『思いがけず利他』中島岳志著を読む。
「情けは人のためならず」という諺(?)がある。情けを他人にかけることはめぐりめぐって自分に帰ってくる。本来は、こんな意味だったが、最近、情けを他人にかけることは結局、その人のためにならない。という意味がまかり通っているようだ。「自己責任」が流行語になった頃からだろうか。
知っているようで深くは知っていない「利他」という言葉。それはどういうことなのか。そう思いつつページをめくった。適宜引用。
「私たちは「与えること」が利他だと思い込んでいます。だから「何かいいをことしよう」として、時に相手を傷つけてしまうのです。これが「利他」の持つ「支配」や「統御」という問題ですね。利他が起動するのは「与えるとき」ではなく、「受け取るとき」です。これは重要なポイントです」
「わかりやすいのはプレゼントをもらって「うれしい」と感じるときです。―略―これは贈与の受け取りが成功していますよね。ただし、―略―この贈与は負債感につながることがあります。自分も相手に同じぐらい価値のあるものを返さなければならないと思い、それができないでいると「負い目」を感じて、相手との関係がおかしくなってしまうことがあります。場合によっては、「与えた人」と「受け取った人」の間に優劣関係が生じ、時に支配/被支配の関係を構築してしまいます」
作者はマルセル・モースの『贈与論』からポトラッチなども踏まえて考察している。興味ある人はポトラッチを検索。「北アメリカ先住民」の過剰なまでの贈与儀式に笑ってしまうかもね。
「何かいいをことしよう」として一方的に「与える」。これは、なんちゃって利他。利他ではなく利己だと。たとえばボランティアや介護士、医師、看護師、先生などなど、「与える」のいわば押し売り。相手側との圧倒的な非対称。
「認知症と診断されると、周りの人や介護従事者は、認知症の人たちに「何もしないこと」を強要しがちです。仕事をすることから遠ざけ、掃除や洗濯、食事など日常生活にかかわることも、何でもやってあげる。それが「ケア」だと思われてきた側面があります」
そうではない事例として「認知症と診断された高齢者」4人がホールで働いている「ちばる食堂(愛知県岡崎市)」を取りあげている。「コンセプトが「注文をまちがえる料理店」」。「間違いに寛容な社会を形成することで、認知症の人たちも尊厳を持って働くことができる環境」の整備。「その人の特質やあり方に「沿う」ことで、「介護しない介護」が成立する場所を作ろうとしています」
そうか。「ケア」は「利他」なのか。
「私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。発信と受信の間には、時間的な隔たりが存在します」
「親の小言と冷(ひや)(酒)は後で効く」。そこに利他が付加される。