2021年の短歌まとめ

今年は例年とは趣向を変えて、Twitterに投稿(垂れ流し)していた一首評のまとめにしたいと思います。
改めて読みかえしてみると変なことやわかりにくいことを言ってる部分も多いので、適宜補足しつつという感じで。
こんなことするならはじめからブログに書けよという気もしつつ、個人的にはやっぱりTwitterがいちばん書きやすいというか、思考が捗るので、こういう形になります。



【補足】永井さんの作風に関しては、よく「あるある感」みたいな評され方をしているのを見る気がする(ex:「歌壇」2022.1月号 大井学「ことばの鮮度管理」)のだけど、個人的にはそうでもないよなあというか、「いやいや、そんなことしてる(考えてる)の永井さんくらいですよ」というような気持ちになる歌もけっこう多い気がしていて、確かにあるあるネタ的な文脈で提示されているのかもしれないけど、それはもう永井さん固有のパーソナリティが前提の面白さであって、「あるある」の線でまとめる人はそういう「変な歌」を意図してか無意識にかわからないけど捨象してしまっているのではと思うことがある。

以下、しばらく第3回笹井賞の感想が続きます。



【補足】ぜんぜん関係ない話で、たまたまさいきん小池光の『街角の事物たち』(1991 五柳書院)を読んだのだけど、その中の「リズム考」という一節がめちゃくちゃ面白くて、面白いというか、自分が前々から漠然と考えててTwitterに書いたり「現代詩手帖」の10月号に「学習について」と題して寄稿した文章にも書いたりした、短歌定型というか"「短歌らしさ」の本質"(by小池光)について、ほとんど同じようなことがより具体的に細かく書かれていて、すごく参考になったし、やっぱり自分が考える程度のことは先人がだいたい考えているよねとも思ったのだけど、その小池光「リズム考」によると、こういう3の句7音は「未だ成功例を知らない。」とのこと。『街角の事物たち』から30年の時を経て、短歌定型というものも当然変容してきているのだと思う。










【補足】8月に久石さんの歌集『サウンドスケープに飛び乗って』のオンライン批評会があり、パネリストを務めさせていただいた。その中でも久石さんの韻律観みたいな部分についてけっこう話ができたので個人的にはよかった気がしている。


【補足】5ツイート目の「120ページ」は「127ページ」の誤り。『サワーマッシュ』の刊行は間違いなく今年最良の出来事のうちのひとつだと思う。

地上絵

地上絵

Amazon






【補足】2ツイート目「今日のトークイベント」というのは、6月27日に神保町ブックセンターで開催された谷川さんと平岡さんのトークイベント「二冊の歌集の宇宙遊泳」のことで、私はオンラインで視聴していた。谷川さんと平岡さんがお互いの歌集について言及していくスタイルで面白かった。


【補足】おそらく今年書いた中でいちばん怪文書じみた一首評なのだけど、4ツイート目の「あの音楽」は以下リンクものをイメージしていた。これがBGMとして一首の中でえんえんループし続けていることのやばさ。
www.youtube.com






【補足】3ツイート目の「結句と初句はつながっている」理論は先に挙げた瀬口さんの歌の読みにも通じてくる話(というかこれをちゃんと言わないから怪文書チックになっていると思う)。












【補足】「羽根と根」の10号に「青春はいちどだけ」というタイトルの散文を寄稿させていただいた。内容的には、そもそも"同人"ってなんなんだろう、みたいなことを考えていたら必要以上に感傷的になってしまったような感じ。「場」の意義と刹那主義の対立、そしてその中で続けることの難しさ。











いかがでしたか?


個人的には、まとめながら「これ、ほとんどトゥギャッターでよかったんじゃね?」と思いました。
あと特に後半、もうちょっと簡潔にものを書けないのかと思います。
Twitterで一首評した短歌は上に引いた以外にもけっこうあって(引いたのは3分の1くらい)、引かなかった歌も含めて、どれも好きな歌でした。


それでは皆様よいお年をお過ごしください。

2020年の短歌まとめ

今年は本当に例年になく多忙で、去年に輪をかけて薄い内容になると思いますが、個人的な振り返りも兼ねて、やっていきたいと思います。




まず、私事ですが、昨年末に第二回笹井宏之賞大賞というものをいただきまして、結果として今年の夏に歌集を上梓しました。
www.kankanbou.com
栞文を笹井賞選考委員の皆様からいただいたほか、装画を漫画家の川勝徳重さん*1に描いていただきました。
最近やっと装画の季節感に近づいてきて、よりいっそういい感じになっています。
ほか、歌集の刊行にあたってお力をいただいたすべての皆様に、この場をつかって改めて感謝申し上げます。


また、初版本については、内容に誤りがありましたため、訂正済みの第二版との交換を実施しています。すでに交換に応じてくださった皆様には、心より御礼申し上げます。(第二版には、帯表1右下および帯背表紙下部に「第二版」の表記があります。)
初版本をご購入された方につきましては、お手数をおかけしまして申し訳ございませんが、回収および交換にご理解ご協力のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
www.kankanbou.com


以下、気になった短歌の感想です。


悪友がくれたオレンジ色のガム一生分噛みホームで捨てる
/榊原紘『悪友』(書肆侃侃房 2020.8.4)

所収の「悪友」という連作は第二回笹井賞を僕の「スイミング・スクール」という連作と同時受賞した作品なのだけど、ほんとうに真逆みたいな作品が並んだような印象を受けて、個人的にはとても面白かった。
個人的に思う「悪友」の美点は、なんといっても、語り手から見た「悪友」なる人物のこと、あるいはその関係を、いろいろな角度、観点から述べているにも関わらず、「悪友」なる人物の像が全く浮かんでこないところではないかと思う。
ふつう、短歌の連作(あるいは主題制作)における方法論では、同じテーマについて複数首の短歌を積み上げていく中で、それらの歌たちによって総合的に結ばれるひとつの焦点があると思うのだけど、「悪友」の場合、ひとりの他者と語り手との関係を五十首かけて描きながら、一首一首の歌がもたらすイメージは拡散してしまい、最終的に「悪友」のすがたは立ち現れてこない。これは逆説的には、語られる対象としての「悪友」は、連作における焦点ではなかった、ということでもある。
でも、他者とは本来そういうものなのでは、という気もしてくるというか、他者とは本来「わかりえない」ものではないかということに思い至る。むしろ僕たちが任意の他者をこれこれこういう人物だ、というふうに一種のキャラ的な枠に落としこんでしまったり、そういう認識・消費の枠組みを他者とのかかわりの中で求めてしまうことのほうが、はるかに不誠実なのではないか。「悪友」における「悪友」は、そういう「キャラ」概念を越えていて、予定調和を拒絶する。そこがすごく良いと思う。


ニコニコしたいはニコニコなんかできねぇよっていうときそこでニコニコしたい

/山本まとも「アンガーマネジメンターまとも」(「かばん」2020.4)
※2020.11.31 23:07追記

逆に、キャラ読みを強化していく方向で、際立ったのが「アンガーマネジメンターまとも」だと思う。
短歌は一人称文学だというときに、ある作品の良さについて、テクストとしての短歌の良さなのか作者としての「歌人」のキャラの良さなのかというのは明確な峻別が難しいと思うのだけど、まともさんの場合ははっきりとキャラの良さだと言いきれる気がする。語り手のキャラクター像ありきで面白がれる、そういう方向に振りきっているのがすごくいいと思う。
重要なのは、そのキャラクター像が何か嘘くさいとか、盛られてるとか感じないところで、どこまでも本気で等身大なのだというのが伝わってくるということだ。でも、生活者としての(まともさんの本名)さんと、歌人山本まともは一緒ではないわけで、そのへんのバランス感覚がいいよなあと思ったりする。
テーマとしての「アンガーマネジメント」というのは、感情労働が求められる現代社会における、一種の要求スキルなのだと思うのだけど、それにあくまで愚直に取り組む主体、というところで、単なる自己戯画化にとどまらない、切実な面白さがあると思う。


月がひかってる月がひかっているチャンスを棒に振るように生きて
/谷川由里子「ドゥ・ドゥ・ドゥ」(「うたとポルスカ」2020.1.24)
utatopolska.com

今年の出色はなんといっても谷川さんのこれだと思う。
谷川さんの短歌は基本谷川さんの声で頭の中で再生されてしまうのだけど、これが谷川さんの文体のせいなのか、谷川さん個人と面識があるからなのかわからない(おそらくどっちもある)のだけど、この「ドゥ・ドゥ・ドゥ」はそれがとにかくすごかった。
ひとくちに文語/口語といっても、実際は位相はもっと複雑で、また現代語における書き言葉は言文一致体がベースにあるので、純粋に書き言葉と話し言葉の関係ともなると、単純な二項対立に落としこむことはおよそ不可能だと思うのだけど、現時点で最もシンプルかつ自然に「話し言葉」としての口語体になっているのは、おそらく谷川さんの文体なのだと思う。
特に「チャンスを棒に振るように」の「ように」の軽妙さというか空振り感と最後の「生きて」の不思議と真剣というかリアルな感じが嫌味なく同時にスッと入ってくるのは、やっぱりこれが谷川さんの文体だからだとしか言いようがない気がする。


雰囲気イケメンって別に悪いことじゃないでしょう、そして角度の変わるクレーン

/阿波野巧也『ビギナーズラック』(左右社 2020.7.30)

今年はとにかく第一歌集ラッシュだったので、まだ読めていない歌集も多いのだけど、後に2020年という年を短歌の文脈で想起するときには、「なんかやたら第一歌集が出た年だったね」という思いだされ方がされるのではないかと思う。個人的にも、2020年上梓組の皆さんには勝手に同期的な親近感を覚えている。皆さん各自のフィールドでどうか達者で短歌を続けてほしい。
その中でも『ビギナーズラック』に言及することには特に深い理由はないのだけど、口語短歌における韻律感みたいなものが更新されつつあるよね、ということが特に感じられる歌集だと思う。
「雰囲気イケメンって/別に悪いことじゃ/ないでしょう」はきっと5~10年ぐらい前までだったら「大破調」だったと思うのだけど、今はこういう韻律が違和感なく「短歌っぽさ」のレベルでさらっと読める、という作者/読者層がけっこう厚くなってきているような実感がある。解説*2斉藤斎藤さんがこの歌を引いて(直接この歌への言及なのかは確証がないけど)「早口になる」と述べているのだけど、これは字余りとしての「大破調」ベースの読みだ。僕の漠然とした感覚では、これは破調というよりも、(特に初句の)韻律そのものが拡張されているとうか、べつにそんなに早口に感じることもなく、平明な調子で読んでいいんじゃないかという感覚がある。


ちんちんとカシオペア座の両方を見ることのできる体勢でした

/藤田描『ちんちん短歌』(ちんちん短歌出版世界 2020.11.22)

文フリの短歌島が知り合い祭りみたいな感じになってしまって久しいのだけど、この『ちんちん短歌』は久しぶりに文フリという場の本質を強く感じることができて、とても良かった。
11月の東京文フリが開催されたことは、今にして思えば奇跡のようなものだったのではないかと思うのだけど、その奇跡のおかげで(それと平出奔さんが教えてくれたおかげで)、手にすることのできた書物もあった。
歌会にしてもそうだけど、zoomとかで代替不可能な部分はどうしてもあるというか、結局はリアルな場でしか出会えないものとかわからないこととかがいっぱいあるよなと強く思った一年だったと思う。
人間の営みというのはそう簡単には変わらない。ニューノーマルなんてものもどうしてもフレーズありきの机上の空論でしかないように思えてしまう。


まだ更新するかもしれないですが、とりあえずそばを茹でるので、ここまでで公開したいと思います。
皆様よいお年をお過ごしください。

*1:トーチwebに掲載されている「野豚物語」という漫画がめちゃくちゃ良いので、ぜひともお読みください。 to-ti.in

*2:『ビギナーズラック』の斉藤さんの解説文はそれだけのために歌集を買う価値があります。

2019年の短歌まとめ

 いつもお世話になっております。  1年ぶりの更新ですが、今年は去年に輪をかけて短歌を読めていません。すみませんでした。


 読めなかったなりにやっていこうと思います。よろしくお願いします。

 

ほっといた鍋を洗って拭くときのわけのわからん明るさのこと

/山階基『風にあたる』(短歌研究社 2019.7.23)

 

 先に言ってしまうと、今年は『風にあたる』と『光と私語』の年だったなあというふうに個人的には思っていて、この2つの書物が出たことは後に一種のパラダイムシフトのように言われるんじゃないかという気がする。それがいいことなのかどうかはわからないけど。

 具体的にどうしてそうなのかというと、この2つの歌集は明白に、口語短歌の文体構築における一般解をそれぞれ提示したと言えるのではないか思うからで、口語短歌の個人技と一回きりで使い回せない一発ネタの死屍累々の歴史の中から、普遍的で一般的な方法論が徐々に立ち上がりつつあるのではないか、ということをずっと思っていたのだけれど、やっと今年になって物質的な書物として出てきたんじゃないかと思う。また、それによって、口語短歌はこれからどんどん個人技ではなくなっていくし、これからの10年ぐらいで良きにつけ悪しきにつけ具体的にその方法論が体系化されていくだろうという気がする。

 『風にあたる』の話に戻ると、山階さんがやっている(やってきた)ことというのは、基本的に<わたし>と<(他者)>、あるいは<(事物)>、この三者それぞれの間に立ちあらわれる空間像、およびその空間そのものの構成であると思っていて、これをものすごく雑に言うと「関係性」を書くのだということになるのだけれど、こういう空間構築そのものをゴールに設定して文体を構築する、という制作や読みの方法には一定の普遍性というか一般化への可能性がある。逆に読み手はその構造に気付いていないと、ほんらい読む必要のない文脈や物語を勝手に読み出だそうとしてしまい、結果としてつかみどころのない印象や関係が錯綜した印象を抱いてしまうのだけれど、すでにそうではない読者層、というものもまた生じつつあるのではないかと思う。

 この方法論の普遍性はすごくて、例えばそれは<わたし>と<鍋>の間にも成立しうる。引用した歌にしても、単純な主観的な把握に基づく実景、というふうに読むよりも、<わたし>と<鍋>の間に成立する空間像、というふうに捉えた方が、受けとめ方としてより正確なのではないかという気がする。この認識は先月に『風にあたる』の批評会に行ってさらに強くなった。

ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う

/𠮷田恭大『光と私語』(いぬのせなか座 2019.3.19)

 

『風にあたる』の一般解の話と比べると、『光と私語』のそれのほうがわかりにくいかもしれないけど、個人的にはこちらのほうにより高い親和性を感じていたりする。

 この歌も初出はたぶんそうとう前で、すでにある程度の人が知ってる歌なんじゃないかと思う。で、ここで言われている「牛丼屋」への憧憬ってすごくフラットで非人間的で余計なものがなくてすごくいいですよねという話なんだけど、こういう「事物にフォーカスする」という方法論もありえると思っていて、『光と私語』の歌の多くはそういう形で文体が築かれているという印象を持つ。要するに、事物がメインで<わたし>はそのときあくまでも観察する装置以上の振舞いをしない、最終的には事物に焦点が合うように構成するということなのだけれど、これもひとつの一般解で、いろんな場合に敷衍可能だと言えるのではないか。

あなたにも感情があるということを冬は忘れてしまいたくなる

/水沼朔太郎「飛び込んでくる」(『稀風社の水辺』稀風社 2019.11.24)

 

 冒頭に書いた通り、今年はぜんぜん短歌を読めてないのもあって、自分のところで出した本からになってしまうのだけれど、本当にいい歌だと思うので入れます。

 「あなたにも感情がある」と言われると、反射的に「感情がひとりのものであることをやめない春の遠い水炊き」(堂園昌彦)を連想してしまって、それはたぶん他者であるということの絶望的な絶対性という主題を共有しているからだと思うのだけれど、水沼さんの歌も「忘れてしまいたくなる」と言うことで、その忘れえなさ、逃れられなさが強まるなあという気がする。二句目「感情がある」だけちょっと圧が強まる感じもそうさせて、結果的には冬のわびしさと絶望的な他者性、だけが残る気がする。

 なんというか、水沼さんは急に本当のことを言いだすのでびっくりするみたいな印象があって、この歌も連作の中で出会ったほうがより鮮烈な感じになるのではないかと思う。

会社員に一発ギャグは必要ない でも憧れる一発ギャグに

/中村美智「ベター・ザン」(「羽根と根」第9号 2019.11)

 

 なんというか、最近「一字開け」のことをよく考えていて、一字開けにもいろんな一字開けがあるなあと思うのだけれど、こういう一見不要な、でもどう考えても読みに深い影響を及ぼしまくっている謎の一字開けみたいなものを目にする機会が増えたような気がする。

 この歌はそもそも下句が倒置でなければ一字開けがなくても一首が成立するように思える(例:会社員に一発ギャグは要らないけど一発ギャグに憧れている)けど、そうしないほうが圧倒的に良い。でも、この一字開けによって語りの位相が変化しているかというと、していなくて、引き続き同じトーンで同じ話をしていると思うし、そこに書かれていない文脈が表されているようにも読めない。しいて言うなら一呼吸置くことで「でも」のニュアンスが強まるかなという気がする程度なのだけれど、それだけでは説明できないくらい、この一字開けには引きこまれてしまう。なんというか、「深淵」とでもいうべきか、虚無への穴がそこに開いているような印象を受ける。謎すぎる。

 

なにそのリュック コンセントじゃん笑 けれどもう化粧のような青梅の夕べ

/温「居酒屋から」(https://twitter.com/mizunomi777/status/1091750237696253952?s=21

 

 歌会で出会って気になったというか、面白かった歌。コンセントみたいなやつが縫い付けてあるリュック、たしかにある。「けれどもう」からの展開がツボに入って笑ってしまう。なんというか、「一方そのころブラジルでは!」みたいな勢いの強引な展開の仕方だ。

 「化粧のような」も「青梅の夕べ」も、わかるような、わからないような、でも笑ってしまう。でもやっぱり、青梅の都心よりずいぶん近い山並みがいちめん夕焼けに染まってる感じもわかる気もする。

 

以上です。まだ読めてない本とかも来年頑張って読みます。良いお年をお迎えください。

 

2018年の名歌まとめ

2018年に読んだ短歌の中で個人的に名歌だと思ったものをちゃんとまとめておこうと思ったのでまとめます。順不同です。
名歌は数少ないですが、その名歌に出会うために短歌をやっているみたいな気持ちもある。


にしんそばと思った幟はうどん・そば 失われたにしんそばを求めて

/佐々木朔「まちあるき(全国版)」(『羽根と根』通巻8号 2018.11.25)

 この歌はなんというか、自分の主観というものをすごく大切にしている感じがいい。「うどん・そば」と書かれた幟を「にしんそば」と見間違えてしてしまって、やがてその認識が誤りであったということに気付くのだけど、たとえ誤認であったとしても、自分がそのように見えたそのとき、そこには確かにほんとうに「にしんそば」があった。そのイメージ、言うなればにしんそばのイデアみたいものはまだ語り手の中に確かな存在としてあって、それを求める気持ちもある。
 「失われたにしんそばを求めて」という下句は『失われた時を求めて』を下敷きにしているのだけれど、それ自体遠大な小説であるし、単なる言葉遊びとして以上に、テーマ性そのものの親和性の高さを感じるというか、『失われた時を求めて』におけるマドレーヌの味みたいなものとして、にしんそばの味とか香りとかイメージとか、人生には往々にしてそういう遠大な追憶へと続く穴があるのかもしれない。


給料が少ないと思ったり多いと思ったりすることを部長と話す

/山本まとも「こんな感じです」(『短歌人』2018.12 月号)

 「給料が少ないと思ったり多いと思ったりすること」にはたぶん二通りの解釈の仕方があって、実際に給料が手当とか成果報酬とかで月によって多かったり少なかったりするのか、それとも給料自体は同じ額だけど自分の主観としてそれが身に余ると感じたり逆に不満だと感じたりすることが往々にしてあるのか、そのどちらかだと思うのだけれど、やっぱり「思ったりする」というので、後者の主観的な、体感的な問題のほうなのかなという気がする。というか、後者のほうが断然面白い。一首がよりよく読める解釈を優先するというあれだ。あれも流行った。
 というか、主観的な問題だとすると、こんなこと言われたって部長はどうしようもない。外形的には何も変化していないのに、この歌の語り手の中では同じ金額の給料の解釈が主観的に変わっているという話で、これはもう完全に気分の問題で、部長にできることは何もないに等しいと思う。思わず部長の気持ちになって「だから?」とか「で?」とか言ってしまいそうになる。良くない。まあでもこういう何も起こらないオチのかけらもない話を受けとめるだけの人徳?のある部長だからこそ、こういう話もできるという、わりとほのぼの系の歌とも思う。
 この歌はジャンルとしては職場詠ということになると思うのだけれど、職場詠として、こんなに語り手がキャラ立ちするスタイルというのはなかなかないんじゃないかと思う。強いて言うなら植田まさしとかの四コマ漫画的なものに近いのかもしれない。一般的な職場詠というのはその置かれた環境としての職場のほうに固有の意味付けを付与したり、その固有の環境によって作中主体を定義する方向性がたぶんほとんどで、そういう意味でまともさんの部長シリーズ(こういうヤバい歌が他にも複数あるらしい。僕は「短歌人」の会員ではないので窺い知るのは難しい)はエポックメーキングなのではという気がする。

鳩サブレ型の磁石をロッカーに貼ってた時は楽しかったな

/山川藍『いらっしゃい』(角川文化振興財団2018.3.27)

 今年はすごい歌集がたくさん出たらしい、のだけれどまだほとんどちゃんと読めていないのでよくわからない。この歌は歌集が出る前から誰かの引用か何かで知っていて、前からすごく好きだった歌のひとつだ。
 楽しかった時の思い出があって、それはごく一瞬かもしれないしわりと長めのスパンかもしれなくて、これが「時」であって「頃」とかではないのでそれはわからないのだけれど、でもこれは回想の歌なので、ここで言われている「時」はあくまでも語り手の主観的な時間感覚の中にあるわけで、極端な話、実際に楽しかったのがごく一瞬だったとしても、それを思い出として回想するときにはその時間は永遠にもなりうるので、だからそのことはここでは問題じゃないのだと思う。
 その楽しかった時の記憶として紐づいているイメージが「鳩サブレ型の磁石」というのがすごい。ディティール、質感、配置、全部がすごい。そして何よりその「磁石」というガシェットがその時の「楽しかった」ことの理由とか背景そのものに直接的には何ら寄与していなさそうなのがすごい。楽しかったのは基本的に別の要因があって、でも思いだすのは「鳩サブレ型の磁石」なのだ。それが何故なのかはたぶん本人もわからないのではないか。人間の内部にはそういう言語化未満の底なしの虚無空間みたいなものがあるような気がするときがある。

あふれやまないコーラな夜は雑な敬語の使い手である君にまかせた

/宇都宮敦『ピクニック』(現代短歌社2018.11.27)

 雑な韻律、雑な喩、雑な態度、そして雑な敬語。すべてが雑としか言いようがないのにこの完璧な感じは何なのだろうと思う。天才か。
  「君にまかせた」というのはなんというかポケモントレーナーとか野球の監督みたいなそういう感じの気分かなと思うので、要するにこの「あふれやまないコーラな夜」という状況への対処としては、「雑な敬語」というチョイスがベストで、またその「雑な敬語」というワザの使い手として「君」には全幅の信頼を置いている、という話かなとは思う。どういうことなんだ。
 僕は飲み物としてのコーラをわりと好きなので、「あふれやまないコーラな夜」という状況はなんとなく佳きものかなという直観的な印象があるのだけれど、この歌ではどちらかというと良くない状況なのだろうと思う。というか、どんなものでもそれが「あふれやまない」状況というのは本質的に不穏だし、いくらコーラがおいしいからといっても、何事にも限度というものがある。そういうどうしようもない状況に対して「雑な敬語」をぶつける。ぶつけるとどうなるんだろうか。対消滅したりするんだろうか。でも「雑な敬語」で話し続けるという行為自体は抜本的な解決策というよりもその場しのぎの対症療法っぽい感じもある。よくわからない。
 この歌も歌集ではなくいつかのガルマン歌会の詠草ではじめて読んだ歌で、そのときからずっと気になり続けている歌なのだけれど、歌集『ピクニック』は全体的に本当にヤバいので読んでない人は読んでほしい。まず大きさからしてヤバい。

ガス代を払いに行って帰ってくると玄関ポストにガス代がある

/水沼朔太郎「おでこの面積」(『歌集 ベランダでオセロ』2018.9.9)

 この歌もヤバい。この世界のものすごく壮大な真実(システム)に自分だけが気づいてしまった感じ。
 ガス代を送られてきた払い込み用紙で払うという行為、みたいな月イチぐらいでルーチンを回す定型的な生活行為みたいなものはたぶん他にもたくさんあって、ほとんどの人はそういう作業を特に意識しなくてもできる程度のルーチンに落としこんでいて、特に何かを感じることもなく毎月のガス代を払ったり、あるいは口座振替とかにしていて、そうなるともう所作もなくほぼ無意識下でガス代を払うという行為が完結するようになるので、毎月同じように同じことをして、同じ気持ちになったりしている、ということにも気付かなくなっているのだけれど、要領の悪い人にとってはガス代を払うというルーチンを生活の中に組み込むことはなかなか大変で、ほぼ毎月支払期限が過ぎてから督促状で納めるようになっていたり、べつに金銭的に窮乏しているわけでもないのにガスを何度も止められたりするということがある。ガスは比較的簡単に止まる。そしてこの語り手はその要領の悪さゆえに、このような世界のループもののような再帰的な構造にふと気がついてしまうのだ。
 この認識のトリガーが引かれたのが、じつは玄関ポストに投函されていたガス代の払い込み用紙を「ガス代」と換喩的に認識した自分、に気づいた瞬間なのかなという気もする。この換喩が直観として行われたのは、ちょうど今しがたそれと同じ紙でガス代を払ってきたからなのだけれど、そのときにふと強烈な違和感が働いた、のだと思う。

プリキュアになるならわたしはキュアおでん 熱いハートのキュアおでんだよ

/柴田葵「ぺらぺらなおでん」(『稀風社の貢献』稀風社2018.11.25)

 「キュアおでん」はなんかもう、魔球という感じがする。人間もおでんもともに外部から熱を与えられて、その内側に熱源を持つわけで、人間は実質おでんなのだということがわかる。ひとしきり笑ったあとで完全に納得してしまう。その説得力。






 以上です。よいお年を。

文学フリマ25告知

文学フリマというイベントが明日あります。

c.bunfree.net

 稀風社の新刊はありません。当日は既刊の在庫とフリーペーパーを(たぶん)頒布します。よろしくお願いします。

 いわゆる「新刊落ちました」というわけではなくて、今回は主に多忙によりはじめから刊行を見送った感じです。文学フリマは年に2回あるわけですが、それに合わせて年2冊新しい本を作る、というライフサイクルがだんだん苦しくなってきたというのが率直なところで、今後は年1~2冊ぐらいで本を作って出していきたいなという感じがあります。しかしながら、本を作るという営みは多分に身体知によっていて、一度そういうライフサイクルから外れてしまうと、なかなか「よし!やるぞ!」というスイッチが入らなくなりそうだなという気配があって、でもなるべく頑張っていきたいと思っていて、お前の頑張りなんてどうでもいいよと思われるでしょうけれど、そういうモチベーションでいまこの文章を書いています。ただこう、はじめて新刊を作ってない状態でイベントが近づいてきて、なんだか存外に寂しい気持ちがあります。まあでも、同人誌即売会では誰もが平等に「参加者」であるという美しい建前に阿って、これはたぶんコミケ発祥の建前なので文フリでは違うかもしれませんが、当日は堂々とブースに居たり居なかったりするつもりです。

 そのほか、G-16の「She Loves The Router」さんの同タイトルの新刊に「夏のみぎり」という文章を寄稿しています。主に谷川由里子さんの短歌についての文章です。

c.bunfree.net

「She Loves The Router」は詳しくは書けませんがすごくいい感じなので、買った方がいいと思います。

鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある (短歌の感想 その8)

鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある 
/「名と叫び」三上春海 朝日新聞2016.1.5夕刊

 特にむずかしいことも、あるいは何かすごくて高尚なものもここには詠まれていないような気がする。認識された光景をただ簡潔に、あくまで理知的に述べているだけのように思われる。
 でも、何か述べるという行為、説明するという所作は、紐解いてみようとするとどうしてなかなか一筋縄にはいかない。イメージを言葉に変換する作業、というのは僕たち人類にとって発話の原体験そのものであるはずだが、いや、だからなのか、僕たちはそのことをなかなかうまく説明することができない。
 この歌はひとつの光景をここに提示しているのだけれど、厳密に言えばそれ以前にひとつの判断と、さらにそれ以前にはその判断に到るまでの思考が織り込まれている。砕いて言えば、「網の中に魚が干してある」という光景に対して、なぜ網がかけられているのか、それは鳥についばまれないようにするためではないか、という認識→思考→判断(発見)の過程がこの歌には折りたたまれている。その上で、その過程が歌として詠まれるとき、その順序はその人の内部で解体再構成されて、結果的には「鳥についばまれないよう」という判断(発見)から詠われているのだ。思考の順序から説明の順序に組みなおされた、とでも言えばいいのろうか。とにかく、この歌のもとになる認識、ないしは想像がこの作者の中に到来してから、この歌が実際に詠まれるにあたっては、決して短くない滞留時間がその間にあったのではないかという印象を僕は抱く。だからか、この光景は「いま・ここ」のことではない、かといって明示された「あのとき・あの場所」でもない、漠然とした「いつか・どこか」の色彩を帯びて立ち現れてくる。

 
 また、「鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある」という語りによって描かれている光景の中に「鳥」の姿はない。にもかかわらず、僕たちはそこに同時に、複眼視的に、そこにいる「鳥」の姿をもイメージしてしまう。「魚」を「ついば」む「鳥」、あるいは「魚」を「ついば」もうとするも「網」によってその企みを阻まれている「鳥」。そのとき僕たちの脳裏に立ちあがる「鳥」のイメージもまた、「いま・ここ」でもなければ「あのとき・あの場所」でもない時空にいる、いわば可能世界の鳥だ。
そこにいないはずの鳥、可能世界の鳥を在らしめるもの。それがここでは「網」だ。この一首の中にあって「網」は、世界線の分岐点になっている。そこに「網」のある世界線、ない世界線。そしてそれぞれの世界線の「網」の場所に、可能世界の鳥が飛来する。そしてこの一首は、単なる固着したイメージの語りをこえて、僕たちの中で多様なイメージを、多重写しで立ちあげる。


 「いつか・どこか」、あるいは「いまではない・ここではない」何か。思うに口語短歌(と称されるもの・発話言語)が文語(と称されるもの・記述言語)を離れて見ようとしたもの、語ろうとしたことというのは、そういうものなのではないか、という気がする。明示されたひとつの時間、ひとつの場所、ひとつの固着したイメージを離れて、僕たちが語ろうとしているのは、明示されない時空の、ある一定の可能性を帯びた「何か」なのではないか。口語の、特に終止形という動詞の活用には、そういう「明示しない」意志、ないし要請が秘められているような感じがする。

突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる (短歌の感想 その7)

突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる
 /山本まとも「デジャ毛」(「短歌研究」2014.9)

 この一首はいわゆる「あるあるネタ」の歌だろうか。
 たしかに一面においてはそうかもしれないと思う。日々の暮らしの中のさまざまな場面で無言の貢献を続けている突っ張り棒というのは、あるとき何の前触れや予兆もなく、往々にして僕たちの視界に入らないところで、いきなりバサッと派手な音を立てて、支えていた衣服やら箱やらと一緒に落下するものなのだ。そしてまた、僕たちはしぶしぶ重い腰を上げて、その突っ張り棒を持ち上げて、再び元の位置に突っ張らせようとするのである。そうした日々の暮らしの中では光を浴びずに忘れられていく澱のようで、それでいてよくありそうな出来事をあらためて提示してみせるというのは、「気づき」や「(再)発見」の面白さであり、あるいは「あるあるネタ」の面白さに通ずるものだろうと思う。
 しかし、この一首は「あるある」の面白さには決して着地しない。なぜだろう。可笑しさが引いた後に、ぞっとするような感覚の中に取り残されるのだ。それは日常生活の中で何度となく繰り返される、特に意識されない僕たちの動作というものが切り取られることで、それはふいに日々暮らすということ、さらには生きるということの本質に行きあたってしまうからではないかと思う。僕たちは日々暮らし生きていく中で、無意識のうちにある現象に対して同じ動作や行動、言動を何度となく繰り返している。そうした無意識下の反復運動、再帰運動というのが、「生きる」ということそのものなのではないか。ふとそのことに思い至って、背筋をぞっと凍らせてしまうのである。
 そのような効果がなぜ生じるかといえば、この一首の中で、いわゆる「気づき」や「発見」の面白さが、決して一首の主題の座に上りつめないように、演出や表現が巧妙に抑制されているからだ。
 例えばこの「突っ張り棒」を元の位置に戻す際の主体の心情というのを(「うんざり」とか)この一首に入れたり、あるいはおかしみを提示するために「突っ張り棒」を擬人化するようなレトリックを行使してもいいかもしれない。そのような手を加えれば、この歌はより「あるあるネタ」的な面白さに近づくはずだ。
 しかし、そういった演出や主体の内心といったものは、この一首ではむしろ抑制されていて、あくまで出来事の表層をなぞるような語りが徹底されている。このとき、「気づき」や「発見」というのはあくまで語りの材料ではあっても、決して主題をとることはない。そこにあるのはあくまでも発生した出来事の表層であり、その表層を冷たくなぞる主体の認識なのである。


 この「抑制」というのが山本まともという作者を評する上でのひとつのキーワードで、かれの短歌を支えているのは、主体の感情や想像による物語りや詩情を能うる限り抑制し、限りなく純粋な認識のみを提示しようとする姿勢なのではないかと思う。主体の心情をほとんど押し出さない一方で、大喜利的な「気づき」や想像力の面白さで読ませようとするでもなく、ただ事実や出来事の表層に対して忠実であろうとするのである。山本まともという存在は、インターネットに活動の軸を置く歌人の中でも、そのアンチポエジーのストイックな徹底という点で、かなり特異な立ち位置を占めていると言っていいかもしれない。

黒と黄の警告ロープに区切られた領域の横を通って帰る
 /山本まとも「プレパラート」(「東北大短歌」創刊号2014.11)

 上に引用した一首においても、主体はあくまで認識に対して忠実で、この歌では特に想像力が強く抑制されている。
 「黒と黄の警告ロープに区切られた領域」というのが具体的にどのような領域なのか、表層をなぞる以上に深く想像するということを主体は行わない。例えば新たに住宅が建てられる更地であるのかもしれないし、あるいは道路の陥没していて危険な箇所だったりするのかもしれない。もしくは立ち入り禁止の廃墟かもしれない。しかし、主体はそのような「領域」のディティールへの想像や掘り下げはしない。このことはそのまま主体にとっての認識の優先順位を反映していて、その「領域」についての興味関心というのは限りなく低いということの表れなのだろう。あくまでも関心事は帰宅してからのことであったり、あるいは別のことでしかなく、「領域」はただ視界の隅をかすめていく風景の一部でしかない。
 しかしながら、それでも主体は「黒と黄」のいわゆるトラロープが「警告」の意図や意思を発しているということだけは認識しているのだ。認識された事実以上の想像が抑制されることで、ここではむしろ「警告」への認識が際立つことになる。
 思えば僕たちは日々さまざまな場面で、詳細に踏み込むわけでもなく、あるいは内実を理解できないまま、ただ「警告」というメッセージだけを受け取ってしまう。よくわからないけど、ただ「警告」されているのだ。次から次へと新しい出来事が認識下に舞い込んで来る時代にあって、こうした不詳の「警告」というのは、日々の暮らしの中で深く掘り下げられることはなく、漠然と受け容れられて、そして出来事の波に洗い流されてしまう。この一首にはそのような、今を生きるということに対する批評的な視座が根底にあるような気がする。穿ち過ぎだろうか。


 また、忘れてはならないのは、そういった「抑制」の方法論が、それ自体を目的としているのではなく、あくまで語りの道具であるということだ。物語ることを抑制することが語りの道具になるというのはいささか逆説的だが、しかし一方で人間が言葉を紡ぐ以上、あるいは紡がれたテキストを読むのが人間である以上、「抑制」の完璧な徹底というのは不可能で、どんなに出来事の表層をなぞることに徹しようとしても、必ずどこかに物語が滲み出てしまうのではないか。そして、その不徹底を欠点とするのではなく、逆に利用することによって、山本まとも作品は成り立っているのではないだろうか。どんなに抑制しようとしてもなお滲み出てくるほんの一滴の詩情を求めて、安易に作られうる詩情をかれは排そうとしているのかもしれない。

ヒッチハイクのコツの話を思い出し事務所の外の道を見ている
 /山本まとも「デジャ毛」

 ヒッチハイクによって現実社会を生活を逃れることは難しい。「事務所の外の道」は決して未知の世界には繋がっていない。それでもなお、救いへの希求がふいに現実の風景にダブってしまうことがある。それはほんのふとした一瞬で、その一瞬「事務所の外の道」の光景はきっと美しいものだったろうと思う。しかしほんの一瞬美しいエスケープルートに映ったその道は、すぐにもとの現実の殺風景な生活道路に戻って、そこを軽トラックか何かが通り過ぎて行ったのではないか。すべては僕の想像である。




 明日2/8(日)21:00より、山本まともさんをゲストにお招きして、稀風社配信第17回をやります。テーマは「野球」。野球回のあるアニメは名作と言われています。よろしくお願いします。