「近代の超克」の失敗と「現代の超克」の見通し:ジェンダーやコロナをめぐる混乱などにも関連して

Posted at 24/04/24

4月24日(水)雨時々曇り

昨日はいろいろ忙しかったのだが、少しずつ前に進んでいるところはあるのでそういうところをさらに確かなものにしていければいいなと思っている。

現代のさまざまな問題の根底に「言語論的転回」の問題があると思っていて、要は既存の社会秩序を疑い、再構築していこうという方向の根底にこの考え方があると思うのだが、ある種の社会の常識的な枠組みがあちこちで破壊されていて、それに対する反発や再反論、決めつけや憎悪などがさまざまに現象してきているような印象がある。

近代社会を成り立たせてきた、推進してきた原理は啓蒙主義から発展・成長した科学主義・実証主義であり、キリスト教に依拠した階級社会や絶対王政の論理を超克して絶対主義の主権国家の枠組みを守りながらブルジョア民主主義制度を一般化していく方向になったわけだが、近代とは明確に西欧ブルジョア社会優位の時代であったから、それに対する異議申し立ては各所に起こった。帝国主義的国家間競争の破綻によって第一次世界大戦がおこり西欧諸国、特にイギリスが没落し、ロシアが崩壊して共産主義政権になるなどの大変動は起こったが、共産主義もまた近代主義のバリエーションではあっただろう。また敗戦国ドイツでは暴力的なナチス運動が国家を支配するに至り、近代は危機に晒される。

その中で日本は、明治維新によって封建国家体制を超克して近代国家、また当時のスタンダードの近代帝国主義国家に脱皮することに成功したわけだが、基本的に西欧近代のスタンダードを追いかけ、その規範の中で成長することを選んだわけである。第一次世界大戦もまたその成長のきっかけの一つになったが、西欧近代の受けたダメージは大きく、不戦条約など暴力的な手段によらない近代世界の安定を目指す方向性が生まれた。

ロシアの共産主義政権の成立により、発展しようと志した国が近代化の方向性として日本やトルコが選んだような西欧モデルだけでなく、ロシア=ソ連の共産主義モデルを選ぶ手段が生まれたことは「近代」の相対化と多様化において大きな契機になっただろう。明確な共産主義化を選ぶ国は1920-30年代にはモンゴルを除いてなかったが、中国は国民党が政権を握ることでソ連と欧米を天秤にかけ、「革命外交」を行うことで日本のような条約改正の苦労をすることなしに自らの主張をイギリスに認めさせて行く。

日本ではそれまで西欧スタンダードの大国になることを目指していたが、共産主義国家の成立はむしろ外交的にはある種の思考停止をもたらしたように思う。西欧の人権理念の真の実現を求めた人種差別禁止条約は成立せず、また満洲における権益の共有を拒絶したアメリカからは排日移民法を食らうなど、「西欧の理想」を疑問視する傾向が強くなってきて、また中国のようにソ連の存在を示唆してより有利な交渉を英米側に求めるというような外交術もなかった。これはうっかり日本が先進国、五大国としての矜持を持ってしまったために中国の瀬戸際外交的な外交を行う泥を這いずり回るようなセンスが失われたこともあるし、「共産主義の脅威意識」を英米と共有することにも失敗したということがあるのだろうと思う。

日本国内では外交面では欧米協調路線が強く、軍事面では中国における権益確保への指向が強かったために中国情勢に翻弄され、アカデミズムや学生運動の中では共産主義への憧れが勢力を持ちつつあり、いずれにしても幾つもの要素がある当時の日本をめぐる情勢を現実的に捉えて日本が有利になるような外交を行う手練手管に富んだ外交者たちや強力な政府を持てなかったことは当時の日本にとって残念なことだったと思う。これは戦間期の大政治家になる可能性があった原敬の暗殺という突発自体が招いた不幸という面はあり、現代の安倍首相の暗殺もその轍を踏まないかと懸念する部分がある。

中国での権益確保の欲求という理念なき軍事方針の爆発が満洲事変の形で起こったときにそれに政府は有効に対処することができなかったのはいろいろと問題の指摘の仕方はあるけれども、「近代」国家としてやはりまだ未熟だったから、という面は大きかったような気がする。この意図せざる暴発をきっかけにして国際世界で孤立していったことが日本の大きな失敗の始まりだったことは確かだろうと思う。

ただ一度自体が動き出すと起こってしまったことは仕方ないとしてそれはそれとしてその方向性での国家建設を考えようという方向になるところがある意味日本らしいとはいえ、その中で構築されてきた哲学的な議論が「近代の超克」というものだったようには思う。

こうした議論の中でそれまで国家建設の一つの推進力になってきた「近代」の力、科学主義・実証主義に対して前近代的な暴力主義みたいなものがブレーキをかけるようになり、同じような志向を持っていたナチスなどの全体主義勢力と手を結ぶという愚挙に出ることで共産主義の牽制も成し遂げようとした。英米や西欧近代勢力と日本の現実との調整がもう少し時間をかけてゆっくりできればそういう方向にはいかなかったと思うが、政治家の人材不足や経済的な苦境、社会的な貧困圧の高まりなどはそういう日常性を日本社会に許さなかったという不幸もあっただろう。

結局独ソ不可侵条約の締結によって「共産主義の牽制」すら画餅に帰したことがわかり日本政治はますます混迷を深めて、とはいえ欧米協調路線に戻ることは中国での戦争をやめない限り不可能だったので、ますます間違った方向へ行ってしまったのだろう。

その時の日本の思想というのは例えば石原莞爾の「最終戦争論」にあるように、資本主義・近代主義のチャンピオンであるアメリカと最終決戦を行なって勝利することで日本が世界の盟主になる、というような発想だったのだけど、日本が近代世界で力を持ちえたのは西欧的な方向での近代化が成功してきたからだという前提がやはりあまり強く持たれていずに、自らの力や精神文明を過大評価していたことが失敗の原因だっただろうと思う。日本の良さが近代性とは別のところにあるという議論はもちろんあり得るのだが、それが強さの根源になるという考えがやはり難しいところはあったというべきだろう。「大和魂は腑抜けた欧米人に勝利しうる」という客観性に欠けた主張が社会を風靡してしまったことは大きな問題があっただろうと思う。

結局日本は「近代の超克」には失敗し、戦後世界を「敗戦国」として生きることになるわけだが、英米派外交官であった吉田茂は軽武装・日米同盟路線を選択し、また武装よりも工業化・産業化を選択したその後の路線によって日本は高度成長を実現し、繁栄することになった。これは吉田が巧みに共産主義・軍国主義の脅威をGHQに吹き込み、自分の政敵や共産主義の運動を封じ込めていったからというところもあり、戦前は利用することができなかった蒋介石流の共産主義の脅威を、蒋介石が覇権を失った後の戦後においてうまく受け継ぐことができたということもできる。アメリカにとっては日本に対抗するために蒋介石を援助する方向で多量の犠牲を出した後に今度は共産中国に対抗するために再びアジアに関わらざるを得なくなったわけだからある意味外交の失敗と言えなくはないとは思うが、状況は戦後の日本には味方したという面はあるだろう。

こうして再び日本は欧米近代主義の枠内での発展という明治以降の基本路線に戻ったわけだが、戦前に比べると冷戦という状況は複雑化はしていたが基本的には日本の発展には有利な状況が続いたというべきだろう。現代とはいつ始まったのか、という考え方はいろいろあるが、社会主義国家の存在を重視する立場からは第一次世界大戦後から、という考え方が強かったように思うけれども、その社会主義権が崩壊し、残骸としての中国やロシア・北朝鮮のような権威主義国家が残っているだけという現状を見れば、国連憲章によって進むべき世界の方向性が明確に示された1945年以降が現代と考えるのが妥当なのではないかと今は私は思っている。

現代社会の進展の中で共産圏が崩壊し、「共産主義の脅威」が神通力を失ったことによって、アメリカの対日姿勢も変化し、特に90年台のクリントン政権はジャパンパッシング的な日本軽(い敵)視政策をとったこともあって日本経済は長期低迷に落ち込んでいったわけだが、ロシアや中国も含めて世界はグローバルに一体化するという幻想がロシアにおけるプーチン政権の、中国における習近平政権の独裁的な執政の長期化によって壊されていく中で、アメリカは昔日の世界平和に対する義務感を失いつつあり、オバマ政権もトランプ政権も紛争には関わらない姿勢を示すようになっていったが、そうしたアメリカの空気を変えたのが今回の岸田首相の米議会における演説であったと思う。

アメリカは世界平和を維持する暗黙の責任のみが負わされ、それでいて感謝も同意もされないという不公平感、虚無感があったのが、ちゃんと熱い期待を持ち応援してくれる国があるということに感激して、あれだけ大きな反応が起こったのだと思う。どんなにアメリカが大国でもそのモチベーションが下がっているときに世界平和を維持するなどという巨大な責務を背負い続けることは難しいわけで、岸田首相の演説はうまくアメリカのツボをついたと思う。

そういう意味で、日本は共産主義とか国家社会主義のような全く新しい枠組みを提案し推進していくことよりは、既存の枠組みをフル活用し、その中で地位を高めていくことで次の世界の主導権を握る、というスタイルの方が得意なのではないかとは思ったのだった。まあこれは日本に関しての話だが。

こうした現代社会・現代世界というのは、西欧近代というスタイル・意匠・方向性をより一般化した形で世界に適応させていく形でスタートしたわけで、アジアアフリカ諸国の独立や国際連合への加盟など、基本的にはいわば「修正近代主義」の形で進んできたのだと思う。

ただそれを極限まで推し進める方向性が強くなってきたのはいわゆる1968年革命以降で、特に20世紀末から現時点にかけてジェンダー思想(フェミニズムやLGBT思想)やエコロジー思想、学問的にはジェンダースタディーズやカルチュラルスタディーズなど、いわゆる「言語論的転回」によって近代思想そのもの、またそれ以前に人類が積み上げてきた文明的蓄積全てについて疑問を投げかける方向性が生まれたことは「修正近代たる現代」にかなりの影響をもたらしている。

これにはいろいろと議論があると思うけれども、私は個人的には弊害の方が多い、もっと言えばかなり根本的な文明的危機をもたらす可能性があると思っている。

ただこれは、ローマ帝国・ローマ帝国を滅ぼしたのがある一面においてはキリスト教やストア主義的コスモポリタニズムであった、というのと同様、ある種の「歴史の必然」と考えるべきなのではないかという気もしなくはない。

ただもし「文明」や「近代」を守りたいのであれば、この破壊の方向性を食い止めるための思想や行動が今必要とされているのだろうと思う。言語論的転回も初期にはおそらく「創造的破壊」「自由のための革新」みたいな意義がつけられていたと思うが、現在では「創造なき破壊」「自由を殺す革新」の方向に進んでいるのではないかという危惧があちこちで見られる。

また新型コロナ感染症のもたらしたパンデミックが与えた甚大な社会への影響というのも、これらの問題と重なる部分はある。特に「医学・疫学=科学」に関する信頼性というものが大きく揺らいだということにおいて、近代・現代への疑惑というものが生まれたことは大きいのではないかと思う。東京15区の選挙をめぐる混乱なども同じ根を持つ部分もあると思うが、今回は詳述しない。

まあこうした問題は、もとよりこんな小論では扱い切れる話ではないのだが、今私が思っている問題意識について素描してみたので、またここから発展させられればいいなとは思っている。

ただ、こうした混乱自体も含めて「現代」だという認識は私にはあり、そういう意味で「現代の超克」というものをどう考えていくかというのは課題だなと思っている。

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書いている途中で吉田茂がGHQを利用して政敵(「軍国主義者」や「共産主義者」)を排除していった過程について考えていて、まあ決して褒められるやり方ではないなとは思ったが、戦前の政治家が天皇の権威を利用し、樺山資紀が「なんのかんの言っても日本の近代化は薩長のおかげ」と言ったら「天皇陛下の御威光のおかげだ!」と批判されたり、尾崎行雄の桂内閣弾劾演説でも「天皇の影に隠れて弾を打ってくる卑劣なやり方」みたいな非難をしたりした話を思い出したり、また昭和天皇自身が天皇の権威を利用した、ないし使ってしまった出来事が三つあったなとか(田中首相叱責、二二六事件収束、終戦の聖断)そういうことについても書こうと思ったが、この辺はまた別の機会に書きたい。


丸の内彷徨/イオンモール彷徨/「生産が娯楽になるタイプ」はどこにいてもやっていける

Posted at 24/04/23

4月23日(火)曇り

昨日は朝東京。少し雨が降っていて、傘をさして緑道公園などを少し散歩。ローソンでジャンプ・スピリッツ・ヤンマガとサンドイッチを買って家に戻る。何をやるかということを考えながらブログを書いたりしていたのだが、いろいろ考えて早めに家を出て実家に戻ることにし、丸の内の丸善と甲府のイオンモールに立ち寄って帰ることにした。

お昼頃に出るつもりだったのだがいろいろやっていたら少し遅くなり、駐車場で荷物を乗せて駐車料金を入れようとしたら千円札がなく、近くの郵便局のATMに行って2000円だけ下ろす。こういうところが抜けているなといつも思うのだけど。精算時間を今見たら12時55分だった。道はそんなに混んでなくて普通に丸の内に着いたのだが駐車場が満車。他の駐車場の場所を確かめてなかったので困ってしまい、探しながら動いてステーションホテルの駐車場に入ってしまい、かなり高かったので困ったなと思って出ることにしたら精算機で0円と表示されたので助かった。やはり商業ビルの駐車場とホテルの駐車場では料金が違うのだなと思う。丸ビルの駐車場を探したが見つからず、向かいの丸の内仲通りビルに駐車場の表示があったので入った。入庫時間は13時37分だから丸の内でかなり時間を使ってしまった。

とりあえず車を止められてやれやれと思い、丸善まで歩いたが結構遠い。帰りに見ると新丸ビルのところにも入れそうな駐車場があったので次回はそこを使ってみようと思った。丸善ではさっと本を見て、とりあえず昼食ということで3階のカフェでハヤシソースのスパゲティを頼んだが、これが当たりだった。本家のハヤシライスよりこちらの方が私は好きかもしれない。窓際の席でちょっとまったりし、その後本を見たり文房具を見たりして店を出、地下のファミマでコーヒーと水を買って駐車場に戻る。精算したら1200円になってタイムスタンプを見てみると1時間を8分だけオーバーしていた。使ったお金よりも駐車場代の方が高くなってしまったが、まあ授業料ということにしておこう。

駐車場を出て首都高の神田橋の入り口に向かうがどういうわけだか間違えてしまい、入り口がわからなくなった。ナビが新しい経路を示したので従って行ってみると、すでに廃止された江戸橋インターに導かれてしまい、また日本橋大手町周辺をぐるぐる回ることになってしまったが、もうナビを信用しないで永代通りに戻って大手町交差点を右折し、ようやく神田橋で乗ることができた。今考えると、「大手町駅前交差点」と「大手町交差点」を間違えたのだと思う。都会には色々な罠がある。

結局首都高に乗れたのは3時過ぎになってしまったので混むと嫌だなと思ったのだが、思ったよりは順調に流れた。神田橋で乗れば三宅坂ジャンクションはすぐなので都心環状線はほぼ渋滞なし、4号新宿線は例によって幡ヶ谷の山手トンネルからのルートとの合流点が左車線は混んでいたが、右車線をいったのでほぼ引っ掛からず。ゆっくりの車が多かったから少し時間はかかったが、渋滞なしで石川PAまで行くことができた。

石川ではラーメンを食べることが慣例になっていたがイオンモールが目的にあるのでそれはやめてトイレ休憩だけにし、あとは境川PAでもう一度トイレに行って甲府昭和インターで降りる。あとはナビに従ってイオンモールまで行ったが、案外遠かった。駐車場の入り口がわからず変な駐車場に止めてしまったが、返って台数が少ないところで出入りは楽だった。

目的は書店とスーパーだが、書店が中の案内を見ても見つからず、一度外に出てGoogleマップで見学したら近くの違う場所が表示されたので行ってみたがない。もう一度表示を見るとイオンモール3階とあってええっと思って行ってみた。結局、案内表示で表示されているのが全体ではなく一部だけだということがわかり、まあ初めてくる人にはあまり親切ではないなと思った。

位置の関係で先にスーパーで買い物をすることにし、けっこう品があるなと思ったけれども、初めてのスーパーというのは勝手がわからないことが多くて少し探すのに苦労はした。レシートを見ると精算時間が5時40分になっていた。車に買い物を置いて3階へ。

未来屋書店はまあどうだろう、都心の大きな書店ほどではないが一般的なものは結構あり、諏訪の書店よりは本はあるなと思った。ただマンガに関してはみたところ、諏訪の蔦屋の方が多いのではないかと思った。「葬送のフリーレン」は最新巻はあったがそれ以前のものを見つけることができなかった。そのあと3階を少し歩いたらアニメイトがあり、そこにはフリーレンが揃っていたのでまあ買えないことはないなとは思ったのだけど。

イオンモールを出たときにはもう暗くなり始めていたが、あとはナビでインターに戻る。途中、地元よりは安いガソリンスタンドがあったので給油したが、思ったよりはかかってしまった。ただ、いま地元に169円の所はないと思うので少しは安かっただろうか。割合順調に走れて、途中PAによることもなく、8時前には実家に帰着した。

こうして書いてみると昨日はあちこちでずっと道に迷った日だったが、まあ迷うのも観光の一環みたいな感じだなとは思う。その時はけっこう心の中でぶつぶついっていたけど、まあ娯楽の範囲内だったかなとは思った。

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くまきちさんの「田舎が苦にならない人間は「生産を娯楽にするタイプ」が多い」というツイートを読んで、そのことについてずっと考えていたのだけど、考えれば考えるほどその通りだなと思うのだが、生産が娯楽になるタイプの人というのは田舎でなくても、都会でも海外でもどこでもやっていけるなと思った。料理が好きとか部屋を整えるのが好きとか建築会社に勤めているのに休みの日にも家で何か作ってる人とか、そういう人というのはいるわけで、材料さえ手に入ればどこででも楽しめる。作家の人とかも、手慰みの文章を描く人が多いけれども、そういう人は田舎暮らしとかを材料に書いていたりするわけで、むしろ必要以上の情報を遮断するために田舎に住んでいるという感じはあるだろう。もっとも今はネットがあるからジャンクでよければ情報は大体どこにいてもいくらでも入ってくるわけだけど。

消費を娯楽として楽しむ、というのは基本的に都会的な生活様式であって、それはそれで楽しいのは確かだが、都会はスクラップアンドビルドが激しいので楽しめた場所がいつの間にか無くなってしまうということも多い。消費的な楽しみというのは向こうが提供してくれるものを楽しむわけだから受け取る側の選択肢はそんなに多くなく、元気のいい時は新しい楽しい場所を探すこと自体が楽しみになるけれども、元気がないときは気に入った場所が無くなったり行ってみたら嫌な客がいたりするような些細なことでダメージを受けるし、新しい場所を探すといってもそういうものにもトレンド=流行があって「一時期流行ったようなカフェ」というのがどんどんなくなり全部スタバみたいになっていく傾向もあって、スタバみたいなところが落ち着かないこちらとしてはなかなか辛い感じであったりもする。

こういうのは「お洒落な書店」などにも感じることで、自分が求めているものと違うものがプッシュされていると特にいく必要はないかなと思ってしまう。それならば自分の蔵書を充実させて家で本を読んでいる方がいい、みたいになっていくなあと思う。

自分はどちらかというと消費を娯楽、息抜きにしようとしすぎていた傾向があったなと考えながら思ったのだけど、多分それは元々の性向というだけでなく都会人を気取ること自体が楽しかったからということもあるような気はする。

いずれにしても消費だけでは生活できないので生産行為は必要なのだけど、どうせなら全体的に楽しむ方向へそういうものも持っていけるといいなとは思った。

期日前投票に行く/トスカニーニを聴く/「ふつうの軽音部」:何度読んでも新しい発見があって面白い/大学問題:地方国立大学の位置について

Posted at 24/04/22

4月22日(月)雨

昨日は9時過ぎに実家を出て車で上京。原PAでいろいろ調整し、双葉SAでトイレにより、境川PAでモツ煮弁当を買い、石川PAでトイレに行ってそのまま自宅まで走った。比較的すいていて着いたのは12時半ごろ。時間帯のせいか、他に要素があったのか。双葉SA上りの駐車場の止め方が変わっていて最初よくわからなかったのだが、前の方が分かりやすかった気はした。ただ入ってくるときと出ていくときの駐車スペースを選べるのはいいシステムだなと思う。奥まで行ってみたものの空きがなかった、みたいなことはよくあるから、出ていくときに止められるとありがたい。

自宅に戻ってからモツ煮弁当をチンして食べて、休憩しながら整理したり。2時過ぎに家を出て、期日前投票をしに行ったのだが、西友の前で参政党の候補が演説していて、そこにYouTuber候補が通りかかって作家党首がエールを送ったりしていた。区役所で投票を済ませるとNHKの出口調査の人がいてタブレットで質問に答えたが、消去法で選んだ投票先なので特に期待することもないからなんの政策に期待するかという質問には困ってしまった。地下鉄の駅前に出るとさきほどのYouTuberが作家党首と演説していて、近寄ることもなく地下鉄の入り口を降りた。

大手町に出て丸善で少し本を見たが買わず。帳簿のルーズリーフを売っていたのでそれは買った。半蔵門線まで歩いて神保町に出て、書店を数軒回ったけど買わず、文房堂の喫茶室で塩キャラメルケーキを食べてディスクユニオンへ。中古の新入荷を少し見ていたらトスカニーニ指揮・NBC交響楽団のモーツァルトとウェーバーのオペラ序曲集があり、買ってみた。新御茶ノ水まで歩いて地下鉄で帰ったが、帰りに西友によって夕食の買い物をし、帰宅した。ずっと雨は降ったりやんだり、帰りにはもう西友の前で演説している人はいなかった。

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帰ってから夕食を取りながらトスカニーニを聴く。980円だったがジャケットはB判定なのだが盤質はAで、音もいいが演奏もいい。これは当たりだった。中古は当たり外れが大きいが、有名演奏家のものはやはりあたりが多い。

トスカニーニ(1867生)って戦後も活躍してるから最近の人のような気がするんだけど、ラヴェル(1875生)より8歳も年上なんだよなあ。現代音楽と彼が同じ時代に存在しているのもなんだか不思議な感じもある。フルトヴェングラーは1886年生まれなのでトスカニーニより19歳下なのだが亡くなったのはトスカニーニの方が3年後(1857死)なのでそこらへんも最近の人感がある理由だろうか。

19世紀の交響曲の話とかを読むと初演の評判が結構重要なんだなと思うのだが、現代音楽だとストラヴィンスキーとかが「火の鳥」や「春の祭典」で評判を取ったという話は聞くけどその後の作曲家たちで初演で大評判、みたいな人ってどれくらいいるのだろうか。現代音楽というのはやはり大衆性は失っていると思うのだけど、興行的にはどうなんだろうかなどと考えたり。

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昨日日曜日に更新されたジャンププラス「ふつうの軽音部」19話。

https://shonenjumpplus.com/episode/17106371853064392379

前回のラストに出てきたイヤな感じの美女・レイハさんがいきなりはとっちのギターを借りて歌い出した「怪獣の花唄」、知らなかったが普通にいい曲だなと思った。調べてみるとカラオケ歌われた歌年間ベストワンになったこともあるようで、人気の歌だったらしい。

https://amzn.to/49PeDNo

彼女の描写はこれでもかと彼女の「持っているもの」を見せつける感じで、はとっちは劣等感を刺激されそうになるが、そこから立て直してもっと傍若無人に歌おう、自分の憧れたロックバンドのボーカルはそうだったはずなんだと気づくわけだけど、この回のサブタイが「大海を知る」なのがとてもいいなと思った。

レイハさんもすごいけど、その先に「自分が憧れていたロックバンドのボーカル」が見えたわけで、縮こまっていた井の中の蛙だった自分が目指すべき目標を見た、まさに覚醒の回だったのだのと思った。何度も読んでいるうちに気づくことが多いのは名作の証拠だけど、「ふつうの軽音部」もほんとに名作だなと思った。ラスト2ページを画面を横長にして見ることでレイハさんの「黒さ」とはとっちのリベンジ感情がはっきりわかるのが本当に巧みだなと思った。

それにしても修行に入ってから自意識アニマルの出番がない。まあそんな暇ないということだけど、まあ全然見なくなるのも淋しいが、これはまあ「魔女の宅急便」で猫のジジが人の言葉を喋らなくなるのと同じで、「成長」ということなんだろうなと思う。まあ学校生活に戻ったら出番はまだまだ多いだろうとも思うけど。

創作作品というのは何度も読み返しているうちに気づくところがあるというのが名作の特徴であるわけだけど、最近は一般に文章は一読でわかるのが良いとされているわけで、そういう文章に慣れている人が多くなるとどんどん小説やマンガに対するハードルは高くなるよなと思ったり。ただ「ふつうの軽音部」は一読しても面白い、何度読んでももっと面白い、という作品なので、これからも期待したいと思ったのだった。

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夜ツイッターでやり取りをしていて、「大学問題」、つまり大学は社会・国家の中でどういう役割を果たすべきか、みたいなことをかなり考えさせられたのだが、私は大学時代からかなりシンプルに「国家社会に有為な人材を育てるため」でいいと思っていたのだけど、問題は結構複雑なのだなと思った。

大学教育が国家のためなのか個人のためなのか、また研究活動というものが個人のためなのか国家のためなのかそれとも人類のためなのか、など形而上的なテーマも絡んでくるのでこのあたりは自分の意見は言えるけれども現実の趨勢は自分の考えとはかなりかけ離れたところで動いているのだなという気はする。ただこれはしっかり考えて書きたいところだなと思う。

一つだけ書くと、地方国立大学の問題だけど、地元から進学する人がある程度いるのは確かだが、国立なので全国から人が集まる。そしてその中でも教育熱・進学熱が高い首都圏の学生がより多く入って来やすいということがあるようである。

このあたりのことは医学部では以前から聞いてはいて、地元の大学の医学部に入学することを「都落ち」と表現されて失礼なと思ったのだが、学費を考えれば東京の私立より地方の国立、となるケースが多いのはまああるだろうとは思う。ただ場合によっては地元よりも首都圏の学生の占拠率が多くなるとその大学の地域性の意義という問題も出てくるから、特に医学部などに関しては地域枠という制度を設けて地元の学生を確保し、地域医療につなげようとはしているわけである。

地方の方が進学熱も教育熱も低いし教育資源も少ないから地方の経営を成り立たせるためには必要な措置だと地方の側からは思うがそこに不公平性があるという主張も成り立ちえなくはない。

また地方国立大の存在はその県の教育レベルを支えるものでもあるけれども、首都圏からの学生が多くなるとただでさえ首都圏に比べてチャンスが少ない地方の学生のチャンスがさらに減るという面もあり、国立大学の存在が格差是正の方向ではなく拡大の方向を加速しているという見方もあるのだそうだ。

そういう意味では首都圏への経済的・政治的一極集中こそがそうした教育格差を生んでいるわけだから、むしろそういう言う一極集中問題の一つの現れであって大学問題単体としてというより「国土の均衡のとれた発展をいかに実現するか」という古くて新しい問題の一環なんだろうと思う。

まあ私個人としては大学経営というのも市場原理主義的な考えではなく、国家社会のために有為な人材を育成するという崇高な使命があるということを自覚してもらい、それを国家・財務省・文科省もしっかり支援する、というのが正しいと思うのだが、左翼学者の蔓延によってそれが難しくなっているなどの問題はあるのだろうなとは思う。また近視眼的な市場経済主義による国の支援の欠如という問題もあるのだろう。

十分に全体像を描く余裕は今ないのでこれくらいにしておくが、そうした問題として意識されている事らを前提としたうえで、もう少し自分の考え方を詰めてみたいなと思っている。

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せっかくブログ・noteを書いているので、自分でなければ書けないものをもっと書いていかないとと思うが、まあその辺を意識してまた書いていきたいと思う。

お金をやりくりすることと日本政治の方向性

Posted at 24/04/21

4月21日(日)曇り

最近必要に迫られてお金のやりくりに結構時間がかかっているのだが、こういうことをやっているとお金に対する考え方のようなものが少しはわかってくる感じがある。理屈としては知っていても自分が当事者としてお金を扱わないとわからないことというのは結構あって、そういうことをやっていると財務官僚とかがどう考えてこういうアドバルーンをあげたのかとか、そういうことも少しは類推できるようになるということはあるなと思った。

お金を使う目的は福祉的(会計的に言えば消費的)なものと投資的なもの、まあ後は経費(官僚機構の人件費やインフラを維持する管理費など)があると思うけれども、国家の場合は外交の費用などのある意味での交際費、防衛費などのある種のインフラの維持費もある。自衛隊が災害救助や復興支援に動くのもインフラの維持という意味では同じ目的だなと思ったりする。

経済が成長している時代はいろいろなものがいっぺんに必要になってインフラ投資が盛んに行われる。新幹線や高速道路網の整備、空港や港湾の整備、公共施設その他に莫大な国家規模の投資が行われ、税収が好調で国債発行も低利で行えれば問題なく財政は動いていくから、将来の投資や福祉に関しても基本的になんとかなる感じで動くけれども、経済が停滞ないし縮小してくると税収も減り、何を選択して何をしないかが問題になってくる。福祉的なお金は将来の利得の回収を目指せるものでは基本的にはない、児童福祉や子育てに対するお金はある種の投資ではあるが、高齢者福祉などのお金は投資というよりは日本を支えてくれた人たちへの感謝という意味合いは結構あるだろう。

しかし縮小してきているとはいえ日本国家も日本社会も日本経済もこれからも続いていくのだから、基本的に将来への投資というものをケチるのは将来に禍根を残す。それが教育関係や研究関係の費用、インフラ維持・設備投資なのだが、なかなか最近はそこに十分に国家的な投資が行われず、みすみす他国に後塵を拝するような結果になりがちになっている。

福祉や医療に一定程度のお金がかかるのはやむを得ないが、国の将来を考えた支出を今以上減らすのはあまり良くない。まあそんなことは財務官僚もわかっていてやっているのだろうとは思うし、だからこそ彼らは「小役人に徹する」ことによって財政規律を維持しようとしているのだろうと思う。

国家財政が家計などと違うのは先行投資的なものを国債で賄うことで将来的に需要を創出し税収を増やすというマクロ的な政策ができることなわけだけど、財政規律がないと意味のない政策にお金をかけることになってしまう。

最終的には、何にお金をかけて何を削るかというのは政治判断なので、財務官僚はそういう意味では小役人でいいわけなのだけど、必要なときにはバンと金を出す肚は必要なわけで、小役人もいろいろ大変なことは自分でいろいろやりくりしてみてそうだろうなとわかる部分がある、という話である。

だからこそ政治家は国の将来像、特に産業的な基幹を何にしつつ今まで築いたもののうち何を守っていくのかということがこういう国家経済としての後退局面においては大事になってくるわけだけど、そういう意味での国家像を描ける教養的なものが平成の初め頃までは戦前の旧制高校的な教養主義にバックアップされていた感じがする。つまり戦前に教育を受けた人たちの恩恵は、そのくらいまではあったということである。

逆にいえば、それ以降の平成時代の長い低迷時代は、戦後教育を受けた世代が担ってきたわけで、そういう意味では戦後教育の敗北を象徴するものでもある気はする。昔の国鉄なんかめちゃくちゃだった、今の人たちは対応は丁寧でスマートだしとても良くなった、昭和に帰りたいとか全然思わない、というような言説があるけれども、それはそれで一面の事実ではあるとは思う。

ただ逆にそうした戦後民主主義的な洗練による日本国家全体の線の細さみたいなものも一方では問題になってきたのではないかなという気はする。戦後教育や戦後民主主義が失敗でなかったと証明するためには、そこで日本の国力をもう一度回復できるかということにかかっているのではないかと思うし、戦後政治の総決算というのももしそれが失敗であったならばやり直さないといけないということなわけで、それは実際には経済に大きく現れているのではないかというところはある。

そういう「改革」勢力は代表的なものは維新の会だと思うが、彼らは戦後政治を改革しようというだけではなくて明治以降の日本の歴史やそれ以前の日本の伝統まで否定的にみているところが良くない、というか保守ではなくて単なるポピュリズムに過ぎないという感じはする。民主党系は旧左翼と自民党脱党組の野合の上に松下政経塾勢力と合体したわけだが結局プリンシプルが確立できず、頑固な左翼系に引っ張られて世間の支持を失ってしまった感じである。

自民党も保守と言われてはいるけれども、戦前からの日本の政党政治の伝統の上に立っている政党であって、戦前の政党というものは板垣退助の自由党と大隈重信の立憲改進党を主なルーツとして、結局は進歩主義の立場の政党だったわけで、保守は結局今まで本当には自前の政党を持っていないのだと思う。日本の政党は結局みんな左翼だ、といった人がいるが実際そうだろう。

戦前は貴族院だとか枢密院、あるいは軍部など政党政治に対抗する勢力があったから政党自体が進歩主義であることでバランスが取れていた面があるが、戦後はそうしたものが一掃されたので進歩一強のバランスが崩れた状態にあるというべきなのだと思う。

まあそうした明治政府の諸勢力自体も、明治維新という革命によって生まれた革命政権であるわけだから、根本的な進歩性を持っていたわけである。そういう意味で、明治以来の国づくりの困難というのは、実際には今も続いているのだと思う。

私はアフリカ諸国の政治とかについて調べていると、そういう意味での民主主義的基盤が脆弱で直ぐ軍部がクーデターを起こしたり、外国勢力の影響が強かったりするのはやはり明治以降の日本の政治がいろいろとダブってくるところがあるなあと思うところがある。

民主主義的というか近代的な政治制度がほぼ自生した欧米に比べると、伝統社会と国家制度に基本的にかなりの齟齬があるのが非欧米社会であって、明治国家は伝統社会を国家統制によって縛り上げつつ伝統社会の破壊自体はほどほどだったのが、戦後国家は伝統社会そのものをかなり破壊し、人々のパトリオティズム的な回帰すべき場所をかなり破壊してしまい、生産現場から疎外された中間層というある種の根なし草的な国民が増え、教育や教養というものは本来社会の再生産的な役割も大きいのだがそこの部分が疎外されつつあるのでより社会が不安定化しているということはあるのだろうと思う。

安倍政権の時代は曲がりなりにも保守的な主張が強く、それなりの安心感があったが岸田政権は基本的にリベラルな方向に動いているので社会の維持ということに関してはかなり不安が感じられる。

まあなんというかあまりよくまとまらないが、日本国家としてのプリンシプルとか何を守るべきなのかとか日本は何を基幹産業にして国を維持していくのかとかお金をやりくりするということはそういうことに直接関わってくるのだよなということを思った、ということを書いておこうと思う。


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