音楽評論をする上で、僕がケージの存在を常に念頭においてしまうことは、もしかして不利なことなのかも、と今日思った。例えば、前の記事での電波ソング肯定論にしても、やはり、ケージとの距離を測っている自分がいて、強く踏み出せない。
電波ソングについては、今現在の消費環境とクリエイター層の分厚さからは、まだまだ真に革新的な作品は出てきそうにないと思うけれど、例えばIOSYSとInnocent key が競争する、といった形で、技術的な切磋琢磨は期待できると思う。そうやってシーンがある程度技術的にも消費者層的にも育っていけば、いずれとちくるった馬鹿がすごい作品を投稿する日も来るかもしれない。思えばエヴァを生み出した庵野さんがそれと似た経緯だったのではないか。
無論、漫画なら手塚や石ノ森、ガロの作家達、アニメなら富野といった、昔から存在したシリアスな作家たちの伝統があってこそのエヴァという側面もあるけれど。エヴァが可能になるには「ロボットもの」というジャンルの70年代から育ってきた問題意識の基盤が必要だっただろうし。エヴァは決して単なる偶然の産物ではなかった。それが生まれるまでに多数のシリアスな作家の作品、そしてそのミームと問題意識の「転移」が必要だったのだ。
そう考えると、今の音楽にそもそもシリアスなものを生む地力のようなものはあるのだろうか?と問わざるを得ない。90年代の日本と言えば、ボアダムスがいたし、コーネリアスや暴力温泉芸者がいた。しかしコーネリアスにシリアスさなど求むべくもないし、暴力温泉芸者はシリアスというにはあまりに露悪的すぎた。それらは一種の冗談のようなものとして消費されていってしまった。ボアダムスはそういう意味では山塚アイという人間の驚異的な想像力によって、唯一一貫してシリアスであり続けたバンドではないか。音の技法的な扱いで言えば、むろんコーネリアスや暴力温泉芸者に軍配があがるとしても、音と音楽の可能性を最も強く信じて作り続けたのはボアダムスの方だと僕は思う。だから僕はこれら三人の中でならボアダムスを選ぶ。
で、問題は今の音楽におけるシリアスネスの継承か。シリアスネスは蒸発してしまったのか?ということだな。まあ実際、前衛の試みと言うのは、不勉強なやつが聞きかじりで知っただけの「ポストモダン」の一語でもって冷笑に付されるようになったみたいだけど、別に前衛に起源を求めるまでもなく、古典主義なりロマン主義なりの中にすでに音楽に対するシリアスネスの伝統があるわけだが、それすら今の音楽は西洋中心主義、近代主義とかなんとかいって捨ててしまっているのか。
バロックや、ルネサンス、中世でも、作曲家は作曲と音楽に対して真剣な思考を持っていた。バッハやヘンデルが書き残したもの、ルネサンスのフランドル楽派声楽理論には、当時音楽が深遠なるもの(キリスト教的文脈の中で)を表現しうるとかたく信じられていたことを示している。では、今日の我々はなぜそれを信じられないのか。
宗教性の問題がまずあるだろう。音楽が宗教的共同体を結びつける際、「音楽体験の言語化不可能性」、つまるところは「神秘性」を提供するものであったことを思い起こそう。それは今でもある程度変わらない。ロックの神話的な共同体性は言うまでもない(ライブはジャーナリズムや後の伝記作者たちによって、常に「伝説の生まれた夜」にされる。彼らが書くのはまさにロックの福音書なのだ)。ところで、私の考えでは――ニーチェが神は死んだと言い放ったのと同様の意味で――ロックは死んだと言っていいと思う。
音楽のシリアスさが、音楽の総合的な諸要素の絡み合いの中でなく、詩の文学性(音楽の話ではなかったのか?)や、「サウンド」の迫真性(低音が強烈ならば迫真性があるというのだろうか。「一流の」印象批評家ならまだしも、「俗流の」印象批評家たちは迫真性という言葉をそこまで矮小化して用いることに何の抵抗もなさそうだ。)だとかの中で解体されてしまうのはどういうことなのだろう。詩が音楽と強く結びつきあうこと、「サウンド」が音楽を強烈に方向付けることは間違いないが、それを音楽そのものであるかのように呼び習わしてしまうことへここまで抵抗がないというのは、はっきり言ってかなり頭が痛くなる状況だ。そもそも、日本の「音楽」の概念は近代化とともに輸入された「枠組み」であり、日本の文化から直接生まれ出た枠組みではないと言うこともある。人々は歌を「詠んで」きたし「謡って」もきたし、雅楽は和声を発展させなかったし、民謡が国民楽派的想像力(チャイコフスキーの形式的に充実した交響曲群は、後進国ロシアが西欧に並んだことを示す一つの指標だった。そしてウクライナ民謡やバラライカ、コサックのリズムが、ソナタ形式の弁証法的な統一性の中でnation state の想像力を具現化する。・・・いやむしろここで取り上げるべきは、序曲「1812」でナポレオン軍を撃退したロシアをナショナリスティックに賛美した例だろうか?)によって近代国家の正統的音楽の音組織システムに侵入することもなかった(これは別に国民楽派は関係ないかな?西洋の場合、ルネサンスの音楽からバロックの音楽にかけて、教会音楽と世俗音楽、王侯貴族の音楽が坩堝のように混沌として一体化していく過程があったが、日本、というかアジア地域にはそういうものはなかったということ。つまりはヨーロッパの「交通」が、ヨーロッパ音楽のハイブリッドな音組織(和声や音階の構造のこと)を準備したということ)。
そもそもの話の始まりは電波ソングはシリアスネスの継承(表現あるいはジャンル固有の問題系の継承)を行っていないから、どんなにシーンが成長しても革命的作品は現れないんじゃない?ということだった。でも、いろいろ考えていくとそもそもこのシリアスネスって、つまりそれぞれの表象のシステムが孕んでいる緊張の問題なんだよね。つまりは、音楽がどれだけ歴史的に社会的な対立なり問題提起なり(Issue)の記憶をその音組織に宿しているかと言うことだ。前の記事の音楽における記憶の組織化と情動の話に繋がりそうだけど。しかしそうすると、ある程度スヌーザーやロキノン周りの言説も肯定せざるを得なくなるわけか。彼らも詩やサウンドに「表象機能」を見出してそこを論じているわけだから。つまり彼らは、洋楽なり邦楽なりを聴いて、その音楽のルーツとなった過去の音楽の絡まりあいの複雑さをたどりながら、同時にそれらルーツとなった音楽が背後に持っている社会的政治的宗教的個人的記憶を読み込んで、そのアーティストの現在の現実での姿もまた確認しつつ、そういった過去現在未来を貫通していく記憶の重なり合い絡まりあいとして聴くわけか。だが、それらは、どこまで「正確に」「正しく」聴かれていると言うのか。東浩紀の郵便的脱構築の論を待つまでもなく、その聴き方は「正しく」誤配に満ちているはずだ(無論、どんな聴き方も常に音楽的誤配に満ちている。問題はその「聴き方」が正しいものとして言説にのってゆくことだ)。そして、なぜそれだけ複雑で繊細なことがなされている(らしい)というのに、それらが普通に音楽を聴く人には伝わらないのか。「ロック中年の与太話」で片付けられてしまうのか。
ひとつは、ロック評論が「サウンド」でしか音楽を語らないところに問題がある。もっと詳しく言うと、「アレはスミスとクラフトワークのサウンドだよね」とか、固有名詞の合成で類比的にしかサウンドを語れないところにある。あるいは形容詞の羅列。もしくは黒人が、とか階級が、といった使い古されたロック・イデオロギーのターミノロジー。
ロックには分析が存在しない、というかそれをしようという気がない。楽譜が存在しないことが問題なのではない。楽譜は確かに、ロックで起こっていることを詳述するのに適したメディアではないからだ。おそらく、ここでテクノ以降の世代のロックへの態度、特にDTM世代以降の「サウンド」に対する非-固有名的な分析の重要性が浮上し始める。DTM世代の「サウンド」への分析的態度というのは、レコーディングエンジニア、プロデューサー、ミキシング、マスタリングエンジニア、これらのこれまでポップミュージックの「脇役」だった人間を舞台に一気に乗せかつ一人のアーティストに機能的に収束してしまうという形で類比的に説明できる。DTM(というかDAWを中心にした製作環境)は楽譜とは別の音響分析のインターフェースないしオペレーションシステムを提供しているし、これがこれから進化していく可能性というのは、まだありうる。
さらにいえば、このテクノ以降の世代というのは、ロックだけでなく過去のあらゆる録音可能な音楽を等価に音響として扱うという点でも特殊である。彼らはロックをそのイデオロギーとは関係なく、データ化され、分析可能な「サウンド」として扱うだろう。そうなるとロックは、それがもともと持っていたジャズやブルース、カントリー音楽やダンス音楽といったものとの親近性をむしろあらわにし始め、例えばポストロックに見られるような、ジャンルと音の関係が完全に溶解した「多義的サウンド」が現れることとなる。
ところで、単にDAWという意味ではない、広い意味でのDTMは、perfumeをプロデュースした中田ヤスタカや、ニコ動での初音ミクのプロデューサーに見られるような、「プロデュースという形態のクリエイティビティ」を支える思想的/技術的基盤となっている。多くの技術的なプロフェッショナルをそれぞれの分業化された工程に携わらせ、ハイクオリティな楽曲を作ってミリオンヒットを飛ばして採算を取るという一般的Jポップのビッグビジネス的なモデルは現在すでにほぼ無効化されている。初期投資を除けば実質予算ゼロ、収入ゼロで作られたDTMによる初音ミクの楽曲が、十万人単位の人々の耳になじんでいることを考えれば、我々は歌謡曲的公共性について、もはやビジネスの問題としてではなくメディアの問題として考えるべきだという結論に至るだろう。最初にあげたJポップ的生産体制は
大人数の専門家が関わるという時点でプロデューサーによるコンセプトの大胆な舵取りが難しく、かつそれら各工程のプロフェッショナルが職人的に引き継いできた因習のごときものの存在もあるので、結果としてぼんやりとした最大公約数的コンセプトに作品は落ち着いてしまう。(その点、小室哲哉のカリスマ性というのは例外的なものだったのだろう。中田がポスト小室と目されているわけだが、そもそも小室もまた、どちらかと言えばテクノ的DTM的な楽曲製作環境を出自としていた。そしてそれをJポップに取り込んだことで、プロデュースという枠の中であれだけの自由度を発揮できたとはいえないか。)
(付記:美空ひばりをプロデュースする万丈目正。プロデューサーがひとつのデータベースとして機能するとき、批評性をもった楽曲が生まれる。批評性を持った楽曲とは、つまりかっこいい曲、美しい曲・・・そしてなにより新鮮な印象を与える曲、そういうもののことだ。)
おそらく、ポップミュージックが、特に単純に社会的なドラマツルギーに訴えることではその表象=記憶の組織化の機能を十全に発揮できない日本のポップミュージックが、これから単なる一過性の目新しさのでっち上げでなく、残り続ける意味を持った「新しさ」を創造する日が来るとしたら、そこではこの「プロデュース形態のクリエイティビティ」というのが大きなポイントになるのではないだろうか(庵野氏が監督としてなしえたことと同様に)。そして、それら未来の「P」にとって、DTM(というよりそれが未来においてさらに進化したデヴァイス)はその能力を大胆に発揮するための大きな武器になる日が来るのではないか。
しかし、初音ミク楽曲は今のところあんまり面白いのないね。どちらかというとMMDのがずっと面白い。
初音ミクは、「うたってみた」「踊ってみた」という形で生の人間を音楽的な表現の場に誘導すると言う意味では重要だけれど(それは明らかにボーカロイドを使った元の楽曲より面白い。だがその面白さも、ボーカロイドの歌った原曲を知っている場合に限られる気がする。これは東方のアレンジ楽曲にも言えることかも知れない。東方アレンジを聴く人間はよくこれは商業にも出せるレベルだとかいうけれど、それは彼らが原曲を知った上でそれがどうアレンジしたかを聴いているからに過ぎない。東方の原曲のメロディは歌うのには向いていないし、コード、楽曲構造的にも、歌ものの曲としては不自然にならざるを得ない。特に原曲でのマイナーコードの多用のためか、メタルアレンジやトランスアレンジでアップテンポ系の曲が多くなり、それらは原曲を知らない人間にとっては単にダサく聞こえるだろう。無論、原曲の「サウンド」はかなりジャンル不特定な擬似インストゥルメンタルサウンドであり、ある意味スーパーとかでかかっていそうな「ミューザック」に近いもので、前にも書いたとおりそこにはマイナーコードでもってJポップ的なあいまいな没入を拒むところも見受けられる。しかしとにかく、東方アレンジはそのファンがどれほど「クオリティ」といってみせたところで、結局は原曲がそういう「クオリティ」への接近を拒んでいる以上、冷笑に付されてむなしく終わるだけだろう。)、それは決してまだ音楽の内的な発展に貢献したといえるレベルにはない。
(付記:「歌ってみた」の位置づけについて。暴走Pが発表した「初音ミクの消失」以降の作品は、明らかに、ミクの歌った曲が「歌ってみた」によって歌われることで、リアルな歌声を獲得し、歌として完成していくことに対する、作者自身のアンビヴァレンツな感情を歌っている。歌は誰のものなのか?私のものではない、と歌い、アンインストールされる「ミク」は、歌が歌としてひとり立ちし真にその力を発揮し始める瞬間、人々の耳と意識から消えてゆく「作者」とパラレルだろう。またこれに限らず、「園庭想空の女少」などに見られるミクの消費のされ方そのものへの激しい違和感の表明に見られるように、暴走Pはかなり直接的に音楽(特にボカロ音楽)を創造することの問題を扱っており、またそれをまさに歌うミク自身に託して歌わせている。暴走Pの音楽はこのような問題意識を扱う中でサウンドやスタイルの上でも、つまりはフォームの上でも変貌していくことになる。ミクが歌う、歌うミク自身についての歌。それは作曲家が、作曲すること自体について作曲する行為を実は含んでいる。その限りでサウンドはアブノーマルで予測不能な変貌を見せてゆくことになるだろう。)
相対性理論について。
相対性理論が、クオリティの高い自作曲を投稿する「P」達やそれを独自に解釈し「うたってみ」る人間達とどう違ったかというと、前書いた通り、まず「各楽器のキャラクター化」があることだ。そこでは「サウンド」は単一の主体の物語の表象機能に回収されず、複数の演じられる主体(パントマイムとしての器楽)の群像劇として立ち現れる。世界は政治的な音=幽霊より、キャラクター的なコミュニケーション空間の音=幽霊で満たされることになる。(真部のベースのコミカルな雄弁さ、西浦のドラムのシャイっぽいシンプルさ、永井のギターの不思議にとらえどころがないが情緒を持って語りかけてくるように聞えるアルペジオ、そして無意識的に選ばれた言葉を替え歌にのせているかのようなやくしまるのボーカル。曲はこれら四者の掛け合いに満ちている。)
(付記:「替え歌」的要素にどのような評価、位置づけを与えるか。日本の伝統的な文化としての「替え歌」を思わせるから、固有だ、とか言うのではあまり意味がない。(英語版wikipediaより、parody music の項。”Parody of music has probably existed as long as music itself, but in the 20th century it has emerged as a category of music in itself.”)というか、替え歌自体は様々な文化に見出せる。ここでは相対性理論に限定して、「替え歌」的な旋律と言語の組み合わせによって、ボーカルが自身の実存を歌詞に乗せてサウンド全体を自分の物語の舞台背景として占有してしまうことを防ぐ、という点に注目している。器楽のキャラクター化を自然に行うためには、「声」を何とかして物語を語る存在から、純粋に音自体を連ねていく器楽的なものに引き下げる必要があったと。またそれはある意味では我々の言語の感覚を器楽的な「遊びplay」の中でユーモラスに解体してみせる効果も持つ。「替え歌」は言語と音楽の二つの方向に作用するといえる。相対性理論が行っているのは替え歌そのものではなくて、「替え歌を思わせる」メロディと言葉の結合である。しかしそうであるがゆえに、替え歌そのものでは表現し得なかった批評性を楽曲に与えることができたとも言える。)
初音ミクは、声をサンプリングし、図像をつけることでようやくキャラになりえた。相対性理論の各楽器はおそらくやくしまるの歌を中心にしながらも、お互いがお互いのための隙間を残しあって演奏するために、それぞれ独立した動きとして聴くことが可能になっている。そしてそれが自然と、「僕ら」の耳にはキャラクターの掛け合いとして聞こえてくるというわけだ。ここでは、各楽器をキャラクター化するのに図像はいらない。(これは伊藤剛の定義に反するかもしれないが、音像が図像を代替するのだ、ということにして、とりあえずこの問題は留保しておこう。)
逆に声と図像をセットで持つキャラクターが、音楽的な展開の中でポリフォニックに扱われることで器楽的なものへと生成変化していく可能性というのものある。それを実は僕はInnocentkeyの作品に見ている・・・特に「東方セレブ」はイノキーが元来持っていたミュージカル的な音楽劇を作り出す志向性が、筋の複雑化のため必然的に三声以上のポリフォニーを要求したものとして、僕に電波ソングの自律的進化の可能性をかなりのところまで信じさせた。(というか、この作品を見て本格的に電波ソングの理論的擁護を考え始めた。)
明日あたり、この「楽器のキャラクター化」の問題として、さらに「けいおん!」や「伯方の塩MAD」「ガチムチMAD」についてなんか書こうかな。「新時代のポリフォニー、キャラフォニーの可能性を探る」みたいな。イノキーとイオシスの比較なんかも交えつつ。
プロデュースの話で、そういえば語り落としていたけど、B'zの松本も初期はかなり打ち込みよりのサウンドメイキングだったはず。あと今でもバックトラックはかなり打ち込みで造っている部分がある。スタジオミュージシャンの起用やストリングスアレンジにしても、松本の場合もともとスタジオミュージシャンなせいもあって、扱いは心得ていたってところなのかな。B'zは「パクリ」で有名だけれど、音=幽霊(「音楽は音=幽霊による記憶の組織化である」)の論理においては「パクリ」は決して単純に否定できるものではないし、むしろ日本のロックが、はっぴぃえんどの頃からパクリに貫かれてきたこと、そしてそもそもUKUSには歴然と存在するカントリーやフォークやブルースの伝統を日本は持たない以上、その伝統的音感覚から新しいロックサウンドを再構築することはできないこと、これらの問題に対する正面からの解答として、B'Zは答えたとも取れる。そこら辺はそのうち語れたら。(パクリ問題ではポピュラー音楽学者の増田聡さんが鋭い論考をいくつも発表している。増田さんの仕事についても、そのうちアドルノとの関連から語りなおす企画をあたためていたりする。)