白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

『THE SECOND~漫才トーナメント~2024』放送直後の感想。

『THE SECOND ~漫才トーナメント~2024』面白かったですね。

放送前は、昨年の盤石なラインナップとは少し異なり、そもそもネクストバッターズサークルに入った経験がない人たちもいて、どうなることやらと思っていたのですが、そこは十五年以上活動している経験豊富な面々とあって、全員がしっかりきっかり笑いを引き込んでいましたね。

その中でも明らかに積んでいるエンジンの性能を感じさせられたのは、ガクテンソクと金属バットでした。ガクテンソクの漫才は、賞レース向けにパッケージされた作品というより、ゆったりとした心持ちで家族との会話を楽しむ日曜日の昼下がりというような、お互いのことを理解した人間同士の掛け合いといった感じで、なんとも大人向けな漫才でしたね。一方の金属バットは、闘争心なんていうものは持っていませんよと言わんばかりの表情を浮かべながらも、観客を漫才に引き込むための多種多様なのにアヴァンギャルドな手法を駆使して、完全に優勝を見据えたネタをかけていましたね。

対して、タモンズやザ・パンチといった東京勢は、とことん経験値を重ねることで獲得した、シンプルな打撃の強さで観客の心を掴み取る泥臭い戦い方に終始していて、賞レースで結果を残すことが出来なかった芸人たちに光を差し込む“セカンドチャンス”という大会のコンセプトに相応しい、見事な戦いぶりを見せてくれたように思います。事務所は違えど、昨年大会でいうところのマシンガンズの役割を果たしていたのでは。こういうネタは若さと作品性を評価するM-1だと見られないところですよね。ありがたいですね。

映像演出も格好良いですし、観客審査員たちのコメントも芸人愛に溢れていましたし(タモンズファンの方のコメントはたまりませんでしたね)、とても良い大会でしたねえ……ただ、最終決戦の結果発表だけは、ちょっと改善の余地がありそうです。片方の点数が発表された時点で「あっ、ガクテンソクの優勝じゃん」と察することが出来る状況は、あんまり芳しくないでしょう。エンタメとして盛り上げるのであれば、最終決戦に関してはどちらが優勝に相応しいかを決める投票システムか、或いは、点数を同時に発表するスタイルに改変するか、どちらかにした方が良いように思います。……もっとも、あの間の抜けた空気感が賞レースらしからぬ脱力感を生み出して、それが得も言われぬ面白さにつながっていたりもするのですが。それはそれで愛おしいですかね。

ともあれ皆様、お疲れさまでした。また来年もよろしくお願いします。

SNSって大人が大人ぶる必要性が薄いからクラス会の感覚に立ち返っている感じがありません?

SNSにおいて、フォロワー数の少ない人が思いつきでつぶやいたような発言が拾い上げられて、それが「〇〇というようなことを言っている人がいるらしいのだが……」というように少しずつ当事者の手を離れ始め、いつしかフォロワー数の多い人たちによって続々と批判されるようになり、やがて「〇〇というようなことを言う人間は、××と考えているようなクソ野郎だ」などと当事者に対して勝手なイメージを付け加えて語る人たちまで現れ始める……というような事態を、たまに目にする。フォロワー数が多かろうと少なかろうと、発言者がその発言について責任を背負う必要性があることには違いない。そのため、発言内容に対して、多くの人たちから言及されてしまう状況が生じたときも、致し方の無いこととして受け止めざるを得ないだろう。ただ、たったひとつの発言から、発言者の人間性を勝手に決めつけて非難する行為に関しては、まったくの別問題である。同じ空間で生活している家族のことですら、その本質を正しく理解できているとは限らないのに、たったひとつの発言だけで人間性を見極められるわけがない。とても傲慢で乱暴な行為である。だが、こういう物言いをすると、元の発言に対して違和感を覚えていた人たちにはウケる。おそらくは、「まともな人間の発言ではないから」と理由を付けてもらえることで、それについて思考停止する権利を与えられるからだろう。世間が注目する大きな事件が取り上げられたときに、容疑者の同級生や周辺に住む人たちに取材して、その僅かな異常性を粒立てて取り上げることで「容疑者は異常だから犯行に及んだ」と大きく取り上げる週刊誌と同じ遣り口である。元の発言が、誹謗中傷の類い、社会倫理に反したものでもないかぎり、そういったものにいちいち反応する必要性はないのである。でも、何か物申したい。いっちょ噛みしたい。「自分はこう思ってますよ!」と自己表明したい。そんな感情を抑えきれなくなって、言わなくてもいいことまで言ってしまうのだろう。このようなブログを運営している身なので、気持ちは分かる。分かるのだが、そこから一歩引いた状態を保たないと、クラスメートにイキッている姿を見せつけているヤンキーみたいでみっともなくない?

「THE SECOND ~漫才トーナメント~」一回戦第二試合(スピードワゴンvs三四郎)

第二試合はスピードワゴン三四郎の対戦である。

先攻はスピードワゴン

ホリプロコムに所属する漫才師で、小沢一敬井戸田潤によって1998年に結成された。『M-1グランプリ』に初めて敗者復活戦システムが導入された2002年に、史上初のワイルドカードとして決勝進出を果たしたコンビとして知られている。創生期のM-1を代表する一組といってもいいだろう。近年では、事務所の枠組みを超越した複数の漫才師によるネタライブ『東京センターマイク』(2013年~)を主催するなど、新しい世代の漫才の発展に尽力している。

ネタは『四季折々の恋』。

春には春の恋、夏には夏の恋、季節に合った恋愛をしてこそ一人前の男だということに気が付いた小沢が、疑問視する井戸田を尻目に四季折々の恋模様を見せつける。

トレンディドラマを思わせるクサいストーリーを展開する小沢の一人コントに対し、井戸田が観客や視聴者と同じ目線からツッコミを入れるスタイルの漫才。とはいえ、霜降り明星マヂカルラブリーの漫才のように、それぞれまったく別の世界に立っているわけではなく、ひとくだりごとに小沢がきちんと定位置へと引き戻されるところに、往年の漫才師としての味わいを感じる。その際に、井戸田が「大至急」と声をかけるところが、また良い。もはや彼らの漫才において定番のツッコミだが、内向的な小沢のボケに対するキレの良い口調の井戸田として、的確な言い回しであることに改めて気付かされた。

終盤、一人コントの世界で小沢と恋人が破局を迎えようとしているところに、井戸田が妄想世界の壁を超えて入り込んでしまうくだりに関しては、あまりにも予測できる展開でやや興覚め。しかし、「女優と結婚」「ハンバーグ師匠」と井戸田が芸能人生の中で築き上げてきたものを反映したボケが炸裂し、最後までしっかりと右肩上がりにしていたところは流石といったところだろう。

M-1に出場していた時期の脂は抜けてしまった感が否めないし、随所に挟み込まれるボケの中身は割と当時のクオリティから上がっていないようにも感じられたが(「きのこがあります」のくだりは他の漫才でも見た記憶がある)、今の年齢のスピードワゴンの現在地を示すことは出来ていたのではないだろうか、とは思う。

後攻は三四郎

マセキ芸能社に所属する漫才師で、小宮浩信相田周二によって2005年に結成された。深夜バラエティ番組『ゴッドタン』への出演をきっかけに小宮の人気に火がついて、漫才師として認知されるよりも先にバラエティタレントとして知られるようになった、異例の売れ方を見せているコンビである。『M-1グランプリ』には【次男坊】名義で活動していた2006年から出場、2016年から2018年にかけての三年間において準決勝進出を果たしているが、決勝進出の経験はない。

ネタは『占い師』。

「占い師に憧れている」という相田が、占い師になって小宮の未来を予測する。

基本的なフォーマットは漫才コント。支離滅裂な未来を予測する相田に対して、小宮が感情を爆発させながらツッコミを入れ続ける。

正直なところ、相田のボケそのものに関しては、さほど面白いものではない。デリバリーのように登場、水晶ではなく梅水晶、ユーキャンで占い師の資格を取った……などなど、シンプルでひねりのないものが主。もしも、これだけで構成された漫才だったなら、彼らが決勝の舞台に立つことはなかっただろう。

しかし、おそらくはこれらのレベルの低いボケは、意図的に組み込まれたものに過ぎない。彼らが本当に見せようとしていたのは、中盤から後半にかけて繰り出された芸能ネタの方だろう。それも、ただの芸能ネタではない。三四郎というコンビのことを、知っていれば知っているほどツボに入るラインの芸能ネタである。例えば、出川哲朗のくだりなどは、出川も彼らも同じマセキ芸能社という事務所に所属しているという前提の知識がなければ、そこまで大きな笑いには繋がっていかなかったのではないだろうか。おそらく、お笑いマニアを中心に集められた客層であることを認識した上で、彼らのツボにハマるであろうボケを作り込んできたのである。恐るべき戦略性である。

事実、一介のお笑いファンである私も、終盤の畳み掛けで転がるように笑ってしまった。「審査員はダウ90000の皆さん」「三位は佐久間宣行」まではどうにかこうにか踏みとどまったが、唐突な「キングオブコメディ」には完全に刺された。この大舞台でその名を堂々と言い切る覚悟、あえて具体的には言及しないバランス感、かつて同じライブに出演していた彼らの名前を三四郎がこの大舞台で出すことの意味……などなど、色々な感情が自分の中でごちゃごちゃになってしまって、気付けば大声を出して笑っていた。M-1のようにネタの作品性が求められる大会であれば、このようなネタが認められることはなかっただろう。その意味では、彼らはこの新しい大会に最も相応しいネタを見せつけていた、といえるのかもしれない。

結果は、スピードワゴンが257点、三四郎が278点で、三四郎の勝利。良い意味でも悪い意味でもベテランの味わい深い漫才を披露していたスピードワゴンを、完全に捨て身のモードで大舞台を乗り切った三四郎が見事に下した。

「8月22日の彼女 第2回単独ライブ「兎角、椿は群れたがる」」

「8月22日の彼女 第2回単独ライブ「兎角、椿は群れたがる」」を配信で観る。

8月22日の彼女は、FANと千代園るるによって2022年に結成されたお笑いコンビである。芸能事務所には所属しておらず、フリーで活動している。

およそ半年前に開催された前回の公演では、ネタを書いているFANのエロティシズムが大きく反映されているような、陰鬱とした世界観と倒錯した性嗜好を感じさせられるコントが主に演じられていたが、今回はその傾向が薄まり、良い意味でのメジャー感が出始めたような印象を受けた。

もっとも、それはあくまで前半だけに言えることであって、後半で一気に煮詰まった感情が溢れ出ていたようにも感じられたのだが。ある目的によって始められてしまった文通のやり取りがホラー小説のような余韻を残す『文通』、ファーストフード店で隣の席に座った女性からぐいぐい詰め寄られていた男の哀しい顛末を描いた『つまらない人生』、卵に恋をしている男が卵と別れる前に取った行動とは?『卵と恋』の畳み掛けは、流石にこちらの消費カロリーが高すぎる。特に『文通』の衝撃はかなりのものだった。破天荒な展開なのに腹に落ちる、あの異常なバランス感は筆舌に尽くしがたい。

それらの中でも、グッと私の心臓に突き刺さったのは、『麗人』というネタ。恋人がいないという男に友人が紹介してくれた女性が、アニメやマンガの世界から飛び出したような男装の麗人だった……というコントなのだが、このキャラクターがたまらなく良い。基本的には善人なのに、キャラクターが濃厚すぎて相手から引かれてしまうところも良いし、それが否定されることなく受け入れられていく展開もたまらない。しかし、なにより、オチが最高。最高としかいいようがないぐらいに最高だった。

あまりにも最高だったので、思わず配信チケットと合わせて購入したパンフレットを確認したところ、このネタだけは千代園るるが書いていると知って、驚いてしまった。前回の公演で千代園が手掛けたコント『みーくん大好き』もまた、キャラクターの良さが前面に押し出されたコントだったからだ。実はキャラクターメイキングがとんでもなく上手な人なのかもしれない。……かなり無責任なことをいうけれど、FANと千代園がそれぞれ役割分担して一つのネタを仕上げたら、スゴいネタが生まれるのではないだろうか。相乗効果を起こしてくれそうな気がするのだが。

前回の公演よりも分かりやすく、それでいて表現の濃度は変わらず高く、確かな前進を感じさせてくれた今回の公演。次回の公演がどのような方向性に発展していくのか、今から楽しみである。

「シアター・コントロニカ『回廊とデコイ』」

「シアター・コントロニカ『回廊とデコイ』」を有料配信で観る。

シアター・コントロニカとは、2020年に芸能活動からの引退を表明した小林賢太郎が、note株式会社が運営するウェブサイト「note」において2023年に開設した架空の劇場(アカウント)である。小林の手掛けるコントが、文章・音声・映像などのような様々な形で公開されている。

本作は、そんなシアター・コントロニカで公開されているショートフィルムと、2024年4月に神奈川芸術劇場で上演された配信コント公演『回廊』の映像を掛け合わせた、短編映画である。2023年11月から2024年3月にかけて全国の映画館で上映され、2024年4月から5月にかけて有料配信が行われた。視聴代は、本物の映画のチケットを模した紙の状態で送られてくる、“オンラインシアター特別鑑賞券”が4,000円。これに合わせて、実際の劇場でも売られていた映画のパンフレット2,000円を購入し、計6,000円の出費となった。配信チケットとしては割高だが、本作がソフト化されるかどうかも読めない状況だったので(なにせ映像の多くは既にシアター・コントロニカで有料配信されているのだ)、購入に踏み切った次第である。

『回廊とデコイ』は、旅をする男の姿を描いた『もの思う男』を中心に、ショートフィルム『映画鑑賞』『くしゃみ』『玉と婦人』『ミワケガツカナイ』『永久機関』、および舞台コント『タイムトラベル』『ダブルブッキング』『そばをください』『回廊』で構成されている。

ショートフィルムは『小林賢太郎テレビ』*1で披露されていたような、シンプルな発想による映像コントという印象を残すもの。軽妙な会話のやり取りと奇妙な非日常的日常がもたらす歪みの可笑しみ。どこからどう見ても小林賢太郎の映像作品である。ただ、テレビという誰でも視聴することが出来る媒体で見る映像と、視聴者がわざわざお金を払ってまで見ようとする映像とで、同じようなクオリティであっていいものだろうか、とも思った。有料の映像作品にしては、浅すぎるというか軽すぎるというか。その中では、映像コントとエロティシズムの融合を目指した『玉と婦人』は、他の映像には感じられなかった独特の人間味に溢れていて、なかなか楽しめた。もっとも、それにしたって、役者の仕事が良かっただけではないか、というような気もするのだが。

……などのように、ショートフィルムに対して、やや厳しめな印象を抱いてしまうのは、対する舞台コントがしっかりと面白かったからなのかもしれない。完全にKAJALLA*2の流れを引き継いだ内容になっており、分かりやすくてバカバカしいのにきっちりしっかり面白い。特に気に入ったのは、ソファで横になっていた男が、三時間の睡眠時間を、三時間前の過去からタイムスリップしてきたのだと勘違いする『タイムトラベル』。着想からの転換がたまらなく好きだった。また、観客を入れている状態での映像をベースに、無観客状態で撮影された映像を組み合わせることで、固定カメラでは押さえ切れない臨場感のある映像を生み出していた点も新鮮だった。『そばをください』のダイナミックな映像は一見の価値がある。

……と、なにやら分かったような言葉を並べて立てているが、このジャンルに興味を抱かせるきっかけを作ってくれた男の創作物に久しぶりに触れてみての感想なんて、「うわーっ、相変わらずの小林賢太郎だなあ」でしかないのである。今の私にはそれしか言えない。言いたくない。なので本文もここで強制的に終了する。ソフト化されたら君たちも観たらいい。観なくてもいいけど。

*1:2009年から2019年にかけて放送されていた小林の冠番組

*2:小林賢太郎が作・演出を手掛けるコントユニット。2016年から2020年にかけて活動していた

『M-1グランプリ』で一度だけ決勝進出を果たしている人たち。

日本一の漫才師を決める大会として知られる『M-1グランプリ』が、今年で記念すべき第20回大会を迎える(予定な)ので、過去大会において一度だけ決勝進出を果たしているコンビのリストを作ってみました。……前後にさしたる関係性がないことは理解してます。理解してはいますが、根拠がないと話を始められないビョーキに罹っているので、そういう書き出しをしてしまいました。ただ単に、需要があるのかどうか分からないデータをまとめたい、そんな衝動に駆られただけです。どうぞ許してください。許されなかったからといって、何をどうのこうのするつもりはありませんけれども。各自で適当に憤っておいてください。

とはいえ、「そういえば、こんなコンビが決勝進出していたな」みたいなニュアンスで、当時を思い出すきっかけにでもなってもらえれば幸いです。最近の当ブログは“Forget-me-not”の精神で稼働しております。はい。かなり即席で書いているので、間違いなどがありましたら教えてくださいね。

(※なお優勝コンビは除いています)

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『R-1グランプリ2024』のルシファー吉岡のコントを“社会風刺”と書いた理由について。

『R-1グランプリ2024』で披露されたルシファー吉岡のネタについて書いた感想文を読んでくれた古い読者から、「ルシファー吉岡のネタを、どうして“社会風刺の趣きの強いネタ”と評したのかが分からない」という意見を頂戴した。「そんなことはないだろう!」と驚きながら読み返してみると、説明を端折り過ぎていて、確かに意図が伝わりにくいように感じられた。というわけで本記事では、改めて『R-1グランプリ2024』で披露されたルシファー吉岡のネタを受けて、私がどうして社会風刺であるように感じたのかを説明したいと思う。

ここでいうルシファー吉岡のネタとは、彼がファーストステージで披露した一人コント『婚活パーティ』のことだ。婚活パーティに参加している男が、≪自己紹介タイム≫で入れ替わり立ち替わりやってくる相手の女性に自己アピールをしようと意気込んでいるのだが、やってくる女性たちがいずれも≪自己紹介タイム≫のシステムを理解していないため、その概要を説明しているうちに制限時間を終えてしまう……そんなネタである。男はこの状況を打破するために、様々な手段に打って出る。スタッフに説明を求めたり、他の男性にシステムの説明をするように女性たちに促したりするのだが、周りの人間が無知であったり非協力的であったりするために、なかなか上手くいかない。そこで男は、男が出来る範囲の中で、問題解決に打って出ようとするのだが……。

この≪自己紹介タイム≫における、男、他の参加者たち、無関心なスタッフらの構図は、社会に問題が発生したときの人々の反応そのものであるように、当時の私には感じられたのである。例えば、≪自己紹介タイム≫は社会を構築するシステムそのもので、参加者は私たち国民である。つまり、≪自己紹介タイム≫の意味を理解していないまま何も不満を言い出さずに不利益が生じる状況を受け入れている参加者は、社会のシステムを理解しないままに受け入れてしまっている愚鈍な国民を表しているのである。

そんな中で、≪自己紹介タイム≫に起こっている問題に気付いてしまった男は、いわば運動家の類いである。自らを含めた、すべての参加者に平等にチャンスが与えられるよう、この状況を改善するために、男は立ち上がる。ところが、他の愚鈍な参加者は自らに降り掛かっている不利益に気付いていないし、≪自己紹介タイム≫に関わっているスタッフは知らんぷりを決め込んでいる。状況の改善を訴えかけても、誰の耳にも届かない。響かない。そこに一人の女性が現れる。速やかに開始される≪自己紹介タイム≫が、彼女を男の前に初めて現れた理解者であることを指し示している。だからこそ、あのオチの失望感たるや……。

無論、ルシファー吉岡が意図的に、このネタをそういうニュアンスで作り上げたとは思わない。だが、人間の営みの中で作られた社会の中で、私たちもルシファー吉岡も生きていることは確かだ。当人が意図しないところで、そういう社会に対する意味が生じてしまった可能性は否定できない……もとい、こういう作り手の答え合わせの域を超越した要素の類推にこそ、批評・評論の醍醐味があるといえるのだが。ともあれ、放置されたシステムの不備、それに気付いた孤独な男の訴えと無関心な参加者の対比、改善されないシステムが、このコントでは描かれていて、それらの構図が社会問題のそれに似ているのは事実であり、だからこそ、このコントが風刺の趣きがあると表現し、「吉住のコントを否定する人たちは、それならば、このコントの構造に注目すべきだったのではないか?」と感じた次第である。

こちらからは以上。

リメンバー・インパルス

インパルスを見ない。スズキのオートバイのことではない。板倉俊之と堤下敦によって結成されたお笑いコンビのことである。2017年に堤下が事故を起こしてからというもの、コンビとして活動しているところをめっきり見かけなくなってしまった。理由は分からない。事故以降に何度かコンビでテレビに出演している姿を目にした記憶があるので(『ネタパレ』『水曜日のダウンタウン』)、不仲というわけではないようだ。純粋に需要がないのだろうか。2022年に堤下が二度目の事故を起こしてしまったため、コンビ復活の機会を逃してしまったのか。とにかく、現時点において、インパルスがコンビとして稼働しているところを見かける機会は限りなくゼロに近い状況である。しかも、それが当たり前であるかのように、世間からは捉えられてしまっている感がある。確かに、コンビ活動を停止させてしまった原因を作ったのはどっからどう見ても堤下であり、そんな相方と板倉はコンビとして容易に続けていけるものではないだろうと納得されてしまうのも、致し方のないことなのかもしれない。ただ、個人的に引っ掛かっているのは、この現状がインパルスというコンビの価値そのものを引き下げているのではないか、という疑念である。もう少し明確に言ってしまうと、これだけの不祥事を起こしてしまった堤下のインパルスのコントにおけるツッコミとしての演技力・技術力の高さが、低く見積もられてしまっているような気がしたのである。無論、そんなことはない。インパルスのコントの肝となっているものは、板倉が演じる虚飾にまみれたキャラクターの人間臭いみっともなさであることには違いないが(『取調室』に登場したヨハン・リーベルトが特に知られているところだろうか)、その虚飾を引っぺがしてしまう役割として、堤下は常にツッコミとして適格な温度を保っている。時に、威圧的に振る舞うことで、マンガ的なキャラクターによって隠していた気弱な性格を露呈させる。時に、控えめな態度で純粋な感情をぶつけることで、自分の仕事に対して抱いていたプライドの奥底にある貴賤の気持ちを曝け出させる。バラエティ番組において、平場で剛腕を振り回すように単純で強力なツッコミを吐き出していた堤下だが、ことコントにおいては、板倉の発想を完璧に笑いへと転換させるための唯一無二の協力者として、洗練された丁寧な仕事を見せていたのである。インパルスが、インパルスでなくては、インパルスであるからこそ生み出せる、笑い。そんなインパルスが喪失している現状について、私たちはもっとしみじみ考えるべきなのではないだろうかと思うのだ。