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労働者の図書館 -図書館で働く者の義務と権利-

日本の学術雑誌と営業努力

デファクトスタンダードには批判的視点を持ちながら従うべきである、というのが私の考えである。そういったところで反骨精神を出す人もいるけれど、正直うっとうしい。葡萄が酸っぱいと言ったキツネ並みのレベルで意義もなく抵抗しているだけの、つまりほとんどは幼児的な、駄々に近い行為であることが多いか らである。会議などでよく見る、「代替案なき反対者」のような観がぬぐえない。他者の決定事項に従うのはなんとなく癪だから反対する、かといってそれに勝る提案の用意はない、と、ほとんど妨害である。

 インパクトファクター、についてである。
 一私企業の統計をもって公の評価基準とされることへの抵抗感というかアレルギーというものは、まさに日本人的であるといえるだろう。視野を広くもたねば ならない。日本では国家プロジェクトであるロケット打ち上げも、海外では一私企業が、それこそ年間何本も上げていたりするのであるから。少し前に流行った 言葉でいえば、パラダイムシフトが必要であろう。営利企業に公平な判断が下せるのか、というところがもっとも「説得力のありそうな」点の一つであろうが、これは「お上(かみ)」的な視点からでたもので、広く世界を見渡せば、様々な市場の様々な指数、金融機関のランキングなど、非公的機関から出される多様な数字が実際世界を動かしている。これも一種のデファクトスタンダードなのである。あてにならないと考えるものが大勢を占めれば見向きもされないであろうが、何らかの根拠を見出されているから重たく扱わ れているのである。インパクトファクターも同じである。むしろ学術誌に関して、世界に通用する「数字」を日本発で出さなかった、アカデミックにそういった動きがなかったことなどを反省すべきであろう。霞だけを食べていたわけである。

 インパクトファクターは現在約5000誌を対象としている。一方、学術誌は世界に約10万タイトルあるそうである。そして日本には・・・。インパクトファクターを出す某社の日本法人には「ウチのような名門誌がおたくに扱われていないのはどういったことなのか。」といった類の問い合わせが少なくないとい う。信頼できるソースからであるが、次のような回答例を聞いて笑ってしまった。曰く「もちろん“価値があると認められるものであるば”いずれは私どもの耳にも 入りますのでこちらから対象誌とさせて頂くようお願いにあがることになるでしょうが、“そうでない場合は”所定の手続きで登録の申請をして頂いて、審査に通れば登録となります。」
 ・・・つまりは陰に「日本の学術誌の営業努力の欠落」を皮肉っているのである。日本のアカデミックに最も欠けているところをも同時に突いているわけであるが。図書館から見れば機関レポジトリ、というのは最近のキーワードの一つであろうが、意外にその意義を理解する教官は多くなく(特に文系は)、そのメ リット(?)を事務官が教官に説いて回っているという変な状況も発生していると聞く。

 ジャパニーズ・アカデミックの営利活動へのアレルギーを説明するのに私はマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にヒン トがあるのではないかと、パラパラ読んでは付箋をはさんだりしているけれど、断片的なアイデアを筋道立てて上手に並べるのが難しく、今は近い人間に語って聞かせるのに留まっている。醸造中、といったところだろうか。
# by tombolo | 2005-01-11 11:02 | -Library

巨人の肩の上

RedhatがFedoraでやったように、Solarisも遂に開発をコミュニティに依存する動きを見せている。これに対するTorvaldsのコメントを待っていたが、期待を裏切らないいいものであった。

話中、オープンソースの成功(というよりLinuxの成功)を表すのに「私が他の人より遠くを見ることができたとすれば、それは巨人の肩に乗ったからだ」と言うニュートンの言葉を引用していた。実に謙虚かつ現実的思考をもつ人物である。要するに彼は2つのことを同時に言い表しているのだ。一つは他人が積み上げてきた成果を基礎にして今の自分(Linux)があることを、そしてもう一つは「一刻も早くいいものを安く届けるにはそれしかないでしょう」ということである。理念をいつまで語っていても仕方ないのである。

図書館においては、情報科学技術という「巨人」の肩に乗せて頂いているという意識は薄いと感じる。ITなんて所詮道具、結局それをいかに使うかであって、等と嘯き続けている。つまりは図書館に昔からある業務は形而上的な頭脳労働であって機械にはできない、という発想から抜け出ていない。

体に合った服を買うのではなく体を服に合わせることは、特に技術転換期においては、重要なことなのだ。米国ではもう、24時間チャットによるレファレンスサービス、なんてことが行われているのだ。それを実現するにあたって、開館時間の短縮、つまり直接サービス時間を減らしたといえば驚かれるだろうか。


(参考)
http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000050154,20079899,00.htm?tag=nl
# by tombolo | 2005-01-09 00:56 | -Library

インターネット時代とエスペラント語(プロパガンダ展part2)

(草稿-エスペラント語とインターネット共通語である英語の違い-)

 マルクスが予測できなかったのは通信技術(情報伝達)の急速な発展とその影響力であったという。
 事実、ベルリンの壁の崩壊にあたっては反対勢力による無益なクーデター騒動もなくさも自然に行われ、ポストモダンという言葉を出すこと自体いまや少々カッコ悪いのであるが、ソ連邦の終焉に伴い、世界は一つになってしまった。
 経済基盤を押さえられていることもあって、アフリカ世界はまだ西欧への隷属的精神から抜け出ていないが、アラブ世界は相対的にエキセントリック度を増して、ポスト・ソ連邦的存在となっている。アフリカ世界には広島・長崎に落とされた原爆の材料にもなった鉱山資源が豊富にあるが、今のところそれがアラブ世界における石油資源ほど国際政治の切り札にはなっていないようである。
 といってもやはり20年前に比べたら今はやはり世界は一つであるかのように見える。以下、インターネットを眺めて見た結果である。
 結婚相手以外との性的交渉が宗教的に禁じられている国からのポルノコンテンツを求める熱気はすさまじいものがあるし、ユダヤ教徒の14歳の女の子とチャットで話してみれば、聞かれることはSEXの経験談ばかりである。その他音楽でもなんでも、通じない話はあまりない。世界は狭くなったと感じることしきりである。

 プロパガンダ展ではエスペラント主義団体の機関紙も展示されていた。インターネット時代の前に存在した、世界が一つになることができた理想郷、いや環境か。
 インターネットの普及は結局、世界共通語としての言語がデファクトスタンダードとして英語に決まってしまった。言語の違いは多分に独自文化にひもづくものである。ザメンホフのエスペラント語に共感を得た人々は、その新言語に(それ故の)未知の世界を(文化を)見たのではないだろうか。その点、インターネット世界及び世界共通語となりつつある「英語」にないものである。

 フランスの「アカデミー」はもともと、リシュリューらによるフランス語による文化的世界支配構想の上に創設されたものであった。
# by tombolo | 2004-08-09 01:17 | -社会身辺雑記

「プロパガンダ1904-45展」にゆく

「プロパガンダ1904-45展」にゆく_a0012620_23514784.jpg
 非常に面白かった。
 残念なことに、この展示に付属図書館の職員は関わっていないらしい。ほぼ教官の仕事によるもの、とのこと。個々の展示物につくキャプションも、歴史思想などの周辺知識も含めて相当の力量がないと書けない内容であったが、そのためか。図書館の世界で、新聞資料にこれほど造詣がある者はいるはずもない。

 8/29まで、とのこと。思わぬ反響に図録も売り切れ、再版予定は今のところないという。図書館で新聞資料に携わっている者なら、行かないとまずいだろう。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/real/
# by tombolo | 2004-08-08 23:53 | -Library

図書館のゴミ減らし

 図書館コミュニティは他の業種のそれに比べると非常に小さなものであるが、学派?というか研究会やら勉強会が乱立している。

 今までどのグループにも属したことがないのであるが、どれに入ろうか悩んでいるうちに年月が流れて今に至るというのが正直なところだ。いろんなグループのいろんな会誌をバックナンバーから読んで整理してみたところ、8割方が問題提起であることに気付いた。で、問題解決をしたという報告がどれほどあるかと数えてみると、1割もないのである。これに萎えて、未だにどのグループにも入っていない。

 日本は不思議なもので、勉強すればするほど評論家になる傾向があり、問題解決する場から距離をおく。薫り高く「問題提起」を行って現状に一石を投じる人を崇拝する傾向がある。図書館コミュニティでも全く同じである。冒頭に述べたが、こんなに小さな日本の図書館コミュニティでこれほどのグループが群雄割拠している理由が、まさにここにあるのではないかと思われる。問題提起の差別化を図っているうちにこんなに増えたのである。既存のグループの問題提起に満足できない、より「問題提起の上手い」グループの創設が繰り返されてきたのである。
 
 図書館コミュニティで提起される「問題」というのは図書館から出てくるのである。言い換えるなら、自分が出したゴミが臭いと自分で苦情しているようなもんである。ゴミを減らす努力ということで、では問題解決は誰によって担われているのであろう。評論家タイプが多いから解決者が目立たないのか、それともそもそも解決者がいないのか。実務で貢献している人ほど寡黙であるのは何も私の職場ばかりではないだろう。そういった方々が意見を交換しているグループがあれば、おそまきながらぜひ入ってみたいと思う。
# by tombolo | 2004-08-01 20:59 | -Library