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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-05-09

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・なにをどこまで、どれくらい知っていたら
 「なんでもわかっているような顔」ができるのか? 
 というようなことを考えたことがありますか? 
 「やり手」みたいにまわりから見られている人は、
 ほとんどのことを「知ってる」あるいは
 「知ってるんだろうな」というふうに思われていますが、
 それは、ほんとのところどうなんだろう、とも思うのです。

 ひとつの個性として「家電について詳しい」あるいは、
 「家電の専門家」というような人がいたとして、
 その人は、冷蔵庫について、テレビについて、
 掃除機について、洗濯機について、電子レンジについて、
 どれだけ使ったことがあるのでしょうか。
 おそらく、実際に買って一定の期間使ってみられるのは、
 せいぜいが1種類か2種類くらいだと思うんですよね。
 そうすると、「知ってる」ことというのは、
 メディアの情報や、それぞれの機器の販売員、
 あるいは詳しい仲間の感想やらを組み合わせて、
 「あれは、こういう特長があって」と言ってるのでしょう。
 芸人さんたちだったら、それを、
 お客さまをよろこばせるための芸として演じますし、
 ご近所の「家電に詳しい人」という役割の人でも、
 ひとつの娯楽として語っていたらいいわけです。

 ただ、家電だのアイドルに詳しい、だったらいいのですが、
 たいていの「やり手」や「事情通」の話は、
 もっと切実だったり深刻だったりもするものですから、
 ちょっとね、始末に困るようなこともあります。
 昔だったら「床屋政談」とか言われて、
 軽く扱われていたようなことなのでしょうが、
 いまはインターネットの時代っすからね。
 「俺の経済予測」みたいなことだとか、
 「真実の医療」だとか「世界を動かす陰の組織」だとかも、
 言い放題だし、散らかされ放題ですからね。

 近頃の耳からの「学び」は、「心」にではなく、
 そのまま「口から出す」ものになってるよね、と、
 紀元前の書物にあるのを知って、
 どひゃー、ネット関係なく、いまと同じなんですね。
 「そんなにたくさん知らなくていい」と覚えておきます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
学ぶのはおもしろい、でも、それは心のほうにつながりたい。


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