ひとりごと

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14.11.11. ひとりごとの研究

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  先日,某放送局の某番組の企画・制作をしているなんとかという会社の人から電話がかかってきた。番組の企画に関して質問があるという。「人はなんでひとりごとを言うのかについて,教えて欲しい」のだそうだ。「まったく専門外なので」と答えると,「では動機づけとはどういう学問なのですか」と聞いてくる。ひとこと「学習意欲のことです」と答えて電話を切った。

  以下はまったくの憶測だが。おそらく。

  彼女は番組の企画のために,「ひとりごと」をキーワードに検索をかけてみたのだろう。いったいどう絞り込みをかけたか知らないが,そのリストの何百番めだかにここのページを見つけ出したのだろう。

  で,その先が不思議なのだが,なぜか彼女は私がひとりごとの専門家だと誤解したらしい。リンク先をちょっとでも読んでみれば,世の中に何万とある「ひとりごと」という名のブログと,何の変わりもないことがすぐわかったはずなのだが。

  なぜか誤解したまま,彼女はどうやらトップページに飛んだらしく,私の専門分野である「動機づけ」の文字を見つけ出したようだ。「ひとりごと」のページには,おそらく動機づけのキーワードは出てこないから,他のページかサイトに行って,私の素性を調べたのはたしかだろう。その段階で,さっそく大学に電話をかけてきた,ということのように見える。

  動機づけとは何かを調べる手間もかけずに。

  ほんの短い会話の中で,私は完全にあきれていたのだ。科学教育番組の制作を担当する会社のリサーチ能力がこの程度では,番組のレベルもたかが知れている。

  念のために断っておくが,こんなひどい取材は今回が初めてである。私もこんなつっけんどんな応対をいつもしているわけではない。同じ局の別番組の制作会社からも取材を受けたことがあるが,その人は事前にかなり下調べをしてきたらしく,本も読んでいて,「素人ですみません」といいながら,的確で具体的な質問を投げてきた。こういう取材なら,私も喜んでおつきあいするのだが。(残念ながらオンエアを見損なって,私への取材が参考になったかどうかはわからないけれど)

  思いはどんどん拡大解釈につながっていく。

  昨今,調べ学習というと,子どもたちはいきなりネットで検索をかけ,最初に見つかった情報を無批判に書いてくるという話をきくが,思ったのは,きっとそんな子どもが,そのまんまオトナになってしまったのだろうなあ…ということだ。

  得た情報をしっかり吟味したり自分の中で噛み砕くという作業の重要性をきちんと教えておかないと,全部ネット任せで,肝心の頭の中がどんどん劣化していって,情報を処理できなくなっていってしまうのではないかと,そんな気がするのだが…,まああくまでも拡大解釈です。


14.10.10. ゲームの楽しみ方

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  大学院入学相談会のため,仙台出張。

  直江津から「はくたか」に乗る。予約した窓側の席に近づいてみると,通路側の席には,ワイシャツ・ネクタイ姿のいかにも出張移動中らしい若い会社員が着席していて,PSPに夢中になっている。今まさに連打中。

  横に立っても気づかない。「すみません」と声をかけても,まったくわからない様子。見ると耳にはイヤホンを差し込んでいる。ゲームの音を大音量で聞いているのだろう。足もとには大きなリュックが置いてあるので,またいで通ることもできない。私の後ろには,直江津から乗り込んだ客の列ができている。

  思い切り顔を近づけて,もう一度大声で「すみません!」と叫ぶ。けっこう遠くの席の人たちが,驚いて視線をこちらに向けてくる。それくらいの大声だ。

  連打くん,ようやく気づき,リュックを持ち上げて席を立つ。急いで窓側の席にすべり込むと,彼も着席し,すぐにまた連打の世界に戻っていく。彼,終始無言。

  越後湯沢で新幹線に乗り換える。今回は大宮で降りないといけないので,出やすいように通路側の席をとってある。先ほどのように,声かけの心配もなく,スムーズに席に着く。窓側の席では,着物姿の年輩のご婦人が,DSを広げて熱心にタッチペンを走らせていた。見た感じ,かなりの年輩の方なので,正直,使いこなしているだけで驚いた。いったい何を書いているのだろうか。

  タッチペンの動きをしばらく見ていると(あ,もちろんまじまじと観察していたわけではなくて,本を読んでいる視界の隅っこにどうしても入ってくるわけで…),どうやら,左右のポイントをタッチするのと,右払い・左払いの計4種類の動作を,ランダムに繰り返している。何か反射系のゲームをしているらしい。それはそれで驚くべきことではある。けっきょく彼女は,本庄早稲田を過ぎるあたりまで,タッチペンを動かし続けていた。

  大宮から東北新幹線へ。今度は隣の席は空席だったので,何ごともないかと思ったのだが…。

  通路を挟んで斜め前の席に座っている男性が,テーブルの上にPCを広げ,何やら猛烈な勢いでキーを叩いている。打鍵の音も気にしだすと相当うるさいものだが,彼の出す騒音もまた格別盛大だった。なにか自分は仕事をしています!というのをまわりにアピールするかのように,とにかく異常なテンションで,休みなしにキーを叩きまくっていた。とくに,文章だかデータだかを入れたあとのEnterキーといったら,まるでプロの棋士が相手を威圧するために大きな音を立てて駒を置くように,いちいち魂を込めて思い切り叩いていた。よほど何か鬱屈していたのだろうか。

  ただ,これはまあ,今になって始まったことではない。以前から,出張のときに何度も目にしてきた風景である。

  不思議だったのは,彼が軽快に入力を続けているソフトの隣に,なぜかソリティアの窓がちょこんと開いていたことだった。あれだけ猛烈な勢いでキーボードを叩きながら,いったいいつカードの動かし方を考えていられるのだろう。さすがにそこまでは観察していなかったが。

  つくづく思うのは,だれもがどこでもやっているくらいに,ゲーム(ビデオゲームというくくり方でいいのだろうか)がきっちりと市民権を得たのだなあということである。

  私自身はけっしてゲームが嫌いなわけではなく,むしろ楽しんでいる方だと思う。しかし私の感覚では,基本的にゲームはアンダーグラウンドなものであって,人前で堂々とやるのは抵抗がある。最近TVCMのかなりの部分を携帯ゲームのCMが占めているのを見ると,やたら苦々しく思えてしまう。ひとことで言えば,「いい大人が!」という感覚である。まあ,いい大人であるはずの自分も,ゲームは楽しんで(あるいは暇つぶしに)やっているわけだから,えらそうなことはいえないし,ゲームが自室から表の世界に出てきたことを,とくに批判的に見ているというわけではないのだが。

  まわりの人にさえ,ちゃんと気を遣ってくれるのならね。

  ちなみに仙台からの帰りの話。

  仙台で新幹線に乗り込んだら,予約していた席に先客がいる。しかも困ったことに眠っている。またか!とうんざりしながら,またまた大声で呼びかける。

  すると彼,目を覚ますが早いか,窓の外にちらりと目をやったかと思うと,ものすごい勢いで席を立ち,反対側の網棚から大きなスーツケースを下ろすと,全速力で通路を駆けて出ていった。どうやら寝過ごすところだったらしい。

  またしてもまわりに対しては無言のままだった。問題はたぶんそっちの方だ。


14.09.22. 教えあい

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  仕事上,学校に行って授業を見せていただく機会がたまにある。研究授業ではない。何の飾り気もない,特別な準備もしていない,ごくごくふだんの授業場面だ。子どもたちも,最初のうちこそ「お客様」に気を遣ってお行儀よくふるまっているが,慣れてくると,ふつうにおしゃべりをしたりあくびをしたり立ち歩いたりをはじめる。そんな感じの授業である。

  見たいのは特定の子どものふだんの様子なので,そちらの方がありがたい。授業のあとの帰り支度や帰りの会の方が,まわりの人たちとの関係がよく見えることも多かったりするわけで。

  さて,その日見せていただいた高学年の授業は,前回行ったテストの「直し」からはじまった。直したら教卓にいる先生にチェックしてもらうのが決まりらしい。作業の指示を与えた最後に,先生はこう付け加えた。

「直し終わった人,100点の人は,他の人の直しを手伝ってください。」

「手伝ってほしい人は,黙って手を挙げること。ただし,最初から人に頼ってはダメです。自分でやってみてどうしてもわからなければ,手を挙げてください。」

正直,興味津々だった。いったい子どもたちはどんなふうに「手伝う」のだろうか。

  先生が話し終わったとたん,教卓の前には列ができた。直しが少なかった人たちだろう。そして,ほぼ同時に,椅子から立ち上がる別の集団があった。まわりをキョロキョロ見回している。きっと100点の人たちだ。鉛筆を動かしている友だちを見つけると,さっと寄っていく。

  驚いたことに,先生に直しをチェックしてもらった子どもたちも,教卓に背を向けたとたん,キョロキョロお手伝いしてあげる相手を探している。自分の席に戻るより,まずそっちなのだ。すかざずヘルプの手が上がる。

  一連の流れはじつにスムーズで,少しもギクシャクしたところがなかった。子どもたちはすっかり慣れている。そんな印象を持った。

  その日の観察のターゲットは,教室の角の席の子だった。その子にも,お手伝いの子がついた。よく見ていると,教室のまるで対角線の席からわざわざ出向いてきている。そして,ずっとその子につきっきりである。てっきり先生がその子に「お手伝い係」を頼んでいるのだろうと思ったのだが,あとで聞いてみたら,「最近仲いいんですよ」という答え。純粋に友だちだったのだ。

  後半になってくると,さすがにお手伝いもユルんで来るらしく,雑談が聞こえはじめる。しかし,しばらくすると,教わっていた子どもが「ねえ,ちゃんと教えてよ!」と言い出したり,別の友だちが「オレが教えてあげようか」と割り込んできたりして,しっかり軌道修正されるのが面白いところだ。

  見ている限りでは,1人だけ,友だちが席を離れている間に答えを丸写しし,そのまま教卓に歩いて行く子がいたが(もう時間も終盤だったからねえ),ヘンなところはほんとうにそれくらいだった。支援を受けられずに孤立している子どもも,見た範囲ではいないようだった。

  あとで先生に話を伺った。「教えあい/学びあい」は,先生がはっきり掲げている目標なのだそうだ。お手伝いをする関係はやはり,誰にでもというわけにはいかず,どうしても日ごろの交友関係が大きく影響しているらしい。しかし,だからといって孤立してしまう子はいなくて,必ず誰かが目を配っているようだとのこと。

  恥ずかしがってヘルプサインを出さない子もいるのでは? とお聞きしたら,教わる相手が気心の知れた友だちということもあって,今のところその心配はないという。もちろん,場合によっては「自分でやりたい」といってお手伝いを求めず,最後までひとりでやろうとすることもあるらしい。

  私が見た感じでも,ビシビシ問題を解かせるような教え方は誰もしていなくて,みんな笑顔だったから,劣等感を抱くような雰囲気ではどうもなさそうだった。

  先生が心配されているのは,子どもによって教え方の上手下手があることだそうだ。たしかに。これはどうしてもつきまとう問題である。教えてあげたいという意欲がいくら高くても,こればっかりはどうしようもない(ある程度まではスキルとして身につけさせることはできるかも知れないが)。  

  さて。

  日ごろから私は,大学の授業では友だちとの学習経験の重要性を訴えている。たとえばそれは,コトバにして教えるという行動によって頭の中の知識を精緻化することにもなるし,学習スキルをモデリングするのにも絶好の機会である。相手の反応が,成功感・達成感を増幅し外化してくれる場でもあるだろう。

  しかし,それを言うたびに,現職の院生さんたちからは冷たく反発されてきた。いわく,

  「重要性はよくわかっていますが,実際問題,そういう学習ができるような人間関係を作っていく方が,ずっと難しいんですよ。」

  「手伝ってあげなさい,と投げかけるのは簡単ですが,きっと誰も助けてほしいとは言い出さなくて,時間の無駄ですよ。だって,みんな自分の間違いを他の人に知られたくないですから。」

  先ほどのクラスでも,最初に先生が採点したテストを配る段階では,周囲に隠すように点数を見ている子があちこちにいたので,じつは私もお手伝いがうまくいくのかちょっぴり気にはなっていたのだが,作業が始まってみると,みごとにみんなオープンだ。最初に私が横を通ったときにサッと答案を隠していた子も,友だちに教わっているときは,私がのぞき込んでも堂々と全部広げたままだったのはおかしかった。

  なあんだ,ちゃんと実践できているじゃん! 授業で言っていることが机上の空論でなくてよかった。と,その日一日で,すっかり自信を持ってしまったのであった。


14.08.25. 歌詞

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  サルベージ第3弾。
  以下の発言は,あくまで個人としての感想です。他の人に価値を押しつけるとか,他の人を批判する意図はありません。念のため。

  どうも私は,楽曲の歌詞にこだわってしまうところがあるようだ。もちろん悪い意味での,ふつうの人にはどうでもいい細かなことが気になってしかたがない,という「拘り」だ。人に指摘されて,つい最近ようやくそのことに気づかされた。いわれてみれば,たしかにそうかも知れない。

  べつに,曲もろくに聴かずに,ずっと歌詞にばっかり注意を向けているってほどひどくはないのだが,ふとしたことで気になりはじめると,どうにもとまらなくなる。

  たとえばなにげなく聴いている外国の曲の中に,ふと一部の単語が聞き取れたとき,しかもその内容が,どうも曲調とズレているとき,スイッチが入ってしまうようだ。ついつい歌詞の方に注意が向いてしまう。で,明るい曲なのに,じつは失恋した相手のことをうじうじ思っている内容だったり,きれいな曲なのに,辛らつな風刺が込められていたり。それがわかってしまったとたん,曲の印象がガラリと変わってしまうのだ。

  きっかけは,あった。たぶん。

  高校受験のとき,勉強しながら聴いていたラジオの音楽番組で,ときどきやっていた企画に,「訳詞で聴く名曲の世界」というのがあった。登場するのは,プレスリーとかビートルズとか,あるいはジョーン・バエズやシルヴィ・バルタンなど。1人のアーティストについて1時間,代表的な曲をかけるのだが,その歌詞を訳したものが朗読され,バックにその曲が流れるといった趣向のものだ。

  少し上の世代の人たちが熱中したであろうアーティストが中心だったので,ふだんはただ聞き流していたのだが,衝撃を受けたのはサイモン&ガーファンクルの回だった。

  老人が2人,公園のベンチに座っている
  まるでブックエンドのように

  冒頭からガツンとやられた。『旧友』だ。彼らが一貫して歌っているのは,都会の中のどうしようもない孤独感だった。帰るべき家(今の言葉でいえば,居場所ということだろう)もなく,あてなくさまよっているような人生。ガーファンクルの透き通った歌声の裏側に,こんなメッセージが潜んでいたのだ。

  極めつけは『ボクサー』。貧しい少年がプロボクサーになるまでの生い立ちが,ボクサー自身の口で語られる。その最後のところ,浴びせられるパンチの中で彼は思うのだ。

  もうやめよう,もう帰ろう

  けれどファイターは今もそこにいる

  そして最後の"Lie-la-lie…" のリフレインだ。これにはまいった。みごとにハマってしまった。歌詞を気にするようになったのは,きっとそれ以来のことだ。

  ところで,日本語の曲でもやはり歌詞は気になるが,こちらはどちらかといえば,ヘンな日本語の使い方がやたらと気になる。これも最初のきっかけはよく覚えている。某女性歌手の歌う,

  「どうして もっと自分に素直に生きれないの」

これだ。当時さんざん批判されていた若者の「ら抜き」言葉。最初にこれを聴いたとき,力が抜けた。なにも,ガチガチに正しい日本語を使えというつもりはないが,どうもこれは受けつけなかった。聞いていて耳障りだ。

  ところで。

  ここのところずっとひっかかっているのは,

  「空は高鳴る」

である。いったい何だ,空が高鳴るって? どんな音が鳴っているのだ? 雨が降り注いでいるらしいから,雷でも鳴っているのだろうか。それとも轟音をともなう集中豪雨でもきているのだろうか。何をイメージしたらいいのかさっぱりわからない。「眩しい笑顔の奥に悲しい音がする」らしいから,たしかに何か音のイメージがあるらしいのだが,それがどうにも想像の範囲をはるかに超えているのだ。

  空で高く鳴っている音って何の音? 笑顔の奥にある悲しい音って,どんな音? う~ん。何もイメージできない。他のリスナーたちの頭の中には,いったいどんな音が鳴っているのだろう。誰か解説してくれないだろうか。


14.07.03. おつか?

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  サルベージ第2弾です。
  以下の発言は,あくまで個人としての感想です。他の人に価値を押しつけるとか,他の人を批判する意図はありません。念のため。

  最近の学生の挨拶はどうも基本,「おつかれさま」であるようだ。仲間どうしであれば,「おつかれ!」であったり「おつか!」であったりするわけだが,私はこの「おつかれさま」が,ずっと好きになれないでいる。もう何年も前から,何百回となくこの挨拶を聞かされ続けているのだが,それでも慣れない。

  いや,私自身も「おつかれさま」を使わないわけではない。というか,むしろよく使っているというべきだろう。たとえば会議が終わったあとのエレベータで一緒になった人に対して。あるいは夜,帰りがけにすれ違った人に対して。

  それはほんとうに自分も疲れていると実感できる時間で,きっと相手も疲れているのだろうと推測するからである。はずれているかも知れないけれど。だから,たぶん夕方以降であれば,それほど違和感を感じないのだろう。

  しかし,挨拶としての「おつかれ」は,私の内的状態とは必ずしも無関係に降り注がれる。たとえば朝イチで。

  大学に着いて「さあ,これから仕事をしよう」と気合いを入れているところに,「おつかれさま」と声をかけられると,すっかり気分が萎えてしまう。ひょっとすると,自分はもう疲れているのだろうか,疲れきっているように相手には見えているのだろうかと,がっかりしてしまうのである。

  だから。

  朝はふつうに「おはようございます」がいいな。


14.06.06. 倍返し

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  忙しくて書きかけのまま放置していたメモのサルベージです。もうすっかり賞味期限が切れていますが,せっかくなので,残りを仕上げて,あげてしまいます。日付はメモの日付。順序は後で入れ替えます。

  「半沢直樹」というドラマが,前季高視聴率を叩き出したらしく,2匹目のドジョウをねらっているのだろう,今季もまた同一作家の作品が,複数のTV局でドラマ化されている。

  しかし私は,あのドラマは嫌いだ。なにも面白いとは思えない。というか,どんどん不快になるばかりである。不正を取りあげてはいるが,けっきょくあそこに描かれているのは,個人的な復讐劇である。もっと言えば,あれはたんなる社内の派閥抗争にすぎないのではないだろうか。主人公の側に正義がありそうなだけで,やっていることは相手と変わらない。弱みを握って仲間に引き入れ,味方につける。味方には甘く,多少のことには目をつぶる。とくに相手への攻撃材料をもっている人には。そして,相手のことは徹底的に叩く。

  このあたりは,今季の,不正をはたらく銀行のエラい人たちを女子行員がやり込めるドラマにもよく表れている。相手の不正をおおぜいの面前で叩く。たしかに正しいことを言っていると思うのだが,画面の構成は全体として,相手に「恥をかかせる」ということに主眼をおいているように見える。だから相手もけっして反省も改心もするわけでなく,最後に捨てゼリフを吐いて出て行ったりする。

  ということは,だ。仮に相手が懲罰人事で地方支店にとばされたとしても,彼らはまたそこで同じ不正を繰り返すにちがいない。何が悪いか理解できていないわけだから。それどころか,きっと彼らは,「やられたらやり返す。倍返しだ。」とかいって,復讐の機会を虎視眈々と狙うにちがいないのだ。

  かくして抗争は永遠に続く。救いようのない話だ。

  「半沢~」のもうひとつのウリに「土下座」があるが,これもまた私にはまったく理解できない世界である。21世紀に入ってずいぶんたっているのに,今さら「土下座」ですか? というのが正直なところ。相手に土下座させることでいったいどんな満足感が得られるのか,ちっとも想像がつかない。いったい何が面白いのだろうか。

  けっきょくそれは,サルのマウンティングよろしく,お互いの上下関係を確認したいだけなのではないか。相手をひれ伏させて自分の方が上位であること,勝利者であることを顕示する。優越感に浸る。そして相手には恥をかかせる。それだけなのではないだろうか。勝ち負けをハッキリさせたいだけなのだ。相手が改心するかどうかという問題からは,ズレてしまっている。

  相手もいやいや土下座しているわけだから,かえって憎悪が増して,またまた倍返しを誓う…。そういうことだろう。

  最後,ドラマの主人公は左遷される。理不尽な人事という印象で扱われているのだが,経営者から見れば,やはり彼は危険だろう。自分ひとりの正義の基準で突っ走る。派閥を作って対立する相手をつぶしにかかる。会議の席で上司の命令も聞かず,私怨を晴らそうとする。不正をただすところまではいい。しかし最後の土下座は,どう見ても個人的な恨みを晴らしているだけだ。彼がほんとうに正しいうちはそれでもいいかもしれないが,一歩踏み外せば彼は確実にモンスターになる。彼が今回追い詰めた相手のように。

  なんだかほんとうに殺伐としたドラマだなあと,私にはそんなふうにしか思えないのだ。


14.08.01. 片づける

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  ようやく。

  日常が戻りつつある。

  と,たった2行書き始めただけでまるまる1ヵ月が経過してしまった。時の流れはなにしろ無常だ。ヒトが仕事に追われていようと楽しく遊んでいようとおかまいなしに,ひたすらサラサラと砂を落とし続ける。

  この2ヵ月ほど,いつになく忙しくしていた。まあ,物理的な時間でいえば,「そこそこ」忙しい程度であったのだろう。学校の先生方と比べたら,きっとごくささやかな忙しさだ。しかしこまごまとした忙しさがまとめて押し寄せてきたせいで,心理的にはジワジワと締めつけられるような,そんな“悪性の”忙しさではあった。

  その前触れとなったのは,科目群HPの部分的改訂作業。年明けから暇を見つけてはチマチマと手直ししていたものを,春休みに入った3月後半に,まとめて一気に更新した。これまでに書きためたページがけっこうな数になっているので,ページ間で文言やデザインを統一するのに,意外に手間がかかる。

  とはいえ,この作業は予定どおり4月はじめでいちおう終了し,新年度は通常営業に戻れるはずだった。事実今年は,ゼミの新入生が院・学部ともいなかったぶん,当初はむしろ拍子抜けするくらいゆるい感じで始まったのだが。

  5月・6月にはいろんな予定が立て込んでいることがわかっていたので,準備を含め4月から少し忙しくなりそうな予感はしていた。

  情報メディア教育支援センターの全国会議の幹事校に新潟地区が当たっていたり(開催は新潟大学で,長岡と上越は協力校),大学院入試のための説明会・相談会の開催回数を大幅に増やしたために土日の出張が増えたり,といった公式行事が,明らかに5月・6月に集中していた。ついでに大学外では今年,宿舎の棟運営委員が回ってきており,なおかつ運の悪いことに,宿舎全体の運営委員代表もちょうど回って来る年だったのだ。

  メディア・センターの仕事は,なにせ専門外の素人センター長なので,専門分野の会議とはまるっきり勝手が違って,ひじょうに頭と気を遣う。なにしろ話の内容を理解すること自体が難しい。つねに頭をフルパワーで回転させて聞きとり,それでも半分もわかっていない。やたらと疲れる。

  一方入試のお仕事も,土日それぞれ別の地区での相談会に出席して帰ってくるので,週末がまるっきりつぶれることになる。もちろん代休は取れるのだが,学期中は授業が入っているし,会議もどんどん空いている日を埋めていくので,実質休みをとりようがないのだ。

  運営委員は運営委員でまた一仕事。引き継ぎどおりのルーチンワークをこなすだけなら,4月はじめの各種変更手続きさえ済ませてしまえば,あとは除雪の時期まで暇になるはずだったのだが,例年各棟ごとに業者に委託していた除草作業を,今年は宿舎全体でまとめてお願いしようという話が持ち上がり,各棟や業者との連絡調整という手間が,新たに加わってしまった。

  そして。

  そんなところにもってきて,ある日突然舞い込んできたのが,とある人事案件である。人事のことはさすがに詳しく書くわけにいかないが,かなり変則的な形で,首を突っ込む…どころか,ある意味いきなりステージの真ん中に放り込まれたような状態で関わるハメに陥ってしまった(なんてことを書くとよけいにわからなくなると思うが,残念ながらオトナの事情でこれ以上は書けない)。

  それでなくても,人事は神経を使う。なにしろ人の人生を左右しかねないわけだから,きっちり業績を読み込み,書類の不備に目を光らせ,書類の行間から人格を読みとり…読みとりきれないときは人脈を駆使して情報収集に努め,とひとつの案件を通すまでにはかなりの作業量と精神的負担が必要だ。ましてや「特別な事情」によって,ふだんならあり得ない立場と役割で,しかも審議途中でいきなり放り込まれたわけだから,心の準備も含めてそのやっかいさはわかっていただけるのではないだろうか。まさに疲労困憊。

  さて,その人事案件が教授会を通って,ようやく一連の忙しさにケリがついた翌日。

  その日の朝は,恐ろしいことに,出勤して研究室の机に向かっても,「さあはじめよう」という気分にはまったくなりそうもなかった。ずっと人事の処理にかかりきりだったせいか,そこからはずれたとたんに,他に何をしたらいいかわからなくなってしまった感じである。しばらくぼうっとして過ごす。

  しかしすぐに気づいた。やらなければいけないことは,目の前にあったのだ。片づけである。

  以前から,ひとつの仕事が終わるまでは,関連する資料をすぐ手にとれるよう,机の上には資料を積み上げていて,仕事が終わったときにまとめて片づけるようにしてきた。研究も原稿執筆もだいたい一仕事1ヵ月を目安にしてきたので,毎月1回は大掃除ということになる(実際には「大」をつけるのが恥ずかしい小掃除だが)。それでなんとか,ゴミ屋敷にもならずにやってきた。

  しかし今回はまる3ヵ月もの間,片づけをする余裕がなかった。しかも,何種類もの仕事の資料やらゴミやらが混在している。もちろん中にはトップシークレットである人事関係の資料まで混じっている。なわけで,細心の注意を払って…るわけにもいかないので,とにかく怪しげな書類はどんどんシュレッダーに放り込むことにした。もしかすると,だいじな提出書類まで裁断してしまったかも知れないが,まあ何かあったらまた事務が催促してくるだろう。

  片づけというと,もうひとつ面倒なのはPCの中の片づけである。これも机の上と同じ。作業で使ったファイル,作ったファイルはすべて作業用の一時フォルダにどんどん放り込んでおいて,作業が一段落したら保存用のフォルダに整理して移すことにしている。とくに研究データは,どの研究でも似たような数字がずらりと並ぶので,混じってしまうことがないように,作業が一段落つくたびに整理&保存用フォルダへの移送は欠かせない。

  にもかかわらず,今回はすっかり整理作業を怠っていた。一時フォルダは各種ファイルでパンパンにふくれあがっている。毎年,年度はじめには前の年度のファイルを整理し,書き込み不可の属性をつけて保存用HDDに移しているのだが,その作業も中途半端なままだ。

  そんなわけで,こちらの後片づけにもたっぷり時間がかかり,そして1ヵ月後の現在に至っている。若干の継続案件があるので,まだ全面的にスッキリしたわけではないが,そこそこ机の上に新しく書類を広げられる程度にはなった。さらに,ずっとサボっていた個人のHPの更新作業も,とりあえず毎年度の定期更新分だけは済ませた。

  これでやっと,またいつものペースに戻れる… はずだったのだが。

  どうも世の中はそんなに甘くないらしく,早くも次のやっかいごとが舞い込んできた。大学改革の仕事である。どうやらこれは,さらに大きな波になりそうだ。残念ながら,ますます「ひとりごと」の更新からは遠ざかることになるらしい。…優雅な窓際生活はまだまだ先みたいだ。