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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-05-13

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・入門したてというか、まだ門前に立ってるくらいのとき、
 なにがなにやらまったくわからん状態になるのです。
 遠くで眺めてる通行人だったら、
 わからんこともわからんわけですからお気楽です。
 しかし、片足が門にさわったかなというくらいになると、
 頭のなかで道路工事がはじまっちゃうわけです。

 いまのぼくにとっての俳句がそうです。
 前々から書けない作れないとは言ってましたが、
 このところは、笑えないくらい書けないです。
 それでも毎日、一句二句と手帳に記してはいるのですがね。

 だいたい、ぼくのいままでの日常には季節なんかなかった。
 目の前の景色はざっくりとコンクリートの色で、
 感じるのは、空や雲、日差し、雨くらいのもので、
 出会う生きものは人間ばかりで、それはいろいろいる。
 季語をなにより大切にするのが俳句の世界だから、
 いまの時期の季語を歳時記で読んでみるのだけれど、
 そんなのここらへんにはアリません、と思ってしまう。
 ぱっと開いたページに、蘖(ひこばゆ)とか柳の芽とか、
 山椒の芽とか、楓(かへで)の芽とかあるけれど、
 そして、その作例も載っていてとてもいいのだけれど、
 ぼくは蘖を季語に選んで俳句は作れない。
 およそ、環境のなかにある植物で意識できているのは、
 梅と桜とセイタカアワダチソウとナガミヒナゲシと、
 というくらいで、その季語を大切に味わうこともできない。
 藤田湘子先生は、「自分の俳句を作る」ことを心がけなさい
 と、入門書のなかで強く教えてくれるのだけれど、
 ぼくの「自分の俳句」に、どう季語が入ってくるのか。
 いやいや文句を言ってるんじゃないですよ、門前の身で。
 いまのところ、自分でこれは好きかもしれないと思うのは、
  つばめの仔夜は眠るか母さんも
  亡き犬のシロツメクサの供えもの
 というあたりなんだけど、
 最初のは実際につばめの巣があって、親鳥は忙しいんだよ。 
 でも夜見に行くと、全体がまったく静かなのでした、と。
 もうひとつは、先日二代目の犬が6歳になったもので、
 そこで先代の犬のクローバーの草原を走る姿を思い出した。
 たぶん、なんかちょっとちがうんだろうなと思いますが、
 いま門の辺りだから作る句を、あえて残しておきます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
それでも、新人であることを望んでいられるのはいい気分だ。


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