わたしを通り過ぎた本たち

 

 


『ロゴスと巻貝』小津夜景著を読む。

 

友人の家に行くと、真っ先に目にしたいのが本棚だ。どんな本を読んでいるのか。
想像通りだったり、想像外だったり。本棚には、その人そのものが詰まっている。
他人の本棚を見るのは好きだが、自分の本棚を見られるのは恥ずかしい。裸を見られるよりも恥ずかしいかもしれない。

 

この本は、まるで著者の本棚を覗くような気分で読むことができる。それと本を述べるとともに自分の人生についても短く述べているので繋ぎ合わせると作者の人生が見えてくる。

 

まずは、本読みの言い訳(?)から。

「わたしはこれぽっちも読書家じゃないのである。そもそも本が好きなのかどうかまずもって怪しい」「なぜ本が嫌いなのかというと、読みたくても思うように読めなかった期間が長かったからだ。子どもの頃は体が弱くて、大人になってからはお金がなくて」、わたしは読書の機会をたびたび逃してきた。それで罪のない本に向かって卑屈にも「嫌いだ」と八つ当たりしていたわけである」

 

南仏ニース在住の作者にとって日本語の紙の本を入手するのは、困難かも。

 

「わたしは本に救われたことがあるのだから。これまで半生の、決して多いとはいえない宝物が本との出会いなのだから」「ただしいわゆる読書遍歴は語らないし、愛読書にも触れない」「同じ理由から良書リストを編む気もない。日々のどうってことない瞬間を拾いながら、その場でひらめいた本を添えていくつもりだ」

 

さまざまな本が取り上げられている。以下、ランダムに。

 

〇両親が本好きだったらしい。さらに母親はずっと『花とゆめ』など熱烈な少女漫画読みで母親の影響も多い。

 

〇小学生の時、自分の本を図書館の蔵書みたいにしたいと工夫してマネた。それに飽き足らず、学級文庫を提案して本を提供してもらった。集まったのは、ほとんどが、漫画本だった。

 

〇京都で大学生のとき、知る人ぞ知る古書店アスタルテ書房」でアルバイトをしていた。命名生田耕作澁澤龍彦も通ったという。作者は森ガールでもあった。瑤子じゃなくて、まゆみじゃなくて、茉莉。

 

〇漫画『ナニワ金融道』が好きすぎて大学卒業後、マチキンに就職。当時、大卒者は採用していなかった。拾われた1社に話が合う先輩、上司?がいた。ところが、入院することになる。先輩はお見舞いに京極堂の『姑獲鳥の夏』を持ってきた。

 

〇「高山れおなの私家本『俳諧曽我』」に強い衝撃を受け、俳句を作るようになる。

 

〇最初の句集を出すので銀行からまとまった額の融資を受ける。ラジオで穂村弘もそのことを話していた。句集は自費出版。それを先輩や関係者に寄贈する。それが慣行だと。サラリーマンだった穂村はなんとか費用を工面したとか。作者はSNSなどを活用して販売。評判が良く、正式に出版となる。融資も半分の期間で完済した。

 

〇カタい本もあるが、びっくりしたのは殿山泰司の本『JAMJAM日記』。この文体に著者もやられたそうな。

 

ニュートンの『プリンキピア』。さっぱりわからなかったが、「「一般的註釈」が哲学的探求」だったと。その翻訳詩にいたく感じいったので、まんま引用。

 

「プリンキピア(抄)

 

延長は神のダンスフロア
持続は神のスローモーション
主はここにそしてどこにもいる
なんだって経験している そんなスタンス

 

変わらぬパワーで全域をカバー
スペース&タイムを超えていくフロウ
空間の隅にも、至高のプレゼンス
刹那の時さえ、不変のエレガンス

 

すべてを包み込み 躍らせるけれど
神は傷つかない 物体の運動に
物体も抗わない 神の遍在に
超アクション 超リラックス それが至高のスタイル」


ニュートンは「ケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた」。授業のテキストにまだ未完の『プリンキピア』を用いたが、その先進すぎる内容にエリート理系学生たちはついていけなかった。委細構わず、ニュートンは『プリンキピア』を読む進めたという
エピソードを何かの本で読んだ。

 

巻末の「引用書籍一覧」には、おいしそうな本たちが。


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即戦力の即は、即席の即

 

 

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』竹内 洋著を読む。


教養は、たぶん、即効性がない。ところが、最近の教育は即効性を求める。大学がまるでビジネススクールのようになったのも、社会が学生に即戦力を求めるからだということになっている。しかし、即戦力の即は、即席の即、すなわちインスタントである。
企業がかつてのように若い人材を育成する余裕がなくなってしまい、スキル的にすぐ使える人を雇いたがる。

 

しかし、それじゃ、企業自体が脆弱化していく。すぐに役に立たない。というよりも、すぐに役に立つものは教養とはいえない。じゃあ、知識は。どうもこの知識も机上のものと思われ、経験と比べれば旗色が良くない今日この頃。どっちがどうと比較できないと考える者である。


本で得た知識と現場でたたき上げた経験知からの知識、刑事ドラマならこの対立図式は面白いのだが、ケースバイケースってとこ。知識と体験の根底にあるものが、教養だと考える。だって、根っこの部分が形成されていないと、知識も体験も、実にならない。
できれば、教養は小さいうちに叩き込みたい。「門前の小僧、習わぬ経を詠み」でいい。

 

ぼくが教養と聞いてイメージするのは、ヨーロッパ各国におけるラテン語の履修なのだが。あるいは「知を愛する」が本来の意味である哲学だとか。「何のためにやるの」と子どもにたずねられて、明確に返答できないくらいのものがいい。

 

悪評噴飯だった「ゆとりの教育」も-あれは生徒ではなく先生のゆとりのためという説もあるが-「教養の教育」とか銘打てば、反論も少なかったりして。なんでもかんでも悪い意味でのプラグマチックになってしまっている。学習塾は、進学のために受験テクニックを授ける場だけど、学校は違うだろ。少なくとも、公立学校は。

 

教養がないというと、またぞろ戦前の旧制中学や旧制高校を持ち出してきて「ノーブレス・オブリージェ」などエリート教育の必要性を訴えるというのも、一利あるかもしれないが、このあたりは今後の宿題ということで。


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』竹内 洋 (著)が、参考になるかも。
ただ作者の「昔はよかった」的スタイルが、いまに通じるかどうかは疑問。

 

「夢を見る。??これこそが、教養の力なのだ」と、web草思でのエッセイ(リンク切れ)で保坂は結んでいるが、このくだりがぼくにはイマイチ理解できない。

 

一時期、お題目のように出てきた「生きる力」、これこそ「教養」とイコールで結べないだろうか。


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エッジの利いた深夜アニメのようだ

 

 

『飛ぶ男』安部公房著を読む。安部公房って実に久々。

 

著者の死後、「フロッピーディスクに遺されていた」原稿。ミュージシャンなら未発表音源(ってぼくの常套句)。『飛ぶ男』と『さまざまな父』の2篇。

 

冒頭部。夏の明け方、謎の「物体」が飛翔した。某国の飛翔体ではなく、人間だった。それが、「飛ぶ男」。目撃者は3人。主人公の「保根治 男 36歳 中学教師」「不眠症」に悩む。「仮面鬱病」と「逆行性迷走症候群」を患っている。小柄で何もかも丸いメガネっ娘。「男性不信の29歳独身女性」「小文字並子」。もう一人が暴力団員。

 

「飛ぶ男」は、保根を兄さんと呼ぶが、彼には弟は存在しない。ところが、「嘘も百回言えば真実となる」ように、弟かもしれないと思うように。「飛ぶ男」が暴行魔と勘違いされ、「小文字並子」に空気銃で撃たれ、ケガしていた。


「飛ぶ男」の職業は「スプーン曲げ」。スプーン曲げ少年?いやいや、もうオトナなんだけど。彼女はなぜか彼が逃げ込んだ保根の部屋へやって来る。

 

フィリップ・K・ディックばりの暴力とスピードと不条理と黒い笑い。延々と書かれたパンツとブリーフの違いのくだりなど。保根の目の前で起きていることは、現実なのか、持病から来る妄想なのか。なんかドラッグでラリっているシーンにも似ている。庵野秀明の映画にも通じるものが。

 

アニメーション映画『スパイダーマン:スパイダーバース』や『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のスピーディーかつ大胆なアングルのフライングシーンをイメージした。だが、待てよ。この「飛ぶ男」、「時速2、3キロで滑空する」と書いてある。遅くね。鳥の速さをヤホー(byナイツ)したら、「1位はハヤブサ、時速180キロ」、スズメでさえ「時速45キロ」だそうだ。

 

アニメーションだと関係性が不明でも、1クール10話完結、最終話で無理やり大団円にしても、文句はつかないが、なぜか小説だとストーリーが破綻しているとか、矛盾しているとか、厳しくないか。この本は未完の書なんで、そんなことは言われないと思うけどね。

 

『飛ぶ男』と『さまざまな父』。関連性はあるので、作者が存命してたら、どう完結したのか。未完とはいえ、それぞれに、読ませる内容ゆえ、惜しいなと。『死者の帝国』のように、円城塔あたりに続きを依頼するはどうかな。と勝手に思う。

 

余談

昔、パルコ劇場で作者の演劇を見に行ったことがある。大胆なダンスパフォーマンスと音楽と舞台装置。演劇弱者のぼくは、不覚にも後半、熟睡してしまった。

 

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「今澁澤」って呼ばれてる作者の、小説デビュー作だって。どれどれ

 

 

『塔のない街』大野露井著を読む。古今東西のマニアックな文学に造詣が深くて、翻訳も名手。で、ついに小説を発表。だから、「今澁澤」(新一万円札の人ではない、念のため)という呼称がついたらしい。

 

自身のロンドン留学体験を下敷きに書いた短篇集。いろんなテイストが楽しめ、うほうほ言いながら読んだ。言ってはないけどね。

 

頃は「ルートマスター(二階建てバス)が「引退」した」あたりのロンドン。ネット検索したら、「2005年12月」だった。円安ポンド高のせいで何もかもが高い。家賃もそう。こんな部屋が、高額の値段。まるでバブル期の東京のみたい。何篇かのあらすじや感想などをば。

 

『劇場』
ようやっと部屋を見つけた「僕」。「週210ポンド、光熱費もこちら持ち」。ただし「部屋の改装はまだ途中」。いやな予感。映画を見に劇場へ行ったり、街を人々を漫然と眺めつつ、やり繰りの算段に頭を痛める。大学は出たけれど、定職にも就かず、
えいやっとロンドンへ来て見たが。ここで小説を書きたいと思うが、まだ白紙。それよか部屋の電灯が点かなくなったのをなんとかしなければ…。

 

『窓通信』
「僕」は、部屋の向かいの「建物の最上階」に住む女性の存在が気になりだす。いつも部屋のカーテンを開けている「あなた」へひょんなことで知り合った女の子に何号室かを確認してもらい、手紙を出す。まさかの返信が届く。実は彼女も「僕」の行状を覗き見していた。ヒッチコックの『裏窓』ならぬ相互覗き見。この手紙のやりとりに書かれた文面が、実にチャーミング。合間に紹介される大家のゲスぶりもなかなか。最後のオチが効いている。

 

狂言切り裂きジャック
いきなりハイランドから召集された医師である「私」。謎の男、ハイランドとバディを組んでさまざまな事件の謎に挑んできた。今回は時間移動(タイムスリップ)により1889年・ヴィクトリア朝のロンドン・ホワイトチャペルへ。そこは、かの切り裂きジャックの記念すべき最初の殺人現場だった。そして連続殺人が起こる。それはヤツの仕業なのか、模倣犯なのか。ユダヤ人バイザーに嫌疑がかかるが…。


『 舌学者、舌望に悶舌す』
ロンドンに暮らし始めてから「僕」はイギリス英語で通している。アメリカ英語ではなくイギリス英語を使えないといっぱし扱いされないとか。部屋探しで日系の不動産会社にアポを取り、物件先で待ち合わせる。たぶん年上の日本人の営業ウーマン。半地下の部屋でさえ高い!知り合いの日銀氏はエリート意識が高いが、アメリカ英語を少し話せる程度の語学力。紅茶専門店にいるアルバイトの東洋人の女性。たぶん、日本人と思うのだが、イギリス英語を話す。「僕」は官費で暮らしている官僚や研究者よりも自活している彼女の方に好感を覚える。タイトルの韻の踏み方がいい。

 

『 秋の夜長の夢 ド・ポワソン著』
憧れの地、日本へ長い船旅でやってきたド・ポワソン。案内された上野の旅館で日本情緒を満喫する。襖に何やら切れ端が見える。鳥瞰窟主人という人が書いた詩だった。あ、ひょっとして『四畳半襖の~』の本歌取りか。大英図書館の図鑑に挟まれていたものを訳した「僕」。ド・ポワソンの素性や詩についての考察が書かれるメタフィクション。この手では、田山花袋の『蒲団』へのオマージュ、中島京子の『futon』が面白かったが、本作もうまさが冴える。

 

『おしっこエリザベス』
ガリヴァー旅行記』(小人国篇)と『不思議の国リス』をマッシュアップしたような作品。エリザベスの不可思議な冒険。金子國吉か宇野亜喜良の装画入りのオトナの絵
本で再読したい。

 

『塔のある街』
パリは塔のある街だが、ロンドンは塔のない街。いやいや、漱石でおなじみの倫敦塔があるじゃないか。帰国間近の「僕」。電灯は結局、ダメだった。ようやく修理工が来たが、大家は工事OKの確認の電話に出ない。漱石のように神経衰弱には罹らなかったが、孤独と怒りに「蝕まれた」ことに気づく。「旅行社に就職した」友人が来る。最後に大家へのリベンジの手紙を出す。昔、読んだ中島義道の『ウィーン愛憎』のロンドン版ってとこだろうか。

 

下記の評論が秀逸。

web.kawade.co.jp


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読みしめたい「哲学のエッセイ」集

 

 

 

『生成流転の哲学 人生と世界を考える』小林道憲著を読む。

 

「宇宙、時間・空間、人類、芸術」など多岐にわたり、文系から理系まで踏まえた短い「哲学のエッセイ」が収められている。まずは目次を眺めて興味深いテーマから読み出すと知的好奇心を大いに刺激してくれる。読後感が、どことなく寺田寅彦のエッセイを思わせる。参考文献や人名・事項索引もあるので、さらに詳しく知りたい人には手助けとなる。

 

こんな感じ。

デカルトの自己は、世界の外に立って世界を見ている。しかし、われわれは、世界の中にあって世界を観察している。―略―しかも、この世界内主体は世界の中で行為する。―略―だから、私が在るのは、考えるがゆえにではなく、行為するがゆえである。
目を退化させたモグラも、掘りながら土を知り、己を知る。モグラデカルトに対して言うだろう。「われ掘る、ゆえにわれ在り」と」(「3 時間と空間  モグラデカルト」より)

 

「オランダの版画家、M.C.エッシャーの作品に、―略―「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」」と題する作品がある。―略―悪魔が踊っているようにも見え、天使が踊っているようにも見えるわれわれの視点を主観と言い、天使と悪魔が折り重なっている絵を客観というとすれば、天使や悪魔はわれわれの見方次第で現われなかったりするのだから、主観と客観はいつも一つになって対象を作っていることになる。そこに現われている悪魔や天使は、単なる客観でもなければ単なる主観でもない」


量子力学のもう一つの原理、相補性原理でも、光や電子は、粒子とも見ることができるし波とも見ることができる。波として見るか、粒子として見るかは、観測者次第である。量子力学では、物質のもつ粒子性と波動性は相補的であり、しかも、両者は同時に観測されることはない。ここでは、世界は、いわば波と粒子の重ね合わせの状態にあり、われわれがそれをどのように観測するかによってのみ、現象は一定の状態に収束する。この点でも、これは、見方によって天使とも悪魔とも見られる「円の極限Ⅳ」に似ている」「6 人間について  エッシャーの多義図形」より )

 

「生々流転」ではなく「生成流転」、その哲学とは。あとがきから引用。

 

「天と地、生と死、善と悪、聖と俗、煩悩と救いなど、相反するものは相補って存在し、それらが絡み合って、生成流転する世界は成り立っているという考えである。―略―絶えることのない変化の流れの中で、すべてのものは生成する」

 

噛むと噛みしめるという言葉がある。後者の方が、より奥歯あたりにギュッと嚙む力が加わる感じ。で、読むに対して読みしめる。あ、正しい日本語ではないかもしれないが、この本は、読みしめたい本。

 

M.C.エッシャー「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」」


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「顔が濡れると力が出ない」

大昔、風呂に入りながらラジオを聴いていたらゲストがやなせたかしだった。
アンパンマン」誕生秘話みたいな話。はじめは子ども向けの絵本は乗り気でなかったという。
 
やなせ曰く「少年・少女漫画のトレンドは6年、幼児向けは1年」という。しかし、「アンパンマン」は、子どもたちからの支持を得て、大ロングセラーとなる。勧善懲悪ものがいいのか、キャラがかわいいのか。
 
子どもが、かかりつけの小児科だったか保育園だったか忘れたが、いっとう最初の『あんぱんまん』(最初はひらがなだった)の絵本を読んだことを思い出した。
 
絵が全然違っていて、アンリ・ルソーマグリットのようなヨーロッパ幻想絵画の色調。
 
お腹を空かせた人のために、あんぱんでできた頭部を差し出すのだが、いわば臓器を提供するようなもので、とても重たく暗い内容だった。
 
ラジオでは「アンパンマンのマーチ」の歌詞の深さを尋ねていた。こんな歌詞を子どもが歌うとはいいことだ。まんま引用。
 
作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし 編曲:大谷和夫
 
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
 
なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
 
なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
 
時は はやく すぎる
光る星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな敵が あいてでも
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため     」
 
 
政治家や経営者にも歌わせたいものだ。
 
子どもが最初に覚えたのは「アンパンマンは君さ」って歌。「アンパンマンたいそう」だった。
 

フェティッシュ・モード―視覚的って書いたけど、触覚的の方が適切かもしれない

 

 

『彼が彼女の女だった頃』赤坂真理著を読む。

 

作者は一貫して現代人の身体機能不全を書いている。っていうのは大げさか。病気、失調、変調など、一見それはアブノーマルのように思えるが、よおく考えていくと、誰もが経験する、もしくは経験する可能性があり、ノーマルとの線引きは、曖昧なわけで。そこらへんのグラデーションのあたりを視覚的、映像的な文体で、実に巧みに文字化している。

 

最新モードやトレンド、音楽への造詣が深いことも、現代の濃厚なリアリティを出すのには欠かせないことだろう。

 

本作は短編小説集で、結果的にいろんなテイストで構成されている。ともすると、落穂拾い的寄せ集めの短編集ってのがあるんだけど、これはアタリ! まるで洋楽のような日本のロックっていう感じ。洋楽かと思って聞いていると、日本語の歌詞が途中からはじまる、そんなJ−WAVE御用達のような…。

 

SM、ボンテージなどのフェティッシュな世界やクラブなどの世界をテーマにしても、村上龍のような過剰なまでの情報サービスはなく、あくまでもクールに、淡々とエロティシズムを表現している。

 

たとえば、こんなとこ。『桃』という作品で女の子が、街中でナンパされた台湾人と桃を食べるシーンが出てくる。桃を食べるというと、鈴木清順の映画の有名なワンシーンを思い浮かべるが、かなりエロティック。桃の芳香と齧ると果肉から滴り落ちる果汁。どさくさまぎれに、彼女は彼に胸をまさぐられ、乳首をつままれる。彼女は、つやつやした「絹のサテン」のノーパッドのブラジャーをしていて、「乳首の固く尖るのをすぐ外に伝えてしまう」。

 

視覚的って書いたけど、触覚的の方が適切かもしれない。肌触り、触感。やっぱり、身体的。意図的なのか、作者の資質なのかは知らないが、即物的で、低体温。だけど、カッコいい。広告のコピーだと本文は、ボディ・コピーっていうんだけど、ナイスボディ・コピー。

 

思春期特有の衝動的な苛立ちを描いた『幻の軍隊』が秀逸。心の中のピストルの引き鉄。心の中でとどまるのか、実際に、行動に起こすのか。あやうさ、あやふやさは、ナウだよね。

 

短編小説だから当たり前だけど、文字数は少ない。けれど、行間から伝わるもの、読んだ後の余韻が心地良く、何度も、それを噛みしめた。

 

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