居酒屋兆治(1983)
健さんはかつて田中邦衛とバッテリーを組んでいた、高校野球の元スター選手。肩を壊して普通の会社に就職、サラリーマンとして数年を過ごすが、リストラ宣告人の仕事に回されて(佐藤慶の嫌がらせ人事)脱サラし、妻のおときさん(加藤登紀子)と共に居酒屋〝兆治〟をはじめる。
いきなり話が逸れて恐縮ですが、個人的に最もツボな描写というと、「女の子がいそいそと身支度している」シーン。流行りのポップミュージックをBGMに洋服選んだりアクセ付け替えたり香水ふりかけてるシーンを見ると、ドーパミンが放出されて、得も言われぬ心地に……。アリシア・シルバーストーンの『クルーレス』を観て発病した奇癖ですが、もし自分が男に生まれていたら、この「身支度」フェティシズムに最も近いのが、「居酒屋の開店準備をする俺」シーンだと思うのです。
煮込みの具合をチェックして、カウンターを水拭きして、っと。健さんのキビキビした働きぶりがステキ! 男の夢、高倉健…。男の夢、居酒屋の親父…。健さんが居酒屋の親父を演じる、しかも函館で! という、男のロマンがみっちり詰まった、男にとって玉手箱のような映画だよコリャ! そんなワクワク感に満ち溢れたオープニングシーンです。100点満点なり!
またこのオープニングシーンの音楽が軽妙なこと。あまりの陽気さに、ただの〝居酒屋ドリーム〟映画かと思っていると、冒頭5分も経たずに真のヒロインが現れ、映画は一気に不穏な感じに…。
そう、この映画、表は完全に居酒屋ドリームですが、その裏では健さんとの恋やぶれた大原麗子が破滅への道をひた走っているという、二層構造?になっているのです。以前、大原麗子のドキュメンタリーを見て、この映画の役「さよ」をすごく気に入っていたという話を聞き、観てみたのですが、確かにすごかったです。素晴らしかったです。
ちょっとでも油断したら、「アンタいつまで昔の恋引きずってんだよ! バカだねぇ。いい加減忘れちまいな!」と言いたくなってしまうような、そんな役なのですが、あまりにもシリアスに美しい大原麗子に、そんな突っ込みを入れる隙ナシ。人はこのような外見に生まれてしまったら、恋にしか生きられないのやも…とすら思わせる、なんだかものすごい情念を振りまいていました。 ↓↓↓ ブオォォォォォォ(効果音)
表面では健さんが居酒屋を切り盛りしつつ、店の移転のことなどで頭を悩ませたり、イヤぁ〜な客、伊丹十三のせいで傷害事件を引き起こしてしまったりと、なんやかやあるのですが、そんなのは取るに足らない日常の範疇内。なにせ裏面では、大原麗子が大変なことになっているのですから…。映画ではあまり多くは語られませんが、おそらく健さんと幼なじみから恋に発展していたはずなのに、気が付けば自分は牧場主の元へ嫁いで子供も二人…。しかし過去の恋愛を引きずりまくっている大原麗子に、そんな現実はとても受け容れられたものではなく、たびたび家に帰らず、その度に旦那(よりによって左とん平)に捜索願を出される、失踪常習犯になっていました。
そしてしょっちゅう健さんに無言電話をかけるように…。わかる! 恋心がほとばしり、どうしようもなくなると、無言電話をかけてしまうんです! 公衆電話を握る大原麗子のこの表情が、片思いとはなんであるかを、すべて物語っております。そういう意味で、無言電話が事実上不可能になった現在、恋愛のカタチ自体が大きく様変わりして、恋愛そのものを映画なり小説なりで描くのが非常に困難になってしまったのですが、それはまた別の話…。
辛い…辛すぎる…。そう、本当に辛いのは、一度は愛する人と幸せな時を過ごしたのに、それがもう二度と叶わないと知ってからなんですよね…(;_;) 昔は高校野球のスター高倉健とつき合ってたのに、いまは牧場で左とん平と二人の子育てって、女にとって煉獄ですよ。左とん平にはすまんが。
今現在好きな人がいて、片思いに身悶えしているうちはまだまだ余裕。その身悶えが報われて、幸せを味わい、これが永遠につづくと思ってしまってからが、真の不幸のはじまりなり。アーメン。こと、相手がこの映画の健さんみたいなタイプってのがいちばんタチが悪いんですよ。なんというか、一本筋の通った、自分の中のルールに従って生きているイイ男。欲がなくて、度量はたっぷり、みたいな…。この手の男に惚れちゃダメ! 死ぬしかなくなるから! この手の男は遠巻きに鑑賞するべし。
非常にしっかり作られたいい映画なのですが、根本的なところに引っかかりを感じたのも事実。大原麗子のキャラ設定および末路は言わずもがなですが、途中に小松政夫の妻あき竹城が唐突に死ぬシーンがありまして、いくらなんでも女が死にすぎるんですよね、この映画。そこでふと、あるシーンを思い出しました。
〝兆治〟で酒を飲んでいた田中邦衛が、「昔の青年会は良かった。酒飲んで騒いで。あれが青春だった」と語っているときに、加藤登紀子がこんなことを言うのです。「じゃあさよさんの家出で、失われた青春が戻ってきたっていうわけ?」(さよの捜索で青年会の結束が再び強まっていたので)。そしてさらに、「じゃああとは恋人同士で」と、邦衛&健さんに言い残して、お店を一人あとにするのです! キタァーーーーーー! この瞬間、わたしの顔に細フレーム眼鏡が装着され、フェミニズムの化身、フェミコフとなりました。フェミコフはホモソーシャル&ミソジニーが大好物なのです。
内田樹・著『映画の構造分析〜ハリウッド映画で学べる現代思想〜』のなかで、ハリウッド映画(とくにマイケル・ダグラス映画!)がいかに「女性嫌悪」に偏っているか書かれた章があります。マイケル・ダグラスは映画の中で、女性を抹殺しつづけている。マイケル・ダグラス映画に於ける「女性」は、常に「悪役」である。女性は主人公を誘惑し、彼の世界を破壊し、彼のプライドをズタズタにし、最終的に主人公によって殺されます。『危険な情事』でも、『ローズ家の戦争』でも、『氷の微笑』でも、『ディスクロージャー』でも、『ダイヤルM』でも!
そこから内田樹先生は、「なぜアメリカの男はアメリカの女が嫌いなのか?」、こんな仮説を立てます。「これはアメリカ建国の礎を築いた、西部開拓史の貢献者たちの、死せる魂を鎮めるための物語ではないか?」。……という非常におもしろい本なのですが、日本もミソジニー具合でいったらアメリカに匹敵するレベルであります。そして話を『居酒屋兆治』に戻しますと、この映画で「女」でありながら生きることを許されているのは、スナックのママである「ちあきなおみ」と、健さんの妻「加藤登紀子」だけなのです(そうそう、言い忘れてましたが、ちあきなおみが出てます! けっこうちゃんとした役で。ソーラン節も歌ってます!)。
なぜ健さんの妻役に、わざわざ加藤登紀子を抜擢したのか? これはもう一目瞭然。この映画の加藤登紀子は、まるで少年のようなのです。小作りの顔立ちに加えて化粧けもなく、髪もショートで、着ているものも色気のないものばかり。
一方、〝兆治〟の向かいで、カラオケスナック〝若草〟を営むちあきなおみは、身なりからキャラクターまで、すべてが紋切型。ザ・女。ザ・水商売の女。
つまりこの映画の世界では、女として生きることが許されるのは、「男の領域を邪魔してこない、非女性的で無害な妻」か、「男の欲望の捌け口を担っている、女性性を保った女(水商売限定)」の二種しかないことになるのです。そのどれでもない女は、死をもって成敗されるのです。うおぉおぉぉぉぉ!!! 事実この映画で、口うるさい肉屋の女房あき竹城は、かなり唐突に死に(しかも小松政夫の不手際で)、健さんを一方的に恋い慕う余り周囲に迷惑をかける大原麗子は、(恋慕そのものは男のプライドを満足させる好ましいものであるにも関わらず)居酒屋稼業をするにはどうにも邪魔な世界観(ロマンティック・ラブ・イデオロギー)を持っているため、血を吐く運命にあるのです。うおぉおぉぉぉぉ!!! ホモソー怖えぇ!
と、期せずしてなんか怖い領域に、(しかも高倉健映画というアンタッチャブルな題材で)踏み込んでしまったので、尻尾巻いてこのへんで筆を置きますね。神谷さよaka大原麗子よ、安らかに眠りたまえ…R.I.P