hapax

2012年10月23日火曜日

資本をとおすな



原発からは高圧送電線が張り巡らされている。
その送電線をささえるための巨大な鉄塔が等間隔に立ち並ぶ。
近年、ヨーロッパ反核のある部分が注目するのはそれら原子力装置の細部である。
スローガンは「高圧送電線をとおすな、鉄塔をたてるな」。
むろん、たんに電磁波が有害という理由からだけではない。

資本の地勢学というものがある。
それは点描する。線を引く。貫通する。ばら撒く。汚染する。
資本はそのように空間を再領土化していくのである。
原発装置においてあまりにもアカラサマであるように。
事故以前だろうと、以後だろうと。

上は飛行場建設反対の「レジスタンス」である。
ほかならぬ、資本装置による空間捕獲の同じロジックが問われている。
「ノー・パサラン(奴らをとおすな)」は反ファシズムだけの合言葉ではない。
それはいまや反資本装置闘争へと拡張されつつある。

装置=ファシスト。
ファシストをとおすな、資本をとおすな。


2012年10月21日日曜日

I miss you, London



なかにはいる――
ロンドンの蜂起にはそうした傾向がある。
近年の学生暴動や都市暴動を想い出そう。
学費三倍に反対して与党本部に乱入。
都市を遊動しつつ商店を略奪。
そして今回。


2012年10月16日火曜日

dreaming dangerously

















2011年とは何だったか。
アラブの春夏秋冬、OWS、ロンドン都市暴動。
ノルウェーのアンネシュ・ブレイビクによる連続テロ。
そして福島原発事故と反原発・反放射能のはじまり=再開。
ジジェクによれば2011年は「The year of dreaming dangerously」である。
2011年は危険な夢をみている、われわれの現在のうえに横臥しつつ。

夢からの覚醒は幻想であり、夢のなかにこそ覚醒がある。
なぜならそれがトラウマにも似た決定的な切断であるがゆえに、
なぜならそれが過去ではなく未来のしるしであるがゆえに、
われわれの新たな政治的リアリティはこの2011年のうちに占われるだろう。


2012年10月13日土曜日

カタストロフの現在



覚醒したカタストロフたちの宣言文より以下引用。 

***

反IMF宣言 2012・9・16

IMFよ、おまえによって破滅させられた世界が今度はおまえを破滅させるだろう。

IMFは世界のすべてを負債と化してきた。いま、われわれが目にしている終末的な世界の様相、この社会の破滅的なすがたはその結果である。その最も醜悪にして極限的な姿こ­そ壊滅した福島第一原発であり、再稼働させられた大飯原発である。IMFは民衆が蜂起するエジプトでの開催をあきらめ、そのかわりにこの日本/東京を選んだ。原発という負­債をさらに増殖させることで自分たちが生きのびるために。

しかし放射能がまきちらかされながら、それを直視することもできぬまま、植民地主義的妄想にとりつかれた、この恥辱にみちた国はIMFの墓場にこそふさわしく、ファシスト­を首長とするこの首都はその棺桶にふさわしい。原発と領土は今日のファシストのふたつの顔だ。かれらの崩壊は内戦とともにはじまるだろう。現在の破局的な世界はその過程の­開始を告げている。10月の東京はIMFを新たな破局——これはわれわれ自身に他ならない——によって歓迎するだろう。

すでにあらゆるところからIMFを頂点とする世界金融システムへ反攻の烽火はあげられている。われわれは世界の夜を走り抜け、ストライキをまきちらすだろう。

そして2012年10月の東京は、福島以降の日本と世界の長期にわたる崩壊/再編過程の一つの節目となるだろう。

外のひだ

反社会のひだを社会の名で呼ぶのは社会学の詐術である。
ソーシャルセンターだとか。「社会をたがやす」だとか。
反社会的なものは外へと向かう。外へとはじき飛ばされる。
ひとは外を生きるほかはない。でもひだがなければ生きられない。

そう、ひとはひだに住まう。書物、都市、記憶、音楽。
いかに外のひだをおりたたむか。そこに一時的に住まうために。

フランス19世紀世紀末。
パリ・コミューンは輝かしい過去でしかなかった。
いまや左翼も芸術家も外にはじき出されてしまっている。
出来事はもはや受肉せず、理念だけが浮遊しはじめる。
この稀薄な空気を、外そのものを「いかにして生きるか」。
かくしてサンボリスムやデカダンスが出てくる。
外を生きるためのひだ作りそれ自体を芸術と見なすことによって。

書物のひだ(マラルメ)
雑誌のひだ(サンボリスト)
神秘のひだ(ユイスマンス)
神話のひだ(モロー)
色彩のひだ(点描主義)
都市のひだ、記憶のひだ(カフェ「シャ・ノワール」)
脳のひだ(ベルクソン)

こうしたなかから世紀末アナキズムの実践も出てくる。
言葉と物の無関係それ自体を関係として把持しつつ。
外をおりたたむこと。それは内向ではない。
界や内面への内向に回収されないためにこそ、
外のひだが必要なのである。


2012年10月10日水曜日

顔のないサンディカリスム

サンディカの人称か、民衆の非人称か。
しばしばこうしたアルタナティブが語られる。
しかも、後者のほうが優位であるかのように。
だが、ここには嘘がある。

考えてみよう。
汚染食品の流通も、汚染地帯の学校や大学の運営も、
サンディカが現場をサボタージュすれば生じなかった。
社長や学長の指令を退けることができるのはサンディカ本来の力能である。
もちろん、サンディカリストたちはこのことを意識していた。
意識してなおかつ非力だから夜に「みんな」になる。

そして意識をこじらせる。まるで、
「みんな」の非人称がサンディカリスムの人称性よりも優位であるかのように。
ゼッケン左翼を小馬鹿にしつつ。
ノボリを立てないことがさも重要なことであるかのように。

だが、非力の別名であるような「みんな」などいらない。
そして「みんな」のなかで出くわすのはいまだに顔、顔、顔の人称性である。

サンディカリスムか、みんなか、どちらかを選ぶ必要はない。

顔のないサンディカリスムがある。
それはシンジケートという別名をもつ。
シンジケートは力能の夜の共産化である。
国家や社会に要求するかわりに闇の共産主義となる。
国家資本主義とは別のフローを組織するのである。

労働者によるぶんどり共産主義。
資本を共産化し、ひととものの別の流れをひそかに組織すること。
サンディカリスムはシンジケート主義として生まれ変わる。
共産化すべきは知性だけでもベクレル数値だけでもない。

労働者諸氏にはやってもらわなければならないことがたくさんある。