ひとこと

ひとこと


For tears are only made of salt and water
And across the waves the sound of laughter
October it has gone and left me with a song
That I will sing to you although the moment may be wrong

Could it be the sea’s as real as you and I?
I often wonder why I always have to say
I'm only dreaming anyway

(from After Halloween)


 サンディ・デニー。
 ヘヴィー・スモーカー。コカインと酒が大好き。
 自己評価が低くプレッシャーに弱いひとだったという。
 スタジオでしりごみする彼女をはげまし勇気づけてやるのが自分の仕事だった、とフェアポート時代のプロデューサー、ジョー・ボイドはいう。
 直後の不幸を暗示させるかのような遺作「ランデヴー」の暗鬱なジャケットと荒れた歌声からすると、その4年前の「Like an Old Fasihoned Waltz」の歌唱には、ジャケットの印象そのままに淡く彩色された儚い幸福感が宿る。
 もはやトラッドではなくファッツ・ウォーラーを楽しげに口ずさむ時であっても彼女の歌声にはかならず、わずかに、だがはっきりとわかる擦れが含まれている。
 その艶やかな発声を裏打ちするような擦れが彼女の音楽に底知れない深みを変成させていたのではないだろうか。つよい光が生む影の濃さのように。
 それがいったい何処から来たものだったのか、私にはわかるはずもない。だが彼女の歌う通り、誰であれ人生は所詮ソロ、だ。
 晩秋がやってくると漂泊感あふれる美しい小曲After Halloweenが私を泣かせることに変わりはない。  



She just went solo
Do you play solo?
Ain't life a solo?

We've all gone solo
We all play solo
Ain't life a solo?

23.11.16

(2011年12月1日記事の改訂再掲です)










 かつて彼らが兄弟だったのであれば、この1stソロはソウル・ブラザーたちへの独立宣言だった。
 ザ・バンドの朴訥で無垢なイメージに鉄槌を下すかの如き、過剰なデジタルリヴァーブとシンセの霧に覆われた最先端のサウンドメイキング。
 免罪符のように同郷のダニエル・ラノワをプロデューサーにつけてMTVオリエンテッドな時代に迎合したバブリーなプロダクションは、あたかも株取引で巨額の利益を上げるヤッピーのようでもあり「シブい音楽」を期待する向きは大いに気後れするものだった。
 だが、決して楽曲に手を抜いているわけではなく時間をかけてよく練られたものであることも同時にわかった。
 音群を緻密にペイントしていくようなラノワの手法はザ・バンドとは真逆で、設計図通りに構築された音楽からは隙間が排除されており聴き手の想像力の介入を許さない作りになっていた。
 誰が聞いても同じような聴取感、ゴージャス感を抱かせる作品にすること。
 それがロビーのオーダーだったのだろう。彼の紡ぐ神話はあくまで堅牢であり異なる解釈があってはならなかった。
 もちろんそれでよかったし彼は自分にとって正しい選択をしただけのことであった。誰であれ人生のリセットには相応の豪華な衣装が欠かせない時がある。
 その上で自分にしか作れない、自分にしか歌えない「Tears」と「Rage」を詠み込んだリチャード・マニュエルへの鎮魂歌を。何より1曲目に持ってくること。
 それは戦略ではなく音楽とかつての兄弟たちへの誠意に裏づけられた判断だったと、今も思う。  


Repose en paix

あわれと思はば涙せよ たのしと思はば涙せよ
すでにこの世は水の底 深き涙の水の底

23.8.26









 今年2023年のオルグ映画大賞はもう決まっている。
 「ベネデッタ」である。まさに「第9地区」以来の衝撃だった。
 「エル ELLE」もかなりキテたがベネデッタは倍返しである。この肉食系一点突破型ムーブには脱帽するしかない。ヴァーホーベン、齢84にして枯れてないんだよな。
 「君たちはどう生きるか」は良くも悪くもやっぱり枯れてる。極めて何か日本的な枯淡の境地を表した作品として好感は持てたのだが。
 そこいくとヴァーホーベンの場合「君たちは聖母マリア像になんちゅうことすんねん!」てなぐらいで。
 冒頭の盗賊一味は一旦奪ったネックレスを返してあげる実は良いヤツ、だったのにシャーロット・ランプリング扮する修道院長は敬虔な顔で「神の国への入場料」として法外な寄付金(統一教会と同じ構図だな)を要求する悪いヒトという対比もバッチリで痛快。
 とにかく最強の幻視者にして預言者、そして語義通りのエロテロリストでもあるベネデッタは恐るべきアンファン・テリブル。奇蹟をさえコントロールせんとする一切の迷いの無さに心からシビレた。
 ベネデッタは本物だ。
 特にボクが好きなのは、ミサの時に静謐なパイプオルガンを弾いてたシャーロット・ランプリングの娘が「ベネデッタを新たな修道院長に任命する」という司祭のアナウンスを聞いた途端に思わず手がすべって「ゴワー」って大音量ノイズを出しちゃう場面ね。


ベネデッタは本物

見よ、この澄みきった瞳!この映画を称賛しない理由が見当たらない


23.8.5









Interview with 柴山伸二 Shinji Shibayama Part 1

(Text by 古橋智丈 Tomotake Furuhashi)


渚にての主宰者である柴山伸二は西日本の文化・芸術の主要都市である大阪を拠点に、1980年代初頭から独自の音楽表現を続けている。

彼はその活動の最初期において、英国プログレッシヴ・ロックのムードが漂うEPを自主制作しているが、Idiot o’clock(1989年に柴山のレーベルOrg Recordsから唯一のアルバムを発表している)への加入がミュージシャンとしての本格的な出発点となった。そして、Idiot o’clockとその周辺において活動していた音楽家たちと耕した土壌に架空のバンド”ハレルヤズ” が萌芽し、1986年に300枚限定LP「肉を喰らひて誓ひをたてよ Eat Meats, Swear an Oath」という稀代の果実として実を結ぶ。

彼らが生み出す音楽はとても丁寧で、思慮深いものだ。感触を伴った記憶を赤裸々に描き出すリリックの鮮やかさと歌声の生々しさには類例が見当たらない。また、新鮮な驚きと、官能的で深い愉楽を必ずリスナーに届けるという意味では、責任感が強く律儀な音楽とも言える。全ての楽曲に、即興的に生きる演奏者の意志が顕現している。

ハレルヤズは「日本のポップ・サイケ」としばしば形容されたが、「世界水準のサイケデリック・ポピュラー・ミュージック」と呼ぶべきではなかろうか。彼らは中世日本の都が置かれていた京都の音楽シーンとも深い結び付きがあり、数回のステージを行ったことが記録されている。しかし、信じ難いことにその内実に相応しい評価を得ることがないまま解散してしまった。

竹田雅子は”渚にて”のもう一人のバンドマスターとして、公私ともに柴山伸二と活動を共にしている。渚にては1995年の1stアルバム「On the Love Beach」でハレルヤズのスピリットを継承しながら、歌と演奏が持つ色彩感覚と立体感を異次元的に飛躍させることに成功したが、3年以上の製作期間において”wind”とクレジットされた竹田が作品の完成度―あれほど感動的なアートワークを有した音楽作品があっただろうか?―を決定したことは間違いない。

渚にてはライブアルバムとミニアルバムを1枚ずつ含む、10枚のアルバムを発表している。竹田の心あるドラムズがバンドの骨格を支えていることは言うまでもないが、突然目の前いっぱいに広がるシンバルの音や、タイムワープを描写するように飛び交うエコーなど、彼女が操作するエレクトロニクスが楽曲の持つイメージを大きなスケールに展開している場面も多い。自然な感情を驚異的な解像度で削り出すような作曲と歌唱の天才性は、間違いなく渚にてを特別なバンドにしている。

現時点での最新作である2020年の「ニューオーシャン Newocean」は竹田のヴォーカルで始まる作品だが、煌めくようなサウンドの中でなお輝く彼女の歌声の瑞々しさは、渚にてが30年近く変わることなく、生きることの本質から目を離していないことを証明している。

インタビューでは柴山伸二のディスコグラフィを振り返りながら、制作当時のエピソードや作品コンセプトについてかなり詳細に語ってもらった。今回のセッションで初めて明かされたトピックも非常に多いため、長く彼の活動をチェックしてきたファンにとっても、今回初めて出会うリスナーにとっても、とても刺激的な内容となっているはずだ。
また、少年時代の記憶や家族と過ごす日々についても聞くことができた。ほんのりと温かく、ときに幻想的に感じられる彼の語りに触れることで、歌が生まれる源に思いを馳せることができるだろう。

インタビューは2021年晩夏から2022年春にかけて、長年のファンである古橋智丈が行った。

S=柴山伸二 Shinji Shibayama
F=古橋智丈 Tomotake Furuhashi


Part 1 - ニューオーシャン Newocean




F:最初の質問ですが、渚にてとして10作目のアルバム「ニューオーシャン Newocean」(2020)発表後の近況についてお尋ねできればと思います。身近なことでも世界のことでも、印象に残った出来事や興味惹かれた物や人など、もしくはいま柴山さんの心の中心を捕らえているものなど、お聞かせいただきたいです。

S:「ニューオーシャン」は結成25年目にして過去最高のアルバムに仕上がったという実感がありました。ところが予定していた発売記念のコンサートがパンデミックのせいでキャンセルせざるを得なくなってしまい、とても悔しい思いをしましたがそれは自分達だけのことではありませんでした。
街の風景は一変し、空から飛行機が消えました。大きな価値観の変動がやってきたんだと感じましたね。それは昔TVで見た映画「アンドロメダ病原体The Andromeda Strain」(1971)の恐ろしい導入部そのものでした。
Googleストリートビューでグラスゴーや京都の片田舎の廃屋を瞬時に垣間見ることができるようになった現代では、逆にリアルとフェイクの区別が困難になりました。TVと新聞、雑誌、ラジオしか情報源がなかった時代の方が自分にはリアリティーがあったような気がします。
とはいうものの、YouTubeでソフト・マシーンやCANのライヴ映像を見て喜んでいる自分もいるわけですが(笑)

F:ライヴ映像巡り、やめられないですよね(笑)かつてモダーン・ミュージックの店内で生悦住英夫さんも「YouTubeにはびっくりした、おじさんになったソニックスが見られるんだもの」と苦笑混じりで話していました。柴山さんは音楽や映画などのサブスクリプションは利用されていますか。

S:普段はまったく利用しませんが、先日「Get Back」(2021)を観るためだけの目的で動画配信サービスに登録しましたよ。「Get Back」は予想以上に楽しめる内容でした!

F:ええ、本当に見応えあるシーンの連続でした!柴山さんが初めて人前で演奏したのは14歳のときに組んだビートルズのコピーバンドだったそうですね。当時は4人の中の誰のファンでしたか。
 
S:よくご存知ですね! 全員14歳の中学生ですからとても「コピーバンド」とはいえないお粗末なバンドでした。それでも二ヶ月ほど放課後の音楽室で熱心に練習を重ね、文化祭のステージで一回限りの演奏を披露してその日の夕方に燃え尽きて解散しました(笑)。僕はポールの役でしたが当時は特に誰が好きというよりも、ビートルズに自分の夢想を重ねるだけで満足していました。今はジョージの大ファンです(笑)。


Shibayama 1st live show in 1974


F:私も「Get Back」を観てジョージの魅力にやられました!(笑)
さて、最新作である「ニューオーシャン」からは大きな生命力を感じました。音作りは精密、緻密で、でもアレンジは極めて大胆かつエキサイティングで、何よりバンドとしてのパワーが過去最大ですよね。そこで次にお聞きしたいのはバンドとしての音作りについてです。例えば、前作の「星も知らない Even the Stars Never Know」(2017)までは頭士奈生樹さんのクレジットには参加曲が記載されており、ゲスト参加という印象があったのですが、今回はそれが無くなり他のメンバーと同様にお名前の隣に担当パートだけが書かれています。過去の作品と比べてもメンバー個々のプレイがくっきりと響いているように感じるのですが。

S:頭士くんのクレジット表記の変更によく気づきましたね! これは頭士くんでさえ気づいてないかも知れません(笑)。
「ニューオーシャン」のミックスで頭士くんのギターソロを聞いていた時「頭士くんが渚にてのゲストギタリストだなんていうのは今さら変だな」と思ったのです。「ずっと前から渚にてのリードギタリストは頭士くんしかいないじゃないか!」って。
頭士くんが渚にての曲でギターを弾く時、そのノートに導かれるように曲の中に眠っていたもう一つの物語が現れます。それは作者ですら知らなかった物語です。
彼を含めた5人のメンバーが揃ったのが「遠泳 A Long Swim」(2014)でしたが、この取り替えのきかないメンバーのインタープレイが「ニューオーシャン」ではより緊密さを増しました。
個々のプレイが曲の然るべき場所でそのフレーズ、そのコード、そのビートしかあり得ないピンポイントの音を出しているので、ミックスは誰がどこでどんな音を出しているのかをできるだけわかりやすく示すだけの作業になりました。
と、口で言うのは簡単ですが実際のミックスは複雑な指示が多くエンジニアの須田さんにかなりの負荷を強いる作業でした。彼の高度なスキルと我慢強さには心から感謝しています。

F:とても立体的で、サイケデリックな音像に驚きました。フェーダーやツマミ(knob)をこんなに激しくミックス時に動かすロックバンドって他にいないのでは、とも。

S:ミックスには昔からこだわりがあって、アナログミックスの時代は竹田と2人がかり、時にはエンジニアの手も借りて3人がかりでフェーダーとパンポットとエコーを目まぐるしく操作して作業していましたね。
アナログミックスは曲の進行とリアルタイムでノンストップですから、途中で失敗したら全部最初からやり直しです。自分にとってはライヴよりもずっと緊張感が高い作業で、毎回命を削るような思いでミックスしていました。思い通りのミックスが完了できた時は、まるで思い通りの人生が歩めたような幸福感がありましたね(笑)。
「よすが YOSUGA」(2008)からベーシックトラックはテープを回すアナログ録音で、その後のポストプロダクションはプロ・トゥールズを使った作業に移行しました。
プロ・トゥールズはアナログ時代の苦労を知っている自分にとってハリー・ポッターの魔法の杖のような存在です。キング・タビーのような過激なダブミックスが波形で設計図を書いて実現できるのですから。ただし、その魔法に頼りすぎると音楽から魅力が失せると思います。

F:渚にての演奏はおおらかな祈りのように思えるときがありますが、「ニューオーシャン」を捧げるとしたら誰に捧げますか。

S:「ニューオーシャン」を誰かに捧げるとしたら、娘達二人です。彼女達からもらった力がストレートに「ニューオーシャン」に反映されています。「ニューオーシャン」の1曲目「Newocean」では彼女達のコーラスも聞けますよ。

F:そうでしたか!とても素敵ですね。聴く楽しみがまた増えます。
今回、印象的だった歌詞があって、それは「災いの星」の中の”一番古い塔は 今も倒れずにいる”(“The oldest spire has not yet fallen”)という建築物に思いを託した一節です。同曲の”朽ち果てた東屋 どこか見覚えのある”(“Arriving at the ruined cottage , I had seen somewhere before”)、または「影だけ」の”ゆく手に見えた 憂うつの城も”(“The castle of melancholy once came into view up ahead”)も、俯瞰映像をイメージさせるフィルム的な表現だと感じます。僕は映画監督・柴山伸二を夢想してしまうのですが、そのような機会があったらどのような作品を撮ってみたいですか。
ちなみに、この「建築物歌詞シリーズ」、気になって調べてみたら、8th「遠泳」(2014)収録の「遠雷 Whispering Thunder」の”あの高い塔の上 瞬く星の数”(“That soaring spire , the number of those twinkling stars”)、7th「よすが」(2008)収録の「ひみつ Secrets」の”土の隠れ家には 野ばらのしるしが”(“An earthen den marked by wild roses”)という歌詞も見つけました。9th「星も知らない」(2017)のCDレーベルも、ですね。

S:「建築物歌詞シリーズ」とは初めての指摘ですね。言われてみるとなるほどと思います。ピンク・フロイドのメンバーが学生時代に建築学を専攻していたことと関連があるのかも知れません(笑)。
「一番古い塔」とは、僕が80年代初頭に在籍していたIdiot o’ clockのリーダー高山謙一くんの未発表曲「一番古い塔の歌」からの引用でありオマージュでもあります。
確かに、見知らぬ田舎を訪れた時に目にする廃村の朽ちた家の佇まいに惹かれることが多いですね。空き家かと思ったら洗濯物が干してあって生活の気配があったりすると尚更「一体どんな人がどんな生活をしているんだろう?」とあてどない想像が止まらなくなります。
20代の頃から一貫してフェイバリットな映画監督はルイス・ブニュエルとヴェルナー・ヘルツォークです。映画は音楽とは比べものにならないほどプライベートな表現が許されない世界ですが、もし気まぐれなパトロンに出資してもらえるならば「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を自分なりに翻案してみたいですね。




F:とても興味深いです。以前、柴山さんが音楽の奥深さについて記した文章の中で「ストロベリー・フィールズへは誰かに連れて行ってもらうんじゃない。自分の力で行くんだ。」と書かれていましたね。
ここからは過去へと遡っていきたいと思うのですが、2017年の「星も知らない」はジャムプレイの充実を推進力として未到達の表現領域に踏み込んだように思います。それまでの作品よりも更にシリアスな異化作用を音楽が獲得した印象がありましたが、最近改めて聴いてみて、パンデミック前の行き詰まりと希望で膨らんでいた世界を思い出したんです。とりわけノスタルジックなムードが漂う終曲「存在 Existence」における竹田さんの抑制の効いたヴォーカル表現の豊かさにノックアウトされたのですが、柴山さんが思うミュージシャン竹田雅子の魅力とは。また、竹田さんのベストソングを挙げるとすればどの曲を選ばれますか。

S:「存在 Existence」はプライベートな情感とノスタルジックな詩情があふれた雄大なスケールの曲ですね。このスケール感は僕には出せません。頭士くんのギターソロと吉田くんのピアノソロがその魅力をみずみずしく引き立てる重要な役割を果たしています。
この曲でよくわかるように頭士くんと吉田くんは根っからのプレイヤータイプでプロミュージシャンとして十分通用するテクニックも持ち合わせていますが、竹田と僕はプレイヤーとしては極めて限定的で渚にてという枠の中でしか力を発揮できません。リンゴ・スターがザ・ビートルズというアンサンブルでこそ才能を発揮できたことと同じ理由でドラマーとしての彼女は唯一無二な存在です。
僕にとっては竹田の曲はどれもがベストなのですが、強いて挙げるならば「走る感じAnxiety」と「天のつゆ Dewdrops from Heaven」でしょうか。この対照的な2曲には彼女の才能が象徴的に現れているように思います。

F:柴山さんと竹田さんは頭士さんの素晴らしいアルバム「Ⅳ」(2018)でも存在感のある演奏を聴かせており、ライブバンドとしても気迫が乗っていたように感じました。楽器を弾く姿勢についてバンド結成時と変わったところ、変わらないところを教えて下さい。

S:自分達の歌と演奏の技術面に関しては良くも悪くも最初から見切っているんです。「コンテスト荒らし」ならぬ「コンテスト知らず」と言いますか。渚にての場合は高度なテクニックは必要なく、メンバーの個性と演奏の記名性が音楽の基準の最上位にあります。これはハレルヤズの頃から変わりません。
たとえばリンゴ・スターとニック・メイスンはレッド・ツェッペリンやザ・フーでは使いものになりませんがザ・ビートルズとピンク・フロイドではそれぞれ取り替えの効かない唯一のドラマーです。ドナルド・フェイゲンがビリー・タルボットとラルフ・モリーナを起用することはあり得ませんがニール・ヤングは彼等を必要とし「彼等とだけ行ける場所がある」とさえ言っています。
それと同じ意味で、渚にての5人のメンバーでしか行けない場所が音楽の中に確固として存在していると思います。

F:現在のベーシストである山田隆司さんと、鍵盤奏者の吉田正幸さんが揃って参加した最初のアルバムである2008年の「よすが」について聞かせてください。
生まれたての命のような歌声が寄り添って、終わりを惜しみ慈しむようなナイーヴな演奏があり、内耳を撫でる強烈な歌と言葉は鮮やかさを失っていません。また、目に見える部分でかなり大きな変化がありました。カヴァー・デザインが圧倒的にシンプルで謎めいていること、デビュー以来馴染んできたロマンティックな手描きのバンド・ロゴから青い明朝体に変更されたこと、柴山さんのお名前がカタカナ表記の"シンジ"になっていることなど。正直、かなり思いきったマニフェストにも受け取れるのですが。それぞれにどのような意図があったのでしょうか。




S:「よすが」のジャケットは子供が生まれるのを機会にイメージチェンジをしようと思ったのです。種明かしをすると、オルグのウェブサイトの「ひとこと」の黄色と青の配色が気に入っていて、この2色を使って「NEU!」のような原初的でシンボリックなデザインを考えてほしい、と竹田に注文したのです。それで完成したのがあのジャケットでした。
名前の表記変更は血迷ったというか(笑)、勢いで変えてはみたものの後になって人気アニメ番組の登場人物と同じ名前ということに気がついてそそくさと元に戻しました(笑)。

F:そ…そうだったんですか(笑)
「よすが」の後、バンドとしての活動は2014年に発表される「遠泳」の制作開始までほぼ休止していました。ファンとしては長く感じた数年間でしたが、そのあいだ柴山さんはどんな事を経験し、感じ考えていましたか。また、時の流れは音楽家としてのモチベーションに影響しましたか。

S:「よすが」の制作時は竹田が妊娠中で、リリース年に双子の女の子を授かりました。なので「よすが」の発売記念ライヴは僕一人で行い、それ以降の数年間は夫婦で24時間育児体制に突入することになりました。もちろんライヴどころではありません。ギターやレコードに触れる機会もなくなってしまいました。
娘達が幼稚園に行くようになってやっと自分の時間が持てるようになり、久しぶりにギターを弾いてみると不思議なことに身体の中から滲み出すように新曲が次々と出てきたんですね。そこにはモチベーションというよりも、もっと本能的なものが動いていたような気がします。それらをまとめたのが6年のブランクを経てリリースした「遠泳」です。
無垢そのものの娘達の世話をし毎日一緒に遊ぶ経験は、自分の幼年時代に回帰する感覚と共に人生がリセットされたような新鮮な感覚をもたらしてくれました。一気に視野が広がったような感じですね。谷間を抜けたその先に雄大な海辺の光景が見えた時のような。その新しい感覚が自分の音楽にも反映されるようになったと思います。

F:幼い頃に初めて海の水に足を浸けた日のときめきが「遠泳」に刻まれているように感じます。柴山さんの物心ついて最初の記憶は何の記憶ですか。

S:一番古い記憶は幼稚園に上がる前、2〜3才ぐらいだったでしょうか。夏の早朝に父に連れられて近くの田園へ散歩に行った時のことです。誘蛾灯の下に設置された水を張った皿の中を父に抱きかかえられて見せてもらった記憶があります。
皿の中には蛾や羽虫に混じって大きなクワガタムシが1匹、まだ生きていてジタバタと動いていました。その光景は映画のワンシーンのような感じで鮮やかに記憶しています。

F:それはすごく象徴的ですね!創作の原点に触れているような気さえしますが、ご両親も音楽や映画などを愛好される方なのですか。

S:父はSFが好きだったようで、家にはSFマガジンやアーサー・C・クラーク、ブラッドベリなどの本があったのを覚えています。
一番の思い出は小学校3年の時(1968年)に父に連れられて観に行った70mmシネラマ上映の「2001年宇宙の旅 2001: A Space Odyssey」ですね。映画のコンセプトはまったく理解できませんでしたが、強烈な映像体験のインパクトは今でも鮮明に記憶しています。中盤で15分ほどの休憩時間があって、おにぎりを食べたことを覚えています。




F:柴山さんが音楽にのめり込む重要なきっかけとなったのはFMラジオのエアチェックだそうですが、かつてエッセイの中で柴山家にラジカセ(ラジオ・カセット・プレイヤー)がもたらされたのは、お母様が家族の会話を面白半分に録音する目的だったと書かれていましたよね。

S:10代をそのまま70年代と共に過ごした自分にとっては、1970年に開局されたFM大阪が生活の中でとても重要な存在でしたね。1972年、12才の頃から毎日ラジオにかじりついて最新のロック音楽を貪欲に聴きまくっていました。その頃は家にステレオセットがなかったのでラジオだけが音楽の情報源でした。
特に1973年は重要な年でした。ラジオから毎日のように流れるT. REXやデヴィッド・ボウイ、ビートルズの赤盤(「The Beatles/1962-1966」)と青盤 (「The Beatles/1967-1970」)などは新しい世界への扉を開けてくれました。決定的だったのは、73年春にリリースされたピンク・フロイド「狂気 The Dark Side of the Moon」と、同時期に初来日したイエスの「危機 Close to the Edge」(1972)がどちらも全曲放送されたことです。「ビートルズの向こう側にこんな未知のロックがあった!」脳が痺れるほどのカルチャーショックを受けましたね。どちらもカセットに録音して毎日のように聴き狂ったことは言うまでもありません。
母が家族の会話を面白半分に録音するために購入したラジカセは、あっという間に最重要の音楽マシンとして自分の部屋にしまい込まれました。

    
F:ビートルズとピンク・フロイドの違いはどこにあったのでしょうか。

S:それは根源的な質問ですね(笑)! 論文が書けるほどのテーマです。
簡単にいうと、サイケデリック・ロックという側面では基本的に同じベクトルを有していた両者の違いはレコーディングに対するメンバーの意識のあり方の違いでしょう。
ビートルズは楽曲のリアリティの追求が最優先で、それを実際のサウンドとして定着させるレコーディング作業はエンジニアに一任する二次的なものでした。ピンク・フロイドは楽曲とサウンドを特別な時空間の再現として同列に扱い具体音のSEも楽曲の一部としてデザインしていた点が大きな違いです。
「レボリューション9 Revolution 9」(1968)はミュージック・コンクレートの手法そのものが目的ですが「走り回って On the Run」(1973)はその手法をロックに取り込みジェット機のエンジン音や靴音が聴き手の想像力を刺激するキャッチーなフックとして楽曲と同じバランスで配置されています。
渚にては、両者のいいとこ取りをしているつもりです(笑)

F:刺激的な洞察です!渚にての次回作はアビー・ロード・スタジオで録音するべきですね。
1980年の夏に柴山さんの呼び掛けで結成されたヒルゲーツが初めてのオリジナルバンドだそうですが活動はどのようなものだったのでしょうか。

S:ヒルゲーツと命名したのは僕ですが僕のリーダーバンドではなく、レコードの趣味の合う友人同士が集まったリーダー不在のパーティーバンドのようなものでした。スーパーミルクというバンドをやっていた西村くん(b)、森田くん(ds)と僕が1980年初頭に知り合って集まった男5人と女の子2人でした。
大所帯で女の子がいたのでデフ・スクールやオーケストラ・ルナのようなシアトリカルなバンドをやろうとしたのですが、いかんせん僕を含めたメンバー全員が力量不足でこれといったオリジナル曲を作れませんでした。楽器を持ってスタジオに集まっても演奏する曲があまりないので早々と飲み屋に直行する(笑)というようなこともありましたね。
それでも京都産業大の学園祭と大阪の「スタジオあひる」に出演しました。「スタジオあひる」では非常階段やアウシュビッツといったワイルドなバンドの前座としてギクシャクした冗談のような演奏を披露し失笑を買いました。


F:柴山さんが作る音楽には、ある種のポップス志向が常にあるように思います。もちろんコマーシャルな、という意味ではないですが、日本のインディペンデントにあっては珍しい資質のように感じることがあります。

S:確かにそうですね。最初からポップなものを狙って作っているわけではなく自然にそういうテイストが含まれるようです。理由としては自分のキャラクターがあまりシリアスではないことと、10代の頃(70年代)に夢中になっていたロックからの影響でしょうね。具体的にはピンク・フロイドとロキシー・ミュージックです。もちろんそれらのバックボーンとしてザ・ビートルズが存在します。
また、自分が幼少期の60年代には母が毎日ラジオを聞いていたので世の中が楽天的だった時代のヒット曲のウキウキするような空気感の記憶も大きいと思います。

F:なるほど!ちなみにポップスや歌謡曲の世界でお気に入りの曲や歌手はありますか。

S:それは挙げていくと大変なリストになりますから(笑)ここでは自粛しておいて、、、そう問われてぱっと思いつくのは、ちあきなおみ「喝采」(1972)と麻丘めぐみ「芽ばえ」(1972)ですね。この2曲は思春期の自分にはっきりと刻まれています。

(Part 2 へ続く)


Interview with 柴山伸二 Shinji Shibayama Part 2


S=柴山伸二 Shinji Shibayama
F=古橋智丈 Tomotake Furuhashi


Part 2 - 肉を喰らひて誓ひをたてよ Eat Meat , Swear an Oath




F : 柴山さんの最初のレコード「PICNIC IN THE NIGHT」(7” EP 1981)で、確認できるのは歌詞というより曲名のリフレインとスキャットでしたが、その5年後、ハレルヤズの「肉を喰らひて誓ひをたてよ Eat Meat , Swear an Oath」(1986)で歌が豹変しています。この日本語による歌声の世界はどのように生まれたのでしょうか。

S : 「PICNIC IN THE NIGHT」をご存知とは驚きですね! あれは20才の時に多重録音で作った完全な習作です。10代から聴いていたプログレッシヴ・ロックの影響を無邪気な気分でトレースしてみたような作品でした。
その後京都で活動していたIdiot o’clockに1982年にドラマーとして加入し、ヴォーカリストの高山謙一とギタリストの頭士奈生樹の強烈な個性とオリジナリティに大きな影響を受けました。
Idiot o’clockの音楽はヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニューヨーク・パンク、ピーター・ハミル、60年代のサイケデリック・ロック、日本のGS(グループサウンズ)などのエッセンスを感じさせるものでした。しかし驚くべきことにそれらの要素はトレースではなく確実に血肉化されており、彼等だけのオリジナリティとして再構築されていたのです。
彼等が自分と同い年とは思えないほど早くから音楽的ヴィジョンを確立しバンドとして実行していた事実に打ちのめされましたね。もはや「PICNIC IN THE NIGHT」など稚拙な落書きのようでした。
Idiot o’clockでは音楽だけでなく実に多くのことを学びました。本物のバンドがどういうものか、身をもって知ることができたのです。


そうこうしながら自分の音楽を模索している時に知り合ったのが、中座富士子さんでした。
中座さんの音楽は作為性がゼロで、歌詞とメロディで自分を表現することが生き方と一致していました。古い童謡を歌いながら同時に即興演奏をするような、一見矛盾した世界が彼女の中では当たり前のように存在していたのです。
当時、中座さんはソロアルバムをカセットでリリースしたいと考えていて、僕が録音を手伝いギターを弾くことになりました。飛躍の多いダイナミックなメロディラインが美しい彼女の曲が、頭ではなく身体の中から生まれていることに驚き、強く感化されました。それが僕の意識を覚醒させ、ハレルヤズにつながります。
「PICNIC IN THE NIGHT」からハレルヤズに至るまでの5年間には色々な経験がありましたが、一言で言うと幼年期の終わりがダイレクトに歌に反映されたということだと思います。

F : 文語体の「肉を喰らひて誓ひをたてよ」というタイトルには後戻りできないことへの覚悟を求める迫力を感じるのですが、いま仰った”幼年期の終わり”を示唆しているのでしょうか。また、こちらも出典があるのでしょうか。

S : ハレルヤズのアルバム・タイトルはミックスが完了しても思い浮かばず、決めあぐねていました。
そんなある日、うらぶれた街の通りを歩いていたら路上生活者が道端に自作の絵を並べて売っていたのです。普通の人が買うとはとても思えない野蛮な筆致で描かれた野生動物の絵ばかりでした。その中でも特に強く魅了された1枚がジャケットに使ったものです。
虎の絵を眺めているうちに浮かんできたのが森の奥で肉を食べる孤独な野生動物のイメージで、そこから「肉を喰らひて誓ひをたてよ」というタイトルを考えつきました。




特に出典はありません。文語体になっているのは格好をつけるためですね(笑)。邦画の「復讐するは我にあり」(1979)とか「田園に死す」(1974)のような。古めかしい言葉遣いの中に迫力を醸し出したかったのです。
誓いを立てる(Swear an Oath)というのは、ほとんど練習無しで半ば即興に近い形でレコーディングしたことにつながっています。音程が外れてもリズムが乱れても最初のテイクを使う、と決めていたので後戻りできないことは確かでした。
また、初めての自分のLPを作るぞ!という意気込みも相当あったので、それまでの幼年期との訣別の儀式として肉を喰い(Eat Meat)次の世界へ飛び込む、といった気持ちも込めていたと思います。

F : 様々な物語がハレルヤズに集まっているのですね。
星空を飛びめぐるような1曲目の「I'm not green」で突然地面を失ったような感覚を覚えながら、この曲にはバンドに安定感を与えるはずのドラマーがいないことに気づきます。そしてIdiot o’clockのリーダーである高山さんがリズム・ギターを刻み、タイトルをリフレインします。ハレルヤズでしか創造できない真にオリジナルな世界が実現していることが明らかですが、柴山さんがIdiot o’clockのドラマーだったことを考えても、このパート配置には簡単には至らないように思います。いかがでしょうか。

S : ハレルヤズをレコーディングした1984年から85年にかけてはMTV全盛の時代でフォリナーやマイケル・ジャクソンがヒットチャートを賑わせ、日本のアンダーグラウンド・シーンでは派手なハードコア・パンクが人気を集めていました。
「I'm not green」にドラムが入っていないのはもちろん音楽的に必要ないと判断したからですが、そういった世の中の流行に反発する気持ちもあったことは確かです。パンクにさえ反発心を抱いていたのですからハレルヤズは実に孤立した存在でしたね(笑)。
当時はその曲に普通のロックバンドの編成が必要なのかどうかを自問自答するところから作業を始めていたので、ドラムを入れない曲が複数あるのはそのせいです。
この考え方は、キング・クリムゾンの「Trio」(1974)がドラムレスの演奏にもかかわらずビル・ブルーフォードの名前が「見事な自制心」(admirable restraint)としてクレジットされている(「A Young Person's Guide to King Crimson」(1976)に掲載)ことに感銘を受けたことから生まれました。



F : 確かに「肉を喰らひて誓ひを立てよ」が1980年代中期の作品だったとは、初めて耳にしたときは信じられませんでした。確かに当時の主流からは孤立した存在だったと思いますが、音楽の内実はこの上なく親密で豊かでもあります。とりわけ降り注ぐエレクトリック・ギターの緻密な重なりは他に類を見ないのですが、曲ごとのリードとバックの分担はどのように決定していったのでしょうか。

S : アルバムには頭士くんの「ハレルヤ Hallelujah」と渡辺くんの「季節はずれのクリスマス Christmas out of season」が入っています。どちらも当時の二人のレパートリーで、僕が特に好きだった曲です。LPを作るには自分のオリジナル曲だけでは足りなかったので、頭士くんと渡辺くんに1曲ずつ提供してもらったのです。
また、そうすることで二人の才能を世に紹介できればいいと思いました。
レコーディングする時は、僕の曲は頭士くんか高山くん、あるいは渡辺くんにギターソロを弾いてもらい、頭士くんと渡辺くんの曲では僕がギターソロを弾く、とラフにソロの担当を決めました。あとは基本的なコード進行と構成を簡単に打ち合わせして、できるだけ練習をせずにテープを回したのです。

F : レコーディングに際して「ダイヤモンド・ヘッド Diamond Head」(1975)を仲間たちと完成させたフィル・マンザネラを意識したそうですが、マンザネラのように個人名ではなく架空のバンド名を冠したのは何故でしょうか。また、頭士さんの楽曲に由来する”ハレルヤ”という言葉にはどのような思いを託されたのでしょうか。

S : 自分の初めてのリーダーアルバムを作るにあたって「ハレルヤズ」と架空のバンド名をつけたのは単に「柴山伸二」名義ではあまりにもインパクトがないと思ったからです。強い絆で結ばれた「バンド」というあり方に対する憧れが強かったこともあります。
もちろんその名前は頭士くんの曲「ハレルヤ」からとったものです。初めて「ハレルヤ」を聴いた時、とても他人が作ったものとは思えない、体が震えるような深い共感を覚えたからです。
「ハレルヤ」をこのプロジェクトを象徴するアンセムとして捉えて、複数形の「ハレルヤズ」にするネーミングがふさわしいと感じました。
例えば僕や渡辺くんの曲であっても各自がそれぞれ自分の「ハレルヤ」を歌っているんだ、というコンセプトです。

F : 「ハレルヤ」は現在も頭士さんのライヴでは重要なレパートリーですが、柴山さんによる鬼気迫るソロは圧巻の一言です。柴山さんもまたギターキッズではないかと察するのですが、ギタリストとしては誰に影響を受けましたか。

S : 僕にとって最も重要なギタリストは頭士奈生樹ですね。彼のギターが辿るコースは心から信じることができます。村八分と裸のラリーズでの山口冨士夫の包容力あふれるオブリガートも同様です。



Naoki Zushi


他にはソフト・マシーンのマイク・ラトリッジのオルガンをギターでシミュレートしたかったというフィル・マンザネラのファズ・トーン、デヴィッド・ギルモアの深いベンディング、ロビー・ロバートソンのピンチ・ハーモニクスの澄んだ音色、そしてソロではなくバッキングギターに専念しているときのポール・コゾフのオブリガートなどが生涯を通じて忘れ難いものです。

F : 「季節はずれのクリスマス」では歌詞に寄り添うようなギターが胸に刺さります。作曲者の渡辺隆久さんは楽曲によってギターとベースを持ち変えながら全8曲中6曲に参加していますが、"the ghost"や"Guitar like a star"などのユニークなクレジットはどなたのアイディアですか。

S : "the ghost”や"Guitar like a star"などのクレジットは僕のアイディアです。イーノの「Another Green World」(1975)のクレジットの"Snake Guitar"や"Uncertain Piano"という遊び心のある表記が好きだったので真似てみたかったのです。
「季節はずれのクリスマス」録音以前の渡辺くんは、自宅録音でオリジナル曲のストックを発表するあてもなくひたすら溜め込むだけの状態でした。彼が自分のバンドを結成するのかどうか本人にさえよくわからない時期でしたから、背中を押してあげるような気持ちで1曲スタジオで録音してみないか、と提案したのです。
彼のテープの中で僕が一番気に入ったのが「季節はずれのクリスマス」でした。渡辺くん自身はこの曲にあまり乗り気ではありませんでした(おそらくライヴでは一度も演奏されていません)が、僕が強引に推したのです。
ドラムを叩いた高山くんもこの曲を気に入って「これに絶対合うSEを録ってくるから」と言い、1985年のクリスマスに京都の繁華街の雑踏を録音してきました。そのSEはエンディングに一瞬だけ使われていますが、気づいた人はあまりいないかも知れません。

F : あの不思議な音はクリスマスの雑踏の音だったんですか!
改めて生悦住英夫さんが「肉を喰らひて誓ひをたてよ」に寄せた「この作品がこのまま埋もれてしまったら、日本の音楽に明るい未来は無い。(※)」という言葉は、ハレルヤズの再発が約36年の時を経てアメリカで行われる今、柴山さんの中でどのように響いていますか。

※「G-Modern」創刊号「RECORD REVIEW 埋もれた名盤500選 PART-1」掲載(1992)

以下に全文を引用します。

『イディオット・オクロック、やけっぱちのマリアのドラマーだった柴山伸二が中心となって結成したハレルヤズ唯一のアルバム。このたった一枚のアルバムで解散してしまったことがとても惜しい。  
発売当時、音楽雑誌に殆ど紹介されなかったので知る人ぞ知るというレコードだが、さりげなく、ひとひねりしたセンスのよさは他に例を見ないくらいに見事!  
1曲目の"I'm not green"でのおだやかで危うくはかないギターとヴォーカルは特筆もので、2曲目の"つづき"での頭士奈生樹の独特の味のあるギター(ジャケ裏にはFloating Guitarとなっている)も、抜群のセンスの良さを感じる。  
B面の"季節はずれのクリスマス" "星"も佳曲。最後の"ねがい"では向井千恵が、あの素晴らしい胡弓を演奏している。この作品がこのまま埋もれてしまったら、日本の音楽に明るい未来は無い。(生悦住英夫)』


 

S : 日本の音楽に明るい未来は無かったがアメリカにはあった!という胸に迫る思いでいっぱいですね。地元大阪でも無視されていたハレルヤズの音楽を初めて積極的に評価してくれた人が生悦住さんでした。
1986年、僕は完成したハレルヤズのLPを何十枚も抱えて大阪、京都、東京に出かけては自主制作盤を扱っていたレコード店に持ち込みました。全く無名のプロジェクトでライヴすら一度もやったことがなかったハレルヤズのレコードは取り扱いを拒否される店もあって、気が滅入ってきた時に訪れたのがモダーン・ミュージックでした。
驚いたことに生悦住さんはレコードを持ち込んだその場ですぐにターンテーブルに乗せて全曲通して聴いたのです。そんなことをするレコード店は他にはありませんでした。
ただし彼には取り扱いの条件が一つだけありました。
「まず僕が聴いて、いいと思ったら扱うけど、もし面白くなかったら持って帰ってもらうから」
という極めてシンプルでリーズナブルな条件でした。
そして彼は全曲聴き終わるまで一言もしゃべろうとしませんでしたから、ハレルヤズのLPをあれほど高い緊張感と共に聴いたのはあの時が最初で最後です。
気まずい気持ちの約40分が経過して、やっとB面最後の曲が終わった時に生悦住さんは言いました。
「今日は何枚持ってきてます? 全部預かりますよ!」
あの時の感激は今でも鮮明に覚えています。

F : 「肉を喰らひて誓ひをたてよ」の発表後はライヴ・バンド版のハレルヤズの活動を経て、想ひ出波止場やChé-SHIZU等に参加、1990年に渚にての前身となるラブ・ビーチを結成されます。そして高山さんが京都の繁華街にマイクを立てた10年後の、1995年の12月24日(※)のクリスマス・イヴに記念すべき渚にての一枚目のLP「On the Love Beach」が世に出ます。ここで再び画期的な変化が様々な面で見られますが、柴山さんはこの時期にどのようなことを吸収されていたのでしょうか。

※「On the Love Beach」の発売日は"G-Modern"誌10号('95-96WINTER)の巻末広告を参照しています。

S : 1985年から95年までの10年間は人生で最も忙しくしていた時期かも知れません。
「肉を喰らひて誓ひをたてよ」発表後、全く違うメンバーを集めてハレルヤズとして何回かライヴをやってみました。ですが演奏の一回性を重視したアルバムのコンセプトはライヴで生かすことができず中途半端な結果に終わりました。
そこで自分のプロジェクトはいったん休止して、再結成したIdiot o’clockと渡辺くんの「やけっぱちのマリア」の両方に掛け持ちでドラマーとして参加しました。それが80年代後半の時期でした。想ひ出波止場やChé-SHIZUへの参加はその後ですね。
色々なバンドに出入りしているうちに、ポスト・ハレルヤズというか自分の表現をもっと深く掘り下げた音楽への欲求が高まっていきました。ハレルヤズではまだ曖昧だった自分の作りたい音楽のヴィジョンが、その頃にはより明確に浮かぶようになっていたのです。
90年代になってからラブ・ビーチ(EL&Pのラストアルバムからタイトルを拝借)として自分のプロジェクトを再開しました。今度はハレルヤズのように偶然性に多くを頼ったものではなく、24トラックのマルチ録音を使いこなしてリアルな自分の音楽を形にできる自信がありました。レコーディングを開始してから完成までには3年以上かかりました。それが渚にての1st「On the Love Beach」です。
「On the Love Beach」のレコーディングとほぼ並行してマヘル・シャラル・ハシュ・バズの3枚組「Return Visit to Rock Mass」(1996)のレコーディングも東京のスタジオで開始しました。こちらは完成まで4年半費やしました。



F : もう少し詳しく質問させてください。話の順番が前後してしまうのですが「肉を喰らひて誓ひをたてよ」のゴールを意識したのはどの段階でしたか。またハレルヤズのセカンド・アルバムの構想はあったのでしょうか。

S : ゴールというのが完成の手応えを感じた時だとすれば、アルバム最後の「ねがい A wish」の録音が終わった時でしたね。「ねがい」だけが1986年のレコーディングで、実際にアルバム最後の録音でした。まずリズムボックスに合わせて弾き語りを録り、後で色々な楽器をダビングしました。
アルバムではこの曲だけがセッションでなく多重録音ですが、ヴォーカルは最初に歌ったテイクワンを使っているので演奏の一回性を最優先するコンセプトには抵触しない、と自分に言い聞かせてました(笑)。
最後に向井さんに演奏してもらった時、モニタースピーカーから流れる胡弓の強靭な音色に背筋が痺れるような達成感を感じました。「やった!これで完成だ!」と。
演奏の一回性を最優先した結果、良くも悪くも「危うい感じ」が率直に音に反映できた実感がありました。それと同時に、同じ手法を繰り返すということもまた考えられませんでしたから、セカンド・アルバムは最初から想定外でした。

F : 「ねがい」は名実ともに完璧なエンディング曲だったのですね!アルバムの最初の録音は1984年12月の「Green Lovers」のようですが、他の曲はどのような順番で録音されたのでしょうか。

S : 1984年録音の「Green Lovers」は、元々はハレルヤズではなく一緒に歌っている中座さんのソロアルバムのために作った曲でした。
彼女の歌詞に何となくコードをつけてみたらまるで何かに導かれるような感じで自然にメロディーラインが溢れてきたのです。それは「作った」というよりも僕の人生で初めて借り物でない自分の表現として自然に生まれた曲でした。
残念なことに中座さんのプロジェクトは録音完了の時点で彼女自身の意向によりキャンセルされたのですが、この曲だけが僕の作曲だったので没にするにはあまりにも惜しく、頼み込んでハレルヤズのアルバムに使わせてもらったのです。
頭士くん、高山くん、渡辺くんが揃った最初のセッションは85年8月3日ですね。この日に「つづき The next verse」「ハレルヤ」「すぐ行くよどこにいても I’ll soon follow, no matter where you are」「ピーパラパラ Pie-Para-Para」が録音されています。
「ピーパラパラ」は頭士くん作の未発表曲で、今回の再発のボーナス・シングル7"に収録されています。もちろん今回が初めてのリリースです。若き日の頭士くんの凄まじいギターソロが聞き物です。
85年8月23日に「季節はずれのクリスマス」、85年12月27日に「I’m not green」「星 Star」を録音しています。これら3曲は僕と高山くん、渡辺くん3人のセッションでした。「I’m not green」の曽我晃次くん(ex-L'isle-Adam, Idiot o'clock)のベースは後でダビングしてもらったものです。


 
Idiot                               Shibayama                                   Soga

(1985 Hallelujahs recording session)


F : 同じ日に録音された「I’m not green」と「星」のアコースティック・ギターの響きを聴き比べてみても面白そうですね。
さて、敢えて自身のプロジェクトを休止させ、様々なバンドでサイド・パーソンとして経験を重ねたことがコンセプター、プロデューサーとしての自信に繋がったのではないかと推察しますが、ラブ・ビーチを開始させる直接的な影響を与えた、何かきっかけとなるようなものはあったのでしょうか。

S : Idiot o’clockとやけっぱちのマリアの後に想ひ出波止場に参加したのですがその時点で体調を崩してしまい、しばらくバンド活動を休養せざるを得なくなりました。その休養期間に色々と考えることができました。
ハレルヤズの経験を踏まえて自分の表現のあり方に明確なヴィジョンが生まれていたので、完全な習作だった「PICNIC IN THE NIGHT」から10年を経てもう一度多重録音で決定的なもの、ハレルヤズを超えるアルバムを作ろうと考え始めました。
それがラブ・ビーチというソロ・プロジェクトの形になり、渚にての1stとして結実するわけです。  

(Part 3 へ続く)


Interview with 柴山伸二 Shinji Shibayama Part 3


S=柴山伸二 Shinji Shibayama
F=古橋智丈 Tomotake Furuhashi


Part 3 - 渚にて On the Love Beach




F : 渚にての前身プロジェクトであるラブ・ビーチについて質問させてください。
1993年10月に出版された「ハード・スタッフ」第11号特別付録の柴山さん作「IDIOT O'CLOCKを軸とする人脈図」の中で、ラブ・ビーチについて“編成も含めて可変するコンセプトをポリシーとしており、現在レコーディングを計画中。マヒナスターズや尾藤イサオに触発された日本的な「せつなさ」が多彩なスタジオ・ワークによりシンプルに展開されるだろう。”という注釈が付されています。和製ロカビリー、グループ・サウンズやムード歌謡への接近は唐突な展開のように思えますが、どのようないきさつが隠れているのでしょうか。

S : それは大きく出ましたね(笑)。確かに、渚にて1stの制作初期段階では演歌GS(グループ・サウンズ)、ファンキー・プリンスの「おやすみ大阪」(1969)のカバーをレコーディングしていました。
それは初期ロキシー・ミュージックの手法(過剰な俗っぽさの意匠の裏にシリアスな表現や古典映画からの引用などが入れ子構造のように隠されたコンセプト)を日本的に置き換えてみたらどうだろう、という発想でした。つまりグループ・サウンズやムード歌謡の「いかがわしさ」や「作りもの感」を換骨奪胎して生かせないかと模索した時期があったのですが、深く追求するには動機が足りませんでした。そのとりあえずの成果が「お前を捨てる Deserting You」と「不実の星 The False Stars」に感じられます。


F : そういうことでしたか! さて、1992年録音の「おやすみ大阪」へ竹田さんをバック・コーラスで招いたことが柴山さんにとって大きな転機となったそうですが、ネヴィル・シュートのSF小説(1957)に由来する「渚にて」を名乗るようになったのはその頃からですか。

S : そうです。プロジェクト名がラブ・ビーチではEL&Pをリスペクトしているような印象を与える恐れもあるので(笑)、ビーチつながりでOn the Beach「渚にて」と改名することにしたのです。ただしニール・ヤングの同名アルバム(1974)ではなくネヴィル・シュートのSF小説からの引用という解釈で。おそらくニール・ヤングも同じだと推測されますから。実際には小説よりも子供の頃テレビで見た映画(1959)の方のイメージがずっと濃いですね。

F : 同じ作品にインスパイアされながら、ニール・ヤングは「今ぼくはこの渚で生き延びようとしているのに、まだ鴎たちは手が届かないところにいる」("Now I'm livin' out here on the beach, but those seagulls are still out of reach.")と歌い、誰もが去った後の海辺と孤立者の悲しみを叙景的に重ねているように思えるのですが、柴山さんが提示した世界は生々しく個人的な感情に端を発しながら、別の世界の存在や目に見えない他者を強く感じさせます。
映画「渚にて」から受けたイメージとはどのようなものだったのでしょうか。また特に印象的だったシーンや台詞などはありますか。

S : livin' outとstill out、beachとreachできれいに韻を踏んだ見事なラインですね。ニール・ヤングも映画の「渚にて」の心象風景にインスパイアされたのではないかと思います。ジャケット写真からして映画へのオマージュはあからさまです。全人類が破滅を迎えるという緊迫した設定に反して時として冗長でさえあるスタティックな演出がモノクロの画面と相まって格調高い映画でした。
風に揺れる空き瓶がモールス信号を打っている有名なシークエンスはもちろん、ゴーストタウンとなったサンフランシスコの街並みの描写や最後に再出航する潜水艦を海辺で見送るエヴァ・ガードナーの後ろ姿のシーンが強く印象に残っています。
渚にて1stアルバムの「渚のわたし Me, on the beach」が渚にてというプロジェクトを象徴する重要な曲なのですが、この曲もやはり映画の心象風景、いわば大きな喪失感、漂泊感が背景にあります。とてもわかりやすく言えばエヴァ・ガードナーやニール・ヤングのように海辺で一人たたずみ海の彼方を見つめることの意味を問い正す音楽です。





F : カタストロフィや現世での別れの先にも希望を手離さないあり方や価値観のような、以前にインタビューの中で『絶望の中の希望』という言葉で表現されていたものでしょうか。
「渚のわたし」は最後のコーラスの後、雪崩落ちるようなファズ・ギター、つづく静謐なアルペジオ、長く幽玄なフィードバック音など、歌が終わった後も楽曲のアザー・サイドが丁寧に展開されているように思います。この曲に色濃く反映されている死生観はどのように形成されたとお考えですか。

S : 「渚のわたし Me, on the beach」は我ながら変わった曲だとは思いますがレコーディング当時、工藤冬里くんにラフミックスを聞かせたら「最後の延々と続くインスト部分は一体何を表現してるんですか?」と問われて即答できなかった(笑)記憶があります。
しかし後半のコーダは後から付け足したのではなく曲の最初から切り離せないパートとして生まれたものです。実際イントロからエンディングまでの生ギターを一気に一発録りして、それをベーシックトラックにして他のパートを重ねていったのです。
工藤くんの問いに改めて回答するならコーダが表現しているものは死生観というよりも、この曲が終わっても時間の流れは止まることはない、という感覚ですね。自分が死んでも世界は相変わらず続いていくだろう、というような諦念の入り混じった漂泊感です。それを音で表現してみたのです。
また、それは頭士くんの「花が咲きますように May a Flower Bloom」(2018)の歌詞の一節「夜に星が流れるように 私だったものに花が咲きますように」(“Just like the star shooting in the night sky, May a flower bloom on what I was”)が表す感覚と正に呼応するものだと感じています。

F : なるほど…。工藤冬里さんとはマヘル・シャラル・ハシュ・バズのレコーディングで4年半共同作業をされ、金字塔のような3枚組アルバムを我々に届けてくれましたが、お二人が初めて出会ったのは1980年代ですか。

S : そうですね、80年代後半でした。当時工藤くんはChe-SHIZUでギターを弾いていたので向井さんに紹介してもらったのです。

F : Che-SHIZUの「約束はできない I Can’t Promise」(1984)はハレルヤズを構想していた柴山さんに刺激を与えたそうですね。東京を拠点に活動していたマヘル〜の全楽曲を記録するという遠大なプロジェクトを、渚にて1stの大阪での制作作業と平行して進めるのは全く容易ではなかったはずですが、当時はどのような心境でスタジオに向かっていたのでしょうか。

S : 渚にて1stとマヘル〜のプロジェクトを同時進行で作業することは至福の時間でしたね。毎回スタジオに向かう時は恋人との待ち合わせよりも気分が高揚していたような気がします(笑)。どちらもクオリティの高いものになることは確信していましたし、スタジオにいる時間は100%音楽のことだけに集中できたからです。

F : 音楽の遠距離恋愛ですね!(笑)マヘル〜が参加したB面2曲目(CD7曲目)の「あなたを捨てる Deserting You」の高揚感はボブ・ディラン&ザ・バンドの「地下室 The Basement Tapes」(1975)を彷彿させます。この曲のアレンジはメンバーとの共作でしょうか。冒頭に聴こえるカウントは工藤さんの声かなと思ったのですが。

S : 「地下室」ですか! そんな指摘は初めてですね。カウントもアレンジも僕です。ギター、ピアノ、ドラム、ユーフォニウムの4人でベーシックトラックをスタジオライヴで録りました。ヴォーカルもベーシックと同時に一発録りだったはずです。天井が低く狭いスタジオだったのでセッションの空気感がそのまま入っているのが地下室っぽいフィーリングにつながるかも知れませんね。ベースと他のパートはオーバーダブです。

F : 全体に歌い奏でる喜びが弾け出しているように感じるんです。

S : 「あなたを捨てる」はマヘル〜のレコーディングが完了(実際には当初の録音予定の100曲には至らず工藤くんの終了宣言により頓挫した形でしたが)した直後の演奏なので全体的にリラックスした開放感があるのは確かですね。それとスタジオの狭さが良い方に作用しています。

F : 渚にて1stは最初に録音したギター弾き語りのトラックにドラムやベースを含む他の楽器を重ねて完成させた労作だと知ったときは仰天しましたが、オーバーダブにはハレルヤズに続いて高山さん、頭士さん、渡辺さん、向井さんや、とても多くの才能ある音楽家が参加されています。まさに取り替えのきかない個性が楽曲と一体化しているように思います。作曲の段階から彼らの演奏や歌声はイメージされていたのでしょうか。

S : 渚にて1stの参加メンバーの個性や力量は熟知していたので、曲作りの段階から彼等の演奏をはっきりイメージしていました。結果はどれも僕のイメージを上回るものになりました。特に頭士くんのギターは曲の内包する世界を大きく飛躍させる魔術的な演奏でした。しかも驚くべきことに彼のギターソロはどれもファーストテイクです!

F : 驚かずにはいられません…「彼ら They」の全編に渡るソロもですよね?「裏切りの挽歌 Elegy to betrayal」も楽曲の中盤を頭士さんのギターが強力に牽引しています。

S : 「彼等」と「裏切りの挽歌」は、僕が頭士くんの家に行って生ギターとエレキギターのデュオで一発録りで録音したものがベーシックトラックになっています。つまり頭士くんのギターソロは最初から存在したので、後からオーバーダブした楽器やコーラスなどのアレンジはほとんど彼のギターの辿るコースが導いてくれたようなものです。

F : もう少しだけ細かい質問をさせてください。「愛のしるし The signs of love」の歌い出しのフィンガー・スナップが曲の終わりに再度鳴らされ、これがA面の終わりの合図のようにも聴こえるのですが、CD版にもインターミッションを入れるための意図的なものだったのでしょうか。

S : 「愛のしるし」のイントロとエンディングのフィンガー・スナップは、マジックショーの催眠術の始まりと終わりの合図のようなイメージで入れたものです。ご指摘の通りそれがLPでもCDでもB面(後半)に移行する前のインターミッションの合図としても機能するように配置しました。

F : 催眠術のイメージだったとは!
オリジナル盤CDは装丁もレコードとは異なる工夫があちこちに見られましたが(歌詞カードを留めるホチキス(stapler)が緑色に塗ってあったのがとても好きです)、アートワークの決定にもかなり時間をかけられますか。

S : アートワークは音楽と同じぐらい重要なので、毎回時間がかかります。作業自体よりもぼんやりしたイメージが明確なアイディアとして浮かんでくるまでが長いですね。作曲と似たようなところがあります。

F : もはや驚きの連続で言葉がなかなか出ないのですが…。インタビューの始めの方でプロ・トゥールズを魔法の杖に喩えていましたが、頭士さんのプレイはもちろん、柴山さんの着想と実現への執念が信じられないマジックを呼び寄せているんだと思います。
インストゥルメンタル、というより美しい合唱曲のような「渚にて On The Beach」にも竹田さんのwindが吹いているのを強く感じます。もちろんwaveの響きも。冒頭の笛の音は「不実の星 The False Stars」でも聴くことができますが「渚のわたし」の歌詞まで笛の存在を辿ることができます。ここからさらに竹田さんのオカリナを連想するのは流石に深読みというものでしょうか。

S : 1stの時点では竹田がオカリナを持っていることは知らなかったのですが、そこまで連想されるとは素晴らしいと思います。
種明かしをすると「笛」というキーワードは、その時期の僕のヴィジョンに色濃くイメージが重なっていた高野悦子の「二十歳の原点」(1971)の最終章に出てくる無題の詩からの引用です。京都の大学へ行くことを選んだのも「二十歳の原点」に登場する実在のジャズ喫茶「しあんくれーる」(1990年閉店。建物も現存しない)でタバコを吸ってみたかったから、という動機がありました。
あの詩全体が「渚のわたし」ひいては1stアルバムの故郷のような存在です。一人きりで笛を携えて旅に出た彼女がその後どうなったのか。現実には自死という悲しい選択をせざるを得なかった彼女が、もし違った選択をしていたとしたら…湖からひっそりと帰還していたかも知れない。その時に聞こえる音楽があったとしたら、きっとそれは誰も聞いたことのない調べに違いない。
そんな夢想を音にしてみたい、と自分の音楽を作り始めた頃からずっと思っていました。ですがいつも願望のままで形にすることが長い間叶いませんでした。竹田と知り合って彼女の歌う声を聞いた時、その夢想が逆流するように甦りメロディと歌詞を伴って戻ってきたのです。そこにギターでコードをつけると自然に「渚のわたし」になりました。


 

 
旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗闇の中に漂いながら
笛をふこう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

1969.6.22 高野悦子



F : ひとりの人間を激しくつき動かす詩の力と、夢想を素晴らしい作品に昇華した思いの強さと、運命的な出会いに心から感動します。「二十歳の原点」という本がなければ、柴山さんとIdiot o’clockとの邂逅も、ハレルヤズや渚にての実現も叶わなかったかもしれないと思うと途方もない気持ちになりますね。

S : そうです。「二十歳の原点」を高校の図書館で読んだことが京都に住むきっかけとなりました。少なくとも京都に行かなければハレルヤズのLPは存在しなかったかも知れません。


 
1985 Hallelujahs in Kyoto


F : さて、渚にて1st発売の半年ほど前に行われたデビュー・ライヴで、いよいよ竹田さんがバンドのメンバーとして舞台に登場します。もともと竹田さんの歌声から生まれた渚にてですが、実際に竹田さんが演者として参加することは自然に決まっていったのでしょうか。

S : 古橋さんは1995年の渚にてのデビュー・ライヴをご覧になっているんですよね。あの時はメインアクトのシュガープラントがギターポップ系?の人気バンドで場内満員でしたが、渚にての八方破れな演奏に客席が静まりかえっていたのをよく覚えています。あの緊張感はその後、新宿ロフトでゆらゆら帝国の前座を務めた時に十倍返しで継承されました(笑)。
最初は渚にてのレコーディングの見学がてら「その他大勢」のコーラスで参加しただけだった竹田が、その後紆余曲折を経てメンバーとして参加することになったのは必然的な流れだったと思います。

F : 1995年5月21日のデビュー・ライヴは僕も緊張しながら開演を待った記憶があります。その前年に「肉を喰らひて誓ひをたてよ」のオリジナル盤を持っていた友人からダビング・テープをもらって聴いていたのですが、こちらの勝手な想像で、眼光鋭く恐ろしげな男達の登場を予想していたので(笑)
果たして柴山さんはサポート・メンバーの田端剛さんと共にアコースティック・ギターを掻き鳴らしながら顎を上げ朗々と歌い、ハーモニカを吹き、竹田さんはまるで絵筆で形をなぞるような手捌きでスティックを振り、小石を蹴るようにバス・ドラムをキックしながら歌っていました。それは正真正銘の"初めて出会う音楽"でした。半年後に発表された1stアルバムとも、言うまでもなく、同じではありませんでした。
同じではないという意味では"アクースティック・ライヴ・コズミック・ソウル"の2nd「太陽の世界 The True Sun」(1997)も、2枚組の大作となった3rd「本当の世界 The True World」(1999)も、タイトルこそ対句になりますが生み出した世界は独立したものだと感じます。
この時期に竹田さんが主導する楽曲も増えますが、バンドの揺籃期に竹田さんが果たした役割とはどのようなものだったのでしょうか。





S : もともと演奏技術や歌唱力はプロとしては通用しないレベルでしたし、マルチトラック録音を駆使したアルバムのサウンドをライヴで再現しようとはまったく考えませんでしたから、初期のライヴはよく言えばパンク、客席からすると恐れを知らない野蛮な演奏にならざるを得ませんでした。
渚にては最初からどのシーンにも属さない異端的な存在でした。ホームグラウンドである大阪でさえ、とあるパーティーで演奏した時に客席から「どこのバンド?」と聞かれたほどでしたから。
そんな異端的な存在であるバンドの中で竹田はさらに異文化的な役割を帯びています。渚にてに参加するまでロックバンドも作曲することも経験したことがなかった彼女の存在は、さしずめカンにおけるダモ鈴木のような触媒的なポジションに近いと思います。彼女の存在がバンドの音楽を予定調和から逸脱させ予測不可能な位相へ飛躍させることを可能にしたのです。「本当の世界」収録の竹田の楽曲はその実例でしょう。

F : 「走る感じ」の俳句的な歌詞とメロディー、効果的に配列された和音と炸裂するファズギターはプレイされるたびに意識の目盛を振り切っていきます。改めて柴山さんにとってパンクとは。

S : 僕にとってパンクとは、リチャード・ヘル&ヴォイドイズのOrkからのシングルと「ブランク・ジェネレーション」そしてスーサイドの1stアルバムに尽きます。
1976年から77年にかけてはファウストやカンなど日本盤が発売されない未知のプログレッシヴ・ロックのレコードを探し求めることで精一杯だった時期ですが、そこに突然現れたのがパンク・ロックでした。
ヘルやスーサイドと先鋭的なプログレッシヴ・ロックは僕の中ではまったく抵触しませんでした。どちらも演奏スタイルの意匠からマーケティング的に作られたのではなく、表現欲求の核心が破れかぶれのシャウトや異様な奇数拍子を必然的に生み出していたからです。実際、僕はヘンリー・カウとスーサイドを同じ気持ちで聴いていました。
演奏技術や歌唱力の巧拙で音楽を推し量る価値観などクソ喰らえ的な感覚のもとに生まれるリアルなロック音楽をパンクと定義するならば、その始祖としてパンク以前に存在したオノ・ヨーコの1stアルバム「Plastic Ono Band」(1970)の破壊力も未だに有効で忘れ難いですね。




F : 振り返ると、柴山さんがおっしゃる表現欲求の核心がむき出しの形で現れていたのが1990年代末の渚にてだったように思います。
ちょっと余談的な質問になってしまうかもしれないのですが、2000年前後のライヴでスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Runnin’ Away」(1971)を日本語でカバーしていましたよね。どこかしら世紀越えの気分が反映されていたと思うのですがいかがでしょうか。

S : ミレニアムということとは無関係で、竹田が気に入った曲を勝手に改変というか全く別のオリジナルの歌詞をつけてカバーすることに凝っていた時期がありましたね。スライの「Runnin’ Away」がそうですし、ヴァージン・インサニティーの未発表曲や羅針盤の「生まれかわるところが」にも竹田が作った全然違う歌詞をつけてカバーしたこともあります。それはそれでライヴに花を添えることができて楽しかったですが、その後カバーには関心はなくなりました。他人の曲におせっかいするよりも自分達のオリジナル曲を増やす方がもっと楽しいと気づいたからです。




F : 2001年に発表された4th「こんな感じ Feel」の音像はリッチで突き抜けるような鮮やかさかあり、アートワークも溜め息が出る程美しく、瑞々しく仕上がっています。
作詞・作曲者は柴山さんと竹田さんの連名となり二人の一体感が更に増したように思うのですが、アルバムの前半は二人によるスタジオ・ワークが、後半はゲスト・プレイヤーとの交感が中心に構成されているようにも思えます。制作にあたって活発なアイディア交換とディスカッションを重ねたそうですが、特に印象に残っている出来事などはありますか。

S : バンドとしての渚にての本当の出発点になったのがこのアルバムだと思います。お互いに出し合うアイディアをどれも思い通りのサウンドに反映できていくレコーディングになりました。まさに「サイケデリック・パノラマ」という感じの現場でした。曲ごとに色々なゲストを呼んで演奏してもらい毎回とても楽しかったですね。
当時は羅針盤のメンバーだった吉田くんのオルガンが渚にての音楽にぴったりフィットしたので感銘を受け「キミは今日からうちのメンバーになってもらうからね!」と冗談半分で勧誘したことを覚えています(笑)。
フルアナログ録音だったので重いマルチテープのリールをひっくり返す逆回転録音を何度も繰り返し、エンジニアの中村さんが「もう腕が上がんないっすよ〜」とぼやいていたのも楽しい思い出です。

F : 逆回転サウンドの誘惑は本当に強力ですよね(笑)。吉田さんが参加した「川をわたる歌のうたSong about a river crossing song」がとても好きなのですが、「太陽がふえていく」(“The sun multiplies”)という一節が1997年以降歌詞を更新しながら歌われている「太陽の世界」を想起させます。また、最後のコーラスは「本当の世界」のパラレル・ワールドのようにも聴こえます。セルフ・オマージュとも受け取れるこの曲にはどんな思いを込められたのでしょうか。

S : 「川をわたる歌のうた」はタイトルが示す通り、メタフィクショナルな手法を実践した曲です。歌の中に別の歌が存在する入れ子構造の曲を作りたかったのです。着想の由来はジョン・レノンの「Glass onion」(1968)ですが、「Glass onion」はその手法が目的となっていた曲でした。渚にてはその先を行きたかったのです(笑)。
「川をわたる歌のうた」ではメタフィクションとしての自分の曲の歌詞からの引用だけでなく、同じコード進行にのせて複数の異なった歌メロ、ギターソロのメロディが登場します。これは自分でも納得のいく出来ですね。
また、この曲は竹田との完全な共作という点も重要です。僕が前半部(Verse)を作った時点で詰まっていたら、竹田がサビ(Chorus)の後半部を作ってくれたのです。そのおかげで思いがけずスケールの大きな曲になりました。

F : なんと!曲構造までメタだったんですね…!
二人のヴォーカルの分担はどのように決まっていくのでしょうか。また、バンドでアレンジを詰める前に自宅でデモ・テープを作成されるのでしょうか。

S : 自宅でのデモ録音はメロディの原型をハミングでテープレコーダーにメモして簡単にギターのコードを考えておく程度しかしません。いわゆるプリ・プロダクションはまったく行わず、大まかに完成したらメンバー全員でスタジオに入って何度も練習しながらアレンジを練っていきます。その過程が一番楽しい時間かも知れませんね。
ヴォーカルの分担は基本的に作曲者がリードヴォーカルをとるというビートルズ方式になっています。

F : 「星々 Stars」はライヴでも最後に演奏されることが多い曲です。星空もまた水辺の光景と同じく、柴山さんの創作の原風景なのでしょうか。

S : その起源はやはり1968年に観た70mmシネラマ上映の「2001年宇宙の旅」ですね。小説版の方に出てくるボーマン船長最後のセリフ「なんてことだ、星がいっぱいだ! My God, it's full of stars!」からスター・ゲート("Jupiter and Beyond the Infinite" sequence)へ移行する場面は生涯を通じて忘れられません。




F : あの星々に繋がっているんですね!
渚にて1stのサウンドの核となっていた田中栄次さんを再びベースに迎えライヴ活動を続けながら、2004年に5thアルバム「花とおなじ The Same As A Flower」を発表します。田中さんとは渚にて以前にも共演されたことはあったのでしょうか。

S : いえ、田中くんと一緒に演奏するのは渚にてが初めてでした。81年〜82年頃に彼が変身キリンで演奏しているのを何度か見ていて目をつけていたのです(笑)。

F : 10年以上も!(笑)
「花とおなじ」で表拍にドンと重心が乗った8ビートが個性として確立した印象があって、ニール・ヤング&クレイジー・ホースとの近似性を語るディスク・レビューを読んだ記憶もあります。個々の歌や演奏と同様に、バンドサウンドにも渚にての記名性が濃くなったように感じました。

S : 2004年の「花とおなじ」から、専任のベーシストが加入したことと竹田のドラムがこなれてきたことでリズム面での強化が生まれました。ベースラインの「芯の部分」しか弾かない田中くんの演奏は重量感があって確かにビリー・タルボットに似たところがありましたね。
長年の理想の形として「Zuma」(1975)の塊のようなバンドサウンドを思い描いていたので、少し理想に近づけた実感がありました。

F : リリックの完成度も非常に高くて、歌詞カードを眺めるたびに研ぎ澄まされた言葉と文字の配置に驚きます。言葉の上で影響を受けた人や作品はありますか。

S : 僕が若い頃に言葉の面で影響されたのは島尾敏雄です。彼の作品に一貫している、常に平易な言葉使いでいながら深遠な表現をさらりと提示する作風は歌詞作りにとても参考になりました。
バンドでは村八分(チャー坊)と四人囃子(1stアルバム「一触即発」(1974))の歌詞世界に触発されるものが多くありました。特にチャー坊のひらがなの表音文字としての抽象性をイマジネーションの惹起に生かした和歌的な作風は島尾敏雄に通じる面もあり、いまだにシビれますね!


F : 今のお話を聞いて「雨が木の葉に乗る時 春になる あなたがこだまする時 歌になる」(“When rain sits on the tree leaves , becoming spring. When you reverbrate within me , becoming song.”)と歌う「いばら Bramble」を思い出したのですが、アルバム全体を通じて生きることや歌うことの意味を振り返っているような印象があります。ジャケット写真のフォーカスが柴山さんではなく後ろの梅の花に合っているのも示唆的に感じるのですが。

S : 「花とおなじ」のジャケット写真のフォーカスが僕ではなく背景の梅の花に合っている点を指摘されたのは今回が初めてですね!
もちろんアルバム・タイトルにちなんで「主役はヒトではなく花である」というメッセージを伝えたかったのでこの写真を選んだのです。リリース当時のプレス取材時に誰か一人でもこの点に気づいてくれないかな、と密かに思っていたのですが残念ながら音楽ライターの方は誰も指摘してくれませんでした(笑)。
生きるということは日常の連鎖ですが、その連鎖の中でふと風が吹いて木の葉がそよぐといった何でもないような事象に魂を持っていかれることがあります。そういった日常のヴェールにひそむ神秘を拾い上げることが渚にてのテーマです。




F : ああ、そのテーマは一貫していますよね!「川 River」では、湧き出る歌声がスピーカーの奥から手前、左右に滔々と流れていくような立体描画的な音作りがされていますが、官能性というか、聴覚以外の感覚にも訴えるようなタッチがあると思うんです。
曲作りの際に具体的な場面や場所、風景、体験の再現をイメージされることはありますか。

S : 官能性という感覚は自分の音楽の価値基準に欠かせない重要なポイントなので、そう言っていただけると嬉しいですね。
ケヴィン・エアーズが晩年のインタビューで「表現したいことはいつも一つだけで、そのいく通りもの違った言い方を考えるのがソングライティングなんだ」と語っていたのがとても印象的でした。僕も同じです。
題材としての映画や文学などから発生する様々なイメージ(ネヴィル・シュートの「渚にて」や高野悦子の詩など)にインスパイアされることはありますが、結果的に生まれた作品はいつも同じ方向を向いていると思います。ケヴィンのいう通り、ハレルヤズから「ニューオーシャン」まで毎回同じ一つの高みを目指して作ってきたという気がします。一作品ごとに山頂に少しずつ近づけた感触がありましたが、ひょっとしたら頂上を極める時はやってこないのかも知れません。

(Part 4 へ続く)



Interview with 柴山伸二 Shinji Shibayama Part 4


S=柴山伸二 Shinji Shibayama
F=古橋智丈 Tomotake Furuhashi


Part4 – 夢のサウンズ Dream Sounds


F:変則的な順序でヒストリーを振り返ってきましたが6th「夢のサウンズ Dream Sounds」(2004)でひとまわりです。「夢のサウンド」というフレーズは竹田さんがそれより以前から使われていたようです。また、島尾敏雄も夢にまつわる作品をいくつか上梓しています。さらに、グループ・サウンズ、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ Pet Sounds」(1966)など様々な言葉や事物が連想されるのですが、このタイトルの意味するところとは。

S:二人でお気に入りのレコードを聴いている時に竹田が「これは夢のサウンドやね」という言い方でほめることが時々あったのです。その「夢のサウンド」いう言葉がずっと僕の脳裏に残っていて、これこそ渚にてのアルバム・タイトルにピッタリじゃないか!と気づき、複数形にして「夢のサウンズ Dream Sounds」と命名しました。
それはご指摘の通り日本のグループ・サウンズや「Pet Sounds」ともつながりますし、ひいては多くの音楽の先駆者たちが作り上げた美しい名盤の数々へのオマージュとして捧げる気持ちを表しています。
島尾敏雄もそうですがケヴィン・エアーズも夢をテーマとする作品(「The Confessions of Dr. Dream and Other Stories」(1974))を残していますね。いつの時代にも夢の世界に惹かれない人はいないのではないでしょうか。
音楽が「夢のサウンド」という語感と最も一致したのはマイルス・デイビス「Workin’」(1960)のPrestigeオリジナル・モノラル盤を二人で聴いた時でした。「It Never Entered My Mind」のレッド・ガーランドの美しいブロックコード (Block Chord)のソロの音色に「これは本当に夢のサウンドやな〜」と二人とも思わず声が出たのです。




F:柴山さんの作品にも夢うつつのような世界がしばしば描かれますが、昔から繰り返し見たり、目覚めた後も心惹かれるような印象的な夢を見たことはありますか。

S:強い印象を残す夢は昔から数えきれないほど見ていますね。
幼い頃に繰り返し見た夢の一つは、自分の身体が宇宙空間のような広大な暗闇に浮かんでいて、徐々に巨大な惑星に近づいていって衝突しそうになるという夢です。もう少しでぶつかる!とすごく怖くなった時点でハッと目が覚める、というものでした。
もちろんその時は惑星という認識はないのですが、後から解釈するとそう思える巨大な物質が眼前にいたのです。とてつもない恐怖で目が覚めて「今のは夢だったんだ!よかった!」と布団の中で安堵した時の幸福感は今でもよく覚えています。忘れかけた頃に同じような夢を見て「また見てしまった、、、」という悔しさのような気分もまだ残っています。
ひょっとしたら同時期に放送されていた「ウルトラQ」(1966)を見て怖かったのでうなされただけ、のような気もしますが(笑)。

F:ちょっと脱線してしまうかもしれないのですが、「ウルトラQ」は映像やストーリーはもちろん、音楽、SEも最高ですよね!(笑)未知の世界をリアル化する謎の電気音、深いリヴァーヴやテープ・エコーのフィードバックなど、後年の音楽的嗜好と関係があるのではないでしょうか。

S:「ウルトラQ」のテーマである「アンバランス・ゾーン」の異次元コンセプトと造形デザイン、音響は当時の子供たちに大いなるトラウマと影響を植え付けたと思いますね。僕もそのうちの一人です。その頃の一般家庭はカラーテレビが普及しておらず、モノクロ放送だったことも逆にイマジネーションをかき立てる要素だったのではないでしょうか。
もちろん怪獣も大好きでしたが、逆に異様な感触が印象に強く残ったのは怪獣が出てこない回でした。「1/8計画」「悪魔ッ子」「あけてくれ!」など実に恐ろしくリアルでした。不気味なSEは今考えるとサイケデリックですらありましたね。もちろん後年の自分の音楽にも「ウルトラQ」の影響は及んでいると思います。それは僕にとっては原風景というか基本というか、さしずめ「裸のラリーズ」Les Rallizes Dénudésのようなものです。







F:裸のラリーズに繋がりましたか!
さて、ここからはいくつかランダムに質問をさせてください。
「ニューオーシャン Newocean」というアルバム・タイトルについて、newとoceanの間にブランクを入れない、ちょっと珍しい英語表記ですよね。単に「新しい海洋」と解釈するよりも、未発見の海域のようなものをイメージします。

S:「Newocean」は長らく仮タイトルで演奏していましたが、リリースにあたって正式なタイトルを考えたのは竹田です。いつもの通り直観的にひらめいたそうです。これをアルバム・タイトルに決定して綴りにブランクを入れず表記するアイディアは僕です。
これも種明かしをしてしまうとケヴィン・エアーズで、僕が一番好きな彼の作品「Whatevershebringswesing」(1971)に影響されたものです。ニュアンスとしては「新たな海」ではなく「あらたなうみ」と別次元の言葉に改変するという感じですね。

F:なるほど、納得です!また一つ新たな扉が開いたような印象です。
さて、次の質問です。日本と他の国とでは、ハレルヤズや渚にての受容のされ方に違いを感じますか。また、2007年にはスコットランドで渚にてのライヴが行われましたが、どのような反響がありましたか。

S:国ごとの反応の違いはわからないですが、世界各地からの渚にてのアナログ盤のオーダーは毎年増えています。注文が多いのはアメリカ、オーストラリア、中国、イギリスです。ここ数年は中国の富裕層と思われる人からの大人買いのオーダーが急増しました。「オルグレコードの購入可能なアイテムをLPもCDも全部買います!」といった感じですね(笑)。
2007年のイギリスでの演奏は今のところ渚にての唯一の海外公演です。スコットランド中心部のスターリング(Stirling)にあるトルブース(Tolbooth)という中世の牢獄を改造した公共施設のホールで演奏しました。
トルブースで開催されるアートフェスティバルに日本文化とトーキョー・アンダーグラウンド・シーンの最先端の音楽を紹介する、というテーマのイベントがあり毎年のように日本のバンドを招聘していました。灰野敬二やマヘル〜、光束夜まで公費で招聘していましたから驚きです。その流れで渚にてにもオファーが来たのでした。
客席は満員でしたが年齢層が高めで知的な感じの紳士淑女が多く、渚にての野蛮な演奏にはほとんど無反応でした。それはちょうど1995年の東京での渚にてのデビュー・ライヴの時のような雰囲気でしたね(笑)。リハーサルでミキサーから「ギターが大きすぎる、もっと音量を下げないと歌が聞こえないぞ」と何度も注意されボリュームを下げましたが、本番では元の音量に戻して演奏しました(笑)。
渚にてと同じ日にイクエ・モリ(Ikue Mori)とジーナ・パーキンス(Zeena Parkins)のデュオが出演していました。ラップトップによるノイズとエレクトリック・ハープの即興演奏で、音量も控えめで品の良い芸術的なプレイが拍手喝采を呼んでいましたね。
トルブースのすぐ近くには絵本に出てくるようなスターリング城があり、風がキラキラ光る視界が大きく開けた田園地帯で、その緑の美しさはとても印象に残っています。

F:非常に興味深いエピソードです!イクエ・モリと言えば「NO NEW YORK」(1978)も柴山さんのフェイバリット・アルバムでしたね。
改めて柴山さんにとって”即興(improvisation)”とは、どのような意味を持ちますか。

S:またもや根源的な質問ですね(笑)。デレク・ベイリーはそのテーマで分厚い本を執筆しています。勉強が苦手なので多くを語ることはできませんが、あらゆる優れた音楽は即興演奏だと考えています。グレゴリオ聖歌もブルーズもインプロヴィゼーションから始まって発展した音楽でした。
楽譜に書かれた一つのピアノ曲でも3人のピアニストが演奏すれば3つの音楽が生まれるように、音楽にはどのように演奏しても良い自由が備わっています。ハレルヤズで目指したのは、あらかじめ作曲された曲がどのように演奏されるのか作曲者自身にも予測できないような瞬間を獲得するというコンセプトでした。そこには用意されたメロディを初めて歌い演奏する時の驚きと楽しさがありました。それこそが僕にとっての”即興(improvisation)”でした。
渚にてはハレルヤズほど極端なアプローチではありませんが心の中では同じ気持ちで演奏しています。同じ曲でも演奏するたびに毎回違った音楽になるのです。
古典的な”即興(improvisation)”のパッケージで僕が一番美しいと思う作品がベイリーの参加したグループ、SME(Spontaneous Music Ensemble)の2ndアルバム「Karyōbin」(1968 Island ILPS 9079)です。これはいわゆる「フリージャズ」ではなく音楽へ向かう無垢な魂の交感の記録だと思います。長い間入手困難なレコードでしたが現在では良質のリマスターCDがリリースされています。






F:とても良く解ります!音に対する混じり気のない新鮮な驚きや自由を常に大切にされていますよね。柴山さんはレコーディングで制作する音楽と、ステージでの演奏との違いについてはどのようにお考えですか。

S:スタジオでのレコーディングとライヴはまったく別物です。もちろんレコーディングでもベーシックトラックをスタジオライヴで一発録りしてベストなテイクを選ぶところから始めるのですが、その後のポストプロダクション、オーバーダブに想いを巡らせるのがとても好きなのです。
もちろんステージでの決して後戻りの効かない緊張感も大好きです。渚にての音楽のパラレル・ワールドがレコーディングスタジオとステージに存在していると思います。

F:もしも渚にてのメンバーでタイムマシンに乗れたらどんなツアーをしますか。

S:そうですね。タイムマシンよりもプライベートジェット機に乗ってローディー付きのワールドツアーをしてみたいですね。タイムマシンより実現性は低そうですが(笑)。

F:渚にてワールドツアー!実現へ向けてまずはパンデミックの終息を祈ります!
ところで「ニューオーシャン」のアートワークに使用された写真はパンデミック前に旅先で撮影されたもので、アルバムの内容と偶然一致したため採用されたと聞きました。思えば、渚にてのアルバムジャケットは野外で撮影された写真がほとんどですよね。よろしければ撮影時の印象に残るエピソードや、旅の記憶などを聞かせていただけませんか。

S:「ニューオーシャン」のジャケット写真はおっしゃる通りです。これまでのアルバムのジャケット写真の撮影場所は自宅のすぐ近くから飛行機に乗らないと行けない遠く離れた場所までさまざまですが、具体的に説明するとイマジネーションが限定されるのでやめておきましょう。
スナップショットとして無意識のうちに撮った写真が偶然アルバムのコンセプトに一致していたのでジャケットの表紙として採用したのは1stと「ニューオーシャン」ですね。この二つは本当に内容と正確に呼応した、象徴的な写真だと思います。

F:確かに音楽とヴィジュアルがひしと抱き合っているようです。そして、様々なことを想像させるアートワークですよね。明け方とも夕方ともつかない色彩の光や、ふくよかに薫る季節感など…もはや質問というより感想ですが(笑)
以前に私信でお話した「星も知らない」と「遠泳」の裏ジャケットを90度回して並べると、まるで絵合わせのように繋がって見えるというのも、偶然であって偶然ではないというか、「表現したいことはいつも一つだけ」という言葉が引き寄せた必然にも思えます。
音楽を作ることに"運命"を意識されることはありますか。
また、もうひとつ番外編的な質問なのですが、「何かが空をやってくるSomething Wicked This Sky Comes」のフシギなカリンバは、ひょっとしてお嬢さんたちが弾いているのでしょうか。クレジットを見てもカリンバについては書かれていないので、もしかしてと思いましたが。

S:なんと、カリンバのクレジットを忘れていました! リリースから1年以上経ってから気づくとは不覚です(笑)。弾いているのは娘たちではなく僕です。
「何かが空をやってくる」は入り組んだオーバーダブを多用したのでライヴではとても再現できない曲になっていて、自分ではその点が気に入っています。エンディングでかすかに聞こえる発振音はミックス時に使ったビンソン・エコーレック(BINSON ECHOREC)が勝手に発振して偶然録音されてしまったものですが、それがまさにレトロフューチャーなUFOの飛行音のように聞こえて面白く、消さずにそのまま残しました。
音楽を作る時だけに限らず、運命というようなことを意識することは時々ありますね。自分の人生において重要な意味を持つ人々との出会いもそうです。ご指摘のように別々のアルバムのジャケットデザインがピッタリと符合するという偶然も、ビンソン・エコーレックの発振音も、みな同じことのように思います。すべて後になってから気づくのですが。

F:実に心惹かれるお話ですね!
ここでいくつかの楽曲の背景について伺いたいと思います。まず「星も知らない」の冒頭「光る風 Gleaming Winds」について。これは山上たつひこによる同名のディストピア漫画(1970)のラストシーンを想起させます。また「ニューオーシャン」の「失意のうちに Despair」も歌詞の中で現在、過去、未来という時間の流れが交錯するような描写があり、眩い音響の中にも心の影が垣間見えるように思います。「遠泳」以降、歌詞に刻まれる意識や感情の痕跡がより深みを増したように感じられるのですが、いかがでしょうか。

S:それはとりもなおさずアーティストとしての成熟が現れているということでしょう(笑)。
ご推察の通り「光る風」は山上たつひこ作品から題名を引いています。連載時にリアルタイムで読んで、少年向けマンガにあるまじき政治的メッセージと暗鬱でシリアスなストーリーに息を呑んだことを覚えています。歌詞は東日本大震災による福島第一原発の爆発事故のことをストレートに歌っています。
「失意のうちに」 は初老に差しかかり自分の人生を俯瞰できるようになってしまった心境を偽りなく表現しています。ハレルヤズのLPを作った時の自分には決して歌えなかった境地ですね。



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F:しばしばライヴのクライマックスとなる「太陽の世界 The True Sun」は、ピンク・フロイドなら「エコーズ Echoes」(1971)に匹敵する重要曲だと思います。
楽曲の誕生から直近の演奏形態に至るまでの変遷について語っていただけないでしょうか。

S:「太陽の世界 The True Sun」は平歌(Verse)を僕が、サビ(Chorus)を竹田が作りました。穏やかな春の日に広大な自然公園で竹田と一日過ごした時の印象が歌詞のイメージになっています。
最初期の段階で曲をアレンジしていくうちに、歌詞のイメージに共通するものがあるピンク・フロイドの「デブでよろよろの太陽 Fat Old Sun」(1970)へのアンサーソングのようなものにすれば面白そうだと気づきました。実際、フロイド的な展開をしてもピッタリくる「太陽の世界」は演奏するたびに変容していく生き物のような曲になったと思いますね。1998年に2ndとしてリリースしたアコースティック・ライヴ・アルバム「太陽の世界」での演奏は竹田が作った歌詞で竹田自身が歌うというパラレルな別テイクとなっています。
ただ、99年の3rdアルバム「本当の世界 The True World」のヴァージョンは収録時間の制約で演奏を短めにまとめる必要があったことに悔いがありました。そこで後年「リード・ギタリスト」頭士くんに参加してもらって20分を超えるスーパーデラックスなテイクを録音し2004年の6thアルバム「夢のサウンズ Dream Sounds」に収録しました。この「太陽の世界」がファイナル・テイクとしてとても満足のいくものに仕上がったと思っています。







F:そんなストーリーがあったのですね!とても感動的です。
次にサウンドの要であるギターについて詳しく聞かせてください。柴山さんの愛用ギターと、お気に入りのアンプやエフェクター(effects pedals)を教えていただけますか。

S:ギターはストラトですね。もちろんデイヴ・ギルモアの影響です。アンプはマーシャルとの相性がいいですが自分では持っていません。
エフェクターはまずBig Muffが欠かせません。70年代末期のラムズヘッド(Ram’s Head)です。ノブが割れて取れてしまって見た目はボロボロですが今でもファズサウンドは最高の音です。渚にてのアルバムでの僕のファズギターはすべてこのBig Muffです。ちなみにハレルヤズで使ったのはGuyatoneのZOOM BOXでした。
次に重要なのはBOSSのアナログディレイDM-2です。30年以上使っていたものが壊れてしまい現在はDM-3で代用していますが、音質はDM-2の方が太くて好きですね。あとMaxonのOD-808を隠し味的に使っています。これも80年代初め頃のものです。

F:思い違いだったら恐縮なのですが、ライヴ時に音叉を使ってチューニングされていませんでしたか。自分達の音に向かう姿勢が表れているように感じたのですが。

S:ステージで音叉を使って不便なチューニングをしていたのは、かなり初期の頃ですね。それは音に向かう姿勢以前に、単に無知だったからです(笑)。
渚にての何度目かのライヴで羅針盤と対バンをやった時のことです。山本精一くんがステージでチューニングする時にギターの音が出ていないのを不思議に思って訊くと「えっ? 柴山くん知らんのか? 今はギターの音をミュートできるチューニングマシンが普通にあるんやで」と失笑されました。さっそく同じものを購入して次のライヴから使ったことは言うまでもありません(笑)。

F:えええっ!?そうでしたか、失礼しました、かなりのインパクトだったので印象に残ってしまっていたのですね…(笑)
ギターについてもう少し聞かせてください。「肉を喰らひて誓ひをたてよ」や渚にてで使用しているアコースティック・ギターはどちらのモデルですか。

S:ハレルヤズで使ったアコースティック・ギターは70年代のギルドで、エレキはトーカイ(Tokai)のストラトモデルです。渚にて1st以降のアルバムで使ったアコースティック・ギターはすべて68年製のマーチンD-28です。「花とおなじ」以降のアルバムで使っているストラトは60年製です。
ちなみに、最新作の「ニューオーシャン」は、ハレルヤズから渚にてに至る史上初めてアコースティック・ギターを一切使用しない作品です。意識的に使わなかったのです。
なぜかというと今までの渚にてのレビューでは必ずと言っていいほど「フォークロック」「フォークデュオ」はたまた「関西フォークの流れを汲む」などという見当違いの記述が見受けられるのが面白くなかったからです。渚にては「ロック」ですから。
そこで今度こそ「フォーク」と誰にも言わせないために(笑)「ニューオーシャン」はアコースティック・ギターを排除してレコーディングしたのです。
良質のアコースティック・ギターには、その音色でCmaj7が寂しげに響くだけで音楽全体の空間を支配してしまうような作用があります。それこそがアコースティック・ギターの大きな魅力で僕も長年レコーディングで使ってきたわけですが、逆に「フォークミュージック」「フォークロック」といった定型化したイメージを喚起する楽器でもあることには注意してきたつもりです。
たとえばストゥージズ(Iggy & The Stooges)の「Raw Power」(1973)収録の「Gimme Danger」ではアコースティック・ギターのメタリックな音色が効果的に使用されていますが誰もストゥージズを「フォークロック」とは呼びませんね。そういう感覚です。
しかし今回は一度その伝統を廃してみようと決心したのです。それは独りよがりの意地だったかも知れませんが、初めてアコースティック・ギターを一切使わないことで生まれた新たな空気感が「ニューオーシャン」にはみずみずしく宿っていると思います。






F:確かに!そう言われてみると、細かく不思議な音の間隙を感じます。
トーカイのストラトは1997年リイシュー版「肉を喰らひて誓ひをたてよ」の裏ジャケットに写っている70年代っぽいラージ・ヘッドですよね。良く見ると塗装が剥がれたような跡があったり、なかなか年期が入っているように見えます。音色も普通ではないというか、個性的で真似できない音ですよね。

S:トーカイのストラトは中古で安く購入したもので、ST60でした。1980年前後のトーカイのギターはその当時でも価格の割に作りが良いと言う評判でした。今ではジャパン・ヴィンテージとされてコレクターがいるようです。渡辺くんがハレルヤズのセッションで使っていたテレキャスターもトーカイ製で、生鳴りの音がよかったことを覚えています。

F:ところで柴山さんはギター、ドラム、サックス、ピアノなど様々な楽器を演奏されますが、専門的なレッスンを受けていたことはありますか。

S:楽器の教育は一度も受けたことがありません。全部独学です。ギターは中学時代からアコースティック・ギターでサイモン&ガーファンクルやビートルズの曲を耳コピーすることで少しずつ弾けるようになっていった感じです。「ブラックバード Blackbird」(1968)をコピーできた時はうれしかったですね。今ではもう弾けませんが(笑)。

F:私も「ブラックバード」はかなり練習しました(笑)
さて、インタビューの初めに伺ったことと若干重複するのですが、バンド力学的な観点から「よすが」から「遠泳」への変化を振り返ってみたいと思います。「よすが」は柴山さんと竹田さんという2人のシンガー・ソングライターの内面が繊細に描かれた作品という印象がありますが、「遠泳」以降の渚にてサウンドには湧き上がるような力強さが漲っており、バンドの結束力においても飛躍があるように私は思います。
渚にての正式メンバーとして吉田さんと山田さんを招こうと決めた動機やきっかけとなる楽曲はありましたか。

S:「よすが」から「遠泳」リリースまでの間には育児の期間6年というインターバルがあり、父親になった実感と共に自分の色々な価値基準が大きく変化する期間になりました。もちろんその変化は渚にての音楽にも影響を与えました。
育児の最初の数年間はギターに触ることもできず音楽は別の世界にあるような感じで、一日中娘たちと向き合う日常がすべてでした。その時間が知らないうちに自分の音楽の土壌のようなものを耕していたような気がします。
娘たちの誕生をきっかけとして過去の時間と未来の時間を同時に俯瞰できるようになりました。その晴れやかな気分が「遠泳」には反映されていると思います。
吉田くんの加入はいたってシンプルな出来事でした。2012年に育児が一段落して5年ぶりの復活ライヴをやった時、吉田くんが客席に現れて演奏が終わってもなかなか帰ろうとしないのです。そこで「今日は渚にてのメンバーになるために来たんだろう?」と(笑)声をかけて彼の正式加入が決定したわけです。
2005年の「夢のサウンズ」リリース後に田中くんが脱退してから、何人ものベーシストを試しましたがなかなか良い人には巡り会えませんでした。諦めかけていた時期に友人に紹介してもらったのが山田くんです。
山田くんの卓越したベース・ラインは天性のものとしか言いようがなく、クラウス・フォアマンやリック・ダンコに匹敵するベースのオブリガートが渚にての新たな武器となりました。彼のベースは曲の中に眠っている第二のメロディーを無意識に掘り当てることができます。それが吉田くんの音数の多い鍵盤とうまく噛み合ってマジックを形成するのです。もちろん今では曲作りの段階から彼らの演奏を想定していますね。


                                    Yamada                                                                                               Yoshida      (photos by Rie Kamijyo)



F:渚にてもハレルヤズも、メロディと詞と歌声が分かちがたく存在しているように感じます。柴山さんの楽曲は旋律が最初に生まれることが多いそうですが、そこに言葉が同時に付いてくるのでしょうか。また、それは初めから歌の形を取っているのでしょうか。

S:作曲ではメロディがまず出てきます。もちろん曲がいきなり全部出てくる訳ではなく、出だしの部分であることが多いです。そこに言葉がくっついている時とそうでない時があります。でもその言葉は大抵の場合は他愛無いもので「腹がへったな〜」とか「なんでなんだろ〜」といった感じですね(笑)。
そのメロディが使えそうだな、当たりだな、という実感があればギターでコードをつけていって展開と歌詞を考えるんですが、どちらかというと「こりゃダメだな」となってボツになるパターンが圧倒的に多いです。

F:「腹がへったな~」ですか!(笑)ちょっと意外な気がしますが、日常のひとりごとを借りて曲想の最初の芽が出てくるのでしょうか…。そして、そのような厳しいジャッジメントを生き残った曲について、渚にて以降、ヴォーカルの録音に際してはリハーサルとリテイクを徹底的に重ねるそうですね。ぼくはお二人の歌唱にソウルの大きさを沢山感じますが、マイクに向かうときの意識はどのようなものですか。

S:ひとりごとが鼻歌とセットになって出てくる瞬間を捕まえるのが僕の作曲方法ですね。それは魚釣りに似たようなところがあります。大物が釣れた時は最高ですがゴミがかかることの方が多い(笑)。
渚にての歌入れは、プロ・トゥールズを導入してからはリテイクが非常に多くなりました。ご存じのようにアナログレコーディングでは不可能だった細かな部分の録り直しが可能になったせいです。ですが音程に気をとられると歌に気持ちが入らなくなり、歌詞に感情移入しすぎると単に力んでいるだけの歌唱になりがちです。そのバランスが偏らないようにコントロールしながら、なおかつヴォーカルトラックに魂を吹き込むことを忘れずに歌わなければなりません。
毎回のように1曲のヴォーカルに何時間も費やすのは決して無駄な作業ではなく「上手く歌おう」という邪心をふるい落とすために必要な時間だと思っています。そうして録音できたOKテイクは皮肉なことに一番最初の鼻歌に近づいているような気がします。

F:とても面白いお話ですね!『テープを回して最初に歌った声』(1997年版ライナーノーツより引用)にこだわった「肉を喰らひて誓ひをたてよ」と、最新作「ニューオーシャン」の間にギャップを感じない理由が解った気がします。
さて、長きにわたって柴山さんのキャリアを振り返って頂きましたが、改めて感想を伺ってもよろしいでしょうか。重ねて、このインタビューをご覧になっている方々へのメッセージを是非とも。
そして最後の質問ですが、ハレルヤズの楽曲にちなんで、柴山さんの「ねがい」は何ですか。

S:初めてのLP(ハレルヤズ)から約36年を経て、改めて自分の足跡を振り返ってみましたが良くも悪くも自分があまり変わっていないことに気づかされました。
やはり伝えたいことはいつもひとつだけ、のようなのです。つまり僕の「メッセージ」に相当するものはハレルヤズから渚にてに至るまでひとつしかなかった、ということになります。
それは音楽の形で込められているので特に言葉で付け足すようなことではなく、皆さんがハレルヤズや渚にてを聴いた時に思い浮かべるすべてのことが僕からのメッセージです。
そしてそれが皆さんのイマジネーションのちょっとした飛躍につながれば。
それが僕の願いです。

22.10.19











ニューオーシャンによせて


 2020年。人類は月と火星を自在に行き来していて、クルマは空を飛び交っているはずだった。
 1968年。「2001年宇宙の旅」を梅田OS劇場シネラマの超巨大スクリーンで体験した小学生の自分は、その夜興奮収まらず寝返りを繰り返しながら光り輝く21世紀を夢想した。大人になったら視界に入りきらない木星が眼前に迫る宇宙空間に行くんだ!
 だが2001年から遥か20年を隔てようとする今、眼前に広がるのは宇宙ではなく、通りをゆく誰も彼もが例外なくマスクで装甲した不気味な都市の光景だった。
 2020年とは、どの空を見渡しても飛行機一機も見つからない、悪疫に苛まれた沈黙の世界なのだった。
 光り輝く21世紀を反映していたかのような銀盤コンパクト・ディスクがまたたくまに衰退し、CDを知らない若者たちが古の黒盤ヴァイナルを愛でるという退行文化は、人類の行き詰まりを露わにしているといえるだろう。
 すでに「地球幼年期の終わり」がやってきたのかもしれない。
 だとすれば、まもなく国家という単位は意味がなくなり、あらゆる犯罪や戦争、陰謀論、宗教が動機を失うだろう。 それでいい。
 そこから先は皆それぞれが、異なるルートで、新しい大洋へと向かうのだから。
 2020年。ニューオーシャンという作品集を上梓できた。
 もはや過去よりも未来のほうがずっと短くなってしまった自分にとって、このアルバムはとても大きな意味を持つ。
 これは自分にとっては終わりのはじまりだが、過去よりも未来のほうがずっと長い彼女らにとっては、ほんのはじまりのはじまりなのだから。  


NEWOCEAN

Every one of us will be going back to Newocean

20.12.27









渚にてによるMNKリスト MNK List by Nagisa Ni Te vol.14


その14 :

ウーヴェ・ネッテルベックによるアンソニー・ムーア
そしてOut再び
Anthony Moore/Reed, Whistle and Sticks
Anthony Moore/Out

Recorded in Humburg in 1972, "Reed, Whistle and Sticks” was designed to explore a further, obvious attribute of repetition, which is its function in relationship with memory. Less obvious perhaps is the idea of memories that are unconsciously formed, memories that are not immediately perceived. I prepared a surface of different materials on the studio floor, wood, glass, cloth, metal and plastic. Next I took a handful of bamboo sticks numbering around fifty and each of a differing thickeness and length, say between eight and twelve centimetres. A pair of microphones were placed stereophonically just above and to each side of the surface of materials. Holding my hands out in front of me, I proceeded to let the sticks fall slowly through my fingers and onto the prepared surface below. I recorded a series of drops each lasting roughly between twelve and twenty five seconds before the sticks came to rest. A selection of these drops were then looped so that the sound was continuous, the repetition disguised as a linear, changing flow of events, rather than a repeating cycle. Well, there are a few things in nature which fall continuously like cascades or waterfalls. But if for example you were to pull open too far, a drawer in your kitchen full of knives and forks so that all the cutlery fell onto the hard floor, and if there was an endless supply of these tumbling knives and forks, then even perceived solely by ear, the very continuousness would cause quite an uncomfortable sensation of impossibility! How can this sound go on and on? The sticks too, sound as if they ought to stop falling. But what is perhaps more interesting is the notion that, if you listen to a single loop of randomly changing, apparently chaotic, continuous sound, the brain begins to recognize returning, identical patterns within the noise, before you consciously realize the information is being cycled, resulting in a kind of subconscious apprehension of structure from memories you didn’t know you had.

1972年にハンブルグで録音された「リード、ホイッスルとスティック」は、反復の明確な特性(反復と記憶との相関関係)を更に探索するべく制作されました。 無意識に形作られる記憶(直ちには認識されない記憶)に関する考察は、おそらくあまり明確ではないのです。 まずスタジオの床に木材、ガラス、布、金属、プラスチックの様々な素材の平面を配置しました。 次に一掴み50本ほどのそれぞれ太さや長さが異なる(およそ8cmから12cm程度)竹の棒を持ちました。 1組のマイクが素材の平面の真上と両側に立体的に設置されていました。 そして私は両手を前に出して、指の間から竹の棒を様々な素材の上にゆっくり落とし続けました。 落下した竹の棒が静止するまでにおよそ12〜25秒続く一連の落下音をすべて録音しました。 その後、選択された落下音はループされたのでサウンドが連続し、反復はある周期の繰り返しというよりも、一次元的な、変化する出来事の流れとして偽装されたのです。 さて、自然界には滝のように連続的に落下するものがいくつかあります。 ですが、たとえば、あなたがあまりに沢山それを開けてしまうと、あなたのキッチンの引き出しはナイフとフォークでいっぱいになるので、すべての食卓セットは硬い床に落ちてしまい、もし転がるナイフとフォークの供給が際限なくあったならば、たとえそれが耳だけによる認識だったとしても、まさにその連続性は成し遂げられないことの持つ、とても居心地の悪い感覚を引き起こすでしょう! どうしてこのサウンドは際限なく続くのでしょうか? 竹の棒にしても、あたかも落下をストップさせなければいけないように聞こえます。 しかし、おそらくもっと興味深い点は、あなたがランダムに変化する、明らかに無秩序な、連続するサウンドの単一のループを聞くと、その情報が循環していることにはっきりと気が付く前に、脳はそのノイズ内に帰結する同一のパターンを認識し始め、結果的にあなたが知らなかった自分の記憶の構造の、ある種の潜在的な不安をもたらすということです。
                                                               Text by Anthony Moore(一部誤訳あり)  



 ロックの亡霊「Out」の40余年以上経ての正規LP降臨で、年配の好きモノたちが何かとかまびすしい秋である。
 もちろん自分とて1978年に阿木譲のAM番組でオンエアされた雑音混じりの「Out」に胸を震わせた夜が未だ記憶に鮮明なクチゆえ冷静さを失わずにはいられないのだが、正直、このニュースには生きていてよかったとさえ思えた。
 我が十代の幻影と添い寝し続けた「Out」が遂に黒盤の姿で蘇生する。
 そのリード曲「Stitch in Time」では、アンソニー畢生の反復アルバム「Secrets of the Blue Bag」(1972)の主題ドレミファソをレミソラシに置き換えたメインリフの5音目の「シ」の8分音符の位置を2小節目から1音目に移し、3小節目以降はその位置を2、3、4音目と小節毎に後ろへずらしていき6小節目で元のリフに戻る、というセルフ・オマージュとしてのプチ・ミニマル・ミュージックをわずか3分のポップ・ソングで実践してみせる。
 このことからわかるように「Out」はスラップ・ハッピーの通俗性と前衛性の高品位なコンバインをさらに一段階アップグレードさせた、70年代最強にして唯一のプログレッシヴAORである。
 ストリングス、コーラス、スライドギターをあしらった普通のポップ・ソングを擬態してはいるが、一聴シンプルな3/4や4/4の楽曲の随所に強拍と弱拍の入れ替わりや可変拍子が巧妙に仕組まれているだけでなく、ポップスにあるまじきコーダを伴った変奏曲の如きアレンジまで登場するに至ってはアンソニーの非凡な才能の迸りを感じずにはいられない。
 本人にも二度と再現できない臨界点に達した、蕩けるように甘美な旋律(その間隙にあわよくばヒットを!という野心が見え隠れするところもチャーミングなのだがアルバムの命運を思うとなおさら胸に迫る)にむせ返るような高密度の編曲をトリートメントされた楽曲が全12曲、いずれも2分から3分台の尺にきっちりと収められているのは実に驚異的だ!
(Driving Blindだけ4分45秒だがエンディングのギターソロを長めに収録しているだけで本編は3分台で終わっている)
 つまり全曲がシングルカットに対応できるミニマル(A面6曲、B面6曲!)なポップ・アルバムを作ることで会社の信用とサポートを獲得し、ソロ・アーティストとしての成功を目指した、ということだろう。ニック・ドレイクでいえば「Bryter Layter」に相当する渾身の意欲作であった。
 しかし結果は惨憺たるもの…いや結果以前に、プロジェクトは世に問うことすらなく人知れず消滅してしまう。
 ただ、たとえそれが自ら望んだことだったにせよ、その悲劇性(完パケ段階でリリース中止)が作品の魅力を逆に底上げしてしまった面も少なからずあるだろう。同好の諸氏にはお馴染み、阿木譲お得意の虚実ないまぜたエッセイ「音楽は灰皿にマッチを落とすのと同じ…愚者の庭」の毒々しい感傷は、実はまだ息絶えていないのかも知れないのだから…。
 とはいえ「Out」が、夢幻に彩られた正十二面体の音の万華鏡として美しく結晶した、比類なき作品であることに何ら変わりはない。
 独ポリドールでの実験的作品の成果をロック/ポップスのフィールドへ巧みに溶かし込む手腕には天才的な独創性が感じられるが奇をてらった作為性はなく、自己顕示的な嫌味が一切感じられない。
 ここにあるのはシングル盤6枚分にパッケージされた幻視者のヴィジョンと痛ましいまでの純粋さの表出なのだ。
 だからこそ私たちはいまなお魅せられ惹かれ続ける。
 とどのつまりアンソニー・ムーアが尖っていたのは、スラップ・ハッピーを除けば「Pieces from the Cloudland Ballroom」(1971)「Secrets of the Blue Bag」(1972)「Reed, Whistle and Sticks」(1972 Unreleased)「Out」(1976 Unreleased)までだろう。「Flying Doesn't Help」以降の作品は決して悪くはないが、名前をMoreと改名してみたり中途半端にニューウェーヴやハウスに横目を使ったりと迷走状態を率直に反映したものばかりになってしまった。
 さて、その突出した音楽的内容はもとより不幸な結末を辿った激レア・アイテムとしても世界最強水準をキープしている「Reed, Whistle and Sticks」と「Out」。
 今回は「Out」正規LP降臨を祝して真打MNK「Reed, Whistle and Sticks」を解析してみようと思う。
 「Reed, Whistle and Sticks」はムーア自身によれば、完全にフリークアウトした内容にポリドールは怒ってリリース中止、残されたテスト・プレスはジャケなしの12枚のみ。旧知の識者によれば少なくともそのうち3枚は日本人が所有しているらしい。
 そんな曰く付きの問題児は、明白な意図を持って構築されたMNK音響ロックであり、積極的にヘッドフォンで鑑賞するべき作品である。ヘッドフォンでなければクオリティの高いモニタースピーカーとアンプを用いて可能な限り大音量が望ましい。
 そもそも本作を構成するのは非楽音であり、50本ほどの竹の棒がガラスや金属、木材など様々な素材の上に連続して落とされ転がるさまを生々しいアンビエンスを伴って録音した噪音である。
 反復する多数の打音は当初ある種の規則性を感じさせはするが、そこにリズムパターンを読み取ることに意味はないとすぐに気付かされるだろう。
 その乾いた軽妙な音色は耳に心地良く、落下の高さや落とされる素材による音色の差異を入念に取捨選択していることがすぐにわかる。そしていつ終わるとも予測できない雨だれのような打音の連続は次第に官能的な響きを帯びてくるのだ。
 作品全体で書き込まれている99トラックはオリジナルマスターのテープ・エディットの継ぎ目ではないかと思われる。トラックの変わり目で音色が明らかに変わる瞬間が複数箇所で確認できるからだ。
 最短トラックは4秒、最長は1分19秒。それらは作曲者の主張通り、確かに「反復」というよりも執拗に続くマヌケなイベントの推移のように聞こえる。このマヌケ感は例えば、二人羽織でフルコースのディナーを食べるような虚しい試みの勇壮さ、とでも言おうか。 
 トラック01。(おそらくファウストの)メンバーの腰砕けのシャウトから始まる。この脱力感は明らかにファウストの音楽性とリンクするもので天才山師プロデューサー、ウーヴェ・ネッテルベックのセンスだろう。
 加えて幽霊の咽び泣きのような無調のハミング(これもファウスト的だ)が随所にあしらわれており、レベルとパンニングもそれぞれ微妙に変化させるという心憎いミックス。
 シャウトはトラック13、40、48、60、78で唐突に現れ、最後のトラック99はシャウトで終了となる。
 腰砕けシャウトと幽霊の咽び泣きの人を喰った諧謔性は作品の深刻さを退け、アカデミックな前衛芸術が陥りやすい陥葬を軽くクリアさせる作用を果たしている。だが、その根拠が明らかにされることはなく、リスナーは各自のイマジネーションを逞しくする他になす術がない。ブニュエルのトラップ演出を思わせる聡明かつ効率の良いディレクションだ。
 しかもそれぞれのシャウト14、40、48、60、78の直後には耳をつんざくホイッスルが緊張感を高めるフックとして配置されている。
 刹那的にカームダウンを促すような瞑想的なベルがトラック06 、23、27、42、43、46、52、54(途中でカット)、56、58(このトラックのみ2回)、61、62、 63、67、72、75、77、81、83、85、86、 89、92、95、98、99で現れるも、こちらの気分が休まることは決してない。
 トラック06、07、08、09(前半まで)、23、24、25、26、27(前半まで)、43(後半から)、44、45、52(後半から)、53、54、67(後半から)、68、69、70、71、72(前半まで)、92、93、94、95(前半まで)は明らかに太い音色にイコライズされショート・リヴァーブがかけられている。これも謎めいた演出ではあるが根拠を読み取ることはブニュエル的に至難の技だ。
 トラック54(6秒)の5秒目で明らかにテープのヨレとベルの音が途切れる箇所があり、その直後にトラック55が始まるので、ここがA面とB面の分岐点ではないかと推測できる。
 トラック70の冒頭で誰かゲップをしている。(もちろん)これをカットしないのはウーヴェの面目躍如たるところだ。
 俯瞰しながら聴くとA面はシンコペーションの効いたリズミックなパーツ、B面はメロディアスなパーツを中心に構成されていることがわかる。だがそれが一体どうしたというのだ!
 うわべのコンセプトとしては現代音楽のそれを装ってはいるが「Reed, Whistle and Sticks」のサウンドの属性は明らかに異なる。
 察するに本作のコンセプトは現代音楽ではなく「アランのサイケデリック・ブレックファスト」の生活音SEと「統領のガーデン・パーティー」のパーカッションの即物的な響きを切り抜いて、フリークアウトした過剰なループの諧謔性に乗せた、無調を貫いたロックである。
 ピンク・フロイドが「あなたがここにいてほしい」ではなく「Household Objects」を上梓していれば、これに近似したテイストだったのではないかと妄想してもバチは当るまい。
 フロイドが賢明な自主規制により制作をキャンセルしたコンセプトを、フロイド以前に、しかもフロイド以上に徹底的に貫徹したのが「Reed, Whistle and Sticks」だった。いずれにせよリリースされなかったという皮肉な点でもフロイドと肩を並べる名誉付きだ。
 99回のテープ・ループは次第に聞き手の脳を麻痺させ、それがループではなく一連のイベントの推移として錯覚させる音のドラッグとして作用し始める。滝の流れは、落下する水塊の反復ではなく、際限なく水源からやってくる「川の出来事」なのだ。
 これを「脳と記憶と意識」に置き換え、調性の無いロックとして実証してみせたのが「Reed, Whistle and Sticks」だ。
 MNKワールド随一の極北盤としてここに認定し、大いに讃えたい。



       Reed Whistle and Sticks 1972                           Out 1976      


この2作の極端なギャップが黄昏の幻視者アンソニーの輝ける天才MNKを照射し続ける

なおテストプレスのレーベルには、
A面:RED NOW I WONDER, Part 1
B面:RED NOW I WONDER, Part 2
と曲名!が表記されている


(MNK=マヌケ あらゆる藝術に対する最上級の褒め言葉の意)

20.9.24 加筆









  デイヴ・スチュワートと袂を分かったアラン・ゴーウェンが、ヒュー・ホッパーを引き入れて作ったギルガメッシュの2nd「Another Fine Tune You've Got Me Into」は茫洋たる寂寥の世界からの誘い。ホッパーとの連名アルバム「Two Rainbows daily」は幽境への物憂い手向け。いずれもカンタベリ-系ジャズ・ロックの終着の浜辺だ。
 アラン・ゴーウェンはカンタベリー系だったはずだが、なぜだかピアノとシンセで押し通し決してオルガンを使おうとしない。
 マイク・ラトリッジと盟友デイヴ・スチュワートへのアンチ、という意味合いがあったのかどうかはわからないが、とにかく(人前では)オルガンは弾かない、と決めていたようだ。
 なのにメロトロンはちょこっと使うというジャズ・ピアニストにはあるまじき変則技を持った、かなりヘンコツなタイプである(1stでもこの2ndでも曇り空の上から束の間差し込む薄日のようなメロトロンが少しだけ聞ける)。
 ジャズ・ピアニスト…というのか、この人の楽曲自体が「ジャズ」離れした、言い換えれば浮世離れしたセンスが際立つもので、とにかくうすら寂しい。何度聴いてもキャッチーなところ皆無で口ずさめるような曲など一つもない。最初期のクラスターにも通じるその世界は、モノクロを超越した中世水墨画の寒村の如きである。
 しかし彼の場合は、そういう一貫した捉えどころの無さが逆に強い印象をもたらす個性として作用し得たのだ。
 それこそがアラン・ゴーウェンの逆説的な魅力だった。自らの痕跡を一切残さない事で存在感を主張するという、英国カンタベリーの忍者武芸帳なのであった。
 隠遁者の呟きめいた「Another Fine Tune You've Got Me Into」と寄宿学校のように規律正しく賑やかなナショナル・ヘルス「Of Queues and Cures 」を聴き比べてみるといい。
 まことに好対照な英国ジャズ・ロックの陰陽道は、歳月を経てなお些かも褪せることなくターンテーブルで弧を描き続ける。


デイヴ・スチュワートが陽キャならアラン・ゴーウェンは陰キャ     
陽極まれば陰となり 陰極まれば陽となる

20.7.19









 かねてからイーノの最高傑作と思っているオブスキュア・シリーズの10枚のレコードは、そのコンセプトとはなから矛盾した作品だ。
 ダイナミックレンジを大きくとらず微妙にハイ落ちさせた音響構築は確かにObscureだったかも知れないが音楽を無視することは至難の業で、むしろその背後にある何ものかを意識せずにはいられない、ひときわ集中度の高い聴取を促す訴求力がある。
 「無視してくださって結構ですから」と囁きながらエロティックな肢体を晒すような、そんな大胆な矛盾がオブスキュア・シリーズには「システム」として組み込まれていた。それこそがこの10枚(で一つの作品全集として成立している)の魅力だった。
 「聴くこともできるし無視することもできる、光の色や雨の音と同じような環境の一部としての音楽のあり方」というコンセプトは、あくまでクライアント(アイランドレコード)へのプレゼン資料であり貞淑な聖女を装うための魅惑的な装身具にすぎなかった。
 さて石原くんの唐突な新作だが、一聴して想起したのはオブスキュア・シリーズの…音楽ではなくコンセプトの方だった。
 これはAnti-Obscureアルバムだ。
 つまりもはや「聴くこともできないし、無視することもできない」音楽なのだ。
 僕はカナビスもアルコールも入れずにレコーディング/ミックス時に愛用しているゼンハイザーHD565を使って聴取した。マスタリングの音圧は高く、音量を上げると実にうるさい。
 演奏のアウトラインがよく透けて見えるA面よりもミックスの抽象度が高くタイガーマウンテンのA面ラストの送り溝のリピート部分やファウストの1stで聞こえるような暖かみと懐かしさのあるアナログノイズが随所にあしらわれたB面の方が自分の古臭い感覚にはフィットする。 もし僕がプロデューサーで予算の制約がなければ、5.1chサラウンドSACDで出しただろう。
 騒音の波間に時折のぞく歌声は英語のようだ。
 かつて僕はなぜ彼が英語で歌うことに拘るのかが腑に落ちず不思議だった。
 90年代にもなって(彼と知り合ったのは90年頃だったか)竹田和夫&クリエイションの向こうを張っているようには到底思えない演奏だったからだ。なぜ日本語で歌わないのか、と酔った勢いで食ってかかったこともある。むろん大きなお世話である。石原くんは曖昧に笑みを浮かべ取りつく島もなかったように記憶している。
 たまさか新宿シアタープーで聴いたDew「傷ついて」のカバー(日本語)がとてもよかったからといってそれを自身のバンド(ホワイト・ヘヴン)でやるわけにはいかないのだ。なぜなら彼は例えばピーター・ペレットのようなエゴの表現者としてではなくロックの見巧者、新たな解釈者として演奏することを選択したのだから。
 ロックの見巧者であるためにはまず、ロックに対するニュートラルなポジションを確保しなければならない。彼の場合、音楽は演奏者と同一ではなく対象化されていなければならないのだ。
 対象(ロック)を克明に「見る」ためには演奏の抽象度を高めること。その第一手段が英語で歌うことなのだった。何もインターナショナルな市場を見据えての英語ではさらさらない。
 時としてそれは彼のシェルター(Perfect Place to Hideaway)として機能してきた。彼が演奏を通して提示するのはエゴではなくロックの「解釈」の断面なので、受け手は批判のしようがないからである。彼が自身のエゴを発動する時を他者の制作現場(サウンド・プロデュース)だけに限定しているのは、まことに賢明な選択だといえよう。
 『Formula』では、都市部でのフィールド・レコーディングを音楽の上に過剰にコーティングするという行為そのものが作品として提示されているわけだが、本来なら主役であるべき楽曲、バンド演奏は高層ビルの間隙に見え隠れする音響素材としてしか扱われていない。
 その所作もまた作品の一部なのだ。あとは彼の「解釈」の断面の乱反射をニヤニヤしながら眺めていればいい。たとえこの駄文が23年ぶりのライナーノーツとしては失格だったとしても。  


あさがまだこないのを さいわいなことに



…もし遠景にゆらめく演奏をゴールデン・カップスに置き換えれば、
横浜中華街にいるような気分に陥るのだろうか

20.5.15









凍てついた地上の パニックの中で  嘘をつかれて 忍び泣く
言い伝えはあったよ でも夢はなかった

いつまでも 影だけが さまよい歩く この地上

読みとれるだけの文字と  聞きとれるだけの言葉で
世の中は出来ているのさ

(第5氷河期)


 休みの国のまっすぐな歌を聞くといつも、子供心になんだかさびしい話だな、と感じていた「ひょっこりひょうたん島」を思い出す。
 数年前に知ったことだが、実は、ひょっこりひょうたん島とは永遠に漂流しつづける Isle of the Dead 死の島なのだった。
 ずっと前からこのレコードには既視感のようなもの、を感じていた。
 それは中山千夏の歌唱のどこか喪失感をまとった、決して明朗快活とはいえない、矛盾を孕んだまっすぐさ、につながる感覚ではないだろうか。長年そう思っていたのだ。
 だが、それがこんなかたちで立ち上がってくる日がやってくるとは。  


高橋照幸の冷徹な言語感覚と感情移入を感じさせないフラット唱法は、
早川義夫の怨み節と捨て身のパンク唱法とは真逆のアプローチだった。

だからこそ両者は一時的にせよお互いの作品世界に惹かれあったのだろう。
「休みの国」と「ジャックスの世界」が湛える、
年月の風化に耐える硬質なリリシズムはその絆の証だともいえる。


岡林とのスプリットLPをデビュー作とするのはどうにも収まりが悪すぎる。
そこで曲数の足りない分を未発売だった2ndからピックアップした曲で補填し、
このラクダアルバムを編集したURC秦社長のディレクションは
バンド側の許諾一切なしで決裂を招いたそうだが、
今となっては十分評価に値する英断だった。


20.5.1









 そのむかしテレビでこの映画を観て衝撃を受け、少ない小遣いを握りしめて阿倍野の旭屋書店へ走りハヤカワ・ノヴェルズ版「アンドロメダ病原体」を購入したのだった。  
 小学生の時「2001年宇宙の旅」を梅田OS劇場の70mmシネラマ上映(木星探査へ向かう前に休憩時間があって、その合間におにぎり食った記憶がある)で観て脳天が吹っ飛ぶような体験をした。
 その数年後にディスカバリー号が表紙のハヤカワ・ノヴェルズ版の原作本を熟読して脳内で映画を追体験することに快感を覚えた頃だった。  
 監督は名匠ロバート・ワイズだけにハードSFとしても元祖モキュメンタリーとしてもとてもよくできた映画で、今観ても違和感は少ないのではないかと思う。  
 昨今の厄介な事態はこの映画に漲っていた緊迫感、ただならない閉塞感を思い起こさせる。  
 果たして皆が液晶の画面越しに見ているリアルワールドと思っているものは「渚にて」や「トリフィド時代(人類SOS!)」そして「アンドロメダ病原体」のあくまでもフィクションだったはずの架空世界をなぞろうとしているのか。
 もしそうだとしたら。  
 私たち全員が主演のこの映画は、スクリーンを必要としない。
 上映は一生のうち一回きりだ。そこにエンドロールは出ないだろう。


アンドロメダ…


20.3.17










 ロビー・ロバートソンの自伝に、こんなくだりがあった。
 1969年8月、ザ・バンドのワイト島フェスティバル出演時にジョージ・ハリスンが会いに来て「オレがいくら曲を書いてもアイツら(ジョンとポール)は聞こうともしないんだぜ」とボヤいたそうだ。
 ロビーはザ・ビートルズのメンバー同士が不仲などということは夢にも思わなかったから「こんなことを他人に喋っていいのか」とドギマギしてしまったという。
 で、別れ際にロビーは「ビッグ・ピンク」を掛け値なしで激賞してくれたジョージに新作「ザ・バンド」(2nd)のアセテート盤を謹呈し、ジョージはお返しに新作「アビーロード」のアセテート盤をくれたという(以上、立ち読みの記憶なので細部は曖昧です)。
 イイ話だな〜。「ザ・バンド」のアセテート盤、聞きたいぜ!(渚にてもアセテート盤、あるぜ!)

      1969年9月26日発売                                                                                                                          1969年9月22日発売




メンバーの距離感がすべてを物語る

20.1.23









渚にてによるMNKリスト MNK List by Nagisa Ni Te vol.13


その13 :

ウーヴェ・ネッテルベックによるファウスト
Faust/Faust by Uwe Nettelbeck
Faust/Faust So Far by Uwe Nettelbeck


 ファウストに関して語ろうとすると、どうもデレク・ベイリーに言及する時のような陥穽にはまってしまうきらいがあるようだ。対象について語っているつもりが無意識のうちに自分語りに終始してしまう。
 誰かのツイッターみたいな衒学趣味の「言説」にはうんざりだが、ファウストに関してはそれ(バンドに対する幻想が聞き手の中で勝手に増殖する)でさえウーヴェ・ネッテルベックという山師プロデューサーの思うツボなのではないだろうかという気がする。
 ピーター・ブレグヴァド曰く「注意深く手入れされた顎ひげに青いレンズをはめた楕円形のメガネ、銀色の長袖Tシャツにスエードのズボン」という風体で「冗談みたいに高価なワイン」と「スイス人の薬屋から手に入れた上質のLSD」を嗜んだというウーヴェは「ファウストのプロデューサーというよりは『発明者』と呼ぶ方がいいのかもしれない」(ファウスト「ヴュンメ・イヤーズ」より)とのことだが、これだけの描写でも只者ではないことが伝わってくる。
 彼は抜きん出た美的センスと音楽的意思の持ち主であると同時に、同時代ロックの「見巧者」でもあったに違いない。
 それは、この2枚の限りなく緻密でいて風通し良くマヌケなサウンド構築と簡潔にして異様なグラフィックから容易に想像がつく。
 ファウストとはウーヴェ・ネッテルベックの作品なのだった。
 あまたのジャーマン・ロックのグループとファウストを分かつ相違は、そのオリジナリティがメンバー自身によってではなく、バンドのパトロン=プロデューサーによってもたらされたものであった、という点にある。このことは90年代に復活してイマジネーションを欠いた底の浅い音楽性を露呈してしまった彼等自身が身をもって証明している。
 ファウストのメンバー達は各々音楽に対するある種の突出したセンスとアイディアは備えてはいたものの、およそ主体性というものを欠いた(統率者を持たない)ヒッピー集団だった。
 リーダー不在ゆえの「音楽的主体性の欠如」がバンドの複合的な音楽性のオリジナリティでもある、という皮肉な個性をウーヴェはいち早く見抜いたのだろう。このバンドに足りないのは強力なコンセプトとヴィジュアル、編集だった。
 ウーヴェが考案したコンセプトは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ウォーホルの逆説的ハイ・アート感覚(VU&NICO〜White Light/White Heatのペアとこの2枚は正確に呼応している)、「神秘」「ウマグマ」期のピンク・フロイドの酩酊トリップ感、ザッパ(あるいはゴダール)の諧謔性とエディット・センス。
 この三つをドイツ的に誇大解釈した上でシャッフルし成立させたプロジェクト。それが「ファウスト」という名前だったのだ。
 実はウーヴェ作品で最もマヌケなのはファウストIVなのだが、これはウーヴェがメンバーの承認一切無しに勝手に編集したという代物で、それゆえにマヌケ度が一層倍加された傑作である。
 一番わかりやすい例はタイトルからして秀逸な「The Sad Skinhead」。イントロのスクリーミングとファズギターのコール&レスポンスの脱力感、ハイハットの腰砕けな音色、腑抜けたコーラス、間奏〜エンディングの遠景にたゆたうシンセサイザーの妙なる音色etcと、いずれも必要不可欠な点景配置のピンポイントな匙加減には、今もって笑いがこみ上げてくる。
 まだわかりづらいという人のためにいえば、ブニュエル作品のすべてに散りばめられたマヌケな意匠、たとえば「皆殺しの天使」冒頭で意味なく盛大にコケるウェイター、「欲望の曖昧な対象」似ても似つかぬ女優二人で一役のコンチータ、などなどマヌケの白眉なのであるが、もはやここまでくればわかる人にだけわかっていただければ自分は幸せに新年を迎えることができる。大いなる自分語りに乾杯。


Nobody knows if MNK really happened

(MNK=マヌケ あらゆる藝術に対する最上級の褒め言葉の意)

19.12.29









 先日「いかんせん花おこし」の長濱礼香さんの企画する演奏会で、東京から小山景子さんをお招きして長濱さんと僕が共演させていただいた。  
 僕は小山さんとは面識こそなかったものの、小山さんの音楽はかなり以前から知っている。
 このことは長くなるが、ここから語らねばならない。
 80年代初頭。京都に中座富士子さんという人がいた。  
 中座さんは類稀な音楽的才能と魅力の持ち主だった。アンダーグラウンド映画や即興演奏のイベントの企画団体「オルフェの袋小路」の山下さんやシェシズの向井千恵さんと交流があり、京大西部講堂やスタジオ・ヴァリエなど既存のライブハウスのシーンからは外れたエリアで気ままに演奏活動をしていた。  
 必然のように、当時イディオット・オクロックを脱退して即興演奏に傾倒していた頭士くんは中座さんと演奏を共にする機会があり、やがて僕も合流するようになったのだった。  
 84年の秋に中座さんはカセットアルバムを作るプランを立てた。頭士くん、向井さん、僕、元アニマルZの真田かこさんがレコーディングメンバーとしてスタジオに入った。
 レコーディングは結果的に中座さんの納得のいくものとはならず、発表は見送られた。その中に、中座さんの歌詞に僕が勝手に曲をつけたテイクがあった。  
 稚拙だが自分の中から湧いて出るようにできたメロディーで、初めて手応えを感じた曲だった。後にそのテイクは紆余曲折を経て「Green Lovers」というタイトルでハレルヤズのLPに収録された。  
 自分の表現として曲を作り歌う、ということを僕が自覚できたのは中座さんの影響が大きかった。彼女の中では童謡と即興演奏が等価だった。レコーディング前の練習で中座さんの風変わりな曲を演奏する(ついていくのがやっとだった)うちに、いつしか僕は自分だけにしかできない表現を模索していたような気がする。  
 ある日、中座さんが「東京の友だちで小山っていう人がいるんだけど、彼女も一人で歌っていて。小山の曲にはとても影響を受けたよ」と4曲入ったテープをダビングしてくれた。  
 カセットには「春は船にのって」「パントマイム」「Mのための鎮魂歌」「コラール」 と鉛筆で書かれていた。  
 これが小山さんの音楽との出会いだった。  
 中座さんの音楽はマイナーコードのスローな曲をやる時でもどこかへ向かって疾走していくかのような躍動感に溢れる多血質的なところが魅力だったが、対照的に小山さんの音楽はスタティックで憂鬱質的だ。
 どこかに佇み俯瞰しているようなゆるやかなメロディーのヴェールに包まれながらも、その奥底にある強靭な芯の輪郭が選び抜かれた言葉と共にうっすらと浮かび上ってくる。  
 こんな人がいるんだ!
 僕は衝撃を受けた。少なくとも僕は「沃野」などという言葉を使った歌はそれまで一度も聴いたことがなかった。  
 簡素なエレピとシンセサイザーを伴ったしめやかな歌は深い喪失感と諦念に満ちていたが、同時に決して希望に背を向けない意思も湛えていた。時折りトニー・バンクスを思わせるウォームな和音の選び方が下手な感傷に陥ることを思慮深く回避しており、言葉の連なりに過不足ない陰影を付け加えていた。  
 この4曲は曲順の流れもよくミニアルバムのように思えて、しばらくの間、夜長の愛聴カセットとして幾度となく繰り返し聴く夜があった。中でも「パントマイム」の漂泊の果てのような歌詞と、どこまでも下降していくコードには参ってしまい、脳裏にくっきりと刻まれたのだった。  
 その約10年後に「渚にて」として作った1stアルバムの遠景には、その刻印がうっすらと入っているように思う。  
 そこからさらに20余年を経て、まさか小山さんの生の歌声で、あの時のカセットに収められた4曲が全て聴ける日が来るとは、夢にも思わなかった。  
 今でも、これは夢かも知れない、と思うのだ。


現在発売中のCD「記憶の運河」に「パントマイム」は収録されています


19.11.12









 晩秋の京都には思い出がある。 
 1979年。
 親元から離れて京都の大学生となった自分は、定価百円の関西ローカル情報誌プレイガイド・ジャーナルをチェックしては磔磔、拾得、サーカス&サーカス、西部講堂、日仏会館などへ足繁く通い、日がなライブや映画を気ままに観て回る自由で無責任な生活を満喫していた。ひんやりした風を頬に感じながら御所で昼寝することも晩秋の楽しみのひとつだった。
 学校のすぐ近くにあったニコニコ亭や、ほんやら洞に授業をサボって入り浸ることも覚えた。
 「ハード・ロック喫茶」ニコニコ亭のJBLの巨大なスピーカーの真ん前で目眩がするほどの大音量で聞いた「クリムゾン・キングの宮殿」の衝撃。ほんやら洞で「カムイ伝」全巻を読破した時のニコチン混じりの心地よい疲労感。
 どれもこれも鮮明に記憶に残っている。
 さて、市内の目ぼしいスポットはほぼ踏破した自分に最後の頂として残ったのが、千本中立売にあった「どらっぐすとぅあ」だった。
 『床だけでなく壁も天井も紫の絨毯で覆われた、中腰で歩くのもやっとなくらい天井の低い二層フロアの「カンパニア・スペース」、ほとんど真っ暗闇で薄暗い照明が床面にあり1、2階満員になっても15人も入れない』(特殊音楽の世界21「特別編;どらっぐすとぅあのこと」by F.M.N.石橋正二郎〜より抜粋)という、まるで魔窟のようなロック喫茶である。
 プレイガイド・ジャーナルにも「マニアが集う秘密の場所」というような形容がされていて、どうにも気軽に訪れる気分にはなれないまま「どらっぐすとぅあ」は、やり残した宿題のように脳裏にのしかかっていた。
 1979年。
 パンクとプログレッシヴ・ロックの両方に引き裂かれた自分にとってテレヴィジョンとディス・ヒートとアート・べアーズは等距離に位置していた。もちろんプログレッシヴ・ロックはU.K.の登場を分水嶺として終息した時代ではあったが、いかんせん自分にはまだ聴くことが叶わず聴かねばならない重要なレコードが多すぎた。
 長年の幻盤だったファウストの1stと2ndはレコメンデッドの再発で溜飲を下げることができたが、カンの初期カタログは当時まだスプーン・レコードが存在せず再発されていなかった。
 梅田のLPコーナー、HOGG、Dun、阿木譲監修?の初期Down Town、心斎橋のメロディーハウスを回り巡って「モンスター・ムーヴィー」から「Soon Over Babaluma」までの英UA盤は1枚ずつ入手していたものの、なぜか英UA盤が出ていたはずの「タゴ・マゴ」だけがどこに行ってもない。
 初期ロック・マガジンのスタッフだった平川さんが仕入れ担当でパンクNW最先端から70年代B級ブリティッシュ〜プログレッシヴ旧譜の定番まで素晴らしい品揃えだった京都十字屋・三条本店でさえ「タゴ・マゴ」は見当たらなかった。
 となると、ますます意地でも聴きたくなる。
 そこで最後の賭けとして「プログレや前衛音楽の珍しいレコード」に特化したロック喫茶「どらっぐすとぅあ」を遂に訪れることを決断したのであった。
 晩秋だったように思う。場末の寂れたスナックそのものの佇まいはとてつもなく敷居が高く、その白塗りの小さなドアを開けるには飛田の遊郭に入るよりもジャンプする勇気が必要であった。心臓が高鳴った。
 窓が一切なく紫色の絨毯を上から下までびっしり貼り付けた二段ベッドのような構造の薄暗い店内は、閉所恐怖症にはいたたまれない異様な「カンパニア・スペース」だった。
 おずおずと入っていくと、同年代と思われるスタッフの訝しげな視線はまるで不審者を品定めするかのようだった。
 この時点で「すいません、間違えました」と詫びて引き返したくなったが、それでは男がすたるというものだ。ぐっとこらえて軽く会釈しもっともらしい顔つきで梯子を登って押入れの中のような二階席に座った。下から無言で差し出されたメニューから「スーパーミルク」をわけのわからぬままオーダーする。
 ハイライトの煙を深く吸って少し落ち着いたところでスタッフ氏に店のシステムを恐る恐る尋ねた。
 「どらっぐすとぅあ」にあるカセット・ライブラリーは、生テープを持参すれば無料でダビングサービスしてあげるが、レコードのダビングは違法行為となるので禁止である、とのことだった。
 そのシステムを踏まえて
 「あの…カンのタゴ・マゴがあったら聴きたいんですけど、ありますか?」
 とリクエストしてみる。
 「タゴ・マゴ? …2枚組ですけど、全部かけますか」
 やった!やっぱりここにあった!
 喜びに思わず声が出そうになったが、再びぐっとこらえて冷静を装い
 「すいませんが全部かけてもらえませんか…」
 「今は誰もいないからええですけど、もし他のお客さんが来てリクエストが入ったらその時は一応、ね」
 スタッフ氏は低い声で念を押すと、面倒臭そうな様子で「タゴ・マゴ」を棚から探し出してターンテーブルに載せ針を落とした。
 すっかり慣れ親しんだダモ鈴木の「負のパワー」に満ちた細い声が初めて聴く暗鬱なメロディに乗って流れ出した。
 録音は禁止されている。再生は1回だけだ。とにかく「タゴ・マゴ」を頭に叩き込まなければ。
 〜ひとりでそこ居座ってる 頭のイカれた奴 虹の上からションベン 我らが妹と呼ぶ LSDの街から 離れガキを恐れ 朝がまだ来ないのを 幸いなことに
 サイコーだ!
 神の御加護か、D面が終わるまで僕以外には誰もやって来なかった。平日の真っ昼間だったことに心から感謝した。
 新参者のわがままに付き合ってくれたスタッフ氏に礼を言い、ドリンクのカンパ代数百円を払って外に出ると頭上から降り注ぐ秋の薄い日差しが眩しかった。 今日はツイてるな…。
 「さあ、これからどうしよう?」
 19歳。生まれて初めて聴いた「タゴ・マゴ」は1979年、晩秋の京都千本中立売、「どらっぐすとぅあ」の二階席なのだった。


牛乳に粉末ジュースをたっぷり混ぜたような甘ったるい
「スーパーミルク」は全部飲めず半分残した

その後2〜3回ほどテープダビング目的に行ってはみたものの、
新参者を歓迎しない雰囲気がどうにも馴染めず通うことを諦めたのだった
頭士くんや高山くんが常連だったことを後年になって知った時は焦った

数年後めでたくSpoonから再発された「タゴ・マゴ」を
即購入しては毎日のように聴き狂ったことは言うまでもなかろう


19.10.22









 デス・プルーフのMNK感は最高。ジャッキー・ブラウンのネチっこい入り組み具合もいい。
 指で数を示す時は親指から立てるドイツ式数え方(そんなこと知らんかった)をミッドポイントのフックにしたのが秀逸だったイングロリアス・バスターズってもう10年前なんだな。  
 前作ヘイトフル・エイトがイマイチ感の拭えない出来だったので今度のはあまり期待せずに行ったんだが、1969年カリフォルニア州LAというノスタルジアがタランティーノ恒例の歴史修正主義をうまくマスキングした傑作だった。
 この後すぐ観た「アド・アストラ」が随分久しぶりのC級ダメダメ映画だったもんだから、なおさら本作におけるブラッド・ピットが(語尾をだらしなく延ばす喋り方がまた)ひときわ輝いて見える。相変わらずオンナの汚れた足の裏(イビキも追加)に固執するフェティッシュも好調でウキウキする。  
 豪華絢爛に登場するアイコンや引用の答合わせは識者のブログに任せるとして、観ているうちに「これは前にどこかで味わった感覚だな…」と思っていたら、やっぱりだった。  
 「アルフォンソ・キュアロンの『ROMA / ローマ』は1970年のメキシコシティを描いた。僕にはそれがLAで1969年だ。その年が僕という人間を形作った。僕は6歳だった。これが僕の世界であり、ロサンゼルスへのラブレターなんだ」


ダチを裏切らない、いいヤツ。クリフ

19.10.6









 10月5日、札幌で頭士くんと共演することになったらしい輝かしい経歴の持ち主が、いつの間にやらその履歴を地味に更新している。 
https://twitter.com/KissaMusic/status/1161973383405269002
 あまりに遅きに失した態ではあるが、決して全く無意味なわけでもない。かくあらねばならなかった。
 この人には「渚にて」を名乗る資格が無い。
 そういった自覚も無い。
 迷惑を被っていたのはこちら側なのだ。
 すべからく以後すべてこれにて統一すべし。
 さすれば、人目につかぬこの世の不始末は都合良くあの世のできごと、すべてもとよりなかったことになる。

(8/20記)



 …はずだったのだが…この期に及んで「ちょっとだけ」?
https://twitter.com/galleriazarigan/status/1166236288191610880
 お願いだから便乗しないで欲しい。
 こんなエクスキューズこそ正に無意味の極みである。
「顔出し」のつもりなのだか、やる気がないなら辞退するのが筋だろう。
 勲章のような輝かしい経歴を一身に背負った猛々しい演奏を、終電が尽きるまで腕が抜けるまで披露して然るべきである。
 さもなくば共演者に対して、お客さまに対して非礼千万に当たる。

 そう、軽い気持ちの者は必ずといっていいほど脱落していった。
 それは俺が一番よく知っている。

 どうか、心あるひとに頭士くんの新作がよどみなく響きますように。

(8/31記)

当初は2ステージともにソロ・ライブだったはずだが、
いつの間にやらこんなことに。
まったく油断も隙もありゃしねえw

少なくとも、頭士くんからのオファーによるものではないことだけは確かです。
以後こんなことのないよう、次回はバンドで行きます。


9/3追記:頭士くんの新作「IV」は、おかげさまで残部100枚を切りました。
追加プレスの予定はありませんので、買い逃しにはご注意ください。


9/14追記:以上の文章はすべて事実に基く個人的見解でありますが、
頭士氏札幌公演の意義ならびに
主催者様の名誉と情熱を貶める意図は一切無いことを、
ここに改めて表明いたします。

頭士氏初の道内公演です。
どうぞ近郊のみなさん、この稀有な機会に頭士氏の壮絶なギターを
体験してみてください!


19.8.31









渚にてによるMNKリスト MNK List by Nagisa Ni Te vol.12


その12 :
ジョン・ケール
John Cale/Fear


 シティ・ポップて何やアレ?
 ゴミレコに外人がはしゃいで中古盤屋が一時的に潤うのは結構なことだが、タピオカと一緒にヨットに乗って早くどっか行って欲しい。
 大昔、ソフト&メロウとかクロスオーバーとかいってアメ村界隈に出没する陸サーファーのナンパの小道具的な音楽がもてはやされた時期があったのを思い出す。
 そりゃマックス・ミドルトンのフェンダーローズは今でも大好きだけどさ、これとアレは別件ってことだよな。
 ああいうゴミにウンザリしきっていた時に「ファズ・ボックス・イン」で耳にしたヘルの腰砕けの雄叫びやRocket USAのカラオケ痙攣ヴォーカルに「コレや、コレやで!」と快哉を叫んだのも早40年以上前。
 こんなたわごとも老害扱いされる前にせめてこのマヌケ人生を全うさせて欲しいものだ。そこで久しぶりにMNKシリーズを。

 恐れこそ我らが最良の友。Fear。ニュアンス的には「怯え」とする方が気分が出る。
 何がマヌケって、、、いちいち説明させるなよ…。でも特別にあなたにだけ。まずこっちが困る顔面はみ出し+三白眼ガンつけジャケね。で、ひっくり返せば「ボクちゃんツラいんだ」元祖かまってちゃんかよ!って何もそんな目立つトコでやんなくても…。冷蔵庫登るの大変だったろうに。
  マンザネラとイーノが全面的サポートしただけあって中身も期待通りにthe paranoiac frenzy of Fear Is A Man's Best Friend とthe stop-time romanticism of Emily(by Ed Ward)の行ったり来たりで目まぐるしくスパイシー。でもってクレジット「Keyboards : John Cale」「Guitar : Phil Manzanera」〜等々に続くシメの表記「Eno : Eno」。そうコレだよコレ。こういうセンスに痺れるンだわ。
 ルー・リードはVUから遠ざかっていこうとしたがジョン・ケールはVUのシミュレーションを幾度となく反復した。その最良の成果が本作だ。
 ジャケット同様、完全に白飛びしてしまったサウンドスケープのマヌケさ加減の輪郭にシャープネスを設定するマンザネラのギラついたギターとイーノのVCS3は何度聴いても耳に眩しい。White Light/Slow Dazzleだね。
 ボクが(阿木気分で)一番好きなのはA5「Ship of Fools」。間抜けの船。

 これは永遠。

White Light/Slow Dazzle

33年前にIdiot o'clockで同僚だったJohn Weinstockが
A2「Buffalo Ballet」のサビSleeping in the midday sun〜のリフレインには痺れるものがある、
と感嘆していたことをいまだに覚えている
キンクス「日なたぼっこが俺の趣味」の本歌取り?

(MNK=マヌケ あらゆる藝術に対する最上級の褒め言葉の意)

19.7.18









 今年上半期の僥倖は 「ROMA」「運び屋」を映画館で観れたことだ。
 
 「運び屋」。イーストウッドの新作を観る、という言い方がいつまでできるのかわからないが、まぎれもなくそれは生きていることの幸せの一つ。(少なくとも主演作としては)これでおしまいだぜ、というメッセージが予告編のみの特典セリフ「This is the last one…」には込められていると解釈していいだろう。
 それにつけても「中西部一ウマいポークサンド」、一度食ってみたいよなあ。

ホントにウマいのか?




 「ROMA」。むせかえるフェリーニ臭、スラムの掘っ立て小屋の前でスカム全開のジャンクな演奏を垂れ流すゴキゲンなバンド、高精細デジタルでモノクロ、自然音の残響アンビエンスにこだわったハイファイ音質、神の如く天空をゆく旅客機、そしてピンク・フロイド「虚空のスキャット」を予告編のみの特典で使用するムダな贅沢さ。
 何もかもが愛おしい。

クレオはジェルソミーナ




 映画とは精緻な作為(脚本)と綿密な計算の積み重ねの上に成立するものだが、カメラの回るワンシーン、ワンカットに潜む偶発を見逃さずに掬い上げる視点と技量を持ち合わせなければ魅力的な作品は生まれない。もちろんそれは映像を映画へと昇華させる作用を抱いた偶発でなければならない。
 是枝作品に欠落していてキュアロン作品にあるのは、カメラで切り取った一瞬一瞬を素材扱いせず一途に慈しむフェティッシュな感覚だ。それは「狂気」と言い換えてもいい。「感動」を演出しようとする作家には余計な代物でしかないが。

19.5.23




 

ニュウス

さくひん

ひとこと

いちまい

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