諏訪湖に沈む武田信玄の水中墓/韓国総選挙:長ネギ持ち込み禁止と玉ネギ男

Posted at 24/04/18

4月18日(木)曇り

とある裁判のかなり偏りのある判決が出たので私のTwitterのタイムラインは大荒れなのだが、論点がまだまだ整理されてないのでもう少し状況の全体像が見えてきてから書ければ書きたいと思う。

昨日は支払いのお金をいろいろとやりくりし、税金などをも払いに銀行に行って改めて請求書を見たら、三万三千円だと思っていた請求が実は六万六千円だったりして、なぜそんな勘違いをしたのか思いつかなかったのだがまた改めてお金を工面しなければなどと走り回ったりしていた。4月と言うのは新しい年度になって税金その他年度始めの賦課が結構あることを今まであまりちゃんと認識していなかったのだが、やりくりが必要になるとそう言うこともわかるわけでまあ仕方ない勉強だと思っていろいろやっている。

いろいろ書くべきこともある気がするが、頭の中がぐるぐるするのでとりあえず今朝地元紙を10日分ほど読んだ中で出てきた話題などについてちょっと書いてみたい。

***

4月16日の長野日報によると14日に諏訪湖の下諏訪湖畔で京都の宮帯出版社によって諏訪湖底にあるとされてきた武田信玄の水中墓の調査が行われたのだそうだ。今までも何度か調査は行われたのだが発見されず、今回も手がかりはなかったようだ。調べた地点は下諏訪から湖上に500メートルほど出て上社本宮と下社秋宮を結ぶ線と中世の大和城址・花岡城址を結ぶ線が交わる点と推測し調査したのだという。

この地点はどう言う根拠で導き出されたのかは書かれていなかったのだが、私が子どもの頃「諏訪のでんせつ」と言う本で読んだ限りでは武田信玄の棺は諏訪湖が一番深い岡谷市湊地区の花岡観音の沖に沈められたという話だったので、なぜ下諏訪なのかなとは思ったのだった。

諏訪湖は断層湖なので断層山脈である晴が峰から有賀峠の側が深く、上諏訪・下諏訪の側は浅い構造になっているので、この話は信憑性があると思うのだけど、最大水深7メートルほど(戦国時代はもっと深かったかもしれないが)の諏訪湖でまだ見つかっていないと言うのも不思議だなとは思った。

***

もう一つは10日の記事で、韓国の総選挙で投票所に長ネギを持ち込むことを禁止したと言う記事。これは何のことかと思ったら、特売ネギを見て「リーズナブルな値段だ」と発言した尹大統領に対して高騰する物価の実態を知らないのではないかと言う批判が集中し、「長ネギ(テパ)」が「大破」と同じ発音であることから「政権を大破しよう」と言う政権批判のシンボルになったのだという。

https://www.fnn.jp/articles/-/683695

一方で野党側も結構叩かれるネタはあり、選挙運動中の最大野党党首が「仕事するふりをした」と冗談?を言ったのが批判されたり、前政権で権力を握っていて汚職事件で訴追され、疑惑が玉ねぎの皮を剥くように次々と出てくることから「玉ねぎ男」と批判された曹国氏が新党を率いるなど、いろいろ話題にはこと書かなかったようだ。

https://www.bbc.com/japanese/articles/c51n502l5neo

結局野党の大勝に終わったようで、対日関係を重視してきた尹政権の基盤が揺らぐことは日本にとってもいいことはないのだが、日本の選挙もだんだん韓国の選挙に似てきているなと言う気がしたもののやはりほんまもんは違うなと改めて思ったりしたのだった。

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まあ新聞ネタというのはやはり表面的なものが多いのでもう一つ面白くはないのだが、今日のところは。

「ワルプルギスの夜」と学校教育による世界観の科学化・近代化/言語論的転回以降の世界観の再非科学化についてなど

Posted at 24/04/17

4月17日(水)雨

昨日の夜遅くから、久しぶりに雨が降った。3月から4月にかけて雨が多かったからしばらく晴れて桜やその他の花もよく咲いていたのが楽しい気持ちになったのだが、今日は晴れていたらタイヤ交換に行こうと思っていたのだけど、朝のうちは雨が降るようなので明日にでもしようかなと思う。濡れたタイヤを収納するのはいろいろと面倒だから、タイヤ交換は路面が乾いた日にしたい。

このところ体調が微妙に気に入らないところがいろいろあるのだけど、目の使いすぎとか運動不足とかいろいろ考えられることはあって、良い生活の基盤は身体の爽快さみたいなところはあるから、その辺は整えていけたらなと思う。私は基本的に花粉症は大して出ないのだが、今年は割とくしゃみが出たり洟水が出たりはあって、ただ若い頃の一番酷かった時期の目も開けてられないとかくしゃみと洟水が止まらないとかかみすぎて鼻が痛いとか頭がぼーっとするというところまでは行っていないので助かっている。まあ体のこうした反応も一番ひどい時期を経験しているとそれほどではない、と思えるのはある意味気持ち的には楽だなと思う。

昨日はブログを書くのが午前中遅くまでかかってしまったのでその後の仕事が押せ押せになり、銀行の仕事も最低限になってしまったりそのほかでも仕事の打ち合わせをしたりで家に帰ってきてから郵便局に税金を払いにいく用事を忘れていたことを思い出し、昼食後に出かけた。なんだかんだとやることが多くて、頭の中がふわっとしてちゃんとやれているかどうかを後で確認しながらやっているという感じになっている。まあ4月のこの時期はいろいろと支払いが多いということもあり、そのやりくりみたいなことに意識を取られるということが多いのだが。

夜は夕食を食べてから横になりたい誘惑をなんとかクリアして入浴してから寝る。朝に入浴を回すと朝の仕事が滞るなと思ったからなのだが、そういえば「忘却バッテリー」の放送があるなと思ったけど寝るのを遅くするよりはと後にした。

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朝5時ごろ起きてからブログに書くことを考えていたのだが、ちょっと思いつかない。Twitterにヒントがないかと見ると相変わらず男女論のツイートが多く、ちょっと食傷気味である。そんなにフェミニストの相手をすることもないのにと思うが、反論しておかないと押し込まれてしまうというのがwokeの怖さでもあり、まあ頑張ってくれてる人は頑張って欲しいという感じではある。

https://shonenjumpplus.com/episode/17106371853064374988

ジャンププラスをいくつか読んだが「エクソシストを堕とせない」で魔女のサバトを教会のエクソシスト達が手入れに入る、という場面が描かれていたのだが、感想を読んでいたら「次回更新はワルプルギスの夜!」と書いてあったので、そういえばゲーテの「ファウスト」にも「魔法少女まどか☆マギカ」にも出てきたなと思い、少し調べてみると4月30日から5月1日にかけての夜のことだとわかった。つまり冬から春になる祭典で、これはちょうど半年後の秋から冬になる「ハロウィン」と組になるのだなと思う。

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考えてもあまり良い案が出てこないので出かけることにし、車で少し離れたセブンイレブンまで行った。もう雨は止んだかと思っていたのだが走っている途中で結構雨が降ってきて、さて今日はタイヤ交換はやめたほうが良さそうだなと思ったり。モバイルSuicaをチャージしてマガジンと「葬送のフリーレン最新話掲載」と表紙にあったサンデー、それにコーヒーを買った。セブンのコーヒー、120円になっていてこういうものは容赦なく値上げしていくなあと思う。

私の書きたいこととか専門とかいろいろ考えていて、先程の「ワルプルギスの夜」のことを考えていて、悪魔だとか魔女だとかそういうことには多分詳しい人がいるだろうから自分があえて調べて書くほどのことではないなと思ったのだけど、そういえばヨーロッパでは「4月は残酷な月」だが、春の遅い地域では5月1日にメイデイ、いわば春祭りを祝うというのはどこかで読んだなと思う。

それが印象に残っているのはフランス革命についていろいろ読んでいるときに、革命はある意味民衆にとっては祭りだったわけだけど、革命1周年を記念する1790年7月14日の「連盟祭(革命記念日、パリ祭の起源)」でこのメイデイを象徴するメイポールが建てられたりこの祭典の当時の土俗的な民衆文化との延長線的な性格についてもどこかで読んだなということだった。(多分この本だったと思う)

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フランス革命は近代の始まりを告げる市民革命ないしブルジョア革命だと言われているわけだけど、1980−90年台の革命200年の時期に出てきた新しい研究の中でより古俗的な性格の残存についても指摘されていたのだが、そういう意味ではこの革命の時期自体はまだ「近代」ではないのだよなと思ったわけである。

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例えば「ファウスト」を読んでいると、ゲーテが描く「ワルプルギスの夜」というのはかなりリアリティがあるというか、彼自身がその世界に生きていなければそういうリアルは描けないのではないかという感じがある。ゲーテは光学を研究した科学者でもあり、また文豪であるだけでなくフランス革命軍(市民の徴兵の軍隊)がドイツの諸侯軍に初めて勝利したヴァルミーの戦い(1792年9月20日)に従軍し、「この日、この場所から世界史の新しい時代が始まる」と記したことも知られている、歴史感覚の持ち主でもあったわけである。そういう彼が民衆感覚をリアルに描き出すことができたのは、少なくとも一般の人々がそういう世界に生きていたからだろうと思うし、また彼自身も半分はその世界に生きていたということなのだろうとも思う。

「近代」というのも定義の仕方はいろいろあるけれども、「近代」と「前近代」の何が決定的に大きく違うのかといえば、人々が民話や伝承、素朴な信仰などの世界に生きていた時代から、それらは「迷信」であるとか「非科学的」であるとか民衆自体が考えるようになるという変化が起きた時代以降が「近代」だ、という考え方ができると思う。そうなるとつまりそれは民衆に広範に公教育、特に義務教育が施されるようになったことが大きな転機になると考えられるわけで、それはつまり19世紀である、ということになる。

近代の公教育がそれ以前の民衆教育とどこが違うかといえば、一つには国家による網羅性の問題があり、もう一つには教育が科学的・合理的精神によって行われた、ということにあるだろう。近代国家の支配の及ぶ地域ではあまねく人々に科学的・合理的精神が叩き込まれるようになるというのは、古い神々への信仰の終焉を意味するし、キリスト教世界などにおいても非合理な神学的要素をなるべく合理的に解釈しようとするような動きも生まれてくる。

なぜ学校教育がそのような動きを推進したかといえば、近代国家および近代資本主義社会が必要な人材を育てる必要に迫られ、それが学校教育の役割になったからなわけで、つまりは徴兵されて戦える兵士としての教養、工場労働者として働ける最低限の知識、というものが民衆教育に必要とされたからだ。軍隊も商工業も最低限の科学的知識・合理的思考が必要とされる場所だから、それのできる人材を育成することが初等教育の使命だったわけである。

そういう過程で、民衆的な信仰や感覚、「ワルプルギスの夜」とか「魔女」とかは近代の学校教育や産業革命、徴兵制などによって根こそぎにされていき、文学の中でもそうした信仰が誰もが共有できる感覚としては描かれなくなって、むしろ否定的に描かれるか、よりフィクションの世界の中で楽しむものになっていったわけである。

まあ人は合理的にのみ生きるものではないからその後も民間信仰や都市伝説、西欧的近代化の浸透度が低い地域の信仰や哲学などが近代化された社会に流れ込んでオカルトブームやスピリチュアルブームが起こったりすることもあるわけだし、また国家による一元的な学校教育制度が作られず州によってさまざまな違いが生まれたアメリカ合衆国がむしろキリスト教信仰に熱心な国として残ったりするなど、世界は一様ではないわけだが、イスラム教世界における近代科学の受容過程などその点について知りたいことは結構あって、「世界観の近代化過程」みたいなものはもう少し考えていけると面白いかなとは思った。

1968年の文化革命以降は特に科学的真実・客観的事実よりも個人の主体性による認識の地位が強められ、「言語論的転回」の中で科学的記述の中にも階級制や性・人種などの問題が内包されているというような指摘が出てきて生物学的性とは別に本人が主張する性が重視されるようになるなど、ある意味再度の「非・科学化」が起こってきているという側面も現代にはある。知識人であるはずの大学人が原子力発電所の危険性や事故後の福島の状況を過度に危険視する言説をばら撒いたりするのもそうした「非科学化」の一環だろう。こうした現象を全体的にどう捉えるかという視点が現代に最も必要とされていることかもしれないとは思う。

そういう意味で、その前段階である「世界観の近代化過程」を見ていくことは現代にとっても意味のあることかもしれない。

デフレとインフレと中国/「生活」に目が開いたこと/「国家を超えた超権力」を求める日本人の幻想/イランとイスラエルと国際正義

Posted at 24/04/16

4月16日(火)曇り

昨日はいろいろやりながら、昼過ぎに松本に車で出かけた。基本的には気分転換なのでゆっくり高速を走っていたのだが、昨日はあまり渋滞にも巻き込まれずにまあ無欲の勝利という感じだった気がする。最初にいつもの駐車場に止めて丸善で本を見て、書いたい本が2点あったけど1点は見つからず、もう1点は考えて買うのをやめにして、結局エミン・ユルマズ「世界インフレ時代の経済指標」(かんき出版、2023)を買った。

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この本は今までのデフレ時代からコロナ禍をきっかけに世界はインフレ時代に突入した、という考え方なのだけど、読んでいて面白いと思ったのが「デフレの原因」は中国だった、という話である。中国が安価な製品を世界に大量に輸出したために世界でデフレ状態になったので、中国が国力を蓄え西側も中国に警戒するようになり、貿易が自粛・制限されてくると当然ものの値段は上がりインフレになる、という話である。確かに日本においてのデフレ時代というのは「中国製品に席巻された」時代であることは確かなので、これはそれなりに説得力はあるように思うが、その言説はあまりみたことがなかったのでちょっと目から鱗な感じがした。

そのあと少し市内を散歩して、パルコまで歩いた。松本パルコは閉店するという話だったがまだやっていたので良かったのだが、今調べてみたら閉店は来年2月末とのこと。今年いっぱいはやっているということだからまあ今年のうちは安心して買い物に行こうかと思う。5階に上がってアニメイトとヴィレッジ・ヴァンガードを見たあと4階でジャケットなどを見たがいいのがなく、1階まで降りてそういえば以前あった書店が閉まってから地下に降りたことがなかったなと思って降りてみたら、無印良品の店があり、残りはヴィレヴァンのセールコーナーになっていた。ヴィレヴァンの方には買うものはなかったが、無印でシャツやジャケットなどをみてシャツを一枚買った。袋も買ったのだが「無印良品」と大書してある紙袋だったのでまあなんというかと思いながら店を出る。

どこかで喫茶店に入りたいなと思って歩いていたら開運堂の本店に喫茶コーナーが出来ていたので入り、和菓子と煎茶のセットを注文。先ほど買った本を少し読んで、ちょっとスマホを見たりしながらまったりした。小さな店内だったが最初いた女性客が途中で帰った後は私一人になっていたのでまあこういうのもいいなと思ったり。

街歩きを満喫!みたいな気分になって駐車場の方に戻り、バスターミナルのデリシアに行って夕食の買い物など。千円買うと2時間分の駐車券がもらえるので助かる。いくつか買い物をし、駐車券をもらって車に戻る。ちょうど2時間弱で駐車場を出た。

帰りも道の選択がうまくいってあまり渋滞せず、すんなりと高速に乗れ、高速も混まずに降りてからも一般道も割と順調。普段通らない諏訪湖の南側の道を通って帰宅した。

***

昨日から書いているが、「生活」の重要性みたいなものに今更ながら気づき、生活を楽しく充実させることが最も大事なことだななどと今更何を言ってるんだみたいなことを考えているのだけど、多分そんなことはわかってる人には自明のことなので、今更それに気づいたと言っても「そうですか」以上のものではないだろう。

仕事と生活とどちらが重要かといえば、まあ重要さの意味が違うとしか言いようがないが、仕事をしていなくても「悠々自適の生活」というものはあり得るわけで、「丁寧な暮らし」みたいに生活に全振りしている人も少なくない。「仕事に全力」という人ももちろんいるだろうけどそれは基本的にはパートナーがそれを支えていてくれるか、パートナーがいなければ仕事の割には貧相な生活をしていて家にいてもやることがないからと言って仕事をしに職場に出る、みたいなことになりそうだなと思う。「仕事ができるやつは趣味も充実している」みたいな言い方もあるが、趣味というのは生活そのものとは普通は違うわけで、普通は毎日スキューバダイビングをしているわけにもいかないし全ての部屋が美少女フィギュアに占領されてる、というわけにもいかないわけである。

まあそんなことで生活の重要性みたいなものを考えているといろいろ腑に落ちてくるというか、自分がなんとなく生きていても楽しくないなみたいに感じていたのはそういうところが不十分だったのだなというのが納得されてきていて、あれをこうしたらどうだろうか、これをそうしたら、みたいなことを次々と思いついてきて、それもまた余裕がなければやりきれない、というような感じになってしまうのだけど、ただ「生活」という概念を「自分」と「人生」の間にワンクッション置いてみると割と余裕が出てくるというか、見通しが良くなる感じがあるなあと思っている。

私はもともと「生活」というものがそんなに下手だったとは思わないのだが、なぜそんな生活概念が欠落した感じに今までなっていたんだろうと思っていろいろ考えてみると、やはり「余裕がなくなった」からなんだろうなと思う。父が亡くなり、仕事仲間が倒れ、母の介護などが入ってきて、その人たちがやっていた仕事を全部やらざるを得なくなって、結局削るものは「生活」しかない、みたいな感じになっていたということなのだろうと思う。

その後はとにかく頑張って、回らないところを回すための工夫もいろいろしながら、それでもコロナで打撃を受けてさまざまが回らなくなり、なんとかかんとか青息吐息という感じで回してきて、まあそんなことをやっていたら生きていても楽しくない感じが出てきても仕方ないなという気はするが、それでも昨年後半くらいからようやく局面によっては明るい要素も出てきた感じがし、今年になってその光が少しずつ大きくなってはきたかなという感じがする。2月は暖かく3月は寒い、という奇妙な季節感のずれもあり、年度末年度始めのさまざまな仕事もあってようやくそれが一段落したから、そういうことにも目が開かれてきたということなのかなと思う。

ということで、こちらにも生活関連でもう少し楽しい役に立つこともかけていけると良いなと思っている。

***

「政治」とは何か、というようなことを考えていて、主要な要素は「政策」と「権力」ということになり、政治的な争いというのはつまりは「権力を争う」ということなわけだけど、国際社会のような最高権力がない状態とは違い、国内においては国家権力、つまりは「主権」をめぐる争い、各勢力による国家主権の取り合いというのが政治の歴史ということになるかと思う。国家権力を握った勢力が国家の財源を使って「政策」を実行していくわけで、その財源の配分権、つまり予算を立てる権能が最も重要ということになる。だから「権力主体としての財務省」というものが日本政治においては常にクローズアップされてくるわけなのだけど、本来の政争がそうしたポジション争い、役職なども結局財源の裏付けがなかったら張り子の虎に過ぎないから、予算を立てる権力をめぐって各政党が争うというのが選挙というものの意味だろう。

しかし中には国家権力そのものを弱めることで市民の権利を拡大させたいと考える勢力があり、それは無政府主義=アナキズムであったり完全自由主義=リバタリアニズムと呼ばれる勢力が主である。前者は警察的な意味での国家権力の弱体化を目指し、後者は租税を縮小することでできるだけ小さな政府を目指すという方向性を持っている。前者は日本の弱体化が都合の良い周辺諸国の介入を招く温床になりやすいという問題があり、後者はいわゆる新自由主義として国家の国民福祉への関わりをなるべく限定的なものにしようとする方向性を持つわけである。

後者の動きは日本においては比較的最近のもので、高度成長時代に実現しつつあった福祉国家・高負担社会に対するアンチテーゼ、特に社会的対立の中で既得権を獲得してきた勢力に対する反発ということがあるわけだけど、前者の動きは日本の敗戦後の歴史と関係あるように思う。

敗戦後の日本は、「敗戦」という事実と国土の荒廃によって国家の権威というものが極端に低下したわけだが、政府=国家というものが廃止されることはドイツなどと違って起こらなかった。ただ、国家権力の上に立って国家に指図するGHQという「国家を超えた超権力」が国家主権を相対化する存在として足掛け7年にわたって存在したわけである。この時期に、国家を侮り国家を憎悪するメンタリティの基礎が生まれたように思う。連合国軍総司令部がなくなった後も連合国が衣替えした国際連合を超国家権力のように見なしたり、「日本はアメリカの核戦力に従属していけばいい」みたいな発想が生まれたりするのは、そうした経緯からということがあるのだろう。

これは歴史的に見れば、「悪しき国家権力」の向こうに「幕府を超えた超権力」である「朝廷」が存在する、とか共産党の世界観においても各国家に対する上位存在としてのコミンテルン=ソ連が存在する、みたいな世界観だったりもするかと思う。そういう意味で、日本人の意識の中で必ずしも「至上の権力」は日本国家=日本政府ではなかったりするのが、ややこしい事態を生む一つの契機になってるのではないかという気がする。

ただ、現実にはそういうものは大体において妄想に近いもので、ほとんどの事態は日本の国家権力がどうにかできるものだから、その国家権力自体をどうやったら奪取できるかと考える方が建設的だと思うのだが、多くの野党はそれをせずに幻の超権力が日本政府に天誅を下してくれるのを待っているような感じがして、あまり議論が深まらないのではないかという気もしなくはないわけである。

***

「世の不正を正すための弱者の反撃としてのテロリズム」みたいなものについて少し考えようと思ったのだがちょっと時間的余裕がないのでまたの機会にしたい。

***

より差し迫った感じがするのがイランとイスラエルの報復合戦なのだが、周囲の国々は「戦いを抑止する」「被害を最小限にする」という方向に動いていて、イランもアメリカもこれ以上ことを荒立てたくない感じがするけれども、戦争を続けなければ自分の権力が維持できないネタニヤフはなるべくイランに打撃を加えたいという意思を持っているようで、その辺りのところをどう評価するかで政治関係も経済関係も(特に株式市場など)見方が分かれているのだと思うが、そんなに急激ではなくても値下がり傾向が強いのはやはり悲観論・慎重論が一定以上あるということだろうと思う。

そうした直接の戦争の危険だけでなく、イランに対してはソ連や中国が間接的な支持を表明し、イスラエルにはアメリカやイギリス、ドイツなどが支持をしているわけだが、西側の動きも「国際法にかなった反撃」に努めるウクライナはともかく、国際法を無視してガザでの虐殺を繰り広げるイスラエルに対してこれらの諸国が支持することは、白けた空気が広がっても仕方ない感じはする。

プーチンとネタニヤフが国際法を踏み躙って自国の主張を通そうとするのは戦後世界で曲がりなりにも運用されてきた国際法の権威の凋落を招いているわけで、これはおそらくはパンドラの箱であって中小諸国がよりそのハードルが超えやすくなって、国際法というものも「だいたい守っている国」だけに課せられたルールみたいになっていくことはあまり良いことではないだろうと思う。

イランとイスラエルの敵対関係の緊迫は国際平和への大きな脅威であることに違いはないのだが、どちらが勝っても良いことはない争いであるなとは思う。また、いわゆるグローバルサウスの国々がどのような支持を表明するかも気になるところだ。

現在でもイェメンのフーシ派が紅海の船舶を攻撃することで海上輸送が滞りがちになって世界経済に影響を与えているけれども、イランが戦争状態に入ればペルシャ湾岸をはじめとして原油の調達に著しい危機を招くことは明らかだから、ネタニヤフと戦争熱に浮かされたイランとイスラエルの一部の人々を除けばそんな事態は誰も望んでいないだろうと思う。

ウクライナで正義が蹂躙されていることはもちろん問題なのだが、パレスチナでもやはりそうであるわけで、今イスラエルに支持を表明している国々の中でアメリカは明確にオスロ合意に基づく解決を少なくとも表面上は求めているけれども、ドイツやイギリスがどこまでそれを考えているのかなど、「正義の実現」に誰がどれだけ熱心なのかという疑問もある。

岸田首相の米議会での演説はこういう世界情勢の変化にアメリカだけに任せるのではなく日本も役割を果たす、という意思の表明であったわけだが、一番日本にとっては手を出しにくい中東情勢が最初に悪化したのは皮肉なものだとは思う。

日本としては、できることは限られているにしろ、人道と平和の観点からできることをしていくしかないだろうと思う。経過を見守り、より良い解決がなされることを望みたい。

宮崎駿さんの「つまらない大人」観について:「つまらない」という言葉に現れた希望と重さ/「生活」の奥深さと「生活への憧れ」

Posted at 24/04/15

4月15日(月)晴れ

昨日は何をやるのか考えて優先順位をつけてからやろうと思ったのだがなんだかあまりこれということを思いつかずに少し片付けをしたり本棚(主にマンガ)の整理をしたりして、夕方買い物と本屋を覗きに行ったが新しい本は買わずに帰ってきた。

夜は少しうたた寝をして12時前には床に入り、目が覚めたら5時だったのでまあまあ寝たかなという感じなのだが、どうも頭の緊張が取れなくてぐっすりという感じではなかった。そういうわけで寝床の中で生活の立て直し的なことを考えていたのだが、ふと「日常生活」というものを立て直す、というか取り戻す、みたいなことが大事、というかそういうことをしてみたい、ということに思い当たった。

起きてきて台所兼食堂みたいな部屋で食品類がうまくまとまっていないのを畳んでない菓子箱が積んであったのでそれを使って整理したり、テーブルの上を拭いたり、「日常生活」的なことを始めたら、これは結構大事なことなんじゃないかということに思い当たった。掃除をしたり、洋服を整理したり、そういえば子供の頃にいろいろしつけられたことがあったが、まあ生活が「荒れている」時にはいろいろそういうことが疎かになるわけで、一人で「生活」をする、ということは意識しないとなかなかうまくいかないことなんじゃないかと思った。

女性の方が少なくともそういうことはしつけられていることが多い(最近の人はよく知らないが)から生活がうまく回らないというのはメンタルヘルス的なものがある人以外は大体なんとかなっているのではないかと思うけれども、まあそういう生活の仕方をしつける人は普通は母親であるわけで、祖父母と同居していればおばあちゃんがより本格的なことをしつけたりすることもあるだろう。(これも最近は知らない。私の祖母は明治生まれで女学校を出ている人なのでまあいろいろうるさいといえばうるさかった)

まあそういう意味でいえば「生活」というのは本質的に「おばさん的」なものなのだよなとテーブルの上の食品を整理しながら片付け方のコツみたいな「おばあちゃんの知恵袋」的なことに頭が動くことを頭の動きを観察しながら思ったのだった。そういう意味での「生活」というものからは、男は本質的に疎外されている部分がある気がする。軍隊帰りのような人たちの世代は奥さんが死んで一人暮らしになってもきっちり掃除をしたりラジオ体操をしたりご飯を炊いたりして生活していたイメージがあるが、その後の世代になると「今日の仕事は辛かった、あとは焼酎をあおるだけ」みたいな感じになるところがある。

まあ、最近の人は違うよ、村上春樹のキャラクターみたいに「泥棒カササギ」をかけながらパスタを茹でるんだ、という人もあるかもしれないが、ああいう「生活」みたいなものにもこれはこれでなんというか歪みみたいなものを感じるし、ジャストの「生活」とはいえないんじゃないかという感じもする。「生活というのはもっと地味で、それでいて静かに充実しているもの」である気がする。

そういうことから言えば、フェミニズムのように女性をどんどんそういう「生活」から追い出し「社会」ですり減らそうとし、男性を「生活労働者」として放り込んで消耗させようという方向性はいずれも「生活」の静かな充実を奪っている極端思想である感じがする。人間として尊敬できる人というのは、仕事はともかくそういう「生活」がはっきり充実している人だと思うし、そういう意味ではネットで話題になった「たのしいピクニック」や「サイゼで満足する女性」というのは尊敬できる人たちだと思う。

太宰治の「生活」という「詩」(と言っていいかどうか)があるが、

生活。

よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ

どうにか、なる。

すごい絶望感の中で「生活」こそが生きていくためのよすがだ、というような感じが現れているように思う。現在炎上している「着替えを覗かれて起こっている女の子のフィギュア」の件でも、結局こういうフィギュアがなぜ作られるかというと、「着替え」という「日常性の高い行為」に対する憧れのようなものがそこにはあるからで、性的な部分はいわばトッピングなのだと思う。そういう意味では「たのしいピクニック」をフィギュア化してもそれはそれで結構売れるのではないだろうか。

「生活」というものの奥の深さというのはこの歳になってより一層感じることであるし、昨日見ていたNHKスペシャルの「行方不明になる認知症の人たち」の話でも奥さんが行方不明になった朝でも朝ごはんだけはちゃんと作ってあった、という話などは「生活」「習慣」それを実現するための「しつけ」というものの奥深さというものを改めて感じるなと思ったのだった。

***

昨日Twitterで話題になっていたのが、宮崎駿さんの言葉で「夢と希望に満ちた子供たちがみんなつまらない大人になる」というのがあるのだけど、これは「絶望」であるとか「人間嫌い」が表現された言葉だというやりとりがTwitter上にはあったのだけど、私はむしろそうではなくて宮崎さんのシニカルな「希望」の表現なのではないかと思ったのだった。

子供にはなんでもできるという可能性があり、夢があり、希望がある、というかそういう存在でなければならない、という眩しさみたいなものを宮崎さんは感じていて、でも子供は大人になる過程でそういうものを失いながら、大人として生きていく義務とか責任とか労働とかそういう「つまらないもの」を獲得していく、そしてそういう「つまらない大人」こそが社会を支えているんだ、ということである。

最初から最後まで「夢」とか「希望」として生きているように見える「風の谷のナウシカ」も映画版では奇跡を起こして終わるが漫画版では最後には「汚染されていない人類の種」を全て滅ぼす虐殺者となる選択をするわけで、そうした「つまらなさから逃げない」姿勢こそが正しいという展開になっている。

そういう宮崎さんの「大人」観が一番はっきり現れているのが「魔女の宅急便」で、一人前の魔女としての自立を目指すキキは知らない街でおばあさんに頼まれて孫の女の子にパイを届けるのに、嵐が来たり必死の思いで届けるのだけど、受け取った女の子はつまらなそうに「私これ嫌いなのよね」、という場面である。ひどいとは思うが、宮崎さんはこの場面について「労働とはそういうものです」という。この件もあってすっかり元気をなくしてしまい、今まで普通に話ができていた猫のジジ(猫と話すということ自体が夢や希望の象徴でしょう)とも話ができなくなり、「宅急便」の仕事をするためには欠かせない「箒で空を飛ぶ」ということ自体ができなくなってしまうわけだけど、絵描きの友達やおばあさんに励まされる中で少し元気になる中で、男友達のトンボを助けるために必死の思いで魔法が再び使えるようになる、という話である。宮崎さんはこの中で、「猫と話すこともできないつまらない大人になってしまったキキ」を「否定している」とはもちろん思えないわけである。

宮崎さんのアニメはそのようにしてみていくと「キラキラした夢と希望に満ちた子供時代」を描いたものは「崖の上のポニョ」くらいのものだし、「つまらない大人たちがつまらない大人として生きていく」、大人としての宮崎さんの「夢」で「飛行機の墓場」が描かれた、つまらないどころか豚になってしまった「紅の豚」ややはり全ては夢として終わる「風立ちぬ」などの物語もある。夢の中を生きるのか現実を生きるのかという選択肢は何度かテーマになっているし、それらで言えば「天空の城ラピュタ」や「もののけ姫」「君たちはどう生きるか」などの「男の子」を主人公とした話にそういう要素が強い。「千と千尋の神隠し」は女の子がある種の地獄巡りをする中で大人として生きるための予行演習をする、みたいな話だなと思うが、最後の場面は母親に縋り付くことで、また子供に戻っていくことが感じられて、豪華絢爛で壮大な夢として一つの人生が生きられた充実感があった。

まあそういうわけで彼のいう「つまらない大人」というのは文字通りの否定的な感情を表したものではなくて、生活や労働や責任や別離や喪失などの「つまらないもの」に満ちた大人たちへのある意味での応援をひねくれた形で表現したものではないか、と思うのだった。


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