(これまでの「はじめての中沢新一」連載はこちらです)




第1回 生きていてよかった

糸井 そもそも、
中沢新一というのは、
吉本さんから考えて、
どういう人ですか?
吉本 一種の珍品というか、
日本の知識人の中でも
変わった人だなぁというか。
僕なんかは、こういう人は、はじめて会ったな、
という気がしています。
この人をわかる人っていうのは、
そんなにいないんじゃないかな。

ぼくはつまり
『チベットのモーツアルト』
というのを、前にも読んだんですけど、
また、わりあい本気になって読みました。
『アースダイバー』も、読んでいます。

それでわかるのは、中沢さんは、
仏教で言うなら悟りの融通無碍というか……
一休とか、そういう人に
似ているんじゃないですかね。

「人類の精神の考古学というか、
 さかのぼったらどういうことかを、
 ちゃんとわかんなきゃしょうがない」
と考えたからこそ、
中沢さんは、チベットでえらい宗教家だと
言われている人のところに弟子入りしたりして
やってこられたんだろうな、と思います。
中沢 今、ぼくのうしろで
話してくださっているのは、
思想家の吉本隆明さんです。

ぼくは、吉本さんとは、
チベットから
帰ってきてすぐにお会いしました。
ぼくの知りあいの人が、
「チベット行ってきたんだったら、
 吉本さんは仏教に関心を持っているから、
 ぜひ行って話してきたらいい」
と言うので、いったんですね。

ぼくが修業の体験をお話すると、
吉本さんは

「ぼくは修業はしません。
 そういうことはしたくないけど、
 君のやりたいようなことは、
 別のやりかたで考えています」

最初に会ったときは、
「修業には関心ない」と言われて、
がちょーんという感じだったんですけど、
ぼくは吉本さんをすごく敬愛しています。

それからしばらくして、ぼくが
いろんなものを書くようになってからは、
吉本さんが、いろいろ書いてくださって、
「世の中のひとは、
 彼のことをわかっていない」
ということを、
何度も何度も書いてくださったんですね。

いろいろな意味で、
吉本さんには助けられたと思います。

ぼくがなんで
チベット行って勉強するようになったかというと、
吉本さんの書いていたものの中で、

「学問ってのは、
 ヨーロッパ人とかが
 作ったものをやるだけじゃなくて、
 アジア人の学問というやり方もあるし、
 日本人は日本人のやり方があるはずだ。
 で、日本人が、自分が生きてる世界の中で
 概念を作り上げて、それで、
 この世界の全世界のことを考えたっていいんだ」

ということを言っているんですね。

ぼくはアジアの学問のやり方の中で
いちばん古いのが知りたくて、
チベットへ出かけたようなところがあります。
それから、吉本さんとは、
何度も何度もおつきあいがありますが、
印象に残っているのが……
十年近くなりますかね、吉本さんが、
伊豆の海でおぼれられたりした後の話です。

ぼくもその前後から
バッシングなんかされてて、
ちょっとしょげてた時代でした。

吉本さんも
似たような理由で
バッシングされてたんですけど。
ある日、ぼくが秋葉原を歩いてたんです。

そしたら、交差点の向こう側から、
杖をついた吉本さんが歩いてくるんです。
ひとりで。

あ! 吉本さんだ!

「吉本さん!」

そう言ったら、
「無事でよかった! 生きていた」
とおっしゃるんですね。

ぼくも
「生きていてよかった、
 無事でよかった」
って、手をにぎりあって、
で、うれしくて、
ふたりで、ずっと話しこんでいたんです。

そしたら
そのうち信号がかわっちゃいまして、
交差点の両わきで、車が停止してるわけですね、
交差点の中で語りあうぼくらが
もしかしたら、よほど神々しく見えたのか(笑)
誰も、クラクションを鳴らさないんですね。

そのうちぼくも気がついて、
「吉本さんまずいよ」と、
交差点の向こうへ走ってったりして。
そういうことがありました。

吉本さんは、
「アフリカ的段階」
という概念を出したんです。
この概念はとても重要だと思います。

これからぼくがお話する
アースダイバーとか、カイエソバージュとか、
芸術性人類学なんかもそうですけども、
吉本さんのアフリカ的概念とは
すごい深い関係があると思います。
そんな話も、またいずれ、していきたいと思います。

(明日につづきます)

2005-12-20-TUE