爆竹の電子音で邪気を祓う

2010年2月13(土)
 
大晦日である。旧暦の。iPhoneに入れてある爆竹の音の出るソフトを起動して邪気を祓う。そう言えば今年は春節と情人節が同じ日である。
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ロワール渓谷の木靴職人に再会

2010年2月10日(水)
 
ジャック・ドゥミ監督のドキュメンタリー映画『ロワール渓谷の木靴職人(Le sabotier du Val de Loire)』(1955)をケーブルテレビで観る。劇場勤務時代に上映したことがあり、観るのは2度目。映画誕生100周年の記念企画でフランス側が用意したドキュメンタリー映画のパッケージ「リュミエールの世紀」が世界を巡回したのだが、日本ではうちとアテネフランセと草月ホールが予算を出し合い、共同で受け入れたのだった。1989年冬のことである。『ロワール渓谷の木靴職人』はその中の1本。つまり20年ぶりに観たことになる。

 

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機械は電気羊の夢を見る

2010年1月24(日)
 
 『夢見る機械』より 新宿の西口の光景。後ろは小田急ハルク。
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千のナイフ

2009年11月23日(月)
 
  久有凌雲志重上井岡山
  千里来尋故里  
  菖貌変新顔
  到處鶯歌燕舞            
  更有澱澱流水
  高路入雲端
  過了黄洋界
  険處不須看

  風雷動 族旗飛 是人寧
  三十八年遂去 弾指一瞬間
  可上九天撹月 可下五際捉鼈
  談笑凱歌遂
  世上無難事 只要肯登欅
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Cape Skoton にて

2009年9月12日(土)
 
 
 
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兪賢穆「映像芸術の望ましい未来像」3 

 これを実験派集団の中でも劇映画志向の若者たちの代表格であるジョナス・メカス(前衛芸術新聞『The Voice』主幹)は、熱を帯びた語調で次のような「宣言」をした。

 「……芸術と人生の嘘八百には、これにはもう嫌気がさす。他のさまざまな国の若い同志たちのように、新しい映画を創造するのみならず、我々の新しい人間を志向する場である。芸術作品と比較するほど、我々は新しい人生の創造に全身を投入する。きらめいて美しく整えられているが、作用内容が嘘八百である「インチキ映画」は是非もうやめてくれ。例えば荒くて低い完成度の表現表現でもいいが、赤裸々に生きている映画の方がより切実なのである。観客はバラ色の夢を抱かれる映画ではなくてもいい。我々が渇望するものは血の色をした映画なのである」
    
 
 この宣言ではその他に検閲問題と規制財力の鉄壁のような配給システムを鋭く糾弾しているが、これは体制的な論理や体質に反感を持つ若い世代に圧倒的に支持を受けると同時に、このような反商業主義的映画に対する関心が全米に波及し進んでいる。
 この傾向は強い「アンチ・ハリウッド」の感情を入れて、いわゆる「ニューヨーク派」と呼ばれる「独立映画作家」の集団であるニュー・アメリカン・グループを発足させるようになる。これらは映画に対する検閲を拒否し、映画における個人的な表現の重視を讃揚する声明を発表しながら、映画のために財政と配給を相互協同しようという決意を持った。
 これは次々と「オフ・ハリウッド」という総称で全米に拡散しながら、巨額の製作費と施設を拒否している。小規模の私的な独立プロダクションで携帯用機材で少人数編成、スタジオ排斥のリアルなロケーション撮影、そして高い商品俳優の拒否などで、低予算の製作が可能になる。ここで企業体制の惰性と束縛から逸脱する自由な主題意識と方法で、集団組織の創作ではなく、すなわち文学・音楽・画家と同様に「個人創作」の時代を、そして脱大衆化時代を迎え入れようとしているのである。
 このような企業採算的目的ではなく、「個人映画」は観客との接近の場である劇場企業に迎合することはできない。大劇場の概念は高い興行価値と結合されるためその工業製は大衆と通俗性を全体として妥協する。個性的主張と発言が強い個人映画が大型観覧場を拒否しながら、作品と交感される特殊階層たちを要求している。小劇場制に転換すればいいのかという提起もありうるが、その建築主たちは、むしろスーパーマーケットが有利になるはずで、たとえ成ったとしても製作側は不当に搾取されるものと決まっている。
 そうであれば「個人創作時代」の不可避な大勢は、どこで観客と出会わなければならないのか。これは現代のエレクトロニック・テクノロジーが抱かれたVTRシステムの加速度的な普及率に希望をかけるしかないと思う。廉価指向の普及率とともに近い未来が解決し、  TVの知識階層別・嗜好別・専攻別のシステムが反映され、さらに自由な選択のVTRテープカセットは低廉、精鋭繊細化されるのである。したがって、万年筆とノート帳、そして本のように生活必需品化することは間違いない。
 
 Ⅲ章
 
 「個人映画」傾向を見ている世界映画界の動向は、今日「反ハリウッド」の波とともに台頭を始めている。
上述したように一世紀も経たない間、映画的表現様式は、急激ながらも多様な姿をしている。   傾向であれば未来のものをさらに不可知のものとなることであり、ここに参与する映画作家の数も膨脹一路にあることを、今日の現実からも知ることができる。
 多様な表現機能の映画、多数の声を高めようとする個人的欲望、これらの未来はどんな状況で現れるのか。ハイ・テクノロジーの発展形態とともに次のように予測してみる。
 文明批評家、アルビン・トフラーが予想した「第三の波」は、産業、文化構造の多様化と脱画一化、多品種少数生産を思考すると述べた。
 比喩するに、映画芸術の歴史過程も農耕革命を成した「第一の波」のように映画媒体と美学の育種時代を経て、産業革命を経て、産業革命を駆けてきた「第二の波」のように、巨大なハリウッドの規格的、大衆用大量生産と大量の同時空間的消費、配給網の独占権勢化は、すなわちアルビン.トフラーの主張のように規格化・同時化・中央執権化を意味する。
 これから今や開幕した「第三の波」時代は、作家の「多様化」した個人的発言の主題意識と多様な美学の自由な選択にあり、作品内容の画一的マンネリズムと多階層的大衆の平均値としての画一性から離脱する「脱画一化」の現象として表れようとしている。そのため、必然的な結果として小品主義に集中されながら、選別階層のため、販売量の制限と作品種類の多様性を意味する「多品種、少量生産」の傾向につながるのである。
 このような現実性のある未来像のためには、既存の映画産業の構造を変更しなければならず、そのためには新しい配給流通の経済学を成立しなければならない。一方電子産業と関連した映像媒体を芸術容器化する研究啓発と、作家財政の保護による無断複製の技術的制限などが、技術的側面と、そして映画芸術のアカデミズムによるさらなる映像美学の飛躍的革新のための映画人養成の教育形態、映画産業の沈滞化の悲観論から抜け出して、映像の新しい時代のための新しい変革を指導しなければならず、このための時策の開眼も要求されなければならない。
 反芸術化する今日の劇場映画文化の退廃状況と画一的大衆文化の弊害を一日も早く具体化し、生命を養育する時代と環境であることを期待する。
 そしてこれからの劇場文化の存在様式は超大型スクリーン、マルチ・スクリーン、立体スクリーンなどに適応するスペクタクルな劇映画のスタイルと環境芸術的様相ではないかと推測される。(了)
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兪賢穆「映像芸術の望ましい未来像」2 

 大量生産とハリウッド的な画一主義、そしてさまざまな様相を押し込んだスタイルのマンネリズムは、いよいよ第二次大戦前後から出発したイタリアの〈ネオリアリズム〉を誕生させた。
 この運動は戦争体験とその抵抗を契機として歴史を主体化するという意図で開花したものだが、その方法の特質は何よりもカメラと現実が接触して始まった。30年代の映画が計算されたドラマの枠を前提に、ドラマを単に視覚化するという手段であるだけの〈カメラ〉の消極的機能に対し、〈ネオリアリズム〉は映画のもっとも素朴で基本的な〈映像〉のリアリティから出発する。この時にカメラはまず現実的状況の内部に位置し、カメラを持つ作家の主体的体験がそのカメラを通じて把握される。
 一つの状況に対するカメラの位置の選択、すなわちこれは作家の目として現実に対する政治的・思想的立場なのである。映画はカメラが直視する状況と作家の闘争から表出される。この時に30年代映画の演出手法、すなわちドラマを正確に伝達するためにすべての場所で分かりやすい対象を捕捉し対象を解体し、作家の意図によって再構成される演出手法を拒否するのである。
 そうして一つの対象を別の対象との関係で表示して現実の多様な形象を採取し、そこに現れる現実の構造を立体的に表出する演出がネオリアリズムの基本的な様式なのである。
 我が国で6・25動乱直後に上映された『??』、『自転車泥棒』、『ヨーロッパのどこか』、『靴みがき』を回想してみるなら、ここに表れた特異な演出技術は観客の徹底した凝視を眺める〈長いカット〉、ある画面の中の多様な被写体の中の様々な対象との関係からくる葛藤的要素を表出しようとする〈深い空間〉、既存モンタージュ(編集)の人工的操作術を忌避しようとする傾向、特長ある英雄的人物を中心にしていない〈中心なき構図〉を見ることができる。この技法は当時新鮮な感動で全世界を支配したが、徐々に高度化し乱雑な水準で指向したが、大衆的基準を破壊し興行の基準を破壊する興行的採算から抜け出し、やがて5~6年の思潮で短命だった。
 1950年以後、映画に一貫して流れたのはTVに対する危機感で、その危機意識は〈映画とは何か〉という終わりなき自問を通じて創作の根本を強く支配して進んでいく傾向にあった。すなわち映画の存在理論、映画で何ができるのか、そして映画の表現構造の懐疑論が提起された。少なくとも30年代、40年代までの映画にはそのような意識はなかった。50年間もかけて構築したコミュニケーションのシステムを指して、これが〈映画〉であると信奉したし、したがってその信頼の中で映画という特殊地帯に安住してきたのである。
 そうして50年代に入り、TVが〈映画〉の既成概念を破壊した結果、映画を創作する行為は映画を再び初めから探究する地帯となった。その結果、映画的表現と映画のジャンルは極度に細分化され、多様化する傾向をもって拡散し始めた。一つの整頓された画一主義の制作方法は変化を起こす一方、作家の個性と思想が作品の性向を強く左右する状況で今日にいたっている。いわゆる自分だけの映像的思考で作品を制作しているためである。
 このような例証の出発から、1950年代末から60年中期まで育成した、フランスの〈ヌーベルヴァーグ(新しい波)〉の若い映画人たちによる作品時代をあげることができる。この傾向は、作家による多種多様であるが彼らの特質は規制の演出手法の否定、映像による映画の探究、作家個性の主張、意識の映像化を重点的に創出する方法である。フランソワ・トリュフォーの即興的カメラワーク、映像を思考の媒体とする演出、アラン・レネの過去と現在を組立て意識の同時的流れを表出する映像構成は、映画による新しい世界を開拓するのである。これらは新しい演出技術という広義の共通点があるだけで、これら相互間の類似品や主義は存在しないため、流派を形成しない。むしろ反流派性を長点としている。もう一つの特長は少額の製作費と製作スタッフ人員数の極小化である。
 続いて60年代後半には〈シネマ・ベリテ(映画的真実)〉運動が台頭し、これらはカメラの眼(レンズ)が持つ絶対的な客観性を信頼し、もしこのレンズで生き生きとした現実を捉えるならば、そこに〈真実〉を発見することができるという、一種のドキュメンタリー映画精神の発展された形態である。精鋭化され軽量化された16ミリカメラを駆使する叙述形式だが、これは現実状況を捉えるTVのリアリズムに強く影響を受ける所産と言うことができる。
 ヌーベルヴァーグの旗手であり、映像派理論家であるアレクサンドル・アストリュックは「カメラ万年筆論」を主張し次のように述べた。
 
「私は映画のこの新しい時代をカメラ万年筆時代と呼びたい。その映像は非常に正確な意味を持っており、それは映画が少しずつその視覚、映像至上主義、直接的な挿話、具体的なものなどの圧制から解放され、字(万年筆)で書く言語と同じことで、流暢で繊細な文字の一つの形式になることを意味している。どのような分野も映画では立入禁止をする方法がない。徹底してすべての皮をはがした瞑想、人間の生産に対する一つの見地、心理学、形而上学、各種の思想、さまざまの情熱などは、非常に正確にその領域に入ることができる。さらによく言えば、我々は世界に対してのそのような思想とそのようなビジョン  は、今日映画だけが説明することができるようになったことを意味する。今日デカルトのような人がいたなら、16ミリカメラとフィルムを持って彼の〈方法論序説〉を書くであろう」
 
 この言葉は文字媒体に優越する映像媒体の機能性を讃揚、そして誇張されたように、ひとつの現代と未来社会の複雑多岐な状況の中で符号的性格を帯びた文字媒体の限界性を指摘してもいる。そして映像言語による映像的思考時代を予告してもいる。
 一方、ところが大衆を至ることはやはりハリウッド流の娯楽産業としての大量生産物の映画だが、ここで抗拒して反商業的な実験精神の若者たちが第二の前衛映画時代を開いている。
 第一次大戦直後の〈前衛映画〉運動がヨーロッパを中心に起きたことに比べ、第二次大戦以後はアメリカを中心に起き、今日世界全域に破竹の勢いで拡散している〈実験映画〉運動は質量面で比較できないほど膨大なものである。今日の運動と20年代前衛映画とは三つの点で異なるところがある。一つに、今日のものは過去のような方法上の共通分母を持つイズム、すなわち絶対映画、純粋映画などのような潮流はない。ここでは想像を絶する多様な傾向で  かなり  一人一波の〈個人映画〉と見ることができる。二つ目としては、小型映画である16ミリ機材が低廉化され、また高感度フィルムに精鋭化され急速に大衆化されたという点であり、したがって簡便かつ低廉な製作費で可能なために、作家の数は圧倒的に増加した。三つ目はトーキー化による過重なな負担と、政治危機制圧から、表現の自由を得た点である。
 これら個人主義的で、個人製作または〈個人映画〉、〈私的映画〉といえる各種の作品の中からいくつか紹介してみよう。アメリカの実験映画は出発点から過去のシュルレアレスムとアブストラクト・アートから継承したが、マヤ・デレンの『午後の網目』は悪夢なのか妄想なのか混沌とした映画で、鏡、少女、ナイフのようなものの象徴的形象を反復表現し、潜在的な強迫観念が死に繋ぐようになる過程を描いたし、ケネス・アンガーの『人造の水』は神秘主義的幻想のイメージの交錯と弁証法的な過程表現、シドニー・ピーターソンなどの『鉛の靴』、『   』は、題材に隠喩的ないし象徴主義的手法で深層心理の非合理世界を可視化しようとする方向を堤示しており、ウィラード・マスの『身体の地理学』は、きわめて即物的な視覚経験を非日常化しようとし、スタン・ブラッケージの製作品は純粋に個人的な眼識から信じられないほど繊細に意識が世界と交織する予測できない動きを映画で創出した。
 そのほか、雑誌写真を切り取って眩しくコラージュしたアイロニカルな幻像の世界を、既成映画のアトラクティブな断片を再組立し、一種の違化的な狂気をフィルム映像のフレーム単位でコラージュし、その結果イメージは解体され、直接視覚的な錯視が生成される意図、二重露出で独特な感性的イメージを交叉させる『弥撒』、ヨガの瞑想体験を宇宙幻想として表現した『魅惑』、ミクロからマクロまでを含むこの世界の根源的な実存にミステリックに交錯させようとする4時間半の『アート・オブ・ビジョン』、そして極めて日常的な身辺の素材を対象にそれを極めて個人的な作家意識で感性的・生理的に捕捉しようとする日記風の映画『日記』などは、到底みなその様相を解説することはできないが、一言でそれらを代弁するなら、自発性の解放ということができる。

 それらは初めて一切の既成性と権威、常套性と惰性、はなはだしい西欧的世界観それ自体にも抗議する意識まで高揚したものである。もちろんその背景には、ビート・ジェネレーションの台頭とサイキ・ドロップアウトの潮流が、ある一つのものを本質的には西欧の合理主義的な物質文明が人間性を根深く解体して進むことに対する危機感の表現だったのである。それは既存の映画体制との関係では、もちろんハリウッドの象徴される金権の威力と画一主義に反抗する色彩が強いわけだが、何よりも優先されたことは、「新しい人間の生の方法」を希求する意識の変革運動なのである。
 これと並行する映画理論も次元を高めて、既往の「モンタージュ」、「フォトジェニー」の時代とは違い、表現の美学のみならず、映画の原点を映像から考える存在論的研究方法(エドガール・モラン)、コミュニケーションの社会的機能で映画の多面性を総合化しようとする映画学的研究方法(ギルバート・コーエン・シート)、映画と言語の関係をイメージの問題として把握しようとする心理的研究方法(ティーン・ミトゥリー)などに現れた。

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兪賢穆「映像芸術の望ましい未来像」1 

「映像芸術の望ましい未来像」1      兪賢穆
 
Ⅰ章
 
 未来像を占うためには過去の歴史の文脈を察してみなければならない。
 映画は航空機とともに20世紀の初頭から精神的・物質的状況に莫大な波及力で急進的に変化発展を与えた。
そのような映画の初期的機能は、事実の視覚的記録性から出発したが、いよいよ地球村の縮小という驚異的な存在としてのみ意義があった。しかし感受性の鋭敏な芸術家たちは、活動写真媒体を看過しなかった。そのようにしてその過渡期的な何年かの間、舞台的演芸物の複写機的機能を脱することができないながらも、それは企業での採算を成功させた。
 この企業での成功は資本の形成を意味し、その資本はすなわちこの媒体の技術的発展を促進させ、同時に多くの制作人口を量産させていった。娯楽の領域が狭かった時代にこの映画産業は膨張しながら、映画はいよいよ芸術と企業という両面性を持つ宿命を引き寄せた。この宿命性こそ、映画芸術が一世紀も完全になれない中、急成長する原動力となる肯定面とともに、芸術としての堕落という否定面も生んだりした。
 大衆芸術というレッテルの映画の大衆概念は多階層的構成員たちで、すなわち学者から文盲まで包括する広域な観客対象であるため、映画創作はその企業的忠誠のために困難な作業となる。このような性質の作業は、ともすれば下向的な通俗性に向かい易い。そのため良識ある映画創作人たちはこのような点で自尊心を喪失しており、同時に芸術としての純粋価値追求の障害になると信じている。さらに言えば企業精神や作家精神の岐路でもじもじしなければならないし、二つを共有する理想的成就というのはそんなに易しいことはない。まるで通俗大衆文学作品が同時に高度な芸術性をいかにに高められるのかという創作作業である。
 さらに今日のTV劇の量的増加によって映画産業は萎縮する一方であり、この救済策として映画内容高めるべきなのに、それは脱TVという意図で暴力と性描写に偏向されていく憂慮を見せている。その一例として近々に上映されたことのある『インディ・ジョーンズ』、『ランボー』等々が興行的に爆発的な現象を見せたが、この作品傾向は脱芸術的性向で、過剰な物量とともに官能的感覚にのみ偏重した単純娯楽に過ぎない。
 映画産業再建のあがきがこのような反芸術的行為で行かねばならない事態こそこの時点で映画作家たちを当惑すする心境に陥っている。映画が芸術でいることができる次元の本軌道を取り戻すことと今も採掘しない映像の本質が持つ無限定な潜在力を探索するためにも二面形態の望ましい制度を探し誘導しなければならないのである。
 ここで企業と芸術との葛藤の足跡をたどってみれば、その不死鳥のような執拗な芸術精神とその努力を浮かび上がらせその延長線である未来を見てみよう。
 
Ⅱ章
 
 振り返ってみれば、映画は通俗大衆性を持ちその娯楽興行的制約にも関わらず、創造的作業を通じて芸術での価値形成に尽力してきたので、その水準の成果もまた刮目するに値するのである。
 去る世紀末の1895年、リュミエール兄弟によって完成された映画器機は幻燈原理を応用した映像の拡大として大衆迎合の基礎を用意し、1986年から第一次大戦前まで幻想的主題を追求して多様な映像の非現実的手法を開拓したジョルジュ・メリエスはリュミエール兄弟が、米西戦争、南アフリカ戦争を巡る時代映画として映像の報道的事実の伝達機能を大衆に認識させたその当時、これとはまったく対極的である映像表現の虚構性・非現実性で大衆の情緒を強く支配した。
 1908年、動的な写真はすでに珍奇な好奇心から逸脱して、それは大衆の深層意識に根を下ろし、社会的存在理由を確立した。同時に〈映像〉はストーリーとドラマを通じて夢(イメージ)を伝達するメディアとなった。
 『ギース公の暗殺』で始まったフィルム・ダール運動は知識層の関心を捕捉する意図で映画に芸術という権威を附与してその社会的位置を高めた。その当時まで〈活動写真〉は大衆芸能と同一視して、実際映画従事者たちは底辺出身者たちが多かった。そして〈コメディ・フランセーズ〉や〈オペラ座〉の観客は活動写真を軽蔑し、知識層は冷ややかだった時、この〈フィルム・ダール〉看板の運動が、古典劇、名作小説、有名なオペラを次々と映画化することで識者層の呼応を得て、その観客領域を拡散させていった。
 第一次大戦はヨーロッパに苦難を負わせ与えたが、アメリカはその間、映画興行の飛躍的な大勢を通じてハリウッド王国を建設し始め、ここから娯楽産業としての映画は世界を制覇し始めた。
 一方、映画はまた伝統的な芸術の破壊を目的とする様々なジャンルの前衛芸術家たちに強い刺激を与え始めた。イタリアの未来派は1909年の〈未来派宣言〉以来、映画の表現機能の特殊性を高く評価し、1916年、F・マリネッティ以下5人の連名で〈未来派宣言〉を発表した時、彼らは映画のためにすべての近代的な芸術の探究 する指標である〈多様表現性〉を達成することができると信じたのである。したがって立体派の画風、すなわち対象物を多様な視点から解体して新しい空間を創出する方法は確実にカメラ位置と角度の変化という映画技法に投入されたという見解がある。一方、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンなどシュルレアリストたちと前衛派は映画に魅惑されその捜索範囲を広げていった。このように映画はその新しい視覚的な方法によって20世紀芸術に一つの方向を提示したのである。
 そして1900-1913年の映画は、まだその独自的な可能性、すなわち〈映像〉の本質を把握しておらず、創出されてからいくらもたたないこの映画は、まずどのような形態で社会的地位を選択するのかに混迷を繰り返し、資本主義論理に沿って産業的体制を確立すること、流通システムを構築すること、消費者の階層を拡大することにすべての努力を傾けた。したがって企業第一主義の軌道を敷設する作業の時代だと言える。
 そうする中でアメリカのD・W・グリフィスは、1915年、彼の『国民の創生』を通じて映画的本質である映画言語の基本を創出した。映画の諸技術すなわちクロース・アップ、カット・バック、ロング・ショット、移動撮影などを集大成して今日のような映画の原理を構築し、彼はカットと呼ばれるようになるフィルムの断片をどのように結合するかに重点を置き、現実の時間的・空間的状況を任意に切断し、スクリーン上に映画的時間・空間を再創造した。この映画美学の革命的前進は映画作品耐用の含蓄と圧縮で、ストーリーの多様化、そしてジャンルの幅を広めていき、そうすることで芸術としての映画は映画産業の促進剤となった。
 第一次大戦の招来はそのアイノミックな状況で前衛映画は顕著な姿を現わすが、それは一切の秩序と規範と価値観が破壊され、世界と自己を調和させていた遠近法的なパースペクティブとして解体される場に、芸術家たちは目に見える実在世界に関心を注ぐ芸術思潮の流れの中で映画も参加した。
 その不安な情念の爆発によって初めて映画の自然主義的均衡を破壊したものはドイツの表現主義映画『カリガリ博士』だった。この表現派作品は内面的ビジョンをデフォルメされたセットと衣装、誇張されグロテスクな扮装と演技、そしてコントラストの強い人工的照明などで構造化された。これは映画史上初めて現れた〈私の内的空間〉だったし、既存の映画概念を大きく動揺させ、これが契機となって前衛映画系列であるドイツの〈絶対映画〉が芽生え始めた。
 この系譜は一切の文学的・演劇的要素を配置して抽象化された内面の運動それ自体を純視覚的な運動として還元しようとする傾向だが、これは絶対の自発性を重視するダダイストによって抽象絵画の世界を音楽で転位しようとする発想生じたのだ。彼らは対象である被写体が映画以前のこのような〈意味〉を捜すことも、またその形態と運動がどのような〈意味〉を生成することも自己制約し、全的に幾何学的抽象の視覚的な動きの表現が一定の精神的・感覚的運動を惹起させる極限の様式だった。参考までに暗示的に題名を羅列してみれば、『リズム21』、『対角線交響曲』、『平行線』、『螺旋』などである。
 このような前衛行為は究極的には純粋的な映画芸術の本質に対する探究で、映画の商業主義的傾向に対する強烈な抗拒で、また集団的製作ではない個人的創作の溌溂とした肉声だった。
 〈絶対映画〉のような傾向で、やはり一切の文学的・説明的要素を排除してこれとは対照的な前衛映画の系譜を成し遂げているものがフランスの〈純粋映画〉で、これはダダイズムの精神とフォトジェニー派の感覚主義から生じた。フォトジェニーという画面の外的・説明的な伝達よりも、画面内側に含有されている生命、精霊、精神的価値の増大を感覚的に抽出するものとして、純粋映画は造形的フォルムよりは〈光〉と〈動き〉が織り成し響きあう詩的イメージの世界を追求し、その純粋化の基礎は〈リズム〉である。
 実際〈純粋映画〉は個々のカットの映像も、カットと結合もすべて〈リズム〉の観点から決定され、そのリズムの重視が日常的な意味の構文法を解体する方向に向かうという点で〈純粋映画〉と〈絶対映画〉は共通の基盤に立っている。両者が格別に違っている点は、絶対映画が具象的な映像的〈意味〉を一切排除するのに対して、純粋映画はむしろ具象的な被写体の〈意味〉ある〈像〉を前提とするものである。
 純粋映画がどんな意味でイメージの豊かさを中心に絶対映画を凌駕する理由は、観客に初めからすでに非意味化(意味の攪乱を起こす)プロセスを享受する過程で体験するようにしている。これはたいがいの場合、具象的な像の意味性が非日常的な文脈の中で混迷するプロセスとして構想されているので、この時に生成される二次的意味作用(内包性)が映像の表層に持続される一時的意味作用(表示)と互いに摩擦して複合されることこそ、純粋映画のイメージは時に意地悪をもして時には不可思議な感覚の錯乱を惹起し、息をすることである。
 その〈意味〉の攪乱を感覚の次元から下意識の次元にひたすら下降させようとする創作傾向がシュルレアレスム映画である。超現実主義映画が指向するところは、もうフォトジェニーともリズムとも違う。それは生と死、愛と欲望など人間存在の根底に横たわっている本能の世界や、そこに浮かび上がる非合理的な心がのたうちまわるのである。このような前衛映画運動は、当時の詩人・画家・音楽人などが、この新しい機械媒体である映画手段で無数に参加し、非商業的領域内でその表現生理の本質発見と表現技術の究極的可能性を探索したが、1930年代に入ってこの運動は急激に減少した。
 それは一方ヨーロッパを取り巻く政治危機が、前衛芸術運動全体を抹殺しようとしただけでなく、また一方では映画の発声装置の登場が反企業的個人作業としては経済的な負担が加増され、また初期トーキーの操作方法上の困難が後に続いたためである。これら前衛映画作家たちはいちはやく政治的前衛に変身するか、商業映画世界で延命するのか、またはアメリカに亡命するのかを選択しなければならない境遇に置かれていた。
 一方、アメリカのD・W・グリフィスの『国民の創生』などに影響を受けたソ連の映画界は、モンタージュ(組立・編集)の体系研究に執着した。無声映画の純粋視覚的表現の文法で、カットの一つ一つは文字で、そのモンタージュで単語になり文章になれるという実験として提示した。このような素朴な技術論をさらに越えたB・プドフキンは、モンタージュを映画創作上の基本的な芸術と考えた。すなわちカットは〈生原料〉で、このカット自体は生命を持たず、これらが複雑に結合され(モンタージュされ)ようやく生命ある映画芸術が創造されると説破した。映画は〈現実的な時間・空間〉に対し、〈映画的解釈の論理としてのモンタージュ〉によって生成されていた。すなわち現実を個々の断片として分析してこのような断片の中で不必要なものを除去し、新しい構成を通じて現実と次元を別にして、また現実よりさらなる現実感を持つ世界が作られるようになった。そうしてこれらを結合する方法が、観客心理の現実の現象的なさまざまな断片から、次々とその本質に移行する心理的過程、注意の発展、認識の深化と結合させると、モンタージュは映画芸術を創造するための収単になることだと見た。

 ここでエイゼンシュタインはこれをさらに発展させ、各カットは無機的概念ではなく生きている細胞として提示されなければならず、この細胞的なカットは自体的な矛盾とともにカット相互間の〈衝突〉または〈相克〉作用を通じ、いわゆる弁証法的過程、すなわちこの〈衝突〉の原理をテーゼとアンチテーゼの相克に る〈ジンテーゼ〉、さらに第三の概念を創出しなければならないという主張である。そしてそれはカットとカットの組立を具体的に次のように分類し、①図形の衝突、②量の衝突、③面の衝突、④空間の衝突、⑤テンポの衝突、⑥材料と角度の衝突、⑦材料とその空間的性質の衝突、⑧過程とその性質の衝突、⑨視覚的総合体とある異質的(例えば聴覚的性質)との衝突であり、このような〈衝突〉の概念でその独特なモンタージュ、すなわちオーバー・トーン・モンタージュあるいは〈4次元の映画〉が主張された。4次元の映画という過去のモンタージュを整理して次のような分類で案出されたのである。
 ①カットを一定の長さで結合してリズムを創造する長さのモンタージュ、すなわち一次元の映画、②長さに内容的要素を合わせるリズムのモンタージュ、すなわち2次元の映画、③内容的諸要素を一つの支配的トーンで統一するトーンのモンタージュ、すなわち3次元の映画、そして4次元の映画は③のように各カットを一つの支配的トーンに統一するのではなく、さまざまな要素を総合一元化してこれを音楽にある倍音のような常に基本的なものでモンタージュすることを意味した。
 彼はこの理論体系を背景にし、彼の代表作『戦艦ポチョムキン』(1926)で成就された。
 やがて1927年、トーキー映画の登場で無声映画の成熟した表現方法であるモンタージュは台詞など音の介入で一旦壁にぶつかったが、彼は再び〈画面〉と〈音〉の衝突理論で命脈を引き継ごうとした。しかし当時のスターリンはこのような純粋美学的探求を抑制しようとしたが、その理論は技術主義あるいは形式主義として批判を受けたのである。労働者を教化するのにそのような乱雑なブルジョア的贅沢は捨てなければならないし、下層階級に容易な伝達方法を強要しながら、いよいよ社会主義リアリズムの教化目的優先主義に傾斜した。ここでモンタージュの革命的創造者たちは、自己批判も意味なく挫折し映画界を引退し幕を下ろしたのである。
 1930年代はサウンドを獲得したトーキーの発展期で、かつてのサイレント映画が構築した純粋視覚の美学を崩壊させ、ダイアローグへの依存性を高める傾向で文学性と演劇性の性格を迎入する時代だと言える。
 ストーリーの多様な展開は視聴覚共有の現実感とともに、映画の黄金期に当たるようになるのこの時期、名作すなわち、『パリの屋根の下』(30)、『巴里祭』(32)、『外人部隊』(34)、『望郷』(36)、『舞踏会の手帖』(37)などが今まで成した視覚的オーケストレイションから〈ドラマ〉の世界に移行させたという点で言えば、30年代は〈カメラ〉の時代と言うより〈ストーリー〉中心の時代で、すなわち映像がドラマの〈枠〉に束縛され、ストーリーが視覚的表現に先行していると言える。このような劇的構成のストーリー中心の興味は大衆の大きな関心であったし、これがハリウッドにつながり、娯楽産業としての映画はいよいよ成熟期を迎える。
 アメリカの3大産業、すなわちカーネギーの鋼鉄、フォードの自動車、そしてハリウッドの映画産業という夥しい財力構造を形成した。
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朋友的父親是画家

2009年4月22日(星期3)
 
上午、我去了銀座。在画廊看了朋友的父親的展覧会。景色的水彩画展示。
対與朋友一起、在附近另外的画廊我看了恩師的海老塚耕一先生的展覧会。
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ベトナム漢語

2009年2月15日(日)
 
哲学 → triết học チェットホック
経済 → kinh tế キンテー
政治 → chính trị チンチー
主義 → chủ nghĩa チューギア
社会 → xã hội サーホイ
文化 → văn hóa ヴァンホアー
労働 → lao động ラオドン
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