気田川カヌー

11月下旬、日曜日の夜、家事をひととおり終えて家族の寝る布団を敷いてから、旅行の荷物を車に積み込んだ。自分も布団に入りたくなるのを我慢し、西へ向かって出発する。

俺「明日まで会えなくて寂しいけど、行ってきます」
妻「寂しいなら行かなきゃいいんじゃない?」
俺「行かなくていいような気もするんだよ。でも、人生には行かなきゃいけない時がある」
妻「よく分からないけど行ってらっしゃい」

そんな会話を交わして車に乗り込み、コンビニでコーヒーを買ってから出発した。浜松までは休憩込みで約4時間。暖かな我が家を離れて、なぜ冷たい川なんかに俺は行くのか、と考えると気分が重苦しい感じもある。いや、そんな甘ったれた心を叩き直すために川へ行くのだ。甘ったるいコーヒーをすすりながら新東名高速をぐんぐん西へ進む。

藤枝を過ぎたあたりで、かすかにカラカラという音がきこえた。運転席のメーター内に見慣れない黄色いランプが点り、あわてて掛川PAに車を停める。取扱説明書によれば「エンジン警告灯」とのことで点検が必要らしい。時刻はすでに23時、業者はどこも開いていない。ひとまず浜松までは速度を落として走り、川下りのあとにディーラーへ持ち込むことにする。

浜松市の山間部にある「道の駅 いっぷく処 横川」で車中泊。駐車場の灯りは眩しいが、夜空の星は千葉県よりも多いように見える。放射冷却が強まり、吐く息が白い。ダウンを着込んだままで寝袋に潜りこみ、さらに毛布をかけると快適な寝床ができあがった。翌日の川下りの段取りや、千葉にいる家族のこと、エンジン警告灯のことなど、次々と心配事が押し寄せてきて寝付けない。しかしいつのまにか眠ったようだった。

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一眠りすると不安もいくらか和らぎ、前向きな気分になった。魔法瓶の熱湯でカボチャのポタージュを作り、コンビニおにぎりの朝食をとる。車で山道を少し走って気田川(けたがわ)にかかる橋をわたり、秋葉神社の下社前駐車場に着いた。カヌーを買って3年、ついに憧れの清流にやってきた、と感慨に浸る余裕もなく大急ぎで荷物と舟をおろした。車を修理したり場合によっては新幹線で帰ることも考えると、川で遊べる時間はそれほど長くない。タクシーで上流の気多(けた)へ向かうが、車窓から見える気田川の水位があまりにも低い。けっこうな距離のライニングダウン(浅瀬で舟をおりて歩くこと)を強いられるように思い、予定よりも手前でタクシーをおりた。

河原で舟を組み立てて荷物を積み込む。川に浸けた水温計は13℃を指した。川底がはっきり見えるほどに水は透きとおっているが、水位はやはり低く、大した瀬もなさそうだ。コーミングカバーを着けずに出発。早歩きくらいの速さで舟は流れる。

減水期と増水期の水位差が大きいと河原は広大になる、と知識はあったが、ここまで広がるのか、と夏には川底だったはずの河原を眺める。石ばかりの風景のなかに黄色っぽい小鳥が時々現れた。警戒心が強いのか、大して近付かないうちにチチッチチッと鳴きながら波状飛行で去っていく。色以外はハクセキレイによく似ているからキセキレイだろうか。さらに川を下っていくと、頭上を横切る電線に何かの猛禽類がとまっていた。キセキレイが警戒するのも分かる。

川幅が広がって水深がわずか数センチになると、舟を曳いて歩こうにも川底の石の抵抗があって苦労した。水深が20センチほどになれば舟は辛うじて浮く。もうすこし水深が増したところで舟に乗り込んだ。それにしても透明度の高さがすばらしい。おかしな喩えだけれど、水道水のように透きとおっている。水深が増しても緑色に濁ったりせずに青く澄んでいる。昔に比べると気田川は濁りが増したという新聞記事を以前読んだが、それは増水期の話なのだろう。秋の減水期には、自分は見たことがない透明度の川だ。

しかし困ったことに、水の綺麗さにはすぐに慣れてしまった。どんなに綺麗な水が流れていようとも水面下のことであり、自分は水面よりも上にいる。落水に備えてパドリングジャケットを着込んではいるが、この冷たさでは自ら進んで水に飛び込む気にはなれない。多少は濁っていようとも真夏の温かな川に来るほうが水面下の世界を楽しめそうだ。冷たい水の上をただ流れていく川下りには、きっと遠からず飽きてしまうだろう。来年以降の川下りのやりかたをちょっと考え直す必要がある。

9キロほど漕いだところで秋葉神社の下社に到着。荷物と舟を合わせて40キロ近い重量を背負い、干上がって果てしなく広い河原を歩いた。川沿いのキャンプ場にはたくさんのテントが並ぶが、どのテントも川から遠く離れているのが可笑しい。川へ来たのに川を無視しているようだ。雨予報でないかぎり、もっと川が見えるように近付いても良さそうなものだけど。

荷物を車に積み込んでいると隣の車の女性に声をかけられた。かつて千葉県に住んでいたのでナンバープレートに親近感を覚えたのだという。秋葉神社のご利益について熱心に語ってくれたが、残念ながら俺はもう参拝する時間がない。秋葉神社は勝負事の神様だというが、勝負を避けて生きてきた俺には神様のほうでも興味がないだろう。いつか一勝負する気分になったときは参拝してみよう。

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浜松市街へ車を走らせた。ディーラーで車を見てもらうとピストンリングに異常があり、エンジンオイルが完全に空だという。応急処置としてオイルを補充すれば千葉までは走って帰れるはずだから、帰ったらすぐに修理に出してほしいとのこと。とりあえずはエンジン警告灯が消えたことで、前日からの不安感がようやく収まった。安心して高速に乗り、掛川PAでチャーシューメンを食べて満足した。あとはもう暖かな我が家へ帰るだけだ。なるべく2000回転以下で走るようにとディーラーでアドバイスをもらい、速度を上げずに新東名を走った。どこまで走っても警告灯が点くことはなく、これなら千葉まで帰れそうだと安堵する。

しかし富士川を渡ったあたりから、にわかに様子がおかしくなった。回転数を低く保っていても異音や振動がある。タッタッタッという異音から、ズガランッズガランッという金属的な異音へ変化し、やがてズギャバンッズギャバンッという轟音に変わった。ステップワゴンってこんな音が出るのか。こんな音が出ていいはずはない。エンジンが火を噴かないことを祈りながら最寄りのインターチェンジまで低速で走り、車を停めて自動車保険のロードサービスを呼んだ(高速道路上で呼んでも良かったと今は思う)。レッカー車には原則として同乗できないと保険会社に電話で言われ、この山間部でどうやって帰ればいいのかと途方に暮れる。ただし交通手段がないときには例外的に認められる場合もあるといい、結局は同乗可能となった。助手席に乗り込むと見晴らしがよく、なかなかに面白い。

自宅出発時には予想もできない波瀾に満ちた旅となってしまい、参ったなと思いつつも、楽しくて仕方がなかった。決してトラブルを待ち望むわけではないけれど、この程度の小さなトラブルに難なく対応できる力量は持っておきたい。自分の乏しい想像力をはみだすような出来事にうろたえながらも対応していくと、自分の経験として蓄積される。そういう試行錯誤を今後も面白がっていきたい。

話し好きらしい運転手さんと談笑しながら東へ向かって走り続ける。先ほどまでは透明な水の上を進んでいたカヌーが車に載せられ、さらにレッカーの荷台に載せられて富士山麓の夜景のなかを進んでいくのは、自分の想像力を超える不思議な光景だった。

犀川カヌー

 数ヶ月前から計画を練ってきた静岡県の気田川カヌー旅は、前日の大雨洪水警報により断念した。川下りまでに水位が下がる可能性もあるが、濁りは数日とれないだろう。せっかく片道4時間かけて行くのだから、透きとおった水に浸かったり泳いだり潜ったりしたいのだ。泳げないから主に浅瀬で浸かるのだけど。

 千葉県から片道4時間で行ける別の川を「全国リバーツーリング55マップ」で探した。前から考えていたのは新潟県の魚野川だ。川に並行して上越線が通っており交通の便が良いし、豪雪地帯の谷川連峰を水源とするために水量が豊富、水質も良いらしい。しかし55マップによれぱ7月上旬からの1〜2ヶ月は鮎釣り師が多く、川下りには不適とのこと。

 気田川や魚野川には及ばずとも水がそこそこ綺麗で、川沿いに移動手段があり、カヌー歴3年弱でも下れる難易度の高くない川。その条件に合致したのが長野県の犀川だった。

 博物館や買い物に寄り道しながらキャンプ場へ向かう。河原にテントを張ってもよいが暑さで十分な睡眠をとれない心配があり、念のため標高1000mのキャンプ場を予約したのだった。スーパーで買った稲荷寿司をつまみながら焚き火をおこし、コッフェルのふたで鶏もも肉を焼き、よなよなエールを飲んだ。19時にはもうやることがなくなりテントに入る。

 山奥にいるせいかラジオの電波が入りづらい。韓国語のAM891kHzだけは鮮明に聞こえた。同じく電波の弱いスマホで調べてみると釜山にあるKBSという放送局のようだ。韓国語は分からないがKBSのニュースを聞いたり、竹中労「ルポライター事始」を読んだりしながら眠りについた。半裸で寝ていたが深夜に肌寒さで目をさまし、寝袋にくるまった。

 6時に起床。あんパンを食べながら荷物をかたづけ、信州新町の犀川へ車を走らせる。いつもの川下りではゴール地点に車を置いてファルトボートを背負い、スタート地点まで電車やバスで移動している。今回も川沿いを走るバスを調べてみたが、唯一のコミュニティバスは平日しか運行しておらず、公共交通機関での移動は難しいようだ。幸いにもゴール地点の大原橋の近くに、ひじり観光タクシーの営業所がある。ここにお願いすればきっと大丈夫だろう。

 大原橋の下をくぐる細道を通っていくと、犀川の右岸の大きな河原に出る。車をとめてファルトボートを背負い、大原橋まで歩いてからタクシーを呼んだ。大自然にこれから挑むというときにスマホでタクシーを呼ぶなんて軟弱な、と思ったりもしたが、ほかに移動手段がないので今回は仕方がない。大原橋から川の駅さざなみまでは約15分、タクシー料金は4240円(迎車の200円を含む)。「雨が降らないから水が少ないね」と運転手さんが言う。見慣れていない俺には結構な水量に見えるが、今年の犀川は渇水らしい。

 川の駅さざなみは道の駅に似ている施設だが、カヌーやラフティングの拠点にもなっている。ラフティングのスタッフさんに声をかけて、芝生でファルトボートを組み立てた。まだ9時だというのに強烈な暑さでとめどなく汗が流れる。体力の消耗を抑えるため将来的にはパックラフトなどの超軽量カヌーも検討したい。のろのろと準備して10時半にようやく河原へ降りる。スタッフさんにも「今日は浅いから気をつけてください」と言われた。

 釣り師の人たちと「暑いねー」「暑いっすねー」と会話を交わした。これまでに川で会った釣り師の方々はとても友好的だ。近付くと竿を上げてくれたり、時にはカヌーを川へ降ろすのを手伝ってくれたりした。川下りを何十年と続けていけば敵対的な釣り師に会うのかも分からないが、そのときはきっとへらへら笑って遣り過ごすのだろう。野田知佑のように釣り師を川へ投げこむ腕力は持ち合わせていない。

 犀川にカヌーを浮かべて出発。川の中心へ漕ぎ進めると流速が増していき、あとは漕がなくとも十分なスピードが出る。この日の信州新町の最高気温は34℃だったが体感は40℃くらいあり、あまりに暑いので両腕を川に浸したまま奇妙な姿勢で流れていく。川は薄緑に色づいているが、これは上流に複数あるダムのせいだろうか。都市部の川のような嫌な匂いはなく、水に手を入れることに抵抗は感じなかった。

 カヌーの前方には百均のまな板と合体させたGoProを取り付けた。今回は75mmの延長アダプターを利用したが、もうすこし長いほうが視界が開けるように思う。GoPro用の製品は高価なのが難点だが、代わりに汎用的なカメラネジの一脚などを固定できれば安価に作れるかもしれない。良い方法がないか次回までに考えてみる。

 1級〜1.5級と思われる瀬に差しかかるたびに緊張で体がこわばった。波高は大して高くないが、水量と流速があるために迫力がある。転覆して水中の岩に頭をぶつけ、気絶したまま水中をどんぶらこと流れていく光景を想像する。山と溪谷社が最近出版したアウトドア死亡事例集「これで死ぬ」のように、カヌー版の「これで死ぬ」を読みたいな、しかし俺が事例の一つにはなりたくないなと必死でパドルを振り回す。頭の中で、たま「どんぶらこ」の曲が流れて止まらなくなる。どんぶらこ、どんぶらこ、あのこは朝までバタフライ。なんとか転覆せずに瀬を乗り切った。

 コサギやアオサギ、セグロセキレイが水辺に佇んでいた。サギは魚を、セキレイは虫を探しているのだろう。青空に白い綿雲が浮かび、ミンミンゼミがたえまなく鳴き続ける。気温はさらに上がって体感55℃くらいあるが、しかし爽やかでたいへん気持のよい正しい夏休みである。川で泳いでも良さそうだが残念ながら俺は泳げない。

 川の両側では所々で地滑りや見事な露頭が見られた。陸からここへ近付くのは難しそうだが、川からは容易に近付くことができる。地層の柔らかい部分は水に削られているが、これがどういう地質なのか俺はよく分かっていない。地学をちゃんと勉強しなければと反省する。

 川になぜ瀬と淵があるのかも理解していない。傾斜や川幅などの要因の組み合わせだとは思うが、河川工学などの本を読んで勉強したい。川下りに限った話ではないのだが、旅行先で見聞きしたことをきっかけに興味を持つことが多く、そのきっかけを新たに見つけるために旅へ出ている気がする。旅行先では興味を持ったが帰宅すると忘れてしまうことも多く、忘れないためにこうして書き残している面もある。

 川旅の後半では流れがいくらか穏やかになり、瀬はあるものの川幅が広く、たいていの瀬はよけて通ることができた。終盤へ差しかかると川底はよく見えるが通過に差し支えない程度のちょうどよい水深が続き、透きとおった水のうえを飛ぶようにカヌーは進んでいく。波風の立たない平滑な水面をこのまま流れていくように俺の人生も平穏無事に過ごしたいものだ。しかし良い時間はあまり長くは続かずにゴール地点へ着いてしまった。出発から2時間半で12.3km。水温を計り忘れていたことに気付き、釣り用の水温計を川に沈める。23℃。

 昼食のおにぎりを買ったコンビニで、店主に近くに温泉がないか尋ねた。ここから橋を三つ分のところの温泉「さぎり荘」が良い、ジンギスカンも食べられるよ、と教えてもらった。川の近くに暮らしていると距離の表し方として「橋を三つ分」と言うのか、と感動を覚えた。Googleマップで温泉を探しても良かったのだが、人に聞くことで得られる情報もある。スマホにどこまで頼るかのバランスは今後も引き続き課題とする。

 温泉ですっかり綺麗になり、心地よい疲れはあるが軽くなった頭と体で運転席に乗り込む。千葉までの果てしない道のりをただ帰るだけではつまらない。妻の好きな栗おこわを買える店をGoogleマップで探し、最寄りの店へと車を走らせた。

多様性について

初めに少し自分の身体的な特徴について書く。

女性化乳房」と呼ばれる良性疾患は、男性が一時的にホルモンのバランスを崩し、乳腺が発達して胸が膨らむことをいう。思春期に発生することが多く、自分の場合は13歳のときに胸が膨らみ始めた。夏になり水泳の授業が始まると上半身の裸体をさらすため、他人に気付かれはしないかと怯えたことを覚えている。受診した病院の医師からは自然に収まってくると言われ、その言葉通りにやがて膨らみは徐々に収まり、高校へ入る頃には外見で分からないほどになった。

尿道下裂」と呼ばれる先天性の形態異常は、男性の尿道が先端部よりも手前に形成されることをいう。自分の場合はとても軽度ではあるが、保健体育の教科書に載っていた男性の形状とは少し異なる部分があり、19歳のときの入院(足の手術に伴うカテーテル挿入)をきっかけに尿道下裂だと知った。女性化乳房のように他人に見られる部位ではないものの、どうも一般的な男性に比べると自分の身体はあちこち違うようだな、と考え始めた。

大部分の身体的特徴は男性的で、内面も男性的だから、つまり自分は男であるとは考えていた。しかし男性的とはいったい何だろう。男女の境界線は明確ではなく、僅かに女性的な部分が入り交じっているようにも思えた。5人きょうだいのうち4人が女性、自分だけが男性として生まれ、しかし身体には少し特徴的な部分がある。「性別にはグラデーションがあり、明確に二分できるものではない」という考えを持ち始めるのは自然なことだった。

歳月を重ねれば理解できる物事がある一方で、いくら歳月を重ねても理解できない、むしろ絶対に理解できないだろうと確信する物事もあり、自分にとっては「性」がそれに当たる。自分自身の性についても分からないし、当然、他人の性も分からない。あまり向き合いたくないとさえ思う。自分が何をもって男と規定されるのか、かりに男であるなら、男としてどう振る舞うべきなのか、そもそも男とは何なのか。そんなものと向き合わずに生きてもいいのではないか。

結婚して家庭を持った今でも考え方は変わっていない。家族4人だけの小さな閉じた世界の中で、日頃、自分や家族の性について意識していない。妻と子どもと自分がいて、個々人がそれぞれに代替の利かない存在であること、それで十分ではないかと思える。好きな人と暮らしていて毎日とても楽しいときに、その好きな人の性別を改まって意識することもない。子どもたちと楽しく遊んだり、子どもたちから頼ってもらえるときに、自分の性別について意識することもない。

性別にグラデーションがあるとすれば、心や身体はそのグラデーションのどこかに位置づけられるはずだが、どの位置にあるのかを意識する必要がない。個人がその人だけの固有の性を持っていて、ほかの誰の性とも異なっている。誰もが自分自身の性を分からないし、他人の性を分からないし、分からなくてもいいのだと思う。しかし現状では多くの人々が男女のどちらかに分類されることを強いられている。今まではそういうものだったのだとしても、これからもそれでいいとは思えない。

こうして長々と文章を書いている自分は、決して博識な人間なんかではなく、たとえばLGBTQがそれぞれ何を意味するのかも正確には理解していない無知な人間である。そして繰り返し書いてしまうけれど、自分の性も分からないし他人の性はもっと分からない。敢えて一般的な区分に沿って言うのなら自分は男性であり女性と結婚している。LGBTQの人々が何に苦しんでいるのか理解は浅いから、本当は自分は何も言うべきではないようにも思う。

しかしLGBTQの人々の運動の象徴であるレインボーカラーは、つまり多様性を表していて、自分が考えてきた性別のグラデーションとも重なる部分があるのだろうと思った。その意味においては自分もまたレインボーカラーのどこかには位置しており、すべての人々がレインボーカラーのどこかに位置している。

誰もがレインボーカラーまたはグラデーションのどこかに位置していて、ほかの誰とも重ならない固有の性別を持っていること、だから他人や自分自身をそう簡単にカテゴライズしてはならないし、性別についての言及には本当に慎重であるべきこと、しかし性別への意識とは切り離されたところで個々人が互いに尊重しあうことの可能性、などについて考え続けている。考え続けたところで結論らしい結論も出ないままに一生を終えるのだとは思うが、それでも日々考えている。

性別について考えをめぐらす契機となったのは、ひとつには自分自身の特徴的な身体もあったのだけど、他人の発言や文章から受けた影響も少なからずあり、その中のひとつには今日亡くなった若い人の言葉も多々あったと記憶している。若いのに本当によく物事を考えていて発信能力のある人だと尊敬していた。今はもういないのだと理解するには時間が掛かる。大いに影響を受けた者の一人として、なぜ彼が孤立感を深めてしまったのかとは考えてしまう。会ったことも話したこともない人間だけど、俺はあなたの考え方に賛同しますよ、と伝えたかった。

自宅待機日記

2/15 (火) 休園

週末に3歳児が何度か戻してしまい、医者で嘔吐下痢症と診断を受けた。子どもたちに流行っているらしい。そういえばアルコール消毒はノロウイルスに効かないとか話題になってたなと思い出した。火曜日には元気になって登園したが夕方に保育園からの電話。まだ完治してなかったかー、と思ったがそうではなく、1週間の休園が決まったのと3歳児は濃厚接触者だという。

2/16 (水) 発熱

妻が休みを取ってくれたので俺は在宅仕事、9歳児は小学校、妻と3歳児は家で過ごした。夕食の時間に妻が「あれ?」と言い、体温計を見ると37.6℃。熱以外に何も症状はないため、少し様子を見ることにする。

2/17 (木) 検査

夜中に熱が38.3℃まで上がったが翌朝には37℃台。家族全員の自宅待機を決め、妻は最寄りの病院でPCR検査を受けた。

2/18 (金) 確定

体温は36℃台に下がった。3歳児と9歳児を屋内に閉じ込めておくのは難しいため、公園が空いている時間帯に少し遊ばせた。夕方に病院から電話がありPCR陽性を伝えられる。 小学校の校長や保育園の看護師と電話。保健所の業務が逼迫していて連絡がとれないため、濃厚接触の判断や自宅待機期間はガイドラインに沿って学校や保育園が判断するとのこと。

2/19 (土)

平熱に下がった妻は元気そうで、明日からでも仕事に行きたいと文句を言っていた。いいから休んでてくれと言って俺はスーパーへ。濃厚接触者は短時間の買い物は問題ないと自治体のサイトに書かれていた。いつ俺や子どもたちが発症するかも分からないので数日分の食料を買ってきて冷蔵庫に詰めた。

2/20 (日)

熱はないが倦怠感がひどいと言って布団から起き上がれず、終日横になっていた。喉も痛いらしい。家族全員、食欲には問題がなく、作り置きのおかずが次々に消えていく。

2/21 (月)

症状は変わらず、味覚も少し変だと言う。日中は子どもたちと俺がすごろく等で遊び、食料の買い出しついでに公園で鳥の写真を撮り、夜中に仕事をした。

2/22 (火)

子どもが生クリームを食べるとお腹を壊しやすいため、木綿豆腐をブレンダーで粉砕し、メープルシロップを混ぜて豆腐クリームを作った。スポンジに缶詰の果物とクリームを飾り付けて結婚記念日のケーキにした。

2/23 (水) 解除

倦怠感は残るが喉の痛みは消えてきたらしい。家族の自宅待機は最終日となり、午後は子どもをつれて船橋三番瀬へ。他人と数十メートルの距離をとりながら鳥を撮った。

2/24 (木)

倦怠感も収まってきたらしい。9歳児は小学校へ行き、3歳児は保育園へ送り、俺は仕事で新宿へ。ついでに新宿御苑で鳥を撮り、NEWoManでスコーンを買う。ウクライナ侵攻を予想はしていたが強いショックを受けた。

2/25 (金) 発熱

3歳児は保育園へ。9歳児に微熱があり念のため学校を休んだ。昼過ぎに体温が38.5℃まで上がり、妻が検査を受けたクリニックに電話。妻の自宅療養期間を1日残しているため、家族の発熱は「みなし陽性」になるとのこと。

保育園へ電話して迎えの時間を早めた。9歳児をクリニックに連れて行き、検査はしないが陽性となった。ワクチン未接種のため症状の悪化が心配になり、解熱剤を処方してもらう。

2/26 (土)

9歳児の体温は36℃台に下がった。妻の自宅療養期間も完了。これからがまだ長いし油断はできない。今日も短時間で買い物に行って、人の少ない公園で3歳児を遊ばせて、夕食に煮物やグラタンなどを作って、夜に仕事している。

3/4 (金)

3歳児・妻・俺の自宅待機が完了予定。

3/7 (月)

9歳児の自宅待機が完了予定。

冬支度、春支度

秋から冬に切り替わったと感じるタイミングはいくつもある。こち亀の何巻かは忘れたけれど、自販機のコーヒーが温かくなると冬だなと両津勘吉は言っていた。息が白くなったら冬、コンビニに防寒具が並んだら冬と言ってもいい。冬の始まりに明瞭な定義があるわけではなく、冬の始まりを実感するタイミングがどこかにある、というだけの話だ。布団から出られなくなると冬だと言ってみたいが、気温にかかわらず朝は布団から出られない。

毎年とくに冬を乗り切るための特別な準備をするわけでもなく、ただ寒さをこらえて春を待ちわびていたが、今年の冬は奮発してダウンパーカーを買った。おかげで自分史上もっとも暖かい冬となり、世間一般の冬が厳しかったのかどうかよく分からない。何の準備もできていないのに、いつのまにか春が押し寄せてきていて戸惑っている。とはいえ春を迎えるための準備といっても子どもが保育園と小学校でそれぞれ進級した以外は大した変化もない。ぼんやり部屋に引きこもっているうちに桜が咲いて散っていた。いまが冬なのか春なのか何月何日なのかも曖昧になっていく。このままぼんやりと五年十年と自宅に引きこもって時間が過ぎ去っていくのなら、それも悪くはない。

移動できない自分の代わりに、長距離を移動する鳥たちのことを考えている。自宅周辺の木々にとまっていたヒヨドリたちはもう北に帰っただろうか。三番瀬カニをつついていたハマシギたちは今頃アラスカに向かっているか、まだ日本のどこかの干潟でカニをつついているのだろうか。鳥たちの飛行経路をドローンか何かで追いかける訳にもいかないから(彼らはおそらく猛禽類を恐れていて接近する人間や物体に敏感だ)、ただ地図を見て想像を膨らませるしかないのだが、それはそれなりに豊かな時間でもある。今後起こり得る非常事態について悪い方向へ想像力を膨らませてばかりの日常に、どうやって楽しい想像を織り込んでいくのかが課題だ。部屋にいても干潟の風景を思い出すこと、鳥たちが各地で休みながら北へ向かう姿を想像すること、また秋が来て鳥たちが干潟に戻ってくるのを待ち遠しく思うこと、などを生活に織り込んでいきたい。こんなことを大真面目に書かなければいけないくらい自分は弱っている。参ったな。

春が来たらカヌーのセルフレスキュー講習を受けるつもりだったが、いまの状況でイベントを申し込んでよいのか分からず保留している。川や海に漕ぎ出していくのは、しばらく先送りになる。春の暖かさにぼんやりしてしまって言葉が出てこない頭を少しづつ目覚めさせて、日々の些事をまた大げさに膨らませて書いていきたい。自分の想像で勝手に楽しんで立ち直っていくのもセルフレスキューと呼んでいいだろうか。春だからどんな訳の分からないことを書いてもいい。