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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-03-19

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・仕事ということでともだちと対談する。
 それはそれで、とてもたのしいことだ。
 仕事という対談のかたちがあるからこそ、
 いつもなら話さないなということを話したりもするし、
 野暮になりそうなことも、あえて聞けたりもする。
 仕事としての対談があるおかげで、
 ひさしぶりの友人に会うことなんかもできる。
 じぶんのやってる仕事に、ありがたいなぁと思う。

 一方で、だれにも聞かれてない場所で、
 録音も撮影もされていない状況で、
 ともだちとあって時間を過ごすというのもたのしい。
 こういうとき、ぼくもともだちも、
 どっちもがたいていは「ことば足らず」のままだ。
 他の人にもわかってもらう必要も理由もないからだ。
 正直に言うと、ぼくは仕事の対談でも、
 わりと「ことば足らず」になることが多い。
 たがいの間に行き来しているコミュニケーションが、
 「必要かもしれない説明」を入れることで
 ブレーキがかかってしまうのがいやなときだ。
 でも、基本的には道に迷わないように、
 「ことばを足しながら」対談は進めるようにしている。
 だけど、だれに聞かせるわけでもないおしゃべりでは、
 「ことば足らず」も「言い過ぎ」も知ったことじゃない。
 なんだったら、黙っていたっていいのだ。
 いや、黙っているほうがたのしいときだってある。 
 こういうことは、仕事としての対談ではできないなぁ
 (いや、いつか仕事の対談でもやってみようかな)。

 考えてみたら、家族の間でも「ことば足らず」だらけだな。
 話の流れを詳しく説明することだとか、
 誤解を避けるようにていねいにことばを選ぶことだとかを、
 あんまりしっかりやりすぎたら、息苦しいように思うのだ。
 「なんでもよく話し合うことが大切」という正論があって、
 それはそうなんだろうなぁとは思うけれど、 
 それを実行しているという覚えはない。
 家庭内での会話をずっと録音したり、
 発表するかもしれないと思っていたら、どうなるのかな。
 もっとしゃべらなくなるか、けっこうつらそうだな…。
 だれも聞いてない場所というのは、なくてはならないな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
撮影や録音されることに慣れてしまったのも、職業病かもね。


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