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古本合戦の開催おめでとうございます

大東亜図書館党の結成、おめでとうございます。じゃなかった、古本合戦開催おめでとうございます。また、森氏におかれましては、無事引越しが終わられたようで、これまたおめでとうございます。大量の蔵書で、引越しも大変だっただろうと推察しております。
 
さて、図書館にはうるさい方々が集まったということで、挑戦状ならぬ、質問を一つ。かねてより、謎の記述として気になっているのですが、さっぱり検討がつきません。阿部次郎の日記なのですが、
 
 大正9年12月11日 来書(略)内藤民治 
 
      12月14日 来書--(略)中外社(民衆図書館相談)
 
とあります。この「民衆図書館相談」が謎です。図書館の専門家でもない阿部にどういうことを相談したのか、不思議な記述です。情報がこれだけですので、あれこれ想像してもらうしかありませんが、どういうことが考えられるでしょうか。
ちなみに、阿部は、明治40年7月東京帝国大学文科大学哲学科卒。この頃は、慶應義塾大学と日本女子大学校で美学・文学の講師をしていました。
また、内藤民治は、明治39年渡米、プリンストン大学で哲学を専攻。総長ウィルソン(後の大統領)の世話で『ニューヨーク・トリビューン』紙ロンドン特派員となり、帝政末期のロシヤに半年ほど滞在。この間にアメリカで片山潜と会い、大正3年に東京特派員として帰国。堺利彦・山川均の紹介でアンリ・バルビュスの雑誌『ラ・モンド』の東京支社長を兼ねたということです。その後、内藤は大正6年10月『中外』を創刊するも、8年4月休刊。10年6月に復刊しますが、阿部の日記に出てくる頃は、休刊中に当たります。復刊後、特に図書館に関する記述や阿部の執筆はありません。編集長は中目尚義で、中目からも大正9年6月から9月にかけて、内容は不明ですが書簡が来ていたことが、日記によりわかります。
 
私も、いつか古本合戦に参戦できる日が来ることを夢見ております。
 
(参考)阿部の日記に出てくる「海外巡回図書館」については、「http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20080317/p1 」参照。
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台風よ、こい!

かつて誰ぞが、デパートの古書展に際し、ライバルが少しでも減るように「台風よ、こい!」と書いていたときに、盟友とは言え、いささか不謹慎な発言だなあと、思ったものだが、
最近わしも、同じ事を考えている。
といっても、古書店がらみではない。
台風が来ると、NHKで気象予報士を務める半井小絵さんの出番が、通常の気象予報に加え、台風情報として出番が増えるからだね。
「毎週、台風よ、こい!!」なんちて。顰蹙を買いそうだすね。
 
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わしは「結婚しない男」

「結婚しない女、結婚できない男」と言われるようになって久しいが、
阿部寛のドラマ『結婚できない男』が多少人気らしい。
お一人様の食事といい、同感する部分はあるものの、阿部役の主役と違って、わしは料理もできないし、クラシックも聴かないし、仕事もできない?
でも、わしは結婚できないのではなく、結婚しない男なのだよ、本当。
「それなら、結婚してみろ」ってか(汗
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古本屋好きの社民党支持

先日(8月9日)の朝日新聞の「政権つかめるか 民主党診断」によると、「下流社会」の著者として知られる三浦展氏が「団塊世代を支持政党別に分析すると、自民支持者は明るい、社民支持者は古本屋と居酒屋好きの貧乏な文化人という風に性格が見える。しかし、民主支持者の性格は見えない」と述べていた。
今時、古本屋好きでも社民党を支持なぞするものであらうか・・・
 
 
ひさしぶりにアップしたよ。msnの使い方が変わってしまっていて、とまどった。
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山田珠樹街道をゆく(その3)

2 山田珠樹の再婚相手
 
 
今日出海「森茉莉とその良人」(「新潮」昭和34年2月)によると、
 
 
酒癖のいい方ではなかつた。不断は行儀がよく、フランス風というよりは独逸式の学者スタイルで、スマートな紳士だが、酒が定量を越すと、暴君になつた。私達には先生が暴君になつた方が親しみ易かつたので、よく飲みに出かけたものである。(中略)
先生は再婚したが、(中略)。今度の夫人も静かな人だが、形をなしていない家庭に形をつけることの出来ない人である。珠樹氏は荒みままに荒み、孤独な生活に沈湎し、稀にその反動で酒に浸つた。こんな自暴自棄みたいな生活は何等かのカタストロフを見ずに、終るものではない。遂に喀血して、七里ヶ濱の療養所に入院した。
 
 
 
森茉莉といい、山田珠樹といい、お互い再婚してもうまくいかなかったのである。
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山田珠樹街道をゆく(その2)

1 「館界接待」で結核になった山田珠樹司書官(承前)
 
 
『姉崎先生の業績』(1974年11月。1993年9月大空社伝記叢書復刻)中「姉崎図書館長の思い出」(水野亮)によれば、
 
 
今度は竣工まぎわの新館の書庫に、整理ずみの本を運び込む、つまりわれわれが仮事務室から新図書館に引き移るまえに、まず本の引っ越しをやる段どりになりました。(中略)医学部からこの図書館までの道中には、一箇所相当の勾配がありますが、その坂道を昼日中ひと目もあるのにエンヤラヤッと引っぱりまして、ようやくここの書庫のなかまで運び込むのであります。これはとてもしらふでやれる仕事ではありません。(爆笑)
そこで時たま、見るに見かねた山田司書官が適当にアルコール分を補給してくれましたけれども、そのまたアルコール分がビールとか日本酒とか、そういう上等のものではなかった。琉球泡盛という(爆笑)猛裂に強いやつが配給されました。で、酒に弱い人は足をとられて、坂の途中で動けなくなってしまう。(爆笑)
 
 
 
これによれば、引越しの段階から、館界接待が行われていたようだね。
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山田珠樹街道をゆく

ちわみさんの「森茉莉街道をゆく」が休止中なので、このスキ(?)に「山田珠樹街道をゆく」をアップしてみよう。(追記:本日、再開されました。)
 
 
1 「館界接待」で結核になった山田珠樹司書官
 
 
中島健蔵『疾風怒涛の巻 回想の文学①』(昭和52年5月)に非常にオモロイ記述があった。
 
 
[昭和八年]七月七日、山田珠樹発病、「ろざりよ」なかまの尼子氏診察の結果、肺結核とのことで、大学病院稲田内科に入院ときまった。関東大震火災で潰滅した附属図書館の新築は、一九二八年(昭和三年)暮にできあがり、文学部の各研究室もその中に移転したが、厖大な図書の受入れと整備の実務は、大へんな労働だった。司書官の山田さんは、精力的にその処理に当たっていたが、職員慰労のやり方もはでだったらしい。その惰性もあって、夜の酒宴は、一応図書館の整理が片づいてもつづいていた。過労つづきの結果であろう。入院の直前に、図書館の司書官室に呼ばれて、二、三の使いを頼まれた。内容は忘れたが、一時ひどくなった乱行の後始末だった。山田さんには、ずいぶんさそい出されたが、当然わたくしの関知しない酒席もあったらしく、そういう時、わたくしの名が架空の相棒として利用されたこともあったと後に知った
 
 
こういうのは「官官接待」ならぬ「館界接待」と言うべきか?
 
 
 
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西荻窪の古本店ラッシュ!

 
西荻の古本屋のすさまじさ、駅の向うに五軒、こちらに四軒(五となりぬ)出来てゐる。むかし動坂に次々と出来た時、文化の「花が大きく開い」た様に考へたのは、私のたとへやうもない幼稚さであつた。それほどボロイもうけだとは!
 
 
 
上記は、ある作家の日記からの引用。「おに吉」などで脚光を浴びる昨今の西荻のことかと思ってしまうが、実は『黒鳥館戦後日記』(中井英夫)の昭和21年6月11日の条から。西荻は、ちと遠くて、いまだ行ったことがない・・・
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書籍館に名前を残す方法

わすも黒岩比佐子さんに負けず書籍館ネタ発見!(「書物蔵」6月6日コメント欄参照)
 
 
『学海日録』中、明治16年12月13日の条、
 
 
文部省に至り、新任の卿大木氏に謁す。大槻文彦、余が為に榊原芳野が事を告らる。(中略)芳野初の名、歴平といふ。(中略)後、文部に徴されて一等属にのぼる。得る所の俸金、挙げてこれを書に費す。しかれども人となり胆怯にして、ものに驚きおそるる性質なりしが、終に発狂してあらぬ事をののしるに至る。(中略)友人、これを憂て病院にいれて養はしむ。しかれども、病終療ることなくして終に身まかれり。(中略)遺書三千五百巻、友人等相謀りてこれを書籍館に献じ、もて芳野の名を後世に伝ふと云。(中略)一生髪を剪ることなく、これを束たり。衣服もまた俗に同じからず。人これを笑へども固くとりて従はざりき。
 
 
寄贈した当初はどういう形で名が残っていたのだろうか?
今、国会図書館のOPACで榊原芳野を検索すれば、その著作は何十冊かヒットする。
しかし、それ以外に名は残っているのだろうか。
 
 
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