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2014年8月29日金曜日

【対談】竹田青嗣×苫野一徳①〜哲学はこう修行する!〜


 2014 712日、哲学者の竹田青嗣氏苫野一徳のトークイベントが、リブロ池袋本店にて開催されました。



「自由」になるための哲学~ヘーゲルから社会構想まで~


 以下では、今回が初となった、スリリングな公開師弟対談の一部始終をお届けします。



〜哲学はこう修行する!〜

苫野: 今日は、僕の新刊『自由はいかに可能か――社会構想のための哲学』の刊行記念と、NHKブックスの創刊50周年記念ということで、このようなイベントを開催していただきました。

 まず、竹田先生との出会いからお話したいと思うんですが、2004年に『人間的自由の条件』(講談社)という竹田先生の本が出たんですね。

 これを読んで、非常な衝撃を受けました。ちょっと大げさな言い方なんですが、今まで自分の積み上げてきたものが全部崩壊するという、ひどい自己崩壊が起こりました。

 ただ、最初は「くそー」と反発したんですね。「いつか必ず竹田青嗣を論駁してやる!」と思って、それから先生の本を全部読んだんですが……最終的には、「すみません、私が悪うございました」となりました(笑)。

 そして2005年、僕は早稲田大学大学院の博士課程の院生だったんですが、なんと竹田先生が早稲田の国際教養学部の教授に着任されたんです。運命だと思いましたね。「これはもう会いに行くしかない!」と思いました。

 で、会いに行ったんですが、竹田先生は有名な方なので、しょっちゅうそういう人が来るんですね。で、哲学やってる人っていうのは、けっこう変な人が多かったりするものなので(笑)、最初すごく警戒されてですね。特に、こんな坊主頭の、しかもなぜか当時ちょっとピチピチの服を着ていて……(苦笑)。「なんだコイツは」という顔をされました。

竹田: そうそう、ぴっちぴちのピンクのチビシャツ。

苫野: うわあ、やめてください!

会場: (笑)

竹田: 私、そのとき別のスタッフと一緒にいたんですが、変な人が、研究室のドアをちょっと開けて青い顔をして立ってる。思わず「なんかまた怪しいのが来たぞ」というかんじで顔を見合わせました(笑)。でもそれが、今ではこんなに立派になられたので、もう感無量ですね(笑)

苫野: いつのまにか可愛がっていただけるようになって……。ん?いや、可愛がっていただいたわけじゃないですね。竹田先生は実はめちゃくちゃ厳しい方で、弟子はもう……いつもボコボコにされるんですよ。

竹田: それについてはあとでちょっと反論をしたいですが。

会場: (笑)

竹田: いや、苫野くんは、初めは、別に哲学をやろうと考えていたわけじゃなかったんですね。聞けば聞くほどよく分からない、何か怪しげな教育事業を立ち上げたいとか言ってましたね。

苫野: いや、すごくまじめな……先進的な教育事業をと……(苦笑)

竹田: でも、途中で哲学をやりたいって言い始めてから、その目にらんらんと光が宿ってね。それからですね、私が厳しくやったのは。

 哲学をやるんだったら、とにかくまずはじめの1年で、主な近代哲学者を全部読む、というのが原則なんですね。だからずいぶんたくさんノルマを課したけど、彼はどんどんそれをこなしていきました。

 そういうノルマが厳しかっただけで、あとはもう愛情に満ちていた、と私は思うんですけど。

苫野: そうでしたか。いや、そうですよね(笑)

 しかしこの修行が、中々厳しいものなんですね。『世界の名著』シリーズっていうのがあるんですが、この中の哲学書は、まずは基本文献だから1年でほぼ全部読め、と。それで、かなり詳細な、平均3万字くらい、時に5万字を超えるレジュメを毎週1~2冊作って。そしてそれをもって、竹田先生と議論する。

 そんなのが週に1~2回あってですね。このノルマを達成できなかったら破門されるんですよ(笑)

竹田: 哲学というのは、本気でやるなら、いままでの予備知識をいったん全部棄てて、はじめから時代順にしっかりレジュメを作って読んでいく必要がある。その哲学者の言わんとする核心点を一つずつキチッとつかみ取って、積み上げていかないとだめなんです。

 私にも経験があるけれど、特に若いころは、「世界--存在」とか「純粋意識」とか「純粋持続」とかいう哲学の概念に、簡単にやられてしまう。つまり、自分で勝手にその概念の深遠なイメージを作って、「これはこういうことを言ってるに違いない」と。

 でもそれは、あとから見るとよく分かるけれど、ほとんど全然違ってます。理由があるんです。哲学は、後の哲学者が、前の哲学者の原理を受けて、これをもっと普遍的なものに前進させていくゲームです。ヨーロッパ哲学はそうなっている。

 だから、しっかり順番に少しずつ積み重ねていって、そのことで自分の思いつきをむしろ全部取り外していくんですね。そのことで、はじめてその人の本当の考える力が出てくる。

 それをやらないとどうなるかというと、いろんな難しい概念や理屈の言葉だけため込んで、それを自分の直感に合わせて便利に使いまわすようになるんです。だいたい、そういうことから免れているような知識人がとても少ない。

 そうなると哲学は、単なる知的権威の道具になる。哲学は死んでしまうわけです。

苫野: それが、「教養を重ねる」っていう、本当に重要なことなんだと思います。

 人間って古今東西、みんな似たようなことを考え悩むんですよね。なので、「自分はすごいことを考えたぞ!」みたいなことを思っても、過去の哲学者たちが、実はもっともっとすごい形で解いてるんですね。

 それを知らずに、俺はこんなこと考えた、すごいだろ、みたいなことを言ってるのは、すごく虚しいんです。だからやっぱり、過去の哲学の教養を徹底的にためこんだ上で、その次の一歩を出さなきゃいけない。

 ところが問題があって、その過程で、自分がどんどん壊れていくんですよ。なんだ、自分の考えなんて、しょせんこの程度のものだったのか、と。

 でもこれは、ある意味では必要なプロセスだと思います。そしてある時、竹田先生がこんなことをおっしゃったことがあって、なるほどすごいなと思ったことがありました。「壊れて壊れて、でもなお、自分にはこれが残った。それを見つけることができれば、お前は哲学者になれる」と。

 この本(『自由はいかに可能か』)で、僕は、もしかしたらそれをちょっとは出せたかもしれない、と思ったりもしているんですが、でもまあまだまだペーペーですので、これからもっと温めて展開していきたいなと思っています。


その②へ)