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協力と責任の進化―社会論1.0への回帰 山形浩生

第1回 あらためて自己責任について

 これから書くことは、昔何度か書いたことだし、多くの人には繰り返しに見えるだろう。というか、繰り返しなのだ。また、それほどすごいことを書く気もない。ごく常識的なことだ。それがなんで常識として通用しない連中がやたらにいて、しかもそいつらが学者ヅラしてたりするのかというのは、そのうち考えてみるかもしれないけれど、とりあえずは置いておこう。

 それはこういうことだ。あらゆる組織、集団、社会というのは、個人が何らかのリソース――金、モノ、知恵、労働力――を出し合うことで、一人でできる以上のことを実現するための手段なのだ。

 当然の話だ。そして個人が何かのリソースを提供するということは、その分その人の自由が制限されるということだ。拠出する分のリソースは自分では使えなくなる。わざわざそんなことをするからには、出した以上のものが返ってくるという期待があるはずだ。そして、協力によって部分の和よりも大きなものが実現できる以上、出した以上のものが返ってくるという期待は(もちろんその協力の中身次第ではあるけれど)、決してないものねだりじゃない。ただしその一方で、いかに見事な協力が実現したからといって、無限の生産能力なんかできるわけもない。出した分よりあまりに多くの分け前を取ろうとするやつは、当然いやな顔をされて、ひどければその組織集団から排除されることになるんだけれど、それ以前の問題として、その組織の生産力や蓄え以上のものを要求されたって、ない袖はふれない。みんながそんなことを始めたら、そもそもその組織や集団はなりたたなくなる。
 それに対して「ナントカ説に基づけば国は〜〜すべきである」とか「歴史的なナンタラ派の立場に立てば社会は〜〜しなければならない」とか「企業の理念とは本来〜〜であり」というような、べき論の能書きをたれて、その組織集団は構成員たちにもっと還元すべしと主張してみてもいいだろう。でも、それが大した意味を持たないことはわかるはずだ。ない袖はふれないんだもん。こうした原理や原則というのは、ぼくたちが集団に何を拠出するかという話、そして集団行動による利益をどう分配するかという方針にかかわることだから、まったく無意味ではない。でも、それはどうがんばってもその集団の生産力や物理的能力という枠内でのやりくりの話でしかない。
 そしてそこから、もし自分の所属する何らかの集団組織が多少なりとも有効に機能しているなら、もしその集団組織がないよりはあったほうがいいものだと評価しているなら、それに対してあんまり図々しい要求はしないほうがいい。図々しい要求が野放図に広まると(そしてそれが認められたりするようになると)、せっかく集団や組織を形成してできた利益が減って、その他多くの人の取り分が減り、結果としてわざわざ組織や集団を作る意味がなくなる。集団や組織がよいものであるなら、それを守るためにも組織に不当に多くを要求することはできない。給料増やせとか、マンションの管理費下げろとか、学校をよくしろ、渋滞なくせ、医療を無料で提供しろ、等々、要求したいことはいろいろあるけれど、現実に自分が拠出しているものと、社会の生産力とを見た上で、どのへんが妥当な線なのかを考えて要求しなきゃいけない。
 ぼくがこういうことを言い始めたのは、イラクの爆撃に乗じた功名ねらいの三人組が誘拐されて、なんだかよくわからないプロセスで解放された後の自己責任さわぎのときだった。当時の行政は、渡航するなという勧告を出していて、それを無視してでかけていった人々に対して、そこまで面倒見きれないよ、自己責任でやってくれ、と言った。これに対して市民派の人たちはえらく反発したんだけれど、ぼくはこれは当然の物言いだと思う。組織(この場合は国)にできることには当然限界がある。行くなと言っていたのにのこのこ出かけていった人の尻ぬぐいまですべきか? ぼくはしなくていいと思う。まああのケースをどっちに入れるかについては、人によって(なぜか)議論がわかれるようだし、例外的なケースとして面倒見るという考え方もあるだろう(国は実際にそうしたわけだし)。でも、ああいう人が増えたら? 山で遭難した人の救助は、一部の自治体では無料だし、一部の自治体では実費が請求される。その線引きは、自治体(=その組織や集団)によってちがってはいるけれど、でも数が増えたらとても負担しきれなくなる。特に登山なんかの場合、その組織集団にまったく所属していない人が、その組織のリソースを頼ってくる。その組織集団が豊かなら、まあ負担できるよ。自治体なら、自治体同士でお互い様ということもある。そっちの町の人がうちの山で遭難したら助けてあげるけれど、こっちの町の人がそっちの海で遭難したときにはよろしくね、ということもあるだろう。でも、バランスの悪いところは当然出る。あまりひどいようだと、そもそも山登り禁止とか、いろいろ面倒な規制もせざるを得なくなるだろう。
 それに対して、いや市民救助や邦人保護は国やコミュニティとしての大前提であり云々、なんていう原則論をふりかざしたってしょうがない。原則論ではヘリコプターは飛ばないんだから。それを要求するということは、各個人がコミュニティに対する拠出を増やして(税金や自治会費やボランティアとしての労働力供出増加を通じて)、ヘリコプターを飛ばせるだけのものを負担しろ、あるいはそれを要求しているのが当の組織の一員であるなら、その人物がそれを喜んで負担します、と言っているに等しい。そうじゃなきゃ話の筋が通らないはずなのだ。そしてそれを負担したくないというなら――増税で文句を言うなら――そういう要求はやめなきゃいけない。組織とは関係ないところで、自分で処理しなきゃいけない。自己責任ってのはそういう話だし、それは(どこに線を引くかは議論できても)それ自体としてはまったく否定しようのない話であるはずなのだ。
(つづく)

著者プロフィール
山形浩生(やまがた・ひろお)
1964年東京生まれ。東京大学大学院工学系研究科都市工学科およびマサチューセッツ工科大学大学院修士課程修了。大手シンクタンクに開発コンサルタントとして勤務。同時に、経済、文化、コンピュータなど、幅広い分野で評論、執筆、翻訳活動を行っている。

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