妻木氏の謎(その5)

妻木氏の謎について気になる事を順次追記しようと思ってたがあまりにも多いので新たに「妻木氏の謎(その5)」として記事を立てることにした。

 

(追記1/14)

〇『徳川家康 (人物叢書) 』(藤井讓治 2020)に慶長5年8月27日のこととして

さらに、東美濃の様子を報告してきた妻木頼忠に、近日のみずからの出馬と秀忠が中山道を進軍していることを報じた(「妻木家文書」)

と書いてある。文書未確認であるが「妻木頼忠」ではなく「妻木家頼」であろう。なぜなら『日本戦史 関原役』に『譜牒余録』を出典として8月15日付家康書状が載っているが宛先が「妻木雅樂頭殿〇貞徳」となっているから。妻木雅樂が貞徳に比定されている。しかるに『寛政譜』で雅樂助は頼忠で、貞徳は頼忠の父。よってこの文書の宛先も雅樂であるのを頼忠としたのではないかと思われる。だが実は貞徳=頼忠で、雅樂は子の家頼。実にややこしい。なお「雅樂頭」とあるが正しくは「雅樂助」。『譜牒余録』9月8日付家康書状では「妻木雅樂助殿」とあるので誤記・誤写であろう。

 

〇また去年出版されたばかりの『誤解だらけの「関ヶ原合戦徳川家康「天下獲り」の真実』(渡邊大門 2023)に

翌七月二十二日、家康は病により出陣できなかった美濃国岐阜県土岐市)妻木城主の妻木頼忠に対して、上方の情勢を監視し報告するよう命じている(「妻木家文書」)。

とある。この文書も確認してないが、おそらく宛先は「妻木雅樂助=家頼」であろうと思われる。少なくとも「妻木城主」は家頼。繰り返すが頼忠は家頼の父で法名「伝入」あるいは「妻木伝兵衛尉」。本能寺の変後に家頼に家督を譲っている。

 

(追記1/14)

『寛政譜』に妻木貞徳の娘が載る。

女子 寺沢志摩守廣高が室

『寛政譜』「寺沢」を見ると「廣高」

室は妻木傳兵衛貞徳が女

「忠晴」

母は貞徳が女

「堅高」その他女子三名

母は上におなじ。

とある。しかるに『断家譜』によれば、

「忠晴」

母水野藤次郎忠分女

「堅高」

母同上

とあり。一方『諸家系譜』(『寛政重修諸家譜』のための資料)に

「高(忠)清」

母妻木傳兵衛直徳女

「堅高」

母妻木傳兵衛亘徳女

とあり。兄弟でなぜか「母妻木傳兵衛直徳女」「母妻木傳兵衛亘徳女」と異なっている。兄の名前も「高(忠)清」で『寛政譜』の「忠晴」と異なっている。おそらく字が汚くて誤字となっていると思われる。「貞徳」「直徳」「亘徳」の3つは字体が似ているので、どれかが正しくどれかが間違っているのだろうと思われる。

 

さらに『古今武家盛衰記』に、

高清・·堅高の母は、妻木傳兵衞尉直能の女なり。

「妻木傳兵衞尉直能」とあり。これまた「能」と「徳」の字は若干似てる感じ。

 

『美濃明細記』に

廣高室は妻木傳兵衛直德の女也

『新撰美濃志』に

古城跡ハ妻木傳兵衞直德妻木雅樂助等の住居の地なり直德の女ハ寺澤越中守廣正の室也といふ

とあり。

 

〇 妻木の八幡神社棟札(慶長13年)に「傳入頼忠」とあるので、妻木伝兵衛が「頼忠」だったことは確実。「貞徳」あるいは「直徳」と名乗ってたとしたらそれ以前ではないかと思われる。

 

(1/14追記)

〇『寛政譜』によれば妻木伝兵衛貞徳の母は水野下野守信元の姪。『断家譜』によれば寺沢廣高の室は妻木伝兵衛の娘ではなく「水野藤次郎忠分の女」。水野忠分と水野信元は兄弟説あり。

 

〇『尾張群書系図部集』によれば水野一族の水野致元(庄八郎)正村(治兵衛)が妻木玄蕃頭に仕えていたという。

 

 

その他気になる事は随時追記する予定。