「死ぬのはイヤなことだ」みたいなことを言って、その場にいた人たちが「ええ?!」と驚いたことがあった。彼ほどの人が口にする言葉とも思えなかったからだ。その中の誰かが彼の言葉の真意を尋ねたが、彼がどう答えたかは残念ながら記憶にない。

こんなふうに、地震のあと、ひとしきり生への未練について考えをめぐらし、最後に、ラメッシ・バルセカールの言葉、「人はどんなふうにいつ死ぬか、初めから決まっている」、つまり、「人の寿命や死に方は人知でコントロールできない」ということを改めて思い出して、なぜかほっとした。

そう、寿命は決まっているのだ。未練があろうがなかろうが、死に際にどんな思考が湧こうが、人の死によって、まわりがどれほど悲しもうが、(残務の後始末をさせられて)迷惑しようが、地震だろうが、何だろうが、病気になろうが、寿命なら死ぬ。そうでなければ、生きる。

私にとっての地震対策は、この単純な事実を受け入れて、一方で矛盾するようだが、日々、中心にいる(本質を見る)練習をすることだ。ダグラス・ハーディングがワークショップで日本に滞在していたとき、たまたま地震があり、そのとき彼は、「地震のときは、自分の中心にいなさい」とそうアドバイスしてくれた。今だに地震の大揺れのときに、情けなくも、中心にいることができない感じになるが、それでも日々練習する――寿命の終わりまで、日々平和に生きることができるように、そして、最後の瞬間に平和に死ぬためにも。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト







仏陀の教え――「般若心経」(2)2023年12月23日 10時41分54秒

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。(1)から(17)


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



「般若心経」は、大乗仏教の教えの精髄をまとめたものとされ、仏陀の死後、数百年後に起こった大乗仏教運動の中で、出来上がったもの(作者未詳)らしい。

大乗仏教と小乗仏教の違いを、ものすごく簡易に言えば、小乗仏教は「修行者が自分だけの悟りを求める」仏教であり、大乗仏教は、仏教を一般庶民にも開放して広め、すべての人の救済を目指す仏教、みたいなことになるらしい(自分一人しか乗れない「小さい乗り物=小乗」と、大勢が乗れる「大きな乗り物=大乗」と考えるとわかりやすいかもしれない)。

それでは前回に引き続いて、私が「般若心経」とどう格闘したかの話を書いてみよう。「物質には実体がない」の文章に躓き、それから次に私が引っかかったのは、「無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽きることもなし」(漢文書き下し文)のところで、私がもっていいる、『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)の訳は、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」となっている。

「迷いもさとりもない」、「老いも死もない」と前半で言っておきながら、後半で、「迷いも悟りも、老いも死も尽きることがない」と真逆のことを言って、お互いに打ち消しあって、まったく何も言っていないことになり、ナンセンスな文章ではないかと、私の常識思考は言い、私は読みながら、いつも怒りすら(笑)覚えたものだ。この当時、「Aは存在しないが、Aは存在する」みたいな理性にはまったくナンセンスな文章を、私のマインドはまったく受け入れることができなかった。

それでも私は、「不」「無」「空」のようなネガティブな漢字ばかりが散りばめられているテキストになぜか愛着を感じ、手放すことができず、一年に最低は1回か2回、儀式のように読んでは、ため息をついていた。

スピリチュアルな探求を始めたあとも、時々は、「般若心経」を読み返し、あるとき、「たぶん、般若心経は、私たちの常識が理解する観点とはまったく異なる観点で、この世界を語っているにちがいない」という思考が思い浮かんだ。この頃にはスピリチュアルな文献に特有なあちこちで矛盾する表現も、なんとか受け入れられるぐらいには、、私の二元的常識的思考はかなり薄くなっていった。

そして、大学の講義で「般若心経」を最初に読んだときから、およそ15年くらいたったときに、ダグラス・ハーディングの著作と実験に出会い、初めて、色即是空、空即是色の一瞥を得たのだ。彼の開発した実験によって、自分の目の前にある色の世界(物質世界)と自分側にある空(本質)の世界がピッタリと一つであることが信じられないほど簡単に見えたのだ。その最初の衝撃は、「ええ!まさか!?」という感じだった。

もちろん、長年の????が解消したあと、また新しいたくさんの????も生じたが(シンプル堂という物体のプログラミングはいつも???が湧くようにできている)、長年の疑問とストレスがとりあえず解消できて、うれしかったものだ。

「般若心経」は確かに、世界を真逆に語っていた。そのことを、簡単に説明すれば、普通、常識思考では、前回も書いたように、「感じられるもの(こと)」が現実である。私が自分の指で、体のどこかをつねる。すると痛みが生じて、それは人間としての自分にはとても「現実」に感じられる。しかし、「般若心経」の観点から言えば、感じられるからこそ、それは「現実ではない=幻想」なのである。なぜなら、感じられるものは、すべて一時的で永遠ではないからである。だから、五感が対象的にとらえるすべてのもの(こと)、そして、感じられる感情や思考も、全部、「現実ではない=幻想」であり、感じられないもの、五感でとらえることができないもの(空)こそ、「現実」なのだ。

そして、私を悩ませていた、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」のところも、空(本質)の観点と色(物質)の観点という、二つの真逆な観点から、さとり、迷い、老い、死を語っている。空(本質)から見れば、「さとり、迷い、老い、死」などというものは永遠にまったく存在していない。しかし、色(物質)の世界では、永遠に「さとり、迷い、老い、死」が尽きることがない。「さとり、迷い、老い、死」はあくまでも、色(物質)の世界で、人間が創造した観念にしかすぎないのだ。

最近、「般若心経」を読んでいると、時々一つの風景(イメージ)が思い浮かぶ。それは、こんな風景だ――仏陀と仏陀の高弟たちがみんなで瞑想をしている。そして、瞑想が終わると、その中の一人、観自在菩薩が、自分が、今、深く瞑想に入っていって、気づいたことを話し始める。

「私が深く自分の本質(般若波羅蜜多=知恵の完成)について、瞑想していましたところ、五大元素から構成されているこの世界は、そのどれも究極的には実体がない空っぽであることがわかりました。だから、私たちが感じる苦しみにも、実体がないのです」

そのあとの「シャーリプトラよ」で始まる部分は、別の高弟であるシャーリプトラ(舎利子)に話かける形で、観自在菩薩の言葉を受けて、それをもっと詳しく補足するように、仏陀が言葉を続けている(と私にはそう感じられる)。

その部分で、注目すべき言葉は、無苦集滅道(苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない)という部分で、それは下記の仏教の有名な四諦(したい)の否定である。

苦=人生は苦に満ちている
集=その苦は、迷いによる業が集まって原因となっている。
滅=迷いを断ち尽くした永遠に平和な境地が理想である。
道=その理想に到達するためには、道によることが必要である。

四諦をもっと平たく言えば、「私たちの苦は、私たちの過去からの業により、それらから解放されるために、人は厳しい修行の道を歩くことが必要である」ぐらいであるが、しかし、仏陀はここであっさり自ら四諦を否定し、「皆さん、苦集滅道なんて必要ありませんし、真理を知ることも、悟りを得ることもないのです」と宣言する。

そして、ここからフィナーレに向かって、仏陀の言葉はさらに、パワーアップしてくる。「悟りを得ることなんて、ないわけですから、求道者たちは自分自身の本質(般若波羅蜜多)に(すでに)安住し、だから、不安や恐れがないのです」

そして、最後に、般若波羅蜜多(智慧の完成)がどれほど比類なきほどの素晴らしいものかを称えるために、求道者がいつも覚えておける形で、次のマントラで締めくくられている。

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)完全に彼岸に行ったのです。
ああ、般若波羅蜜多(智慧の完成)は、なんと素晴らしいことか!

『金剛般若心経』の中で、スブーティ長老が仏陀に、「これらのあなたの言葉を、後世になっても、真実だと思う人が誰かいるのでしょうか?」と尋ねる場面がある。それに対して仏陀は、「心配しなくても大丈夫。後世になっても、必ずこれらの言葉が真実だと思う人たちがいるにちがいない」と予言している。

その予言どおり、仏陀亡き後、2千5百年後の今日でも、仏陀の言葉が真実だと思う人たちは少数ながらも存在し、そして今から2千5百年後にもいるはずである。その系譜に参加させてもらう縁を得て、仏陀の勝手弟子として、この上もなくその縁を私はありがたく感じている。合掌


ダグラス・ハーディングが、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット刊)第21章「チャオの夢」というエッセイの中で、一万回「般若心経」を読経した僧が、夢の中で仏陀と語り合うという形で、「般若心経」の世界を格調高く語っている。


[お礼]
今年も貴重な時間を割いて、ブログを読んでくださった皆様、またシンプル堂のYouTubeを視聴してくださった皆様、そして、様々なご支援をしてくださった皆様、ありがとうございました。今年も、平和に、無事一年を終わることができそうで、ほっとしています。それでは皆様、楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。来年は、1月の終わりか、2月の初め頃から、ブログを再開する予定です。

[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)








仏陀の教え――「般若心経」(1)2023年12月11日 14時29分47秒

[イベント】

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



もし歴代の有名なスピリチュアルな先生から一番好きな先生を選ぶとしたら、私は迷わず仏陀を選ぶと思う。

と書くわりには、私は仏教と仏陀の教えを系統的に学んだわけでもなく、私が知っている仏陀の教えは、唯一愛読している『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)とその他わずかに読んだ仏教関係の本、そして、またダグラス・ハーディングの著作から学んだことに限られている。だから、私は深い信仰をもった仏教徒というわけではなく、ただ仏陀の教えに共感する、勝手弟子であり、気ままに自由に彼の教えを理解している。そして、仏陀もそれをゆるしてくれるものと確信している。

仏陀の教え、「すべては空(くう)である」は非常に自分になじむ。「何かがある」ことよりも、「何もない」ほうが私の気質にははるかにしっくりくる。「何かがある」ことは興味深いが、複雑だし、楽しくもあるが、それをめぐる争いも多い。なによりも、何かが「ある」ことの喜びは一時的で長続きしないし、そして、人間のマインド自体が「ある」ことにはすぐ飽きる。

他の所でも書いた話だが、私が睡眠を愛するのは、眠ると、すべてが一時的に「なくなる」からだ。目覚めているとき、あれほど騒いでいたマインドも、マインドによる苦しみも、熟睡したとたんになくなってしまう。まだスピリチュアルにまったく興味のない頃から、私にはこのことが非常に不思議だった。

ちょうどそんなことを考え始めていた頃、私は大学の講義で「般若心経」と出会い、それは後々考えてみると、最初のスピリチュアルな一撃であった。本当は隅のほうで、居眠りでもしていようという授業だったはずが、受講生がほんの5、6人しかいず、全員が前列一列に並ばされ、居眠りするわけにもいかず、私はそれこそ毎回、口をぽかんと開けた状態で、教授の話を聴かされた状態だった。

なぜ、「口ぽかん」の状態かというと、私は「般若心経」の中の言葉、そしてその教授の説明もまったく何も理解できなかったからだ。生涯初めて、そんな難解なテキストに出会い、衝撃を受け、しかも、それが仏教の最高の経典とされ、世界中の仏教僧が毎日、読経していると知り、その人たちはこの内容を理解して読経しているのか、とすごく驚きもした。

ところがまったく理解できなかったことが、逆に私の中の何かを目覚めさせ、私はこの講座が終わったあとも(たぶん昭和50年頃=1975年頃の話)、そのテキストを捨てることなく持ち続け、時々読み返しては、「なぜこんなに熱心に読んでも、理解できないのだろうか?」とパズルを解くように考えたものだった。

特に最初のほうの、「色不異空」ここでまず私は躓いた。私がもっている『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)は、この部分を次のように訳してある。「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである」。

同じように、色即是空 空即是色の訳も、前の文章をまとめるように、次のように訳されている。「(このようにして)、およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ、実体がないということは、物質的現象なのである」

この文章を読んで、「物質的現象に実体がないって、どういうこと? だって、物質って、目に見えるし、触れば、硬いし、ちゃんと実体があるじゃないの」と、私の常識的未熟な思考はいつも抗議したものだ。

私たちの常識的思考にとっては、「実体がある」とは五感で感じられることである。現象世界では、それを「現実」と呼んでいる。自分の肉体(だと思っているもの)が、怪我をしたり、病気になったり、誰かに殴られたりしたら、苦痛を感じるし、それが常識思考にとっての現実(実体)である。常識思考にとっては、「感じられること(もの)」それが現実(実体)である。

物質的現象は、「実体がない」とか、「幻想」と言うには、あまりにリアル(現実)ではないか? 私のマインドは、「般若心経」を読むたびにストレスを感じ、頭の中には100個もの????が点灯したものだった。(次回へ続く)


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
























久しぶりに風邪2023年12月02日 09時15分55秒

[イベント】

◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年12月10日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月13日(水曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで


[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(13)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



ここ10日ほど、風邪をひいて、今もまだ完全には抜けていないが、なんとか普通にパソコン作業ができるくらいには回復した。幸い、熱はすぐにひいたものの、咳と痰が収まらない。こんなに長引く風邪をひいたのは、どれくらいぶりか、思い出せないほどだ。

普段は、「あ、喉がちょっと痛い」と感じたとき、私の場合は、ビタミンCや甘酒を取って、暖かくして一晩眠るとたいていは喉の痛みもひく。けれど、今回は、ビタミンCや甘酒も瞑想もQEも効かず、市販の薬も効いたかどうかわからず、体を起こしているのが辛くて、だらだらと寝込んでいた。

特に今回の風邪は、夜寝る前頃に、咳と痰がひどくなり、横になるとさらに咳と痰が止まらず、咳と痰のせいで、睡眠もなかなか自然にやって来ない。私の場合、体調が非常に悪いときは、超ネガティブな思考がよく湧き起こる。

たとえば、

「これくらいの風邪で寝込むなんて、我ながら、軟弱ぶりが情けない。世間の人はこの程度の風邪は、我慢して仕事しているにちがいない」とか。

「このままスーと死ぬと楽かも」とか。

思考はどんどんネガティブにみじめになり、人生で辛かったこと、罪深いことだけがフラッシュバックされ、本当に自分が最悪最低の人間だと思え、涙まで出て来る。

そこへさらに、スーパーいじめっ子エゴみたいなものが出現して、ネチネチとスーパー弱者エゴをいじめにかかったり、マインドの中はその他普段出現しないような人格が色々出現して、言葉のバトルを繰り広げる。

人間は多重人格が普通だと思っているので、色々な人格が出て来ることには驚かないが、ただ体の具合が非常に悪いときに、(私の場合)ネガティブなマインドが元気になって、あれこれの物語を語り出すのが不思議である。自分のマインドの中で、こういう会話(物語)を聞いていると、言葉で自分をいじめることには、ある種の中毒性があり、いくらでもひどい言葉を思いつく(苦笑)。一方で、いじめられて最悪最低の自分を感じることにも、快感というものがあることがわかる。最低最悪の自分を感じると、開き直って、「最低最悪で、文句あるか!」みたいに、突然、弱者エゴが強気に言い返したりして、なんか二人のお笑い芸人のコントのようだと、自分でも可笑しくなる。今は、スーパーいじめっ子エゴもスーパー弱者エゴも消散し、普通の人格に戻ってよかった。

風邪といえば、昔、愛読していた野口整体の『風邪の効用』(野口晴哉著 全生社発行)の中に書かれていたことを思い出した。

それは、たしか、風邪は治療するものではなく、「経過」するものであり、上手に経過すれば、健康によい効果がある。また「癌や脳溢血のような病気になる人は、それを発症する前の長年、風邪をひかない傾向がある」(本当にそうかどうか、正しいかどうかは、私にはわからないが)というような話だったと思う。今回、長引く風邪をひいて、肉体が癌や脳梗塞になる確率が少しは下がったのかも(!?)……

寒さが厳しい季節になり、皆様も心身温かくしてお過ごしください。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



















最後の1冊とは?2023年11月18日 10時31分53秒

[イベント】

◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年12月10日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月13日(水曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(12)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



今、『書楼弔堂-破曉』(京極夏彦著 集英社)という本を読んでいる。

時代背景は、明治30年代頃の話で、文明開化した東京の街にひっそりとある「書楼弔堂」という書店に縁あって来る人々と本の話である。読んでいると、明治という時代の文学的文化的雰囲気が立ち上ってくるような本である。

そして、元仏教修行僧の弔堂店主が、様々な客と、本について、文学について、人生について、文明について、あるいは仏教の悟りについてかわす会話が興味深い。特に本についての店主の考え方は、なるほどとうなるものがある。

「本は墓のようなもの」

「言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます」

「本は内容に価値があるのではなく、読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる――そちらの方に価値があるのでございます」

「どれだけ無価値な内容が書き連ねられていたとしても、百人千人が無用と断じたとて、ただ一人の中に価値ある何かが生まれたならば、その本は無価値ではございますまい」(「臨終」より)

本とは、他人が過去に書いたもので、それはすでに死んでいて、だから、「墓」なのだ。しかし、誰かがその死んでいるものを読むとき、読むという行為によって、本は復活し、その読者独特の何かが生まれる――共感、喜び、悲しみ、誤解、理解、反発、啓発、恐れ、不快、やる気、その他。

私も、『書楼弔堂-破曉』を読んだおかげで、私の中に新たに何かが湧き上がり、だから、今このような文章を書いているというわけである。

それから、無価値な本は1冊もないというのも、うなづける。確かに、個々の人にとって価値がある本とない本があるのは事実である。しかし、本は、一人でも本当に読む人がいれば、それで価値があると、私は常日頃そう思ってきた。本の価値を創造するのは、読者のほうなのである。

さて、本書の中で、本読みにとって、「最後の1冊」、つまり、「この1冊さえあれば、他の本はいらないという本とは、何か?」ということがたびたび、話題になっている。店主は、「本当は、本は1冊あればよいのです」とも言う。そして、人は最後の本に巡り会うために、本探しをする、とも。そこで私も、「自分にとっての最後の1冊とは?」と考えてみたが、答えがでない。

そして、思った。たぶん、本当に人を満足させる最後の1冊とは、物質的本ではなく、「私」という本なのだと思う。「私」という存在は物語&情報製造マシンである。毎瞬毎瞬、無の中から、物語&情報を創造(捏造?)する。そして、私たちはその物語&情報をお互いに語り合う。たぶん、私たちは、自分が語る物語&情報も、人が語る物語&情報も本当には理解しないが、それでも、お互いが語る物語&情報を聞くことで、ちょうと本を読んだときのように、また何かが自分の中に湧き起こる――共感、喜び、悲しみ、誤解、理解、反発、啓発、恐れ、不快、やる気、その他。

たとえ本を読まなくても(読めなくなっても)、人は「私」という本を読み続ける。ただ、人によって、「私」を深く読む人と表面的にしか読まない人がいるだけの違いだろう。だから、「私」さえ在れば、最後の本を探さなくてもいいし、そもそも、本さえ読まなくてもいいのだ。とはいえ……まだ、(私にとっては)本を読むことは楽しい。今年は、ものすごく久しぶりに京極夏彦さんの小説にはまって、楽しい時間を過ごしている。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



















ゴキブリが教えてくれたこと2023年10月31日 07時48分44秒

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(10)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



今、『Master Key to Self-Realization』 という、ニサルガダッタ・マハラジの師であるシッダラメシュヴァール・マハラジの講話をまとめた本(出版時期未定。たぶん、来年)を翻訳している最中である。本書については、来年詳しく紹介する予定だが、先日翻訳していた箇所はかなり心にひっかかった。

それは、本の最終章の中で求道者の献身について書かれている箇所で、要約すれば、「求道者は、あらゆる生き物の幸福に献身すべきであり、すべての生き物との一体化を感じる境地になるまで、献身しなさい」という主旨の内容だ。人間に関しては、すべての人を同じ本質をもつものとして礼拝する。それから、蠍や蛇などの危険動物も、殺してはならず、ただ遠くからそっと眺めるだけで、放っておきなさい。それから、ロバなどの動物は適切な世話を与え、大切にする。ここまでは賢明な話で、まあ理解できる(実践できる)話に思える。

さて、(私にとっての)問題はその先だ。さらに、「母が子供にお乳をあげるときに喜びを感じるように、人は自分の体から虫が血を吸っているときに満足感を感じるようになるべき」という主旨の話が書かれてある。これは私には非常にハードルが高い、ほとんど無理ゲ―(笑)である。正直に言うと、私は虫と名の付くものが全部苦手である。もちろん憎んではいないけど、できれば、目にしたくないもの。

他の生き物たちに対するシッダラメシュヴァール・マハラジの話の肝は、「もし人が生き物に敵意や嫌悪を持たなければ、彼らは人間を攻撃することはない」、つまり、もし人がそういう意識状態であれば、蠍や蛇は人に嚙みつかず、虫は人を刺さず、ゴキブリは人を困らせないという結論のようであるが、私には経験的にまだそれを実証できない(人間に関しては、たぶんそうだとは感じているが)。

同じインドのアドヴァイタの先生でも、ラメッシ・バルセカールは一応、シッダラメシュヴァール・マハラジ→ニサルガダッタ・マハラジの系譜に入るにもかかわらず、彼は(私が記憶するかぎり)自分の教えの中で、他の生き物との一体感とか、そういうことを強調したことはなかったと思う。また、何かに対する人の好き嫌いは、その人の(自分の意志ではコントロールできない)プログラミングにもとづき、それそのものが神の意志であり、人はそれを受け入れるしかないとも、彼は教える。私はむしろこういったラメッシの考え方に共感する。

「生き物の幸福とは何か」を突き詰めて考えるとわけがわからなくなるし、果たして相手が望むこと(喜ぶ)ことをしてあげること(することをゆるすこと)が、必ずしも相手のために、そして全体のためにならないときもあるのではないかという疑問も起こる――母の介護で、日々そのジレンマに直面している。私は自分に実践できる範囲で、自分の目の前にいる生き物(人間も含む)を傷つけないようにと心がけるが、それだって、いつも成功するとはかぎらないので、自分の「有罪」を受け入れている。

虫に関して、数年前のある日、私は奇妙な体験をした。それは、私がロバート・アダムスの『ハートの静寂』(ナチュラルスピリット発行)の本の作業をやっていた頃のことで、「ゴキブリ、南京虫など、命に優劣をつけてはいけない」という主旨の話を彼が語っている箇所で、そのとき、「ロバート・アダムスは自宅にゴキブリを見つけたら、どうするんだろうか?」という疑問がふとわいたのだ。

すると、なんと、まるでその答えのように、夕食を食べ終わって、ふと目の前の壁を見たら、大きなゴキブリが一匹、壁に貼り付いているではないか! 自宅でゴキブリを見たのは、もう20年以上ぶりで、私は本当にびっくりして、しばらくゴキブリを眺めていた。大昔であれば、さっさと殺虫剤で殺すか、掃除機で吸い取るかしただろうが、もうそうする気も起きない。どうしたらいいかまったくわからないので、一晩そのままにして、朝になってまだそこにいたら、そのとき改めて考えることにした。

ゴキブリが突然、出現した理由を眠る前、あれこれ考え、「家の中をもっと清潔にせよ!」というメッセージかもしれないと思い、翌日は、家中の大掃除をすることにした。翌朝、そのゴキブリはどこかへ消えてしまい、私は家中を大掃除したが、ゴキブリは見つからなかった。それでも私は、ゴキブリが増殖する恐怖に負けて、ずる賢くも「ゴキブリ〇〇」をいくつか仕掛けておいた。2週間経過して、その中を見たが、一匹も入っていなかった。たぶん、あのゴキブリは私に、「虫に敵意をいだくな!平等な存在として見よ!」と教えるために、まるで無の中から(!?)出現したかのようだった。

あれから数年、幸いというか、あの日以来ゴキブリを見ていない。そしてあの日以来、私は虫に対して前よりかなりやさしい(笑)。今生の終わりまでには、自分の体に止まった蚊に、やさしく血を吸わせてあげるくらいの境地にはなれるかも……


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)