佐賀・福岡茶旅2024(1)新高製菓の旅

《佐賀・福岡茶旅2024》  2024年3月5₋11日

コロナ禍で国内旅行をした時、一番多く回ったのは九州だった。特に国産紅茶の歴史をやろうと、Oさんの車に乗せてもらい、かなりの場所を回っていた。ただ面白いことにOさんの地元である佐賀県は泊まるだけで調査をしていない。今回は佐賀と彼杵を少し歩き、柳川から博多へ向かった。

3月5日(火)古湯温泉へ

朝早く起きて、家を出た。羽田空港までいつものルートで行く。ラッシュアワー時間帯だったかもしれないが、恐れるほど混んではいない。これが今の東京だ。活気はあまり感じられない。羽田空港で時間を持て余す。ようやく佐賀行きのフライトに搭乗だ。だが何とバスで移動。因みに今回はマイレージを使った。

そしてアップグレードの権利が今月で切れるとの情報が出ており、それを使うと初めて『1A』という座席がもらえた。いつもは通路側しか予約しないのだが、「これもまたいつもと違うやり方」ということだ。といっても機内は快適かと聞かれれば、それほどでもないと答えるだろう。1時間半のフライトでサンドイッチが出るだけ。いや、イングリッシュブレックファーストの紅茶が飲めたのは良かったか。今日も天気は悪く、窓からは何も見えない。

実に久しぶりの佐賀空港。ここから佐賀駅までバスに乗る。途中は畑が続き、雨が降る中、最後の方が街になる。バスターミナルでOさんの出迎えを受け、車はまた郊外へ走り出す。さあて、どこへ行くのだろうか。全てお任せだ。車はこれまで行ったことがない道を北の方へ移動していく。

30分ぐらい走り、山の方へ向かっていくと、何と表示に『郭沫若』の文字が見えた。何でこんなところに郭沫若、と呟いたら、Oさんが、じゃあちょっと行ってみようと言い、車は川沿いの山道に入っていく。10分ぐらい行くと、そこには橋が架かっており、何とか歩いて渡るとそこに日中友好関連の記念碑が建っていた。郭は1924年に家族でここに湯治に来たらしい。そして何らかの小説を残しているというので、ちょっとびっくりした。

また30分ほど行くと道の駅がある。ちょうど雨が降り出していたが、その敷地内にはよい水が湧いて出るらしく、水を汲んでいる人々がいた。その付近はダム建設に伴い集落が水没したようで、昔の写真などが展示されている。ランチは『ジャンボ野菜かき揚げそば』を注文した。本当に驚くほどジャンボだった。

そこから少し行くと可愛らしいパン屋さんがあった。昔ながらのバターパン。小学校の給食にも使われているという。このパン屋さんのひいお爺さんは戦前台湾の新高製菓で働いており、戦後の引き上げで郷里に戻り、パン屋を開業したという。実はすぐ近くの和菓子屋さんも同様の歴史だというから、新高製菓は面白そうだ。

新高製菓とは何か。今日の午後はそれを知る旅となった。そこから小学校へ向かう。敷地内には、新高製菓の創業者で、地元出身の森平太郎及び養父の森源兵衛ゆかりの記念碑が建っている(文字が薄くて判別は難しい)。更に学校でも過去に森について調べており、その資料を頂戴した。

そこから図書館へ向かう途中に、森平太郎ゆかりの家が残っていた。立派な図書館には森平太郎の展示コーナーが設けられ、冊子も作られていた。ここでかなりの情報を得た。森平太郎は作家北方謙三の曽祖父に当たるそうで、東京に戻ってから、森をモデルに北方が書いた『望郷の道』という小説を読んでみた。勿論小説なので実際の森とはかなり違うのだろうが、ちょっとワクワクして読んだ。当時の台北の様子などが生き生きと描かれている。

静岡茶旅2024(4)百里園を探す

更に牧之原市の方へ向かう。平田寺という由緒正しそうなお寺に入る。ここになぜかヘリア商会が建てた英文の記念碑が残っているという。分かり難い場所だったが、茶場関連の碑の横に、英文の碑を何とか見つけた。謂れなど聞きたかったが、人がいないと思っていると突然頭の上からゴーンという鐘の音が響いてきた。帰れという合図と受け取り、日が暮れる中を退散した。帰りにとんかつをバクバク食べて宿まで送ってもらう。体力的にはかなり消耗した。

2月19日(月)百里園を探す

翌日は雨模様。朝掛川駅へ行き、天浜線に乗って森町を目指した。この線に乗るのは何年ぶりだろうか。相変わらず現金で切符を買い、一両列車に乗り込む。ゆらゆらと30分で遠州森に着く。ここでYさんにピックアップしてもらい、森町とはお別れして、浜松方面へ進む。

本日の目的地は、三方ヶ原の百里園。ここは以前から静岡の長老に『調べてみれば』と言われていた場所であり、車が無いとちょっと行きにくいのでYさんのサポートで訪問が実現した。牧之原同様、士族授産事業である百里園については、既に図書館でかなり資料を集めていたので、今日はその雰囲気を味わえればよい。

まずは三方ヶ原神社へ行ってみる。ここには開拓の碑が建っていた。それによれば横田保が百里園で茶業などを経営していたが、1903年に茶工場は閉鎖された。荒廃が心配されたが、地元有志が茶園の土地を購入したらしい。神社をよく探すと、当初開拓に従事した気賀林の顕彰碑も建っている。彼が初期の民間側代表者であり、その後横田に引き継がれた。

近所を歩くと、武家屋敷跡などの表示はあるが、住宅地で茶畑などは全くない。姫街道とも呼ばれた気賀林の屋敷のあった場所には小さな記念碑が建っているだけだった。この辺でなぜか雨がすごく強くなり、歩くのにも難渋した。一度神社に戻り、車に乗って百里園茶工場跡を探す。

その場所は今や葬儀屋さんになっていたが、説明板は設置されていた。そして道の反対側にはかなり大きな横田保顕彰碑が建っている。横田はウーロン茶や紅茶の製造も手掛け、百里園をかなり発展させたようだが、彼の死と共に茶工場は閉鎖されたらしい。明治時代、この辺は茶業で大いに栄えたことが分かる。

近くのお茶屋さんを訪ねてみた。横には茶畑があり、向こうには茶工場も見える。三方原茶という名称で中蒸し茶が売られていたが、その歴史について知ることは出来なかった。茶業組合の事務所へ行っても分かる人はおらず、百里園ははるか遠い存在だと分かる。折角なので三方ヶ原古戦場跡へ行ってみたが、そこは広大な市営墓地の端にあり、あの家康、最大の敗戦などと呼ばれている戦いが、ちょっと歴史の中で小さくなった。

ランチはさわやかでハンバーグを食べたいと行ってみたが、相変わらずの混雑。順番待ちの間に近所の神社などを訪ねてみる。この辺には明治5年に学校が作られたと書かれているから、相当早い時期であり、余程教育に熱心、資金的な余裕があったのだろうか、と思ってしまう。ハンバーグは相変わらずの美味しさ。

帰りはまた遠州森まで送ってもらい、30分ほど電車を待つ間、古めかしい駅舎をじっくりと眺める。掛川からは静岡まで行き、ちょうどバスが来たので新宿までそれに乗って戻る。相変わらず天気が悪く、今回は行きも帰りも富士山を拝めずに終わる。

静岡茶旅2024(3)紅茶フェスから伊久美、月岡へ

2月18日(日)紅茶フェスから歴史探索へ

朝ご飯も宿に付いている。ちょうど大学生の団体(野球部)が宿泊しており、食事場所は大混乱。その中を縫って何とか食べる。昨日のカレーに続き、野菜たっぷりの味噌汁が美味い。部屋は狭くてかなりくたびれてはいるが、なかなかいい宿だった。各宿には特徴というものがある。

9時半前にYさんが迎えに来てくれた。車で島田へ向かう。今日はここで地紅茶フェスが開かれるというので行ってみた。会場に着くと駐車場は何とか空いていたが、我々の後の車は停められない。会場に入ると予想をはるかに上回るお客さんが来ており、かなり窮屈な印象であった。開会式が行われていたが、中に入ってみることは難しい。

その後会場の各ブースに立ち寄り、お茶を試飲、購入した。お馴染みの茶農家さんたちがずらっと出ており、さすが静岡のフェスだと思われた。すれ違う人も知り合いが何人もいて、ご長老にもご挨拶できたのは良かった。最近の地紅茶サミットはどこでも大人気とは聞いていたが、和紅茶ブームは本当に来ているのだろうか。

午後はセミナーなどがあるようだが、早々に満席になっている。我々はお茶を買い込み、話をするべき人とは一通り話して、会場を後にした。だがこの辺に食事ができる場所はないらしい。結局すぐ近くのKADODEに行くと、そこにはフェスから流れた紅茶ファンが多く集まっていた。

KADODEに中に入ると、お茶の試飲などがあり、そちらに参加する。宮崎のKさん夫妻がいた。更にはカフェで緑茶バーガーを買って、共有スペースで何とか食べる。ここには一度来たことがあるが、こんなに人がいるんだ、と驚いてしまう今回。地方のイベントというのはなかなか難しいものだ。

そこから伊久美方面へ向かう。30分も走らずに伊久美に入ると、茶畑が見えてくる。すぐに坂本藤吉翁の顕彰碑を発見した。この人は江戸後期にこの地に宇治製法を導入した先駆者だが、初めは誰も賛成しなかったらしい。そして導入後すぐに彼は亡くなってしまったが、製法は残ったということだ。

その先まで行くと公会堂の建物がいい感じで残っている。ご近所の方に話しを聞くと、今は茶農家も減ってしまったようだが、坂本藤吉の名前は知られていた。更に西野平四郎の名前を出したが、この先は殆どが西野姓だよ、と教えてくれた。きっとご子孫がいるに違いないが、探すすべがない。近所のお墓があったが、確かに西野は多かった。

そこから車で約1時間。菊川市月岡にやってきた。ここは旧幕臣で初代静岡県知事の関口隆吉が住んでいた場所。茶畑がある横の少し高い場所に神社があり、その裏が邸宅だったようだ。関口の記念碑も建っている。『関口隆吉遺愛の地』とも書かれている。あの広辞苑を編纂した新村出は隆吉の次男で、ここで育ったらしい。奥さんは茶道家で子孫が茶室を建てていたとあるが、今はその影はない。

すぐ近くには関口家の旧菩提寺、洞月院には、顕彰碑が建っている。篆刻は勝海舟、河津桜がきれいに咲いている。牧之原開拓に尽力し、その能力から中央政府に乞われて各地を回り、最後は静岡で亡くなった関口。元々関口家は今川氏の重臣であり、あの家康の妻、築山殿を出した家と言われれば、なるほどと思ってしまう。

そこから相良の方へ走ってみる。途中に『相良油田』の看板をみえ、俄かに興味を持つ。相良油田といえば、森町の茶商、村松吉平が晩年その開発に熱心に取り組んでいた。ここは日本の太平洋側で唯一の油田だったとあり、明治初期に採掘が始まっていた。今のその採掘現場、小屋などが残っていた。その向こう側を見ると、公園がある。何とそこには相良油田の資料館や再現された採掘場などがあったが、展示は既に終了していて見ることが出来なかった。残念。

静岡茶旅2024(2)初めて久能山へ登る

2月17日(土)久能山へ

今日は朝チェックアウトして、荷物を置いて、駅の南にあるバス停に向かった。そこに着くとちょうどバスが来たので思わず乗り込んで終点まで進む。そこでバスを乗り換え、目的地に向かうはずだったが、ふと向こうを見ると海が広がっていた。思わず太平洋を仰ぎ、バスに乗らず歩いて行くことに決めた。

海岸に降りると、雲から光が少しだけ見えた。これはいい、と更に歩くと、ものすごい強風が吹いてきて、歩くのさえ困難になる。海岸線のところどころ分断され、何とか道路に這い上がっても途中が工事中で、歩を進めるのが困難で困る。なぜ私は海に出てしまったのだろう。大人しくバスを待てば、こんな苦労はなかったろうに、と後悔する。

30分ほど歩き、何とか久能山の手前まで来て、ついに後から来たバスに抜かれてしまった。何とか久能山下までやってきてGoogle Mapで見ると、東照宮まで徒歩4分と書かれている。ところが実際は、ものすごい数の階段があり、東照宮ははるか上を見上げなければならない。既にかなり歩いているので疲れを覚える中、ゆらゆらと石段を登る。中高校生は石段を駆け上がり、軽々と私を追い抜いて行く。それにしても急な坂で、この城を攻めるのは大変だろうと噛みしめる。

週末でもあり、上まで行くと観光客がかなりいた。河津桜がきれいに咲いている。狭い山の上にかなり建物が詰め込まれている感じだ。本宮まで行くと、ちょうど商工会の人々が集団で祈祷を受けていて、一般客は一部排除されていた。こういうのはどうなんだろうか。博物館もあるので見てみる。ビデオで日光東照宮との対象などを見ることは出来た。家康は久能山に埋められているという。ヨーロッパの珍しい時計もある。

ここからまた歩いて石段を下り、バスを探して乗るのはあまりにも大変だった。するとロープウエイの文字が目に入る。行ってみるとちょうど日本平に行くロープウエイが出る所で、700円払ってそれに乗り込む。私は高い所も嫌いだし、料金も高いのだが、脚がもう前に出ないので、それで行く。僅か数分で向こうへ渡る。ここから敵が攻めるのも無理だな、と感じる。

日本平、良く名前は聞くがここだったのか。観光客が蛇口をひねってみかんジュースを出していた。私はここには用事がないのでバスに乗り込む。バスが出るとすぐに公園のようなところに河津桜が咲いており、屋台が出ていた。更に行くと立派なホテルがあった。ここは見晴らしがよさそうだ。そこからバスは下っていき、40分ほどで静岡駅まで戻ってきた。

宿で荷物を取り、駅まで歩いて電車に乗る。これから掛川へ行く。もう慣れたルートだ。駅近くの宿にチェックインするが、静岡駅近くと同じ系列なのに、全く違う感じの宿(昔のビジネスホテル)に戸惑う。すぐに外へ出る。ちょっと歩くと立派な掛川城が目に入る。その近くには先日コラムを書いた山田治郎蔵の石碑が建っている。

報徳社の図書館の向かいに掛川市の図書館があり、そこで資料を探す。やはり掛川、お茶関連の書籍は1つに纏められていて、見付けやすい。掛川の郷土史関連もあり、有り難い。2時間ほど調べものしていると疲れが出てきたので、宿へ戻る。この宿にも無料のカレーが置いてあったので、それを頂き夕飯の代わりにする。このカレーが思いの外美味しく、好感度がかなり上がる。夜はゆっくりと休む。

静岡茶旅2024(1)図書館に2日通って

《静岡茶旅2024》  2024年2月15₋19日

マレーシアから帰国して、旧正月は大人しく東京で過ごした。そして今回は静岡へ。年に2回は来ているので新鮮味は薄いが、どんどん調べは深くなってきている。さて、今回はどんな出会いがあるだろうか。

2月15日(木)まずは図書館へ

何となく朝早いのは嫌だったので、ゆっくり家を出て渋谷からバスに乗る。この路線も2度ほど乗っているので、もう慣れていた。2月は快晴が多く、美しい富士山が期待できるはずだったが、まさかの小雨に見舞われ、寒い。相変わらずこのバスは30分遅れて静岡駅に到着した。小雨は降り続いている。

予約した宿へ行ったが、予約が無いという。チェーン店で駅近くに2軒あり、前回まではもう一軒に泊まっていたが、今回は別にしようと予約したはずだったのに、何故か前と同じ方を予約していた。こういうボケがだんだんきつくなると、旅が難しくなる。早めに、行けるうちに旅をしようと思う。

何だか腹も減らないので、宿に荷物を預けて、静鉄に乗り、図書館へ向かう。今回の主目的は図書館だったから(前回はなんと月末休館とかで利用できず)、真っ先に向かう。図書館近くの電光表示板に『美術館、レストラン開館』と出ていたが、『図書館 故障中』とあり、驚く。これは掲示板の故障でよかった。図書館内でいくつかのテーマを探しているとあっという間に数時間が過ぎてしまう。暗くなってからまた静鉄で戻る。

急に空腹を覚える。まあ昼も食べていないのだから当然ではあるが、それでも軽いそばなどにしたい。新静岡駅近くに数軒のそば屋があったが、何となく10分ほど歩いていつもの店へ行き、いつものようにかつ丼セットを頼む。安心安全の美味しさ。まだマレーシア旅の疲れを引きずっているようだ。

2月16日(金)今日も図書館へ

宿で朝ご飯を食べる。静岡おでんなど充実したメニューが並び、食後はコスタコーヒーが飲める。まあとにかくコスパは悪くない。静岡の物産も販売しており、缶詰のもつカレーが目を引く。今日もいい天気だ。また静鉄に乗りに行くが新静岡まで行かなくても一つ前の駅の方が宿から近いことを発見。

図書館に行く坂道、今日はなぜか右側を登っていく。すると公園があり、その奥には古墳があると書かれていたので、歩いてみる。更にその先を見るとなんと『やぶきた原樹』の文字が見えるではないか。数年前、この原樹を探しに来たが見付からなかった。今日偶然にも見ることが出来て満足。それにしても囲いがされていて、ちょっとかわいそう。後ろには杉山彦三郎の顕彰碑などが建っていた。やはりこれからも日常に流されず、いつもと違うことをして、新たな発見をしよう。

昼を挟んで4時間ほど図書館で調べ物をした。ようやく目途が付き、図書館を出ると何だか歩きたい気分になる。近所に面白そうなお寺がある。そこから下っていくと、静鉄の線路があり、それに沿って歩くと、急に腹が減る。近くに格安鰻屋があったので入ってみる。さすがに午後3時に客はない。まあ質的にはそこそこだが、何といってもうなぎセットが1200円程度と確かに安い。

腹が一杯になったので、また歩く。30分ほど行くと護国神社があった。その敷地はかなり広い。きれいなさくらが咲いていた。河津桜だろう。各県にある護国神社は、どこも由緒正しい。そして静けさが漂う。立派な鳥居があり、池には鳥が遊ぶ。肌寒い中ではあるが、子持ちは良い。宿まで歩いて帰るともうクタクタ。夜は宿のカレーを食べて、大浴場に浸かって休む。

マレーシア茶旅2024(10)スワナンプーム空港で一夜を過ごす

そうするとまずはトランジットで、入国せずに出国ロビーに移動しなければならい。カウンターまで歩いて行き、搭乗券をもらおうとしたが、明日の5時以降と言われる。それでもWebチェックインは完了しており、QRコードはもらっているので、トランスファーの場所へ行くと、ちゃんと通してくれた。

あっけなく、事態は完了した。これから約15時間、どうやって過ごすか。取り敢えずラウンジが使えたので、そこに荷物を置き、空港内散策を開始した。まずは空港内ホテルを探してみる。もし泊まれれば、それに越したことはない。インフォメーションで聞けば、たった一軒しかないという。しかもそれは一番端にあり、歩いて15分ぐらいかかってしまった。

そこに入って聞いてみると、8時間泊まるのに5000バーツ、4時間でも3000バーツというので、驚いた。市内の結構いいホテル並みの料金だ。確かにビーはきれいそうだが、簡単に泊まれる場所ではない。お客も全く見掛けなかった。仕方なくとぼとぼ戻ると、税金還付窓口が目に入った。これまで一度も使ったことはなかったが、今回初めてユニクロの買い物で手続きをしたのを急に出す。

どうせ暇なので、還付可能か聞いてみることにして列に並ぶ。以前は圧倒的に中国人観光客に占拠されていたこの窓口、今は韓国人はじめ様々な人々が並んでいた。10分で窓口に到達し、書類などを提出すると、係員が何やら慌てている。そしてもう一人の係員が『あなたはどこから来たの?』と聞いてくる。完全に異邦人扱いだ。彼女らのシステム上、私は存在しないというのだ。

確かにそうだ、入国していないのだから。ところが係員とその上司は真剣に協議を始めてしまった。もういいです、と言える雰囲気はない。そして結論として警備員が呼ばれる。これはまずいと思ったが、係員は『警備員に出入国ゲートまで連れて行ってもらい、出入国のスタンプがもらえれば、還付できそう』というのだ。もう流れに任せるしかない。

警備員が来て引き渡され、どこかへ向かう。ところが事情を聴いていた警備員が連れて行ったのは、インフォメーションだった。そしてここで事情を話していると、どこかへ電話を掛けて、受話器を渡される。向こうから日本語が聞こえてくる。そして回答として『あなたは一度マレーシアへ出国してしまったので、還付は出来ない』というごく当たり前のものだった。なぜ還付のカウンターではあんなに議論があったのか。もしやすれば何か方法はあったが、警備員が面倒だからここに連れてきたのか。謎だらけだったが、僅か500円の還付で騒ぎを起こしたことを素直に反省する。

ラウンジに戻り夕飯を食べるとやることがない。そういえばシャワーがあるとか言っていたので行ってみると、掃除のおばさんが『シャワー空いているよ。つかうならバスタオルね』と気さくに準備してくれたので有難く浴びる。気持ちが良い。その後フルートなどを食べながら過ごす。

午後11時過ぎて次々にフライトが飛び立ち、急に寂しくなる。そして何とこのラウンジが午前1₋5時の間は閉まるという驚愕の事実を知る。半泣きで係員を見たら、『大丈夫、向こうの別のエアラインのラウンジは24時間だよ』と優しく教えてくれる。何とも有難い。12時過ぎて、真夜中のひと気のない空港をそちらへ移動する。

こちらにも殆ど人はいなかった。朝食用意は午前3時からと書かれていた。その頃から眠気がマシ、ドラマを見ている間に寝落ちする。ふと気が付いたら午前5時だった。一応搭乗券権をゲットして、朝食をゆっくり食べると搭乗口へ向かった。旧正月直前ということか、かなり込み合っていたが、ここでも映画を見ている内に寝落ちして、機内食は食べなかった。急激に疲れを感じながら、成田空港に午後到着した。本当はラーメン、チャーハンセットが食べたかったが、既に体調は不調になっており、タンメン餃子セットを途中で食べて帰る。

マレーシア茶旅2024(9)KLで歩き疲れてへたり込む

宿まで知り合いの陳さんが来てくれた。ホテル併設のカフェで旧交を温める。10年来の知り合いで、以前は経営者として様々な仕事をしていたが、今やほぼ引退状態となり、自分で車を運転してきた。コロナ禍では手術などもしたようだが、元気そうでよかった。これから世界中の興味ある場所にフラッと行くのが生きがいらしい。日本で一緒に旅しようと言われたが、その機会はあるだろうか。

陳さんと別れて、周囲を歩き出す。10分ほど行くと、大掛かりな観光客向けレストランと屋台が並ぶ場所があった。ここはもう完全に普通話が飛び交う世界だった。ブキビンタンを少し入っていくと、その昔肉骨茶を食べた懐かしいレストランが健在だった。相変わらずの賑わで、何とか席を確保して、肉骨茶を食べる。以前より更に立派になった肉骨茶、値段も随分高くなっているが、客はひっきりなしで大繁盛。ここも中国人観光客が多い。近所には蘭州拉麺の店なども出来ており、観光地として発展している感じだ。夜はアジアカップ、日本対イランを見ていたが、何だかな、という試合だった。

2月4日(日)旅も10日目疲れて

今朝は早めに起きて、宿の朝食を頂く。そして部屋に戻り、オンラインで2時間半ほど話す。まあこれが目的で、ネットがちゃんとつながるアメリカ系ホテルを選んだわけだが、何となく疲れが出る。それでも意を決して外へ出て、またモノレールに乗る。今回はモノレールが大活躍でよい。アブドララーマンという名の通りを目指す。この人名は初代首相からきているのだろうか。

実はこの道、戦前は日本人が多く住んでいたとある本に書かれていたのだが、今回行ってみても、その痕跡は全く見付からなかった。今やSOGOなどが建つ、繁華街という感じだろうか。道幅も相当広いので、古い物は壊して拡張したのかもしれない。ずっと歩いているとマレーストリートというところまで来てしまった。この付近はKL初期の頃のマレー村だったとあるが詳細は分からない。

いつの間にかムルデカ広場付近まで来てしまった。もう1時間も歩いただろうか。バスに乗って帰ろうかと探したらちょうどよいのが無くて、また歩いてしまう。かれこれ2時間近くの散策を終えて宿に戻った時は疲労のピークだった。だが突然腹が減り、隣のマックに駆け込んだ。まあセットで400円ぐらいだから高くはない。

部屋でへたり込むと、そのまま寝てしまう。明日はもうバンコク経由で帰国なので、最後の夜に何を食べようかと考えていたが、結局外へ出ることも出来ずに、今回の旅で残った食糧を食べて、ボーティーを飲んで休むしかなかった。もう歳なのだから、そしてGrabも安いのから、もっと効率的な旅をすべきだと反省する。

2月5日(月)バンコクの空港で一晩を

朝は宿で食べて、ダラダラしていた。時間になったので、モノレールに乗りKLセントラルへ出て、そこからバスに乗って空港へ。これは半年前と同じなのでスムーズにいく。だが疲れていたのだろう。チェックインで20分も列に並んだのに、自分の番が来たら違う航空会社だったことに気づき唖然となる。出国審査も長蛇の列で疲弊度がかなり増す。

何とかマレーシア航空に乗り込むと、ちゃんとご飯出てきて嬉しいが、体調を考慮して大人しく少しだけ食べる。KLからバンコクまではフライト時間が2時間ほど。時差も1時間あるので、午後4時にはスワナンプームに到着していた。さて、ここからどうするのか。実は私の東京行フライトは明日の午前8時なのだ。勿論入国してホテルに入ればよいのだが、また長蛇の列に並ぶのも嫌であり、かつ明日は午前4時ごろ起きて、また出国しなければならいことを考えると、空港で一夜を明かす方が良いのかと思う。

マレーシア茶旅2024(8)KLをフラフラ

少し待つと雨は上がったので、出掛ける。モノレールの駅がすぐ近くにあって有り難い。そこから駅3つほど行くと、何とららぽーとがあった。私の目的地とは反対方向だったので、帰りに寄ることとして、歩き出す。10分ほど行くと林が見え、そこに番号が刻まれた小さな石が多数あった。これが墓石だとはすぐには気が付かなかった。

その向こうに日本人墓地があったが、ここは立派な上に門が固く締められており、墓石を見ることすら叶わなかった。さらに周辺は荒れ果てたところに十字架が見えたり、仏教寺院があったりと、かなり不思議な場所だった。KLの中心街にこんな場所があるとは意外だった。風水の関係だろうか。

ららぽーとまで戻って見学する。グルメストリートと書かれた場所にはレストランやカフェが沢山あったが、まだ時間が早いためか、ほとんど人がいない。建物の中も同じく人は少ない。旧正月が近いのでその飾り付けが眩しい。日本をイメージした場所もあったが、ちょっと違うような気がした。結局何もせずに戻り、KLセントラルでカヤトーストとフレンチトーストを食べる。体調がすぐれない時にはありがたい。部屋に帰っておにぎりの残りを食べて寝る。

2月3日(土)KLで

朝、近所を散策するとヒンズー寺院が3つもあった。周辺はインド系の人々が暮らしていた。そこからずっと歩いて行くとパサールスニに着く。インド人街とチャイナタウンは結構離れていたが、これは比較的最近のことではないだろうか。行こうと思っていた店が閉まっており、ちょっと歩いてまた海南チキンライスにありつく。あまりにリラックスしてしまい、なんとカバンを店に忘れてしまったが、すぐに店の人が追いかけてきてくれた。何とも有難いことだ。

そこからパサールスニを通り過ぎ、一番端まで来る。そこに建源茶荘がある。ここは半年前にフラッと入った(4年ぶり)時も、『あ、久しぶり』と言いながら温かく迎えてくれるのが良い。今回もサラッと歴史の話などをしながら茶を飲んだ。そこへお父さんが登場したので、最近モヤモヤしている六堡茶の歴史について詳しく聞いてみた。

こちらは福建系のお茶屋さんだから、広東系?の六堡茶とは少し違うような気もするが、それでも長年マレーシアで茶業をやっていれば、色々な話は見聞きしている。やはり六堡茶には、様々な歴史がありそうだ。宿のチェックアウト時間が迫ってきて、全てを聞くことは出来ず、ちょっと残念。

急いで宿に戻り(モノレールでまさか一駅だったとは)、チェックアウトして荷物を持って、またモノレールに乗る。今日から2泊は中心部の少しいいホテルに泊まる。週末でモノレールは意外と混んでいる。ラジャチュンランという駅で降りて、数分歩くと今日の宿があった。12時過ぎに行っても、日本みたいに『チェックインは2時からです』なんて誰も言わない。部屋が掃除されていれば、すぐに入れてもらえるが嬉しい。

そして腹が減ったので外へ出たが、この付近はオフィス街?で簡単に食べる所が見付からない。少し歩いてみたが状況は変わらなかったので、マレー系ファーストフードの店に入ってみた。するとオーダーは全て機械。だが最後に電話番号を入れる必要があり困る。店員も調理に忙しい。ちょうど出てきた店員に話すとすぐに自分の番号を入れてくれ、オーダー完了。スパゲティボンゴレとカレーパフ、ドリンクで20リンギは高いのか、よく分からないが、若者が多く利用している。

マレーシア茶旅2024(7)イポーをフラフラ

そこから線路沿いに駅まで行こうと歩いて行くと、昔のバスターミナルがある。10年前、ここからキャメロンハイランドへ登ったのが懐かしい。ちょっとトイレに入り、その先の駅舎へ辿り着く。この駅には以前はホテルが併設されていたので、その名残が所々に見え、多くの外国人が写真を撮っている。

駅前からふらふら歩いて行くと、4年前取材で行った梁瑞生茶荘があったので、懐かしくて入ってみた。店員に聞くとオーナーは1時間ぐらい後にしか戻ってこないと言われたので、あきらめて外へ出ようとすると彼がちょうど帰ってきた。すぐに思い出してもらえ、おじさんと共にお茶を飲みながら旧交を温めた。六堡茶の歴史については、昨日会った会長が一番詳しいと言われる。コロナ禍で大変だったと思うが、生き残っていて良かった。これも六堡茶ブームの恩恵だろうか。

宿へ帰る前にフードコートを探して、叉焼鶏飯を食べる。味がいい。イポーに来てよかった。ただ徐々に疲れが出てきている。午後は宿で昨日貰った本を読みながら休息に充てた。それでも日が傾く頃には、また外へ出てしまい、イポー名物のもやし鶏肉麺を食べる。これは確かに美味い。もやしはシャキシャキしているし、鶏肉も新鮮だった。

まだ明るい中、帰ろうと歩いていると、何とコインランドリーを発見。ホテルで聞いても、イポー市内にはない、と言われていたので驚いた。すぐに宿へ帰って洗濯物を取り出して、洗濯に向かう。マレーシアといえばコインランドリーと思っていたが、ようやく巡り合えてよかった。これで心身ともにすっきりした。

2月2日(金)KLへ

今日は朝、近所に出掛けてカレー麺を食べる。この店は朝6時から昼頃までしか開いていない。昨日は12時頃行って、既に麺が品切れだった。とにかく混んでいるが、何とか滑り込んだ形だ。勿論汁なし麺だ。これが美味しいと言われていたが、4年前に食べた物の方が美味しかったような気がするがどうだろうか。

更にフラフラしていると飲茶屋が目に入る。見ていると広東語で声が掛かる。サラっと入ってしまい、その後も広東語でオーダーした。30年近く前の香港を思い出して、何とも懐かしい。あの頃から広東語が出来なかったが、飲茶のオーダーだけは出来た。といっても焼売は元々広東語だったりする。何だかいい気分になる。

昼前に宿から駅までGrabを呼んでいく。マレーシアのGrab は本当に安くて便利、素晴らしい。12時前に列車に乗り込み、そこから3時間かかってKLまでやってきた。かなりの時間眠っていたのは、疲れていたからだろうか。KLセントラル駅に着いて、ホームに降りたが、エスカレーターになかなか乗れない。スペースが狭すぎて移動を制限していた。

今日は取り敢えずこの駅の周辺に泊まるつもりだ。目当ては4年位前に泊まった宿。行ってみると、料金は30%程度上がっていたが、フロントも親切で、部屋もそれなり、まあいいか。ところがネットが全然繋がらない。マネージャーが来て治すとすぐに繋がった。原因は全く分からない。

外へ出た瞬間、雨が降り出した。まさにスコール。傘など何の役に立たない程のザーザーぶりだった。仕方なく横にあったセブンイレブンに逃げ込む。ドリンクを買って部屋まで走るつもりだったが、女子高生がおにぎりを買っているのを目にして興味を持つ。『とびこ かに マヨ』とか『スモークサーモン クリームチーズ』など、日本にはないユニークなものが並んでいる。さすがにこれらは置いておいて、普通に『照り焼きチキン』と『サーモン照り焼き』を買って部屋に戻った。

マレーシア茶旅2024(6)イポーで六堡茶の歴史を学ぶ

1月31日(水)イポーで六堡茶の歴史を学ぶ

朝はまた宿で朝食。今日はマレー系のナシレマッを食す。普通に美味い。全部腹に収めてまた湖を散策。ちょうど反対側付近に動物園があった。地元民によれば『夜は真っ暗で何も見えないナイトサファリ』があるそうだ。その先を歩いて行くと、墓地があった。ここは第二次大戦中に亡くなった、マレーシア、オーストラリア、インドなどの兵士の墓が並んでいる。よく見ると年齢は若く、半分ぐらいは氏名不詳だった。戦った相手は日本軍であろう。

この付近は初期のタイピンでイギリス人などが居住した場所のようで、古い建物やクラブなどが残されている。更には教会なども見え、その先には立派な刑務所があった。その向かいにはもっと立派な博物館まである。1883年に作られたという博物館の展示は豊富で見応えがあった。実は刑務所はそれより早い1879年に出来ているというから、ちょっと面白い。

昨日もちょっと寄った嶺南古廟に今日は入ってみた。意外と色々なものがあった。そこから30分ぐらい歩いて戻る途中にフードコートがあり、美味そうな海南チキンライスを見掛けた。思わず座って食べると旨い。店員はマレー系の若い女性で英語が通じない。取り敢えず5リンギ札を渡したら、0.5リンギのお釣りをくれた。まさかと思ったが、僅か日本円130円だった。これなら毎日くるよ。

11時半頃柯さんが迎えに来てくれ、駅まで送ってくれた。何から何までお世話になった。そして鉄道に乗り、イポーを目指した。意外と乗客が多い。イポーまでは僅か40分だが、何となく列車の旅は良い。イポーには過去2回来ており、駅舎はレトロでとても懐かしい。ここに柯さんから連絡してもらった会長が車で迎えに来てくれていた。

彼はマレーシア六堡茶協会の会長だという。協会は昨年できたばかりらしい。やはりここ数年の六堡茶ブームを反映している。まずは昼ごはんとして、麵屋に連れて行ってくれた。イポーも美食の街であり、食べ物は何でもうまい。その後会長の執務室へ向かう。そこで貴重なお茶を飲みながらゆっくりと話した。その話の内容は驚きの連続であり、私の20年以上の茶旅人生で得られたものが、何の役に立つのかをはっきりと明示してくれた。大変有意義な午後だった。おまけに貴重な本を2冊もらい、感謝感激。

車でホテルに送ってもらった。初めは別のホテルを予約しようと思ったのだが、うまくいかず、結局前回泊まったところに落ち着く。だがなぜかネットが繋がらない。結局部屋を替わることで何とか切り抜けた。ホテル自体は落ち着けるいい感じなので、他を探さす必要がなく助かる。

この付近、意外と夕飯を食べる所に困った。昔の記憶で歩いて行くとレストランがあり、なんと夜も飲茶をやっていた。点心を3つほど頼み、お茶も持ってきてもらって、ちょっと変則な夕飯となる。ちゃんとした点心で実は美味しい。何だかゆったりとお茶を飲む。帰りは既に暗くなっており、足早に戻る。

2月1日(木)イポーをフラフラ

朝ご飯は宿で食べた。意外と混んでいる。外へ出て、どんどん郊外の方へ歩いて行く。街中はやはり漢字が目立つ。旨そうな店も途中に何軒か見掛けたので、こちらで食べればよかったと後悔する。橋を渡ると華人地区と思われるいい感じの通りがあった。だがそのすぐ横は何とインド系の店が並ぶ。なかなか複雑だが、その昔はやはり川を中心に貿易などが行われていたのだろう。

鉄道の線路も越えて辿り着いたのは日本人墓地。こちらもペナン同様鍵がかかっていて中には入れない。それでも墓石の文字はいくつか見える。やはり日本人女性の名前のようだ。からゆきさんはここにも来ていた。何といえばよいのだろうか、言葉が無い。向かいには立派なヒンズー寺院もある。