側へ強い不満 】(信濃毎日新聞、12/7)
「米国のローレンス国防副次官が、政府の憲法解釈で禁じられている集団的自衛権の行使とミサイル防衛(MD)をめぐり、「ミサイルが米国に向かうことが明らかで、日本がそれを撃ち落せるのに落とさないのはクレージーだ。そんなものは日米同盟ではない」と日本側に強い不満を伝え、暗に憲法解釈の変更を迫っていたことが六日、分かった。
先に日米審議官級協議のため来日したローレンス副次官と会談した自民党防衛政策検討小委員会の石破茂委員長(元防衛庁長官)が六日の同委員会で明らかにした。
米国向けのミサイル防衛をめぐっては、シーファー駐日米大使も十月下旬に「解決されなければならない重要な課題だ」として日本での議論の進展を促している。
日本政府は、ミサイル防衛導入を閣議決定した2003年十二月、当時の福田康夫官房長官が「第三国の防衛に用いることはない」との談話を発表。しかし、安倍晋三首相は「米国に向かうかもしれないミサイルを撃ち落すことができないのかどうかも研究しなければならない」と同談話の見直しを検討することを示唆している。
これに対し、久間章生防衛庁長官が技術的に迎撃は不可能と指摘するなど、政府内でも足並みが乱れている。」
・・・やっぱり撃ち落せるのか? どちらにせよ悪い想像が当たっていないことを祈りたい。
バクダッドの現況をレポートしてくれているブログ"Baghdad Burning"の更新が、長らく停止している。オーナーのriverbendさんの身に何も起こってなければいいのだが…。
ジャン・ピアジェを齧り始めた。(僅かずつ途切れ途切れにしか読めないのがつらい。)
赤ちゃんは、初め「主客未分」の状態にあるが、1歳半位までに、シェマ(行為による一般化)によって主体の活動が統合されていき、平行して対象が永続的なもの(「現象」に対するところの「存在」)として捉えられ、自分もまたそうした永続的対象の中のひとつとして位置づけるようになる(「主客分裂」)、という。
私にとって興味深いのは、赤ちゃんが対象を捉え始めるとき、ピアジェはそれを「永続的対象」と言っていることだ。つまり、変化せず持続的に存在する実体として(最初から「いつも化」して)捉える、と言っているのだと思う。すなわち、我々は、縁によって起こる現象として周りをありのままに見たことは、これまで一度もなかったのだ。無常=無我=縁起を見ることは、未体験のこと。僅かに例外があるとすれば、ナディアなどの自閉症サヴァンは生成変化する縁起の世界を感じ取っているのだろうか。
自然さんと続きのやり取り。
10月14日、高遠菜穂子さんのイラク報告会が、中川村文化センター大ホールで開催された。(「九条の会中川」主催。中川村教育委員会後援)
人はここまで残虐になれるものかという、目を覆いたくなるようなイラクの惨状がほとんどだったが、一方で、生活のリズムを再構築することが良き縁となって子どもたちが立ち直っていく姿など、希望のかすかな芽生えも報告された。
私としては、イラクの現状もさることながら、日本でのバッシングについても話を聞きたかった。自分達の色に染まらぬ者を暴力的に排除しようとする動きであり、日本で迫る危険だと感じるからだ。残念ながら、高遠さんはひどく疲れておられ、質問をする機会がなかったのだが、考えてみれば、バッシングの後、イラク支援を再開し、日本でもこうして精力的にイラクの現状の報告会を開いておられることが、バッシングに対する高遠さんのなによりの回答なのだろうと思う。
米軍やイラク内務省筋によるというむごたらしい遺体の映像を見せながら(同様の映像は、http://www6.ocn.ne.jp/%7Eboogie/RAI_TV.htmで提供されているテレビ番組の9′から11′あたりで見ることができる。)、高遠さんは「これはイラクの日常であるにもかかわらず、マスメディアは報じようとしない」と憤っておられた。
先日NHKのニュースで、「アメリカ軍へのテロ攻撃の続くイラクで」と、内容とは関係のない形容をつけているのに気づいた。配信された元々のニュースにあった形容か? それとも日本で誰かが加えたのか? 誰かが意図を持って差し挟んだのか? ライターに染み付いた意識が自然に表出したのか? いずれにせよ、こういうさりげない言葉で、我々の印象は導かれていく。気をつけなければならない。
夜、風呂の中で考えた。高遠さんは、「テレビを中心とするマスメディアはイラクの日常的実態を伝えない」と批判しておられる。一方、先日講演してくださった綿井さんは、「ほとんどのメディアが同じ考えの人たちだけの蛸壺と化している中、唯一テレビだけに壁を越えて広がれる可能性がある」と言っておられた。一見対立する主張のようだが、二人とも、思いをどう伝えられるか、最前線で苦闘しておられるのだと思う。多様な考えを深く伝えるようなテレビにすること。あるいは、他の蛸壺メディアで壁を越えて広く読まれる工夫をすること。そのためには、情報の受け手である我々が学習し、よく考えること。これらは鶏と卵だけれど、ともかく、そういう努力の継続が必要なのだと思う。当たり前のことだが・・・。
中川村のホームページに、北朝鮮の核実験に対する短いコメントを掲出。我々は、怯えと怒りの自動的反応で苦を作ってしまうのが常だが、その反応をうまく利用して得をしようとする連中がいる。はめられないように冷静に気をつけねばならない。
式典が始まって、君が代斉唱があり、殊更に熱を込めて歌う声があり、その時は「場違いなところに来てしまったかな」と思ったが、要らぬ心配だった。4人ほどの方の祭文や挨拶があったが、その内3人の方は平和や不戦の誓いを述べられたし、どんな形であれ戦争を肯定する発言は4人の言葉のどこにもなかった。
これまで私は、遺族の方々の集まりというと、先の戦争に対して「しかたがなかった、国を守る戦争だった、立派に戦った」と妥協的であり、また同じような状況になれば、再び戦争をすべき、と考えているのだろうと、あさはかにも単純に想像していた。
しかし、勿論事はそう単純ではない。それぞれの人に、微妙な思いがある。
反戦護憲派の単純乱暴な主張は、本来最も嫌戦的である筈の遺族の方々を屈折した立場に追い込んできたのではないだろうか。
先の戦争は、今でも化膿したまま塞がっていない傷のようだ。へばりついたガーゼをピンセットで一枚一枚そっと剥がし、砂粒を取り除き、慎重に丁寧に処置しなければならない。乱暴な対応はかえって傷を長引かせる。
慎重丁寧とは言えないが、今の私の考えを書いてみる。批判を頂いて慎重丁寧なものにしていきたいと思う。
・・・
私は、A級戦犯分祀には反対である。
A級戦犯分祀論の背景には、「A級戦犯にだけ戦争責任があり、その他の一般庶民は被害者だ」という考えがある。首相の靖国神社参拝に反対する中国も、「A級戦犯を神として参拝するのはけしからん」と言っているのであり、同じ考えであろう。
しかし、庶民だって万歳万歳と提灯行列をして戦争を推進したのだ。そうでない人でも、戦争に反対しなかったという罪がある。そのことを正しく自覚しなければ、今後また再びどこかの国に対して「あの国はけしからん。やっつけろ」「そうだ、そうだ」という集団的短絡的憎悪反応が沸き起こる恐れがある。
勿論、戦争責任において、庶民も指導者も等しいといっているわけではない。そのときの立場役職、行動によって、責任の軽重と被害者である度合いは大きく異なる。例えば、原爆や空襲で亡くなった幼子には、なんの責任もない。100%被害者だ。ただし、これは例外的だと思う。一方、国や軍の責任ある立場にいた者には重い罪がある。しかし、A級戦犯とて、なにがしかは被害者的要素もあろう。つまり、戦争においては、誰もが被害者であり、罪人だということである。
A級戦犯分祀は、罪人でもある我々自身の反省を消失させる。A級戦犯を攻撃することよりも、我々の内から時として沸き起こる戦争志向の傾向、それは執着による自動的反応であるのだが、それを警戒することを我々は学習せねばならない。
「東京裁判は、戦勝国が好き勝手に裁いたにすぎず、無効だ」という主張がある。もっともな主張だ。しかし、そう主張するなら、戦争の責任と罪の要は本当は誰にあるのか、真の戦争犯罪者は誰か、なぜあのような事態に至ったのか、記録・文書などを詳細に分析し明らかにしなければならない。自らそれをなしえず、「やむにやまれず始めた仕方のない戦争だった」などといつまでも責任をあいまい化し、自己正当化の言い訳を続けるなら、また再び「やむにやまれぬ戦争」に若者を「詮方なく」「愛すべき国と郷土」を守るため送り出すことになる。
一部には、日本を敗戦国にした責任を問題にする人もいる。では、勝てばよかったのか? そうではない。勝っても負けても、戦争をしたことに責任と罪がある。
「では、なぜ日本だけが罪を問われねばならないのか?」 そう反論する人がいるだろう。そのとおり、戦勝国にも罪と責任がある。広島・長崎が無差別殺戮の犯罪でなくてなんであろうか。
戦争は悪であり犯罪である。いかなる美名のスローガンの下であれ…。「大東亜新秩序建設」であれ、「植民地支配の打倒」であれ、「テロとの戦い」であれ、そのことは変わらない。
すべての戦争のすべての罪を指弾しなければならない。しかし、そのためにはまず自らの罪をきちんと追及する必要がある。その上ですべての戦争のすべての罪を等しく指弾できる国が現れたら、その国は世界史に大きな足跡を残すだろう。
靖国神社の問題に戻ろう。
思考実験的な提案がある。分祀ではなく、いっそ逆にもっと合祀すべきではないか? 誰を? 新撰組も彰義隊も。東京大空襲や広島・長崎の原爆の非戦闘員犠牲者も。連合軍兵士も。731部隊に実験台にされた中国人犠牲者も。日本へ強制連行されて強制労働の犠牲になった朝鮮人犠牲者も。9.11ニューヨークテロの犠牲者も、突っ込んだハイジャック犯も。フセインにマスタードガスで殺された人々も。クラスター爆弾による空爆で殺された子供たちも。ザルカウィも。ダルフール紛争犠牲者も。
誰もが戦争の犠牲者であり愚かな罪人でもある。愚かさゆえに罪を犯し犠牲となった人々を哀れみ、同時に我々自身が同じ間違いをしでかさないよう肝に銘ずる場所に、靖国神社はなることができないか。
外国人が靖国神社に祀られることを望まないからあり得ない? しかし、現実に靖国神社は朝鮮の人や台湾の人を神にしているし、戦死者本人の意向など気にかけず、遺族の反対も無視して神として祀っている。つまり、靖国神社がその気になれば誰でも神にできる、ということではないか。
また、遺族の方々には、いろいろな考えの方がおられようが、よく話し合えば理解し、賛成してくれる人も多いのではないかと思う。敵を憎んでおられるわけではない。戦死した親族が忘れられずに真心から追悼されることを望んでおられるだけであって、あらゆる戦争犠牲者を悼み平和を求めておられる点は共通だと思う。
この思考実験の結果見えてくることは、結局、問題はやはり靖国神社自身だ。すべての戦争犠牲者ではなく、天皇のために死んだ兵士だけを祀り、天皇のために死ぬことを称える目的で造られ、見事にその機能を果てしてきた靖国神社が、一朝一夕にその目的を変えるとは思えない。
それに、戦死者を神と位置づけるが故に、戦死者をすべてまったき善人とせざるを得ない。普通の人(執着の反応である弱い凡夫)が戦争という異常で苛烈な縁の中に放り込まれているのだから、美談も少しはあろうが、罪・悪行の反応もおびただしいのは当然だ。それは仕方のないことだ(だから戦争をしてはいけない)。にもかかわらず、戦死者を神とする靖国神社は、「天皇の兵士は完璧な紳士・善人ばかりだった」と主張せざるを得ない。その結果、「あの戦争は、止むに止まれず、仕方なく戦った戦争だった」と言い募ることになり、何一つ反省はなされない。そして、いつかまた「けしからん、やっつけろ」と戦争へ向かうことになる。
靖国神社問題をどうするかよりも、今の我々自身の反省の方が重要だ。我々は執着の反応であり、いともたやすく怒りや憎しみの反応となる。時として、集団的反応となり、攻撃・破壊を志向する。そういう傾向を内に宿していることを自覚し、常に気をつけていなければならない。そういった自覚をミームとして日本に広げることができれば、天皇のために戦う兵士を徴集することを容易にするという靖国神社の機能も、意味を失っていくだろう。さらに、わずかでも世界に広げることができれば、その分だけ世界の苦は少なくすることができる。迂遠な道だが、地道に努力する他ないと思う。
鈴木親洋さんのメールに関連して遊子さんから追伸。Libraさんから日蓮の思想について追伸。ラプサンスーチョンさんから原始仏教版般若新経を拝受。
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靖国神社に昭和天皇が参拝しなくなった理由は、A級戦犯合祀であった、と報じられている。それに対して小泉首相はインタビューで、「それぞれの人の思いだ」と答えた。まさにそのとおり、この点に関しては小泉首相は正しい。昭和天皇であれ誰であれ、個人の考えは個人の考えだ。一個人の意見として、尊重して耳を傾けられるべきだが、そのことだけで事が決められるべきではない。
私たちは、単純に自動的感情的反応をするのではなく、冷静に情報を集め、よく考えねばならない。ひとつ、あまり報道されていない情報がある。1年ほど前、確かNHKの衛星(デジタル?)チャンネルで深夜に放送されたドキュメンタリーだ。紹介し損ねていたのを思い出した。
靖国神社A級戦犯合祀のロビー活動を強力に展開したのは、当時巣鴨プリズンに捕らえられ、公職を追放されていた戦犯たちだったという。どういうわけかかなり自由に巣鴨を出入りし、高級料亭に厚生省官僚を呼びつけ、圧力をかけた。その目的は、死刑となったA級戦犯が「神」とされて戦争犯罪がうやむやになれば、自分たちの公職復帰も実現できるというもの。彼らは見事に目的を達成し、その後国会議員になった者もいるという。
この公職追放戦犯たちによるロビー活動だけでA級戦犯が合祀されたのではないのかもしれないが、こうした打算的活動も裏にあったのなら、広く認識されるべきだと思う。
ただし、私は、A級戦犯合祀が靖国神社の問題点の本質ではないと思う。そう捉えると問題を矮小化する。靖国神社の一番の問題は、戦争と戦争で死ぬことを美化し、今後あるかもしれない戦争に国民が積極的に参加するように下ごしらえをしている点だ。そもそも靖国神社は、明治の近代化の中で国民皆兵の必要からそういう目的のために作られたし、歴史上もそういう役割を果たしてきた。遊就館の展示を見れば明らかだ。華々しく見事に散った英雄たち。見習うべき愛国の犠牲精神。一方、例えば、長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れると、亡くなった画学生たちが戦争の犠牲にならなかったら、どんな活躍をし、どんな作品を残しただろうかと、残念で悲しい思いになる。両者の方向はまったく異なる。遊就館の展示は、ステレオタイプで痛々しい。戦争で亡くなった方々には向いておらず、これから国のために死ぬことを期待されている今の世代に向けられている。
A級戦犯合祀に話を戻せば、そのことに議論が集中すると、A級戦犯にだけ戦争責任がありその他の日本人は全員被害者だ、という発想に陥りかねない。既に何度もコメントした。TBSの「名作」ドラマ「私は貝になりたい」の問題点である。自分を被害者であると位置づけ、いつまでも自分の責任を認識せず、貝になって引きこもるなら、何も変わらない。村長やら学校の先生やら僧侶やら、近所のおじさんおばさん、みんなして日の丸を振り、万歳!万歳!と戦場へ送り出し、そういう価値観を共有できない人を「非国民」と非難したのだ。我々は、自動的反応を制し、よく目を配り、よく考え、おかしな兆候には初期の段階で "No!" と声を上げなければ、また再び、自分たちも、どこかの女性・子供・大衆も、ひどい目に遭わすことになる。
額賀防衛庁長官、麻生外相、安倍官房長官らが、北朝鮮のテポドンはったり外交に慌てて、基地攻撃能力に言及、それへの中国・韓国の反応に更に慌てふためき、言い訳とトーンダウンに懸命になった。
今極東で起こっていることについて、北朝鮮は脇役でしかない。日本もまたしかり。両方とも、米国と中国の今後の長期的対立という大きなうねりの中の小舟に過ぎない。北朝鮮は、その対立の構図の中で、なんとか有利に立ち回ろうと足掻いている。しかし、日本は、大きな盤面は見えておらず、近視眼的に本当に北朝鮮しか見ていないのかもしれない。
米国のミサイル防衛構想に乗るということは、米国の対中国軍事戦略の最前線基地となることを決心した上のことであり、その中で北朝鮮のことばかり騒ぐのは、国民向けの世論操作だと思っていたが、今回の発言での慌てぶりを見ていると、大きな構図は本当に忘れていたように思える。(2004年4月10日の更新情報参照)
我々のすべての行いは、身口意例外なく縁となり、さまざまな結果を引き起こす。責任ある立場の人は、あらゆる波及効果を計算して、慎重に行動・発言するよう努力してくれなければ困る。あらゆる言動がメッセージとなり、外国政府に、国民に、様々な反応を引き起こすのだから。
国連安保理の非難決議を北朝鮮国連大使は、「決議は(北)朝鮮を孤立させ圧力をかけるという見下げ果てた目的がある」とただちに拒否、北朝鮮外務省も、「米国の対朝鮮敵視政策の産物である『決議』を強く糾弾して全面的に排撃し、いささかも拘束されない。米国の極端な敵対行為によって最悪の情勢が到来している状況のもとで、あらゆる手段と方法を尽くして自衛的戦争抑止力を強化していく」と主張した。
北朝鮮のこの反応を聞いたとき、戦争を始めた頃の日本とそっくりだと感じた。遊就館でも「大東亜戦争は、欧米列強の干渉・経済封鎖によって追い詰められた日本が、自衛のためにしかたなくやむにやまれず始めさせられた戦争です」と主張していた。当時の日本と今の北朝鮮は、よく似ていると思う。
北朝鮮が、ハッタリのかけひきのつもりであげた手を、追い込まれて面子上おろせなくなって、「やむにやまれず」自暴自棄の暴走をするようなことにならないよう、十分な情報収集と分析に基づく、慎重で明快なメッセージの発信を望む。
北朝鮮のミサイル発射で、たくさんの専門家がメディアで実に様々な深読みをしている。それを見ていて、ミサイルとは、武器というよりも、メッセージ・ツールだとあらためて思った。数発のミサイルで、どれだけ多くのことを世界中に発信できたか。広告費に換算すると一体いくらになるのか。
北朝鮮が、宣伝効果ではなく、もし本気で攻撃・破壊を目指すなら、もっとダイレクトで確実な方法があるだろう。そちらを恐れて騒ぎ立てないのなら、ミサイルばかりを恐れても意味がない。
今回の発射が、対外的なメッセージか、国内向けの宣伝か、それとも他に理由があるのか、まさかこのミサイル発射で利益を得る連中と裏取引があるのではないだろうし、手持ちのカードではこういうブラフしか手がないのは分かるが、ともかく武力をちらつかせるハッタリはいい加減にやめて欲しい。おかげで、日本の国民に反射的感情的自己防衛という執着の反応が拡大し、それに便乗して馬鹿げた税金の使い方がされるのではないだろうか。一方では「尊重されるべき伝統と文化をはぐくんできた愛されるべき郷土」を保持するための予算は削られようとし、福祉の領域でも本人負担が増やされているというのに。
これまで更新情報に時々時事的なコメントを書いてきたのを抜き出して、上にリンクボタンを設置。
谷 真一郎さんから返事を拝受。ネルケ無方さんからは、前回アップした英文のsummaryに関してメールを頂戴した。
ネルケ無方さんと続きのやり取り。意識、無明、正しい知恵、そのほか。
それとは関係ないが、前回の更新情報に若干の追記をしたい。
ブッシュ政権とそこに群れ集う人々の欲望・執着が、殊更に大きいと思っている訳ではない。彼らとて凡夫、世の凡夫は皆、大差のない欲望・執着を持っている。しかし、権力を持ち、巨大な影響力を持つ者には、その自覚が必要だ。権力と影響力を反省なく欲望・執着のままに使う者は、批判されねばならない。
谷 真一郎さんにようやく返事をお送りした。
【ワシントン2日共同】米国の核兵器開発・管理を所管する核安全保障局(NNSA)のブルックス局長は一日、下院軍事小委員会で証言し、核爆発を引き起こす核兵器の中枢部分「プルトニウム・ピット(塊)」の生産について、今後6年間で年間30〜40個の生産体制を確立する方針を示した。
また証言後、記者団に対し、NNSAが現在進める新型核研究「信頼性のある代替核弾頭(RRW)計画」の結果次第では、新型ピットを量産する生産工場の新設を再検討する考えも表明した。
米国は1990年代末、89年から行っていなかったピット生産の再開に乗りだし、ブッシュ政権下の2002年に試作品が完成した。今回の証言で中長期的なピットの増産方針が明らかになった。
#プルトニウム・ピット 核融合や核分裂を利用する核兵器の核爆発を引き起こす球状の塊(ピット)で、最も重要な部品のひとつ。… 米エネルギー省は、環境汚染が問題化したため1989年にピット製造を中止。ブッシュ政権は2002年、ピット生産再開のための新工場建設計画を発表、試作品となるピットを製造した。同省の建設計画草案は20年までに年間450個の生産体制を目指すとしており、核増産につながるとの批判を受け、議会も予算計上に抵抗。同省は07会計年度予算案での関連予算請求を見送っていた。
今、世界を覆う苦のかなりの部分が、米国ブッシュ政権とそこに群れ集う人々の欲望・執着によって生み出されていると思う。
高橋哲夫さんからメールを拝受。
今年は村議会の選挙があり、恒例となっている議員さんたちの(修学?)旅行に同行して八重山諸島に行ってきた。(勿論私費です。議員さん方はずっと積み立ててこられたが、私にとっては突然の大きな出費、、、)
わずか2泊の滞在だったが、出会った何人かの人の空気に強い印象を受けた。大きな時間の流れの中で、喜びと悲しみが混ざり合った暮らしをしておられるのではないか。そんな暮らしが繰り返されてきた。勿論腹を立てたり、欲を出したり、絶望したりもするだろう。だけど、本土の生活に比べると、ずっとピュアな気持ちの波のような気がした。我々の暮らしは、損得であくせくし嫉妬や思い上がりでずいぶん濁っているように感じる。
そこに住む人の幸せとは何か。私たちは、ついつい産業振興だとか経済的側面に目を向けてしまうが、それは幸せのための手段に過ぎない。手段を追求して幸せを台無しにしては元も子もない。とはいえ、必要な行政サービスには金が要る。霞を食って生きていくわけにもいかない。はてさて、どう考えるべきか、、
過去の更新情報 05年 04年 03年まで
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曽我逸郎