ほんとうのこと

今日は仕事が休みだったので、井原先生の内観会に久しぶりに行ってみたらいつもと雰囲気が違っていた。

なんか人が多いなー。この人たち何者だろう?

と思って話の中に入ってみると、名古屋方面から10人ほど参加されていて、

活発に先生に質問したりして盛り上がっていた。

皆さん、いい笑顔
皆さん、いい笑顔

実は先日、井原先生の本が出版されていて、それを書かれた知花さんがお友達グループを連れてこられたとのことでした。

井原先生の本
井原先生の本

本の中身は、内観会でいつも先生が話されてることを詳しくまとめてあって、奇跡の話もいっぱい書いてあります。

知花さん、熊本の人じゃないのによく調べられてまとめていただいてありがたいです。

おかげでこの本が世に出ました。

そのこと自体ががすばらしいことです。

井原先生が歴史に残るわけだからね。

本の中では、井原先生が「大河原一精」って名前で登場してますけど、精霊一筋の井原先生にはぴったしのネーミングだと思いました。

それから、山下さんの娘さんに降りてくるようになった神様からのチャネリングメッセージも書いてあります。

例えば、こんなメッセージです。
味わってみてください。

————————————————–

あなたの痛みや苦しみは幻想だ。幻だ。

神様の世界を見失おうとしている時にあらわれる幻にすぎない。

神様のすばらしい世界に生かされているありがたさを、

あなたの全身全霊をかけて感じとりなさい。

そうすれば幻想は消えるのです。

目に見えるものにとらわれるのも、

すばらしい世界のことを感じられない時におちいる苦しみの一つですが、

目に見えない不安や恐怖にとらわれるのも、

自分自身がいかにすばらしい存在であるか、

ということを認識できていないだけなのです。

 

絶対的な素晴らしい世界、神様の世界では

すばらしいもの以外は存在しないのです、

実体はないのです。

あるように見えても、あるように思われても、

一時的なもの、力のないものなのです。

すばらしさの中でしか存在しえないものなのです。

そう、すべては、すばらしい想いから生まれた存在でしかない。

すばらしい想いの中だからこそ存在していられる

ちっぽけな、力のないものについて深く考えなくてもよい。

そんな必要は全くないのです。

2006年4月4日

——————————————————————-

井原先生がいつもおっしゃること・・・

神や精霊たちとつながって生きてることは

ほんとうのことだと思うよ。

今、この瞬間にも・・・

すばらしいことです。

 

母の旅立ち

それは、突然の連絡だった。

6月11日(金)の朝、普通に職場に行って「さぁ、仕事始めようかな」って時に福岡の姉からラインが入った。

「今、お母さんが救急搬送されてます」

えっ! と思ったが状況はすぐに掴めた。

母は7、8年前に大動脈瘤の手術をしていて、もし瘤が破裂したら命の危険があることはずっと医者に言われていたから。

姉に返信で電話したら、ちょうど母の手を握って最後の呼びかけをしていたところだった。

今日の仕事は中止、すぐに福岡へ向かった。

福岡行きのバスの中で、母とのことをいろいろと思い出した。

10年ほど前、私が精神的に鬱っていた時に人吉の温泉に行こうって誘ってくれたこと。

逆に母が夜中に具合が悪くなって私の部屋に来た時、朝まで一緒に過ごしたこと。

なぜか韓流スターのソ・ジソブに会いに一緒に韓国に行ったこと。

八代にいたときは、よく近所のスーパーに買い物にいったね。


母は自分のことよりも子供たちのことばかり考えてる人だった。

42年間、町の雑貨店を切り盛りしながら私を大学まで出してくれた。

私に音楽やら書道やらそろばんやら何でも習わせてくれた。

今思えば、私はまるで王子様のように育ててもらったと思う。

母から受けた恩に対して、自分からのお返しはまるっきし足りない。

これからたくさんお返しするからもっと長生きしてほしい。

でももう遅かった。姉から母の体は葬儀社のほうに移されたと連絡が入った。


天神バスセンターからスマホ見ながら歩いて、やっと葬儀社についた。

コロナが流行ってから母に会ってないので、1年半ぶりの対面になる。こんな形とは・・・


母の体は布団に包まれ横になっていて、まったく動かなかった。


私からは、たくさんの涙と「あぁ~、お母さん」っという声が出たが、涙のほとんどは申し訳なさから出た気がする。


それから2日間、お通夜~告別式と身内だけの小さなお葬式をしました。


この2日間はある意味すごい体験だった。

姉と私と子供たちは、母のことを思い出しながら、それぞれの思いを語り合いました。

母はいつも「私の人生は良かったー。思い残すことは何もないし、死ぬのも怖くない」と言っていました。

自分の写真アルバムの中から良いものを選んで縮小版にしてあり、そのミニアルバムを見ながら今語り合ってること。

今より少し若かった時に、葬儀用のきれいな写真を用意していたこと。

陶器制作の先生に習いながら、自分の骨壺を自分で造っていたこと。

ちょうど葬式代に足りるくらいのお金をちゃんと残していたこと。


母はパーフェクトに自分の旅立ちの準備をしていたのです。


2日間、母の体と一緒に過ごした私たちは最後のお経の後、棺桶に入った母の体の上にお花をいっぱい入れてあげました。


そして何度も母を呼びました。


お母さーん、お母さーん、お母さーん。

もうお別れだよ。お母さーん、お母さーん!

ありがとう、ありがとう、お母さーん。

またどこかで会えるよね。お母さーん!


その後、火葬場に行くために

母の体を葬儀社の駐車場まで運んで霊柩車に乗せようとしたときに、かすかにスーッと風が吹いてきました。

その時に、間違いなく私は見ました。

自分の体が入った棺桶上の空間に、 風と一緒に降りてきた母がいました。

彼女は体より少し大きくなっていて、すごく嬉しそうにしていました。


私は、手のひらを上にあげてみんなに言いました。


「わあーっ、お母さんが来てるよー」

「すごく嬉しがってる!喜んでるー!」


母は体から解放されて自由になり、とても喜んでいました。

意識もはっきりしていて、自分の人生が何だったのかはっきり見通せてるようです。


きっと、この世でいろんな面白い体験ができた上に、最後は思い通りに皆から見送られて旅立つことができて満足してるんだと思います。


現在、彼女の体は自分で造った骨壺の中だけど、意識体(アストラル)は自由に飛び回ってるんだよ。

ノブコ (享年87歳)


今頃気づいたんだけど、私の母はほんとにすごい人だった!


こんなパーフェクトな人の子に生まれたことを誇りに思います、


またどこかで会おうね。お母さん!


Love.

あるの話

2020年は、コロナで大変な年だったけど、21年になっても引き続きコロナやら寒波やらで大変です。

昨日は、チャリで通勤するのに寒すぎて死ぬかと思った。

熊本で-8度なんて気温は見たことないからねー。びっくりです。

じゅんころさんのギャザ以来、このブログも書くことなくなっちゃって(笑)、ずーっとサボってたんだけど何か書いてみようかなぁ。

そもそも、このブログは「悟りの探求」がテーマで始めたんだけど、最近はもう悟りは求めていません(笑)

っていうか

死ぬまでに悟らなければー、とか

悟った人はすごい! とかいう意識がなくなっちゃって、

まぁ、悟りというものに関してジタバタしなくなった

って感じです。

なぜなら、悟ろうが悟るまいが、あるはあるから。

説明してみるね。ちょっと感じてみてください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いま、世界があるよね。

なぜ、世界があるのか?

それは、あなたがいるから。

あなたが世界を感じて、自分の世界を創造している。

そして、あなたには自由が与えられている。

あなたは、どんな世界でも創造できる。

幸福な世界を創造することもできるし、

反対に、不幸な世界も創ることもできる。

天国や地獄でさえ創り出すことができる。

天国や地獄はどこかにあるものではなく、

あなたが創造した作品です。

S.O.S(そう思えばそうなる)の世界

引き寄せの法則、マントラ、津留晃一の世界

それらは、あなたにとってより良き世界を作り出す素晴らしい贈り物たち。

自分にあってるものを、どんどんやったらいい。

あなたの世界は思いのとおりに変わっていくでしょう。

そこでは、あなたがすべての創造主。

ある意味、あなたしかいない。

だから、あなたが死ねば世界は消える。

非二元や禅はそれらを超えていく。

非二元では、あなたはいないと言う。

実際に見てみるとあなたというものはない。

名前のない意識、波動のような何か

だが、確かに存在する何か、ある がある。

Jさんがこれしかないでー、パーン! とやる。

この時出てくるパーン! がこれではない。

パーン!は結果、パーン!が出てくる根源がこれだ。

これは「ある」であり、リアルであり、存在そのものだ。

だから、いま世界があるのは「ある」があるからだ。

その「ある」はあなたが死んでも消えない、あり続ける。

本当は、あるの中ですべてが悟っている。

だから、ジタバタしなくていいんだよ。

あなたはすでにあるなのだから

~~~~~~~~~~~~~~~~~

追記:

(じゅんころさんのこれについて)

もしかしたら言われるかも~って思ってたんだけど、Jさんから「しおちゃん、それ全然違うからー」って指摘を受けました(泣笑)

上でしおは、これ は根源であり、パーン!は結果であると書いてるんだけど、

Jさんがいつも言っているのは、パーン!=これ=事実ということ。

パーン!とこれにはまったく区別がなくておんなじだということです。

パーン!=これ=事実

ギャザで何回も聞いたんだけど、まぁ、わかってないんだよねー

しおが表現するとどうしても根源という言葉が出てくる。

なぜなら、しおの見立てでは、例えば

これが種であり、ぱーん!や事実は種から育った樹木や花だと解釈しているんですね。

だから、これが根源でパーン!は結果だと書いてます。

パーン!=これ=事実

この方程式は、見立て、解釈、考え方を全部捨ててただ見ないとわからない。

考え方を捨てて、ただJの姿を見ていた時に一瞥が現れたんだよー

っていうのもまた解釈なんだけどね。

Jさんはこれに関しては、まったく妥協なしの厳しい人だと思うけど

しおにはしおの表現しかできないので、このブログにはしおの解釈を入れて書いてます。

Jさんが指し示しているものは、解釈なしの生のこれです。

Jさんのこれについては直接Jさんに聞いてくださいね。

なんせ、しおはチンメソと瞑想の違いもよくわかってないんだから(笑)

コロナの春

今年の春は、コロナですごいことになってますねー。

3月から4月にかけて、卒業式は縮小開催、入学式は中止、授業はまだ始まらずで、これからどうなるの~って感じですが、

とりあえず、桜は咲いたし、

2020 桜

立田山を歩けば、いつも変わらぬ風景だし、

2020 立田山

パークドームに行ったら、誰もいないので貸し切り状態だし(笑)

パークドーム 誰もいない

個人の生活としては、いつもとあんまり変わらずです。

 

今回のコロナ騒動で一番感じたのは、やっぱり「情報」ってすごいなぁ~ってことですかねー。

「情報=情に訴える報告」って書くわけだけど、情報が伝わることによって人の心を変えてしまう。

今回事の起こりは、中国の武漢から新型のウィルスが発生したってことだけど、

そのことが情報としてマスコミやネットを通じて世界中に広がり、人々の気持ちを変えてしまった。

情報によって広まった恐怖心から、閉鎖的、排他的、守備的な社会に世界中がなってしまっている。

情報自体は、目には見えない、実体のない波動みたいなものだけど、それが伝わると瞬時に人間の感情や行動を変えてしまうんですよねぇ~。

やっぱ、波動ってすごい!っていうか怖い!

実際には、ウィルスなんて 誰も見たことないし、(小さすぎて見えない)

自分の目で直接、ウィルスにかかった人間を見た!という人もほとんどいないと思う。(見たことありますか?)

志村けんさんや岡江久美子さんが亡くなったことは、情報として知ってるのであって目の前のリアルな現実じゃないってこと。

人間って情報と現実を混同して、ごちゃまぜにしたものを現実だと思って生きてるんですよねー。

まぁ、そういう感想です。

 

で、まぁそんなコロナ騒動の中でも、

昨年のじゅんころギャザ以降、チンメソ生活に入っております

チンしおとしては、そのまんまを生きるってだけだけど・・・

そのまんま生きようとか思うと、そのまんまじゃなくなるので(笑)

まぁ、そのまんまのそのまんま、アホのまんま生きとりました。

 

でも、やっぱ根が探究好きなので、

あの時、福岡で見た「リアル」とは何だったのか?

ということをきちんと説明したくなってきて、また半田広宣さんのヌーソロジーあたりを漁ったりしています。

直感的には、あの時見た「リアル」はヌーソロジーで言う「人間の外面」のことだと感じているんだけど、

そこんとこもっと深く知りたい!探究したい!と思っています。

ヌーソロジーはめっちゃ難解っていう印象だったけど、

最近はYouTubeで岡崎直子さんなどが解かりやすい解説をされたりしていて、

半田広宣さんの話も前よりすんなり入ってくる感じです。

 

探究者にとって、面白いツールなのは間違いないです。

Jの衝撃、その後

衝撃のじゅんころギャザから2週間たっての感想です。

福岡でのリアル体験は、いわゆる一瞥体験と呼ばれるものだったと思うのだけど、感覚器官で感じる「体験」である限り、当然ながら消えてなくなります。

もう今は記憶の中です(笑)

 

その後の生活がどう変わったのか?と言われれば特に何も変わりません。

別に金持ちになるわけでもなし、ハッピーがいっぱいやってくるわけでもなし、日々普通に出来事が起こってるなって感じです。

体のほうも、寝違えて首が回らんとか、職場の階段登るのやっぱ疲れるとか、今まで通りで年齢なりです。

 ただ、ここ数年、血圧が高くてよく150超えて頭ボーッとなったりしてたのが、J後は121とか116とか最近なかった値が出たりするので、血圧が落ち着いてるようです。

Jのギャザは、高血圧に効く!(笑)

これは、言えると思うよー(笑笑)

 

表面的に起きることは、こんな感じで血圧以外はこれまで通りだけど、やっぱり何かが違うんだよねー。

うーん、それは何かというと、やっぱ、

Jが言う「これしかないでー!」が完全に納得できたってこと。

ほんとに当たり前に、目の前にある「リアルな世界」しかなかった。

一瞥体験だろうが、日常体験だろうが、体験するものは全部、目の前のリアルとして現れてくる。

どんな思考も、どんな感情も、宇宙自体でさえ目の前のリアルとして現れてくる。

言ってしまえば、「リアル=宇宙自体」なんよ。

これですべて、これ以上はない。どんなリアルも他にはない。

だから、どこに行く必要も、何かを探す必要もない。

目の前にすべてあったのだから。

 

一瞥体験後に、体験をした私が残って苦しむとかよくあるみたいだけど

私が残ろうが、残るまいが、リアルは今もずっとあり続けている。

私ではなくて、これ(リアル)のほうに目を向けよう

今までもそうだったけど、これからもそう 

目の前のこれ(リアル)を生きるだけ。

 

それからね

じゅんころさんって、やっぱとんでもないよ。

ただ話を聞いてるだけで、一瞥を起こさせるなんて

そんな人、他にいる?

そうはいないと思うよ。

Jは、実は・・・

おばさんの仮面をかぶった大魔神なんじゃなかろうか

なーんて、マジで思ったりする 笑(^-^;

ピロエちゃんとのコンビでパワーアップしたのかもね

首絞めても愛してるそうだから(爆)
    ↑
(これもマジすごいと思う)

J&Pは、今やる気とパワーに満ちて、

何か(それ)の波に乗ってる時期だと思う。

ぜひ、会いに行かれることをお勧めします。

じゅんころギャザ

2019年11月16・17日 復活したじゅんころさんの福岡ギャサリングに参加してきた。

会場は博多駅近くの会議室みたいなところでした。

初めて見る「生じゅんころ」は、ビデオのときよりふっくらされてて、やっぱりどこから見ても普通のおばさん?にしか見えない <m(__)m>汗

だが、話している内容は、ビデオでも言っていた「これしかないでー!」

ほんとにぶれないで「これ」以外のことはぶったぎりまくる。

じゅんころはなんでもぶったぎる「ブッタギリアン」なんですな~ってのが最初の感想でした。

しおから見たら、この世界に現れているもの、私、体、思考、etc・・・

結局すべてがストーリーなんだから、それはそれで認めてあげたらいいのでは?

だって、世間一般の人は、私はいる、体はある、思考もある、と思って生きているんだから自分もそう思わないと生きていけないじゃん!

とか思ったりするのだけど、Jさんは私はいないし、体もないし、思考もない、と言う。

つまりは「これしかないでー」ってこと。

会場のほうは、Jさんが鼻くそやらうんちやらおっぱいやら下ネタぶちかましながら進むので、爆笑!爆笑!の連続なんだけど、

しお的には、Jさんは一切の妥協無し、ほんとに厳しい人なんだなと感じた。

一日目の最後は、例のチンメソをならって終了。

もちろん、その夜はチンメソ三昧。これもしお的には・・・

オカリナ吹いた後にばーっと無がやって来たりとか、ストップ瞑想でちょっと無に入ったりとかと感じが似ていて、

まさに、らくちんこな瞑想法!とか思ったりするけど、

Jさんは「絶対違う!」って言うと思うので、詳細は述べないです(笑)

だけど、チンメソすごく気に入りました。

ありがとう、Jさん~!

~~~~~~~~~~~~~~~

2日目は、チンメソの感想とか、質問コーナーとかありつつも、やはりJは、お得意の手をパーンって鳴らして、これしかないでー!

しおも初日に引き続いて、いろんな質問をしていたけど、後半部分になるとちょっと異変が生じてきた。

Jの話を聞いているうちに、だんだんと頭が働かなくなってきて、胸のあたりも変な感じがして、めっちゃ気分が悪くなってきたのです。

しばらくこらえてたけど、これ救急車とかよんでもらったほうがいいかも?くらいになりつつも、Jの姿をただ見ていました。

そしたら、そのうちにJが最初っから言っていた「これしかないでー!」のこれが最初っから目の前にあったのが、リアルにわかってきたのです。

そのリアルはあまりに明白で、疑いようもなくあるので、もう何も質問が出てこなくなってしまった。

いつも目の前にただリアルがあるだけで、もともとリアルしかなかった。

私、体、思考、感情、リアル以外のその他全部は、みんな後付けで最初っからあるのはこれ【リアル】だけやった。

ほんと当たり前のことを、Jはただ言ってるだけやったんやー!

個人とか社会とか世間一般とかそんなもんどこにあるねん!

それあんたが勝手に想像してるだけやろ!

パーン!鳴らしたら、パーン!しかないねん!

パーン!も後付けやねんけどな(笑)

Jは厳しくもなければ、優しくもない。

ほんと、ただシンプルな事実を言ってるだけやった。

ということがはっきりした。

そこで見たリアルは気づきでもなければ、悟りでもなければ、覚醒でもない。

ただ、ただ、リアルだった!!

そのリアルが現れたのは、Jがそこにいたから。

福岡で2日間、ずっと見ていたJの姿は、

これそのものだった。

Love. J & P

じゅんころ復活!

2019年9月、あの「らくちんこ道じゅんころ」さんが「JunCoro」として復活されました~~~ バンザーイ!!

じゅんころさんは、2015年~2017年あたりの非二元ブームのころ、大阪のお話会ビデオがYoutubeにアップされて評判を呼び、

あのスピリチュアルTVでのテディさんとの名作ビデオが多くのスピ系オタクたちに衝撃を与えたのであります。

しおもこのビデオに衝撃を受けて、これの音声ダウンロードをスマホに入れて何百回も聞いたりしておりました。

ところが2017年の3月頃、突然にじゅんころさんは活動を停止してしまい、ついに1度もお会いすることなく、しおのじゅんころ熱も立ち消えになっておりました。

ところがまた突然に、じゅんころがJunCoroとして活動を再開したとの連絡が入り、もうすでに大阪や東京ではギャザリングなるものが行われているもよう。

さらに朗報は、11月16日(土)、17日(日)には、なんと九州・福岡にやってくるとのこと。

うっほほーい!こりゃ行くしかねえべーってことで、しおは申し込みも済ませました。

【11月福岡 申込受付】JUNCOROギャザリング in 福岡

上のリンクから申し込みできます。あなたも参加しましょう(笑)

復活したじゅんころさんと何回かメッセージのやり取りをしたけど、

なんかねぇー、すげぇ気合が入ってる感じがするんだよねー

伝えたいことがあふれてるって感じ。

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【最近のJunCoroのFB投稿】

私たちの本来の姿は、気づきだとか意識だとか、
覚醒すれば現実を創造できるとか、

二元と非二元、色と空の世界があるとか
幻想の私がいる限り苦しむとか、

悟ったら楽になるとか、
今年は集合意識がなんだとか、

そういうジョークにつきあって
必死になにかを追い求めて苦しむのは
終わりにしましょうという話。((´∀`*))ヶラヶラ

そしてこれもまたジョーク笑笑笑

あ、追記、傷ついた心もなければ蓋もないよ。笑笑笑
ほ、ん、ま。((´∀`*))ヶラヶラ
悟ろうとしてする瞑想、坐禅、チンメソも。意味なし(爆)

おやすみ(*´∀`*)

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ね、スゲェ気合入ってね?

前からそうだったけど、ぶった切りまくってる。

じゅんころ節 いよいよ初体験

めっちゃ嬉しいんだけど・・・

めっちゃ怖い気もするんだよねー

OSHO禅タロット

久しぶりの投稿です。

最近は、仕事上の事でいろいろな変化が集中してやってきて、ばたばたと忙しかった。

こういうときこそ、起こってくる出来事に惑わされず瞑想的でいようと思うんだけど、なかなか難しいね。

仕事上のこととなると、やっぱ生活もかかってるし、心配事が出てきたりもする。

この心配事も楽しんじゃえばいいんだけどねー

で、ここ2ヶ月ほど助けになったのが、OSHO禅タロット

  

<Amazon> 

タロットというと占いとかをイメージすると思うけど、これは「気づき」のタロットです。

しおの使い方としては、1日に1度、1枚引くだけ。
おー、シンプル!ってか、使い方よう知らんし(笑)

出てくるカードには、すべてOSHOの気づきの言葉がついているので、必ず何かに気づくんだよね。

その意味では、ハズレのないカードです。

全部、当たり!!! さすが、OSHO 笑笑

それから、不思議なのは出てくるカードは自分の想いとシンクロしてくるってこと。

攻撃的なマインドになってるときには、FIGHTINGが出てくるし、

ちょっと物事がうまく行ったりすると、SUCCESSが出てくるし、

無について探求してたときは、やっぱりNO-THINGNESSが出てきたし、

このタロット買って最初に1枚引いた時、The Masterが出てきたときは、ちょっとビビったけど・・・


占いというのは、未来が決まっていることを前提に成立するものだと思うので、

タロットを引くときも出てくるカードは決まっているのかもしれません。

OSHO禅タロットは、マインドとシンクロして出てきたカードに、

OSHOの気づきの言葉がさらにシンクロして、

より瞑想的なスペースへと導いてくれます。

人生ゲームの楽しみ方として、こういうのも面白いよね。

七身体の神秘

肉体が生きているうちに、7つの身体の問題を何とか解決したくて(笑)OSHOの本を読み直してみた。

7つの身体とは、人の身体は目に見える肉体だけではなく、目に見えない微細な波動体が重なって構成されているというものです。

OSHOによれば、人間がその本来の資質通りに、順調に成長していけば、7年ごとに次の身体→次の身体へと発達していくのだそうだ。

1.肉体 生涯の初めの7年間は肉体的な身体だけが形作られる。
     ↓
2.エーテル体(生気体) 7歳から14歳までに発達する
個人の感情が成熟する。感情の強烈な形である性的成熟が14歳で達成される。
     ↓
3.アストラル体(星気体) 14歳から21歳までに発達する。
理論や知性、思考力。教育や文明、文化から生まれてくる。
     ↓
4.メンタル体(精神体) 28歳までに成長するが、ほんの少しの人しか発達させれない。夢は第4身体の出来事で、想像力が発達する。催眠術、テレパシー、透視など普通にはない経験をする。可能性とともに危険もある。
     ↓
5.スピリチュアル体(霊体)35歳までに発達する。
第5身体を見出したものはごく少数。アートマンへ到達した者、霊的な人と呼ばれる。第5身体で止まってしまう者は神を否定する。ブラフマンはないと言う。ここで止まってしまう者も多いが、まだ先がある。
     ↓
6.コズミック体(宇宙体) 自然に発達すれば42歳で到達する。アートマンを手放す覚悟ができたときに6番目の身体に入る。
     ↓
7.ニルバーナ体(涅槃体) 49歳で到達する。何の身体ももたないニルバーナの、体であり体なき状態、無形の状態、ただ空だけが残る究極の状態。ニルバーナという言葉は炎の消失という意味を含んでいる。

 

OSHOの言葉を自分なりに解釈すれば、

まず肉体が生まれ、肉体を囲むように感情(エーテル体)が発達し、社会で生きていくにつれて思考や知性(アストラル体)が発達する。

ここまでは、通常の人間が誰でも到達する領域だが、第4身体(メンタル体)以降はヨーガや瞑想などの修行によって意識的に発達させていく領域になる。

第4身体を超えれば、第5身体でアートマン(真我)を発見し、第6身体のブラフマン(全一神)へと進み、究極の「無」へと到達する。

と言うことになると思う。

尚、OSHOは7つの身体に分類するが、他本によっては5分類であったり、アストラル体が感情で、メンタル体が思考と書いてあったりするものがあるので、明確にきっちり分けられてるものではないです。


そして、OSHOは言う。

身体が7つあるように、チャクラ(エネルギー中枢)も7つある。各チャクラにはそれぞれ対応する身体があり、ある特殊なかたちで繋がっている。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 7image-300x158.jpg です

●7つのチャクラと7つの身体の対応

1.ムラダ-ラ・チャクラ(→ 肉体と繋がる)

このチャクラに先天的に備わっている基本的な機能は、肉体の性的衝動だが、瞑想によってブラフマチャリア(性超越)が達成される可能性が眠っている。

2.スワディスターナ・チャクラ(→ エーテル体)

このチャクラに元来備わっている機能は、恐怖、憎しみ、怒り、攻撃性だが、コインの裏表のように反対側には、愛、慈悲、勇気、優しさが隠れていてそれらに変容させることができる。

3.マニピュラ・チャクラ(→ アストラル体)

マニピュラには疑いと信頼の二つの顔がある。疑いが変容されると信頼が生まれる。疑いが究極まで行くと疑いすら落ちていく。ここで「信」が生まれる。

4.アナハタ・チャクラ(→ メンタル体)

この次元の先天的な特性は、想像と夢見だ。想像力が完全に発達すると決断力、意志力となる。夢見が完全に発達すると超常的なヴィジョンに変身する。夢見の能力が完全に花開いた人は、目を閉じただけで様々なものが見える。

5.ヴィシュッダ・チャクラ(→ スピリチュアル体)

この次元では二元性がなくなる。男性と女性の違いがあるのは第4身体までで、それ以降は無くなる。ここには非二元的で唯ひとつの潜在能力しかない。第5身体へ入った人は無意識的なところが完全になくなる。夜も実質上は眠らなくなる。つまり睡眠を取るには取るが、眠っているのは肉体だけになり、内側で誰かが常に目覚めている。

6.アジナ・チャクラ(→ コズミック体)

ここにはどんな二元性もなく、存在や実存を体験する。「私は在る」はここでやっと失われる。「私」は第5の次元で失われ、「在る」は第5の次元を超えるやいなや消え去り「在るということ」が感じられる。もはや私の存在ではなく、ただ存在だけがある。

7.サハスラーラ・チャクラ(→ ニルバーナ体)

このチャクラについては何も語りえない。何かを語っても大半が誤りとなってしまうだろう。第6身体でブラフマン、究極の実存を体験した後もまだ旅が残っている - 非実存へ、非存在への旅だ。今や「私はブラフマンだ」の状態もまた捨て去らねばならない。最後のジャンプへの準備ができてこそ、人は存在、そして非存在をも知る。

~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、7つの身体と7つのチャクラの繋がりがわかったとして、我々探究者はどうやってそれを達成するの?ってことになるわけだけど・・・

うーん、わからんけど(苦笑)

まぁ、ヨーガでも気功でも瞑想でも座禅でもなんでもいいと思うんだよねー

要は、「見ること」「観照」を続けること。

覚醒した人とは、常に観照している人のことだから。

チャクラを順番に意識していく瞑想法があったけど、そういうのもいいかもしれません。

 OSHOチャクラ・ブリージング瞑想

気功をやっている人は、だんだんと「気」が見えてくると言います。

私も若い頃、公園の木々がゴッホの絵みたいにオーラに埋まって見えるという時期があったけど、次なる体の顕現というのはそんな形で現れてくる気がします。

7身体も7チャクラも通常は目に見えないものだけど、これもまた波動(素粒子の運動)なので波長が合えば「見える」のかもしれません。

メンタル体以降の身体は、未知の探検そのものだから、何が起ころうと
大いなる気づきをもって 、ワクワクしながらやっていきたいと思う。

この肉体があるうちにね。

Love.

無に憧れて

前回の投稿で「あの世とは無である」と書いたけど、その続きを書きます。

無とは何かというと、通常は何もない空間を指しています。

例えば、身の回りにある、何もない透明な空間。

そこは無と呼ばれる空間だけど、まったく何もないということではない。

身の回りの無の空間は、窒素や酸素や二酸化炭素などの目に見えない物質で満たされている。

では、そういった目に見えない物質をすべて取り除いた空っぽの空間(真空)が無なのだろうか?

いやいや、どうもそうではないみたいです。

量子論によれば、真空の中ではごく短い時間に素粒子が現れては消えるという生滅運動を超高速に繰り返しているそうです。

真空中の様相は、常に素粒子たちが揺らぎながら沸き立っていて、その運動の中から物質が現れるとのこと。

なので、「無は万物を生み出す素」であるとか、「無は有である」とか言われるわけです。

だが、これは完全な無とは言えないと思う。

完全な無とは空間さえもなく、ゆえに時間もなく、ゆえにこの3次元空間を超えた高次元の無のこと。

だから、無には「3次元空間中の無」と「高次元の完全なる無」の2種類ある。

 さて、私は「あの世とは無である」と主張したわけだけど、

「死んだ後にあの世に還る」のあの世について最近直感的に感じるのは、

肉体が死んだあと「高次元の完全なる無」に還れる人はほとんどいないのでは?ということです。

誰かが死ぬとその人の「目に見える波動である肉体」は活動を停止し「3次元空間中の無」に還ります。

が、より微細な波動の微細身(アストラル体、メンタル体など:7つの身体参照)は肉体を離れて3次元空間中に残るのです。

仏教などで、死後49日間は魂はこの世に残るといいますがその通りだと思う。

死後の我々の微細な波動体は地上の近くを漂っていて、徐々に地上を離れて完全なる無に還ろうとする。

その時の我々の意識は、肉体を持たないので距離や時間の制限がなく、夢見のごとく思いが浮かんでは消えるを繰り返す。

そこは、量子論で言う「我々は世界の創造主である」の通りに思ったことが即実現する世界なので、

天国や地獄があると思ってる人は、天国や地獄を生きることになり、

善人と悪人がいると思ってる人は、善と悪の二極の世界をこの世と変わらずに生きることになる。

肉体を離れた後も、この二極の3次元世界に未練があったり、波長が合う何かがある場合は地上を離れられず、ここで輪廻転生を繰り返す。

だから、ほとんどの意識体は本当の「完全なる無」には還れず、地上(この世)の周辺で何世も同じことをやるのだと思う。

では、地上(この世)から離れて、高次元にある「完全なる無」に到達する人とはどんな人だろう?

言葉で言えば、覚醒した人ということになるだろうけど・・・

もう人とは呼べない、個人ではない、覚醒した意識

完全なる無と一体化した普遍なる意識

 

~~~~~般若心経~~~~~

ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝
(往き往きて、彼岸に往き、)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝
(完全に彼岸に到達した者こそ、)
ぼうじ
菩提
(悟りそのものである。)
そわか
僧莎訶
(めでたし。)
~~~~~~~~~~~~~~~

ここでいう彼岸が完全なる無であり、悟りそのものである。

完全なる無こそが、涅槃(ニルバーナ)なのだと思う。

やっぱり、憧れてしまうんだよねー

 

 

 

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