この世はすべて金―北朝鮮2024/05/25

 もう50年も前ですが、明治大正時代の演歌師、添田唖蝉坊の「ああ金の世」の歌がリバイバルして流行ったことがありました。 流行ったと言っても、一部のことでしたが‥‥。 歌詞は次のようです。

  ああ金の世や 金の世や 地獄の沙汰も金次第

  笑うも金よ 泣くも金 一も二も金 三も金

  親子のなかを割くも金 夫婦の縁を切るも金

  強欲非道と譏(そし)ろうが 我利我利亡者と罵(ののし)ろうが

  痛く痒くもあるものか 金になりさえすればいい

  人の難儀や迷惑に 遠慮していちゃ身が立たぬ

https://www.youtube.com/watch?v=nUPs-IZdv5E  唖蝉坊がこの歌を作ったのは明治39年(1906)で、当時勃興しつつあった資本主義を皮肉るものです。 

 1970年代に朝鮮総連の方と話をした時に、当時流行っていたこの「添田唖蝉坊 ああ金の世」を紹介したことがありました。 そうしたら彼は 〝資本主義は本当に酷いし腐っています。 しかし北朝鮮では税金はなく、教育も医療も無料、お金の心配をせずに暮らせます″と答えてくれました。 その時は私も社会主義に幻想を抱いていましたから、北朝鮮はそういうものかなあと感激して聞き入ったものでした。

 それから何年か経って、在日朝鮮人が北朝鮮に一時帰国することができるようになりました。 その多くは、1960年前後に北に帰国して生活している家族を訪ねるものでした。 又聞きのそのまた又聞きなのですが、ある在日朝鮮人が北にいる息子を訪ねた時の話です。

 その在日は上述した「ああ金の世」に出てくるような我利我利亡者の典型的な人で、〝金がすべて″〝人間は裏切るが、金は裏切らない″と周囲に言って憚りませんでした。 朝鮮総連含めて周囲の人は、あんな人でも北朝鮮に行けば金より大事なものがあることに気付き、我利我利亡者も改まるだろうと期待したのでした。 

ところが彼は日本に帰ってくるや、〝北でもやはり金がすべてだった、金さえあれば何でもできる″と公言したのです。 息子のために普通ならあり得ないようなこと(労働党党員になるとか平壌に移住するとかのための賄賂)に多額のお金を使ったのでした。 彼は北に行って、〝倫理道徳よりも金″という我利我利亡者の正しさを改めて確認した、というお話でした。 私にとっては遠い所で流れていた噂話で、当時はウソなんだろうと思って聞いていました。

 それから何年かして東欧・ソ連の社会主義が崩壊して、私は北朝鮮への幻想がなくなりました。 だからあの我利我利亡者の在日の話について、あり得ないことだからと忘れてかけていたのに、実は本当だったとして思い出したわけです。 北朝鮮は〝我利我利亡者でないと生きていけない″ 〝金がすべて″ 〝倫理道徳より金の国″であると、今でははっきり言えるようになりましたね。

 100年前の添田唖蝉坊「ああ金の世」は、今の北朝鮮でこそ言い当てています。

 なお北朝鮮では内貨である北朝鮮ウォンの信用性が全くありませんので、お金といえば外貨の中国元かアメリカドル、日本円になります。

【拙稿参照】

在日朝鮮人が話す北朝鮮      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/19/9643754

北朝鮮には税金がない、その代わり‥‥http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/18/9660183

脱北して戻ってきた在日      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/25/9662215

核問題は北朝鮮に理がある―金時鐘氏 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071

小松川事件は北朝鮮帰国運動に拍車をかけた https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/02/9639109

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056

朝鮮総連幹部らには月3万円の教育費支給 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/24/9627897

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/04/9607167

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/08/9608146

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/12/9609128

今日は「太陽節」-朝鮮総連に教育費2億7千万円 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577360

北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748

「朝鮮半島の非核化」は「北朝鮮の非核化」とは違うのでは? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/08/8799658

「島国夷」とは?     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/16/8677666

北朝鮮の核開発の目的   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/07/8671910

自主的、民主的、平和的統一       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/22/6421457

南朝鮮解放路線はまだ第一段階      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/03/30/6762019

北朝鮮を甘く見るな!(1)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/23/7395972

北朝鮮を甘く見るな!(2)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/28/7400055

北朝鮮を甘く見るな!(3)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/02/7404064

北朝鮮が崩壊しないわけ         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/04/1701479

北朝鮮の百トン貨車           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716894

『写真と絵で見る北朝鮮現代史』     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/06/5665262

韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!!   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477

白い米と肉のスープ           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/14/5680393

韓国の北朝鮮研究            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027

1970年代の北朝鮮=総連の手口     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/12/6199653

先軍政治は改革開放を否定するもの    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/12/23/6256776

金正日急死への疑問           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/15/6293047

日韓歴史共同研究委員会の回想―北岡伸一と木村幹2024/05/18

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/05/11/9683297 の続きです。

同じテーブルに着かなければ、日韓それぞれのナショナリストが、それぞれの国の新聞や雑誌で気勢をあげるだけで、両国関係はますます悪くなる。 特に日本にとって隣国・韓国との関係悪化は外交全般の阻害要因になる。 同じテーブルに着きさえすれば、お互い学者としての学術マナーは心得ているから、あまり極端なことは言えない。 相手の見解を直接、見聞きする機会を得て、さらに知りたい気持ちになるかも知れない。  こうした歴史共同研究について、成果がなかったと言う人は、ナショナリズムの激しさと危うさ、そしてこれに一定の枠をはめうる学問の力が全くわかっていない人である。 (193頁)

当時の日韓間では、両論併記というか、お互いの立場を言い合うくらいがせいぜいだと思っていた。 まずは議論のこうした枠組みが大事なのである。 ‥‥ 相手の非を声高に批判するのではなく、自らの立場を静かに守り、説く態度が望ましいと思っている。 (193頁)

 歴史研究はナショナリズムと結びつきやすいので、「相手の非を声高に批判するのではなく、自らの立場を静かに守り、説く態度が望ましい」は、日韓歴史共同研究に臨む姿勢として正しいですね。 ただ韓国側がそれを理解し、その姿勢を維持したのか疑問ですが。 結局は、歴史共同研究は両論併記で終わったようです。 

その後に開かれた第2期の歴史共同研究に私は参加していないが、残念ながらうまくいかなかったらしい。 その最大の理由は、教科書問題を取り上げたことだと私は考えている。 韓国の教科書は「国定」(当時)、日本は民間会社が編集した教科書の内容を文部科学省が検定するという違いがあって、教科書の役割についての相互理解が難しい。 教科書問題を取り上げればあらゆる論点について相手を批判し合い、パンドラの箱を開けることになると予想していた。 (193頁)

 北岡さんは共同研究の教科書小グループには加わらなかったですが、これに参加した木村幹さんが『韓国愛憎』という本の中で触れています。 共同研究で教科書問題がどのように扱われたか、この本から引用・紹介します。

第二期日韓共同歴史研究の委員は、その多くが日韓両国の歴史意識を代弁する傾向を強くし、勢い各委員会の議論も対立的なものとならざるを得なかった。 全体会合でも。両者は明らかに警戒し、ピリピリとした雰囲気が流れていた。  この緊張感のなか、私が委員として所属していた教科書小グループは、歴史教科書の記述を検討するために新たに設置され、その議論が両国教科書の歴史記述に反映される可能性のあるものとして、メディアでも注目を集めていた。 (木村幹『韓国愛憎』中公新書 2022年1月 106頁)

会議の雰囲気は回数を重ねるごとに険悪なものとなっていった。 とりわけ日本側「教科書小グループ」の代表だった古田(博司)先生の発言に対する韓国側委員の反発は強かった。 ついには2009年11月17日、ソウルで行われた13回目の会合で、韓国側の委員たちが、ボイコットを表明する事態にまで発展した。 彼らは「前近代の朝鮮半島には染色の技術はなかった」などといった発言を繰り返し行なう古田先生の謝罪なくしては、会議に応じることはできないと主張したのだ。

結局、この問題は、日本側があらかじめ用意し、韓国側の了承を取り付けた「遺憾の意」を示す文章を古田先生が読み上げることで、「とりあえず」解決したが、その後も韓国側には日本側に対する不信感が残り続けた。 不満を持ったのは古田先生も同様であり、彼はこの事件後、会議には参加しなくなった。 (以上 木村幹『韓国愛憎』107~108頁)

 古田博司さんはかつて嫌韓雑誌などによく投稿されていましたが、最近はとんと見なくなりましたねえ。 古田さんは18年前ですが、ある雑誌の座談会で韓国の歴史研究について語ったことがあります。 拙HPでも取り上げたことがありますので、お読みいただければ幸甚。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuichidai

第二期日韓歴史共同研究への参加で実感したのは、日韓の研究者の歴史に対する姿勢の相違だった。

日本の研究者は、歴史学者が大半を占めたこともあり、歴史事実に対して詳細かつ専門的に議論する一方で、その事実がいかに評価されるべきかについては、よく言えば無頓着、悪く言えば乱暴に議論する傾向があった。

対して韓国の研究者は、個々の歴史的事実の詳細よりも、それがどのように評価されるべきかについて関心を向ける傾向が強く、歴史的事実の詳細については、時に無頓着、あるいは乱暴に対処することがあった。

そして重要なのは、両国の歴史学者たちが自らの歴史研究のあり方こそが「唯一正しい」、つまりあるべき歴史学の姿だと固く信じているように見えたことだった。 こうして私は日韓歴史共同研究でも‥‥何が「正しい」学問であるかにこだわり、これにアイデンティティを見出す人々の間に置かれて疲弊することになった。  ただ粛々と研究を進めればいいのに、皆、どうして「正しい」学問が何であるのかにこだわるのだろう、と思わざるを得なかった。

この第二期日韓共同歴史研究は、五回の合同会議、六〇回に及ぶ各分科会・グループの会合を経て2009年11月に終了した。 日韓の研究者の議論は最後までまったく噛み合わず、2010年3月、両論併記の報告書だけが発表された。 (以上 『韓国愛憎』113~114頁)

 日本の歴史研究は、歴史というのは歴史事実の積み重ねだから、歴史資料の緻密な検証する〝実証研究″こそが一番大事なのだ、という考えですね。 対して韓国の歴史研究は、あるべき歴史像があり、それを明らかにするために歴史資料を検証するものだ、ということになります。 ですから日本側からは韓国は実証を軽視しているという批判になり、韓国側からは日本は歴史の評価なくして実証ばかり言っているという批判になるのですねえ。

 拙HPでは http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuurokudai で日韓の歴史研究の姿勢の違いについて論じたことがあります。 また拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/01/04/7176749 で共同研究の韓国側であった鄭在貞さんについて論じました。 お読みいただければ幸甚。  (終わり)

【古田博司さんの著作に関する拙稿】

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/15/7245000

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/19/7248342

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/21/7250136

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/01/7263575

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/05/7266767

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(10)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/20/7289374

朝鮮研究の将来は危機的-古田博司   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/23/7145744

日韓歴史共同研究委員会の回想―北岡伸一2024/05/11

 『中央公論』2024年5月号に、政治・歴史学者の北岡伸一さんの「東大に戻り、授業と歴史問題に取り組む」と題する文章が掲載されています。 これまでの研究活動の回想文ですが、そのうち日韓歴史共同研究の部分が私には関心のあるところで、興味深いものでした。 それを紹介しながら、私の感想を挟みます。

私は日中、日韓それぞれの歴史共同研究に携わった。‥‥ 日韓歴史共同研究は、2002年から05年にかけて行われた第1期と、07年から10年までの第2期がある。 私は‥‥語れるのは第1期のうち、直接関わった近現代史の分科会だけである。 しかし、研究全体の企画立案の携わったこともあり、自分自身の経験について述べておくことには意味があると考える。 (188頁)

私が韓国の研究者と初めて接触して歴史の話をしたのは、大学院に在籍していた1973~74年頃、国会図書館の憲政資料室で現資料を読んでいた時である。 Kさんという方が熱心に斎藤実(海軍大将、朝鮮総督)の資料を読んでおられた。 ふとしたきっかけで会話が始まると、「貨車一杯の資料を読んだ」と言う。 そして斎藤総督時代の統治がいかに悪辣だったかという話ばかりする。 斎藤時代はそれより前と比べて、日本の統治がやや柔軟化した時期として知られているが、「それは擬態であって、より悪辣なものだ」「家畜を太らせてから食べるのと同じだ」と言う。 「貨車一杯」という誇張と、一つの次元からしか物事を見ない主張に、辟易したものであった。 (188頁)

 北岡さんが辟易したという「一つの次元からしか物事を見ない主張」は韓国人研究者Kさんのことです。 これを読んで私が思い出すには、昔の日本の歴史研究者にも同じような人がいました。 人類の歴史は階級闘争の歴史であり、それを明らかにすることが我々歴史研究者の使命でなければならないということでした。 一つのイデオロギーに染まって、そのイデオロギーを証明するための歴史研究となるわけです。

 韓国人研究者Kさんも 〝日帝植民地支配は悪辣・非道だ″という歴史像=イデオロギーが先にあって、それを明らかにするために歴史資料を渉猟していたのだろうと思われます。 そういう人と会話する時、同じイデオロギーを持つ人には心地よいでしょうが、そうでない人には確かに「辟易」するでしょうね。

問題は共同研究の枠組みだった。 韓国の主流派と日本の左派が一緒にやれば、合意はできるだろうが、日本の一般国民に受け入れられる見込みはない。 逆に、韓国の親日派(あまりいないが)と日本の主流派が一緒にやれば、たとえ合意できても韓国の一般国民が受け入れ入れるはずがない。 しかし、まったくの民間どうしで政府に何のつながりもなければ、共同研究の意味がない。そこで、学者の自由な議論の場を作るが、無理な合意はめざさず、この議論を政府が支援する、という「支援委員会」方式を考えた。 (189頁)

 「韓国の主流派と日本の左派が一緒にやれば、合意はできるだろうが」というところは、正にその通りです。 日本の歴史研究では、戦前の軍国主義はどれほどの悪であったか、そんな軍国主義国家を批判しなかったような者もすべて悪だ、というような勇ましいことを言う左派が大手を振っていましたからねえ。 今でもそれが続いているようです。 当然、朝鮮植民地支配の悪辣さも強調しますから、韓国の主流派と意気投合することになります。 ただこれが「日本の一般国民に受け入れられる見込みはない」とするのはどうでしょうか。 日本のマスコミの多数はこれを受け入れていると思われるからです。

 日本の左派研究者については、拙ブログでは http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/13/8850175  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/18/8828880  で論じたことがありますので、お読みいただければ幸甚。

 日韓歴史共同研究において「支援委員会」方式を取った理由については、なるほどと考えます。

日韓歴史共同研究委員会は2001年10月の日韓首脳の合意にもとづいて設立され、翌02年5月第1回会合がソウルで開かれた。‥‥ 現代の日韓関係に影を落としているという点では、何といっても近現代の扱いが焦点だった。 このため、近現代には他の分科会より多くの委員を配置した。 (190頁)

近現代では、議論を始める前から紛糾した。 「静かな雰囲気の中で議論をする」ことで双方が合意していたにもかかわらず、初回会議では「日本の歴史教科書を是正する会」の活動家が会場に乱入してきた。 (190~191頁)

 「活動家が会場に乱入してきた」とは、日本では1970年代前後の全共闘時代に過激派諸君が学会等に乱入したのを思い出しますね。 

また、韓国での会議では、韓国側が用意した通訳が実は活動家であることが事前にわかり、我々日本側メンバーが出席を拒否して帰国するということもあった。 しかし韓国側は、通訳は会議の主催国が選任することになっていたはずだと、日本側を非難した。 内部の議論は直ちに外に出さず、落ち着いた学術的議論を行なうとした当初の合意からして、到底、受け入れられない主張だった。 (191頁)

途中で委員となったある韓国の有力な学者は、韓国の放送大学の教科書を執筆しており、そこに「日本の皇民化政策は、帝国主義史上、例を見ない悪辣なものだった」と記している。 どういう理由で、このような判断が可能なのか、理解に苦しむ。 アフリカ、インド、中南米など世界各地で、日本よりひどい統治をした国は多くある。 この委員は、実際には比較などしていないことだけは言える。 (191~192頁)

日本の大学院で博士号を取得した日本研究者の委員もいた。 しかし分科会を奈良で開催した時、「奈良は初めてだ」と言うので驚いた。‥‥ この委員はのちに大学教員を辞めて政治家になり、日本の天皇のことを「日王」と呼び、竹島(独島)に上陸し、北方領土にまで行っている。 本当に日本を理解しようという姿勢があったとは到底思えない。 (192頁)

 「本当に日本を理解しようという姿勢があったとは到底思えない」とありますが、一般的に(全部ではないという意味)韓国人は、歴史を知らない日本人に教えてあげようとする傾向があります。 それは、日本から学んで日本を理解しようとする姿勢が小さい傾向ということにもなります。 ここに挙げられた「韓国の有力な学者」「博士号を取得した日本研究者」は、その典型的な人だったようです。

 これを知ると、直ぐに「韓国人は生意気だ、ウソつきだ」と反応する日本人がいますねえ。 いわゆる「嫌韓派」です。 彼らは韓国を知り理解しようとする姿勢がないのですから、日本を理解しようとしない韓国人と変わらないですね。 つまり日本の「嫌韓派」と韓国の「反日派」は向いている方向は正反対ですが、〝似た者同士″と言えます。 そして「嫌韓派」は日本で少数であり、「反日派」は韓国で主流であるということです。

 なお日本を理解しようとする韓国人も少なくありませんので、誤解なきようお願いします。

論文の中には、植民地朝鮮における日本の百貨店の発展という興味深い研究テーマもあった。 私自身、日本のデパートが各地に進出していたことは知らなかった。 「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチフレーズが日本で登場したのは1911年(明治44)である。 少し遅れて朝鮮でも消費の発展があったのだと知った。 しかし韓国側からは、それを利用できたのは日本人と朝鮮の一部の富裕層だけだったという解釈が提示された。 なかなか一筋縄では行かないものである。 (192頁)

 百貨店については、昔に在日のお年寄りから聞いた話があります。 田舎に住んでいて、親戚が京城に行った時に買って帰るお土産としては三越の包装紙に包まれた品物が最上で、家族はこれをもらってみんなで喜んだという話でした。 その方は富裕層ではなかったはずなので、「朝鮮の一部の富裕層だけ」というのは間違いで、植民地下の朝鮮において消費文化が庶民に行き渡りつつあったのだと思います。 (続く)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(3)2024/05/04

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/29/9679795 の続きです。

1982年5月3日、辛光洙は平壌を出発し、復帰ルートの逆の順で日本に四回目の浸透をする。 彼は在日スパイの李東哲を召喚し、民団の信任を獲得して民団中央部の幹部になって、内部の情報資料を収集、報告せよと指示する。 また彼は方元正が経営している東京池袋に所在する韓国酒場「ニューコリアン」を在日工作の拠点として活用した。 辛光洙は韓国クラブの「ミラン」の会計員、パチンコ「三光会館」、そしてパルコの機械修理工などの多様な偽装職業を持って暗躍した。

1983年5月26日、辛光洙は1年間の工作を遂行し、原敕晁名義で作った旅券を利用して、スイス-ウィーン-モスクワを経由して北朝鮮に復帰する。 平壌の東北里招待所で5ヵ月間、再教育されて、記念勲章を受けた。

1983年11月8日、辛光洙は平壌を出発して、復帰ルートの逆の順で日本に五回目の浸透をする。 業務は予備役将校のイ・ソンス(李成洙)を包摂すること、在日スパイの李東哲を連れて北に行くこと、東南アジア地域に新しい工作拠点を構築すること、韓国と日本の各種情報を収集し報告すること等であった。 辛光洙は既に構築していた在日スパイ網を活用して、長野県の朝鮮総連商工会長であるチョン・ムジン(67)を包摂する。 チョン・ムジンの息子が北朝鮮に帰国して清津電気機械工場の職場長であったが、その息子を平壌に移住させてやると提案し、4000万円の献金を強要した。 当時貿易業務の名分で渡日して東京帝国ホテルに投宿中であった調査部四課の副課長であるキム・ナムチョルに会った席で、チョン・ムジンから日本円で4000万円を受け取った。 この金を李成洙の包摂資金として方元正に渡した。 方元正が韓国で収集した「1984チームスプリット」訓練資料を北朝鮮に報告した。

1984年3月14日、辛光洙は東京-香港-北京を経由して北朝鮮に、五回目の復帰をした。 東北里招待所で再教育を受けながら、日本から連れてきて北に入国させた在日スパイの李東哲と方正元(ママ-以下同じ)の密封教育を指導した。 1984年10月23日、辛光洙は平壌を出発し、北京-カラチ-バンコクなどを経由して、日本に六回目の浸透をした。 方正元に工作金1万ドルを渡し、包摂対象者の李成洙と北朝鮮の調査部長との第三国での接線(連絡や接触)を組織(準備)するよう指示した。 1984年11月初旬、工作検閲のために渡日して日本のホテルに投宿中であった北の工作検閲担当課長のキム・ボンノクに方正元と一緒に訪ねて行って、その間の工作活動を報告した。 また朝鮮総連系の商工人であるハン・ソンイク(55)に会って、北朝鮮に帰国した彼の末の弟のハン・チャンイク(46)の写真と手紙を見せて包摂し、北に帰国した朝鮮総連系商工人のコン・ジェリョン(67)の娘を保護するという名目で資金の献納を強要した。 こんな手法で、東京で「国際センター」というパチンコ屋を運営している朝鮮総連商工人のパク・ヒジュ(70)、民団の同胞であるヒョン・キュジョン(64)、キム・ポンイウン(64)などを包摂し、資金の献納を脅迫し、工作資金を調達した。 辛光洙はこのような手法で、北に帰国した日本にいる縁故家族を何と12人も包摂し、堅固なスパイ網を構築した。

 「方正元」は「方元正」と同一人物。 北朝鮮スパイ関係者は名前を逆にして使う場合があり、これもそうなのでしょう。 この方元正に施したという「密封教育」も馴染めない言葉ですねえ。 隔離して教育するというような意味のようです。

 辛光洙は12人の在日朝鮮人を「包摂」して、地下スパイ組織を作り上げました。 そして辛は本国からの工作資金だけでなく、これら傘下組織員からも多額のお金を調達して工作活動を続けました。

辛光洙は在日偽装拠点である韓国クラブ「ニューコリアン」に来ていた韓国芸能人たちが帰国することを利用して、彼らと親しく過ごしていた日本人たちと一緒に韓国に入国すれば疑われないと判断し、対南浸透計画を作成し、北朝鮮に報告した。 1985年2月24日、方元正を連れて、金浦空港に入国した。 方元正から包摂したと報告を受けた予備役将校の李成洙に会い、北朝鮮の統一三大原則、五大方針、高麗連邦制 施政方針十大項目などを宣伝啓発したところ、その翌日に逮捕された。 辛光洙が迅速に逮捕されたのは、事前に包摂されてスパイ活動をしてきた李成洙が、心境の変化を起こして当局に通報したためである。 辛光洙に包摂されて25回も韓国に出入りして、主要軍事情報、産業情報などを収集し、地下網を構築したスパイの金吉旭、方元正なども検挙された。 後に韓国に帰順した高位工作員の証言によれば、金正日は一部の対南工作責任者たちの功名心と貪欲のために、苦労して構築した在日スパイ網と対南地下網が瓦解したとして、工作責任者を責め、更迭したという。

 韓国で逮捕されたのは「辛光洙」「金吉旭」「方元正」以外に、辛のスパイ活動を当初から支援していた「高基元」もいたはずと思うのですが。

金大中政府、死刑宣告を受けた辛光洙を仮釈放の後、北に送る

辛光洙は1985年に死刑を宣告されたが、1988年12月に無期懲役に減刑された。 特に金大中政府は、死刑宣告まで受けていたスパイ辛光洙を1999年12月に仮釈放した。 また6・15共同宣言の精神と人道主義を持ち出して、2000年9月2日に他の非転向長期囚たちと一緒にスパイ辛光洙を北朝鮮に送還した。 これに日本政府は怒った。 金大中政府は、彼らの大韓民国転覆活動に対して謝罪も受けておらず、北朝鮮に抑留されている国軍捕虜の釈放を要求もせずに送還するという蛮行を犯した。 辛光洙は北朝鮮で、共和国英雄称号を授与され、2008年に続いて2016年7月21日に平壌で開かれた統一運動団体結成70周年記念中央報告会に出席した場面が朝鮮中央TVに報道されることもあった。 このような非転向長期囚たちの送還は、金氏一族に変わりない忠誠を果たすなら、いつかは必ず助けてくれるという誤った信念を提供してやったことになる。

 韓国の金大中政権は辛光洙を北朝鮮に送還したのですが、「これに日本政府は怒った」というのは、辛が日本人の原敕晁さんを拉致・背乗りし、原さんに成り変わって旅券の発給を受けてスパイ活動したからです。 日本にとって重犯罪人ですが、金大中政権は北朝鮮に解き放ったのでした。

 ついでに拉致犯の「辛光洙」と「金吉旭」の釈放を求める署名をしたのが元首相の「菅直人」や元衆議院議長の「土井たか子」だったことは、忘れてはならないものです。

辛光洙は日本人の地村保志夫婦の拉致とKAL858機の爆破スパイである金賢姫の日本語先生だった横田めぐみの拉致にも関与したことが明らかになり、2002年に日本の警察庁が国際刑事警察(ICPO)に拉致犯として国際手配したのである。

 辛光洙は原敕晁さんの拉致を実行しただけでなく、地村夫妻、横田めぐみさん拉致にも関与しました。

スパイ辛光洙事件は、①北朝鮮が日本を対南浸透工作の迂回拠点として活用しており、②北朝鮮帰国家族を人質にして縁故を使っての工作で包摂し、対日・対南工作に活用し、③日本人を拉致してその身分を盗用する等、手段と方法を選ばずに反文明的で反人倫的なスパイ工作を行なっていることを再確認させてくれている。

 辛光洙事件は1970・80年代の北朝鮮スパイ事件です。 今回のブログは、あの当時の北朝鮮のスパイ活動はこういうものであった、ということの紹介です。 今では以上のようなスパイの手口は通用せず、新たな手口を使っていると思われます。

 なお私は https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/22/9603772  で書きましたように、1970年代前半に「北朝鮮に行ってみませんか」と誘われたことがあります。 もしその誘いに乗っていたら「包摂」されて、北朝鮮スパイ組織の一員になっていたかも知れません。 それとも、やはり拉致されていたかも知れませんねえ。  (終わり)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/29/9679795

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(2)2024/04/29

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436 の続きです。

3年間、工作を成功的に終えた辛光洙は、日本の海岸から北の工作船と接線(連絡を取る)して、1976年9月12日に元山に復帰した。 辛光洙は平壌近郊のスパイ教育訓練所であるヨンソン(龍城)招待所とスナン(順安)招待所で3年7カ月間の再教育の後、第二回浸透に乗り出す。当時、金正日が直接辛光洙に「日本人を拉致して北朝鮮に連れてきて、その身分事項を熟知し、日本人に変身し、工作任務を遂行せよ」と指示した。

   「成功的に終える」は日本語としてはちょっと変ですが、韓国語では時々出てきます。 ところで「接線」も馴染みにくい言葉ですねえ。 「再教育」というのは、日本など資本主義国で生活した北朝鮮スパイが自由主義に染まって亡命などしないように、北朝鮮に戻ってきた時に再度洗脳教育をすることです。 昔は「洗濯する」なんて言っていたように思います。

1980年4月、北朝鮮の南浦港から出発して日本の宮崎県日向市海岸に浸透した辛光洙は、一回目の浸透時に包摂したウン・ジョンウン(55)の斡旋で、東京で工作対象者であるイ・キルドン(73 朝鮮総連大阪商工会長)に接近し、北に帰国した彼の長男と次男の写真と自筆の手紙などを提示して、同じ手法で脅迫し、包摂した。

金正日「日本人を拉致した後、身分を盗め!」

辛光洙は、一回目の浸透の時に構築した在日スパイである金吉旭に、未婚で家族がいない者、旅券を一度も取らず人物写真を出したことがなく、前科もなくて指紋で捺印したこともない者、個人の金銭取引や銀行取引がない者、長期間行方不明となってもバレる心配がなく、日本で安全に活動できる45~50歳くらいの日本人を物色して報告するよう指示した。 その結果、朝鮮総連大阪商工会理事長が運営している中華料理屋の調理師である「原敕晁」が適格だとした。 1980年6月、原敕晁を青島海岸まで誘い出して待機していた北朝鮮工作船に乗せ、自分もそれに乗って拉致に成功する。 金正日の指示の通りに日本人を拉致し、身分の盗用を通して対日・対南工作に活用しようというのであった。

 日本人の「原敕晁」さんを拉致した時の様子です。 実行犯として、「辛光洙」とともに「金吉旭」の名前が出てきます。

辛光洙は原敕晁と平壌近郊の東北里招待所で5ヵ月間いっしょに宿泊しながら、彼の身体的特徴や性格、人的事項、学力・経歴、親族関係、居住事項、中華料理法などを熟知して、自ら原敕晁に変身した。 このような手法は、本誌第2799号(2024年3月10日付)で紹介した「伝説の女スパイ 李善実」の身分盗用の手法をそのまま使ったものだ。

 辛光洙は原敕晁さんの身分を背乗り(はいのり)しました。 これ以降、原さんに成りすましてスパイ活動をします。 

「李善実」も同時期に暗躍した有名なスパイです。 昔『北朝鮮の女スパイ』という本が出版され、詳しく解説されていました。 講談社でしたかねえ。

1980年11月26日、辛光洙は北朝鮮の南浦港を出発し、日本の青島海岸に三回目の浸透をする。 彼は一・二回目の浸透工作の時に構築した在日スパイ網を動員して、追加として北朝鮮帰国者家族の包摂工作に乗り出す。 清津に暮らしている北朝鮮帰国者のイ・スンギュの甥であるイ・ドンチョル(李東哲 45)が当時民団幹部にいたが、同じ手法で接近し、包摂する。 特に李東哲が法政大学在学時に北朝鮮の奨学金を受けていた事実を取り上げて、3000万円を工作資金として自分に支援するよう脅迫した。

また在日スパイ網のイ・ギルビョンの照会で、パン・ウォンジョン(方元正 50)に会い、北朝鮮にいる義弟の話をして、同じ手法で包摂する。 辛光洙はこの方元正を利用して、北朝鮮に拉致した原敕晁名義の旅券、運転免許証、印鑑証明証、国民健康保険証などを取り、日本人に成りすました。 1982年2月、北朝鮮の貿易代表団の一員に偽装して、工作の検閲をして渡日して日本のホテルに投宿中であった調査部副部長のカン・ヘリョンに対して、方元正に挨拶させた。カン副部長は方元正に民団に偽装転向して、韓国旅券を作ることと韓国にいる親戚・同窓のうち、影響力のある者を包摂することなどを指示した。

   辛光洙は原敕晁さん背乗りのためにパスポートや運転免許等々を取得するのですが、その時に「方元正」という在日が協力したのですねえ。 日本の実情に詳しくない外国人スパイが日本人に背乗りしようとすると、こういう人が必要になるのでしょう。

1982年3月23日、辛光洙は日本人原敕晁名義で作った旅券を利用し、スイス-パリ-モスクワを経由して北朝鮮に堂々と復帰した。 以降、平壌東北里の招待所に収容されて、再教育を受けた。 1982年4月15日、金日成の誕生日に一級国旗勲章を授与された。 辛光洙は金日成の挨拶を受ける接見席上で、日本人の身分を利用して東南アジアに拠点を早く確保することと、日本人拉致の事実がバレると国際問題に飛び火するだろうから、徹底して秘密を維持し、在日スパイ網を活用して対南浸透工作を積極的に展開するなどの業務命令を受けた。

 辛光洙は日本人パスポートを手に入れたので、国際的に活動の場を広げることができました。 (続く)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1)2024/04/24

 北朝鮮のスパイであり日本人拉致犯であった「辛光洙」について、韓国の雑誌『週刊朝鮮』にちょっと詳しく解説されていました。 北のスパイが日本でどのような工作(スパイ)活動をしていたのか、私も関心のあるところです。 韓国語を忘れないためにも、翻訳してみました。 ところどころに私の説明を挟みます。

北に堂々と送還されたスパイ辛光洙 日本人拉致も彼の作品だった  (『週刊朝鮮』2803号 2024年4月8日 36~39頁)

2000年9月2日午前10時ごろ、板門店を通して63人の、いわゆる非転向長期囚が北朝鮮に送還された。 言葉は非転向長期囚であるが、北朝鮮の南朝鮮革命戦略を遂行するための破壊・転覆活動を行なって検挙された武装共匪(パルチザンを含む)や南派(南朝鮮に派遣)されたスパイたちだ。 北朝鮮は板門店の北側地域の統一閣にキム・ヨンスン(金容淳)党対南担当秘書、キム・イルチョル(金鎰喆)人民武力相、子供たち(花童)など500余人を整列させて、いわゆる革命英雄たちの機関を熱烈に歓迎した。朝鮮中央TVから、彼らの送還を平壌に中継した。 彼らの中には、死刑宣告を受けた、日本迂回浸透スパイであるシン・グァンス(辛光洙)が含まれていた。 辛光洙とは、誰なのか?

 「金容淳」はかつての北朝鮮ニュースによく出てきていましたねえ。 私にはちょっと懐かしい。 「花童」というのは、北朝鮮での歓迎式なんかに花束などを持って並んでいる子供たちのことです。 日本語で何というのでしょうかねえ、

辛光洙は1929年6月27日、日本の静岡県で出生した。 日本に徴用で引っ張られて来た父と母がそこに居住していたためである。 彼が16歳になった1945年、光復(解放)後すぐに家族は帰国した。 1948年、辛光洙は浦項中学校(慶尚北道)に通っている時に、いわゆる2・7闘争(左翼暴動)に加担し、警察の追跡を避けてソウルに逃げ、普成中学校(ソウル)4年に編入した。 1950年6・25南侵戦争(朝鮮戦争)が勃発するや、北朝鮮軍の義勇軍に自ら入隊し、越北した後、北朝鮮軍下士官として戦争に参加した。

 2・7闘争とは、政府樹立のために南朝鮮で行なう予定だった選挙に反対するために南朝鮮労働党が起こした暴動。 この2カ月後に、済州島で4・3事件が起きました。

朝鮮戦争後、功績を認められて1954年10月にルーマニアのブカレスト工科大学機械学部に入学し、1960年に卒業するまでの6年間、滞在した。 帰国後、政務院(現在の内閣)傘下の科学院機械工学研究所で研究技師として在職した。 1971年2月に中央党に召喚されて人民武力部(現在の国防省)偵察局傘下の対南工作機関である198部隊所属として2年5ヶ月間、スパイ訓練所である清津招待所で工作員教育を受けて、対日工作に投入された。

六回にわたって成功した日本浸透工作

辛光洙は1973年から1984年までの12年の間、何と六回も日本に浸透し、成功的工作任務を遂行した。 このうち三回は日本人の身分を盗んで合法の形で浸透した。 第一回の浸透は、1973年7月2日だった。 北朝鮮の元山連絡所(スパイ浸透基地)で無電機と米国紙幣2万ドルなど、工作の道具を準備して工作船に乗り、日本の石川県猿山海岸に浸透した。 任務は北朝鮮に帰国した者の縁故家族を包摂(抱き込む)し、日本内に地下組織を構築することだった。 辛光洙は浸透後、大阪に移動し、帰国者の縁故を使って工作対象者であるホン・ギョンセン(65 女)を探す。 1961年、北朝鮮に帰国した一人息子のイ・ジンベ(45)の写真と自筆の手紙を渡して、協力しなければ北朝鮮の息子の身の上が危なくなると言って脅迫し、包摂した。 彼女の斡旋で近くの履物工場に配達員として就職し、朝鮮総連系のキム・チャフン(51)を紹介されて、彼の義父であるウン・ムアム(79)が管理する観光地有料道路の通行料徴集員として再就職して、活動拠点を確保した。 辛光洙は大胆にも、1960年1月に北に帰国したウン・ムアムの次男のウン・ヨアン(43)を人質に、同じ手法で彼を包摂した。

 北朝鮮スパイが敵国に密入国して活動することを「浸透」、敵国内でのスパイ活動を「工作」、自分の味方に引き込んで組織の一員にすることを「包摂」と言うのですが、日本人には馴染みにくい言葉です。 「包摂」は左翼用語の「オルグ」が一番近いですかねえ。

縁故を利用した工作で、縁故者家族を包摂

また縁故を利用した工作で、朝鮮総連系の在日同胞であるコ・ギウォン(高基元 52)を通して、大阪の朝鮮総連系の初級学校長出身の衣類商のキム・キルウク(金吉旭 57)と彼の義弟のイ・ジェヒ(37)まで包摂した。 辛光洙は彼らを民団(在日本大韓民国団)に偽装転向させて韓国に自由往来する道を開き、韓国にいる親戚や友人たちを包摂して地下組織を構築するよう指示した。 これは北朝鮮のスパイ網を扶植する典型的な手法である縁故線工作である。 すなわち血縁と地縁などの縁故関係を媒介に包摂するやり方である。

 ここまでが第一回目の「浸透」「工作」活動です。 ここでは触れていませんが、辛光洙はこの時に東京で「朴春仙」という在日女性を騙して同棲し、そこを活動拠点としました。 彼女は後に『北の闇から来た男』という本を出版して、その時の様子を明らかにしています。 「金吉旭」は日本人拉致の実行犯で国際手配されていましたが、最近韓国で死亡したと伝えられました。  (続く)

金義晴さんの思い出―本名について2024/04/17

 「金義晴」といっても、ほとんどの人は知らないでしょう。 かつて民族差別と闘う運動の地域団体のリーダーでした。 18年前の拙HPで記した「Kさん」が、その人物です。  https://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

在日は本名(朝鮮名)を名乗るべきだと強く主張する活動家Kさんがいた。彼は通名(日本名)を名乗る在日に会ったら、本名を名乗りなさいと言い、在日の子供たちにも本名を名乗るよう強く指導していた。

このKさんの運転する車に同乗した時のことである。警察の検問にあった。警官から「お名前は?」と尋ねられると、彼は「Fです」と通名を答えた。私はビックリした。相手が警察なら本名を名乗らなくてもいいのだとその時は無理に納得させたのだが、本名を呼び名乗る運動への疑問を持つきっかけとなった。

彼はかつて運動のリーダーとして名前が出ていましたが、今は運動団体から離れているようです。 もう何十年も経っていますし、彼の名前を明らかにしてもいいと考えます。 

 彼と知り合った時は「金義晴」という民族名を名乗り、周囲もそう呼んでいました。 ですから私は当初、彼の日本名なんて知らなかったのです。 しかし金さんは警察の検問の時に日本名の「F(ふなこし)」(漢字表記は控えます)と名乗りました。 その時に初めて、彼には「F」という日本名があることを知りました。 

 しかしその後に分かったことですが、彼の父親は朝鮮人、母親が日本人で、彼は母親の籍に入って日本国籍だったのです。 だから免許証に記載されている名前は「金義晴」ではなく、「F義晴」でした。 つまり本名は「F」であり、「金」が通名だったのでした。 

 彼は在日の「本名を呼び名乗る」運動を主導し、通名を使う在日を見つけては本名を名乗るように指導していました。 しかし彼自身がその運動の中では本名を使わず、通名の「金」を使っていました。 この矛盾に、運動団体の他のメンバーは何も問題視しませんでしたねえ。 

 この運動団体のメンバーに李さんという方がおられました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/09/9421529 彼が、「日本は在日の本名(民族名)を奪い、通名(日本名)を強制している。 本名を呼び名乗って、日本の差別を告発せねばならない」という運動団体の理念を強く主張していました。

 私が「けれど、あの金義晴さんは警察の検問で “F”と日本名を名乗っていましたよ」と言ったら、「相手が警察なら構わない」と反論されました。 そこで「だったら “相手によって本名と通名を使い分ける” でいいんじゃないですか。 何が何でも “本名を呼び名乗る” という運動はおかしいんじゃないですか」と言いますと、「金義晴さんは日本国籍だから、それでいい」と反論。 私は「金義晴さんは “本名を名乗れ” と在日の子供たちに迫っていたけど、自分の本名を隠して他人に “本名を名乗れ” は、やはりおかしいでしょう」。 李さんとの議論はここで終わりました。

 12年ほど前ですが、拙ブログで次のように書いたことがあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/04/6500499

このように戸籍名ではなく、通名の朝鮮名を本名としている方は、在日の活動家では意外に多いものです。自ら朝鮮名を名乗り、在日の青年・子供たちに本名を名乗れと迫った活動家が、実は日本国籍で、朝鮮名は通名であるという話はよくあることでした。

 「意外に多い」としましたので、もう一つ例を挙げます。 川崎にも同じように民族差別と闘う地域団体があったのですが、そのメンバーの一人に「朴世一」という方がおられました。 この方も運動団体のメンバーだったので、名前を明かします。 その方と知り合った時、「僕は、実はF(ふじた)世一です。 母親が日本人で、その籍に入っていて、日本国籍なんです」と言っておられました。 

 私の知り合った在日のうち二人が、日本国籍なのにその戸籍名を名乗らず、通名の民族名をまるで本名のように使っていました。 事情は理解できたのですが、そんな彼らが “在日は名前を奪われてきた、本名を名乗り民族を取り戻そう” と呼号する運動団体のメンバーであることに、大きな違和感を持ったものでした。

 これ以外にも「金」「朴」さんと同じように、在日活動家として活躍している方が実は日本国籍で、名乗っている民族名は通名だという噂を聞くことが少なからずありましたねえ。 確かな情報ではないので、ここに名前を出すのは控えますが、意外と多いように思えます。

 今は昔の話ですが、民族差別と闘う運動では、民族名を名乗ることが正義で、そうすれば差別者である日本人に対して “あなた方日本人は歴史を知らない” とか言って委縮させて優位に立てる、という風潮がありましたねえ。

【拙稿参照】

 第21題 「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai

 第85題 (続)「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

 第84題 「通名と本名」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai

通名を本名と自称する在日        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/04/6500499

在日の本名とは?            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/01/6497383

日本名を本名とする在日朝鮮人      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/18/6663657

通名禁止、40年前から「左」が主張と実践  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/05/6681269

在日の通名使用の歴史は古い       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/12/6688526

ある在日の通名騒動記          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/16/6904707

通名・本名の名乗りは本人の意思を尊重せねば  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/28/6925152

外国人が通名で銀行口座を設ける場合   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/13/6945717

外国人の名前              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/16/6948002

在日の通名は特権ではない        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/23/7019964

通名登録制度を悪用した事件       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/02/7031887

本名強要は人格権侵害ー判決       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/24/7618561

梁泰昊さんの思い出― 活動家と一般人との結婚  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/01/9252979

黄光男さんの思い出      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337

黄光男さんの思い出(2)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261345

在日活動家 李さんの思い出   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/09/9421529

関東大震災「倉賀野事件」-被害者は日本人では‥2024/04/10

 朝日新聞の4月9日付に、「関東大震災、判決に朝鮮人殺害の記述 政府『記録見当たらない』」と題する記事が出ました。  https://www.asahi.com/articles/ASS492SHBS49UTIL00TM.html?iref=pc_ss_date_article   https://news.yahoo.co.jp/articles/b71f0c71f918ce617dea98feefda1a0c8fa7333b

参院内閣委で9日、1923年の関東大震災時に群馬県高崎市などで起きた朝鮮人虐殺をめぐる政府の認識を問うやり取りがあった。政府側は「政府内に記録が見当たらない」とする従来の答弁を繰り返した。

立憲民主党の石垣のりこ氏は、「倉賀野事件」の判決を示した。判決によると、震災発生後の9月4日、現在の高崎市倉賀野町で駐在所に保護されていた朝鮮人男性を連れ出して暴行し殺害したとして、自警団を組織した被告ら4人に有罪が宣告されている。

法務省の担当者は、判決原本が前橋地検高崎支部に保管されていることを認めたが、内容については「裁判所の事実認定が正しいかどうか評価する立場にはない」と答弁した。林芳正官房長官も同様に答えた。

 これを読んで、あれ!? 倉賀野事件の被害者は朝鮮人ではなく、日本人(当時の言葉では「内地人」)だったのでは‥‥と思い、姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房 1963年10月)を取り出して調べてみました。

 この資料集の437頁に、倉賀野事件があります。 これは「第五章 鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯」の中の「第四 犯罪事実個別的調査表」で列挙された事件の一つです。

 内容は、「日時:9月4日午後9時」 「場所:群馬郡倉賀野町巡査駐在所付近」 「犯人氏名:島田政吉 外三名」 「被害者氏名:氏名不詳男一名」 「罪名:殺人」 「犯罪事実:巡査が被害者を保護中、駐在所より連れ出して殺害す」と記載されています。

 この資料によれば、事件は上述したように“内地人殺傷事例”に入っていますので、被害者「氏名不詳男」は朝鮮人ではなく日本人です。 ところが朝日新聞の記事では被害者は「朝鮮人男性」としており、その元となった資料は立憲民主党の石垣のり子さんが示した事件判決としています。

 ということは、事件は日本人が殺されたという資料と、朝鮮人が殺されたという資料との二つの相矛盾するものがあるということです。 みすず書房『現代史資料』が間違いなのか、石垣のり子・朝日新聞が間違いなのか、どっちなのでしょうかねえ。

 ただ『現代史資料』は60年以上も前に出版されていて、関東大震災朝鮮人虐殺事件を研究する上では必須のものです。 これまで間違いとされていなかったと思うのですが‥‥。

【関連する拙稿】

関東大震災―自警団は警察も襲撃した https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/10/9616540

関東大震災の日本人虐殺     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607

【その他の拙稿】

関東大震災―自警団を擁護した政治家の発言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/15/9617769

朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/31/9613843

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591

関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387

水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058

関東大震災の朝鮮人虐殺  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009

関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629

「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314

玄善允ブログ(2)―在日の錦衣還鄕がトラブルに2024/04/04

 玄善允さんのブログ「連作エッセイ『金時鐘とは何者か』2」  https://blog.goo.ne.jp/sunyoonhyun5867kamakiri/e/14b31cbf81eda5ac72f05dac66804bb5 のなかで、次の体験談に目が行きました。  

その一方で、両親が日本で懸命に働いて得たお金を済州に持ちこみ、親戚にばらまくと同時に、いつかはそこに帰って余生を過ごすために確保した不動産などを巡って、親戚や地元の多様な人々との間で深刻な争いが生じ、それを父の生前に解決しない限り、将来に亘って解決不能な問題を抱えかねない状況に追い込まれ、母からその解決のために、済州に同行するようにしきりに頼まれるようにもなっていた。

 玄さんは「両親が日本で懸命に働いて得たお金を済州に持ちこみ、親戚にばらまくと同時に」と書いておられますが、在日の間ではこれはよく聞く話でした。 1960~70年代、在日一世は日本の高度経済成長の波に乗って必死に働き、錦衣還鄕(錦を飾る)で懐かしの故郷を訪問します。 その時にお土産をたくさん持って村中に配り、またお金も親族らにバラ撒くことになります。 当時の日本と韓国とではかなりの経済格差があり、在日が持ってくるお土産やお金は日本での感覚では大した費用でなくても、韓国人には目もくらむようなものだったようです。 ですから韓国人には“在日はお金持ち”というイメージでした。 在日一世たちは、韓国の故郷でそのイメージ通りの振る舞いをしたのでした。

 ですから故郷の韓国人は在日親族に金品をたかるのは当然という気持ちになって更に近付こうとし、逆にたかられる在日、特に子や孫の二世以降はもう付き合っていられないとなって遠ざかろうとしますので、そこに感情の行き違いが生じます。 在日二世が親に連れられて韓国の故郷に行ったときの話を聞いてみると、親戚連中の悪口をよく言っていましたが、それはこんな事情でした。 一方、故郷の親戚たちはおそらく、“日本でお金持ちになっているのに구두쇠(けちん坊)だ”と悪口を言っていることでしょう。

 また在日一世と故郷の親族・親戚との間で財産トラブルがあったこともよく聞く話です。 一世はいずれ故郷に帰ろうと考えていた人が多く、日本で一生懸命働いてお金をため、故郷の朝鮮で生活できるように田畑を買い、時には自分が入る墓地を確保したりするのでした。 そういった不動産は故郷で両親の墓を守ってくれている兄弟などに管理を任せるのですが、問題が起きるのはこの時です。

 一番よく聞くのは、そういった土地を所有者の自分に断りもなしに勝手に処分された、という話です。 相手方の言い分は、一族で経済的に困っている家があれば助けるのが当然だ、日本では金持ちになったのだからその土地を売って一族のために使うのがなぜ悪い、とかになるようです。 もうちょっと詳しく聞くと、一族の中で頭のいい子がソウルの大学に行くことになり、その費用のために売った、というような話だったですねえ。

 玄さんのご両親も、詳しくは書いておられませんが、おそらくこれと同じようなトラブルが生じたようです。 私がなぜこれに目が行ったかというと、世に在日を論じる本はたくさんあっても、このような生々しいことに言及するような本は全くと言っていいほどにないからです。

 在日といえば“強制・剥奪・差別され続けてきた”という被害話が定番です。 そして、この定番イメージに合わない話は無視されるのでした。 在日は作り上げられた定番ではなくリアリティのある話をすべきであるということが私の考えで、今回は玄さんのブログを契機に書いてみました。

【拙稿参照】

在日韓国人と本国韓国人間の障壁 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/12/9641974

玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名2024/03/31

 玄善允さんのブログ「連作エッセイ『金時鐘とは何者か』2(第一部 金時鐘の年譜)」を読む。  https://blog.goo.ne.jp/sunyoonhyun5867kamakiri/e/14b31cbf81eda5ac72f05dac66804bb5

 ブログでは、金時鐘さんが小学校時代(当時は普通学校)に使っていたとされる日本名は年譜では「光原」となっているが、出身校と推定される済州北初等学校(現在)同窓会誌の1943年卒業生名簿には「金山時鐘」となっているとしています。

『同窓会誌』に付された歴代の卒業生名簿の内、33期(1943年3月25日卒業)の欄では、総116名の卒業生の名前と、番地はないが町名までの住所は記載されており、 ‥‥ 学校の公式記録に劣らぬ信憑性がありそうな総同窓会の卒業生名簿では、金時鐘の卒業時の姓名は「金山時鐘」、住所は「済州二徒」、済州北初等学校の前身である済州北公立普通学校を「1943年3月25日に卒業」したとされている。

 つまり金時鐘さんには「光原」以外に、「金山」という日本名があったことを指摘するものです。 「金山」は卒業者名簿と発見するに至った経緯とを明らかにしていますので、信頼できる情報でしょう。 また「光原」は金時鐘さんの自叙伝である『朝鮮と日本に生きる』には次のように記述されており、確認できます。

そのことを金(金容燮)君に息苦しくてならないと話しましたら、彼は私の手を握って「光原(これが私の日本名でした)! それが詩なんだ! お前の詩はそれなんだ!」と諭してくれました。 (金時鐘『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』岩波新書 2015年2月 42~43頁)

 金時鐘さんは「光原」について、わざわざ括弧書きで「これが私の日本名でした」と記しています。 しかし「金山」には全く触れていません。 金さんの小学校時代に「金山」と「光原」の二つの日本名があったと推定されることに対し、金さんの説明がほしいところです。

 まとめますと、金時鐘さんには親に名付けてもらった「金時鐘」、日本に密航した際に不正に入手して今まで使い続けてきた法律上の名前「林大造」、そして今回は「光原」「金山」という二つの日本名、計四つの名前があるということです。

【拙稿参照】

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078 

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951