せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

間もなく花の季節・姫路城を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路を歩いてみたいと思います。

姫路城を見上げて

姫路市立美術館の裏手は姫路城天守閣のちょうど東側にあたります。石垣の向こうには天守閣がそびえているのが見えました。

姫路城喜斎門跡

石垣の合間にあったのは喜斎門跡です。喜斎門は姫路城の搦手門ですが、今は石垣しか残されていません。この門の傍には馬で登城した藩士が馬をつないでおく「駒寄」と呼ばれる支柱があり、こちらの石垣の修理工事の際に支柱を立てた穴の跡が発見されました。同様の駒寄は大手門にもあったとされています。

現在の姫路城は安土桃山時代の終わりから江戸時代の初めにかけて、当時の城主の池田輝政が整備したものです。もともとこの場所には天然の山の姫山があり、城は山の地形を利用して作られた「平山城」です。大手前側から眺めると平野に城がそびえているように見えますが、城の東西に回り込んでみると急な地形が残されていて「山」を感じることができます。城の搦手、つまり、裏口にあたる喜斎門からは急な地形を生かしてあえて歩きにくい道を設けることで敵の侵入を防いだとされています。

姫路城と石垣

喜斎門跡の奥には天守閣の石垣がそびえていました。姫路城といえば大手前から眺めた姿のイメージが強いのですが、こちらの喜斎門跡から眺めた真横の姿も最近は「映える」として注目を集めています。

三の丸広場

搦手から三の丸広場へ出て姫路城の天守閣を眺めてみました。

姫路城の桜

三の丸広場では桜のつぼみが膨らみかけていました。訪問時は見ごろまでまだ時間がかかりそうでしたが、ちょうど今頃は満開になってるそうです。

この春は桜の海に包まれた姫路城だけでなく、城がたどってきた歴史を訪ねてみながら、お花見を楽しんでみてはいかがでしょうか。

間もなく花の季節・姫路城を歩いて(前編)

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桜の便りも届くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城ループバス

山陽姫路駅前から姫路城ループバスで着いたのは姫路城の東側です。ループバスは長らくボンネットバスでしたが、2月から新たに登場した電気バスで運行されています。

姫路市立美術館

バス停の前にあるのが姫路市立美術館です。
姫路城をバックにそびえる重厚なレンガ造りの建物は迫力がありますね。

現在、姫路市立美術館として使われている建物はもともとは旧日本陸軍の姫路陸軍兵器支廠の西倉庫として明治38(1905)年に建てられたものです。現在は多くが公園や緑地となっている姫路城ですが、かつては陸軍の諸施設が置かれていました。明治維新直後、一度国有化された姫路城は競売によって民間に売却されます。のちに再度国有化された後は兵部省(のちに陸軍省)の所管となって城内やその周辺は練兵場や軍の施設が建ち並ぶようになります。もともと城郭は軍事施設なので、時代が変わっても同じような役割を果たしていると考えると興味深いですね。

市立美術館を眺める

庭園から美術館の建物を眺めてみました。姫路城の軍事施設は後に移転などで姫路を離れ、最終的には昭和20(1945)年の姫路大空襲で多くが焼失してしまいますがこちらの倉庫は残されて、戦後は姫路市役所の庁舎として使われていました。現在のように美術館になったのは昭和58(1983)年のことです。

内堀と市立美術館

姫路市立美術館の裏手は姫路城の内堀で、天守閣も間近です。

次回は花の季節を待つ姫路城を歩いてみたいと思います。

南畝丘と皿屋敷の伝説・姫路を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて姫路を歩いてみたいと思います。

モノレール跡

十二所神社を後にして、姫路の市街を歩くことにしました。飾磨駅から北上してきた山陽電車の高架橋が山陽姫路駅へ向かってカーブを描くあたりに、巨大な橋脚が佇んでいます。こちらは昭和41(1966)年に開業した姫路市営モノレールの橋脚の跡です。姫路駅と手柄山の間を結んでいましたが、利用が伸び悩み、わずか8年で休止となってそのまま廃止されてしまいました。

街中に残る橋脚

市街にはモノレールの橋脚をいくつも見ることができます。再開発などでモノレールの廃線跡の橋脚は徐々に撤去が進んでいますが、今も市街地では一部の橋脚が残されています。

大将軍駅跡

橋脚沿いに歩いていくと、弧を描くような形の空き地がありました。こちらは姫路市営モノレールの大将軍駅の跡です。大将軍駅はマンションの中をモノレールが通り、3階と4階に駅が設けられているといなんとも未来的な構造の駅でした。モノレールの廃止後も長らく残されていましたが、平成28(2016)年に解体されてしまいました。跡地は再開発される予定でしたが、地中に残された杭の撤去が困難なため、今も空き地で残されています。

大将軍神社

ところで、大将軍駅「大将軍」は城下町に由来するようにも思える不思議な名前ですね。駅名の由来となったのが船場川沿いにあるこちらの神社、大将軍神社です。

大将軍神社は今では新幹線や姫新線の高架橋に囲まれてひっそりとたたずむ神社ですが、前回訪ねた十二所神社の御旅所とされています。元々の十二所神社はこの地にあったとされていて、この辺りの地名は「南畝町」、十二本のヨモギが生えたという伝説のある南畝丘があった場所とも言われています。現在では市街化や鉄道の建設などで地形も変わってしまい、丘の痕跡すらわからなくなってしまいました。今では地名に名残を感じるのみです。

姫路城を眺めて

大将軍神社から姫新線の高架沿いに歩いて姫路駅前へ戻ってきました。大手前の向こうには姫路の象徴・姫路城が城壁を輝かせています。

姫路は間もなく花の季節。お城の桜とともに、伝説に彩られた市街を歩いてみてはいかがでしょうか。

南畝丘と皿屋敷の伝説・姫路を歩いて(前編)

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そろそろ桜の季節と思ったら急に冷え込みが戻ってきた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽姫路駅へ

山陽電車の直通特急に乗って着いたのは山陽姫路駅です。

十二所前線

姫路駅前から山陽姫路駅や山陽百貨店の少し北側の道を歩いてみることにしました。こちらの道路は十二所前線で、さらに北側を通る国道2号線が姫路市街で東行き一方通行に規制されていて、西行き一方通行のこちらは国道の西行き車線としての機能を担っているため、交通量が多く賑やかな道です。

十二所神社

十二所前線の「十二所」の由来となるのがこの道路沿いに鎮座する十二所神社です。

十二所神社の歴史は非常に古く、はるか平安時代に遡るといわれています。延長6(928)年、村人が疫病で苦しんでいた時にこの地にあった南畝丘という丘に一夜にして十二本のヨモギが生え、そのヨモギで体をさすれば病が癒えるとの神託がありました。のちに村人たちがヨモギの生えた南畝丘に社を建立したのがこの神社の始まりとされています。江戸時代に南畝丘から今の場所へ神社は遷されますが、今も医薬の神とされる少彦名神が祀られています。また、社殿に掲げられている幕に描かれた紋章も創建の伝説に因んだヨモギの葉ですね。

お菊神社

十二所神社の境内にはもう一つ社殿が佇んでいます。こちらはお菊神社です。「お菊」とは播州皿屋敷の伝説の女性です。室町時代後期の永正年間にここ姫路城下であった横領未遂事件にちなみ、井戸に投げ込まれた女性を祀る神社として創建されたとされています。

烈女碑

境内にはお菊にちなんだ「烈女」と刻まれた石碑がありました。

お菊神社の創建に関する記録は太平洋戦争中の姫路空襲で社殿とともに焼けてしまったそうで、詳しいことは分かっていません。また、江戸の番町皿屋敷のように同様の話が各地に伝わっているため、ここ姫路の伝説もあくまで伝説なのかもしれませんが、のちの時代にお菊は罪を着せられ、井戸に投げ込まれて幽霊になっても主君に報いようとしたとして、深く信仰されるようになったといわれています。

間もなく桜の季節だというのに姫路は雪がちらつきはじめました。
静かに春を待つ姫路の街をもう少し歩いてみたいと思います。

春を待つ明石港を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石を歩いてみたいと思います。

材木町の街並み

入り江状になった明石港の西側を歩いてみることにしました。この辺りの地名は材木町です。明石城の築城の際に港に近いこの辺りに材木商が集められたことが由来だそうです。

現在のような明石の街が整備されたのは江戸時代の初めの元和3(1617)年に明石藩が設置されてからのことです。初代藩主となった小笠原忠政(忠真)は当初は西新町駅近くの船上城に入城しましたが、当時の将軍・徳川秀忠の命で現在の位置に明石城を築城し、城下町の整備を始めました。当時の城下町は東側に町人や職人の町、中央部には商人の町、そして、西部には廻船問屋や船大工の集まる港湾関係者の街に大きく分けられていました。この時、中央部に設けられた商人町では明石で水揚げされる海産物や加工品が取引されて大変にぎわった町となり、後に前回訪ねた魚の棚商店街へと発展していくことになります。

岩屋神社

材木町の一角に大きな神社がありました。こちらは岩屋神社です。

岩屋神社の境内

岩屋神社ははるか神代の成務天皇13年(143)年に対岸の淡路島の岩屋から遷ったのが始まりと言われ、非常に長い歴史をもっています。そのせいか、境内もどこか趣のある雰囲気ですね。淡路島から遷ったという伝説に因んで、毎年7月には海に船を出す「おしゃたか舟神事」が執り行われています。古くから港湾関係者の多いこの辺りの地区では航海の安全を願う神社として古くから信仰されていたようですね。

旧波門崎燈籠堂

住宅地を通り抜けて港の先端に着きました。岬のように飛び出した護岸には石造りの灯台が佇んでいます。こちらは旧波門崎燈籠堂で、江戸時代に作られた灯台です。現在に残る燈籠堂は江戸時代の初め頃に設けられたもので、以来、明石港を出入りする船の目印としての役割を果たしてきました。戦後の昭和38(1963)年に新しい灯台が建設され、この燈籠堂は役目を終えましたが、今もこの地で明石港を見守っています。

明石港を眺めて

燈籠堂から明石港を眺めてみました。ビルに囲まれた港を、ちょうど淡路島へ向かう高速船が出港していきます。明石は間もなく春本番を迎えます。明石海峡で水揚げされた様々な海産物で魚の棚が賑やかになるまでもうすぐですね。

淡路島への船が大橋をくぐって見えなくなるまで見送ってから、明石港を後にすることにしました。

春を待つ明石港を歩いて(前編)

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桜のつぼみも膨らみ、春本番が間近の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

魚の棚

山陽電車で着いたのは山陽明石駅
駅の浜側には明石の台所「魚の棚」の商店街が続いています。大漁旗が並ぶアーケードの下の店では明石の海で獲れた海産物を扱う店が軒を連ねていました。

魚の棚の西側

魚の棚商店街を通り抜けて西側に出ると、南北の道と交差しました。道は緩やかにカーブを描いています。こちらは山陽電車の前身の兵庫電気軌道の線路跡です。

山陽電車の前身の兵庫電気軌道が開業したのは明治時代の終わりの明治43(1910)年のことです。当初は兵庫から須磨までの間の路線でしたが、順次西へ西へと延伸し、大正6(1917)年4月12日に明石へと到達しました。当時の路線は現在の山陽電車の本線から浜側の国道2号線沿いに敷設されていて、山陽明石駅前の明石駅前交差点付近に「明石駅前駅」、そして、国道から海に向かって曲がったこの辺りに「明石駅」が開設されました。

明石港

南北の道を歩くとジェノバラインの明石港にたどり着きました。

当時の明石駅が担っていた重要な役割が淡路島方面への航路との接続で、ここ明石港からは播淡聯絡汽船の航路が淡路島の岩屋へと出ていました。運営会社は変わりましたが、今もここ明石港からは岩屋へと高速船の航路が出ていて、明石海峡架橋後も日常の足として利用されています。一方、淡路島との連絡の役割を担っていたかつての明石駅はというと、神戸~姫路間の直通運転の開始に伴なう明石駅前の線路が付け替えのために昭和6(1931)年に廃止されてしまいました。今では道路の形状にかすかに線路の名残を感じるのみです。

明石港と淡路島を眺める

明石港から淡路島を眺めてみました。なだらかな丘陵が広がる本土側とは違い、対岸の淡路島側は険しい山々が連なっています。

海の幸に恵まれた明石港、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

梅の咲く須磨を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨寺界隈を歩いてみたいと思います。

綱敷天満宮

須磨寺駅から浜側へ向かって住宅地の中を歩くと、綱敷天満宮がありました。

綱敷天満宮の境内

綱敷天満宮の境内は多くの参拝客でにぎわっています。

綱敷天満宮は平安時代、左遷された菅原道真が九州・大宰府へ向かう途中にこの地に立ち寄ったことに由来して建立された神社です。少し不思議な神社の名前は須磨の漁民が綱を丸く置いて作った円座に道真が座ったという伝説にちなんでいます。なお、「綱敷」という名前の神社は各地にあり、それぞれにここ須磨と同様の伝説が残されています。こちらの須磨の綱敷天満宮が神社の姿になったのは天神への信仰と道真が結びついた天神信仰の広まった平安時代とされていて、天元2(979)年の建立とも伝わっています。

綱の円座

境内には伝説にちなんで綱でできた円座のモニュメントがありました。ちなみに、ここ須磨で道真が休憩した際に井戸水を汲んで飲ませた人物は後に前回訪ねた「頼政薬師」浄福寺を建立した前田氏の祖先といわれています。また、道真が水を飲んだ井戸は「菅ノ井」と呼ばれ、今も須磨寺駅と月見山駅の間に残されています。

梅林

綱敷天満宮の境内では甘い香りが漂ってきます。香りの元は境内に広がる梅林で、訪れたときはちょうど梅の花が見ごろでした。

梅林の梅

境内をかわいらしい梅の花が彩っています。こちらの梅林には様々な種類の梅が植えられていて、それぞれの花や香りを楽しむことができました。

梅林を眺めて

青空に向かって咲き誇る梅の花を見上げてみました。甘い香りに包まれるような梅林は多くの参拝客でにぎわっています。

しばらく梅林の中で花を楽しみ、源頼政や菅原道真の伝説に彩られた須磨の地を後にすることにしました。

梅の咲く須磨を歩いて(前編)

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寒さの中に春の気配を感じる頃、いかがおすごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

須磨寺駅

山陽電車で着いたのは須磨寺駅です。

須磨寺への道

須磨寺駅の山側には商店街が続いています。正面の山の麓には駅名にもなっている須磨寺がありますが、今回は反対側の浜側へ歩いてみることにしました。

頼政薬師

早速浜側へと歩きたいところですが、駅のすぐそばで細い踏切を渡ってみることにしました。踏切の先にあったのは住宅の中に佇む小さな寺院です。こちらは浄福寺といい、「頼政薬師」とも呼ばれています。

浄福寺は西須磨の前田氏という旧家の建立と伝わる古刹です。「頼政薬師」という別名は荒廃していた寺院を平安時代の末の久寿元(1154)年頃に源頼政が再建したことにちなんでいるとのこと。ご本尊の薬師如来像は聖徳太子の作、脇士の十二神将は江戸時代に尼崎藩主の青山氏から寄進されたものと伝わっています。

頼政薬師の境内

長い歴史のある寺院ですが、現在の本堂は阪神淡路大震災で倒壊した本堂を再建したもので真新しい見た目です。ちなみに、明治時代にはこの場所に一ノ谷小学が開設され、のちに現在の西須磨小学校になったそうです。境内にはそのことを記した石碑が建てられていました。

薬師踏切

頼政薬師の前には山陽電車の踏切があります。ちょうど直通特急が住宅の合間をレールを軋ませながらせながら通過していきました。

春本番を待つ須磨の街をもう少し歩いてみたいと思います。

智頭往来の宿場町・智頭を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、因幡街道の智頭を歩いてみたいと思います。

興雲寺

石谷家住宅を出て、智頭往来を歩くと寺院がありました。こちらは興雲寺という古刹です。もともとは智頭の街の東側にある牛臥山の麓にありましたが、文禄2(1593)年に「高麗水」という洪水で埋まり、再建後も無住の寺院となっていました。現在の位置に移されて復興したのは寛永2(1625)年とされています。

興雲寺を眺める

石段の下に立つと、山々を背景に瓦屋根の本堂が佇んでいるのを眺めることができました。興雲寺が発展することになったのは復興後間もない江戸時代の寛永9(1632)年のことでした。国替えで初代鳥取藩主となった池田光仲がこの寺に泊まり、父である池田忠雄の位牌を祀ったことがきっかけです。以後、興雲寺の寺領は鳥取藩に安堵され、発展していくことになりました。

御本陣跡

智頭往来を外れて街中を歩くと、石碑のある広場がありました。こちらは御本陣跡です。

因幡街道最大と言われた宿場町である智頭には鳥取藩主が参勤交代の際に宿泊する本陣が置かれていました。藩主が江戸へ向かう際には智頭は鳥取を出て最初に宿泊、鳥取へ戻る際には最後に宿泊する大切な場所でだったそうです。藩主と所縁のある興雲寺があることもあって、智頭は鳥取藩にとって重要な宿場町だったのでしょう。もともと交通の要衝であったこともあり、江戸時代の智頭は大変な賑わいとなったそうで、鳥取藩から逗留禁止のお触れが出されるほどだったと言われています。

中町公民館

御本陣跡の傍には洋風建築の建物がありました。こちらは中町公民館です。宿場町と言えば近世以前の建物が残されているイメージがありますが、石谷家住宅もそうですが、ここ智頭では近代以降の建物も目立ち、宿場町でなくなり交通が移り変わってからも発展していったことがわかります。

千代川を眺める

千代川に架かる備前橋から智頭の街並みと山々を眺めてみました。

備前橋を渡ると智頭駅は間近です。上郡へと戻るディーゼルカーで宿場町、そして、林業の街として発展してきた街を後にすることにしました。

智頭往来の宿場町・智頭を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、因幡街道の智頭を歩いてみたいと思います。

石谷家住宅

かつての智頭の宿場町で目立つのが石谷家住宅です。山をバックに立派な門を構えた屋敷はまるで陣屋か何かかと思ってしまいような規模です。

石谷家住宅の内部

敷地内に入ると、大きな母屋の周りに町家のような建物が連なり、どこか独特の雰囲気が漂っていましたでした。

石谷家は元々鳥取城下にあった家ですが、江戸時代の初めころにここ智頭へ移っています。江戸時代中頃の明和9(1772)年からは大庄屋をつとめるようになり、江戸時代の終わりまで代々引き継がれていきました。その後、大庄屋の役目は分家などに引き継がれ、石谷家の本家は宿場の問屋や地主経営に力を入れるようになります。

石谷家住宅の土間

母屋に入って驚かされるのが土間です。二階まで吹き抜けになった天井は見上げるように高く、屋根を支える梁には太い松の丸太が使われていました。

現在の石谷家住宅の母屋の建築が始まったのは近代に入った大正8(1919)年のことでした。当時の石谷家は智頭の街の周辺に広がる山林の経営を手掛け、この地域を代表する商家となっていました。当時の当主の石谷伝四郎は衆議院議員、そして、貴族院議員に選出されて国政に携わるようになっていて、鳥取から智頭を経て津山へとつながる因美線の建設にも私財を投じたそうです。宿場町でなくなった後も豊かな森林資源を背景とした当時の智頭の賑わいを今に伝えるのがこの石谷家住宅の威容なのかもしれません。

階から眺める

二階に上がり、建物が連なる石谷家住宅を見下ろしてみました。

この屋敷の建築を進めた石谷伝四郎は屋敷の完成を見ることなく東京で亡くなりますが、10年の歳月をかけて完成したこの建物は単なる住居としてだけでなく森林経営者の事務所としての機能を備えた屋敷となり、山の街・智頭を象徴するかのような建物となりました。

江戸座敷から眺めた庭園

重厚な近代和風建築の石谷家住宅は現在では博物館や資料館として使われています。かつては土蔵だったというこの「江戸座敷」は母屋からも離れた静かな雰囲気で、美しい庭園を眺めながらのひとときを過ごすことができました。

宿場町、そして、豊富な森林資源に恵まれて発展してきた歴史を今に伝える石谷家住宅で一休みしてから、さらに智頭を歩いてみることにしました。