アドセンス2

2016年1月16日土曜日

イット・フォローズ セックスと愛によってだけ、死を追いやることができる

「セックスによって呪いが移され、あるものに追われることになる」
このセックス版不幸の手紙というギミックの、都市伝説的キャッチーさによって人気のイット・フォローズ。アメリカでは2015年最高のホラー映画との呼び声が高いそうだ。しかし、この映画のもつ本当の怖さは、セックスによって呪いが感染するという表面的な設定だけではない。イット・フォローズが、殺人鬼を倒してハッピーエンドとなるホラー映画と一線を画す恐ろしさをもつのは、原理的に死から逃れられないことだ。
というのも、仮に相手に呪いを移すことが出来ても、移した相手が死んでしまえば再び呪いが自分に降りかかってきてしまう。呪われたが最後、死ぬまで、死の恐怖から逃れることが出来ない。(トートロジーだけど)

終わりなき恐怖をさらに掻き立てるのが、超現実的な風景描写だ。この映画には、時間も、季節も存在しないのだ。クラシックカーが走り、テレビがどれもブラウン管の白黒ばかりなのに、なぜかスマートフォンが意味ありげに使われていたり。木が紅葉し、道行く人が厚手のコートを着ているのに、外のプールで泳いでいたり。このようなチグハグな世界が、キューブリック的な一点透視法を多用しながら映されることによって、すべてが作為のもとにあり、逃れることの不可能性が際立たせられる。

この点から、イット・フォローズは悪夢についての映画である、とするのは早計だろう。監督はこの映画について、短いながら本当のテーマについて語っている。
「僕らはだれしも、生きる時間は限られていて、寿命から逃れることは出来ない。しかし、セックスと愛によってだけは、一時的にだけでも、死を追いやることが出来るのだ。」(http://www.theguardian.com/film/2015/feb/21/it-follows-teen-horror-movie)

主人公・ジェイは物語の最後で、セックスによる感染させることによって”IT”から逃れることを拒否し、彼氏と手をつなぎ道をあるく。そして、背後からは”IT”らしき人が歩いているが、彼女たちは振り向くことはなく、画面から消えていった。
前途は多難すぎるものの、生き延びるよりも、生きることを選択した力強さが最後のショットにはあった。

と、ここまで書いたものの、ホラー映画のメタファーを読み解くみたいなことはとてもダサく感じてきた。映画が終わって最初の感想は、裸のババアたちが怖かったという、単純なものだった。

2016年1月3日日曜日

【ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年】大原櫻子の歌に合わせ、まる子が手をつなぎ頬を赤らめる…

 ちびまる子ちゃんの映画が復活するという第一報を聞いた時は、なんならスター・ウォーズの新作をやることと同じくらい喜んだ。『わたしの好きな歌』という92年の長編は、曲のチョイスも見事だったし、あのアヴァンギャルドなぶっ飛んだ演出に震えた、日本のアニメ史に残る大傑作だったからだ。最近のテレビシリーズはヌルいし、まるちゃんは公営ギャンブルのマスコットキャラクターに落ちぶれたちゃったけど、久々にフジテレビは本気を出してくれるんだなと心底期待して、僕は映画館に向かったのだ。
 なんだよ、この出来は! どうしてまるちゃんが、大原櫻子のキラキラした歌にのせて、男と手を繋いで頬を染めてんだよ! ジャニーズ主演のスイーツ専用のラブコメ映画かよ!
 いきなり文句を垂れても分からないだろうから、説明をすると、この映画はタイトルずばりなのだが、海外からホームステイに来た6人の少年少女と仲良くなる話で、まるちゃんはイタリア人の男の子を家に泊めることになって、その彼と上に書いたように西野カナのトリセツに出てきそうなイチャラブシーンを繰り広げるのだ。
 まあ、まるちゃんだって、手を繋ぎたくなるかもしれないと、僕のちびまる子ちゃん像から批判するのはよしたとしても、作品の根幹たる外国人の描写があまりにもズサンすぎる。ブラジル人の女は、ひたすら絶叫して踊り狂ってるだけで、一言も人間的なセリフは喋らないし、インド人に至ってはコメディリリーフにもなってない、知恵おくれみたいなキャラクター。
 それをさも、その国の民族性を投影しているかのように描いてるんだからたちが悪い。初めて、インドを知る子供が見に来て、インド人はキチガイしかいないのかと思って帰る映画を作るってどういうことよ。
 ちびまる子ちゃんには、まる子が南の島に行って、現地の女の子と言葉が通じないもののジェスチャーを通して仲良くなる『まるちゃん南の島に行く』という号泣の名作エピソードがある。この映画よりよっぽど健全に国際交流してるお話だ。そういう前例があるだけにわざわざ劇場版を作る意味があったのか、甚だ謎だ。

2016年1月2日土曜日

【マイ・ファニー・レディ】あしながおじさん気取りの買春野郎映画

 かつてのハリウッド映画の赴きをそのまま再現した、あらすじが書かれたオープニングロールから(『スターウォーズ』ではなく、『風と共に去りぬ』のような)『マイ・ファニー・レディ』は映画が始まる。そのスタイルと、同じくプロットも、コールガールが劇作家の男に拾われて女優として大成する、というかつて数十本も作られた映画のようなお話だ。
 アコーディオンや、バイオリンで奏でられる劇伴と、ギャグの連続で鑑賞中は多幸感に包まれる。しかし、物足りなさがどこかに残り続けていた。
 それは、この作品が単にかつての回顧趣味でしかないからだ。そのことは、主人公のイジーが冒頭で語っている「最近の映画はことあるごとに、リアルを追求する。死や、不幸。そんなのは私の周りには沢山ある日常よ。映画ってのは魔法なの、幸せな魔法に浸かることの何が悪いのかしら!」、と。
 僕だって、彼女の意見に同意する部分は沢山ある。ダークナイトフォロワーみたいな、うじうじした“リアル”ヒーローは好きじゃない。けど、この映画が嫌ってるリアルって、話の展開や、ディテールのリアルではなく、現代の価値観までも敵視してるように感じてならないのだ。
 もっとも顕著に現れてるのは、売春婦のイジーというキャラクターの造形だ。彼女は、男に幸せを与えることに満足をしているんだ、と語るけど、これはどう考えたって男の理想を投影しすぎだろ。男が女を金で買うことの罪悪感を減少させるための詭弁だろ! しかも、女たちはセックスしてお金をくれたことに関してとても大きな感謝をする、たとえばそのお金で大学にいけたとか、ネイリストになれたとか。女を買っておいて、あしながおじさん気取りしたいジジイの戯れ言にすぎないんだよ。助けたいなら、セックスを介さずに助けりゃいいじゃん。
 PCや、ジェンダーをとやかく叫ぶヤツも僕は嫌いだが、これはあまりにも時代錯誤な価値観で作られすぎている。きっとボグダノヴィッチ監督は、石原慎太郎みたいな老害ジジイなんだろうな。