Date: 4月 16th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その8)

耳の記憶の集積こそが、音楽に対する「想像と解釈」に深くつながっていく。

Date: 4月 15th, 2024
Cate: 再生音

再生音に存在しないもの(その4)

再生音に存在しないものについて考えるのは、
再生音に必要なものについて考えることでもある。

Date: 4月 15th, 2024
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その16)

フルトヴェングラーの「音楽ノート」のなかにある。
     *
肝要なことは、精神の豊かさでもなければ、深い感情でもない。ひとえに正しいもの、真実なものである(私は六十にしてこのことを記す)。
     *
音も、まさしくそうである。

Date: 4月 15th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その12)

5月26日(日曜日)開催の野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会、
その二回目の前売り券は完売とのこと。

10日からの申し込みだったから、五日ほどで完売。
昨年よりも早いペースのはず。

Date: 4月 14th, 2024
Cate: 終のスピーカー

エラック 4PI PLUS.2のこと(その9)

アポジーのDuetta Signatureに、
エラックの4PI PLUS.2を追加したことの静かな昂奮はいまも残っていて、
あれこれ妄想している。

瀬川先生の砧のリスニングルームが、
FM fanに掲載されたカラー写真では、KEFのLS5/1Aの上にパイオニアのPT-R7があった。

ただ置かれていただけなのか、試されているところだったのか、
本気に導入されようとされていたのか、
そのへんのことははっきりとしないが、とにかくPT-R7がLS5/1Aの上にあった。

いまだったら、エラックだっただろうな、とおもっている。

Date: 4月 14th, 2024
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その18)

アポジーのDuetta Signatureで、“THE DIALOGUE”はうまく鳴ったのか。

喫茶茶会記で、アルテックのユニットを中心としたシステムでは、
少しばかり恐怖を感じるくらいの音量で鳴らしていた。

Duetta Signatureでは、そんな音量は無理であろう。
もしかしたら、かなり近いところまで音量を上げられるのかもしれないし、
当日鳴らした音量よりも、もう少し上げられたという手応えはあったが、
なにしろDuetta SignatureはHくんの私物だから、
そこまでの無理(冒険)はできない。

喫茶茶会記でも、最初から、というわけではなかった。
毎回鳴らすごとに音量を上げていく、という鳴らし方をしていた。

とはいえ、当日のDuetta Signatureは、“THE DIALOGUE”を見事に鳴らしていた。
ここまで鳴ってくれるのか、と感心するくらいに、である。

“THE DIALOGUE”がうまく鳴った時の躍動感からすれば、
ややスタティックに感じはするものの、だからといって、躍動的でないわけではない。
充分に躍動感が伝わってくる。

ベースの質感もいいし、ドラムスを構成するそれぞれのパーカッションの質感も、
多彩で、聴いていて気持いいほどだ。

“THE DIALOGUE”はCD層の再生だ。
SACDではあったけれど、
アキュフェーズのDP100とメリディアンの818 v3の組合せでは、
SACDの再生はできないからだ。

SACD(もしくはDSD)再生だったら──、
喫茶茶会記のアルテックのシステムで聴いた印象では、
CD層に比べてSACD層での再生は、低音が半オクターヴほど下にのびる印象があるからだ。

Date: 4月 13th, 2024
Cate: 録音

80年の隔たり(その9)

ここで取り上げている1929年録音のティボーとコルトーによるフランクのヴァイオリン・ソナタ、
この録音(演奏)を聴いたのは、ハタチのころだったから、1983年ごろである。

なので、その時点で、五十四年経っていることになる。
1929年には、まだテープレコーダーはなかった。
ディスク録音であるし、モノーラル録音でもあるし、器材はすべて真空管による。

初めてきいたとき、やはり古い録音と感じた。
それから四十年ちょっとが経ち、思うのは五十年前の録音の違いである。

いまから五十年前となると、1974年ごろである。
このころの録音は優れたものがあった。

先日のaudio wednesdayでもかけたコリン・デイヴィスの「春の祭典」も、
いまから五十年弱前の録音なのだが、
当時、優秀録音といわれただけあって、特に録音が古いな、と感じなかった。

もちろん最新録音とは違う点は多々ある。
それでも、1983年ごろに五十年ほど前の録音を聴くのと、
いまの時代、五十年ほど前の録音を聴くのとでは、かなりの違いがあることを、
そんなあたりまえなことを最近、たびたび感じている。

それだけ齢を重ねてきただけなのだが、それだけではないようにも感じているが、
そのことをはっきりと認識できているわけでもない。

Date: 4月 12th, 2024
Cate: ショウ雑感

2024年ショウ雑感(その1)

今年のOTOTENの詳細が先日発表になった。

出展予定企業・団体が、そこで公開されているが、
4月10日現在で、ジャーマン・フィジックスの輸入元のタクトシュトックがない。

あくまでも4月10日現在での、ということなのだから、
後日、ここにタクトシュトックの名が加わるのかもしれないが、
そうならない可能性だってある。

開催まで、約二ヵ月。
どうなるのだろうか。

Date: 4月 11th, 2024
Cate: 所有と存在

所有と存在(その21)

何度でも、そしてしつこいぐらいに書いておく、
音も音楽も所有できない。

所有できるのはオーディオ機器であったり、LPやCDである。
どんな名器、名盤を数多く所有していたとしても、
だからといって音、音楽を所有していることにはならない。

いや、所有できる──、
そういえる人がいてもいい、私と考えが違うというだけのことだ。

音も音楽も所有できない
けれど、音も音楽も存在している、と考えている。

音も音楽も鳴った次の瞬間、消え去っていくのに、
存在しているといえるのか。

どこに存在しているのかといえば、私の裡
やはり(そして、やっと)「音は人なり」だと改めて実感できる。

Date: 4月 10th, 2024
Cate: きく

野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会(その11)

昨年の5月28日に開催された野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会、
その二回目の詳細が発表になり、申し込みが始まっている。

一回目同様、 Peatixでチケットを申し込める

今回のレコード当番(選曲者)は三名。
音楽評論家の湯浅 学氏、整体指導者の野口晴胤氏、それに私である。

詳細はPeatixのページをご覧いただきたいが、
湯浅氏が1960年代から70年代のブラックミュージック、
野口氏がオールジャンル、
私はクラシック、それもドイツ音楽のみに絞ってみようと考えている。

今回鳴らすのは、
野口晴哉氏のリスニングルームの壁に組み込まれているシーメンスのオイロダイン。
オイロダインは、つねに私にとって特別なスピーカーである。

終のスピーカーのひとつとして、手元で鳴らしたいスピーカーでもある。
とはいっても、オイロダインを平面バッフルに取りつけて鳴らせるだけの十分な空間を、
オイロダインのために用意できないのであれば──、というおもいもある。

それでもいいのかもしれない、とも思い始めている。
こうやってオイロダインを鳴らすことができる日が、もうじきやってくるのだから。

三年前に、こんなことを書いている。

シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。

これを書いた時点では、今回のことが訪れようとはまったく想像できなかった。
とにかく、ドイツの音、ドイツの響き(私の裡にある偏ったものであることは承知している)を、
聴いていただければ、とおもっている。

Date: 4月 9th, 2024
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ

同軸型ユニットの選択(その31)

ここでは、
アルテックの604-8Gを中心としたワイドレンジシステムの構築について書いている。
ウーファーについて書いている。

トゥイーターは、というと、エラックの4PI PLUS.2で決りだな、と、
4月3日のaudio wednesdayの音を思い出しながら、いま書いている。

4PI PLUS.2が終のスピーカーとしてやって来る前から、
604-8Gには4PI PLUS.2が合う、という確信めいたものはあった。

一般的にいわれている(おもわれている)ような604-8Gの音を、私は求めていない。
それだからこそ4PI PLUS.2だ、と目星はつけていた。

同じ同軸型ユニットでも、タンノイよりもアルテックにつけて鳴らしてみたい。
いままでは604-8Gをなんらかのエンクロージュアにおさめて、
その上に4PI PLUS.2を置くことを想像していたけれど、
604-8Gを平面バッフルに取りつけるというのが、大きくなってきている。

今回の会のような置き方でもいけるという手応えが、そうさせている。

それにエンクロージュアの上に4PI PLUS.2というかっこうは、
604-8Gのスタイルとうまく一致しないような気もしている。
単に見た目の問題だけなのだが、604-8Gの精悍な正面をみながら、
その上にきのこスタイルの4PI PLUS.2だと、ちぐはぐでしかない。

サランネットをつければ604-8Gは見えなくなるのだから、
それでいいじゃないか、といわれそうだが、サランネットをつければ、
それですべて解決するようなことだろうか。

サランネットで隠れていようと、
サランネット越しに604-8Gが見えている。
そのくらい焼きついているのだから、サランネットはもう関係なくなる。

Date: 4月 9th, 2024
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その20)

 ひとは誤った見解を得るために戦い、論争しているようなものだ。そして世界は、その間じっと沈黙していて、これらの見解に一瞥すらあたえない。言い換えれば、ひとは戦いの身がまえに執着してはならない。あらゆる論争はとどのつまり非生産的であり、また非生産的にする。
     *
「フルトヴェングラー 音楽ノート」に、そう書いてある。
フルトヴェングラーの時代に、もちろんソーシャルメディアはなかった、
インターネットもなかった。

フルトヴェングラーは、いまの時代を、どう見るのだろうか──、
と問う必要はないだろう。

Date: 4月 8th, 2024
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その17)

その1)は、2017年5月に書いている。
この時点で、ほぼ三十年ぶりの“THE DIALOGUE”だったわけで、
それから七年経って、4月3日のaudio wednesdayでひさしぶりにかけた。

喫茶茶会記ではほぼ毎回鳴らしていたけれど、
“THE DIALOGUE”はヘッドフォンで聴いても、そのおもしろさは十全には味わえない。
やはりスピーカーで聴いてこそなのだが、
この「スピーカーで聴いてこそ」も、十分な音量が鳴らせて、という条件がついてくる。

喫茶茶会記でのaudio wednesdayが終ってから、一度も“THE DIALOGUE”をスピーカーでは聴いていない。
“THE DIALOGUE”をひさしぶりに聴きたい──、というよりも鳴らしたいという欲求が高まってくる。

とはいえ、いまの私の環境では“THE DIALOGUE”を満足できる音量では鳴らせない。

1月の会では、スピーカーがメリディアンのDSP3200で、TIDALのみで鳴らした。
残念なことにTIDALに、いまのところ“THE DIALOGUE”はない。

2月、3月はサウンドラボのコンデンサー型スピーカー。
SACDを持っていきはしたが鳴らさなかった。
鳴らそうとは思わなかったからだ。

4月はアポジー。
ここでも鳴らすつもりはなかったし、
そういえば、と思い出したのは、ステレオサウンドの試聴室でも、
アポジーで“THE DIALOGUE”を聴いたことはなかった。

私もアポジーで、“THE DIALOGUE”を聴きたいとは、その時はまったく思わなかったなのに、
今回は“THE DIALOGUE”をかけた。

けっこううまく鳴ってくれるという予感があったからだ。

Date: 4月 7th, 2024
Cate: ディスク/ブック

マーラーの交響曲第一番(一楽章のみ・その2)

4月3日にかけた音楽で、どの曲がいちばん心に響いたかは、
人によって違って当然である。

この日、アバドとシカゴ交響楽団によるマーラーの交響曲第一番をかけた。
1981年の録音。

私が、このマーラーの一番を聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室だったことは、
その1)で書いている。

試聴では冒頭の三分くらいを聴く。
だから、音量の設定は低くない。

けれど4月3日は、一楽章を最後まで鳴らすつもりだったので、
鳴り始めた音を聴いて、あれっ、音量が低め、と思われただろう。

アバド/シカゴ交響楽団による第一番の第一楽章を最後まで聴いている人ならば、
クライマックスでどれほど音量が増すのかはわかっているはずだ。

このくらいの音量でも、後半はかなりの音量となる。
といってクライマックスで音量をあわせてしまうと、出だしはかなり小さくなってしまう。

当日の音量ぐらいがぴったりだと思っている。
それゆえに出だしのピーンとはりつめた弦の音は、よりいっそう緊張感を増していた。

マーラーの一番の一楽章を聴いて、何をおもい浮べるか。
私はヨーロッパの森、それも夜明け少し前の風景が浮ぶ。

その朝の空気がどんな感じなのか。
カラカラに乾いた空気なのか、澱んでいるのか、
曇っているのか、晴れているのか、雨なのか、
その森は人里離れたところに位置するのか、まわりに人がいるのかいないのか、
気温はどうなのか、暖かいのか、すこしひんやりしているのか、などなど。

そんなことが再生する装置によっても、鳴らし方によっても、違ってくる。
どれが正解なのかは、人それぞれなのかもしれない。

アバド/シカゴ交響楽団による演奏(録音)をどれだけ聴いてきたか、
どんな音で聴いてきたかによっても影響を受け、違うことだろう。