激愛   最果タヒ

彼女とわたしはいくつかの炎が自分たちのせいで制御不能に陥ったことを知っていたが黙っていた、火をつけることは一度もできなかったが、燃料ならいくらでも注いだ、この関係性に名前はつけられないけれど、誰も三人目になろうとしないからこの世界はまだ未熟だ。愛されたいというなら私たちはいくらでも愛する、三人目、四人目になるならいくらでも愛する。そうではない、まず、わたしと彼女が殺し合って生き残った方が迎えに来てくださいという人間ばかりだから私たちはさらに燃え上がれと願い、注いでいた、生きているとしなくてはならないことが多々ある気がしてしまいますよね、仕事もしなくちゃいけないし、相手にできる人間なんて一人ぐらいですよという人間が背負っている70億人の世界。わたしが祈ることを彼女は知らない、愛することの凶悪さに飲まれてどれだけの人が死んでいったのか、わからないけれど私たちはこの関係以外に何もない、信号機が点滅している、ずっと点滅していろよ。車も人も誰も安全を得ない世界で、唯一も絶対もない愛を膨張させてしまえ、全ては燃え尽き、全ては満たされる。わたしが彼女に出会ったのは偶然だった、なんの運命もない、それが一番にこの世界において嫉妬すべきことだと分かっているから、この炎をきみ達にあげる。

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    超愛  最果タヒ


聞きに行ったのにうるさいと思ってしまって、この食事はまずいですと言われて泣いているあなたを抱き寄せた私はまずいと言った本人だった。記憶違いでなければ愛し合っていたはずなのだけれど、と、口にした頃にはだれもなにも覚えていなくて、私だけが確かな記憶を持つ人間のはずだった、そのはずなのにみんな、疑ってばかりいる。噂話が好きなのはそのせいだ、バラエティをたくさんみて、ワイドショーの登場人物の予習をしている人間たちが、私にはとても優等生に見えて、いつもとても寂しくて、信号機がせめてずっと赤ならいい、スピードを躊躇なく上げた車たちは順番に光を超えて、この世からはいなくなる、

「あの世には、いるから大丈夫」

死と生の境界ではなく、光速と高速の境界に川が流れ始めるこの時代にわたしたちは何を恐れるべきだろうか、きっとコンビニやファストフード、インターネットは自殺の一種なのだ、もう何も知らないから、大丈夫です、知らないから、知らないなら自殺は自殺じゃなくなるんですよ、知らないから死は死でしかなくなるんですよ、どうであろうが。あなたは笑った、健康診断なんてもう何年もやってないと笑った、小麦粉は室温で大丈夫だよ、笑った、わたしも笑った、笑っていた、あなたがそうしていま、一番哀れな人となる。



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友達     最果タヒ


脳内でグーパーしている掌がある、そこにぼくは命中させたくて涙を流している、そんなことをしたってこの掌の主はぼくのことを救いたくはならないだろう、でも、救わなかったという事実が欲しい、お前はぼくを救わなかったという事実があれば、お前のことをぼくは、どこかで信仰してしまうだろう。

これが神様に対しての言葉なのか、仏様への言葉なのか、恋人への言葉なのか、友達への言葉なのかって本当は大した問題ではない、いつか恋人になるかもしれないと思える人とじゃないと俺は友達になんてなれないよ、そうだよお前だって俺の恋人になるかもしれないんだよ、そんなのもわからないのに神や愛を語るな。俺は、いつも孤独でなぜか涙が出てくるんだけど、お前も階段を上ると汗が出るだろうし、それと同じだよ、風呂に入っているときみんな汗をかいていてそれから泣いているんだって、死んでないってことを確かめる方法は本当はたくさんあるのにさ、俺たちは本当はやる気がなくて、恋も友達もやる気がないから分けているけれど、お前は何人友達がいるの?その数だけ恋しているってことだと想像はできない?それとも大して友達でもなかった?俺の境界線がちぎれて、漏れ出したものを誰かが踏んで、あ、水たまりって言ったんだ、そこに反射する青い空が、お前が晴れたことに気づく最初のきっかけである可能性って高いよな、だから、神様も仏様も恋人も友達もお前だってことでいいんじゃないか、俺にとって。


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記憶はいつも断面図しか見えない、あなたにはその全貌が見えるのだろう、ぼくの瞳の形をしているそれはあなたのことを見ているだろう、冬の匂いがする、見あげようとしたのに空のことさえ見下ろしている、ぼくたちが今どこにいるのかわからない、血の匂いがする、抱きしめようとしたのに、体のことさえ見上げている、青色がやっと見える、これは海ではない、空でもないのかもしれない、過去でも未来でもなく、現在でもないけれど、あなたとぼくが同時に見つめている色だ。

「5月6日の詩」最果タヒ


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春 最果タヒ




知らんって言えるなら言いたい、あなたの命のことも誰かの命のことも。七夕の飾りみたいな魂が、夜空からいくつもぶら下がっていて、端的にそれはとても綺麗。見捨てることだってできる他者を見捨てないことを美しさとかいうやつにはこれが何も見えないの?ずっと恐怖しかないし、それは誰もが幸せでも同じだ、誰もが死ぬ可能性を抱えている状態で、自分と関係ないってことの恐ろしさを誰かと共有したかったし、私だけが無関係なわけじゃないと思いたかった、これはとても怖いしこれから逃れるために兄弟がほしくなったりしたのかなあ?近い人がいれば、私は誰かの死にちゃんと引き裂かれるだろう、そうすれば、私はちゃんと自分以外の死をまっとうできるわけだ、私は私じゃないときだって死にたいんだよ、おかしいよね、私は私じゃないときも死ぬべきだって思っているんだね、死んでしまった人のことを何も知らない、生きている姿を知らないことがどれぐらい何も知らないことかがわからなくなるのがよくわかる、金魚鉢みたいに誰かを飼うわけじゃないから、死んでしまって隣人のことを知る。恐怖より悲しみより、悲しまなくちゃという義務感が、矢のように降り注ぐけれど、誰にも知られたくなかったのかもしれないよ、愛と言われるたび、今このタイミングで愛ですか?と思うことは多々ある、愛としか言えない八方塞がりの場所で愛なんてないまま泣ける人間にならなくてはならない、こんなにも知らない人が死んでしまう世界で、生きていくなら。


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雑記

私は仕事をしている版元のことはどこも尊敬しているし、もちろん強く恩義を感じている版元もいくつかある。つねに仕事をしたいと思う編集者さんがいて、そういう人に原稿を渡すことはやはり多くなるし、それはもちろん自然なことだと思う。リトルモアさんから詩集を3回連続で出したので、小学館からその次に出したときに、リトルモアじゃないのか、がっかり、とおっしゃる読者の方が時々いた。もちろんリトルモアが好きだから、という理由の人もいたけれど(私も好きだよ〜)、「大きな版元に引き抜かれるのか」みたいな謎のストーリーで受け止められることが稀にあって、それが私はとてもしんどかった。版元に大きいとか小さいで優劣がつくイメージがわたしにはないし、そもそもリトルモアはめちゃくちゃ立派な版元だ。失礼なことを言うな、と思ってしまう(言う人はそんな意図はないんだろうけどさ…)。私は、『死んでしまう系のぼくらに』の原稿を、本にしたいとリトルモアの知り合いの編集さんに持ち込んだとき、こんなかっこよくて立派な版元に持ち込むなんて身分不相応では?といたたまれない気持ちになった。リトルモアと小学館、どっちもすごいところだし、本を出す会社って物を書く人間からしたらそれだけでめちゃ巨大だ、書いたものを世間に届けてくれるんだぞ?そんなのすでにどこもやばい規模では????なぜ社員数とかビルの大きさとかそういうので比べるのだ????俺にとってリトルモアは真夜中を出してる超クールな版元であり、小学館はドラえもんの版元である。好きなものを出している、ということの方が、規模なんかより何倍も大切だし重要だろう。小学館の詩集は、小学館の雑誌で数年間連載していた詩をまとめたものなので、当然のこととして小学館でまとめたが、それはもちろん数年間私の詩とずっと併走してくれた編集者さんがいて、そしてこの本を作るとき動いてくれた様々な立場の人がいたからできているのだし、その人たちへの感謝は尽きない。その人たちによってこの本がいろんな人に届いたのであって、小学館という「大きさ」が届けたわけではないし、「大きさ」がこの本を作ったのではない。リトルモアだってそう。リトルモアに働く人たちは本当に全力で本に向き合っていて、その人たちがすごいのだし、その人たちがいたから本が届いた。その人たちがいるから私はリトルモアと仕事をしている。どっちも人が動かしてくれているんだよ。私はその人たちと仕事をしているんだよ。はたからみたら、企業と企業っていう、そういう簡単な物語が想像できて、それでがっかりとか色々あるのかもしれないけど、何人かの人が仕事をくれて、その人をきっかけにその会社のいろんな人が詩を読んでくれて、本にしましょうって言ってくれてそこから全力で動いているに過ぎない。過ぎないんだよなあ〜まあもちろんこんなの内輪な話なので、心配になったりするのはわからんでもないけど、そして私が堂々と心配しないで〜〜っていうのもなんか変なのかな?大丈夫か?と思ってこれまでひとりそわそわしてたんだけどやっぱへこむから書いとくね。


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2020年生まれ 最果タヒ


ぼくが戦おうとするとき、飛び散る破片や声についてきみは同じように傷ついて、目を耳を塞いでしまう、それは恐れているだけなのだ、きみはきみの肉体でもないのに、ぼくのことを止めようとする、そんなふうにきみはまた違う形で戦っていて、ぼくはその姿を見て、きみと同じように傷ついている、恐れているだけなんだ、ぼくは最初に立ち上がるわけでも最後に立ち上がるわけでもなく、多分もうぼくの肉体としてここに立つことすらできていない、生きていることが何らかの価値を生むなんて事実だけど期待はできなくて、戦う必要なんて何一つないと言える人間はとても綺麗に見えるし透き通ったものはなんだってきれいだ、でもぼくは海でも川でも氷でもないし、透き通れば透き通るほどお腹が空いて人肌が恋しくなる、愚鈍な話だと思いますか、これはぼくがぼくでなくなっても人間であることから逃れられないことの痛みの問題で、そこまでして生きる意味って何?と聞かれるたび知るかよって思う、生まれたんだから生きてんだよ、ぼくは戦うしかできないんだ、愛しているより先に、音楽より芸術より先に、教えられたまっさらな槍はもう投げ出されて、空を飛び、あれがぼくだと信じることでしかぼくは美しいものを美しいと思うことすらできない。馬鹿げているだろうか、きみだけは絶対そうは思わない、目と耳を塞いだ先に、同じ姿のきみが見えるよ。



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疲れているし、わからないし、きみはだんだん誰かを忘れていく、ぼくも忘れていく、そうやって疲れている時は真っ白な穴が頭の中にあいて、それは見ることができない視界はいつも晴れているように見える、狭まっているなんて思わない、ぼくの中にいくつもの穴が空いてそこを風が通り抜けて気持ちいい、友達がたくさんいることや、動物が好きなことや、大切な本があることがだんだんその事実が言葉だけで残って、ぼくはその感触やそこにある言葉を忘れる、次に会った時には懐かしいと思うだろう、それはとても柔らかいてざわりでほっとするのだが、懐かしいことではなかったはずだと、ずっと続いていたはずだと、ぼくはいつまでも気づかない、穴が空いていく、風が通って、ぼくはとても気持ちよくて、癒されていて、だんだん疲れているとは思わなくなり、空が広く見える、ビルはとても高い、ぼくはまだ充実している、人生も長いし。そしてすべてのものが、とても懐かしい。

「青空の詩」最果タヒ


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美しいだけのあなた、あなたが隠すものが見える気がして、みんなあなたに恋をする。もう、何を燃やした炎なのかわからない、美しい赤と白の光がぼくの脳に焼き付いて、誰も悪くない、とぼくは言った。誰も悪くない、そう言うことで、ぼくは誰よりも美しくなりたい。美しさを諦められない人ほど、美しい人の中に醜さを求めて、恋をするんだ。ぼくはきみを愛しているよ。

「焚き火の詩」最果タヒ


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女子校


花が咲いているけれど、根っこにしか脳がないと、私にはわかるのに、かわいいと言った、私は花の赤いところ白いところ、黄色いところ青いところがかわいいと思った、脳みそは光の届かないところでじっとしている。見つめるという行為は嘘にしか思えない、まばたきをすることで、何かを遮断し続けているのに、人の目を見なさいと言われて、むしりとった花をあげます。私があなたの美しさをどれくらい知っているか、知りたいですか、あなたが、孤独を受け入れているならいくらでも語り続けるのに。お互いに愛することだけはないと、約束する関係を、結婚だって、神様は言っていた。


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「本の窓」3・4月号