2024年4月20日土曜日

生きた果実をそっと取り出すために

  管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2011年;ちくま文庫、2021年)という本を読んで救われた思いになったことがあります。〈読める〉とは、つまりすっかり理解することができるということ。その書き手が述べていることについて、わからないと思える部分がいつも残ることにずいぶん頭を悩ませることが幾度もあったからです。

 その管さんの最新の書評集『本と貝殻』(コトニ社、2023年)を最近読みました。最初の章「読むことに向かって」の冒頭の「立ち話、かち渡り」のなかで『本は読めないものだから心配するな』で彼が書きたかったことが二つあったと書かれています。一つは「本に冊という単位はない」ということ、もう一つは「人はそのときの自分が読めるだけのことしか読めない読まない読みそこなう読もうとしない読むことを知らない」ということ。

 読書とはいわゆる足し算ではありません。管さんの言うように本は「読めない」ものだとすれば、では、本が「わかる」とは何か? 何か自分にとってのそのときそのときの中心に、読み取ったことを関連づけることに他ならないのではないでしょうか。「わからない」とは、その関連づけができなかったということになるように思われます。

 ジャミカの「理解するってどういうこと?」という問いに対するエリンさんの答えは『理解するってどういうこと?』の359ページから358ページにかけて、この本に書かれたことをまとめるようなかたちで記されています。その上で「本書の読者たちに私が望むのは、自分の教えている子どもたちに寄り添いながら、ジャミカの質問に対する自分の答えを考えていただきたいということです」(『理解するってどういうこと?』358ページ)とエリンさんは言っています。

 ジャミカの質問に対して答えるヒントが『本と貝殻』の「立ち話、かち渡り」には書かれています。「立ち話」?「かち渡り」?管さんの言葉を引きましょう。

 

「立ち話について。本を冊という単位で考えるな、本を擬人化するなとは何度となくくりかえしてきたぼくの基本的な考え方だが、ここではそれをあえて裏切る。知らない本たちのことを知らない人間のごとくに考えてみるのだ。未知の人は多い。だが生活空間で何度もすれちがううちに顔見知りになったり時には言葉を交わすようになったりした相手もそれなりに多いだろう。本についてもまったくおなじことがいえる。はじめは噂話で名前を聞く。ついで背表紙や表紙を見かけ、存在を認識するようになる。あるとき偶然に話をすることになる。街角や駅での立ち話。時間は三分でも十分でも、現実生活において、そんな経験はないだろうか。毎日のように顔を合わせていても、何を話したかまるで覚えていない相手もいる。逆に数年前、駅の雑踏でばったり合い、三分間だけ橘差異をしたその内容が強烈に記憶に残っているのみならず、その後の考えや行動に影響を与えた人もいる。」(『本と貝殻』22ページ)

 

 本と「立ち話」するとはどういうことなのでしょう。管さんは本を手に取ってランダムに開いて「一瞬の閃光のような『閃き読み』をする」ことだと言っています。その部分だけで十分わからなければページをさかのぼることで、もう少しわかるようになるかもしれません。本屋さんや図書館で、結構やっていることだと思います。自分に既知のことがらと思いがけず結びつくこともあるでしょう。

 「かち渡り」の方はどうでしょうか。「かち渡り」とは「徒歩で渡る」ことです。この本については何かを学びたい、何かをつかみとりたいときにやることだと管さんは言います。

 

「前後なく脈絡なくページを開いて、少しでも飲みこめるところがないかを探す。囓ってみる。そこに踏み石を投げ込む、ひとつの踏み石の大きさは1センテンスでも半パラグラフでもいい。大小があっていい。ぐらぐらしていてもいい。300ページの本なら、そんな石を百個も投げこめば、いよいよ頭から通読する準備が整ったといっていい。目標は、あくまでも向こう岸にわたること。途中の流れや水音やそこに住む生物やあたりの景色や空の色まで楽しむ余裕はないだろう。それでいい、とくかくわたってみること、するとわたり終えたときに、自分が既に不可逆な変化を経験したことがはっきりとわかり、たったいま決行したばかりのわたりを今後何度でも必要があるだけ/心ゆくまでくりかえしていいことも自覚できる。」(『本と貝殻』24ページ)

 

 「立ち話」にしろ、「かち渡り」にしろ、管さんが言っているのは本との付き合い方の基本形です。自分の中心と本に書かれてあることを関連づけるための方法だと言ってもいいでしょう。「読めない」し、そのままくりかえすこともできないのだとすれば、私たちのやるべきは、自分の既知のことや関心の中心と関連づけることしかない、と言っているようでもあります。

 「かち渡り」については私にも思い当たることがあります。ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』(轡田収訳、岩波書店、1982年)は、学生時代から繰り返し読んできた本です。いまでも「読めた」という自身はありません。この本について書いたことは幾度かありますが、いずれも「そのときの自分に読めるだけ」のことでしかありませんでした。そのときそのときに、管さんの言う「踏み石」(足場や手がかりのこと)を、『行為としての読書』の難解な記述のなかに見つけて、それについて考えたことをノートしていきました。偶然にも300ページほどの本です。最初は書かれていたことをまとめたようなノートになりましたが、そのノートを手元に置きながら何度か再読するなかで、本に書かれていることを自分の関心と関連づけていきました。「わたり」を繰り返すことで、この本を「読めた」とは思えませんでしたが、貧しいながらも自分の読書行為観をつくることにはなりました。私のばあい、それが『行為としての読書』を理解するということだったと思います。自分のそのときの主題に関連づけて何らかのことをうみだしていく以上のことはないかもしれませんが、それが「わかること」「理解すること」だという実感を持つことはできました。

 『本と貝殻』はおびただたしい数の本についての書評集ですが、その序にあたる部分に著者による一編の詩が置かれています。そのうつくしい一節を引いて終わることにします。

 きみが読むことで

本はその殻からそっと出てくる

きみが心で呼びかけたとき

生身の貝が蓋を開けるように

どちらも生きた果実だ

どちらも生きた知識だ

どちらもひとりひとりの人間を

はるかに大きなものへとつなげてくれる 

(『本と貝殻』より)

 

2024年4月13日土曜日

書いている作品を途中でやめる

 「うまくいかない下書きをやめることは、なぜそれがうまくいかないのかを、書き手が認識することである。それは書き手にとって、成果であり、学びのプロセスの一部だ」  

                         ーーLynne R. Dorfman

 書いている途中の作品について、「書き続ける/完成させるのをやめる」ことが必要な時もある。そんなトピックの記事(★1)を見つけました。メンター・テキストなどに関わる著書もあるドーフマン氏(Lynne R. Dorfman)が書いています。上の引用も、その記事の中の文章です。

 これを読みながら、「いつ、どのように」書き続けることをやめるのかという判断は、書き手に必要なスキルの一つだと実感しました。

→ リーディング・ワークショップで、「自分に合わない、楽しめない本をやめる」ことは、ミニ・レッスンやカンファランスでよく取り上げられています。リーディング・ワークショップの場合は、選書を教える際、「自分にピッタリの本とは」を考える中で、「自分に合わない本」や「こういうときには、その本を読むことをやめる」というトピックを考えて、クラスでリストをつくるようなこともあります。

→ この流れで考えると、ライティング・ワークショップでは、「自分にピッタリの題材を見つける」ことを教える中で、「書き続けられない」時は「やめる」という判断をする、というミニ・レッスンを入れても良いのかもしれません。

 ドーフマン氏もこの記事の中で、まずは「自分の書く題材をどうやって上手に選ぶのかや、書くジャンルや構成を決めること、そして、書きたいと思うことを友だちに話してみる(あるいは声に出して自分に話してみる)などを、まず押さえています。

(→ 取り組む題材を注意深く選択しても、時には、暗礁に乗り上げることもあります。私自身、書いている間に、最初に書き始めたものの焦点が変わり、それまでに書いた部分を大きく削除😢することもありますし、どんどん書きたい内容が増えてきて、収拾がつかなくなるように感じることもあります。)

 ドーフマン氏は、6年生の生徒たちに「いつ、現在、書いているものをやめて、新しい作品に移るか」というトピックで対話し、子供たちは、ペア等で話して、出てきたものを作家ノートにメモし、それをクラス全体で共有しています。

 その共有されたもの(ブレインストーミングの結果)は11項目紹介されています。(下にURLを記した、この記事では、このリストをワードファイルでダウンロードできます。)

 そしてそれを大きな紙に書き出し、その横に該当する生徒たちのイニシャルを書き込むようにしたそうです。それを見ると、一番多くの子どもたち(20名)がイニシャルを書いたのは、「作品に取り組むことがストレスで、書き続け、推敲するのが苦痛」というものです。その次(17名)は、「焦点がわからなくなって、多くのものを詰め込みすぎて、中心となるものが見つからない」です。

 こういう対話からクラスリストを作成することも、一つのスタートポイントになりそうです。

*****

 面白いなと思ったのは、書き続けることをやめた下書きで、その時点までにつくりだしたものが、「後日、使える可能性がある」ということです。

 ドーフマン氏は、例えば興味深い登場人物、すごい場面、会話で進める等のスキルが、後日、そこから刺激を受けて新しい作品につながるかもしれないと言っています。教師が自分の実例から、こういう例を出せると、子どもたちが、書くのをやめた、その時点までの下書きを保管しておこうと思うきっかけになるようにも思います。

 また、少し脱線しますが、「書き続けることをやめる」という、上で紹介した2項目だけ見ても、以下のように、リーディング・ワークショップでの「今読んでいる本をやめる時」と裏表の印象を受けました。

・ライティング・ワークショップ「作品に取り組むことがストレスで、書き続け、推敲するのが苦痛」

→ リーディング・ワークショップ「読むのが苦痛の本を読み続けるのはやめる」

・ライティング・ワークショップ「焦点がわからなくなって、多くのものを詰め込みすぎて、中心となるものが見つからない」

→ リーディング・ワークショップ「情報が多すぎて、読んでいる本の焦点がわからない」

 このように共通点が見えてくると、読み書きを統合したリテラシー・ワークショップのデモンストレーション・レッスン(ミニ・レッスンのようなもの)のトピックになるかもしれません。リテラシー・ワークショップについては2021年9月11日の投稿「読み書きを統合する時間を設定する」をご参照ください。

https://wwletter.blogspot.com/2021/09/blog-post_11.html

★1 

https://www.middleweb.com/45365/teaching-kids-when-to-let-go-of-a-writing-idea/

Teaching Kids When to Let Go of a Writing Idea

By Lynne R. Dorfman


2024年4月5日金曜日

生徒に読む力と書く力をつけるのに、教科書をカバーする授業でいいのか?

  多くの先生にとって、学校で教えるということは「教科書をしっかりカバーする授業」を指しています。そして、ごく少数の教科書をカバーすることを良しとしない先生は「変わった先生」扱いをされることでしょう★。他のみんなが、教科書をカバーして、それとセットになっている業者テストを生徒たちにやらせることで一つの単元を終わらせ、次の単元に移っていくのに合わせませんから。

 この学校で主流であり続けている授業は、保護者も管理職も体験し、慣れ親しんでいるので(というか、それ以外の方法があり得るのか、とさえ思っていることでしょう!)安心できる方法ではあります。しかし、それは、生徒たちが書くこと、読むこと、聞く・話すこと(+学ぶこと、考えること、問題解決することなど)を好きになり、かつそれらの力をつける方法としては適しているでしょうか?

 そうした授業に対する生徒たちの反応は、「好きになれない」や「退屈」です。教師は教えたと思えても(教えた後にすぐ行われるテストで、それなりの点数は取れたとしても)、身につかない問題を抱えます。結果的に、教師も生徒たちも無駄な時間を過ごしているのではないのか、という違和感をもつことになります。あなたは、もったことはありませんか?

 それを払しょくする教え方の一つが、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)の実践です。

 生徒たちが書くこと、読むこと、聞く・話すこと(+学ぶこと、考えること、問題解決することなど)を好きになり、かつそれらの力をつける方法として開発されましたので、教科書をカバーしてテストをする授業の課題は簡単に克服されます。

 しかも、日本での10年以上の実践を通して、学習指導要領をはるかに超える力を発揮することも証明されています★。それほど、学習指導要領は生徒の能力を過小評価している、ということです! 学習指導要領とライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)を比較した表をつくっていますので、ご希望の方はpro.workshop@gmail.com宛に資料請求してください。

 

 それだけではありません。

SELのスキル(https://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html および https://selnewsletter.blogspot.com/2023/03/)やEQのスキル多く(https://docs.google.com/document/d/1OcT73YJAurfvj0f09dJ5PaWUGHRsJno_YPfjw83g8sw/edit)が身につきます。

・「思考の習慣」が身につきます(https://bit.ly/3XZmfbh)。

・4Cと言われるクリティカルな思考、創造的な思考力、協働する力、そしてコミュニケーション能力の「21世紀スキル」(や非認知スキルないしソフトスキルのほとんど)が身につきます。

・「社会人基礎力」のほとんどが身につきます。

 

 従来の教科書をカバーする読解と作文の授業をしていて、これらの大切なスキルのどれだけが身につけられるでしょうか?

 その意味でも、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)の魅力は絶大です。

 

 なお、これまでも教科書の弱点については、繰り返し指摘してきましたので、ぜひ以下の2つの情報をご覧ください。

https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8

https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8

 

 まだ取り組み始めていない方は、今年度こそは、教科書をカバーする国語の授業の代わりに、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)に挑戦してみてください★★。生徒たちが待っています!

 

★だからといって、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)が学習指導要領や教科書を無視しているわけではありません。目の前の生徒たちを無視して、学習指導要領や教科書に引っ張られ過ぎた教え方をするのではなく、目の前のいる一人ひとりの生徒たちを中心に据えて、学習指導要領や教科書にも配慮しつつ、結果的に1年の最後にすべてを押さえている教え方をしているのです。

これは、「教科書をカバーcoverするよりも、生徒たちがアンカバーuncoverする教え方の方が、教え方としてはレベルがはるかに上である」からきています。単に教師が提示するのではなく、生徒自身が明らかにする、見つけ出す、発見する、覆っていたものを取り除く教え方です。シュタイナー教育が注目されたり、最近では探究学習が注目されるのは、そのためです。

 

★★上で紹介した以外にも、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)が、教科書をカバーする国語の授業よりも優れている理由がいくつかあります。

・一人ひとりの生徒がもっている「発達の最近接領域(ZPD)」を反映した形での授業が可能。ZPDについて詳しくは、https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=ZPDを参照してください。それに対して、教科書(ないし一つの教材)しか扱わない授業は、生徒一人ひとりがもっている微妙に異なるZPDを無視した教え方しかできませんから、教師は「教えた」と言えますが、生徒サイドは「学んだ記憶にない」ということが起こりがちです。

ZPDの捉え方と似ていますが、教師は一人ひとりの生徒がもっている知識、情報、学習履歴、レディネス、性格や取り組みの姿勢、対人関係のつくり方、学び方、学ぶスピード、興味関心、こだわりなど微妙に違うことを知っています。そうしたものを考慮に入れた教え方をしようというのが「一人ひとりをいかす教え方」です。逆に、それらをあたかも同じと仮定して教えるのが教科書(ないし一つの教材)しか扱わない授業です。結果的に、生徒が夢中で取り組める割合は、極めて低いことになります。『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』と『一斉授業をハックする』を参照ください。

「見取りは大事」とは、多くの教師が口を揃えて言いますが、その実践となるととても寂しい現状があります。その理由は、教科書をカバーする(教師が一人がんばり、生徒たちはお客さんであり続ける)一斉授業は見取りととても相性が悪いことにあります。それに対して、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)では教師が一斉に教える割合(=教師がミニ・レッスンで教える時間)は5分の1とか6分の1ぐらいに限定しているので、残りの時間は生徒を観察したり、カンファランスをしたりして見取りができ(=形成的評価に費やせ)ます。ライティングとリーディング・ワークショップ以上に、「指導と評価の一体化」を実現した教え方はないぐらいです!

・この最後の点は、教科書をカバーする授業とセットになっているテストという評価の仕方のおかしさにつながります。ここでは、二つの風刺画を紹介する形で紹介します。一つ目は、https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E5%B9%B3%E7%AD%89で読める上の2つの記事をお読みください。もう一つは、以下のイラストです(教育の世界でも、このようなユーモアのセンスが使われるようにならないと、日本の教科書問題やテスト問題も改善しないのかもしれないと思わされます)。


2024年3月31日日曜日

批評家として詩を読む 〜谷川俊太郎「みみをすます」〜

★ 時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、以下を書いていただきました。

 毎日の授業の最初に詩を読むことを実践しているナンシー・アトウェルは、その理由について、「知的な視点を養い、批評家として反応して、それぞれの詩に対する意見を形成できるようになってほしいから」だと述べています。★1 

 批評家として反応するとは、どういうことでしょうか。それは、単に良し悪しの感想を述べることではありません。アトウェルは、「詩を読んだ経験について語る言葉」を持つことであり、そのためには、詩人が選択している技や組み立て方などの理解が必要である、と言っています。★2

 今回は、詩人の技という視点から、谷川俊太郎さんの詩集『みみをすます』(福音館書店, 1982年発行)★3を取り上げます。この本は、ひらがなによる長編詩6編をおさめた詩集で、帯文には、「和語だけでどれだけの深く広い世界を謳いあげることができるか、著者があしかけ十年に渡って問い続けてきたことに対する、自らの完璧な回答です。」と書かれています。

 その詩集から、書名と同名の作品「みみをすます」を読んでいきます。

【冒頭】

 詩は、次のように始まります。


みみをすます

きのうのあまだれに

みみをすます

 まず私は、「雨垂れの音なんて聞いたことあるかなあ」と思いました。そして、子どもの頃、降りしきる雨が軒のトタンに当たる音を聞いていた記憶がよみがえりました。しかし、「雨音」ではなく「雨垂れ」です。聞こえそうで聞こえないもの。聞こえないようで、聞こえてくるもの。そんな世界に入っていくことを予感します。


【足音を聴く】

 話題は足音に移ります。


いつから

つづいてきたともしれぬ

ひとびとの

あしおとに

みみをすます

めをつむり

みみをすます

ハイヒールのこつこつ

ながぐつのどたどた

ぽっくりのぽくぽく

みみをすます

ほうばのからんころん

あみあげのざっくざっく

ぞうりのぺたペた

 ハイヒール、長靴、ぽっくり下駄、ほうば下駄、あみあげ靴、ぞうり。履き物の名前が物音とセットになって並べられています。私がイメージしたのは、歩く人々の足元だけを写した映像でした。さまざまな履き物をはいた人々が物音を立てて歩いている。そんな場面でした。


きぐつのことこと

モカシンのすたすた

わらじのてくてく


「モカシン」とは、アメリカの先住民が履いていた一枚革の靴のことです。それが「すたすた」という音をたてるでしょうか? 私は、「すたすた歩く」という歩く姿との結びつきを感じます。「わらじのてくてく」も、「てくてく歩く」という歩く姿を想像させます。著者は、意図的に物音から歩く姿へとスライドさせているのではないか、と私は考えました。


【話題が飛躍し、展開していく】

 ここで詩は思わぬ方向へ進みます。


はだしのひたひた・・・・・

にまじる

へびのするする

このはのかさこそ

きえかかる

ひのくすぶり

くらやみのおくの

みみなり

 突然、「蛇」が登場します。そして、「木の葉」「火のくすぶり」「暗闇」「耳鳴り」と続きます。足音の話題から一気に飛躍します。私はこんな時、飛躍したイメージを追いかけていって一つの情景を作ることを楽しみます。例えば、夜、木の葉の積もった山の中。蛇がすり抜けて通る。焚き火が消えかって、暗闇が濃くなっていく。耳鳴りがする、というふうに。


【赤ん坊が生まれた日】

 詩はこの後、太古の世界へと飛躍し、そして人間の世界へと移ります。


なにがだれを

よんでいるのか

じぶんの

うぶごえに

みみをすます


「赤ん坊の産声は、誰かをよぶ声なのか」と私は思いました。誰かはわからないまま、

それでも生まれ落ちてきたこの世界で、誰かを呼ばずにはおれない赤ん坊の声。


そのよるの

みずおと

とびらのきしみ

ささやきと

わらいに

みみをすます

こだまする

おかあさんの

こもりうたに

おとうさんの

しんぞうのおとに

みみをすます


「そのよる」とありますから、その赤ん坊が生まれた夜、というふうに読めます。「扉」「ささやき」「笑い」「お母さん」「子守唄」「お父さん」「心臓の音」。ひとつの命の誕生とそれに立ち会う人々の情景が浮かんできます。


【人の生きる営み】

 最初の方で、足音にまつわる表現が列挙されていました。この「列挙して、たたみかけていく」という技は、この詩で特徴的なものの一つです。

くさをかるおと/てつをうつおと/きをけずるおと/ふえをふくおと/にくのにえるおと/さけをつぐおと/とをたたくおと/ひとりごと


 人の動作・行為を表す言葉の一つ一つの背後に、その人の生活や気持ちや歴史が感じられます。それが次々に切り替わっていき、「ひとりごと」という言葉で括られています。


うったえるこえ/おしえるこえ/めいれいするこえ/こばむこえ/あざけるこえ/ねこなでごえ/ときのこえ/そして/おし


 ここでは感情を表す言葉が連なっています。激しいものを感じます。そして「おし」という言葉で括られます。


【争い、戦いの情景】

 詩は、争い・戦さの方向へ展開していきます。


うまのいななきと

ゆみのつるおと

やりがよろいを

つらぬくおと

みみもとにうなる

たまおと

ひきずられるくさり

ふりおろされるむち

ののしりと

のろい

くびつりだい

きのこぐも


 全体の中で、このあたりが一つのピークを形作っているように思います。緊張の高まったところで、次の言葉が語られます。


(ひとつのおとに/ひとつのこえに/みみをすますことが/もうひとつのおとに/もうひとつのこえに/みみをふさぐことに/ならないように)


 詩の中で唯一、メッセージが生な形で表現されている箇所です。これは、先の争い・戦さの場面を受けての祈りのようにも感じられます。一つの声だけにみみをすまして、もう一つの声にみみを塞ぐことが敵を作っていく。そんな解釈ができるかもしれません。


【締めくくり】

 最後は、私たちの身近な日常の世界に戻ってきて、次のように締め括られます。


きょうへとながれこむ

あしたの

まだきこえない

おがわのせせらぎに

みみをすます 


 冒頭で「きのう」だったものが、ここでは「きょう」、「あした」に。また、「雨垂れ」という極めて少量の水だったものが、ここでは「おがわのせせらぎ」になっています。そして、それは「まだきこえない」。・・・

 以上、詩人の技という視点から、私がどのように読んだかを説明してきました。読みを深め、楽しむ一助になればと思います。

 最後に、このように分析することで見えてくる構図というものがある一方で、それを超えたところに「詩」があるということも言い添えておきたいと思います。谷川俊太郎さんは、次のように言います。


どんなに分析してもしきれないもの、それが「詩」かもしれないが、「詩」は他人の書いた詩作品の中にひそんでいるだけでなく、それを読む人のこころとからだの中にひそんでいるのだ。自分のうちにひそむ「詩」を発見するためにこそ、人は詩を読み、詩を聞き、詩を批評するのだと思う。★4


 ぜひ全編を通して読み味わい、心と体に起こることを経験してほしい、と思います。★5


*****

★1 ナンシー・アトウェル(小坂敦子・澤田英輔・吉田新一郎訳)『イン・ザ・ミドル』(三省堂, 2018年)223ページ

★2 同上書, 223ページ

★3  この本では、詩と詩のつなぎ目に、柳生弦一郎さんによる24点の人間の顔の絵がは

さまれています。ブックデザインも素敵です。40年以上も前に発行されたこの本が、今も

なお定価で入手できるというのは、驚くべきことだと思います。

★4 谷川俊太郎「ひとこと」 谷川俊太郎・田原・山田兼士・大阪芸大の学生たち著『谷川

俊太郎《詩》を読む』(澪標, 2004年)209ページ



2024年3月22日金曜日

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


特別支援学級から見る卒業式の景色


 先日、春の風が吹く中で、本校でも6年生が笑顔で証書を受け取り、笑顔で卒業していきました。

 実は、心の中は笑顔と言い切れるものではありません。特別支援学級の子どもたちに限らず、中学校への進学というものは、強い不安を感じるものです。中学校ではどんな環境が待っているのか見通しが持てず、「先生は厳しいかもしれない」「勉強は難しいかもしれない」と憶測だけの噂話に翻弄されます。小学校でも、3月は卒業式の練習が立て続けに入り、何をするにも「小学校生活最後」という言葉で終わりを意識させられます。私が受け持っている子どもたちも、不安を強く表してしまう子がいました。学校では気丈に振る舞えるのですが、その反動で家で感情的な行動をとってしまうのです。ひときわ感受性の高い子どももいて、卒業に漂う寂寞とした空気を敏感に感じとってしまいます。

 特別支援学級は、家庭との情報共有も通常学級と比べて丁寧に行いますので、学校での「がんばり」が子どもの生活のどこで新たな歪みを生じさせているのかも把握し、「がんばり」の程度を調整していきます。「今回は1時間だけにしようか」と卒業式の練習を短く切り上げるような支援を行っていきます。例えばある子は、卒業式の練習に参加できてしまうからこそ、あとで精神的疲労の蓄積で爆発してしまうため、教師の支援の下、「がんばり」の程度を調整するということです。一方で、卒業という時期だからこそ積める経験や得られる感情もあり、それらが子どもたちを育てるまたとない機会にもなります。ですから、その子にあった取り組み方への調整を支援者は行っていくことになります。

 そんなこんなで、かれらは無事に卒業していきました。


 特別支援学級に在籍する子どもたちが卒業していく姿は、その子のこれまでの物語が凝縮されています。特別支援に在籍はしているが、交流級担任が呼名をする子ども。支援級担任が入退場に寄り添い、けれども、証書授与は(ステージの陰でサポートされながら)自分の力で受け取る子ども。このような卒業式へのそれぞれの向き合い方は、これまでの支援者がどのようにその子どもの支援を行ってきたのか、そのスタンスが顕在化しています。特別支援学級在籍児童のなかでも、それぞれに適した形で卒業していき、良い卒業式だと思いました。


弘前大学付属小学校の先生方の「作家の時間」授業参観


 卒業式よりも前の2月某日、弘前大学付属小学校の先生方が授業の参観に来てくださいました。弘前大学の宮﨑充治先生とは、以前お勤めされていた桐朋小学校で行われていたブッククラブで幾度かお会いし、久しぶりの再会となりました。また、同付属小学校の今先生と小田桐先生は、校内でも作家の時間や読書家の時間を導入しようとしてくださっているそうです。学力差のある複式学級で作家の時間にチャレンジしてくださっていて、私が行っている4年生・6年生の特別支援学級での作家の時間と教室の実態が似ています。何か学びの種がお互いに共有できたら良いと思い、ご見学していただくことになりました。


 この日の作家の時間で、子どもたちは最終出版に向けて原稿を完成させたいと思っています。本当は2月が最後の出版の予定だったのですが、大介くん(以前のブログにも登場しています)が「自分の作品をもっと出版したい!!」と懇願し、私の方が折れたので、目まぐるしい3月にも出版することにしました。年間4回の出版が5回になりました。

 出版はその頻度が多ければ多いほど、原稿が書けていないことに対する子どもの不安や、原稿を全員揃えなければならない支援者の圧力を、軽減することができます。1年に1回の出版でしたら、「〇〇さんが提出していない!!提出させなくちゃ!!」といったことを心配してしまいますが、月に1回程度出版していると、特に全員揃っていなくても、今回できた作品を紹介するスタンスになるので、提出できていない子に無理に催促する必要がなくなります。ですから、その分手間はかかってしまいますが、支援者にも子どもにも安心な作家の時間をつくることができます。


すべて会話文と擬音語の作品


 ミニ・レッスンは、私が前から気になっていた地の文と会話文の書き分けです。動画の影響が大きくて、どうしても会話文だけの物語展開になってしまう子どもが何人かいます。もともと自分以外の視点に立つことに困難さのある子どもたちですから、以前にも取り扱ったことがあるのですが、なかなか身につきません。

 エリック・カールの『はらぺこあおむし』と同氏といわむらかずおさんとのコラボ作品『どこへいくの? To See My Friend!』を用意しました。前者はもちろん地の文と会話文の両方が書かれています。後者は会話文だけで進んでいく絵本です。6年生は地の文と会話文をかき分けることができるので、こちらも教材として用意しました。

 ミニ・レッスンの内容は、宮﨑先生が書いてくださった訪問記が詳しいので、引用します。


宮﨑先生の「冨田学級訪問記」より


 はじめは「ミニ・レッスン」だ。教室の前にはモニターがあり、そこの箱状のベンチに座ってみんなが集まる。この日のミニ・レッスンは会話文と地の文について、2冊の絵本と子どもたちのこれまでの作品を使って、「だれが、なにを言ったのか」ということに焦点づけて行われた。子どもたちの作品はロイロノートに納められ、それがモニターに映し出される。

 その中で、篤志くんの作品に焦点があてられた。篤志くんの作品は絵と文で構成されているが、一部は冨田先生と一緒に文章化していっている。その物語の中に登場人物たちが武器で闘うシーンがあった。篤志くんはそのシーンを「バシッ、ぎゃー、ドス」といったように擬音語だけで表現する。冨田先生はそのページに対して、「これはだれが何でどうしたの?」といったように、動作主とその擬音を結び付けようとしている。篤志くんに冨田先生は「このまえ、だれが何をしたって書いたら、みんなから分かりやすくなったって、言われたよね」と誘いかけるが、篤志くんはそうした表現方法になかなか同意していないようだった。しかし、篤志くんが語り始めるとどの擬音がだれが、どの武器をつかった時の音なのか。彼の頭の中には物語のすべてが入っている。

 冨田先生が用意した2冊の絵本の一つは、エリック‧カールの『はらぺこあおむし』。こちらには語り手がいて、(子どもたちから「ナレーター」という言葉でした。)はらぺこあおむしの行動をその視点から語っていく。もうひとつの絵本は「 」はついていないものの、会話文で物語がすすんでいくものであった。(冨田注 『どこへいくの? To See My Friend!』です。)冨田先生は後のふりかえりで、どちらの表現方法もいいんだよということを伝えるために、この2冊を用意していたという。

 私は、篤志くんはあえて「擬音語」だけで表現しているのかもしれないと感じた。地の文が入ると、スピード感が落ちるからだ。一方、冨田先生は主語をいれることによって、文章技法としての「ナレーター」による語りを教えているというよりも、ナレーター=語り手という物語を俯瞰して語る人という認識の仕方を提示しているように思えた。物語と小説の違いはこうした語り手、客観的に自己を対象化する存在の有無にある。このレッスンは文章技法のレッスンのようだが、認識方法のレッスンなのではないだろうか。

 ここで、ミニ・レッスンは公開カンファランスのように映る。つまり、篤志くんの作品をとりあげ、それを直接の指導の対象にしているかのように見えるがそうではない。篤志くんの作品を通して、全員に冨田先生は語りかけている。そして、ミニ・レッスンにおいて、教師は提示するが技法の選択は子どもに委ねられる。冨田先生が2冊の本を用意したのはその配慮だろう



子どもが今味わっている技法を楽しむことができる時間を十分につくる


 非常に深い分析でありがたいことです。

 篤志くんは十分に能力はありますが、自分の表現とは違う技法を習得するレディネスはできていません。篤志くん自身の特性もありますし、篤志くんのこだわりでもあります。宮﨑先生の推察の通り、篤志くんはこの表現方法ができる喜びを感じとっている最中なのかもしれません。

 たとえば、幼児期の絵画表現において、スクリブルや頭足人などの特有の表現がありますが、それが稚拙だからといってスクリブルや頭足人を書く喜びを味わう時間を十分に設けず、学童期の技法を教え込むことで作品の質を引き上げようとする指導行為は、子どもに関わる専門家として間違った指導であるように思います。大きな白紙に、クレパスやサインペンで自分の腕の動きと呼応した美しい線を走らせるスクリブルは、心の解放や能動的に環境に働きかける楽しさなど、様々なよい影響があるでしょう。その子の発達段階はスクリブルを求めている可能性があります。決して良い作品を生み出したいわけではなく、良い描き手を育てたいのです。それと同じような状況が、擬音語だけの文章を書く篤志くんの中にある可能性を私は見ていました。

 けれども、篤志くんの書き手としての成長を俯瞰して見た時、その種は蒔いておきたいところです。そこで今回のミニ・レッスンを用意しました。篤志くんが強制と感じてしまうと、大変貴重な学習意欲が減退してしまう可能性があるので、無理強いはしないようにしました。その匙加減は、篤志くんと私たち支援者のこれまでの経緯により調整をしています。



大介くんの目覚ましい成長



 この後、「ひたすら書く」の中での私のカンファランス、大介くんの作家の椅子による共有がありました。


「大介くんが自分の意思で書き始めるまで 特別支援学級の作家の時間」へのリンク

https://wwletter.blogspot.com/2023/12/blog-post_22.html


 以前上記の投稿で記した大介くんは、目覚ましい成長を遂げ、今では6年生の友達に自分の作品を音読してもらって作家の椅子を行うまでになりました。大介くんが友達に読んでもらう理由は、彼が極度に「表現することへの不安」「他者評価への不安」を感じやすいということが挙げられます。それでも、友達が読んでくれている声や友達が自分の作品を楽しみ声を上げる様を、廊下から教室を覗くことで楽しんでいるという、一風変わった共有の状況が生まれています。こちらについては、またいつかどこかでまとめたいと思っています。



「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」


 その後、宮崎先生、今先生、小田桐先生とで、作家の時間のベースにあるものをご説明したり、弘前大学付属小で行われている作家の時間の様子などを伺ったりするような、ワークショップの学習会を開きました。

 その中で、宮﨑先生は次のように振り返ってくださいました。


宮﨑先生の「冨田学級訪問記」より


 竹内常一は、「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」と、子どもの居場所の在り方の変遷について述べているが、冨田学級は傷付き冨田注 そういった子もいれば、そうではない子もいます。)をもった、人からの否定的な視線にさらされ、自分を肯定的にとらえることができない彼らを受容するという機能、つまりは避難所としての機能を持ち、ここに居ていいんだという心理的安全性を確保される。その上で、表現を通じて、相互に承認される。承認されることで子どもはそこを居場所だと感じる。承認をされて、ここが居場所だという「オーナーシップ」がもてると、子どもたちは「集団で」、あるいは「個々に」企みはじめる。教室は企みのためのベースキャンプとなるのである。

 一般級では「評価」が求められ、「計画的」な授業が求められる。特別支援学級はそういう意味では今の教育の「エアポケット」なのかもしれない。

 しかし、冨田先生が「評価」していないのではない。「評価」は一般的に、子どもを数値化、ないしは文章の中に押し込める。それは子どもや教師のためではなく、第三者のために「客観的」(ほんとうに客観的かどうかは問われず)に評価するのである。

 冨田先生は子どもに沿いながら、多面的に、多様に、「アセスメント」をしている。本来、教育的な評価とは子どもを励まし、どこにいるかを示し、自分自身が自分のことを評価できるようにするものであろう。

 冨田先生は、アセスメントを通して、その子にそって「計画」をさぐっている。こうした力はおそらく「単元開発」の中で培われた教材=教育内容、あるいはそれを支える学問‧文化への深い洞察もあるだろう。また、特別支援で求められる障害理解や認知の理論も支えになっているのではないかと推察する。しかし、それよりも、目の前にいる子どもの「現し」をどう読みとるか、それをおもしろがっている冨田先生がいて、それが子どもたちを自立的な学習者になるよう励ましているように感じた。



コンフォートゾーンとなる「ベースキャンプ」をつくる


 過分な言葉を頂き恐縮ですが、評価(アセスメント)をして子どもの「居場所」をつくることについて言及してくださり、その部分を引用しました。


 自尊感情を回復させることも私たちの大きな役割の一つです。系統主義的に教科書会社や教師が立案した計画通りに資質、能力を身につけさせていく動線に乗ることができなかった子どもたちが、より経験主義に寄った学習環境に身を置くことで、基本的自尊感情を回復させていくことができるのが、特別な教育課程を編成することができる特別支援学級の強みであるように思います。

 しかし、ご存知の通り、子どもたちは、評価の刃にさらされることが多く、それにより傷ついています。数字はもちろんのこと、文章でもその可能性があることは宮﨑先生のご指摘のとおりです。

 一方で、数字や記号では測れない人間味のある学習評価を行えば、子どもは、嬉しくなり、やる気になり、次のマイルストーンを見つけることができるものです。適切な自己評価、温かな他者評価、心理的安全のもとで交わされる相互評価で、自分の表現を受容し、自分のペースでさらに高みを目指すことができるはずなのです。わたしたち支援者は、子どもを傷つける評価を、子ども理解から次の成長へつなげる評価へと取り戻さなければなりません。


 「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」という言葉を教わりました。少しずつ、自分の身を守る役割から、冒険へ旅立つ前の準備を整える役割へと、教師の役割が変化しています。コンフォートゾーンがあってこそ、つぎのストレッチゾーンにチャレンジすることができるということでしょう。その子なりの自己実現への旅へと踏み出せるように、私たち特別支援の教師は、子どもたちの「ベースキャンプ」を刃のような評価などから守らなければならないのかもしれません。



 文章が長くなってしまい、弘前大学付属小の今先生や小田桐先生のご感想を紹介することができませんでした。また、次の機会にご紹介できればと思います。


新江ノ島水族館のサカサクラゲ



2024年3月16日土曜日

つながることで変化し続ける


 『理解するってどういうこと?』第7章でエリンさんは、パブロ・ネルーダの詩や文章を読むことによって、日常の暮らしのなかで「自分がどれほどたくさんのことを見逃しているのかということに気づかされ」たと書き、ネルーダが「自分の人生の変わりゆく風景を明らかにしたかったのだと思」ったと書いています。そして次のように言っています。

「パブロ・ネルーダの文章がどれほど私に衝撃をもたらしたのかということについて、もしも子どもたちに話さなければ、お気に入りの作家たちによって子どもたちが同じように影響を受けることなど、望むことができるでしょうか? もしも、時間とともに私たちの感情や考えや知識が変わることや、それらがこの世界にある力の影響を受けていることについて、子どもたちに話すことがなければ、理解するとはどういうことなのかの本質を子どもたちはどうやって手に入れられるでしょうか? もしも私たちの行動が前向きの変化に向かうための力となる可能性をモデルとして示さなければ、子どもたちが自分たちの現実を変化させるために自分で考えて、判断して、行動するよう期待することなどできるでしょうか? すべてが変化し続けること以上に確かなことはありませんし、そのことを理解すること以上に大切なこともありません。」(『理解するってどういうこと?』247ページ)

 エリンさんがネルーダの詩「スプーンのほめ歌」から受けた「衝撃」はどのようなものであったか。エリンさんは「スプーン」一つ取り上げるだけで、人と世界の歴史と現在への想像力を発揮する言葉をネルーダが紡ぎ出していることにおどろき(サプライズ)を覚えています。スプーンがこのかたちになったのはなぜか、とか、スプーンがなければ私たちの暮らしはどうなっていたのか、とか、そういうことを平易な言葉で表現するネルーダの詩には私もハッとさせられますが、そのこと以上にこの詩にして「衝撃」を覚えたというエリンさんのものの見方にも、私はおどろき(サプライズ)を覚えます。

 そうしたサプライズを喚起してくれる本を読みました。小池陽慈さんの編んだ『つながる読書―10代に推したいこの一冊―』(ちくまプリマー新書、2024年)です。この本の第1部には〈読み書きのプロ〉が書いた〈10代〉に向けて〈推したい〉本の紹介文(本書では〈プレゼン〉と呼ばれています)が14編収められています。それぞれの紹介文の前には、紹介者と小池さんとの対話が収められ、第2部には第1部の紹介文をめぐる小池さんと読書猿さんとの対談があり、さらに第3部では第1部の筆者が他の筆者の紹介した本を読んで書いた文章が収められる、という凝った構成になっています。

 第1部の14のプレゼン(紹介文)は、いわば〈10代〉に向けてのブックトークで、想定されている聞き手がとても明確です。小池さんの「はじめに」には「本という「扉」」という副題が付けられていますが、これは本書第2部の対談が終わった後に読書猿さんが発した「ある本を開くことは、それを「扉」のように開き、その本の「向こう側」の世界へ通じる入り口を開くことである」という素敵な言葉から借り受けた言葉だそうです。そして、14のプレゼンはその「扉」を聞き手が押して開く〈後押し〉になっています。

 『つながる読書』の〈後押し〉は二重三重になっています。第2部の読書猿さんと小池さんの対談では、第1部の14のプレゼンの読書論的意味が掘り下げられていて読み応えがありますが、ここでは第3部「つながる読書」から一つ取り上げます。

 小川洋子さんの『物語の役割』(ちくまプリマー新書、2007年)を取り上げた渡辺祐真(スケザネ)さんの10番目のプレゼンについて書かれた、安積宇宙さんの文章は次のように閉じられています。

「私は、物語の受け取り手としての自分の役割は、物語を読んで感じた気持ち、浮かんできたさまざまな想像を大切にすることなのではないかと思います。とても悲しいことに、アンネは日記を書いた後にナチスによる虐殺の中で殺されてしまいました。だけど、日記を読んだ私は彼女の人を信じる心を受け継ぎたいと感じました。それはまさに、アンネの「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!(一九九四年四月五日)」という願いを叶えることなのではないかと思います。そして、アンネの心を引き継ぐというのは、ユダヤ人であろうとも、パレスチナ人であろうとも、殺されていい人はいないと、行動することでもあると感じています。物語の役割を考えることで、物語を読む大切さを、改めて感じられました。ありがとうございました。」(『つながる読書』281ページ)

 閉じられています、と書いてしまいましたが、書き写しながら訂正しなければならないと思います。直接には『物語の役割』のプレゼンターである渡辺さんに宛てられたこの文章は、しかし、これを読む私にも向けられているわけですから、開かれています。渡辺さんは『物語の役割』を、それ以外の小川さんのいくつもの文章を引いて、〈物語の役割〉を10代に伝わる言葉で書いておられるのですが、安積さんは自分も『物語の役割』を読みながら、そのなかに登場する『アンネの日記』の自身の読書体験にも触れています。私も以前読んだ『物語の役割』や最近読んだ津村記久子さんの『水車小屋のネネ』(朝日新聞出版、2023年)のことを思い出しながら、お二人の言葉を受け止めていました。また、『つながる読書』に小川洋子が文章を寄せておられるわけではありませんが、小川さんも登場しているように錯覚して思わず読み返してしまったのも不思議なことです。

 小池さんは『つながる読書』の「おわりに」で次のように述べています。

「誰かが書いた一冊の本。それを読んだプレゼンターの方が、感想やそこから喚起された思いをご自身の言葉で語る。それを聞いた読書猿さんや私が、各々の感想を抱く。そうしてその二人のやりとりのなかで、さらなる言葉や思考が紡がれていく。

 私は、こうしたことこそ、本当のもの持つ豊かさだと思うんです。

 こうしたこと――つまり、同じ一冊の本から、さまざまな思いが、さまざまな言葉に載せられて、織りなされていくこと。一冊の本や、あるいはその紹介に触発され、考えたり思ったりすることは、人によってそれぞれ違い、多様であるということ。その多様な思いが、また交差し、絡み合い、新たな言葉を生み出していくということ。

 こうしたありようこそが、〈本の素晴らしさ〉そのものである、と。」(『つながる読書』293294ページ)

 小池さんの言う「〈本の素晴らしさ〉」を『つながる読書』という本そのものが体現していると思います。〈つながる〉ことは読者が「変化し続ける」ことでもあります。この本の「おわりに」の後に収められた詩人の草野理恵子さんの「特別寄稿・どこにも落ちているものはなーんだ?」から伝わってくるように、「変化し続ける」ことの〈素晴らしさ〉を教えてくれる本でもあります。

2024年3月9日土曜日

共同授業者としての本 〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸](★1)

「多様な本に溢れている」教室。ーーーリーディング・ワークショップでも、ライティング・ワークショップでも、事例を見ていると、多様な本が活用されていることをよく感じます。

 多様な本の活用において、「絵本等の中から書き手の足跡を学ぶこと」と「絵本等から外の世界を学ぶこと」という二つの方向があるように思えることにも、興味を感じています。

 前者、つまり絵本等の「中から」学ぶことは、絵本をメンター・テキストとして、作家が行った工夫や技を見つけるような学びです。メンター・テキストという言葉は、ここ15年ぐらい? 耳にする回数が増えました。「メンター・テキスト」という言葉を題名に含む本も、多く出版されています。「子どもたちにできるようになってほしい書き手ができる技や工夫」を念頭において、教師は選書をしていきます。

 他方、後者、つまり「絵本等から外の世界を学ぶこと」については、絵本の読み聞かせや対話的読み聞かせを通して、生徒たちが自分や社会について学び、世界を広げたり、その中で自分のできることを考えたりということに主眼があるように感じます。絵本は、教師一人では提供できない世界観を教室に持ち込む「共同授業者」(★2)という位置付けで捉えられることもあります。

 今日の投稿は、そういう世界観を広げるという点から、教室の図書コーナーや教師自身が読む本について考えます。

 2023年8月11日の投稿「選択という扉の向こう側にある世界〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]」で紹介したビショップ氏(Rudine Sims Bishop)の比喩をよく思い出しますが、どのような内容、テーマで、誰が」書いた本を選ぶのかが問われるように思います。氏は多文化児童文学の観点から、多数派ではない人たちが主人公になっている本の少なさ、また、本に登場しても、否定的なイメージで描かれたりすることに警鐘を鳴らしています。

 ビショップ氏は、本は世界を見せてくれる[窓]であり、読者が想像力を働かせて[ガラスの引き戸]を通り抜けて本の中に入るとその世界の一部になることができる。[窓]である本は光線のあたりかたによって、[鏡]にもなり、読者の人生や経験の一部を映し出してくれると、説明してくれました(★1)。今から30年以上も前の1990年のことです。

 [鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]は、30年以上時間が流れた現代でも、とても有効な枠組みだと思いますし、アメリカの図書館の司書や教師の指針にもなっているようです。

 図書館司書のフィリップス氏(Jaenie Phillips)は、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]に関連して、Great School Partnership という団体のブログに2022年8月に投稿(★3)し、この枠組みを実際にどのように、自分に応用したのかを記しています。

 この投稿によると、フィリップス氏は15年前に自分の読むものを、この枠組みを使って見直したそうです。白人である氏は自分が読んでいるものの大半は、自分の[鏡]となる本、つまり白人によって、白人について書かれている本だと気づきます。そこで、自分の読む本の少なくとも50%は、非白人の人によって書かれている本を読むという目標を設定します。この目標を毎年、達成していく中で、これまで読むことのなかった多くの素晴らしい作家の本を読むことになり、自分とは異なる人種の登場人物の立場で考えることで、自分も成長したと述べています。

 また、フィリップス氏は、2018年に出版された児童書を見ると、約27%が動物を主人公としていて、この数字は、白人でない登場人物の本を全て合わせた割合よりも高い数字であると指摘しています。つまり非白人の子どもたちにとっては、自分の人種的アイデンティティの[鏡]となる本が少なく、白人の子どもたちは、自分と異なる人種的アイデンティティを持つ人たちについて学ぶ機会が少ないまま過ごしていることになります。

  自分の[鏡]となる本が教室の中や、社会に溢れている場合、上記のフィリップス氏のように、最初は意識的に自分の読書生活を見つめて何らかの目標を設定しないと、狭い世界にとどまってしまう危険性があることは、自分自身を見ていて、よくわかります。

 リーディング・ワークショップや対話的読み聞かせが積極的に行われている教室の事例などから、アメリカの教室にいる様々な子どもたちの[鏡]になるような本を知ることができ、私もそれらを少しずつ読むようになってきました。しかし、例えば、アメリカ社会での移民の子どもたちや家族が主人公のストーリーを読む時、対岸の出来事として読んでいるところもあります。

 日本の教室や社会にある多様性ーーー例えば、日本在住の外国ルーツや難民の人たちが書いた、あるいは日本にいるLGBTQや障がいのある人が書いたお薦め本は?と言われても、さっと提示できません。読んだ本を思い出して、ようやく「そういえば」という感じです。私の場合、読んでいる絶対数が少ないことが大きいです。

 自分の成長に必要であるからこそ、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]という枠組みを通して、定期的に自分の読書生活を振り返っていかなくては、と思います。

*****

(★1)

以下の情報は、2023年8月11日の投稿でも紹介しましたが、下に記すURLでPDFが読めます。PDFの最後には次のように出典が記されています。

Source: By Rudine Sims Bishop, The Ohio State University. "Mirrors, Windows, and Sliding Glass Doors" originally appeared in Perspectives: Choosing and Using Books for the Classroom. Vo. 6, no. 3. Summer 1990. 

http://www.rif.org/us/literacy-resources/multicultural/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors.htm

また英語ですが、著者が語っている90秒ぐらいの動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=_AAu58SNSyc

(★2)

Layers of Learning: Using Read-Alouds to Connect Literacy and Caring Conversations (JoEllen McCarthy, Routledge 2020年)のなかで、「私たちの住んでいる世界について、考え、可能性を見出し、真実や時には厳しい現実を明らかにするのを助けてくれるような、「教師の共同授業者」(16ページ) と書かれています。

(★3)

https://www.greatschoolspartnership.org/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors-a-metaphor-for-reading-and-life/