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[38832] 【中世風ファンタジー】剣の音は哀歌に似て
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2015/02/18 17:16
【更新再開について】
 約一年近く更新が滞っており、大変申し訳ございません。
 色々と重なった結果、年を越してしまい、なかなか更新の目途が立たずにいましたが、そろそろ更新が再開できそうです。
 とはいえ、完結に向けてハイペースな更新ができるほどの余裕はまだありません。ですので、かなりゆっくりとした更新となってしまいますが、今一度、よろしくお願い致します。

【更新状況】
2014/4/06 最新話:序章[20]更新。
      次話:未定。

初めまして、麦と申します。以後、お見知り置きを。
本作は中世風のファンタジーです。
事前に申し上げておきますと、魔法や異能といった特殊な要素は登場しません。純粋な物語として楽しんでいただけるよう心掛けていきたいです。

更新のペースが不定期な状態です。一、二週間に一話くらいが限度かも知れません。更新される度に投稿の旨を追記していきます。

【※時折、更新延期となる場合がございます。これに関しては題名に追記しますので、その際は何卒ご容赦ください】

2013/11/4 序章を投稿しました。
2013/11/6 感想の指摘に基づいて、序章に大幅な加筆を行いました。
      また題名の序章を、序章[1]に変更しました。
2013/11/15 序章[2]を投稿しました。
2013/11/17 序章[2]の一部を修正し、多少の加筆を行いました。
2013/11/22 序章[3]を投稿しました。
2013/11/22 序章[3]の一部を修正し、多少の加筆を行いました。
2013/11/30 序章[4]を投稿しました。
2013/12/08 序章[5]を投稿しました。
2013/12/14 序章[6]を投稿しました。
2013/12/21 序章[7]を投稿しました。
2013/12/29 序章[8]を投稿しました。
2014/1/05 序章[9]を投稿しました。
2014/1/11 序章[10]を投稿しました。
2014/1/19 序章[11]を投稿しました。
2014/1/26 序章[12]を投稿しました。
2014/2/02 序章[13]を投稿しました。
2014/2/03 序章[13]の一部を修正し、多少の加筆を行いました。
2014/2/09 序章[14]を投稿しました。
2014/2/16 序章[15]を投稿しました。
2014/3/02 序章[16]を投稿しました。
2014/3/02 序章[16]の一部を修正し、多少の加筆を行いました。
2014/3/09 序章[17]を投稿しました。
2014/3/16 序章[18]を投稿しました。
2014/3/23 序章[19]を投稿しました。
2014/4/06 序章[20]を投稿しました。



[38832] 序章[1]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2013/11/06 21:00
 エインズ騎士訓練団――
 威厳に満ち溢れたその名は、既に幼い頃から何度も耳にしている。遠くからではあるが、実際に建物の一部を見たことだってある。だが、これほど間近で目にしたのは、アレン・ルーベンスにとって生まれて初めてのことだった。迫力がまるで違う。

「……すげぇ」

 堂々たる威容を誇る鉄門に圧倒されて、アレンは忘我の呟きを漏らした。
 この堅牢な壁を越えた先に待ち受けているのだ。手に執るは剣、胸に秘めるは誇り――アレンが幼い頃から憧れ続けた輝かしい世界が。
 これからアレンは、一人の武人として厳しい修練に臨むのだ。それを想像するだけで身体が震え、抑えきれないほどの高揚感に叫びそうになる。これでやっと、長年の〝理想〟を形にすることができるのだと。
 五年。
 そのうち二年を下級修練生として費やし、残りの三年は上級修練生として更なる高みを目指す。少なくともその長い訓練期間を終えるまで、門の向こう側で日々を過ごさなければならない。無論、外部との関わりを持つことは許されない。
 そんな閉鎖的な場所で、もし仮に日々を過ごしたとして――果たして無事に卒団できるかどうか。途中で気に触れるか、もしくは病に蝕まれて死ぬかもしれない。尋常な思考の持ち主ならば、その時点で入団を踏み止まるだろう。
 だが――そういった懸念すら、今のアレンにはまったくの無縁だった。
 自らの信じる騎士道を貫きたいと思うのなら、ここで引き下がるわけにはいかない。
〝あの日〟――己の非力さを自覚したときから、心に決めたのだ。
 騎士になると。
 その誓いが胸にある限り、進むべき道を違えることはない。

 そうして彼は、新たな一歩を踏み出す。
 迷いのない、決然たる足取りで。

 そして、それから一年の歳月が流れた――。


        ×     ×     ×


 やおら伸び迫る、泥に汚れた手――
 少年からすれば、それは魔手も同然だった。
 頬や細腕を這いずり回る得体の知れない感触から逃れようにも、猿轡と縄で締め上げられた状態では抗いようもない。
 薄闇の蟠る洞窟内には、少年を品定めする賊どもの下卑た笑いだけが殷々と響き渡る。
 どうして、こんな目に遭わなければならないのだろうか。
 何も悪いことはしていない。咎められるような謂れもない。
 少年は怯えながら、我が身の不運を呪った。
 これから自分は、一体どうなってしまうのだろうか。
 奴隷として売り飛ばされ、死ぬまで働かされるのだろうか。あるいは悪趣味な富豪の欲求を満たすための慰み物として扱われるのだろうか。何処とも知れない場所で、見知らぬ人々に蔑まれながら。
 助けを呼ぶことはおろか、逃げることもままならない。もし下手なことをして、彼らの気を損ねでもしたら――それこそ殺される。手違いで少年一人を殺めてしまったところで、彼らは何とも思わないだろう。また新たに子供を攫ってくればいいだけの話なのだから。
 無駄なのだ。
 どう足掻いたところで助からない。
 そんな諦念に、あわや少年が目を閉じかけた、そのとき。
 斬閃が薄闇を切り裂いた。

 そこから先は、あまり憶えていない。
 こちらを見下ろしていた彼らが血相を変え、険しい顔になった気がする。
 そうして一斉に洞窟の入口へと目を向けて、腰に携えた短剣を抜いた気がする。
 何が起ころうとしているのか、それすら判然としないまま――少年は小さな身体を更に縮こまらせ、強く目を閉じた。せめて自分の身だけは守ろうという半ば無意識の行動であった。
 怒号、悲鳴――悍ましい〝音〟が、少年の心を掻き乱す。
 早く終われ、終われ、終われ終われ終われ終われ終われ――
 心を押し潰さんとする恐怖に必死に耐えながら、ひたすら願い続けた。
 やがて。
 それらが途切れる頃には、もうすべてが終わっていた。

 終わった……?
 恐る恐る目を開いた少年は、目の前に広がる光景に凍りついた。
 そこは、まるで地獄のようだった。
 至るところに転がった手足。
 赤に濡れ光る岩壁。
 そして――既に事切れた賊どもの死に顔。
 思わず目を逸らす。喉の奥まで逆流してきた酸味を強引に飲み下す。ただでさえ疲弊しきっている少年の心に、眼前の惨劇は恐怖を通り越して苦痛すら感じさせるほどだった。
 とにかく、ここから逃げなくては。
 もう殺される心配はなくなった。なら、もうこれ以上ここにいる理由はない。
 早く遠くへ。父さんと母さんの待つ家に。
 そんな焦燥に衝き動かされながら、少年は必死に身を捩る。
 ふと、横合いから微かな金属音が聞こえたのは、そのときだった。
 再び滲み出た恐怖に、今度こそ身体の自由を完全に奪われる。
 誰かいる。
 逸る気持ちが先立つあまり、まったく気付かなかった。念には念を入れて警戒しておくべきだった。どうして気を緩めてしまったのだろうか。彼らの仲間が隠れ潜んでいない保証など、どこにもないのに。
 もし先程の物音が、彼らの生き残りだったとしたら――少年の命は、ない。
 もはや身じろぎすらできないまま、やおら横目で薄闇の向こうを確認する。
 果たしてそこには、洞窟から差し込む仄かな光に照らされながら、甲冑姿の人影が静かに佇んでいた。
 土埃に薄汚れた白銀の鎧。
 血に濡れた鋭利な長剣。
 騎士――そう一目で知れるほど、その立ち姿は堂々たるものだった。国のために戦い、命を奉げる武人。すべての民が憧れる理想の体現にして、戦場を眩く照らす一縷の光。
 その姿を目にした途端、少年は僅かな希望を見出した。
 間違いない。
 この騎士様が、助けてくれたのだ。喪うはずだった命を救ってくれた。
 あまりの喜びに泣きそうになった。これ以上の幸せが他にあるだろうか。身体を縛りつけていた恐怖心が消え失せていることに気付かないまま、少年は憧れの存在をじっと見つめ続けた。
 ふと、その視線に気付いたのか――
 兜の奥、凪のような穏やかさを湛えた眼差しが、ゆっくりとこちらを見遣る。
 倒れ伏す骸には目もくれず、勇ましい風采の騎士は少年に問う。怪我はないか? と。
 恐怖とはまた違う、羨望の念に身体を強張らせながらも、少年は小さく頷いてみせた。平気だよ、と。
 そんな少年の肯定をどう捉えたのか、佇立する騎士は小さく笑う。まだ子供ながらにしてその胆力、見事なものだと。まるで幼子を褒めるかのような優しい声。
 そのとき初めて、頬を伝う二筋のぬくもりに気付いた。
 歓喜と安堵。その両方に包まれながら――
 そこで、少年の意識は途絶えた。


        ×     ×     ×


 ――夢から覚めてもなお、アレン・ルーベンスは興奮を禁じ得なかった。
 また、あの夢だ。

「あぁ……」

 名残惜しそうに溜息を漏らす。
 同じ夢を見るのは、これでもう何度目になるだろうか――そんな疑問など、この胸の高鳴りに比べれば些細なことでしかない。幼い頃の記憶など殆ど忘れてしまったが、唯一憶えている〝あの日〟のことだけは、決して色褪せることなく今もアレンの中に残り続けている。
 窓の外。白々明けの空を一瞥してから、アレンは準備に取り掛かった。
 着慣れたエインズ騎士訓練団の制服に袖を通し、乱れや汚れがないかを隅々まで確認。最後に寝台の脇に立てかけられた木剣を腰に携える。手早く身支度を整えたアレンは自室を後にすると、なるべく物音を立てないよう心がけながら、寝静まった下級修練寮の廊下をそそくさと通り抜けた。
 そうして寮を出たアレンは、早朝の爽気を味わいながら、足早に訓練場へと向かう。
 寮の傍に密集している木立を抜け、しばし緩やかな丘を進んでいくと――やがて巨大な樹がそびえ立つ広場に出た。

「……」

 何とはなしに周囲を見回してみるが、アレン以外に人の姿は見当たらない。当然といえば当然である。多くの修練生は毛布のぬくもりに包まれながら、深い眠りの中で心地良い夢を見ているのだ。早朝に起きて自主的に修練に励もうとする者など、おそらくそうはいまい。ただ一人、アレンを除いては。
 腰に携えた木剣を抜き、左右に切り払う。剣筋に一切の揺らぎがないかを確認した後、得物を握る右半身を庇うようにして左半身を前に突き出し、深く腰を落とす。両腕を上段に構え、剣先を前方に据える。
 一年の歳月を費やして学んだ一二の基本的な剣技も、後はひたすら練度を重ねるだけとなった。今日も更なる剣技の向上をと意気込むものの、果たして期待した通りの結果になるのだろうか。もし失敗したら、アレンの成長を応援してくれている幼馴染に合わせる顔がない。彼女の期待に報いるためには、何としてでも成果を上げなければならない。
 気息を整え、アレンは鋭い一声と共に地を蹴った。

「――シッ!」

 木剣を横薙ぎに揮う。続いて切っ先を跳ね上げ、斜めに斬り上げる――小手先の技術を一切必要としない実直な打ち込み技ではあるが、それ故に純粋な剣の技量を問われる。
 そのまま、流れるように次なる型を繰り出す。
 一歩踏み込んで柄頭で突きを放ち、次いで素早く手首を返して斬りつける――剣の構造を利用した〝打〟と〝斬〟の変則技。
 残り一〇の剣技を一通り終えてから、アレンは不満そうに唸る。
 剣を揮う速度、踏み込んだ際の重心の移動。この二項目はまずまずといったところだが、肝心の動作に雑なところが目立つ。もう幾度となく繰り返し反復しているものの、一向に改善の兆しが見えない。
 確かな手応えは感じていた。完全な剣技と呼ぶにはいささか粗削りだが、徐々に体捌きの感覚を掴みつつある。少しずつではあるが、着実に成長しているのだと。が、それに納得を示すことなく、アレンは訓練を再開した。
 アレンの同期の中には、未だ剣の重量に耐え切れず、身体ごと剣に振り回される者もいる。その点、アレンは入団して間もない下級修練生の身でありながら、その剣技の腕前は形として成立する程度の域に達していた。それは日頃の地道な鍛錬と、アレン自身の剣に対する熱意に裏打ちされた偽りのない実力である。
 本来なら諸手を叩いて喜ぶべきことだが、アレンは他人の評価に興味などなかった。
 自分が目指す剣技は、こんな中途半端なものではない。既に完成された型でありながら、なおも更なる洗練を望む。その境地こそが、アレンが到達すべき剣技の集大成である。
 幼い頃のアレンを、深い闇の底から救い出してくれた、騎士の姿。あのときは、ただ恐怖に怯えることしかできなかった。己の無力さを恥じる心すら持ち合わせていなかった。
 理不尽にただ屈するしかなかった。体格的にも腕力的にも――そして何より、敵に立ち向かうだけの勇気がなかった。それは否定しようのない事実として認めなければならない。子供の頃の自分は、ただの餓鬼だったのだと。
 だが、今は違う。
 幼い頃の自分はもういない。代わりにこの場にいるのは、騎士を志す一人の武人――それが今のアレンの在り方だった。
 諦めずに剣を握り続けていれば、いつかは胸の内に秘めた〝理想〟も叶う。それが成就したとき、初めてアレンは自ら積み上げてきた努力を誇ることができるのだ。

「……ん?」

 ふと柔らかな音を耳にし、アレンは思わず木剣を揮う手を止めた。エインズ街の中心にそびえ立つ鐘楼の塔が、澄んだ鐘の音を高々と響き渡らせているのだ。敷地内を囲む壁に阻まれ、外に出ることを禁じられている身だが、元よりエインズ地方はアレンの生まれ故郷である。幼い頃から慣れ親しんだ街並みの情景を思い返すのは容易かった。
 アレンは手早く道具を片付け、駆け足で寮へと戻る。自主訓練の疲労など物ともしない勢いだった。さっさと準備を終えないと席がとられてしまう――そんな焦りに駆られながら。
 つい先程までの騎士道精神に溢れていた面持ちは見る影もない。

「今日のご飯は……何かな……」

 代わりに屈託のない笑顔を浮かべながら、アレンは今日の朝食に期待を膨らませていた。
 騎士道に生きる者であっても、やはり空腹には敵わない。



[38832] 序章[2]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2013/11/17 20:44
 アレンが食堂に着いた頃には、既に数人の修練生が食事を始めていた。
 最初に配給場所へと向かい、木の盆に載った料理を受け取った後、入口から遠く離れた席に座る。ここなら人目を気にせずにゆったりと食事ができるので、アレンは密かに気に入っていた。
 食台に置かれた器に手を伸ばす。並々と注がれた水の上には数枚の薬草の葉が浮かび、周囲に涼やかな香りを漂わせている。それに手を浸し、付着した泥や汚れなどを洗い落とす。
 その作業を終えてから、ようやく目の前に並ぶ料理を見る。
 今日の朝食は、麺麭に根菜入りの汁物、川魚の香草焼きという質素なものだった。
 アレンは静かに両手を組み合わせ、食物がもたらす恵みに祈りを奉げる。こうした食前の儀式すらも修練の一つとして取り入れていることに入団当初は驚いたものだが、慣れてしまえばまったく苦にならない。むしろ清々しい気持ちすら抱くようになった。
 そうして、いざ食事に取りかかろうとして――離れた席に座る修練生の沈鬱な溜息を偶然にも耳にした。その疲労の抜けきっていない面持ちから察するに、さぞや日々の訓練が堪えているのだろう。
 気の毒に……と、アレンは内心で同情する。せめて名も知らぬ修練生が、頑健な心体の持ち主か、日々の疲れを忘れるほどの趣味を持っていたなら、ある程度の心の余裕は生まれていただろうに。
 一年の訓練課程を経て、アレンを含めた下級修練生の全員があることに気付いた。――否、否が応にも直面することになってしまった。それは、異常なまでの〝娯楽の乏しさ〟である。
 本を読むことはあっても、それはあくまで知識と見識を培うための座学の一種に過ぎない。ましてや自主訓練など尚更――アレンのように自ら望んで行うならまだしも――無駄に疲れを蓄積させるだけ。加えて制約により外出は禁止。鬱屈を晴らす手段は皆無に等しいのである。閉ざされた環境下で生き延びるには、何かしらの小さな楽しみを見出すしかない。
 アレンのように訓練と食事の両方を楽しむ者もいれば、八つ当たり気味に稽古に臨む者もいる。それがどんな形であれ、溜まりに溜まった心労を解消する術であることに違いはない。
 だが、中にはそういった心の安らぎに気付かず、過酷な訓練に堪えかねて心が病んでしまった者もいる。またアレン自身、未だに目の当たりにしたことはないが、過去の訓練団では自殺しようとした者や壁を越えて逃亡を図ろうとした者もいたという。
 教官からその話を聞かされ、アレンは仕方ないことだと思った。どれだけ確固たる意志を秘めていようとも、この程度のことで心が屈するようでは、端から騎士になるべきではない。
 身命を賭して故国に忠義を誓う。それが騎士の果たすべき責務である。身は朽ち果て、もはや物言わぬ骸に成り下がったとしても、魂を奉げた国を裏切ることは決して許されない。その永久に等しい誓約が課せられることを考えると、なるほど確かに脆弱な精神の持ち主には荷が重い。無理もない話である。
 無論、アレンとて現状に不満を抱かないわけではない。入団した者は誰もが同士、互いに助け合い、協力し合っていく――その在り方に違いはあれど、志を共にする仲間なのだ。
 だが、打つ手がない。
 どうにかして助けてやりたいとは思うものの、アレンは医師の心得があるわけではない。擦り傷や打撲、骨折に対する最低限の処置方法を学んだ程度である。それが心の病となると、もはや既に治療の範疇を超えている。おいそれと治るものではない。
 やや硬めの麺麭を千切り、汁物に浸してから口に運ぶ。たちまち仄かな塩気と野菜から滲み出た甘みが口内に広がる。その味わい深さにささやかな至福を感じながら、アレンは二口目を口に運ぼうとして、ふと前方から近付いてくる気配に気付いた。
 食事の手を止めて顔を上げると、そこには見知った人物の姿があった。
 淡い輝きを秘めた翡翠の双眸。透き通るかのような雪肌を柔らかく包み込む、艶やかな亜麻色の髪。口元に浮かぶ仄かな微笑みは、さながら静謐に満ちた湖面のよう。
 近々齢一七を迎えんとしている少女にしては、その匂い立つような美貌は歳不相応に過ぎるほどだったが、それは決して魅惑にはなり得ない。彼女から漂う雰囲気には蠱惑の思惑など微塵もなく、むしろ一切の濁りを感じさせないほど清々しい。一見すると過剰に過ぎる見目麗しさも、彼女の清冽さに華を添えている。
 穏やかな笑みを湛えた少女に向かって、アレンもまた砕けた微笑を浮かべる。

「よう、クレア。今日も朝食が美味いぞ」

「おはよう、アレン。今日も随分と幸せそうに食べるのね」

 クレアと呼ばれた少女は小さく苦笑し、それからアレンの向かい側に腰を下ろした。

「まぁ、食事のことはさておいて。――で、今日の自主訓練の成果はどうだったの?」

「……」

 微笑み混じりの問い掛けに、アレンは申し訳なさそうにかぶりを振った。その無言の返答は言わずもがな、さしたる成果も得られなかったことに他ならない。やはり駄目だったと声に出して告げないのは、一介の武人としての誇り故であった。

「……そう。なら仕方ないわ」

「大丈夫だ。必ず物にするさ」

 まるで自分のことのように悄然と肩を落とすクレアに、アレンは心配させまいと快活に微笑む。
 おそらくアレンが頼み込めば、クレアは即座に力を貸してくれるだろう。だが、それでは意味がない。あくまで己の力で成し遂げることに意義がある。努力は決して裏切らない。積み重ねた分に見合うだけの成果をもたらしてくれる――そう信じている。

「それに、もともと地道な鍛錬は好きなほうだからな」

「ふふ……あなたって本当に頑張るのね。そういうところ、嫌いじゃないわ」

 苦笑気味に付け足した一言に、クレアは嬉しそうに微笑む。
 アレンが密かに自主訓練に励んでいることを知っているのは、訓練団の中でもクレア一人だけである。彼女もまた親身になって応援してくれているし、その励ましは〝剣を執り続ける〟という意志を、よりいっそう強固なものへと変えてくれる。まさに気心の知れた間柄だからこそ成し得る理想の信頼関係だが、とりわけアレンが彼女へと寄せる信頼は全幅に値するものだった。

「やっぱり騎士家系出身のお前に言われると気力が湧いてくるなぁ……」

「あら、そう? むしろ私は、騎士家系の出身なんて大したことじゃないと思っているわ。少し経歴に誇張がつくだけで、別に凄いことじゃないもの。
 私が目指しているのは、その先にあるものよ。騎士家系の生まれも、培った力も、それを成し遂げるために都合が良いから利用させてもらっているだけ」

「……えぇ? お前、そういう言い方はどうかと思うぞ」

 アレンは驚きを通り越して呆れ果てた。よりにもよって彼女は、騎士の家に生まれたことの意味を、何の躊躇いもなく『大したことじゃない』と言い切ったのだ。とんでもないことである。

「出自を否定するってのは、即ち才能を否定しているのと同じだ。親父さんが泣くぞ?」

「そうかしら? 仮に父が泣いたとしても、私はこう言うわ。〝生まれた環境の違い〟でしかないわ、とね。もし私があなたの家に生まれて、逆にあなたが私の家に生まれていたら、それだけで立場や価値観は大きく違ってくるでしょう?」

「そりゃ、そうかもしれないがな……でも裏を返せば、お前が俺たち同期の中でも優秀な部類に入っているのは、親父さんの〝仕込み〟があってのことだぞ。それを考えたら、お前は良いほうだと思うがな。俺の親父なんて農夫だぞ、農夫」

 幼い頃のクレアを思い返す。自らの倍の背丈もある木剣を手にした彼女、厳しい面持ちで彼女に指導する彼女の父親の姿、そして――その光景をじっと眺めながら、密かに羨望の念を抱いていたアレン自身を。
 畑を耕すしか能がない農夫に育てられたアレンと、一人の騎士として国に仕える父を持つクレア。片や作物がもたらす恵みの大切さ、片や騎士に必要不可欠な剣技や作法――身分以前に教わる内容そのものが違い過ぎる。これほど恵まれた境遇にいる彼女を見て、どうして羨ましいと思わずにいられようか。

「今更になって出自がどうこうなんて言うつもりはないが……結局のところ、お前は家系も血筋も道具同然だと、そう言いたいのか?」

「そうよ。――でも、厳密に言えば違うわ」

 心なしか鋭い声音で、クレアはきっぱりと断言した。

「さっき、確かに私は〝都合が良いから〟と言った。道具扱いしているのと何ら変わらないと受け取られてしまうのも仕方ないわ。でも、それは、決して自分自身を貶めたり自嘲するような意味じゃない。ましてや、その生まれを偉そうに振り翳したりもしない。
 ――いくら騎士の家系でもね、古い枠組みに収まっているだけでは駄目なのよ。常に新しい知識や経験を積んでこそ、騎士としての新しい道も見えてくる……私が目指したいのは、それなの。騎士の家に生まれたという特権を利用して、より良い騎士の在り方を生み出すのよ」

 そう語る彼女の考え方は、アレンの掲げる思想に通ずるものがあった。
 クレア・ブランシャール。幼い頃から騎士としての素養を仕込まれた彼女を羨ましいと思いこそすれ、嫉妬を抱いたことなど一度もない。騎士の生まれであることを鼻にかけず、常に志を貫き通そうとする彼女の在り方は、まさに〝騎士になるべくして生まれた人物〟だと、少なくともアレン個人はそう確信している。

「より良い騎士の在り方……それが実現したら、誰もが脅威に悩むことなく笑って暮らせるのか?」

「今はただの理想でしかないわ。けど、絶対に無理とは言い切れない。そのためには、王政や民、果ては国全体を変革させる必要があるけれど、やってみるだけの価値はあると思っているわ。
 ――それに、これは……」

 更に独白が語られようとしたそのとき、食堂内に荒々しい物音が響き渡った。思わぬところで水を差され、アレンとクレア、そして食事をしていた者たちの驚愕の眼差しが、一斉に食堂の入口へと向けられる。

「ハァ、ハァッ……」

 どうやら修練生の一人が扉を開け放ったらしい。青褪めた面持ちで扉に凭れかかり、肩で荒い呼吸を繰り返している。そのただならぬ様子を感じ取ったのか、身近に座っていた者が腰を浮かせかけた、その瞬間。
 もはや悲鳴に近い一言が、食堂全体を震わせた。

「た、大変だ……っ! さっき、上層部から緊急通達が……!」


 先刻、修練生の遺体が無残な状態で発見された。
 修練寮の手前、水汲み場の裏手に倒れているのを、付近を通り掛かった修練生が偶然にも発見。常駐している医師を引き連れて現場に戻ったが、既に息はなく事切れていたとのこと。
 すぐさま医師による詳しい調査が行われた。その結果、遺体の後頭部には鈍器の類で強打されたような裂傷、更に両腕には刃物の類で斬られた傷痕が見つかった。裏手の芝生に滲んでいた血痕も発見された。それらのことから、死因は大量出血によるものと断定。
 早急に編成された捜索隊が付近の捜査を行い、犯行に使われた短剣と血の付着した外套を発見した。刀身に奇妙な紋様が彫られていることから、何らかの集団組織の所有物である可能性が高い。更に外部と内部を隔てる壁の一部には、侵入の際に使用したと思しき鉤爪付きの縄も見つかっている。他に証拠がないか、引き続き捜査は続けられている。
 この報告を受けた訓練団総長メルゼ・マクレーンは、全教官との会議の末、長期間の訓練中止と敷地内徘徊を昼夜問わず禁止にするとの決定を下した。侵入者が近辺に潜んでいる可能性があるため、敷地内を監視する哨戒兵の数を増やし、更に厳重な警備を敷くとのこと。無論、禁を破った者は重罰と見なし、即刻訓練団から除団する。


 ――そのような内容が綴られた通達書を取り巻くように、エインズ騎士訓練団の中心地、通称〝憩いの場〟と称される広場には、既に多くの修練生が集まりつつあった。本来なら賑わいに包まれるはずのこの場所も、困惑に支配された今では見る影もない。

「……」

 徐々に増えつつある人垣の中、アレンは食い入るように通達書を凝視している。隣に立つクレアの存在を意中から排して、書面の内容を何度も読み返す。
 修練生が、死んだ。それも自殺ではなく、人の手による他殺で。
 心の病か、あるいは激烈な訓練からの逃亡なら、まだ納得の余地があった。仕方ないことだと割り切ることができた。だが、何者かの襲撃によって殺されるというのは、訓練団始まって以来のことである。周囲が戸惑うのも無理はない。
 この内容に虚偽や虚飾が一切ないとしたら、侵入者の手口は至って単純な方法だ。獲物の背後から忍び寄って鈍器で後頭部を強打。そうして獲物が意識を失うのを確かめた後、刃物で両腕を斬る。もしくは不意打ち気味に両腕に致命傷を与えた後、鈍器で意識を奪ったか。手口を逆転しても同様の結果に至る。
 最悪なことに、侵入者はまだ付近に身を潜めている。精鋭と名高い捜索隊から隠れ果せていることからも、新たな犯行に及ぶ可能性が極めて高い。もしかしたら、もう次なる獲物を見定めているかもしれない。だが捜索隊が周囲を徘徊している以上、二度目の犯行は易々とはいくまい。教官以上の決定権を持つ総長が直々に決を下したのだ。危険が身近に蠢いている以上、それに従わない者はいないだろう。
 新たな犠牲者が出るか、それより先に捜索隊が侵入者を追い詰めるか。願わくば後者であってほしいが、果たして一切の犠牲なく捉えることができるか。奇襲が成功したことで侵入者が油断し切っているのなら好都合だが、まさかそこまで思慮が浅いわけではあるまい。
 それ以前に……何の目的で修練生を襲ったのか?
 やはり真っ先に思いつくのは、恨み妬みといった怨恨の類か。
 犠牲になった修練生の名前は明かされていないため、生前の人間関係を調べることは不可能だが、余程人との関わりを避けていない限り、そういう間柄の相手がいたとしても何ら不思議ではない。
 だが、たったそれだけのことで、わざわざ敷地内に侵入するという危険な賭けに出るだろうか。たとえ殺意を抱くほどだったとしても、もし人目に触れるようなことになったら、遅かれ早かれ捜索隊から追われることになる。仮に逃げ果せる自信があったとしても、やはり無謀としか思えない。刺し違えてでも殺すと決意しているのなら別だが。
 もしくは、騎士そのものを憎悪しているのか。
 珍しいことではない。騎士道などという大義名分のために命を奪う――そういった認識を抱く民も少なからずいると聞いたことがある。騎士の存在を疎ましく思うが故の、狂気に囚われた行動だとしたら、今回の騒動の犯人は反対派の人間ということになる。
 だが、それでは整合性に欠ける。騎士を憎む心――それは殺害する動機としては充分だが、何の訓練も受けていない素人が、そう簡単に修練生を殺せるだろうか。ましてや背後からの襲撃である。仕掛ける前に気付かれるか、あるいは反撃を受けるかもしれない。そういった可能性を考慮しなかったとは考えにくい。
 今回の犯行に使用された短剣は単なる得物ではない。詳しい内容は曖昧に記載されているため不明だが、どうやら集団組織の所有物であると推測されている。わざわざ特定されるような証拠を、しかも付近に落とすなどという馬鹿な真似をするだろうか。返り血がついたからといって、身を覆い隠すための外套を脱ぎ捨てたのも同様である。
 それ以前に、どうして犯行後に逃げなかったのか。騒ぎになる前に壁を越えてしまえばいいものを、何故よりにもよって捜索部隊と鉢合わせしかねない敷地内に身を潜めた。
 手口は失敗の少ない方法だが、肝心の逃走に粗が目立つ。加えて破綻した行動原理。武芸の心得がある修練生に奇襲を仕掛ける度胸――侵入者は一体、何を企んでいるのか。

「……アレン?」

 傍らから聞こえた強張った声が、アレンの黙考を中断させた。はたと我に返った途端、美しい翡色の眼差しがアレンの顔色を覗き込んでいることに気付き、思わず後退る。

「どうしたんだ?」

「……さっきまでのあなた、恐い顔してたから……声をかけてみただけよ。大丈夫?」

「いや、悪いな。少し考え事をしてたんだ。気にしないでくれ」

「……そう。ならいいわ」

 クレアは納得したように頷くと、目線を通達書へと戻した。安堵に満ちた彼女の横顔に胸を締めつけられながら、アレンはたった一言、すまない、と囁いた。



[38832] 序章[3]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2013/11/23 12:51
 もう、多くの修練生が眠りについた頃だろうか。
 いつもなら扉越しに聞こえる誰のとも知れぬ話し声も、今夜ばかりは談笑に花を咲かせる気は起きないらしい。今や修練寮の廊下は、不気味なほど静まり返っていることだろう。
 すっかり夜の帳に包まれた空を窓越しに眺めながら、アレンは壁に立てかけてあった木剣へと手を伸ばした。使い手たるアレンと日々を共にしてきた愛剣の柄は、相変わらずの馴染んだ感触を掌に伝えてくる。
 入団したときから何度も手にしてきた得物であったが、手に圧し掛かる重さは真剣よりも軽い。殺傷力を求めているわけではないが、もし正面切っての打ち合いになった場合、木製の剣では数合ともつまい。その僅かな間に勝敗を決することができなければ、アレンは単なる血肉の塊へと成り果てるだろう。そうなる前に何としてでも一矢報いることができれば――致命傷には至らなくとも、少なくとも捜索隊の手助け程度はできるはずだ。
 惜しむらくは――恐い顔をしていると、そう不安に語る幼馴染を裏切ってしまったことだ。彼女が寄せる信頼に対して、あろうことか虚偽を以て背いたのである。だが、その胸中に蟠る心苦しさすら、すぐに忘我の隅へと追い遣られることだろう。
 頼む……愛剣に万感の想いを込めて、アレンは部屋を出た。
 月明かりの差し込む薄暗い廊下を悠然と進む。だが、その落ち着き払った歩調とは裏腹に、アレンの眼差しは炎々たる灼熱を秘めていた。胸中から湧き上がるそれは紛れもなく憤怒であり、そしてその怒りの矛先は他ならぬ侵入者へと向けられていた。
 神聖なる騎士の園を土足で汚した挙句、あろうことか共に騎士を志す仲間を死に追い遣ったのだ。その下劣さ、騎士の心を貶める醜悪さ――何もかもが度し難い。人を殺めるという最低の禁すら破るだけでは飽き足らず、更なる犠牲者を増やそうと目論んでいる。これほどの外道が蔓延る状況を、ただ黙って傍観しているのは我慢ならない。
 必ずや報いを――
 無謀だと、ただ命を擲つ愚行だと罵られることも充分に承知している。わざわざ自ら行動せずとも、力のある者に全てを託して任せればいい。それが本来の正しい選択、痛みを恐れる人の本質なのだと。
 だが、それは本当に正しいのか?
 正しき行いを為すために――自らの手を血に染めるのは、間違っているのか?
 凡愚なる者は是を叫び、聖賢なる者は非を唱えるだろう。
 ならば騎士道は何のためにある? 一片の悪性すら認めぬ騎士の象徴は、いったい何を以て是とする? ただ定められた規律に従い、諸人に望まれた光であり続けるのが、真なる騎士の姿なのか?
 違う。
 そのような在り方は、断じて違う。己の信条を貫いてこその騎士道。それが騎士の本懐であるはずだ。その果てに散ろうとも、それは自らの矜持を全うしたまでのこと。
 正しく在りたいと願った、ただそれだけの話。
 つまるところ、今アレンを激しく駆り立てているのは、何の益体もない義憤であった。
 一階に続く階段を下り、そのまま入口へ向かおうとして――ふとアレンは、扉の傍らに控える二人の門番兵の姿を見咎めた。周囲を警戒の眼差しを奔らせながら、その場から一歩たりとも動こうとしない。寮内へ足を踏み入れようする不審な輩、あるいは無断で禁を破ろうとした修練生を牽制するための二重の意味でメルゼ総長が配置したのだろう。
 しかもその警備の網は、どうやら正面のみに留まらないらしい。見れば窓の外には、同じく軽装の兵が控えている。三人、四人……門番兵の二人を除けば、修練寮の警備を担っている兵の数は、おそらく少なく見積もっても一〇人はいるのではないか。
 アレンとて、まさか堂々と正面から抜け出せるとは思っていない。今朝の通達書の内容からして、厳重な警備が敷かれるであろうことは容易に想定できた。今回の一件を受けて、メルゼ総長が早急に手を打った結果だ。楽観視して対処が遅れるよりはいい。だが、ここまで警戒態勢に抜かりがないとなると、寮内から脱するのはますます困難になる。
 となると残りは、窓から外の様子を覗うしかない。哨戒兵の正確な人数と警備範囲を完全に把握するまで時間は掛かるだろうが、このまま手を拱いてしまうよりはいいだろう。
 行動方針は決定した。いつまでもこの場に留まっているわけにはいかない。

「……?」

 速やかに移動しようとしたアレンは、ふと窓の向こう側、暗闇の中に不意に茫然と浮かび上がった極小の灯りを見咎めた。木々の茂みを掻き分けて徐々に近付いてくるそれは、どうやら松明を手にした兵のようだった。

「――ッ」

 だが、灯りに照らされるその端正な面持ちを見た途端、アレンは目を瞠った。

「……ク、クレア……?」

 アレンは彫像のように立ち尽くしながら、親しみ慣れたその名を呟いた。
 瀟洒な甲冑を身に纏い、腰に長剣を携えたクレアの姿は、幼い頃から教え込まれた騎士の心得も相まってか、さながら一端の騎士の風格を漂わせている。だが、苦悶に歪むその眼差しには、普段の穏和さは微塵も感じられなかった。

「――クレアッ!!」

 クレアの異常をたちどころに理解したアレンは、もはや隠密であることすら忘れて窓から抜け出し、荒い呼吸を繰り返す彼女の元へと向かう。ようやく事態の異変に気付いた哨戒兵が駆けつけるより先に、アレンは倒れかけた彼女の身体をしっかりと受け止めた。

「クレア! しっかりしろ! 俺だ、分かるか!?」

「……ァ、レン……?」

 アレンの存在に遅まきながら気付いたのか、クレアの掠れ声が明らかな驚愕に揺れる。が、それも一瞬のことで、すぐに苦しげな呻きに取って代わる。どうやら意識までは失っていないようだが、早く医務室に運ばなければならない。

「――!」

 そのときアレンは、クレアの左腕に突き刺さった鋭利な輝きに気付いた。鋼鉄板を基調とした鎧の装甲を易々と破り、彼女の血に妖しく濡れ光る刀身。これによる失血が原因か、それとも刀身に毒が塗られていたのか。どちらにせよ、彼女の憔悴ぶりは只事ではない。

「おい、これは何事だ!」

 その声に振り向けば、いつの間にか二人の周囲に複数の哨戒兵が集まっていた。その中の一人、おそらくは統括権を持つのであろう精悍な顔つきの兵が、詰問の色を帯びた眼差しでアレンを見据えていた。

「私は哨戒部隊を束ねているコリック統括長という。そこの君、いったい何があったのか説明できるか?」

 あくまで冷静に問い質すコリックに、アレンは僅かに緊張の滲む声音で応じる。

「……この修練生が負傷しました。負傷部位は左腕、出血は止まっています。ですが、どうやら様子がおかしいようです。医師に診せなければ処置が施せないものではないかと」

「そうか。――おい、そこのお前! 今すぐ医務室に行って伝えろ。『修練生クレア・ブランシャールが負傷した。彼女を運ぶ荷台を持ってきてほしい』とな。もう一人のお前は、水が汲まれた桶と布を持ってこい、今すぐにだ。急げ!」

 コリックが怒声にも似た命令を下すや否や、指名された二人の哨戒兵は各方向に散っていった。遠ざかっていく二人分の足音を聞きながら、ただアレンは苦しげに喘ぐクレアの手をしっかりと握っていることでしかできなかった。
 手遅れになってくれるな――そう切に願いながら。

 その後。
 最初に冷水を湛えた桶と布を持った哨戒兵が戻り、次いで少し遅れて荷台を担いだもう一人が到着した。続いてその場に居合わせたコリックが簡易的な処置を施し、荷台に乗せられたクレアは、急いで医師の元へと運ばれた。
 コリックを含む哨戒兵は持ち場を離れることはできないため、クレアに付き添ったのはアレン一人だった。
 搬送される間、アレンは脂汗を流すクレアに必死に声をかけ続けたが、そんなアレンの励ましも空しく、彼女の容体は一向に回復の兆しを見せないまま、医務室の扉の向こうへと姿を消した。
 後はもう、医師に全てを託すこととなった。


        ×     ×     ×


 果たして、どれだけの時間が経ったのか。
 ふと窓の外を見る。
 普段なら清々しい気持ちをもたらしてくれる早朝の景色すら、今のアレンにとっては鬱屈の対象でしかなかった。窓に映る自らの顔、その目許に薄らと浮かぶ隈を見て取り、まともに眠っていないことに気付いた。一晩を寝ずに明かしたせいだろう。
 毎朝の日課である自主訓練も、今日ばかりは励む気になれなかった。今も処置を受けているクレアの苦しみを思えばこそ、のうのうと木剣を揮う自分自身が許せなかった。

「……畜生」

 何とはなしに漏らした呟きは、虚しい響きを静寂に散らす。気を紛らわすために俯いていた視線を上げれば、目の前には〝医務室〟の札が掲げられた重厚な扉。未だ固く閉ざされたままの扉から、治療を終えた医師が姿を現すことはない。直接この目で確かめに行きたいが、処置室に無断で立ち入ることは禁じられている。
 メデリック・アライアン。それが彼女の処置を担当している医師の名である。既に齢六〇を超えた初老の男でありながら、若い頃は負傷した兵士相手に手腕を揮い、その医術の程は王都直属の医師に並び立つほどだという。それほどの誉れある名医なら、まず失敗することはあるまい。
 だが、そのメデリック医師をして、これほど時間が掛かるとは――それほどクレアの治療は難航しているのだろう。当然といえば当然だった。左腕に刺さった刃物を、周囲の筋繊維や神経を傷つけないよう慎重に引き抜かなければならない。それこそ僅かな気の緩みすらも許されない、繊細な技術が要求される。摘出した後の止血や縫合を含めると、そう簡単に終わる処置ではないのだ。
 昨日の夜。クレアが負傷した際、アレンは何もできなかった。何か力になれることがあったはずなのだ。なのに――アレンがしたことといえば、ただ痛みに悶える彼女をひたすら励ましたことだけ。
 ますます沈鬱に顔色を翳らせ、アレンは自責の念から頭を掻き毟った。
 無事であってほしいと――そう思いはしても、それはアレン個人の勝手な願望でしかない。彼女が助かるかどうかは、すべて彼女自身の意志次第なのだ。
 彼女の負傷については、ある程度の予想はついている。まだ医師による処置が済んでいないため断定はできないが、おそらく訓練団内部に侵入した侵入者に負わされたものだろう。真正面から一戦交えたのか、それとも不意を突かれた際に負った手傷なのかは不明だが、前者にしろ後者にしろ、あの彼女に一矢報いるとは、件の侵入者は相当の手練れだ。
 もし敵と刃を交えていたのが彼女ではなく、アレンだったとしたら。二人目の犠牲者は、間違いなくアレンだった。幼少の頃から武練を積み重ねた彼女だからこそ、むしろあの傷だけで済んだのだ。怒りを優先するあまり、肝心の敵の力量を推し量ることを失念していた。それは他ならぬアレン自身の失態だった。
 結局、アレンは子供のままだった。幼い頃から何も変わっていなかった。今回の騒動を、単なる稽古試合とでも思っていたのか。生死を賭した戦いであることは充分に理解していた。だが、それでも――心のどこかでは、微かな慢心があったのだろう。彼女が負傷しただけで取り乱し、何もできずにただ見守ることしかできなかったのだから。
 そのまま、どれほど項垂れていたのだろうか。
 ふと寂然たる廊下に軋んだ音が響き渡り、アレンは反射的に医務室の入口へと目を向けた。僅かに開いた扉から、白衣を身に纏ったメデリックがゆっくりと歩み出てきた。どうやら今方まで処置を行っていたらしく、とめどなく額を伝う幾筋もの汗を拭いながら一息ついている。一仕事終えたばかりの彼に鞭を打つようで申し訳ない気持ちになるが、アレンは意を決して訊ねた。

「あの……少しいいですか?」

「――ん? おお、搬送前に一緒にいた坊主か」

 夜通しの処置を終えたばかりで疲労もあるだろうに、メデリックは朗らかに笑った。

「見たところ一睡もしていないようだが……身体に支障はないか?」

「はい、大丈夫です。一睡くらいは何ともありません。……それよりも、あの……」

「ああ、分かっておる」

 皆まで言うなと片手で制し、メデリックは背後の扉を示した。

「あの嬢ちゃんの処置自体は無事に終わっておる。今は処置に使った薬の作用で眠っておるから、残念ながら話すことはできん。それでもいいのなら一〇分だけ面会を許可するが……構わないか?」

「……お願いします」

 アレンは短く頷き、医務室の扉の前に立った。喉元まで出掛かった問いを辛うじて呑み込むことができたのは、ひとえに〝ここで問うのは無駄だ〟と悟ったからである。
 仮にメデリックに詰め寄って問い質したところで、おそらく彼は期待した返答を口にしないだろう。ましてや彼は医師である。処置を行った患者については、親族でもない限り無闇に明かすことはできないはずだ。他人に対する患者の情報の不開示という鉄則が医学の界隈に存在するなら、それはアレンとて例外ではないだろう。
 ただ今は、クレアの顔を見て安堵したかった。



[38832] 序章[4]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/03 21:06
 
 処置室に隣接する複数の部屋。
 そのうちの一室に、クレア・ブランシャールの姿はあった。
 予想していたよりも安らかに眠るクレアの寝顔を眺めながら、アレンは安堵の溜息を漏らさずにいられなかった。一時はどうなることかと不安に陥ったものだ。

「……良かった。本当に、良かった……」

 クレアが運び込まれたときは必死で考えようもなかったが、もし医務室に駐在の医師が一人もおらず、あるいは所用で留守にしていたら、間違いなく彼女は息絶えていた。万が一にも有り得ない可能性ではあるが、必ずしも皆無ではない。メデリックはあまり多くを語らなかったが、彼が放った短い言葉の裏には、明らかな警告が込められているようにも感じられた。今回は幸運にも大事に至らずに済んだが、次も同じように助かるとは限らない、と。
 それが勘繰りでないことは、クレアの血色の失せた頬を見れば一目瞭然だった。今は徐々に回復しつつあるようだが、もし少しでも処置が遅れていたら――最悪の場合、彼女の死に顔を看取ることになっていたかもしれない。
 そんな瀬戸際の状態にあった彼女を、医師の誇りを賭して救ってくれたメデリックには、いくら感謝しても足りない。
 窓から差し込む陽光に照らされるクレアの亜麻色の髪を、アレンは梳るように撫でた。また彼女の穏やかな微笑みを見せてほしいと、そう切実な想いを込めて。

「――?」

 永遠に続くかと思われた安らぎの時間は、扉を叩く音によってあっさりと破られた。

「……メデリック医師か?」

 まさか、もう面会は終わりなのだろうか。まだ病室に足を踏み入れて数分しか経っていないはずだ。メデリックとは知り合ってまだ一日程度だが、彼は患者の状態を考慮せずに面会時間を設ける医師ではない。
 だとするなら――誰なのか?
 その疑問に対する答えは、扉越しに聞こえた名乗りによってもたらされた。

『メルゼだ。ここを開けてくれないか、アレン・ルーベンス君。襲撃を受けたクレア・ブランシャールの無事を確認したいんだ。いいかな?』

「な……」

 思いもよらない名前にアレンは瞠目する。クレアの元を訪れる人物は自分だけと思っていただけに、突然の来訪者に驚愕を禁じ得なかった。まさかそれが――よりにもよって訓練団を束ねるメルゼ総長だとは、果たして誰が想像できただろうか。
 やおら席を立ち、アレンは扉を開けた。
 心のどこかでは、さっきの名乗りは悪戯ではないかと疑っていた。だが、扉の先に立つ人物を見た途端、その僅かな疑いは一瞬にして消え失せた。
 眼前の長身痩躯の男――メルゼ・マクレーンは、その細い顔つきに似合わず、口元に涼しげな微笑を浮かべている。それだけを見れば実に友好的な印象を抱くが、アレンを見下ろす瞳だけは、まったく笑っていなかった。まるで内心を透かし見ているかのような、あるいは見定められているかのような、懐疑的な眼差し。

「改めて初めまして、アレン・ルーベンス君。エインズ騎士訓練団総長のメルゼ・マクレーンだ」

「こちらこそ、お初にお目に掛かります。エインズ騎士訓練団所属、下級修練生アレン・ルーベンスです。メルゼ総長に一目かかれるとは、光栄の至りです」

 言いようのない緊張感に呑まれそうになりながらも、アレンは平生を装って応じた。

「君のことはメデリック医師から聞かされている。何でも負傷した修練生が医務室に搬送された後も、処置が終わる朝方まで一睡もせずにいたとね。君が寝ずの番を果たしてくれたことに対して、訓練団を代表して感謝を表したい。ありがとう」

「私には勿体ないお言葉です」

 恭しく首を垂れる。
 どうやらメデリックの認識は違うらしく、処置が終わるまでアレンは番兵の真似事をしていたと思われているらしい。実際は茫然自失の態のまま一夜を明かしたのだが、それを否定するほどの余裕は、今のアレンにはなかった。

「しかし、メルゼ総長……何故このような場所に?」

「そう畏まらなくてもいいよ、アレン君。僕は、どうも敬語というのが苦手でね。できれば普通の口調で話してもらいたい。……それでも構わないかな?」

 そう微笑みかけるメルゼの口調は柔らかいものだが、依然としてその眼光から懐疑の色が消えることはなかった。どうして疑いの目を向けられているのか。まったく身に覚えのない嫌疑に微かに眉を寄せ、アレンはゆっくりとかぶりを振った。

「それはできません。総長に対する礼儀ですので」

「そう? 君がいいなら構わないけど無理に堅苦しい言葉遣いをしなくてもいいからね。……それで、ええっと……さっきの質問をもう一度お願いできるかな? 何度も言わせてしまってすまないね」

 苦笑交じりのメルゼに促され、アレンは仕切り直すように再び問う。

「それではもう一度問いますが……総長は、どうしてこちらに?」

「どうしてと言われたら……さっきも言った通り、君の後ろで眠っている彼女の無事を確認するためだよ。わざわざ問わずとも、もう解りきっていることじゃないか」

「……クレアに、ですか? どうしてなのか、理由を聞かせていただけないでしょうか? 彼女と馴染みの私ならともかく、彼女は一介の修練生でしかありません。総長のような方が、わざわざ訪れるほどではないと思うのですが……」

 そう応じつつ、アレンは身構えた。幸いにも手を伸ばせば届くほど互いの距離は近い。メルゼが少しでも怪しい動きに出ようものなら、即座に対処することができる。
 総長の立場にあるメルゼに無礼を働くなど、訓練団に所属する者ならば誰もが弁えている禁則行為である。ましてや危害を加えるなど以ての外だ。本来なら礼儀を払って然るべき相手であり、彼が目上に立っているからこそ訓練団は体制を成しているのだ。この訓練団を一国とするなら、彼はいわば秩序を保つ統治者の役割を担っている。――が、今は礼節などを重んじている場合ではない。
 今のクレアは無防備な状態にある。その気になれば誰でも容易に手出しができてしまう。この瞬間にも侵入者が奇襲を仕掛けてくるかもしれない。もしそうなったら――眠っている彼女を護れるのは、この場にいるアレンだけだ。彼女に近付こうとする輩は、たとえ総長のメルゼであろうと簡単に通すわけにはいかない。
 アレンが見せた警戒をどう捉えたのか、メルゼは落ち着き払った声音で言った。

「あぁ、別に妙なことをするわけじゃないから安心してほしい。ただ彼女が無事かどうかを見ておきたいだけさ。だから荒っぽいことは一切なしで頼むよ。
 それで、さっきの君の問いだけど……そうだね。答えるとするなら、彼女は僕たちの訓練団の仲間だからだよ。仲間の無事を確かめるのは、騎士を志す者として当然だろう? ましてや今回の襲撃に関わっているとするなら尚更だ。無論、侵入者と刃を交えた重要な参考人としてね」

 そう捲し立てるメルゼには、一切の虚偽が見て取れない。どうやらメデリックから話を聞いたというのも嘘ではないようだ。ただ――信用に足る相手かと問われたら、首を縦に振ることはできない。
 そんなアレンの内心を知る由もないメルゼは、なおも独白を続ける。

「アレン君が心配なのも理解できる。いきなり総長である僕が訪ねてきて、内心では動揺しているだろうね。無理もないことだ。けど、だからこそ彼女の傍に行かせてほしい。それでも不安が拭い切れないというのなら、僕が何かしないように見張ってくれても構わない。ただ一目見れればそれでいいんだ。他意はないと約束しよう」

「……総長の言葉を信じます」

 そう応じながらも、アレンはメルゼの挙動に注意を払う。どういうわけか、彼はアレンを信用していない。単に初対面というだけではない。あくまで辺面を取り繕って接してきている。アレンに気を許している様子がないのなら、アレンもまた彼を警戒するのは当然だった。

「ただ先程の約束通り、総長の動向は私が監視させてもらいます。それでよろしいですか?」

「ああ、構わないよ。……いや、良かったよ。君が許してくれて」

 ようやく許諾を得られて安堵したのか、メルゼは小さく胸を撫で下ろした。メデリックから許可を得ている以上、わざわざアレンに了承を求めることはないのだが、どうやら自ら総長を務めるだけあって、彼は筋を通す厳粛な人間であるらしい。
 メルゼは静かに眠るクレアの元へ歩み寄り、すぐ傍の椅子に腰を下ろした。アレンはその横手に控え、彼の僅かな所作や仕草に至るまでを凝視する。一切の見逃しがないように、より念入りに。
 そんな厳重な視線を総身に浴びながらも、なおもメルゼの面持ちが不快に歪むことはない。自ら誓った手前、たとえ口約束であろうとも決して違えるつもりはないのだろう。先程までの砕けた態度とは打って変わった静かな様子で、クレアの寝顔を眺めている。
 それから二分ほど経っただろうか。

「……もう結構だよ」

 無事を確かめることができて満足したのか、メルゼはゆっくりと席を立った。

「もうよろしいのですか? まだそれほど経っていないようですが」

「あくまで確認するだけだからね。それに……彼女が目覚めるまで待っているというわけにもいかないからね。何せ途中で処務をほっぽり出してきたからね。早く戻って終わらせないと部下に怒られてしまうよ」

「……はぁ」

 もはや呆れるしかなかった。仮にも総長の責務を担う者なら、然るべき手間を終わらせてから訪れるべきだろうに。せめて体裁を保つ配慮はしてほしいものである。仲間意識が強いかと思いきや、本来なら慎むべき発言を平然とのたまうあたり、この男には総長としての自覚がないのだろうか。

「メルゼ総長。お忙しい中、わざわざ足をお運びになっていただき、ありがとうございます。クレア……彼女が目を覚ましたら、メルゼ総長が様子を見に訪れたと伝えておきます」

「いや、礼には及ばないよ。むしろ申し訳ないね。一番傍にいたいのは君だろうに、僕の我儘に付き合ってもらって。君の面会時間を割くようなことをしてしまった。……それじゃ、そろそろ戻るよ」

 そう告げ、メルゼは踵を返した。
 去りゆく後姿を見送りながら、アレンは横目でクレアの姿を確認した。どうやら彼女の顔色に変化はない。いくら傍で監視していたとはいえ、アレンの目を盗んで妙な細工を施していないとも限らないのだ。慎重に越したことはないだろう。

「……?」

 ふと突き刺さるような視線を頬に感じ、アレンは入口へと目を向けた。そこでようやく、メルゼが扉に背を向けたまま、アレンの方を凝視していることに気付いた。どうして一向に部屋を去ろうとしないのか――その問い掛けは、不意に発せられた鋭い声音によって遮られた。

「一つだけ言い忘れていたことがあったよ、アレン君。もし彼女が目を覚ましたら、そのときは一緒に総務室に来てほしい。君に話しておきたいことがある」

「え……?」

 それは、どういう意味なのか。
 呆気に取られるアレンを尻目に、メルゼは扉の向こうに姿を消した。胸中に湧いた更なる疑問も封殺されてしまった。アレンに問い質す暇を与えず、あろうことか有無を言わさぬ一瞥を残して。
 それはつまり、アレンに拒否権はないということ。
 ましてや総長直々の指名である。訓練団を統べる長の誘いを、一介の下級修練生が断ったと余所に知れたら――今後のアレンの立場が危うくなる。こんなところで騎士の道を閉ざされるわけにはいかない。
 行くしか、ないのだろう。
 もうすぐ面会時間が終わる。クレアの様子を見た限りでは、彼女の容体が急変する兆しは見て取れない。後は彼女が目を覚ますのを待つばかりである。となると用が済んだ以上、もうこの場所に留まる理由はない。
 思わぬ事態、思わぬ出逢い、そして積み重なる心労に溜息を漏らし、アレンは病室を後にするのだった。



[38832] 序章[5]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/03 21:08
 アレン・ルーベンス――
 彼の名前を呟いたのは、これで何度目になるだろうか。

「……」

 そんな益体のない思考を断ち切り、メルゼ・マクレーンは自らの仕事に取り掛かった。――が、机上に積まれた書類の山は一向に減る気配を見せない。一枚ごとに承認の印を押しては手を止め、またしばらくしてから再開するという非効率的な方法を繰り返しているからである。本来なら一時間程度で済むはずの処務も、今日に限っては余計な思案のせいで思うように捗らない。
 こうも彼について思いを巡らせてしまうのは、やはり病室での短い遣り取りが原因なのだろうか。でなければ、彼のことを知りたいと思いはしないはずだ。書類に記載された来歴ではない、彼自身の在り方を。
 机の片隅に無造作に置かれた紙の束。すぐさま部下に命じて用意させたそれは、他ならぬ彼の経歴が記載されたものだった。もう既に目を通してあるが、それでもなお彼への興味が薄れることはなかった。むしろ、ますます彼に対する執着の度合いが増していく気がするのだ。これほど都合の良い人物はいないと。
 メルゼは病室を去る際、彼に命令を下した。曰く、総務室に来るようにと。
とはいえ、あれは単なる口約束でしかない。書類上の契約を交わしたわけでも、何か交渉を迫ったわけでもない。ただ一方的に約束を取り付けただけ。
 もし彼が来ないようなら――そのときは、彼を除団するだけの話。たった一人の修練生の処分など、メルゼの総長権限を以てすれば容易いことである。従わない者に恩情を与える気はない。
 どちらにせよ、彼は必ず来る。わざわざ権力を振り翳す必要はない。
 ついには書類に目を通すことすら億劫になり、メルゼは椅子から立ち上がった。窓辺に歩み寄り、朝靄に霞む敷地内の景観を眺める。
 付近を徘徊する哨戒兵たちに目立った動きはない。昨晩の犠牲者は――負傷したクレア・ブランシャールを除き――一人もいないことから、成果としては充分だろう。このまま侵入者が捕縛され、その身柄を王都に差し出すことができればいいのだが、まさかそう簡単にはいくまい。
 被害を最小限に抑えたとしても、少なからず犠牲は出るだろう。その喪われた命を無駄死と考えるか、それとも必要な代価であると捉えるかは、最終的にメルゼの判断に委ねられる。安易な決定は許されない。自らが下した決が訓練団の総意になる――その重圧を一身に背負うのは他でもない、メルゼ自身なのだから。
 使える駒はすべて使う。メルゼが命じれば、おそらく皆は自ら命を差し出すだろう。だが、その覚悟がなければ――死ぬだけだ。脅威に臆する軟弱者は、どのみち修練生であり続けることはできない。
 ただしその代わり、自ら剣を掲げる者には最大の敬意を払おう。
 アレン君……君ならどうする?
 互いに知り合って間もない関係であるにもかかわらず、既にメルゼは彼に対して僅かな期待感を抱きつつあった。

 クレア・ブランシャールが目を覚ました。
 その吉報が舞い込んだのは、アレンが仮眠から目覚めさせられた直後だった。というのも、医務室の正面に設えられた木製の長椅子に横たわり身体を休めていたところを、メデリックの激しい揺さぶりによって強引に叩き起こされたのである。
 幸運の報せに驚愕を露わにしたのは、他ならぬアレン自身だった。
 クレアに、彼女に会える。
 一瞬にして眠気が吹き飛び、心身に溜まった疲労感が和らいだような気がした。
 アレンは急いでメデリックから面会許可をもらい、彼女の待つ病室へと向かう。その道すがら、何か気の利いた見舞いの品を見繕うことも考えたが、まさか花を摘むわけにもいくまい。即席の花束を渡したところで、目覚めたばかりの彼女は苦笑するだろう。あなたにしては随分と可愛らしい贈り物ね、と。
 自らの男としての体裁を守るべきか、それとも恥を忍んで彼女の苦笑いを誘うか。
 そんな馬鹿らしい葛藤に苛まれるうちに、どうやらクレアの病室へと辿り着いてしまったらしい。彼女との面会時間は、以前と同じ一〇分間。間延びはなし。手ぶらのまま会うのは忍びないが、彼女を待たせるよりはいいだろう。
 アレンは決然と頷き、扉へと手を伸ばした。
 室内に足を踏み入れた途端、確かな安堵感に包まれる。今朝方の寂しげな雰囲気とは違う、肌身を通して伝わるぬくもり。そして何より――およそ久方ぶりに見るであろう微笑み。

「よう、クレア。面会に来たぞ」

「……怪我人に気軽に挨拶できるのは、あなたみたいな気後れしない人だけだわ」

 こうして互いに言葉を交わし合うのも、もう何年も前のような気がしてならない。日数にして半日程度だが、何気ないこの遣り取りにすら懐かしさを感じてしまう。

「怪我したわりには、意外と元気そうだな。とりあえず一安心ってところか?」

「全然。むしろ暇で暇で仕方ないわ。本を読んで暇を潰そうにも、片腕しか使えないから頁を捲るのに一苦労。できるのはこの棟内を散歩することくらい。もう嫌になってきたわ、ここの入院生活」

「……もしこっそり病室を抜け出したら、メデリックさんに告げ口するからな」

 半ば恫喝めいた口調になってしまうのは、彼女ならやりかねないという危うい予感があったからだ。もしそうなったら、首根っこを引っ掴んででも連れ帰る覚悟である。メデリックに救われた命を、再び危険に晒すような真似はさせるわけにはいかない。
 アレンが密かに抱く危惧も、クレアにはすべて見抜かれていたらしい。小さく肩を竦め、苦笑する。

「冗談よ。逃げ出したりはしないわ。どの道、腕がまともに動かせない状態だもの」

「……腕が動くなら逃げ出すつもりなのか?」

「さぁ、どうかしらね。そこまで心配なら、いっそのこと私を監視する?」

 そんな不安を掻き立てる言い草も、今ばかりは冗談では済まされない。
 もしかしたらクレアは、自身が置かれている状況を掴めていないのではないか。それともアレンと語らいながらも、彼女なりに必死に現状を理解しようとしているのだろうか。どちらにせよ、今の彼女を支えることができるのは、アレンを置いて他にはいない。

「できることならそうしたいが、メデリックさんは許可をしてくれないだろうな。お前を救ってもらっただけでも感謝したりないってのに、これ以上俺の勝手な我儘で迷惑をかけるわけにはいかない。頼むから大人しく養生してくれ」

「そうは言われてもね……何もしないでいると、どうしても思い出してしまうのよ。私を襲った敵のことを」

 そう語るクレアの面持ちが、微かな翳りを帯びる。

「そういやメデリックさんは教えてくれなかったが……左腕の怪我について、お前自身は何か知らされているか?」

「ええ。ある程度は、だけどね」

「そうか。……なぁ、クレア。お前が思い出したくないなら別だが、できるならその内容を教えてほしいんだが……無理な相談か?」

「別に構わないわ」

「へっ?」

 まさか何の承諾も得ずに話を聞くわけにはいくまい――そう思っていただけに、クレアが一切の躊躇いもなく同意を示したことに、思わず間抜けな声を漏らしてしまう。

「いいのか?」

「どうせ話そうと思っていたことだもの。負傷した当人である私が話すべきだと判断したら、メデリック医師も嫌とは言えないでしょうし。それに彼自身、私があなたに話すことは薄々気付いていたようだし」

 あっさりと頷き、クレアは包帯に包まれた自身の左腕を一瞥する。

「何でもメデリック医師が言うには、私の左腕から摘出された短剣の刀身には、危険な猛毒が塗られていたそうよ。加えて出血量が多かったのも仇になったわ。そのせいで必要以上に体力を奪われ、昨夜のように情けない姿を晒してしまったと……簡単に纏めるとそうなるわ」

「猛毒……」

 アレンの見立ては概ね正しかった。猛毒と出血による二重苦に責め立てられては、成程いかな手練れの武芸者でも憔悴は免れないだろう。幾重にも策を巡らせるその用意周到さは、さながら手負いの獣を追い立てる狩人のそれに似ていた。

「……ちなみに訊くが、その猛毒の入手経路は?」

「さすがに入手経路までは特定できなかったけど、猛毒の元は主に山岳地方に群生している茸を煮詰めた汁じゃないかと、メデリック医師はそう推測していたわ。それ以外にも羽虫の毒針から採取した毒液も挙げられたけど……今のところ、茸が有力な説かもしれないわ」

「成程な。もう一つ訊くが、犯行に使われた短剣はどうなった?」

「あの短剣は、メデリック医師が訓練団の上層部に報告も兼ねて引き渡したそうよ。詳しい調査が終了していないから確証は得られないけれど、まず間違いなく侵入者の所有物である可能性が高いわ」

「……そうか」

 短剣に猛毒を塗る狡猾さ、襲撃現場に何らかの証拠を残したまま立ち去る不手際さ。クレアの証言と昨日の通達書の内容から推測するに、やはり侵入者は杜撰な一面を覆い隠そうとしない、極めて〝曖昧〟な一面を備えた人物であることが窺い知れる。

「実体の掴めない敵……といったところか」

「そうかもしれないわ。でも……これは実際に剣を交えた私が感じたことだけど、敵の腕は確かなものだった。背後からの不意打ちとはいえ、たった一斬で鎧の装甲を突き破ったことを考えると、相当の熟達者であることに間違いはないわ」

「だったら尚更だろ。お前が負傷するくらいだ。決して勝ち目がないわけじゃないが、単騎じゃ不意を突かれたときの対処が遅れる。こりゃ、ますます大変なことになるだろうな」

 近いうちに新たな哨戒兵の動員が成され、より強固な警備態勢が敷かれるだろう。さしもの侵入者といえども、ますます増強された監視の網を掻い潜ることなどできまい。

「ま、諸々は総長がすべて……あぁ、そういやクレア。今朝、お前に来客があったぞ」

 数刻前の予想外の出逢いを思い出し、アレンは話題を切り替えた。

「来客? あなた以外の人なんて初めてだわ。誰なの?」

「それがな……来客ってのは、メルゼ総長なんだよ」

「……」

 意外だろ、と微苦笑交じりに語るアレンは、クレアが微かに眉を顰めたことに気付かなかった。

「何でも、お前が負傷した報せを聞いて心配したらしくてな。執務をほっぽり出してまで見舞いに来たんだぞ? 仲間思いなのはいいけど、せめて総長の仕事を片付けてからにしてほしいよな」

「ええ、そうね。仕事は片付けるべきだわ。……それで? 他に何か言っていなかった?」

「ああ、そういえば去り際に言伝を預かったな。確か……お前が目を覚ましたら、俺と一緒に総務室に来てほしい、とか何とか。けど、お前は目覚めたばかりだからな。病み上がりに無理はさせられないだろうし、後で俺が総務室に――」

 伝えに行く。
 そう言い終わるより先に、クレアの身体が寝台から滑り落ちる。

「……っ、は……ぅ!」

 身に纏った着衣は乱れ、苦しげな喘ぎが室内の静けさを掻き乱す。一体、何が起こったのか――突然の奇行に呆然としていたアレンは、足元を通り過ぎようとする荒い呼吸に意識を引き戻され、ようやく状況を理解するに至った。

「……ッ! な、何やってんだ! 安静にしろって言われたばっかりだろうが!」

「……安静にしている暇なんて、私にはないわ。今すぐ総長のところに行かないと……」

 助け起こそうと伸ばされたアレンの手を、クレアは弱々しい動作で振り払う。

「まともに歩けないくせに馬鹿なことを言うな! 大人しく寝台に戻れ」

「嫌よ。悪いけど、こればっかりは聞けないわ。それに、聞くところによるとあなたも総長に呼ばれたのでしょう? なら、あなたも私と一緒に行かなくてはならないわ」

「だから……っ!」

 わざわざ言葉で諌める必要はない。純粋な腕力の差は元より、未だ衰弱から脱し切っていないクレアの抵抗など、アレンからすれば泣き叫ぶ幼子のそれに等しい。彼女の身体を抱え、再び寝台に横たわらせるなど造作もないことである。
 だが、アレンにはそれができなかった。
 充分に動かない身体を引き摺るように、それでも少しずつ前へと進もうとするクレアの姿には、確固たる意志を感じた。これほどの不屈を無下に扱うことは、即ち彼女自身への冒涜に他ならない。もし仮にアレンが強引に止めに入ったとしても、彼女は何度でも床を這いつくばろうとするだろう。

「……大人しくしてくれと言ったところで、どうせお前は聞かないんだろ?」

「……」

 相変わらずの無言の返答。
 アレンは呆れ果てたようにかぶりを振り、クレアの身体を背負う。背に圧し掛かる柔らかな重さに意識しながら、寝台ではなく病室の扉に向かって歩き出す。彼女の髪から微かに漂う甘い香りも弱々しい勝ち誇った微笑も、今だけはひたすらに小憎らしい。だが自らの行動で認めてしまった以上、今更クレアの意志を覆すなどできなかった。
 医務室は第二棟、総務室は第三棟。幸いにも各棟を繋ぐ渡り廊下があるため、移動に手間はかからない。
 クレアの外出については、散歩とでも偽っておけばいいだろう。医務室を出る際にメデリックに見咎められるだろうが、アレンが同伴として付き添うという条件付きならば、メデリックとて承諾しないわけにはいくまい。
 諸々の面倒事を改めて整理しながら、アレンはクレアを伴って病室を出た。



[38832] 序章[6]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/03 21:07
 窓外に広がる薄暮の迫る空を時折仰ぎ見ながら、アレンは静かに歩を進める。
 クレアは背にしな垂れ掛かるようにして、今は安らかな寝息を立てている。気丈に振る舞ってはいても、やはり疲労は抜け切っていないのだろう。何とも暢気な奴だな――思わずそう苦笑しかけてから、すぐに取り直す。アレンの首に回された両腕の片方、幾重もの包帯に包まれた左腕は、昨夜の己の無力さを思い起こさせるのに充分なものだった。
 もう二度と、同じ失態は繰り返さない。
 今この背にある優しい重みを、大切な人を、決して喪いたくない。
 そう思えばこそ、いま向かっている場所にクレアを連れていきたくはない。彼女が眠っている今なら引き返すこともできるだろうが、仮にそうしたところで彼女は行こうとする。得体の知れないあの男の元に。
 メルゼ・マクレーン――
 あの男の顔を最後に見たのは、一年前のあの日、アレンが訓練団に足を踏み入れたとき。新期修練生の入団式で壇上に立ち、あの男が歓迎の言葉を述べた際、アレンは確かに羨望の念を抱いた。エインズ騎士訓練団の長に相応しい堂々たる立ち振る舞いは、なるほど総長を任命されるだけの器だと。
 だが今朝、間近で対面したとき、確かな忌避感がアレンの胸を過ぎった。あの外面を取り繕った態度、そして何より――アレンの心底を見透かさんとする疑念を含んだ視線は、人を束ねる者にあるまじきものだった。
 あの男の言動の意味を、額面通りに受け取ってはならない。あの男の統率力は確かなものだが、必ずしも優れた手腕が信用に値するわけではない。いかな経験に裏打ちされた実力を秘めていたとしても、生まれ備えた気性はまったく異なるものだ。いずれにせよ、注意するに越したことはないだろう。
 再び不愉快な視線に晒されるのは避けたいところだが、おそらくあの男は遠慮などしない。その理由は解せぬままだが、一つだけ言えることは――仮に言葉を交わしたところで、互いの心が交えることはない、ということだ。
 それならそれで構わない。元よりアレンの目的は親交を深めることではなく、何としてでも今回の一件に取り入り、自らの手で侵入者を追い詰めることだ。一度目は決心の甘さ故に無残な結果となってしまったが、胸中に燻る怒りの火種はまだ燃え尽きてはいない。
 しばし廊下伝いに歩きながら、設えられた数々の調度品を見遣る。これ見よがしに飾られているあたり、よほど名の知れた名工が拵えた品々ばかりなのだろう。審美眼を持つ者ならば、精緻な意匠が施された作品群の価値を一目で見抜けるのだろうが、生憎とアレンは芸術に造詣がなかった。これらがすべて名匠の鍛え上げた刀剣ならば、まだ興味を抱いたのだが。
 かさり、という微かな衣擦れの音が、アレンの耳朶を撫でる。

「起きたか、クレア。もう少しで着くぞ」

「んん……そう」

 夢心地から覚めやらぬのか、クレアは間の抜けた声を漏らす。

「随分と眠そうだが……大丈夫か?」

「大丈夫よ。少し疲れただけ。それに……本当に疲れているのは、あなたの方でしょう?」

「……まぁ、な」

 苦笑交じりの首肯。その些細な仕草にすら滲み出る疲労の色は、どうあっても隠し通せるものではなかった。これでもアレンは快活を装っているつもりなのだが、どうやらクレアには見抜かれていたらしい。つくづく彼女の目敏さには感心してしまう。

「ま、大丈夫だろ。さっさと総長の一件を終わらせて寝ればいいだけの話だからな」

「……無理しなくてもいいわ。あなたに心配をかけたのは私よ。私のせいでもあるわ」

「そう気を落とすなよ。むしろ俺のことはどうでもいい。最も大事なのは、お前が今も生きていることだ。昔からの馴染みに死なれるのは嫌だからな」

「あなたがよくても、私が心配するのよ。子供の頃からいつもそう。いつも自分のことを蔑ろにして、他人の心配ばかりして……あなたは憶えているかしら? 初めて村に越してきた私が、近所の子供たちにいじめられて泣きそうになっていたときのこと」

「あぁ……そういやそうだったなぁ……」

 今はもう薄れかけた幼少期の記憶を追想しながら、アレンは懐かしむように語り出す。

「確か、村に来たばかりのお前は……いきなり村の餓鬼大将とその手下にからかわれてたな」

 親しみ慣れた故郷を離れ、まったく見知らぬ土地で新たな生活を営む。それだけでも幼い少女の心は不安に揺れるであろうに、あろうことか当時の村の悪餓鬼たちは、他郷から訪れた彼女を格好の悪戯の的と判断した。折りしも彼女が、年端もいかぬという理由で父親から剣術を手解かれていなかった頃である。

「……で。ええっと……その後はどうなったっけな。悪餓鬼どもにお前が囲まれて、執拗にからかわれてたのまでは、俺も遠目に見てたから憶えてるんだが……」

「あら、憶えていないの? そのとき、あなたは一人で子供たちに掴み掛ったのよ。『女の子をいじめるな』って怒りながら。……そして結果はお互い痛み分け。けど、私をいじめていた子供たちは泣きながら家に逃げ帰っていった、と」

「……ああ、思い出した。あれは、正直なところ無謀すぎた。初めて数の暴力を味わった気がしたな。……まぁ、勝手に喧嘩を吹っ掛けた俺の自業自得でもあるんだけどさ」

「ふふ、そうだったわね」

 幼い頃のアレンを余さず知る幼馴染は、過日の思い出に思わず笑みをこぼす。

「衣服は泥だらけ、おまけに肘や膝に擦り傷を拵えて……でも、私は嬉しかったわ。父と母以外に頼れる人がいなかった私にとって、あなたと知己の間柄になれたもの」

「今じゃ往年の馴染みだがな。けど……今更になって思い返してみると、お前をいじめていた悪餓鬼も可哀想だろうな。お前にちょっかいを吹っ掛けた側のあいつらだって、ちゃんとした理由があったみたいだしな」

「今なら子供の悪戯だったと笑えるけれど、当時の私には悪意以外の何物でもなかったわ。もしかすると私をいじめていた子供たちは、私の仕草や見た目に、何か気に入らないところでもあったのかしら?」

「さぁな。ま、一つ言えることは……お前も意外と鈍感ということだな」

「? ますます意味が分からないわ」

 アレンは思わず失笑する。背中越しのクレアの表情を覗い知ることはできないが、おそらく判然としない疑問に小首を傾げていることだろう。自分自身を守るのに精一杯だった当時の彼女からすれば、確かな悪戯心を抱いて迫ってくる悪餓鬼たちの姿は、悪魔同然のように見えただろう。
 だからこそ彼女は知らない。そうなってしまった原因の一端が、実は自分自身にもあったことを。手出しされるたびに縮こまって怯える彼女の姿そのものが、かえって悪餓鬼の幼心に生まれた不器用な想いを煽り立てていたことに。
 なぜ今更になって過ぎ去りし日々の一場面を追憶し、取り留めのない会話に花を咲かせたのか。もしかしたらそれは、いよいよ間近に控えている総務室での一幕について考えたくなかったのかもしれない。

「――着いたぞ」

 アレンはおもむろに足を止め、眼前の扉を睨みつけた。背中に密着していた体温と重みが不意に消え失せ、代わりに絨毯の上に舞い降りる足音がひとつ。アレンとしては背負ったまま室内に踏み入っても構わないのだが、当のクレアは律儀にも儀礼を重んじるつもりらしい。

「ほら。せめて俺の手に掴まってろ。もしものときは支えてやるから」

「……ありがとう」

 微笑と共に差し出したアレンの手に、クレアもまた微笑みで応じながら手を重ねた。
 そうして無言のまま頷き合った二人は、扉の先で悠然と待ち構えているであろう人物に向けて、扉越しに到着を告げた。

 入りたまえ――
 入室を許可する曇り声に促され、アレンたちは室内に足を踏み入れた。
 壁の両脇に設えられた書棚には無数の書物が並び、そのどれもが変色し刻まれた年月を露わにしている。相当の年代物と思しき錆びれた燭台は赤々と炎を湛え、室内を薄く照らす。微かな黴臭さが漂うその古めかしい内装は、さながら書斎のような侘しい趣を醸し出している。
 華美すぎるほどの調度品に彩られていた回廊とは異なり、総務室の内装は閑寂たるものを感じさせた。ただ一人、この部屋の主であるにもかかわらず、この場に最もそぐわない歓笑を浮かべている人物を除いては。

「やぁ、二人とも。わざわざ足労願ってすまないね」

 どうやら総務室にいようとも、メルゼ・マクレーンは真意を秘め隠す微笑みを絶やすつもりはないらしい。実際、口調こそアレンたちを労うものだが、その声音はどこか楽しげですらあった。

「さ、二人とも。その場に立っていないで。ほら、こっちに来て座りなよ」

 よりいっそう破顔しながら、メルゼは応接用と思しき長椅子を示す。その催促の笑みにすら何らかの真意が秘め隠されているものと――そう勘繰ってしまうのは、やはりこの男に対する疑念ゆえだろうか。
 共に一礼を述べ、アレンたちは長椅子に腰を下ろす。程なくしてメルゼも椅子から立ち上がり、アレンたちの対面側に腰掛けた。こうして取り澄ました面持ちと対面したのは、今朝の思わぬ来訪以来である。

「……?」

 再び顔を合わせる状況に至り、アレンは言い知れぬ緊縛感を抱いた。決して忘れたわけではない、あの不可解な疑惑の双眸。できることなら直視されたくないと辟易していただけに、アレンを見据える視線の質が前回とは大きく異なっていることに、遅まきながら気付いた。
 アレンもまた同じように眼前の眼差しを見返し――そこでようやく、その判然としない違和感に思い至る。
 邪念の類を孕んでいたはずの瞳は、こうも清く澄んでいただろうか?
 何かが変わった。半日足らずの僅かな間に、この男の心境に些細な変化が訪れたのだ。
 二度目の相対を交わしてもなお、おそらく互いに交わることはない――アレンの確信にも似た予想は、あろうことか想定外の変化によって見事に裏切られる形となった。

「さて。こうして二人には来てもらったわけだけど、自己紹介は省略させてもらうよ。もう互いに見知っているだろうし、特に名乗る必要はないだろうからね。――ねぇ、アレン君?」

「ええ、総長の仰る通りですね」

 唐突な同意に平静と応じたアレンを、果たしてメルゼは如何なる心持ちで眺めているのか。この程度の会話では彼の心胆など察しようもないが、アレンからすれば既に腹の探り合いは始まっているも同然だった。

「……メルゼ総長。それで、私たちに話とは?」

「そう心配しなくても大丈夫だよ。すぐ本題に移るから。……その前に、君にはこれを渡しておくよ。本題に移る上でどうしても欠かせない物でね」

 メルゼは薄笑いを口元に貼り付かせたまま、かねてから卓の隅に用意していた紙の束をアレンに差し出した。紙面に綴られた文面の内容から鑑みるに、どうやら今回の襲撃事件に関する情報が記載された調査報告書のようだった。一介の修練生であるアレンが手渡されるには、不相応に過ぎる代物であった。

「調査報告書……ですか。しかし、よろしいのですか? この報告書の中には、まだ公には公開していない情報もあるのでは?」

「もちろん。確かに君の言う通り、その報告書に書かれている事柄の中には、未だ公表していない情報も記されている。けど、それについては心配いらないよ。近いうちに通達を出して、公にするつもりだからね。君が未公開の情報を知り、それを他人に口外したところで影響はないよ。
 それに、それを承知の上で僕は報告書を渡したんだ。その意図を汲み取ってくれると、僕としては大いに助かるよ。……まぁ、とりあえずは目を通してごらん。話はそれからさ」

 メルゼに促されるまま、アレンは紙面に目を通す。前半の報告書に記載された、既に公に通達された情報は流し読み、主に後半の頁――未知なる情報のみに要点を絞る。

 ――今回の襲撃事件について、新たな情報がもたされたことを記す。
 駐在医師メデリック・アライアン立ち会いの下、最初の犠牲者である修練生の遺体を詳細に調べた結果、両腕に無数の傷痕、加えて腱が切断されていることが新たに判明した。死因は出血大量による失血死、頭部の陥没については鈍器の類、両腕の切断面は刃物の類であることは確定済みだが、両腕周辺が執拗なまでに斬りつけられていることから、犯人は何らかの怨恨の類を抱いていると推測。更なる調査結果は以下の内容に目を通されたし。
 先述の推論の元、犠牲者を知る者に秘密裏に調査を行ったところ、生前の被害者は恨みを買う行為及び言動はなし。人間関係は至って円滑、とりわけ諍いの類とは無縁な人物であったことが複数の証言によって判明。被害者の人物像を更に浮き彫りにするため、なおも調査を続行する――
 そこまで目を通して終えてから、アレンは報告書を机上に戻した。
 淡々と綴られた報告には、一片の虚偽も見て取れない。だが、それ故に――事態は混迷を極めんとしているらしい。

「どうだい? 目を通した感想は」

「……正直なところを申し上げますと、相当に切迫している様子が見て取れました。調査の進捗は順調のようですが、むしろ調査を進めるたびに不可解な〝矛盾〟が発見されているようにも思えます」

「……へえ」

 アレンの物言いから含意を汲み取ったのか、メルゼは間髪入れずに問い返した。

「そう思った理由を聞かせてほしいな」

「執拗なまでに斬られ、挙句の果てに腱を切断された遺体の両腕。それ自体は不自然ではありません。ですが、後述に記載された〝何らかの怨恨の類〟の一文と、〝諍いの類とは無縁〟と評された被害者の人間関係……これでは大きな齟齬が生じてしまいます。少なくとも殺害動機にはなり得ないかと」

「……なるほど。なら、僕と同じ考えということだね」

 まさかアレンの推論に感じ入ったわけではあるまいが――ほんの僅かな間を置いてから、メルゼの微笑に初めて驚嘆の色が浮かぶ。
 諍いとは無縁の、それも円滑な人間関係を築いていた生前の人物が、身に覚えのない怨恨で殺される――それでは辻褄が合わない。殺す側に〝動機〟があり、殺される側に〝恨みを買うだけの理由〟がなくては、そもそも殺人は起こり得ないはずだ。その大前提を度外視した内容には、正直なところ疑問を禁じ得ない。

「同じということは……もしやメルゼ総長も、この報告書そのものに手違いの記入がされていたと考えているのですか?」

「いや、それとは大きく違うんだ。僕も最初は、報告書に手違いがあったのかと思わず目を疑ったよ。報告書の作成に携わった部下に調査の結果を再確認させたりもした。……けど、その矛盾は取り除かれないままだった。報告書に記入されていたのは誤りではなく、ありのままの情報だったんだ。つまり、その報告書に間違いは一切ない。
 そしてその報告書に不備がないからこそ、僕は二人を……より正確にはアレン君を呼んだ」

「……だからこそ、とは?」

「諸々の説明を省けば――アレン君。今回の一件を解決するために君の力を貸してほしい」

「……」

 メルゼの勧誘とも取れる端的な発言に、さしものアレンも驚愕せざるを得ない。
 わざわざこのような密やかな談義の場を設けたのも。情報漏洩の可能性があるにもかかわらず、アレンに最新の資料を手渡して現状を把握させたのも。すべては労せずしてアレンを同志に招き入れるための算段だったのだ。少し熟考すれば思い至ったであろう結論に、まさか弄ばれる羽目になろうとは思いもよらない。

「いきなりこの話を切り出されては、君が返答に窮するのも無理はない。じっくりと考える時間を与えたいけど……今の僕には、悠長に待っていられるだけの余裕がないんだ。今こうしている間にも、敷地内に隠れ潜む敵は次なる獲物を見定めようとしているかもしれない。
 ――できれば、今のうちに返答を聞きたい。返答次第によっては、僕は君を仲間として受け入れるし、もし無理ならこの誘いは白紙にする。その際、君に損は生じないと約束しよう」

「待ってください。返答の前に一つ訊かせていただきたい。下級修練生、上級修練生……私の腕前では到底及びもしない猛者たちがいます。にもかかわらず、なぜ私なのですか?」

「確かに今の君の実力は、他の猛者たちと比べて劣っているかもしれない。けど、それは些細なことでしかない。負傷したクレア君を支えるだけの力を備えた〝柱〟……僕が求めているのはその一点だけだ。そしてその〝柱〟を担う者は、彼女が最も信頼を寄せる君以外に適任はいない。僕はそう考え、君を誘った」

「……え?」

 さも当たり前のように語られた説明、その言いようのない違和感に、アレンは眉を顰める。今、この男は何と言ったのか――決して見過ごしてはならない疑問に答えをもたらしたのは、不意に傍らから上がった納得の声だった。

「――ああ、なるほど。だから私も同伴するように仰ったのですね、メルゼ総長」

 思わず隣のクレアを見遣る。いつもと変わらぬ微笑を湛えた彼女は、差し向かいに座るメルゼと無言の視線を交わすのみだった。驚愕に瞠目するアレンには見向きはおろか、ただの一瞥もくれることはない。
 その瞬間、アレンはすべてを悟った。両者にしか知り得ぬ眼差しの意味、そして――両者の間に秘め隠された関係を。そして理解してしまったからこそ、その事実を容易に受け入れてしまうのは躊躇われた。
 疑いの色が顔に表れていたのか、メルゼが訝しむように眉根を寄せる。

「おや、アレン君。もしかして、隣にいるクレア君から何も聞かされていないのかな? てっきり僕は既に事情を聞き及んでいるものと思ったのだけど……困るよ、クレア君。君なりに機転を利かせて彼に説明をしておいてくれないと」

「総長に呼ばれたという話を聞いた時点である程度の察しはついていましたが、仮に話したところで彼は混乱してしまうでしょう。それに、どうせ明かすのなら、総長も交えたときの方が色々と都合がいいと思いまして」

 アレンですら見たことがない、朗らかな笑みを覗かせるクレア。普段の穏やかな微笑とは異なる表情を浮かべた彼女は、果たしてアレンの知る〝クレア・ブランシャール〟なのか――もはやそれすらも判然としない。
 違う。いまアレンの傍らにいる人物は、彼女であって彼女ではない。そんな漠然たる直感に裏打ちされた理解に辛うじて支えられながら、アレンは努めて冷静に問い質す。

「メルゼ総長の仰った『クレアを支える〝柱〟』とは……それは裏を返せば、彼女は既に総長の部下の一人ということですか?」

「そう、彼女もまた僕の部下……今回の一件を解決するために秘密裏に集められた、腕に覚えのある猛者の一人だからね。そうでないなら、初めからこの談義に彼女は呼ばないよ」

「……ッ」

 もう、事実を受け入れるしか他にないのだろう。メルゼの言に嘘偽りは感じ取れない。それに――仮にこの男が虚言を弄したところで、今のアレンにそれを面と向かって否定できるほどの余裕があろうはずもない。
 依然として目を合わせようとしないクレアの横顔を一瞥してから、アレンは言い知れぬ不快感を拭い去るように更なる問いを投げ掛けた。

「返答をする前に、一つだけ訊いておきたいことがあります。私は〝柱〟としてクレアの傍に付き添うことと仰っていましたが、それ以外に行動の制限は課せられているのでしょうか?」

「いや、特に決めてはいないよ。基本はクレア君と一緒に行動してもらうことになる。けど、今後の状況次第によっては条件を付け加えることになるかもしれない。とは言っても、君の自由を束縛するような無茶な条件にはしないよう心掛けるつもりだよ」

「そうですか。……ならば、お受けします」

「……本当にいいのかい? 僕自身が提案しておいて何だが、もう少し慎重に熟考するべきだと思うな」

 まさか容易に承諾されるとは思っていなかったのだろう、再認の首肯を求めるメルゼの声音は軽かった。資料の矛盾について述べた際にも思ったことだが、どうやらこの男は人を弄ぶ技量には長けていても、自らの調子を掻き乱す言動に対しては反応が鈍るらしい。統率者らしからぬ欠点を抱えていながら今まで総長としての責務を全うしてこれたのは、ひとえにこの男が自らの飄々めいた性格に支えられているが故なのかもしれない。

「はい。元より私も、今回の侵入者に対しては並々ならぬ怒りを抱いています。この手で一矢報いることができるなら、どんな形であろうとも構いません」

「僕の部下に属すということは、即ち僕の命令には絶対服従ということだ。どれほど不服な命であろうとも引き受けなくてはならない。それがたとえ、君の在り方を否定するようなものであったとしてもだ。それでなくとも今回の一件は、人の生き死にに関わることになる。当然、君の命も危うくなるかもしれない。
 僕の勧誘を受けるつもりなら、それなりに覚悟をしてもらう必要がある。今ならまだ取り消すこともできるけど……それでも君の返答は変わらないかな?」

「……」

 迷う必要などなかった。静かに頷いたアレンの面持ちから意志の程を見て取ったのか、メルゼもまた無言のまま頷き返し、やおら席を立った。もう談義は仕舞いなのかと思いきや、彼は執務に戻るわけでもなく、悠然たる足取りのまま壁際の本棚へと歩み寄る。そしてあろうことか、アレンたちに背を向けたまま無造作に棚を物色し始め――やがて振り向いたときには、その手には鍵が握られていた。

「談義はもう終わりだけど、もう少しだけ付き合ってくれるかい? 折角アレン君を仲間に迎え入れたことだし、祝いと諸々の説明も兼ねて地下室に行こうと思うんだ。もちろん着いてきてくれるよね、二人とも?」



[38832] 序章[7]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2013/12/24 17:35
 先の見通せぬ、濃密な闇――
 まさかこのような場所に地下室へと続く入口があろうとは、アレンは予想していなかった。
 てっきり秘密の地下通路があるのかと思いきや、意外なことに隠し場所は総務室へと通じる渡り廊下だった。数多の調度品によって巧妙に偽装された壁の一部には鍵穴が施されており、特定の型番の鍵を挿し込むことで作動する絡繰りだった。この通路の設計に携わった当時の設計者は、随分と大仰な仕掛けを施したものである。
 宙を漂う埃に辟易しつつも、アレンは暗闇の底へと伸びる螺旋階段を見遣る。

「何とも……途轍もない仕掛けですね」

「そうかな? むしろ僕は幼少時代に戻ったみたいだよ。まだ見ぬ財宝を求めて意気揚々と洞窟に入り込むときの、あの何とも言えない高揚感に似ていると思わないかい?」

「総長の仰りたいことは解りますが、生憎と私は洞窟にあまり快い印象を抱いておりませんので……」

 苦々しい顔でかぶりを振る。
 幼い頃のアレンとて、冒険行に興味を抱かなかったわけではない。幼心に痛烈に訴え掛けてくる興奮と緊張感を何度味わったかしれない。だがそれも〝あの出来事〟に遭遇する前までの話である。鮮烈な恐怖を見せつけられた後となっては、むしろ洞窟内に足を踏み入れようとする者の心が知れない。

「もしかして、洞窟で何か嫌な出来事でもあったのかな?」

「ええ、まぁ……」

「そうか……まぁ、人がどう思うかは勝手だろうからね。
 さて。話はこれくらいにして、それじゃ行こうか。ああそれと、足元に注意して降りてね。特に滑り易いというわけじゃないけど、一歩でも踏み外したら底に真っ逆さまだよ」

 もう洞窟の話題から興味が削がれたのか、特にアレンの過去について言及されるようなことはなかった。篝火を片手に先導し始めたメルゼの背を一瞥してから、アレンは傍らに佇む幼馴染へと歩み寄り、そっと手を差し伸べた。

「……俺たちも行こう。な?」

「……」

 既に談義を終えているにもかかわらず、アレンは依然としてクレアの顔を直視することができない。彼女もまた俯いたまま微動だにせず、決してその面持ちを見せようとはしない。アレンは所在なさげに宙を彷徨う己の手を凝視し、彼女もまた差し出された手を一向に取ろうとはしない。
 これが単なる意地の張り合いならば、まだアレンにも取り入る隙間があった。アレンの方から折れてしまえばいいだけの話である。だが、現状はそれほど生易しいものではない。

「……!」

 互いを取り巻く静寂を破り去ったのは、やおら伸び迫った白い柔手だった。このままでは埒が明かないと踏んだのか、クレアの手はアレンの掌に添えるように触れ、次いで確かな握力を伝えてくる。だが、やはり無言のままなのは変わらないようで、それ以上の挙動を見せることはなかった。
 一貫して黙然たる態度を取り続けるクレアを横目に、アレンは沈鬱な溜息を漏らした。彼女に不貞を働いたわけでもなければ、何か機嫌を損ねるようなことをした覚えもない。にもかかわらず、この仕打ちは不当に値するのではないか。
 やはり、先程の談義が原因なのだろう。でなければ、彼女がこうなってしまった説明がつかない。実際、彼女が押し黙るようになったのは、メルゼが会談を始めたときからだった。あの一幕を通して、彼女の心情に変化が訪れたのは間違いない。
 すぐにでも前のような心地良い関係に戻りたいと――その望みを叶えるには、彼女の胸の内を知るより他ない。どうして無言のままなのか、そう問い質してしまえばいい。だが、たったそれだけのことがアレンにはできない。
 もし、言葉をかけたとして――またあの別人のような顔を見ることになったら。安らぎの寄る辺など見当たらない、どこか畏怖を駆り立てる微笑みを前にしたとして、以前のように語りかけることなどできるだろうか。
 そんな懊悩に苛まれるアレンは、ふと螺旋の底にて仄かな灯りを見咎めた。しばらく階段を下るうちに、最初は周辺の闇を払うだけに過ぎなかった小さな揺らめきは、やがて分厚い鉄扉の全貌すらも照らし明かした。

「……この扉の向こうが、総長の仰っていた地下室なのですか?」

「うん。見た感じは立派だけど、室内はそれほど広くはないよ」

 メルゼは懐から再び鍵を取り出し、厳重に施錠されていた錠前に挿し込む。がちゃり、という開錠音と同時に錠前を戒めていた鉄鎖が解け落ち、重々しい金属音を螺旋内に反響させる。そして錠前を床に放り投げると、あろうことか背後に控えるアレンたちの助力を仰がずに、彼はたった一人で相当の重量を誇るであろう扉を押し開けてのけた。彼の細腕に秘められた恐るべき腕力に思わず驚嘆しかけるが、彼もまた総長職に座る前はアレンと同じように修練生時代を経験した人物である。鍛錬は怠らないよう常日頃から心掛けているのだろう。

「さ、二人とも入って。話の続きをしよう」

「……はい。それでは、失礼します」

 一礼を述べ、室内に足を踏み入れたアレンは、その瞬間、視界の端で鈍色の残光が散るのを見た。その刹那の閃光が刺突剣の輝きであることを悟ったのは、喉元の手前で制止する鋭利な切っ先に気付いた後だった。

「な、っ……!」

「――動くな。僅かにでも身じろぎしようものなら、貴様の首を刺し貫く」

 先の剣技の冴えに劣らぬ、凛冽なる寒気を含んだ声音の主は、驚いたことに女だった。瞬刻に達せんとする刺突を披露してのけた女人は、底冷えのする切れ長の双眸でアレンを射竦めつつ、続けざまに誰何の問いを浴びせる。

「貴様、何者だ? 名乗れ」

「……アレン・ルーベンス…………です」

「その制服は我が訓練団のものだな。施された赤の刺繍……下級修練生の所属の者だな?」

「はい。下級所属の修練生、です……」

「そうか。下級修練生アレン・ルーベンスよ。ここは貴様のような柔懦な者が足を運ぶような場所ではない。貴様がどうやってここに来たのかは知らんが、今なら見逃してやる。ここで見たことはすべて忘れると約束し、そして早々に立ち去れ――ぇ?」

 鋭い諌言が不意に勢いを欠き、一瞬にして凛然たる気勢を失する。明らかな敵意に歪んでいた眼差しは一瞬にして羞恥の相に取って代わり、そんな使い手の情動を汲み取ったわけでもあるまいが、一切の淀みなく中空に据えられていた剣先もまた微かに震えている。
 もはやアレンへの関心はとうに失せたと言わんばかりに、それまでの半ば恫喝めいた凄みはどこへやら、女は恥じらいに双肩をわななかせながら、驚嘆の入り混じった眼差しでアレンの背後を睨み据える。

「メ……メルゼ!? お前、隠れていたのか?」

「……隠れていたとは酷いなぁ、ミーシャ。僕、ずっとクレア君の後ろにいたのに」

 片や馴れ馴れしい言葉遣い、片や相も変わらず微笑み交じりの気軽な物言い。どちらも口調に一切の遠慮がない。アレンの肩越しを挟んで交わされた堅苦しさとは無縁の会話の応酬、そして互いに名を呼び捨てあうほどの気安さから察するに、どうやら眼前のミーシャなる少女とアレンの背後に立つメルゼは共に親しい間柄であることが窺い知れた。

「……メルゼ。いるならいると言ってほしい。そうやってお前は後々になって反応を返すから……」

「お説教は後にして、とりあえずアレン君を解放してくれないかい? 彼は僕が引き入れた新しい同志なんだ。これから行動を共にする以上、余計な反感を買わないようにちゃんと遇してあげてほしい」

「何っ!? また私に黙って同志に引き入れたのか? ――あのな、メルゼ。どうしてお前という奴は毎度毎度、秘書である私に一言の相談もなしに勝手なことをするんだ。既に済んでしまった事とはいえ、真っ先に私に報告をするのが筋だというのに……お前の存在に気付いていなければ、危うく同志を骸にしてしまうところだったぞ」

「確かに君の意見を仰ぐという方法もあった。けど、事態は一刻を争っている。それは君とて承知しているだろう? ましてや君に相談したら緻密な打ち合わせから入ってしまいかねない。以上の理由から、僕は独断で動いた」

「……。確かに理屈としては最もだが、だからと言って事後報告は感心しないぞ。……まぁ新しい同志の勧誘に免じて、今回だけは咎めを無しにするがな」

 ミーシャは呆れ果てた溜息を漏らし、おもむろに刺突の体勢を緩めた。ようやく殺気の剣から解放されたと知るや、やや遅れてアレンの背中に冷や汗が滲む。
 速い。ミーシャの、彼女の繰り出す刺突は、もはや洗練の度合いを遥かに超えている。
 彼女の刺突に抗し得る術はあった。だがアレンは咄嗟に身構えることはおろか、腰に携えた得物の柄に手を伸ばす暇すら与えられないまま、目睫に迫る一撃を前に木偶のように立ち尽くすだけだった。アレンの気の緩み、その僅かな隙を突いた一瞬の不意打ち――これほど圧倒的な力の差を見せつけられては、どんな言い訳を並べ立てようとも無意味だった。

「……すまない。アレン・ルーベンスよ。先程の無礼、すべては私の不注意が招いた結果だった。それについては弁解のしようもない。メルゼの至らなさも含めて、どうか許してほしい」

「いえ。見るに堪えない醜態を晒してしまったのは、むしろ私の方です。どうかお気になさらずに」

「……純粋だな。いや、実に私好みだ」

 先の真摯な謝意から一転、喜色に微笑むミーシャの声音に嘲りの陰はない。むしろ称賛の念さえ感じるほどだ。アレンの慇懃な態度を気に召したところを見る限り、いかにも堅物めいた言動が目立つ彼女は、どうやら他人の人柄に対する関心もまた、厳めしい類を好むらしい。

「既に非礼に及んだ私が言うのも可笑しな話だが、君は実に礼儀正しい。そういった純真な誠実さは利点であり、何よりも万人から好まれる要素の一つだ。……どこぞの軽薄な総長にも見習ってほしいものだがな。
 ともかく歓迎する。同志アレン・ルーベンス。もう名の方は知れていると思うが、私はミーシャ・オルコットと言う。立場上はメルゼの〝秘書〟に当たる。今回の一件に収束させるためにも、お互いに力を尽くそう」

「はい。しかし……いかな同志とはいえ、私は一介の下級修練生に過ぎません。目上の立場であるミーシャ秘書に敬意を払いこそすれ、同格の扱いを私が受けるのは好ましいことではありません。どうか私のことは、アレンと呼び捨てにしていただきたい」

「ふむ、どうやら君は思った以上に謙虚らしいな。君がそう望むのなら是非もないが、あくまで立場上の話であり、本質的に言えば私たちは共に騎士の道を歩む者同士。常日頃ならまだしも、切迫した事態での上下関係など無意味に等しい。くれぐれも忘れないでほしい」

「はい。肝に銘じておきます」

 互いに結託の握手を交わしたところで、それまで傍観に徹していたメルゼが口を挿む。

「さて。互いに自己紹介をしたみたいだし、そろそろ彼も交えて、これからのことについて確認をしておきたいんだけど……構わないかな?」


 仄暗い地下室には、その場にそぐわぬ優雅な芳香に満ち溢れている。その芳醇な香りの元を見遣れば――四つの茶器の隣には、紅茶の香りを立ち昇らせる壺状の容器。
 つい先程、あわや一悶着を招きかねない出来事に見舞われたばかりである。それにもかかわらず、わざわざ話し合いの場に茶器一式を用意するとは――一切の事情を知らぬ者が見れば、これから茶飲み話でも催されるのかと思うことだろう。無論、今回の一件に召集された者たちの正気を疑うわけではないが、こうして茶を交えながら談義を交わすというのは、いささか人命の重みを軽視しているように思えてならない。
 おそらく緊迫感に追われながらの談義になるだろう――そう固く身構えていただけに、こうした暢気な雰囲気には少なからず違和感を抱いてしまう。思わず呆れ果てた溜息を漏らしそうになり、アレンは余計な雑念を振り払う。
 何はともあれ、こうして一件に関わることになった手前、非礼に値する行動は慎まなければならない。

「……さて。役者も揃ったところで、そろそろ計画を詰めていこうか。一気に確かめていくから、細かい質問はその後にお願いするよ」

 そう本題を切り出したメルゼに、アレンを含めた残りの三人が頷き返す。

「まず最初に計画に参加する人数についてだけど……これは僕を筆頭にした総長の枠組み、そこにアレン君を含めた計八名。そして他勢力は捜索部隊一二名とコリック統括長率いる哨戒部隊五〇名。およそ総勢七〇名にも及ぶ大規模な複合部隊として活動することになる。大人数での行動になるのは必須だから、指揮系統の混乱が起きないように指揮命令は各部隊の代表と見直し次第、それぞれの部隊長から伝える予定だよ。
 そして肝心なのは、本件の内容について。まず、この一件を解決するために必要なことは一つだけ。即ち、侵入者を捕えるという一点に尽きるわけだ。この捕縛方法については、今のところ二つの方法が考慮されている。多勢の力を以て捕縛するか、あるいは死なない程度の手傷を負わせた上で労せず捕えるか……前者は無傷、後者は多少の負傷は止む無しといった具合。どちらにせよ、こちらも無傷では遂行できないだろう。
 無論、侵入者は死に物狂いで抵抗しようとするだろう。もしくは隙を見て隠れ果せようとするかもしれない。仮に補足したとしても、先方に気付かれてしまっては意味がない。よって計画を円滑に進めるには、まずは少数で侵入者を補足、その次に精鋭が包囲、そして最後に確保というのが現時点での有効な策となっている。……ここまでで、何か質問はあるかな?」

「……一つだけよろしいでしょうか。指揮命令に関してですが、これは各部隊の代表が執るのですか? それとも、メルゼ総長が全部隊の指揮を?」

「残念だけど、それはできないんだ」

 問いを投げ掛けたアレンを一瞥してから、メルゼはかぶりを振る。

「通常、各部隊の指揮を執るのはあくまで各部隊の長のみ。僕が執るのは僕の下に集う部下だけ。ただし非常時のとき、その部隊の長の意向次第によっては指揮命令決定権を他の部隊に譲渡することもできる。いざとなれば僕が他の部隊に指揮を下すこともあるかもしれない。他の長が統べる部隊にあれこれとちょっかいを出すのは、正直なところあまり好ましい展開じゃないけどね」

 メルゼは紅茶で喉を湿らせ、僅かに間を置いてから話を再開した。

「ここからは部隊の振り分けについて話すよ。僕が率いる総長部隊は、主な指揮命令は僕、総長補佐役に秘書のミーシャ、護衛に四名……残りの二名、つまりアレン君とクレア君は他の部隊と連携して侵入者の捜索に協力してもらうよ。本来なら万全を期して数名ほど君たちの側に振り分けたかったけど、それに関しては……まぁミーシャが頑なに許してくれなくてね」

「私とて、まだ経験不足の下級修練生の二人を捜索に加えることに悩んだ。だがメルゼ、お前が倒れたら部隊の指揮命令は崩壊する。僅かな綻びを生じかねない可能性はなるべく排除しておきたいのだ」

 そう応じるミーシャの語調には、微かながら苦渋の色が垣間見えた。
 下級修練生二人の命と、指揮の長たる一人の安全の保障――純粋な数の重みでは前者、だが有能性においては圧倒的に後者。たかだか二人分の命を護るために貴重な要員を割き、侵入者に介入の隙間を与えるなど愚の骨頂に等しい。どちらを優先すべきかと問われたら、アレンも彼女と同様の結論に至っていただろう。

「さて、次は捜索部隊だけど……これに関しては、特に取り決めがないんだ。僕が選抜した精鋭によって編成されているから、指揮命令は僕自身にある。彼らには侵入者の捜索に力を入れつつ、状況に応じて他部隊と行動を共にするように命令済みだよ。アレン君たち、そして哨戒部隊を補佐する……言ってしまえば遊撃部隊のようなものと思ってくれればいい。
 最後に哨戒部隊。主にこの部隊が、アレン君たちと共に動くことになる部隊だね。主に警戒を巡らせる任務だけど、今回ばかりは本職と他の部隊の仕事を兼任してもらうことになるだろう。哨戒部隊の本来の役割である〝警戒任務〟と、捜索部隊の〝捜索任務〟――その両方を兼ね備えた、均整のとれた中間的な存在になってもらうつもりだから、決して気を抜かないようにね。追う側の捜索部隊と違って、哨戒部隊は迎え撃つ側……常に後手に回り続けることを念頭に置いてほしい。……このまま先を続けるけど、何か不明な点はあるかな? アレン君」

「いえ、特にありません」

「そうか。なら最後に……計画の決行日についてだ。アレン君を除いた二人はもう知っていると思うけど、実行は今日の深夜。途中から加わったアレン君には申し訳ないが、これ以上の先延ばしは多大な犠牲を生じかねないため受け入れることはできない」

 今夜――以前から綿密な打ち合わせに参加していた者はともかくとして、つい先程与したばかりのアレンからすれば随分と急に思えてならない。侵入者と刃を交える心構えはあったとしても、この体感の差異ばかりは補い切れるものではないが――それは是非もないこと。元より自ら望んで同志となった身、今更弱腰になっていたのでは示しがつかない。

「その間、ミーシャは各部隊との連携について最終確認した後、その進捗具合を僕に報告するように。クレア君は……そうだね、君は怪我の回復に努めてほしい。病室には戻らず、この場所で待機していてほしい。メデリック医師には僕から話しておこう。幸い、ここには毛布もある。
 さて。おそらく、この計画は騎士訓練団創設以来の大規模なものとなるだろう。侵入者は相当の手練れ、どうかそれを肝に銘じた上で計画を遂行してほしい。――以上、これにて終了とする。ご苦労だった」

 矢継ぎ早に解散の言葉を残し、メルゼはミーシャを伴って地下室を後にしようとした。――が、アレンは見逃さなかった。ほんの一瞬ではあるが、こちらに向けられた心中の見透かせぬ眼差しを。
 彼が去り際にアレンに一瞥を寄越したのは、果たして如何なる思惑があってのことなのか。あるいは――単にクレアの付き人として傍に居続けろ、という意味が込められていたのか。どちらにせよ、アレンが部屋を去る機会を見逃すよう仕向けたのは間違いない。
 己の勘繰り深さを逆手に取られたことに気付いたときには、既に部屋に残されたのは二人だけとなっていた。



[38832] 序章[8]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2013/12/29 20:58

 空気が、重い。
 たった二人の同席者が立ち去っただけで、こうも居心地の悪さを感じてしまうものなのか。ゆらりと茶器から立ち昇る、紅茶の匂い立つような気品に満ちた香りすらも、この室内に蟠る重圧を和らげるには至らない。単に茶を嗜む程度では、この重苦しさは誤魔化せるものではない。
 未だ無言のまま座るクレアを一瞥する。彼女は眼前の茶で喉を潤すことはおろか、傍らに用意されている毛布に手を伸ばす所作すら見せようとしない。その不動を思わせる無言の程が、ますますアレンの焦燥を駆り立てる。
 こういうとき、どうすればいいのだろうか。
 素直に謝るべきなのだろうか? だが、アレンには諌められる非はない。何の意味もない謝辞を受け取ったところで、むしろ彼女の方が困惑してしまうのではないか。その前に、ただ一方的に頭を下げるのは多少なりとも癪を感じる。
 いっそのこと、思い切って話しかけてみるのも手かもしれない。どうせ至るようにしかならないのだ。このまま悩み続けるよりは幾分か心が軽くなるだろう。話題の一つや二つを交えれば、きっと彼女も興味を――いや、それ以前に反応すら示さなかったら?
 もはや息苦しさすら覚え始めた頃、ふとアレンは微かな軋みを聞き咎めた。反射的に音の出所を見遣り、こちらを見据えるクレアと視線が交わる。今まで窺い知ることを躊躇い続けていただけに、彼女の惑いを帯びた仄白い顔を見た途端、アレンは気まずさよりも先に言い知れぬ安堵感を得た。
 何か言わなければ。降って湧いた好機を物にする、またとない状況であるというのに――いざというときに限って、かけるべき言葉が見つからない。どう切り出して、どう打ち解け合えばいいのだろうか。

「ク、レア……」

「ぁ、……その…………アレン……あの、ね」

「え、あぁ。何だ?」

 普段の毅然たる彼女らしからぬ、恐る恐るといった物言い。こちらを凝視する眼差しは、まるでこちらの顔色を窺い見るよう。その妙な弱々しさに戸惑いつつも、アレンは次に続く言葉を待つ。

「今まで黙っていて、ご、ごめんなさい……」

「……え?」

 まったく予想だにせぬ謝辞に、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。その呆けた様子のアレンを見て、果たしてクレアはどういう意味で捉えたのか。

「いえ、その……私が本当のことを隠していたから、あなたは怒っているんじゃないかって思って。だから頃合いを見て話そうと思っていたけど、なかなか言い出す機会がなくて……そうこうしているうちに……言うに言えない雰囲気になっていって……」

 最初は必死だった語調も、言葉を紡ぐたびに弱々しい響きを伴い始める。彼女の弁明を聞くに従って、ようやくアレンは彼女の言わんとしている意味を解するに至った。唐突な謝罪も何もかも――すべて、アレンと同じ心持ちだったが故。
つまるところ、互いに引き際を見誤っただけの話だったのだ。
 何とも滑稽な話である。知らず知らずのうちに口端が緩む。なるほど、それなら――クレアの態度にも納得できる。

「え、あの……えっと、私が本当に言いたいのはそういうことじゃないのよ。えぇと、要するに……」

 アレンが浮かべた微笑に秘められた想いを、またしてもクレアは別の意味として受け取ったらしい。よりいっそう口調に慌ただしさを滲ませ、ついには身振り手振りを使って弁明を重ね始めた彼女を、アレンはかぶりを振って制した。

「皆まで言わなくてもいい。……俺もお前と一緒の気持ちだったから、お前のもどかしさが理解できる」

「ぇ……? あの……ということは……私たちって……?」

「ああ。お互い、変に気を遣っていただけ。お相子だ」

「……何だか必死になっていた私が馬鹿みたいね。ふふっ」

 途端、クレアの沈んだ面持ちに喜色が戻る。ようやく蟠りを解消することができたのだ。多少の誤解を生みはしたが、その懊悩の苦しみなどに比べれば――安らぎを与えるこの微笑に勝るものはない。

「まぁあれだ。とりあえず、これで仲直りってことで」

「ええ、そうね」

 クレアは慎ましやかに笑い、すっかり湯気の消え失せた紅茶を口に運ぶ。

「あなたの言う通り……結局、私たちは似た者同士なのかもしれないわね。互いを気遣うあまり、逆にすれ違ってしまうところとか。あるいは、その真逆もまた然り。こういう経験するたびに、つくづく昔からの馴染みだと実感するわ」

「そりゃそうだ。餓鬼の頃から一緒だったからな」

「けど、不思議ね。たとえ子供のときから一緒でも、ときどきあなたの考えていることが解らなくなるときがあるわ。もしかしたら……私たちの考えている以上に、人の関係というのは危うい状態で成り立っているのかもしれないわね」

 どこか達観したような物言い。なるほどクレアらしい考え方である。容姿に若干のあどけなさを残す彼女だが、その大人びた言い分には確かな〝重み〟がある。仮に老輩に同じ問いを向けたとして、果たして彼女と同様の答えを返せるかどうか。これも騎士の家系に生まれたが故の、幼少からの教育の賜物なのだろうか。
 歳相応の無邪気さを振る舞う子供に混じった、明らかに周囲とは違う雰囲気の少女――幼少のアレンが抱いた彼女に対する第一印象は、今も昔もまったく変わっていない。ときおり垣間見せる悟性を秘めた言動の数々は、おそらく彼女の気質に依るところが大きいのだろう。あるいは――単に、アレンの先入観がそう思い込ませているだけかもしれないが。

「お前の言う通りなのかもしれない。俺もときどき、お前の考えていることが解らないときがある。……まぁ大抵は馬鹿馬鹿しい、子供が悩むようなことで頭を悩ませているわけだが」

「そうね。……ねぇ、アレン。話は変わるけど、一つだけ訊いてもいいかしら?」

「何だ?」

「どうしてあなたは、わざわざ私の付き人になってまで侵入者を追い掛けようとするの? 最悪の場合、命を落とすかもしれない。それでなくたって厳しい戦いになる。なのに、何があなたをそこまで駆り立てるのか、もしよかったら教えてほしいわ」

 クレアの言うことはもっともである。彼女の言う通り、今回の一件に関わることは即ち自殺行為に等しい。入団して二年と経たない若輩者、それも卓越した才能に恵まれたわけでもないアレンが、殺意を剥き出しにして迫り来る敵に立ち向かうのだ。いかな数多の猛者の支援があるとはいえ、それでも危険なことに変わりはない。
 それでも――

「俺は、敵が許せない。同胞の命を奪う不埒を見過ごせない。だから戦う」

「それで死んだとしても、後悔はない?」

「ない」

 何を迷う必要があるのか。何度問われたとしても、アレンの覚悟に罅が入ることはない。

「……分かったわ。あなたがそこまで言うのなら、もう訊かない」
 アレンが頑なに答えを変えるつもりがないのは、無論クレアとて理解しているのだろう。彼女もまた余計に問うことはしなかった。ただ――その眦に微かに滲む涙が、アレンの胸を締めつける。
 クレアは涙の粒を拭い取り、次いで取り直したように言う。

「……お互い、無事に生き延びましょう。そうじゃないと、またくだらない喧嘩ができないからね。――ね、私と同じお子様さん?」

 先程の重々しい問いは何処へやら、もう調子を取り戻したのか、意地の悪い微笑を浮かべるクレア。その〝いかにも〟子供めいた言動に苦笑しつつも、アレンもまた同じように微笑み返した。――もちろん、最大限の意地悪さと、それを上回る決意を込めて。



[38832] 序章[9]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/03 21:09
 ふと窓を眺めると、既に外は夜の帳に包まれていた。
 鬱蒼と生い茂る木々の合間から差し込む仄かな月明かりが、よりいっそう不気味なまでの静寂を煽り立てている。まだ草木も眠る深い頃合いではないが、それでも蟠る暗闇に潜む侵入者の姿を見出さずにはいられない。
 未だ相見えぬ敵はどこに身を隠し、こちらの出方を窺っているのだろうか――そんな思考を巡らせつつも、アレンはときおり鼻孔を突く悪臭に辟易していた。古書特有の風情に満ちた薫りならまだしも、それに伴うようにして宙を漂う埃と黴臭さはどうにかならないものか。
 ――君たち二人は、すぐに僕のところに来てくれ――
 メルゼから招集が下ったのは、つい先程のことだった。
 その任は直に聞いたわけではない。伝令役のミーシャが地下室を訪れ、メルゼの言伝をアレンたちに伝えたのである。彼女から聞いたところによると、メルゼの仕事は片付いていないらしく、それ故に事前に二人を呼び出しておいてほしい、というものだった。彼女もまた仕事を終えていないらしく、アレンたちを指定の場所に送り届けた後、慌ただしそうに持ち場に戻っていった。
 そういった成り行きを経て、いまアレンたちは再び総務室の長椅子に座している。

「……アレン? どうしたの?」

 その声に我に返れば、傍らには不思議そうにこちらを覗き込む幼馴染の顔。

「いや、何でもない。ただ……今夜の作戦、どうなるのかと思ってな」

「心配? それとも恐い?」

「恐いわけじゃないが……それでも、確かな緊張はある。成功か、否か……どちらにしても、今夜の次第によって今後の方針が決まるのは間違いない」

 アレン個人としては、そうなる前に侵入者を捕えるのが最善だと思っている。これはアレンの見立てだが、計画が順調に進むかどうかは怪しい。多く見積もっても半分程度だろう。敵が状況を撹乱しようと動き出すことも含めれば、計画遂行の成功は限りなく低率へと減ずる。そもそも、事の運びに任せられるほど今回の一件は甘くない。
 計画開始時に起こり得る可能性もそうだが、こうしている今も危険なことに変わりはない。必ず襲われないという保証はないのだ。建物から一歩でも踏み出した瞬間、そこは既に侵入者の領域である。こちらが夜目に慣れるまでの僅かな間、その致命的な隙を狙われたら堪ったものではない。最悪の場合、一撃で殺られることもあり得る。

「ついでに言うなら、少なからず犠牲者が出るのも覚悟しないとならない。そうなったら隊の陣形は崩れるだろうし、何より敵に入り込む隙間を開けることになる」

「そうね。少なくとも隊が内側から崩壊することだけは避けたいわ。もし陣形の一角に綻びが出たら、その場で即座に陣形を組み直す必要がある。臨機応変を心掛けたいところだけど……こればかりは隊の長が決行直前に何かしらの形で説明するはずよ」

「できれば、陣形が崩れるのだけは起きないでほしいんだがな……」

 仮に陣形崩壊を狙うにしても、まずは堅牢な陣形に致命的な綻びを生じさせなければならない。いかな侵入者とて、まさか大人数の猛者を相手取ろうと考えてはいまい。どれほど腕に覚えのある武人であっても、一気に複数の敵を捌き切るなど不可能である。己の腕に余程の自信があるなら話は別だが、少なくとも侵入者はそういった蛮行に及ぶ気はないだろう。
 最初の犠牲者となった修練生はともかくとして、クレアは単独行動中に不意を突かれて負傷した。そのどちらも原因は不意打ちによる一撃、あるいは執拗な虐殺。未だまともに相対した者はいないが、侵入者は正面切っての勝負を仕掛けるつもりは毛頭ない。侵入者は奇襲による短期決着を好んでいるのではないか、と――そう思えてならないのだ。
 無論、単なる推論である。根拠の一切を排した憶測に過ぎない。
 無駄に戦いを長引かせるよりは、一気に勝敗を決した方が都合がいい。増援を呼ばれる心配はなく、ましてや不意打ちともなれば大半は一撃で終わるだろう。逃走の際もある程度の余裕を持てる。
 だが――果たして本当にそうか?
 二度に亘って短期決着に拘り続けたのは、単に効率を重視してのことか? 
 手っ取り早く殺すことを突き詰めた末の方法ならば、まだ納得の余地はある。侵入者は孤立無援。短期を以て制するのは理に適っているだろう。それ以前に、未だに敷地内に身を潜めていること自体が不可解なのだ。
 たった二人に凶刃を揮った程度では足りないということか?
 やはり騎士階級に恨みを抱く者の仕業だろうか。片っ端から騎士見習いを屠り殺し、己の騎士に対する私怨を晴らす。それが動機だとしたら無差別殺傷に及ぶのも理解できるが、それは必ずしも凶行になり得ない。もし真に狂気に駆られているのだとしたら、何故こうも巧妙に隠れ果せる必要がある。それ以前に、騎士見習いを圧倒する実力を有している時点で只者でないことは明らかである。
 いや、その前に……どうして殺すことに拘る?
 もはや殺すかない。そうでなければこの憎しみは報われない。そんな短絡的な結論に至るほど憎悪しているのだとしても、今回の侵入者の手口は――ある一部分を除いて――手際が良すぎる。あくまで虎視眈々と、ただひたすらに来たるべき機会を待ち続けている。加えて現状を見定める冷静さも持ち合わせている。これほどの狡猾さを、ただの乱心者が備えているわけがない。
 ――やめよう。これ以上は考えるだけ無駄だ。
 難解の極みにある事態を纏め上げるには、アレンの思考では如何ともしがたい。
 侵入者の思考を推測したところで、結局のところ正否は不明のままである。よしんば敵の手の内が明らかになったとしても、それを覆すだけの奥の手が残されていないとも限らない。先を見通すに越したことはないが、それはあくまで現状の範疇で想定し得る事柄だけだ。つまるところ、より確実に侵入者の素性を余さず知るには当人を捕える他ない。

「……ねぇ、アレン」

「ん……何だ?」

「メルゼ総長の話が終わったら、私からも少し大事な話があるわ。なるべく、あまり時間は取らせないようにするから……構わないかしら?」

「ああ。別にいいぞ」

「そう。……ありがとう」

 小さく微笑むクレア。一瞬、クレアの面持ちに昏い影が差したように見えたのは――単なる目の錯覚ではあるまい。これでも九年の付き合い、共に過ごした幼馴染の些細な変化を見間違うはずがない。――が、その事柄について問い質すのは気が引けた。
 最終作業を終えたメルゼたちが戻ってくる頃には、既に話題の種は尽き果てていた。

「やあ、二人とも。長らく待たせて申し訳ないね」

「いえ、お気になさらず。……それで、私たちを呼び集めた理由とは何でしょうか?」

「うん。それについて何だけど……君たち二人を呼び集めたのは他でもない、今回の作戦に際して、事前に武具の類を渡しておこうと思ってね。既に自用の武具があるクレア君はともかくとして、アレン君の得物が木刀というのは心許ないからね」

 そう言うや否や、メルゼは背後に控えるミーシャを一瞥する。その無言の目配せが合図だったのだろう。ゆっくりとアレンの元へと歩み寄ったミーシャは、その手に持っていた古めかしい木箱を恭しく差し出した。

「今回の作戦に際して、特別に蔵の新品を借り受けたものだ。開けてごらん」

 そう促されるままにアレンは箱を開け、その中に丁寧に収められた甲冑一式を検める。
 兜、胸甲、腕甲、草摺、足甲――すべてが徹底的に磨き上げられた鋼鉄板の輝きは、相当に腕の立つ鍛冶師が仕上げた紛れもない一品。厚みを持たせたこの装甲なら、致命傷を防ぐこともできよう。ただの一つも関節の動きを阻害する装飾が施されていないことからも、使い手の行動に支障をきたさぬよう入念な配慮がなされている。これもまた作り手の無言の心遣いというものだ。
 更に好都合なことに――甲冑の見た目の流麗さとは異なり、その重量は本来の甲冑よりもいささか軽いのだ。刃をも防ぎ得る頑丈な作りに、なおかつ動作を損なわぬ軽装。これほどの上質な甲冑を身に纏うことができることに、アレンは密かに言い知れぬ感動を覚えた。
 だが、そんな暇など与えられなかった。次いで手渡された鞘に収まった剣に、またもアレンの胸中を歓喜の色が染め上げる。

「これも、蔵から借り受けた物ですか?」

「ああ。その剣もまた、さっきの甲冑と同じく蔵に納められた品の一部だよ。何なら試しに抜いて確かめてみるといいよ」

「……いいのですか? 蔵への納め物なのでは?」

「構わない。僕が許可するよ。それに正直なところ、僕も実際に見てみたいんだ。それは確かに無銘の献上品だけど、なかなかの業物と聞き及んでいる品らしいからね」

 最初はメルゼの思わぬ提案に困惑したものの、それ以上にアレンの騎士としての滾る心が抑えきれなかった。謝意を述べるように頷いてから、アレンは緊張に震える手を柄に添える。
 そして――抜剣。
 涼やかな鞘鳴り。次いで徐々に露わになる刀身。その凛冽なる刃の輝きに、我知らずアレンは息を呑み、その場に居合わせた残りの者もまた魅入るように長剣を凝視する。その得も言われぬ美しさたるや、単なる名も無き献上品であると忘れてしまうほどであった。
 今まで本物の剣に触れなかったわけではない。教官の指導の下、何度も手にして確かめた。
 無論、そのときの喜びは堪え難いほどのものだった。だが先程の瞬間は、誰に教えられて抜いたわけではない。自らの意志で鞘から抜いたのだ。
 その剣は、以前までアレンが親しみ慣れていた木剣などではない。手に沈み込む重みも、紛い物とは比べ物にならぬ刀身の鋭さも――すべて〝斬る〟ことを念頭に置いて鍛造された鋼の塊。馴染み深さとは異なる、人を殺めるための刃。
 その冷ややかなる事実をまざまざと理解して、アレンは浮かれていた心を戒めた。自らもまた騎士として馳せ参じる身。これより追い立てる敵を前にして、以前のような慢心を生むわけにはいかない。
 何より今のアレンには、支えなければならない大切な人がいる。
 掛け替えのない命を護るために剣を執る――一介の騎士見習いとして、これ以上の使命が他にあろうか。

 作戦決行まで、あと僅か。




[38832] 序章[10]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/03 21:08
「――それじゃ。用も済んだことだし、僕たちは戻ることにするよ」

 そう切り出したメルゼに、思わずアレンは武具を検める手を止めた。

「……もう戻られるのですか?」

「うん。もうアレン君には武具を渡したことだし、これ以上ここにいる必要はなくなったからね。すぐにミーシャと一緒に地下室に戻って、幾つか残っている部外の仕事を終わらせなくちゃならないんだ」

 アレンが武具をあらかた検め終わるのを見計るためだけに、わざわざメルゼはこの場に残り続けたのだろう。つい先程一仕事を終えたばかりにもかかわらず、まだ残りの案件に取りかかろうとは――彼の人を食ったような言動はともかくとして、彼にも随分と真面目な一面があることには少なからず感心した。

「君たちはこのまま残って、いつ緊急招集がかかってもいいように準備を済ませておいてほしい。作戦決行の直前にはミーシャに呼びに来させるから、くれぐれも廊下を出歩いたりしないように頼むよ」

「はい。了解しました」

 アレンが頷き返したのを見て取るや、メルゼはミーシャを伴い部屋を出て行った。彼らの姿が扉の奥に消えたと同時に、アレンは再び甲冑を検め始めた。
 アレンが一年の修練過程に於いて学んだのは、何も基本動作を念頭に置いた初歩の剣技だけではない。体術、馬術、座学など――およそ騎士に必要不可欠とされる基礎要素は一通り会得済みだ。一日の大半を費やして研鑚を積み重ねたのは〝剣技〟をおいて他にはないが、次いで修練経験が豊富なのは武具の〝調整〟である。これに関しては剣技と同等の重要性を誇ると、指導役の教官に幾度となく聞かされた。
 鎧は自身の命を繋ぎ止める命綱。それ故に些細な見落としは許されない。最後に命運を別つのは己の技量だけではない、その過程に至るまでの入念な準備にこそある。それを怠った者の行く末は――語らずとも既に解り切ったことである。
 各種装備に一切の違和感なし。長剣にも刃毀れの類は見受けられない――両手に染み付いた調整の技量を活かし、残りの作業も丁寧に進める。無論、ほんの一瞬たりとも気を緩めないよう心掛けながら。

「……もう、終わりそうかしら?」

「ん。そうだな……そろそろ終わりそうだ。どうした?」

「……いいえ、あなたの作業が終わってからでいいわ」

「そうか。もう少しで終わるから、適当に本でも拝借したらどうだ?」

「……そうさせてもらうわ」

 たとえ背後を振り向かずとも、その声の主は既に知れている。アレンの背後で書架を物色し始めた幼馴染に微苦笑しつつも、だがアレンの手際の良さは衰えることを知らない。そのままの手並みを維持しつつ、最後の確認作業へと取りかかる。

「……よし、終わったぞ」

「そう。分かったわ」
 
 結局、アレンが全作業を終えたのは、それから五分後のことだった。アレンの手が空くまでの暇潰し程度だったのか、最後にクレアは手にしていた書物の頁を指先で弄び、やがてそっと書架に戻した。

「で。何の用だ……ってのは、わざわざ訊くまでもないよな?」

「ええ。……さっきも言った通り、あなたに話があるのよ」

 先程互いに了解し切った事柄を、わざわざ確認する必要はなかった。

「どうする? なるべく部屋から出るなとメルゼ総長は言ってたが……どこかに場所を変えるか?」

「ここで充分よ」

「……そうか」

 そう口では答えつつも、アレンの内心は決して快いものではなかった。
 時折アレンの胸中を掠め過ぎる、些細な何か――その言い知れぬ違和感に、他ならぬアレン自身が困惑していた。この、何の前触れもなく突如として去来した引っ掛かりは、いったい何なのかと。
 以前――いやもっと昔に、同じような思いを抱いたことがあったのではなかったか。
 やおら長椅子に腰を下ろす。まさかクレアの隣で話を聞くわけにもいかず、そうなると必然的に対面する形にならざるを得なかった。むしろ向かい合った今となっては、互いに視線を交えながら話を聞くには丁度良い。

「……さてと。こうして差し向いに座ったはいいが、お前が言う話ってのは何なんだ?」

「そうね。……その前に、あなたは憶えているかしら? 昨日の朝、食堂で私が言いかけたことを」

「言いかけた? ――あぁ。確か国を変革させるとか何とかっていう話で……そういや、最後に何か言いかけていたっけな。それがお前の話と関係あるのか?」

「いいえ、より正確には違うわ。むしろ昨日の続きこそが、私の話そのものなのよ」

「と言うと?」

「そうね。私自身、何から話したものか迷うけど……強いて言うなら昔話かしら?」

「……? どういう意味だ?」

 筋道を立てて話すクレアにしては珍しい、随分と突拍子もない話題だった。アレンは眉を顰めた。彼女の言う〝過去〟が、果たして今の話にどう結びついているのだろうか――それが取るに足らない無意味な疑問であることを悟ったのは、彼女の口から発せられた信じ難い一言を耳にしてからだった。

「……クリフ」

「――ぇ?」

 今――彼女は何と言った?
 あまりの驚嘆に絶句するアレンを余所に、再びクレアは明瞭な声音で告げた。

「クリフ。……この名前を口にしたのは、かれこれ四年ぶりかしら」

「……っ」

 思わず浮き腰になりかけたまま、アレンは呆然と幼馴染の顔を凝視する。言葉にならない。もう、何と言えばいいのか――それすら判然としなかった。
 もう二度と耳にするはずがないと思っていた、とある男の名。それは彼女が誰よりも敬愛し、尊敬してやまなかった〝彼〟の面影の名残り。それ故に口にすることを禁じ、それ以降まったく口ずさむことすらなかった久しい響き。それが四年にも及ぶ沈黙を破って、よりにもよって彼女の口から語られたのだ。これに勝る驚愕が他にあろうか。
 そのときアレンは、ようやく悟った。胸中を過ぎる懸念の正体を。
 昔、確かにあった。彼女にまつわる事柄で、たった一度だけ味わった、かつてないほどの衝撃を伴った出来事が。
 クリフは名。姓はブランシャール。
 今は亡きその男こそ――クレアの父にして彼女の剣技の師であった。
 忘れるはずもない。あれほどの益荒男を、最期は華々しく戦場にて散ったという騎士の勇姿を、どうして忘れることなどできようか。どうして褒め称えずにいられようか。
 それ故に――ようやく絞り出した声は、未だ驚愕に震えていた。

「どうして、今になって親父さんのことを……?」

「簡単なことよ。父の死――それがあったからこそ、私は騎士になろうと志した。騎士にとって理想の世の中を、自らが身命を賭すに相応しい国へと変革させようと、そう強く望むことができた。それが、私の〝夢〟の形。
 私の話は、父という尊い存在なしには語れないものなのよ」

「……親父さんの存在か。お前の語る〝夢〟には、親父さんの意志も含まれているのか?」

「どうかしらね。父は騎士としての心胆を決して明かそうとしない人だったから。父が何を考えていたのか、それは私にも分からなかった。
 ……でも。父は騎士であることを誇りに思っている節があった。『自らが王の剣となることで民を護ることができるのなら、それは一人の騎士として、そして一人の人間として最も尊い生き方の一つだと思う』――父が私に語り聞かせてくれた言葉よ。それが父の本音であるかどうかは判らないままになったけど……ある意味では、これが父の意志に近いものだったのかもしれないわ」
 
 自身の父について切々と語るクレアを目の当たりにしたのは、アレンからすれば到底信じ難いことだった。
 今までクレアと父クリフに関する話を交わすことは稀にあったが、ここまで詳しい内容に及んだことはなかった。せいぜい生前の父の面影に触れるだけで、その生き様や在り方については言及することができなかった。まさか彼女の内輪話に踏み入るわけにもいかず、ましてや父を喪った哀しみを再び彼女に与えるわけにはいかなかったのだ。
 彼女もまた自ら進んで父の話題を出すことはしなかった。あくまで会話の流れ故に口にしたに過ぎない部分もあったが、それでもその際の彼女の心情は推し量るに余りある。――もっとも、これでも幼少の頃に比べれば幾分か立ち直った方である。実際、今でこそ平然と振る舞っている彼女だが、昔の彼女は、亡くなった父の話を誤って口にするだけで泣き出すことが多々あった。
 アレンは静かに腰を下ろす。

「親父さんの本当の気持ち、か。……思えばあの人は、いつも笑ってたな。見てるこっちが思わずつられて笑うくらい、いつも笑顔だった。そういや、よく俺たちの遊び相手になってくれたな」

「そういえば、そういうこともあったわね。よくあなたと私で、どちらが肩車をしてもらうかで言い争っていたわね。……ふふっ、今でも思い出せるくらい印象に残っているわ」

「昔はただ楽しいとしか思わなかったが、今になって思い返してみるとかなりの子供好きな人だったな。近所の奴らも妙に親父さんに懐いていて……まるで村全体が一つの家族みたいな感じがして、すごい居心地が良かった」

「そうね。子供だった私から見ても、父は子供に対して優しかったわ。……それと同じくらい母も愛していたけどね」

「そういや、相当の愛妻家でもあったな。お前の親父さんは。……まぁ何だ、それを奪うような真似をしちまったのは悪かったけどさ、お袋さんも悪い気はしてなかったんじゃないか?」

「さあ、どうかしらね。――案外、顔に出さないだけで、実は母も嫉妬していたのかもしれないわよ? 私の旦那様なのに、ってね」

 柔らかな微笑みを浮かべながら語るクレアの面持ちは、心なしか彼女の父の面影を彷彿とさせた。思い返せば、彼女の父であるクリフもまた、彼女のように見る者の心を絆す微笑みを湛えた人物だった。アレンの知る限りにおいて、クリフが唯一穏やかさを絶やしたのは――後にも先にも剣を執ったときだけである。

「まぁ子供好きの反面、騎士としての親父さんも凄かったな。……俺はお前に稽古をつけてる親父さんの以外、あの人の騎士の一面を見たことがなかったから、どれだけ強いんだろうと思っていたときがあった。
 ――けど、あの日。戦場に赴く親父さんを両親と一緒に見送ったとき、あの人は去り際もずっと笑っていた。あの人は……いや。あの人こそ、紛れもない本物の騎士だった」

「私も、父以上に素晴らしい人はいないと思うわ。よしんば父を遥かに超える高名な騎士がいたとしても、それでも私は父こそが真の騎士だと信じて疑わないでしょうね」

「……ああ、そうだな」

 自らも戦場に馳せる――それは、どれほどの辛さを当人にもたらすのだろうか。
 もう家族に会えなくなるかもしれない。大切な妻と娘を抱き締めることもできなくなるかもしれない。いくら自らの生き様を剣に見出したとはいえ、騎士とて人の身である。愛する者への想いを顧みずにはいられなかったはずだ。あの屈託のない笑顔の裏に、どれほどの別れ惜しさが渦巻いていたか知れない。その狂おしいほどの愛おしさに掻き乱されながらも、それでもクリフは笑って死地へと赴いたのだ。

「……何だか安心した気分だ。親父さんが亡くなってからというもの、お前はいつも塞ぎ込んでばかりだったからな……」

「そうだったわね。あのときの私はどうしようもない泣き虫で、あなたを困らせてばかりいたわ。騎士の志すら投げ捨てて、剣を執ること自体しなくなったときもあった。……でも、あなたは決して諦めなかった。ずっと私の傍にいて、慰めてくれた……」

「それは違う。俺はただ慰めただけだ。――あのときのお前は、ちゃんと自分で立ち直った」

 最愛の父を喪い、一時は騎士としての道も諦めかけて――それでもクレアは自力で歩き始めた。辛かったはずだ。寂しかったはずだ。父の死という事実がもたらす痛みが、幼い少女の心をどれほど苛んだか知れない。それは味わった当人にしか理解できない。
 だからこそ思う。その苦しみを受け入れた彼女は、本当に強い人なのだと。

「立ち直った、なんて大袈裟よ。あのときの私は、ただ父の死から目を背けた。最初から父の死をなかったものにして、それで自分自身を納得させただけよ」

「いいや、そうじゃなかった。……お前は知っているかどうか分からないが、親父さんの墓前に手を合わせたときのお前は、晴れ晴れしい顔だった。少なくとも、俺にはそう見えた」

 自嘲気味に笑うクレアの言を、アレンはかぶりを振って否定した。

「少しずつ笑うようになったお前を見て、俺は子供心ながらに安堵した。……もし俺がお前だったら、きっと立ち直ることなんてできなかった」

 当時のクレアが子供であることを差し引いても、父の死を懸命に耐え忍ぼうとしている時点で、それはもう単なる幼子の胆力ではない。明らかに父の死を理解し、その上で父の冥福に祈りを奉げていた。あれが覚悟の現れでないとしたら何なのか。

「だからどうってわけじゃないが……お前は強い。それは騎士としての腕前だけじゃない、もっと根本的な部分がしっかりしているからこそ、お前はお前のままでいられたんだと思う」

「……あなたにそう言ってもらえるのは嬉しいわ。それに久しぶりに父の話ができた。あなたに聞いてもらうことができなかったら、私は一生口にすることができなかったと思う。本当に感謝しているわ。
 ――それに。今になってこの話をしたのは、もしかしたら……私自身、不安に思っているところもあるからかもしれないわ」

「不安……今夜の作戦か? それとも――お前に手傷を負わせた侵入者に対するものか?」

「どちらもよ。けど……そうね。どちらかといえば後者の方が大きいわ。前も言ったかもしれないけど、私自身、決して油断していたわけじゃなかった。それでも傷を負ったのは、得体の知れない敵を前にして少なからず恐れを抱いたから……今ならはっきりと理解できる。
 私は父の話をすることで、自分の中にある余計な雑念を振り払いたかったのかもしれないわ……」

 傷を負った左腕を掻き抱き、クレアは窓を見た。夜闇を鋭く睨みつけるその瞳は、自らに痛みと恐怖を与えた侵入者への明らかな敵愾心に満ち溢れていた。が、それは一瞬のことで、こちらへと向けられた眼差しは平素と変わらぬ穏やかさを取り戻していた。

「もうこれ以上語ることはないわ。さて……終わるついでに、一つだけ訊いていいかしら?」

「何だ?」

「どうしてあの夜、敷地内に無断で出たのかしら? 私の知る限りでは、確か敷地内には徘徊禁止令が出されていたわよね。おまけに私に嘘をついてまで」

「……」

「知らないとは言わせないわ。負傷したとき、朦朧とする意識の中で確かにあなたを見た。周りの哨戒兵も見ていたはずよ。――ああ。ちなみに付け足しておくけど、もし下手に誤魔化そうとしたら許さないわ。憶えていないというのも論外よ」

「……ぅ」

 言い訳という最大の逃げ道を封じられ、思わずアレンは返答に詰まった。何をしたところで詰問から逃れるのは無理だろうし――それ以前に怒りに染まった眼差しを前にして、どう言い繕ったところで無駄だった。

「正直なところ、あのときの自分の判断は軽率だったと思う。自分から命を擲ちにいくに等しい行為だということも充分に理解していた。だからどうってわけじゃないが……その、お前には色々とすまなかったと思ってる」

「……」

「だから、その……な? お前としても言いたいことは山ほどあるんだろうが、ここはひとつ許してくれ。頼む」

「……もう一人で無茶はしないと約束できる? 嘘は吐かない? 何があっても絶対に単独で行動しない? 二度と私を心配させないと誓えるのなら、今回だけは許してあげるわ」

「ああ。もう、お前を不安にさせるようなことは――」

 言いさしたところでアレンは、クレアの頬を伝い落ちる一筋の滴の跡を見咎めた。それは紛れもない彼女の抑え切れぬ心境の発露であり、他ならぬアレンへと向けられた掛け値なしの親愛の情であった。アレンの我が身構わぬ行動そのものが、何よりも彼女の不安を掻き立てていたのだとしたら、それは痛恨の失態に他ならない。

「……させるようなことは?」

「――もうお前を不安にはさせない。誓う」

 わざわざ言い直す必要はなかった。ただ言いさした言葉を継ぐだけで充分だった。それでも口にしたのは――ひとえに、それが彼女のためであると理解したからである。

「なら、許してあげる。もう無茶なことはしないこと。……お願いよ?」

「……わかった」

 そう頷き返すと、ようやくクレアの泣き腫らした顔に微笑みが戻る。もうアレンが単独行動をすることはないと、おそらく彼女は信じて疑わないだろう。その純粋なまでの信頼をまざまざと感じる一方、アレンはひとつの確信を得つつあった。
 確かに彼女は強い。
 だが同時に、酷く脆い。
 強さと弱さ。相反する明らかな矛盾を抱えながらも、なおも彼女がこうしていられるのは、確かな心の〝拠り所〟があるからだ。それは彼女の愛する母か、あるいは亡き父の面影か。はたまた、アレンのように常に傍らにいる存在かもしれない。
 ――彼女の支えることができるのは、君しかいない――
 あのときのメルゼは、まさか彼女の脆さを見抜いていたのだろうか。単に怪我人として付き添うだけでなく、一人の人間の在り方を支えろと。それは当人ならぬアレンには想像することしかできないが、もしアレンの読み通りだったのだとしたら。もはや失笑するしかない。長年の付き合いだからこそ、誰よりも真っ先に気付いて然るべきはずなのに――否、むしろ身近にいたからこそ逆に気付けなかったのではないか。
 もしそうだとしたら、とんだ度し難いこともあったものだ。
 だからこそ。
 すべてを悟った今なら、彼女を支え切ることも叶うのではないか。
 なら、それを十全に成し遂げてみせよう。
 改めて意志を固め直したアレンは、ふと微かな靴音を聞き咎めた。徐々に近付いてくるそれは不意に部屋の前で止まるや、扉越しに聞き慣れた凛とした声音で告げた。それは誰あろう、ミーシャに他ならない。

「――二人とも。今すぐ準備を整えてくれ。そろそろ頃合いだ」



[38832] 序章[11]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/01/19 18:06

 約六分程度。甲冑というのは、こうも着終わるのに時間が掛かるのだろうか。
 初めて身に纏った甲冑は、思いのほか重々しいものだった。それがある程度の重量を排した特別性であることを差し引いても、双肩、双腕、双脚――あらゆる部位を頑強に包み込む圧倒感は紛れもない本物の証左である。
 もはや枷にも等しい鋼鉄の塊を纏いつつも、歴戦の騎士はぎこちなさを感じさせない身のこなしで戦場を駆け抜けるのだから、おそらく相当の武練を積み重ねたからこそ成せる芸当なのだろう。つくづく感心してしまう。
 アレンとて常日頃から鍛錬を重ねている身だが、それでも甲冑の重量感にはいささか困惑を禁じ得ない。幸いにも動作に不自由する程度ではないが、今まで制服姿で修練に励んでいただけに、その僅かな差異には否が応にも気付いてしまうのだ。こればかりは慣れるより他ないだろう。

「……身体にくるな。これは」

「そう? あまり重みは感じないわよ」

 甲冑の重みに思わず苦言を漏らすアレンを余所に、同じく甲冑姿のクレアは気にも留めない様子だった。さすがは騎士家系の出身だけあって、彼女の取り澄ました雰囲気には一片の偽りもない。どうやら彼女からすれば、甲冑の総重量など些細な要素でしかないらしい。
 思い返してみれば、彼女の甲冑姿を見るのはこれで二度目になる。その流麗たる姿形は既に目の当たり済みだが、その細部にまでは気が及んでいなかった。
 彼女の甲冑の各所に施された、緩やかに波打つ紋様。単なる武骨さだけでは物足りず、そこにささやかな華やかさを添えるために〝戦化粧〟と称して甲冑に装飾を施すのは珍しいわけではない。あるいは自らの意を込めた紋もまた然り。いずれにせよ、己の騎士道に対する敬意の現れであることに違いはない。――が、それを含めたとしても、彼女が纏う甲冑の装飾は多分に過ぎる。まさか騎士の何たるかを知る彼女ともあろう人物に限って、鎧の機能美を忘れることはないはずなのだが。

「……一つ訊くが、お前の甲冑は私物なのか? 俺のとは少し作りや飾りが違うみたいだが」

「いいえ、あなたと同じ蔵への納め物よ。今回の作戦に際して、同じくメルゼ総長から借り受けたのよ。細かいところに関しては、単に鍛冶屋の職人が独自に仕上げたのか、あるいは図面の通りに製造されたものなのかは判らないわ。それに、見た目とは裏腹に使い勝手はなかなかのものよ? 別段、動きにくいというわけではないもの」

「……なら別にいいんだ」

 これが彼女自身の〝特注品〟ならば、さすがにアレンとて口を挿まずにはいられなかったところだが、献上品ならば是非もない。納めの品であることを考えれば、過剰に過ぎる華美さ加減も納得できる。
 腰に吊り下げられた長剣、その柄にそっと指を添える。使い慣れた木刀の代替品として愛剣の座に据えられたにもかかわらず、その冷徹な感触にはこの上ない頼もしさを感じる。これもまた、アレンの気力が充溢しているが故だろうか。

「……っと」

 クレアは艶やかな亜麻色の長髪を両手で纏め上げ、口に銜えた長紐で手早く結う。兜の隙間から垂れた長髪が視界を遮らないようにするための前準備だろう。これより控える戦いを前にして、まさか化粧や見目を気遣う余裕などあろうはずもない。ひとたび騎士として戦場に臨めば、そこには華々しい騎士道の誉れこそあれど、女子供などという概念は存在しないも同然である。剣を執る者は皆、己の生き死にと誇りを賭した武人なのだから。
 無論、それはクレアとて弁えているのだろう。髪を結い上げた後の彼女の引き締まった顔つきは、もはや一人の騎士のそれだった。――ただ唯一、未だ腕甲に覆われていない剥き出しの左腕を除けば。薄らと包帯に滲み出た血は既に乾き切っているようだが、その痛々しさばかりは隠しようもない。

「……なぁクレア。お前、左腕の怪我は大丈夫か?」

「大丈夫よ。特に痛んだりはしないし、ちゃんと動かしたりもできるから問題ないわ。両手で剣を揮うことができるかは怪しいところだけど、最悪の場合は右腕だけでもどうにかしてみせるから」

「馬鹿なことを言うなよ。もしものときは俺がお前の左腕の代わりになってやるから、お前は変に気負ったりするな」

「……そうね。そのときはお願いするわ」

 そう薄く微笑み、クレアは左腕を腕甲で覆う。そうして総身に纏う甲冑の各部位を仔細に確かめた後、満足したようにひとつ頷いた。

「うん……よし。私の準備は終わったわ。あなたはどう?」

「――ああ。俺も整え終わった」

 全身に違和感がないことを確かめ終わると、アレンは兜を脇に抱え上げた。クレアもまた兜を携え持ったのを見て取るや、二人は無言の首肯を交わし合い、扉の入口に待たせているミーシャの元へと向かった。

「申し訳ありません。お待たせしました」

「いや、それほど待っていない。気にするな」

 爽やかな微笑みと共に受け流すミーシャもまた、例に漏れず甲冑に身を固めている。アレンが軽量に重点を置いた甲冑ならば、彼女の甲冑はとかく〝鋭さ〟を徹底的に追求した、一切の無駄を排したものだった。さながら抜き身の刺突剣にも似た鋭利かつ独特的な意匠は、明らかに図面に沿って製作された一般的な甲冑とは違う。

「随分と独創的な形をした甲冑のようですが……まさか〝特注品〟ですか?」

「ほう。やはり判るか。アレンの言う通り、私の甲冑は少々特別でな。鍛冶屋の職人に意匠の形を発注したのだ。本来は設計図通りに製造されるのが常なのだが……こうした本人の意志を取り入れることもできるのもまた、特注であるが故の特権だろうな。なに、お前たちも修練過程の三年目になれば〝特注品〟を纏うことができるようになる。
 ――っと。少し無駄話が過ぎたな。そろそろ作戦遂行指定の場所に案内する。事前に言っておくが、私は案内役として同行するだけだ。私はお前たちを送り届けたら、すぐにメルゼの元に戻らなければならないのでな。その後の判断はコリック統括長に任せてある。彼から詳しい内容と指示を仰ぐのを忘れるな」

 そう矢継ぎ早に告げ終えるや、ミーシャは先に進み始めた。その差し迫った言動から察するに、もはやアレンたちの判断を待つ猶予すらも惜しいのだろう。無言のまま彼女の後姿を追う形で、アレンたちもまた目的の場所へと向かった。

 ミーシャに先導されるまま向かった先は、〝憩いの場〟たる広場だった。
 もはや人の気も失せた広場を占めるのは、それぞれ異なる三つの気配。周囲を仄かに照らす月明かり、何処へ流れるとも知れない水流のせせらぎ、そして――篝火に浮き上がる、総勢五〇名にも及ぶ哨戒部隊の武人たち。いずれも武装に身を固め、来たるべき瞬間に備えて待機している。
 その集団の一角、今も複数人の部下と言葉を交わす男こそ――誰あろうコリックに他ならない。甲冑姿のアレンたちとは異なり、コリックの武具は軽装を重視した革鎧装備一式、そして腰に携えた長剣。その厳めしい風貌と屈強な出で立ち、堂々たる貫禄の程を窺わせる彫りの深い面持ちは、なるほど哨戒部隊の統括長を担うに相応しい。
 たった一度の出逢いであっても――それでもアレンは、コリックに対して多大な〝恩〟を感じずにはいられなかった。それは何を隠そう、クレアの命を繋ぎ止めた功労者の一人であることだ。偶然現場に居合わせただけにもかかわらず、コリックは的確な判断を以て彼女の処置を行った。最後は医師たるメデリックに彼女の治療を託したが、その過程に至るまでの功績を成し得たのはコリックに依るところが大きい。
 ミーシャはアレンたちを伴ったまま、急ぎ足でコリックの元へと歩み寄る。どうやらコリックは既に彼女の接近に気付いていたのか、片手で部下たちに下がるよう促すと、それまでの部下に対する柔らかな態度を更に改め、よりいっそう砕けた微笑で彼女を出迎えた。

「来たぞ、コリック」

「ミーシャか。こちらの準備は大体終わった。そっちは……どうやら二人を連れてきたようだな」

 ミーシャの背後に控えるアレンたちを一瞥し、コリックはひとつ頷いた。

「ご苦労だった。ミーシャ、お前にも仕事があるだろうに申し訳ないことをしたな」

「仕方あるまい。元より今回の作戦、互いに連携を維持しなければ遂行し得ぬものだ。メルゼも言っていただろう、そのためならば助力と協力は惜しまない、とな。それに私は、貴様ならばこの二人を護り通せると見込んだ。その期待を裏切るような結果にならないよう、くれぐれも最大の注意を払ってほしい」

「了解した。……とはいえ、確約できるかどうかは怪しい。それでも良いというのなら、俺も全力を以て応えよう」

「――それでは足りない」

 尤もらしい理屈を述べるコリックの言を、ミーシャは呆気なく切り捨てた。

「幼い雛を護るのは親鳥の役目。いずれ二人は騎士訓練団を巣立つ身だ。多少の手傷を負うのは致し方ないとはいえ、もし死なせるようなことがあれば……コリック。そのときは、それなりの処罰を下させてもらう」

「……分かった。俺が身を挺してでも二人を護ろう」

「それでいい。貴様の言葉、しかと聞いたぞ」

 充分な言質を取ることができたのか、ミーシャは首肯の代わりに微かな金属音を打ち鳴らした。その剣呑たる音が鞘鳴りであることを悟ったのは、彼女の手が刺突剣の柄に触れていることに気付いたからだ。これは想像すらも憚られることだが……もしコリックの返答が、彼女にとって不服に値するものだったとしたら。無防備なコリックの喉に、彼女は容赦なき刺突を浴びせるつもりだったのだろうか。
 彼女の危うい言動に警戒心を煽り立てられたのか、コリックの背後に控える部下たちがおもむろに身構える。ここで哨戒部隊に敵対心を抱かようものなら、それこそ内部の小競り合いに発展しかねない。それは彼女とて理解しているだろうに、何故こうも脅迫めいた言動を繰り返すのか。
 ミーシャの背後に佇むアレンには、彼女の面持ちは窺い知れない。だが、未だ柄から離れないその手を見るに、先程の言が単なる脅迫でないことは明らかだった。もし約束を違えるつもりならば、一刺を以て知ることとなろうと。
 この二人、何やら只ならぬ関係であるようだが――まさかそれを直に訊くわけにもいかず、アレンはただ黙って二人の成り行きを見守るしかなかった。無論、それはコリックの部下とて同じこと。
 作戦開始前であるにもかかわらず、もはや刃傷沙汰に及ばんかという張り詰めた緊迫感。
 と――

「……そろそろ戻る。後のことは頼んだぞ」

 低い声でそう言い残すと、クレアは踵を返した。彼女の心境を知る術はないが、去り際に見せた幾分か和らいだ表情から察するに、少なくとも我を忘れるほど冷静さを欠いているわけではないようだった。
 彼女の後姿が消えるのを見届けてから、コリックは取り直すようにアレンたちに詫びた。

「……すまないな。二人には見苦しいところを見せてしまった」

「いえ、お気になさらず」

「そう言ってもらえると俺としても助かる。なにぶん、女の扱いは慣れていないのでな。特にああいう高圧的な女の場合、下手をすると剣の錆にされてしまいかねん。参ったものだ」

 溜息混じりにかぶりを振るコリック。いかにも厳然たる風格を湛えた彼の口から、よもや困惑気味の言葉を聞くとは思いもよらない。昨夜の出逢いとは大いに異なる彼の一面を、まさか早くも垣間見ることになろうとは――彼にとって、ミーシャ・オルコットという女は、もはや〝天敵〟にも等しい存在らしい。

「コリック統括長には失礼ですが。私たちと共にいるときのミーシャ秘書は、先程のような高圧的な雰囲気ではありません。常に凛然とした立ち振る舞いを主とした女性です」

「……常に凛としている、か。とんだ猫被りをする女も……いや。むしろお前たちと共にいるときが、ミーシャにとっては何よりも自分を曝け出せるのかもしれんな……
 ――まぁ、それはさておいてだ。随分と紹介が遅れてしまったな」

 一から仕切り直すように、コリックは歓待の微笑と共に名乗る。

「改めて名乗る必要はないと思うが、俺の名はコリックだ。姓はマクドネルという。事前に知らされているだろうが、お前たち二人が所属する哨戒部隊の統括長を務める者だ。
 アレン・ルーベンス。クレア・ブランシャール。この二名を一時的に哨戒部隊の一員として任命する。任された以上、部隊の名に恥じぬよう心掛けてほしい」

「「――了解しました」」

 差し出されたコリックの手を順に握り返し、ようやく哨戒部隊の一員としての所属許諾を受ける。書類等の配布、注意事項の説明は一切なし。訓練団に入団する際に相当の手間をかけたのに比べると、哨戒部隊の許諾は清々しいほど呆気ないものだった。元より格式などに拘る気は微塵もないのだろう。

「さて。晴れて二人は哨戒部隊に所属となったわけだが……今回の作戦遂行にあたって、我々の部隊が担う役割を改めて確認する」

 コリックは懐から折り畳まれた羊皮紙を取り出し、それを芝生の上に広げてみせた。やや黄ばんだ紙面に描かれた図面は、紛れもない騎士訓練団の敷地内を示す全体図であった。そのうちの一点、即ち〝憩いの場〟を指差し、彼が率いる哨戒部隊の詳細な作戦内容が伝えられた。

「いいか、まずは――」



[38832] 序章[12]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/01/26 20:05
 
 ――第二四捜査報告書――
 現時点における捜査進捗の程を記す。
〝調査結果〟
 第二三報告書に記載の通り、最初の被害者となった修練生の身元を徹底的に調べたところ、やはり侵入者と生前の修練生の間に接点は一切見受けられなかった。侵入者の殺人の動機及び目的は未だ不明。第一の犯行に使用された短剣、被害者の血痕が付着した外套、鉤爪付きの縄以外に物的証拠となり得る品は発見されておらず、現状における証明品は三つのみ。引き続き捜査を続行、随時報告する次第。

 ――最重要書――
 この書類に関しては、最も情報の関連性が高い最新書類〝第二四捜査報告書〟と共に目を通されたし。
〝再認事項〟
 侵入者は訓練団敷地内に侵入後、一人目の犠牲者に見定めた修練生を惨殺し逃亡。その際に決定的な痕跡が発見されたこと、そして下級修練生クレア・ブランシャールが負傷したことからも、侵入者は今もなお敷地内に身を潜めているものと推測。これを捕縛するため、エインズ騎士訓練団総長メルゼ・マクレーンによる大々的な捜索活動を開始。
〝決定事項〟
 本作戦決行に際して、幾つかの決定事項を記載する。
 再認事項にも記載の通り、本目的は侵入者の捕縛を第一に優先。捕縛の段階において侵入者の激しい抵抗、あるいは死傷者を出す事態に陥った場合などは、死に至らぬ程度の手傷を負わせることも止む無し。
〝編成部隊〟
 エインズ騎士訓練団総長メルゼ・マクレーンを筆頭に、総長補佐役兼秘書役のミーシャ・オルコット、他護衛役の四名、総勢六名から成る総長部隊。指揮命令決定権はメルゼ・マクレーン総長に有り。本来は総勢八名であったが、メルゼ・マクレーン総長の計らいにより、内二名を哨戒部隊に派遣。
 上級修練生バートン・ミラーを捜索隊長にした、総勢一二名から成る捜索部隊。尚、捜索部隊に関してはメルゼ・マクレーン総長が直々に編成した部隊のため、指揮命令決定権は総長に有り。バートン・ミラーは総長からの指示を仰ぐ形で部隊を率いる。
 コリック・マクドネル統括長を主に、総勢五二名から成る哨戒部隊。当初の予定では総勢五〇名の部隊であったが、先のメルゼ・マクレーン総長率いる総長部隊から急遽、下級修練生アレン・ルーベンス、同じく下級修練生クレア・ブランシャールの二名が派遣され、一時的に哨戒部隊の一員として共に哨戒部隊として行動する。

 最新の報告書を届けに伝達役が地下室を訪れたのは、ほんの数分前のことだった。

「……報告は、これで以上かい?」

 目を通し終えた二枚の報告書を机上に置き、メルゼは傍らに控える秘書へと聞き返す。

「ああ。報告は以上だ。ご苦労だった、メルゼ」

「ご苦労、なんてものじゃないよ。一枚目の報告書はともかくとして、二枚目は必要だったのかい? いくら後期に引き継ぐ案件とはいえ、これでも僕は充分に現状を把握しているつもりなんだけどね……」

「確かにそうかもしれないが、だからこそこうして紙面に綴るのだろう? お前も知っている通り、これは騎士訓練団そのものを震撼させかねない出来事だ。これをお前が後任に引き継がせ、引き継いだ者が後の者に……そうやって〝訓〟を残していくことで、今後起こり得る最悪の事態を未然に防ぐことができる。
 ――それを思えば、私たちの成す仕事にも意義が生まれるというものだ」

 そう堂々と語る秘書ミーシャの面持ちは、一片の揺るぎもない誇りに満ち溢れていた。この状況で今夜の作戦に対する不安を億面に出すこともなく、平素と何ら変わらぬように振る舞うことができるのも、あるいは彼女だからこそ成せるのだろう。秘書の座に据えられた彼女に支えられながら総長を務めて四年が経つが、彼女の毅然たる言動には事あるごとに感心してばかりである。

「意義とは言われてもね……それだけのために、何も紙一枚を無駄にすることはないだろうと僕は思うよ。むしろ、この一枚に目を通すのに使った時間を返してほしいくらいだよ。これなら他の案件に取りかかった方が、まだ有意義だからね」

「有意義……お前がそれを言うか、メルゼ。確かに最終的に承認済みの印を押しているのはお前だが、それに至るまでの処理をしているのは私だぞ。まったく……これではどちらが総長か解ったものではない。
 メルゼ。大体、お前は弛み過ぎだ。処務の仕事に取りかかっている際も、現にこうして話している最中も、お前には総長としての自覚が足りないのではないかと思うときがある。もう少し他の者を見習って模範的な総長として立ち振る舞えるようにだな……」

「ああ、うん。分かったから。だから小言は勘弁してほしいな……」

 ミーシャの説法は今に始まったことではない。メルゼが総長としての職務に励み始めた頃から、彼女はメルゼに対して過剰に過ぎるほど干渉することが間々あった。まだ日も浅い未熟なメルゼを諭してくれるものと、最初の頃こそ大人しく聞き入れていたが――今もこうして説教気味の諌言を聞き続ける羽目になろうとは。

「それはそうとして、もう殆どの案件は片付けただろう? なら、僕たちも早く狭苦しい地下室を出よう。彼らも行動を開始する頃合いだろうからね」

「ああ。……正直なところ、アレンたちの方も気掛かりだからな。なるべく早く事を済ませてしまいたいものだ」

「君は、余程アレン君たちのことが大切なんだねぇ……」

「ああ、大切だな」

 メルゼとしては茶化すつもりで言ったつもりだが、どうやらミーシャには伝わらなかったらしい。

「なにぶん、私にとっては可愛い後輩だからな。……それにクレアもそうだが、アレンとは他人という気がしない。常に騎士であり続けようとする者でなくとも、自らの目標に真っ直ぐに向かっていく姿は、見ていて清々しい気分になる」

「それは、君が騎士然とした振る舞いを心掛けているからだろうね。……まぁクレア君はともかく、アレン君は僕に対して不審を抱いている節があるからね。君の言う通り、彼の騎士然とした在り方は評価したいところだけど、もう少し僕を信用してほしいよ」

 それは、メルゼの偽らざる本心の現れだった。
 クレアの見舞いに訪れた際、確かにメルゼは最初こそアレンに対して疑念を抱かせるような振る舞いをしたかもしれない。最もそれだとて、すべてはクレア・ブランシャールという一人の少女を支えるに足る人物かどうかを見定める必要性があったからだ。それが偶然にもアレンだったというだけの話である。共に結託した今となっては取るに足らない些細な問題でしかないとはいえ――メルゼの想像以上に、アレン・ルーベンスという男は疑り深い性質だった。当人たるアレンを除き、真にメルゼを信用しているかどうかを知る術はないのだから。

「決して苦じゃないと言えば嘘になるけど、ああも扱い辛い部下を持ったのは初めてだよ」

「無理もあるまい。どんな方法で引き入れたかは知らないが、どうせ堂々と勧誘したわけでもないのだろう? せめて真正面からならまだしも、お前は相手に過剰に不信感を与えてしまうからな」

「そうだね。それは自覚しているし、なるべく気を付けてはいるよ。……けどね。正直なところ、僕は嬉しいと思っているよ。一度でも手綱を握ってしまえば、後はどうとでもなる。使いようによっては思わぬ成果を上げてくれるだろうからね」

「……お前の方針に口を出す気はないが、部下を便利な駒扱いにするのは感心せんな。少なくとも私は、アレンは騎士として必要な要素は充分に兼ね備えていると見た。たとえ前途多難の道を歩むことになろうとも、アレンならば乗り越えていけると信じている」

「その前に死ななければの話だけどね」

 女騎士の鋭い諌言をさらりと受け流し、メルゼはやおら席を立った。そのまま備え付けの台へと歩み寄り、薄らと湯気を立ち昇らせる紅茶の容器に手を伸ばす。もはや既に冷め切ってしまった中身を茶器へと注ぎ、一息に呷る。風情を味わう気はおろか、品性の欠片すらない飲み方だった。
 空になった茶器を置き、メルゼは扉を示す。

「さて、そろそろ行こうか。できれば……手癖の悪い殺人鬼風情との一件、これで終わりにしたいものだよ」


 総長部隊は本部にて統率する部隊の指揮命令。捜索部隊は森林内部を探索圏内として請け負う。そして哨戒部隊は訓練団の中心地である〝憩いの場〟を起点に、森林内部を除いた周辺一帯、即ち主要建築たる騎士訓練団の外縁部を哨戒領域とする。
 次に陣形。進行方向の角には一人、残り三つの角にもそれぞれ一人ずつ据える。次いで基点となる四人を結ぶようにして、盾を装備した〝守護〟役となる兵を二人ずつ均等に配置。つまり角から次の角、その間を補うようにして二人ずつ配置することで、ようやく点と点が結びつき小さな菱形の体を成すという仕組みである。
 次に、陣形内部。ここから配置するのは防衛に特化した兵ではなく、二人一組から成る警戒網役。
 最後に、陣形の中心に据える一人の役割は、陣形の指揮を執る。
 突き出た四つの角に各一人ずつを配することで、仮に陣形を崩そうと一か八かの奇襲を仕掛けてきた侵入者を迎撃。その基準点の間隙を補う防衛役の兵は防御を主体としつつ、得物である長剣を長槍代わりにして迎え撃つ。
 警戒網役の兵は周囲の異変を発見次第、陣形に情報を伝達。迎撃と防衛に徹する他の者では補い切れない箇所、死角となる上空などを視認し続け、逐一陣形全体へと伝える。陣形そのものも、出来得る限りの挙動の自由を維持しつつ、なおかつ密集させることで侵入者の介入を悉く拒む。
 点となる四人。その四人の隙間を防衛するために二人ずつ配置。そうして形成された菱形の内堀に周辺の観測として警戒網を敷き、更にその内側に判断を下す指揮を置く。
 一つの陣形に動員される人数は一三人。形成できる陣形は最大で四つ。
 修練寮周辺を第一哨戒、水汲み場周辺を第二哨戒、修練棟周辺を第三哨戒、教練棟を第四哨戒がそれぞれ担当する。この四部隊のうち、アレンとクレアの属する部隊は第一哨戒――コリック統括長率いる隊。役割は二人一組を主とする警戒網。
 哨戒部隊としての形を保ちつつ、なおかつ力を十全に発揮できる移動方法――総勢五二名を動員して構成されたこの特殊な密集形態こそが、今回の作戦に際して考案された菱形陣形であった。


「……説明は以上だ」

 ひとしきり説明を終えたコリックは、羊皮紙を懐に仕舞い込む。
 コリックの語った任務内容を要約するならば、それが哨戒部隊に課せられた任であった。既に決定された任務自体には、元より異論を差し挟む気は微塵もない。だが、何よりも驚愕したのは――ついに詳らかにされた陣形構成だった。
 二桁単位の人数で一つの部隊を組み、哨戒範囲内に配置する。その方策ならば持ち場を四つに分割できる上に、いざとなれば近辺の部隊と連携することもできる。そういう明確な意図を持った陣形ならば、少数部隊という構成にしたのも頷ける。
 大人数で固めることをしなかったのは、侵入者の奇襲によって部隊が分裂してしまうという事態を回避するためか。最悪の場合、陣形は崩れるどころでは済まず、その混乱に乗じて個々に仕留められてしまいかねない。敢えて戦力を複数に振り割ることで、一部隊に圧し掛かる危険の度合いを少しでも分散させるつもりなのだろう。

「……この陣形、事前に考案されていたものなのですか?」

「ん、そうだな。この陣形自体は昨日のうちに練ったものだが、二人が所属するのに知った際に少し手を加えた。いわば改良版とも言うべき陣形だが……むしろ昨日よりも良い出来に仕上がった」

「……申し訳ありません。わざわざ陣形の変更までさせてしまい、コリック統括長には苦労をお掛けしました」

「別に二人の責任ではない。さっきも言った通り、俺自身、この陣形構成には納得できないものがあった。それに二人が部隊に入隊したおかげで、部隊の戦力が少なからず増強された。感謝するべきは俺の方だ。ありがとう、二人とも」
 
 微笑み交じりに礼を述べるコリック。それは彼なりの気遣いであることを悟り、アレンは無言のまま胸中で詫びた。本当に申し訳ない、と。
 おそらく二人の部隊転属を決定したのは、総長として絶対的な決定権を持つメルゼだろう。コリックとメルゼの間に何が取り交わされたのかは定かでないが、少なくとも彼には余計な手間と負担をかける羽目になってしまった。
 だからこそ、それ以上に――彼の心労に見合うだけの最大限の働きをしなければならない。アレンとて哨戒部隊の一員として任命された以上、たとえ力を及ばずとも最後まで己を律し続ける。恩義を以て恩を為す……これもまた、騎士たる者が果たすべき責務の一つなのだから。
 そのとき、おもむろにコリックが別方向へと顔を向けた。

「さて、と。――そろそろ頃合いだな」

 やにわに鋭さを帯びたコリックの眼光に、アレンが聞き返すよりも早く――
 夜のしじまを掻き乱すように、ひときわ慌ただしい金属音が響き渡った。

「……っ!」

 思わず振り返ったアレンは、広場の一角に佇む甲冑姿の人影を見咎めた。見知らぬ男だったが、その突然の来訪者の意味はすぐに察しがついた。わざわざ武具を纏い、哨戒部隊の居場所に駆けつけてきたということは……それは作戦に参加する一人に他ならない。
 名も知らぬ男は、元よりコリックに用があったのだろう。彼の元へと歩み寄る男の足取りは一切の躊躇いもなかった。その場に居合わせる全員の視線を一身に浴びながら、男は深々と会釈をする。

「私は、メルゼ総長の使いの者です。哨戒部隊のコリック・マクドネル統括長ですね?」

「――そうだが。何か用でも?」

 そう応じるコリックの面持ちには、無論先程の柔らかさなど見る影もない。昨夜の出逢いと同じく、彼は厳かなる剣幕を漂わせていた。だが、対する男もまた彼の圧倒感を易々と受け流し、毅然たる口調で告げた

「用件は一つです。――総長部隊、捜索部隊、共に行動を開始しました」



[38832] 序章[13]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/03 18:05
「――これより哨戒部隊は、他部隊と連携して侵入者の捜索及び迎撃を行う」

 ――応!
 堂々たる気迫を含んだ声が響き渡り、それに勝らんかというほどの鬨の声が吼え上がる。その宣言の主は他ならぬコリックであり、彼に全力を以て応えんとするのが、彼の束ねる哨戒部隊の兵たちである。

「本作戦における我々の部隊は少数部隊だが、これは作戦の都合上によるものだ。だが、だからと言って軽視してはならない。たとえ少数部隊と言えども一つの部隊。作戦を成功させる上での要だ。それを留意した上で行動してほしい」

 ――応!
 一斉に張り上がる声に負けじと、彼の独白もまた留まることを知らない。

「気の緩みは油断を起こしかねない。侵入者が妙な小細工を弄そうとするかもしれない。死にたくないのなら、常に周囲を警戒し続けろ。少しでも違和感を覚えたのなら進言しろ。これを怠った者から命を落とすと思え。
 お前たちは、俺が信頼を託すに値する兵だ。それを決して忘れるな」

 ――応!
 それは部隊の全員が充分に理解しているだろうに、それでもなお己を鼓舞せんとする声は止まない。それも当然と言える。この場にいる部下たちにとっての将はコリック唯一人であり、そんな彼に全幅の信頼を託されれば――否が応にも部隊の士気も高まろうというものだ。無論、それはアレンとて例外ではなかった。
 昨夜から侵入者の暗躍と鬩ぎ合っていた哨戒部隊からすれば是非もないことだろう。それとは多少異なる事情を抱えているとはいえ、アレンもまた侵入者との決着を望む一人である。このまたとない機会を逃せば、一夜越しの慢心と悔恨を拭い去ることは叶うまい。
 隣に立つ幼馴染の横顔を一瞥する。一切の情動を窺わせない彼女の心胆は、いま何を考えているのだろうか。左腕に刻み込まれた苦痛を顧みているのか。それとも――一度は辛酸を嘗めさせられた敵との再戦に、密かに並々ならぬ滾りを覚えているのか。どちらであっても構いはしない。アレンが全うするのは唯一つ。迫り来る脅威から彼女の身を護ることだけだ。
 そんな決意も露わに、アレンは壇上に立つコリックを見据える。

「これより我が部隊も作戦を開始する。各自部隊を組み次第、指定された持ち場へと向かえ。
 ――以上、解散とする」

 ――応!!
 そう宣言の結びをつけたコリックに、先程までとは比べ物にならないほどの気勢を込めた声が応じる。我が部隊に武運と加護があらんことを、と祈願を込めるように。


 飄と涼風が吹き抜け、そのたびに木々の梢が擦れ合う。
 月明かりに薄らと濡れ光る芝草、その葉先から滴り落ちた露の弾ける音に至るまで――視界に映る何もかもが、夜闇に蠢く不快感を際立たせるには充分だった。聞く者の心情によっては風情を感じるであろう自然の織り合いも、今のアレンには研ぎ澄ました心を掻き乱す要素でしかない。これでは周囲に紛れ込む気配を察知するのは難しい。
 周辺に視線を奔らせつつ、曇りかかった感覚を澄まし直す。
 ともすれば散漫しかねない気を繋ぎ止めようと心掛けているのは、何も警戒網の任を負ったアレンだけではない。アレンの隣にいるクレアもまた、周囲の些細な異変を見逃すまいと視線を巡らせている。無論、それは部隊の兵たちとて同じだ。常に部隊の移動速度に合わせつつ、静心を心掛けるべし――移動開始前に下されたコリック直々の命に従いこそすれ、不満を抱く者などいようはずもない。それ故に、請け負った任命を崩しかねない耳障りな要因はなるべく排しておきたい。
 どんなに些細な違和感にも注意を向けなければならない。もし侵入者の気配を逃そうものなら、それだけで部隊を危機に陥れかねないのだ。ましてやこの部隊の指揮を執るのはコリックである。将たる彼が討たれることになれば、それは即ち部隊の陣形崩壊に他ならない。
 当人であるコリックは陣形の統率役として、その手に持った松明の火を導代わりに隊を引き連れている。彼は本来なら陣形の中央に居るべき立場の人間であり、自ら望んで敵意に身を曝す必要はないはずだ。それにもかかわらず――いま第一哨戒は彼に先導されるまま、着実に目的地へと向かいつつある。
 その命知らずぶり、将としての〝格〟を重視しない振る舞いは、もはや無謀以外の何物でもない。
 それはアレンの勝手な見解であり、単なる憶測でしかない。確たる証左もないままにコリックの在り方を決め付けるわけではない。だが……ならば、彼の部下たちはどうなのか。何を考え、何を思っているのか。いつ殺られるとも知れない前線に立つ己の将を見て、果たして快いと感じているのだろうか。
 ふと部隊の先頭に立つコリックが、手にした松明の灯火を左右に振る。もう少しで目的地へと到着する――事前に知らされていたその合図を見咎めたアレンは、静かな気息と共に胸中に居座る問いを吐き出す。
 余計な思念は無駄。元より解のない自問に浸るだけの余裕などあろうはずもない。
 我が身は騎士。剣を執ったが最後、ただ己が為すべきことを為すだけ。
 修練寮の影を視認できる距離にまで近付いたところで、再びコリックによる次なる指令が下った。灯火を左に傾け、宙に小さな円弧を描き示す動作――目的地へと到達。これより任務を開始するという意。
 決して部隊の陣形を乱さぬまま、第一哨戒は予め定められた移動経路に沿って修練寮の周辺を捜索し始める。
 寝静まった修練寮の窓には、無論灯りなど一つも見受けられない。粗末に過ぎる仕切り用の薄い布に覆い隠された窓は、その気になれば外の景観を覗い知ることもできよう。――が、外は既に夜闇の頃合い。更に得体の知れぬ存在が潜んでいるともなれば、わざわざ夜景を好んで眺めようと思う者はいるまい。
 寮周辺の殆どが木々ばかり。それ以外で目につくのは一つ。森林の奥へと伸びる、修練場に続く一本道のみ。敵が身を潜めながら様子を覗うには充分な条件が揃っている。当然、ここで注意すべきなのは――周辺に生い茂る木々の陰。
 隊の速度に歩幅を合わせつつ、肘で傍らのクレアを小突く。何事かとこちらを見遣る彼女に向けて、アレンは目線だけで木々を示す。自分は森林の警戒を担う、と。
 わざわざ思念を乗せずとも、アレンの眼差しから彼女は全てを悟ったらしい。小さく頷いた彼女は、僅かに首を傾けて寮の方向を示した。アレンもまた首肯で応じる。そうして互いの分担を確認し終えるや、二人はそれぞれの任へと就いた。
 尚も姿の見えぬ仇敵に、必ずや一矢報いると心に誓いながら。


        ×     ×     ×


 血痕――
 そう見て取るには、その赤黒い斑点は掠れ過ぎていた。少なくとも地面に染み込んでから数日は経過しているはずだ。単なる俄仕立ての観察に過ぎないが、所詮は個人の推論である。そもそも、この証拠だけでは確証も何もあったものではない。
 甲冑姿の男――バートン・ミラーにとって、その発見は驚愕には値しなかった。
 何かしらの解明には役立つのだろうが、誰の血とも知れない痕跡を見つけたところで、現状の捜索に益をもたらすわけでもない。むしろこの場に踏み止まったせいで時間を無駄にした。――とはいえ、これを見つけたのは部下であってバートンではない。

「……バートン捜索隊長。何か得られたものはあったでしょうか?」

 そう問い掛けてくる己が部下に、バートンはかぶりを振った。

「――いや。さすがに私では判じかねる。だが、この発見は重要な証拠となり得るかもしれない。よくやってくれたな」

「いえ。
 ――勿体ないお言葉。ありがとうございます」

 微かな笑みを湛えるバートンに向かって、部下は恭しく首を垂れた。たとえ徒労に終わったとしても、部下の思わぬ発見は素直に褒めるべきだ。こうした些細な称賛がなければ、到底部隊を纏め上げることなど叶わない。

「この血痕、バートン捜索隊長はどのように考えていますか?」

「それは、私自身の見解について述べてほしい、ということか?」

「はい。できれば捜索隊長のお考えを聞かせてほしいのです。他者とは異なる観点から探ることで、何かしらの新しい発見ができれば……と」

 この勤勉に過ぎる発言も、精鋭によって編成された捜索部隊故なのだろうか――そう思いながら、バートンはひとつ頷いた。

「……そうだな。私が見た限りでは、この血痕は侵入者に関係している。おそらく第一の犯行が起きた際に浴びた返り血の一部ではないかと踏んでいる」

「第一の犯行……つまりこの血痕は、最初の犠牲者の血ではないか、と?」

「ああ。いくら背後からの犯行とはいえ、まったく血を浴びないということは有り得ない。実際、証拠品として回収された血が付着した外套があったはずだ」

「ああ、確かにありました。これが犠牲者の血だとするなら……成程。なら、この血痕も辻褄が合います。捜索隊長のおかげで、また一つ学ぶことができました」

 そう素直に驚愕する部下を尻目に、バートンは地面の血の跡を一瞥する。
 この血痕については、報告書に記載する程度で済むだろう。後の判断は総長に任せておけばいい。もし再調査を命じられたなら是非もない。ただ従い、己に課せられた任を全うする。彼が下す命令は、バートンにとって絶対の意味合いにも等しいのだから。
 必然の出会いと幸運に恵まれて、今バートンはこの場にいるのだ。
『バートン・ミラー君に部隊を率いてほしい。君の〝剣技〟の程を見込んでの頼みだ』――そう協力を持ち掛けてきたときの彼を思い返す。バートンに密かな期待を託し、己が手腕を存分に揮ってほしいと。そういった秘密裏の承諾と合意があって、今バートンは捜索隊長という誉れも高い任を背負っている。総長による直接の指名……それは、唯の上級修練生でしかなかったはずのバートン・ミラーという男が、相応の実力を兼ね備えた武人であることの証明に他ならない。
 総長に対する密やかな崇拝の念。それが成就しただけでは留まらず、更にはバートンを栄光へと導かんとしているように思えた。報いらなければならない。応えなければならない。かの名誉ある総長の命ともなれば、バートンは自ら苦難に身を投げ入れる覚悟だった。
 所詮は奇襲以外に取り柄のない侵入者である。そんな舐め切った輩を捕らえることなど造作もない。もう幾度となく侵入者の捜索活動を行っているバートンからすれば、敵など赤子の手を捻るよりも容易い。それを裏付けるだけの力を自分は充分に備えていると、少なくともバートン自身はそう自負していた。
 バートンが率いているのは精鋭揃いの兵たちばかり。いざとなれば兵と共に人海戦術に持ち込む腹積もりであった。単純な物量における優勢では、こちらは敵側よりも明らかに勝っている。
 そして何よりも誇らしいのは、バートンの部隊の士気の高さだ。兵一人にしてみても、明らかに面構えと気位が違う。元よりバートンは総長に抜擢され、そのまま長の座に据えられたに過ぎない。本来なら不満や異議を申し立てられるはずの立場である。――が、その経緯を知りながらも、彼らはバートンに忠誠を誓っている。これが真の意味での〝精鋭〟でなくて何だというのか。

「さぁ、無駄口を叩いている暇はない。行くぞ。引き続き捜索を行う」
 
 やおら立ち上がり、背後に控える部下たちを促す。
 部下に預けておいた松明を手に取り、バートン率いる捜索部隊は行動を再開した。
 部隊の陣形は鏃型。バートンを筆頭に、後方に一一人の兵たちを広がるようにして配置。本来なら突撃を主体とする戦法の際に多用される陣形態だが、現状に限って言えばむしろ得策である。常に受身に徹しなければならない哨戒部隊とは違い、捜索部隊は敵を追い立てる側を担っている。
 無論、それなりに負担は掛かるが……緊張感に苛まれながら護るのと一気呵成に攻め込むのとでは、まず根本からして違う。その圧し掛かるような重圧を物ともせず、なおかつ冷静に断を下すことができるのは、哨戒部隊のコリック・マクドネルという男くらいなものだろう。

「――?」

 ふと視界の端に映った影を見咎め、思わずバートンは足を止めた。背後に続く部下たちを片手で制する。そうして傍らに控える部下の一人に松明を手渡し、背後から照らすよう指示を下す。いざというときに両手が使えなくては困るためだった。
 バートンは木の根元へと歩み寄る。

「……あれは……?」

 バートンの遥か頭上、枝葉の陰に混じっていた茶褐色のそれは――何の変哲もない、布の断片だった。どうやら先程の影の正体はこれだったらしい。木々の上に引っ掛かっているのは、おそらく風によって巻き上げられたか、あるいは鳥が咥えて運んできたのだろう。何にせよ、警戒するには及ばない。
 何ということはない、唯の一片の布地。
 そう断じ、バートンは踵を返そうとした。
 もし。
 バートンの判断が早計でなかったなら。
 頭上を確認する前に、周囲の違和感に思い留まっていたなら。
 そして何よりも……侵入者の得手とする殺法が、必ずしも奇襲だけとは限らないと予想できていたなら。
 木の根元。生い茂る雑草の中に紛れ込んでいた〝脅威〟に戦慄することはなかっただろう。
 ぴん、と何かが弾け飛ぶ音。それが地面に仕掛けられていた罠の兆候であることを悟ったときには、既にバートンの命運は尽きているも同然だった。そも――斜め頭上より襲い掛かる無数の白銀の軌跡を目の当たりにした時点で、もはや咄嗟の回避など望むべくもない。
 刹那、バートンは己が身に訪れる結末を理解してしまった。
 そして、悔いてしまった。
 あの誘いを受けたとき、もっと考慮すべきだった。己の実力に対する認識を改め直すべきだった。そもそもバートンは、分を弁えぬ大望を抱くべきではなかったのだ。
 一体――何を、思い上がっていたのか。
 ある一点において、バートン・ミラーは決定的なまでに履き違えていた。確かにバートンの力量は、総長の勧誘を受けるに値するものだったかもしれない。それは間違いようのない事実だ。だが、それはあくまでも〝剣技〟の腕前を評価されただけのこと。バートンの人間性に関しては――総長は何一つとして〝期〟を託した覚えはない。
 嗚呼――
 結局は――己の実力を計り損ねた自分自身が招いた――心驕りだったのか――
 先に飛来した短剣の一閃が、容赦なくバートンの頬の肉を抉り取る。その激痛に悲鳴を漏らす暇すら与えられず、続く二撃目が喉元に深々と突き刺さる。三、四、五、六――立て続けに響いた甲高い金属音のうち、血肉を引き裂いたのは先程の二撃のみ。それ以外は身に纏った甲冑の隙間を縫うには至らなかったか、あるいは装甲に阻まれたかのどちらか。
 いずれにせよ、更なる苦痛を味わう前に尽き果てた屍の末路は――むしろ死に様としては、楽な部類だったのかもしれない。

 栄誉ある肩書きを背負い、だが最期は呆気なく逝った。そんな憐れな屍へと成り果てたかつての長を前に、とうの部下たちは眼前の光景を受け入れかねた。衝撃よりも勝る驚愕に打ちのめされ、彼らは木偶のように立ち尽くす。襲撃に警戒するわけでも、携えた得物を抜くわけでもない。その当惑に揺れる面持ちは、もはや先程までの自信と誇りに裏付けされた精鋭の貌ではなかった。
 何が起こったのか、それすらも解することができない。
 追う側と追われる側。その攻守が一転し、もはや彼らは狩人に獲物として定められてしまった。たった一人の男が憶測を誤っただけで、彼らにまで被害が及びかねない状況を生み出してしまったのだ。
 その事実に気付かぬまま絶句する彼らに、冷然と事実を突き付けるかのように……
 ずるり、と甲冑姿の屍が地面に崩れ落ちた。
 その瞬間、彼らは全てを受け入れた。
 ようやく現実を呑み込んだ部下たち。だが、そんな彼らに更なる追い討ちを仕掛けるかのように――まるで堰を切ったように止め処なく押し寄せる恐怖の奔流が、もはや崩壊寸前だった彼らの理性に、最後のとどめを刺した。


        ×     ×     ×


 宵闇に響き渡る、幾重にも織り交ざった悲鳴――

「なっ、――何だ!?」

 その狂騒の叫びを聞き咎めたのは、何もアレンだけではなかった。さしものコリックすらも驚嘆に息を呑み、第一哨戒の兵たちもまた同じように平静を失い、見る見るうちに焦燥の様相を呈し始める。

「お前たち、落ち着け! 陣形を持ち直せ!」

 真っ先に冷静さを取り戻したのは、当然ながらコリックであった。もはや一喝めいた怒号を以て、忘我の彼方へと追い遣られかけていた兵たちを引き戻す。即座に断を下した彼の言によって、最も恐れるべき事態は辛うじて免れ得た――その僅かな安息すらも、ほんの束の間に過ぎなかった。

「――捜索部隊の方向だわ」

「ぇ……?」

 初め、アレンは自らを追い抜いていった人影に瞠目するしかなかった。その人物は第一防衛の兵の背を踏み台に軽々と陣形の輪を跳び抜けるや否や、逡巡する素振りすら見せずに森林の奥へと疾駆し始めた。その敢然たる後姿は誰あろう、〝彼女〟――クレア・ブランシャールに他ならない。

「ク……クレアッ! 待て!」

 徐々に夜闇の底へと消えていく幼馴染の姿に追い縋らんと、アレンもまた強引に陣形を抜け出す。彼女の突飛な行動に呆気に取られたのか、第一防衛の兵たちはアレンを押し留めようとすらしなかった。
 これ幸いとばかりに、アレンもまた彼女の姿を追う。

「!? アレン、今すぐ引き返せ! これは命令だ!!」

 彼女の挙動には完全に虚を突かれたようだが、さすがのコリックも二人目の独断を見逃すつもりは一切ないらしい。もはや怒鳴り散らすが如き声を張り上げるが、それすらもアレンの独走を阻むには至らない。
 何としてでも彼女を止めなければならない。未だ侵入者は捜索部隊の周辺に潜んでいる可能性が高い。どういった手段を用いたのかは不明だが、手傷を負った今の彼女が太刀打ちできる手合いでないことは明白。

「聞こえないのか!? ――戻れと言っているんだ!!」

「……申し訳ありませんが、その命には従えません。――クレアを、追います!!」

 制止の声を張り上げるコリックに応じつつ、アレンは遥か遠方を見据える。木々の間隙から垂れ込める月明かりに濡れ光る彼女の甲冑。その些細な輝きを道標代わりに、アレンはひたすらに彼女の姿を追った。


 物言わぬ屍が、一人。
 強固な兜を外してみれば、そこには苦痛と恐怖に歪み切った凄絶な死に顔。兜の内部は鮮血に濡れ、側頭部にあたる箇所には一本の短剣が突き立っている。頬の肉はごっそりと抉り取られ、もはや血肉の内側――骨の表面すら覗かせている。一目で見た限りでは、致命傷は喉元に突き立った短剣以外に有り得ない。
 遺体の傍に歩み寄った途端、僅かに血臭が濃くなる。
 咽返るほど酷い臭いではないが、その凄惨たる光景はアレンに既視感を抱かせるには充分だった。地面に横たわる屍の姿が、アレンの幼き頃の記憶と重なり合う。まだ幼いアレンの目の前で死に絶えた、醜い賊の姿と。あの下種よりも劣る汚物と、眼前で倒れ伏す騎士の勇ましい姿は、まったく別物であると理解していながら。
 己の中にある嫌悪感を払うようにかぶりを振った、そのときだった。

「ん……?」
 
 ふと草叢に混じる一筋の輝きに気付いたアレンは、警戒を解かぬようにして木の根元に歩み寄り、針の太さほどもある銀の糸を摘み上げる。
 衣服用の糸にしては随分と煌びやかな、明らかに場違いに過ぎる代物だったが、その用途はすぐに察しがついた。根元の裏――即ち草叢の陰に仕掛けられた小型の杭を見咎めたからである。絡繰りの仕掛けについては専門外だが、罠の作動に用いられた道具であることは明らかだった。これに気付かなかったことで、この名も知らぬ甲冑の男は殺されたのだ。
 何にせよ、この糸は証拠品として提出するべきだろう。罠の存在については、アレンが直接進言すればいい。

「……」

 恐怖に座り込んだままの兵たち、そして――こちらに背を向けたままのクレアを見遣る。
 結局、先行するクレアにアレンが追い縋ったのは、襲撃現場に到着した直後だった。日頃から鍛錬によって培われたアレンの体力を以てしても、樹間を駆け抜ける彼女の脚力には追い迫ることすら叶わなかったのである。圧倒的な力の差を思い知ると同時に、それほどまでに彼女の胸中に秘められた思いの程は強いのだと悟った。

「……ッ」

 その証拠に――剣を執るクレアの手は、微かに震えていた。決して恐怖に怯えているのではない。それが憤りであることを示すかのように、兜の奥から覗く彼女の双眸もまた、堪え切れぬほどに憎々しげに歪んでいた。その荒れ狂う赫怒を何者へと向けているかは、もはやアレンの眼から見ても明白であった。
 と――
 クレアは遺体の傍らに片膝をつき、屍の死に顔へと手を覆い被せる。そうしてゆっくりと彼女の手が離れる頃には、屍は苦悶の相から解放されていた。
 そこには、ただ安らかに眠る男の顔があった。

「どうか、此の御魂をお導き下さい。貴方様の慈しみと抱擁が、此の者に祝福をお与え下さいますよう……」

 物々しい甲冑を身に纏いながらも、天へと祈りを奉げるクレアの姿。そんな彼女の敬虔なる一面を眺めながら、アレンもまた彼女の儀礼に倣う。
 やはり、彼女は性根から〝騎士〟なのだ。単に騎士の家系に生まれただけではない、確かな覚悟を持ち合わせている。ましてや他人のために怒りを露わにできる人間など、そうそういるものではない。
 だからこそ、侵入者を捕えなければならない。また新たな犠牲者が出てしまう前に、そして何よりも――他ならぬ彼女自身のためにも。もはや捕獲などという手緩い策を講じているだけの余裕はない。二人もの命が奪われてもなお方針を変えないつもりなら、こちらから何かしらの行動を起こすしかあるまい。
 指揮を執っていたバートン・ミラー捜索隊長が死んだことによって、捜索部隊は役割の大半を果たす前に崩壊してしまった。これでは各部隊の連携など役に立たないにも等しい。
 もはや火を見るよりも明らかなほどに――今夜の作戦の趨勢は決しかけていた。
 作戦の中断を告げる通達が下されたのは、それから程なくしてからのことだった。



[38832] 序章[14]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/09 19:39
 仄かに白み始めつつある空の程合いは、まるで昨夜の惨烈たる一事を包み隠さんとしているかのようであった。最も――あの酸鼻な光景を目に焼き付けた後では、もはや忘れるには遅すぎた。
 その悍ましいまでの寒気は、総務室へ向かうまで拭い去ることはできなかった。
 どういった目的があって総務室に向かっているのかは、アレンとて充分に理解している。陣形を乱した挙句、単独で行動したことに対する懲罰だろう。結果的に無事だったとはいえ、それでも契約に背いたことに変わりはない。おそらく傍らのクレア共々、尋問に処するつもりなのだろう。
 摩耗し切った気を休める暇すら与えられず、アレンたちは黙々と歩を進め続ける。アレンたちを先導するコリックの貌は、依然として窺い知れない。もはや彼の背中に問い掛ける気力すら湧かなかった。
 と――
 総務室に到着する寸前になって、不意にコリックが歩みを止めた。

「今、この場でお前たちに確認しておきたいことがある。
 お前たちは、勝手に部隊から離れて行動した。そうだな?」

「……はい。間違いありません」

「……彼と同じです」

 はっきりと首肯したアレンに続いて、クレアも自らの責任を認めた。自らの非を否定したところで意味はない。何故なら――あの場に居合わせた第一哨戒部隊の総員が、アレンたちの独断を目にしているのだから。
 それ故に。アレンたちに向けられた眼差しは、明らかな厳粛の色合いを帯びていた。

「……何か言い訳はあるか?」

 コリックの低く抑え込まれた声音は、だが彼の心境を如実に物語っていた。一切の反駁すら許さぬ、静かなる憤り――総身を凍りつかせるほどの怒気をまざまざと感じながらも、アレンは黙り続ける他なかった。傍らに立つクレアもまた同様である。
 もはや二人に許されたのは、己の失態に恥じ入ることだけであった。

「お前たちは重大な違反を犯した。あれほど取り決めたにもかかわらず、お前たちは陣形を乱しかねない単独行動に及んだ。お前たちの一時的な転属契約を結んだメルゼ総長。そしてお前たちの命を護るという確約を交わしたミーシャ。この二人との誓いを危うく反故にしかけた。
 お前たちの仕出かした失態は、もはや詫びる程度で償い切れるものではない」

 コリックの言い分に間違いはない。すべてが紛うことなき事実であり、決して違えようのないことだ。それ故に――アレンたちの後先を顧みない行動が、如何に軽率に過ぎることであったかを再認させるには充分だった。

「あのときの俺は、部下たちを置いて陣形を抜けることはできなかった。いかにお前たちの命を預かる身だったとはいえ、お前たち二人のために部下たちを危険に晒すような真似はできなかった。
 お前たちの二人の命と部下の命、どちらを取るかと言われれば……俺は間違いなく部下の命を選んでいただろう。その決断を迫られる前に作戦が終了したのは、正直なところ運が良かったとしか言えん」

 それが単なる虚言でないことは、コリックの渋面の程から窺い知れた。苦渋の選択を強いられた彼にとっては、まさに不幸中の幸いだったのだろう。片方を切り捨てることで、もう片方のすべてを背負う――即ち〝命の選別〟を為す寸前だったのだ。

「今回の作戦で学ぶべきことは多々あった。少し想定外の出来事も起きてしまったが、お前たち二人は生き延びることができた。辛うじて生き永らえた命、その裏に一人の犠牲があったことを忘れるな。今回の教訓を胸に刻み込め。
 ――何はともあれ、ご苦労だった。しばらくは互いに待機することになるだろうが、いずれ共に行動する機会が訪れるだろう。そのときは……なるべく無茶な行動はしてくれるな」

 最後にそう戒告を言い残し、コリックは踵を返した。
 立ち去る彼の背中を横目に、アレンはクレアを伴って総務室の扉を控え目に叩いた。


           ×     ×     ×


 室内に足を踏み入れた直後、相も変わらぬメルゼの微笑みに出迎えられたアレンたちは、勧められるままに長椅子に腰掛けた。彼に雑務でも任じられたのか、彼の傍らに控えているはずのミーシャの姿は見当たらない。彼もまたアレンたちの差し向いに腰を下ろし、形ばかりの労いをアレンたちにかけた。
 そうして二言、三言と言葉を交わすうちに、徐々に話題はアレンたちの契約違反へと移り変わった。

「――君たちの失態については、まぁ想定の範囲内ではあったよ」

 メルゼは開口一番、さも知った風に言い切った。

「コリック統括長の注意喚起を聞きもせずに、二人は独断で捜索部隊に合流。幸いにも捜索部隊に追撃が掛かることはなかったけど、君たちの勝手な行動のせいで第一哨戒部隊を危険に晒しかけた。……もう済んでしまった事とはいえ、こればかりは僕も黙殺できるものじゃない。重大な違反と判断されても仕方のないことだ。
 当然、二人にはそれなりの罰則を課すことになる。まだ決めかねている段階だけど、あえて具体例を示すなら……君たちが下手な動きを見せないように、しばらくは僕の監視下に置くことも検討している。無論、その間に第二回目の作戦決行が下されても、君たちは部隊の行動には加えさせない。もし規則を破ろうものなら、もっと厳重な罰則を与えるつもりだよ」

 普段と何ら変わらないコリックの柔らかい声音は、かえってアレンたちの反駁を封じ込めるには充分だった。最も彼に案件が伝わっている以上、アレンたちに有無を言う権利はないのだが。

「コリック統括長と契約したときから、おそらく君たちは黙っているような性質ではないと踏んでいた。並外れた行動力については評価したいところだけど、裏を返せばその所為で命を落としていたかもしれない。
 まぁ何にせよ、最小限の〝被害〟で済んだと思う方が賢明だろうね」

「……っ」

 メルゼの淡々とした物言いに、少なからず苛立ちを覚えたアレンではあったが、辛うじて怒気を飲み下す。
 要するに、彼はこう言い捨てたのだ。たった一人の犠牲程度では、こちらには何も響きはしないと。死力を尽くした武人を貶めるような発言を、あろうことか総長たる彼が口にしたのである。それは武に全てを奉じた者たちへの侮辱に他ならない。
 彼は――死人を、犠牲になった尊い命を、いったい何だと思っているのか。

「……今回の作戦で亡くなった犠牲者に対して、それはあまりにも辛辣な言葉ではありませんか?」

 普段は聞き手に徹するクレアも、先の発言だけは聞き捨てならないのだろう。おもむろに発した諌言は、微かに震えていた。傍らの女騎士が秘めたる怒りの程を知りつつ、アレンもまた努めて冷静に進言する。

「私たちを厳しく戒めるだけならば、私たちとて甘んじて受け入れます。ですが、犠牲となった者への冒涜も取れる発言は、亡くなった彼らの気持ちを踏み躙るのと同じです。今すぐに撤回していただきたい」

 その言葉を聞いた途端、メルゼは微かに眉を顰めた。

「それを冒涜と捉えるかどうかは、君たちと僕の価値観の違いでしかない。撤回するも何も、犠牲は犠牲でしかないよ。君たちは、ただ亡くなった者たちを憐れんでいるだけに過ぎない」

「確かに価値観の違いかもしれません。ですが、私は――今まで亡くなった者たちが、単なる犠牲であったとは思えません。確かな証拠と発見を残した者もいます」

「それが勝手な言い分であることを理解するべきだよ、アレン君。どれだけ犠牲を尊いものへと昇華させようとも、結局は死以外の何物でもない。
 ――亡くなった彼らにも愛する家族がいた。唯一無二の友人がいた。護りたい者がいた。笑い、泣き、ときには己の葛藤に苛まれる。そんな当然の人生すら歩めなくなった彼らの気持ちを、歓喜を、憤怒を、哀切を、悔恨を、君は理解することができるのかい?」

「……ッ。それは……」

「僕には理解することができない。それは死者にのみ与えられる〝苦痛〟だからだよ。逃れることも免れることもできず、絡め取られ、縛り付けられる。その絶え間ない痛みを、彼らは永遠に味わい続けなくてはならない。
 死者への弔いを口にするのなら構わない。悼むのもね。けど――死者の気持ちを理解したつもりで語るのは、彼らの心を代弁することだけは、絶対にしないでほしい。それでも尚、僕に対して謝罪を求めるのなら――この場で謝るつもりだよ」

 そう真摯に語るメルゼの言は、普段の飄々とした物言いとはまったくの真逆だった。生きる者の心を解することはできても、死した者には思いを馳せることしかできない。死者の心胆を真に解することはできないのだと――その事実を知ってほしいがために、彼はアレンの言い分に食い下がり続けたのだ。
 その豹変ぶりに呆気に取られるあまり、異議を申し立てる機を逃してしまう。二人の沈黙を肯定の意味と捉えたのか、メルゼは早々に話題を断ち切った。

「……少し話が逸れてしまったけど、僕の話はこれで終わりだよ。君たちの処罰については、僕の方できっちりと決めさせてもらうからね。
 それじゃ、ご苦労様――と言いたいところだけど、アレン君はこの場に残ってほしい。君が発見した新たな証拠について、実は捜索部隊の者たちから密かに進言されていてね。疲れているところ悪いけど、もう少しだけ付き合ってもらうよ」

 アレンを見据えるメルゼの眼差しは、まるで全てを知っていると言わんばかりであった。どうやらアレンが進言するよりも先んじて、昨夜の惨劇の程は彼の耳に余さず行き届いていたらしい。


 先に休んでいてほしい――そう言うと、クレアは大人しく頷いた。一礼と共に退室した彼女の後姿を見送った後、アレンはすぐさま長椅子に腰を据え直した。
 アレンが証拠品として提出した銀の糸を、メルゼは指先でそっと摘み上げた。

「……この糸が、罠の作動の鍵ではないかと?」

「はい。木の裏に仕掛けられていた罠の絡繰りは判じかねますが、おそらくその糸に外部からの力が加わることによって作動する仕組みだったのではないかと。あくまでも想像の範疇に過ぎませんが」

「彼らの進言に間違いがないなら、その罠は小型の杭だと聞き及んでいるんだけど……その通りなのかい?」

「間違いないかと思います。あれほど露骨に隠されていれば、小型の杭が糸を断ち切る役割を持っていたとしか考えられません。……その罠は、被害者が踏み込んだ瞬間に作動したのですか?」

「いや、どうやら違うみたいなんだ。被害者が踵を返した直後だったらしい」

「直後……足をどかした直後に作動する仕組みにしていたのでしょうか?」

「多分そうだろうね。でなければ証言と食い違ってしまう。おそらく亡くなった彼は、その僅かな油断を突かれてしまった。まさか自重によって作動する罠だとは思いもよらないだろうからね」

 それならば対処が遅れてしまうのも仕方がない。だが、それよりも解せないのは――その罠に至るまでの手口である。

「だとするなら、どうやって被害者を罠に誘導したのでしょうか? 思わず気に留めるような目印か、あるいは何か目立つ物でもない限り、到底注意を引くことなどできないのでは?」

「それなんだけどね。彼らの証言によると、捜索隊長は罠にかかる直前に木の上を調べたらしい。つられて見上げた彼らは、ふと木の枝に布地の断片が引っ掛かっているのを見咎めたらしいんだ」

「……布地、ですか」

 まだ確証を得るには至らないが、ある程度の推論は導き出せる。
 あの罠は、踏み入った者の自重によって作動する仕組みだった。まず梢に引っ掛けた布地の断片で注意を引きつけ、対象となる人物に草叢に紛れ込ませた糸を踏ませる。もし何の違和感も抱かないまま引き返そうとすれば、あの小型の杭によって糸は容易く断ち切られ――その瞬間、罠の本体が作動する。

「今回の罠もそうですが、どうして今に至るまで発見されなかったのでしょうか? 大元となる杭の仕掛けを偽装しなかったところを見る限り、それほど巧妙に隠されていたとは思えません」

「単に見過ごされ続けたか、あるいは――捜索部隊の心理を逆手に取ったかのどちらか。設置場所は極めて単純、加えて仕掛け方もまったく工夫を凝らしていないにもかからず、今まで発見されなかった。敢えて真っ先に思い当たる場所に仕掛けることで、捜索の選択肢から除外されることを考慮していたのか……こればかりは、さすがの僕でも解りかねるよ。
 ただ確実なことは――侵入者の手口は奇襲だけに留まらない、ということだ。他にも罠が設置されていることを考えると、これからは行動方針も変更しなくちゃならない。なるべく被害を出さないように、ね」

「……その罠については、もう回収されたのですか?」

「いや、それがね……回収されてはいるんだけど……」

 メルゼにしては珍しい、歯切れの悪い物言いだった。

「回収されてはいると。……その続きは?」

「……正直なところ、解明の方で詰まっているみたいでね。原理はすぐに判明すると報告を受けたけど、その前に複雑な仕組みを分解しなくちゃならないらしい。どちらにしろ、今すぐに罠の仕組みを知ることは不可能だろうね。罠の存在については、先程の方針と合わせて僕の方で対策を練ることにするよ。
 ――とにかく。アレン君の発言のおかげで色々と助かったよ。ありがとう」
 
 謝礼で強引に締め括り、メルゼは机上に糸を置いた。更なる言及はない。どうやらアレンに対する問答は以上のようである。てっきり時間が掛かると思っていただけに、随分とあっさりと終わったことに意外感を禁じ得ない。
 もしかすると。先程の淀みない受け答えから察するに、事前に彼は報告書を通じて被害報告を受けていたのかもしれない。報告書の簡潔な内容だけでは補い切れず、現場に居合わせた人物に直接問い質す必要があった。捜索部隊の証言以外で、より決定的な物的証拠を発見した人物――それが偶然にもアレンだったのだろう。

「あの。もう話は終わりでしょうか?」

「罠の報告についてはね。実はもう一つだけ、アレン君の意見を聞いておきたい案件があるんだ」

「……何でしょうか?」

「そうだね……どう切り出したものか迷ったんだけど……端的に言うとするなら。
 アレン君。もしこの訓練団内に、裏切り者がいるとしたら――君はどう思う?」




[38832] 序章[15]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/02/16 18:11

 この訓練団内に――裏切り者がいるとしたら――君はどう思う?
 その予想だにしない問い掛けに、他ならぬアレンは思わず返答に詰まった。どう答えるべきなのか――それすらも考えあぐねてしまい、僅かに開いた口からは微かな吐息が漏れるばかりだった。
 訓練団に紛れ込む影。
 その存在を考えなかったわけではない。思い至らなかったわけではない。本来なら真っ先に内部を疑って然るべきはずだ。
 ――否、ただ思考の埒外へと押し遣っていただけなのだ。
 有り得ない可能性として考慮することで、内部の者を疑わずに済むように――あくまで外部からの侵入者と決めつけ、何の躊躇いもなく敵意を剥き出しにできるように。
 仮に。その万が一の可能性に思い至ったとしても。
 誰が訝ろうか。
 誰が疑えようか。
 よりにもよって、訓練団内に叛徒が潜んでいようなどと。
 たとえ下級、上級の年数による垣根があろうとも。この訓練団に所属する者の志は一つのはずだ。他ならぬアレン自身がそうではないか。幼馴染のクレアが傍にいる。総長であるメルゼと思わぬ出逢いを果たし、それを介して彼の秘書たるミーシャとも知り合うことができた。どんな経緯があったにしろ、知己の関係を結ぶことができた。思惑や思想は違えども、今もこうして言葉を交わしている。
 だからこそ、アレンは信じ切れない。
 人と人との繋がりを信じているからこそ、人の親愛を肌身に感じ続けてきたのだから。

「……アレン君。一つだけ言っておくが、これはあくまでも可能性に過ぎない。だから、素直な君の考えを聞きたい」
 
 さすがに唐突に過ぎたと思ったのか、メルゼは補足を付け足した。――が、そんな密やかな気遣いを込めた言葉も、今のアレンには虚ろな響きにしか聞こえない。
 それ故に、どうにかして喉から絞り出した声は――明らかに揺れていた。

「……メルゼ総長。総長の仰る裏切り者とは、どういう意味でしょうか?」

「侵入者、という意味合い以外に何かあるかい?」

「どうして……内部に裏切り者がいると思うのですか?」

「さっきも言っただろう? あくまでも可能性に過ぎないと。実際に内部に裏切り者がいるという確証を得たわけじゃない。ただ……昨夜の一件で、どうにも腑に落ちない点があったのは確かだよ」

「腑に、落ちない……?」

「捜索部隊にバートン・ミラー捜索隊長。彼が罠によって殺され、彼の部下たちはそれを目の当たりにしていた。そこまでは何もおかしくない。
 けど、問題はその後にあるんだ。――どうして敵は、彼の部下たちを始末しなかったんだろうね?」

 解せないと言わんばかりに、メルゼはかぶりを振った。

「彼が罠にかかる瞬間を目撃していた部下たちは、その時点で罠という新たな脅威を知ってしまった。もしその情報が僕たちに知れ渡ってしまえば、遅かれ早かれ新たな策を講じられてしまう。自分にとって不利を招きかねない要因は排除し、充分な算段を立てるだけの時間を稼ぎたい。だからこそ、目撃者の口はすべて封じる――と、そう連鎖的に考えるのが普通のはず。
 けど、彼の部下たちは殺されなかった。それどころか無事に生き延びて、僕たちに罠という存在を報告してしまった。敵からすれば好ましくない展開であるのは間違いない。後の報告で知ったことだけど、死を見せつけられた部下たちは動揺していたらしいね。敵の手腕が確かなら、殺そうと思えば殺せたはずだよ」

「……最初から殺す気がなかった、ということですか?」

「はっきりとは断言できないけど、おそらくその通りだと思うよ。もしくは……自分の存在をより知らしめるために、敢えて詰めの甘い行動をしているのかもしれない。捕えるのは容易いと見せかけることで、逆に僕たちを策略に誘うためにね。
 最初の犠牲者が出て、次はクレア君までもが負傷した。今回の一件を除けば、たった一日の間に二人も死傷者が出たことになる。襲撃の間隔としては、あまりにも短すぎるんだよ。訓練団の内情にでも通じていない限り、僅かな時間で襲撃計画を立てるのは不可能なんだ」

「……総長の説明は納得に値します。ですが、未だに敵の姿を目撃したという証言は上がっていません。それだけで訓練団そのものを疑うなど……」

「もちろん、それだけじゃないよ。他にも根拠はある。
 ――実のところね、僕は訓練団の中に内通者がいるんじゃないかと睨んでいた。密かに収集した情報を、侵入者に伝えているんじゃないかとね」

「……内通者……?」

 突拍子もない話――そう一蹴してしまうのは容易だったが、続くメルゼの言葉は彼自身の発言を覆すものだった。

「でも、結局は僕の思い過ごしだったよ。昼夜を問わず哨戒兵たちに監視させ続けたけど、何も収穫はなかった。それどころか誰も外に出ようとしない。それが確認できた時点で、内通者の線は僕の中から消えた。
 ――そうなってくると、残された可能性は三つしかない。一つ目は、今も侵入者が身を潜めているという可能性。二つ目は、訓練団の内部に侵入者が紛れ込んでいるという可能性。三つ目は、既に侵入者が外部に逃走した可能性。このうち三つ目に関しては、まず可能性は限りなく低い。何しろ、壁の監視を担当している兵たちから発見報告が上がっていない。ましてや監視役の兵が殺されたという報告もない。となると、後は可能性の低い順から〝潰す〟か、あるいは〝試す〟しかない。……ここまで説明したら、後は解るよね?」

「だから、二つ目の可能性を〝試す〟……と?」

「その通り。可能性を〝潰す〟ことはいつでもできるけど、〝試す〟ことだけは今のうちにしかできない。結果はどうあれ、調べること自体に無駄はない。それに結果次第では、最も可能性が高い一つ目に絞り込むことができる。何とも合理的な方法だとは思わないかい?」

「合理的……ただ効率を重視するためだけに内部を探るのですか?」

「なら、逆に君に訊こう。今まで起こった複数の被害が、すべて外部の者の仕業であるという決定的な確証はあるかい? 今までの証拠品、証言――何でもいいよ。それらを用いて証明できるのなら、僕は訓練団の内部を疑ったことを謝ろう。
 ……さぁ、証明してごらん?」

「……っ。それは……」

 咄嗟に食い下がろうとして、アレンは思い留まった。
 確かに襲撃を裏付けるだけの証明は揃いつつあるが、肝心の外部の犯行であると決定付ける物的証拠は乏しい。外套や短剣などの用途が明確化された証拠品を除けば、せいぜい鉤爪付きの縄だけだ。最もそれだとて、必ずしも侵入の手口として使われたとは断言し切れていない。ただ投擲して壁の縁に引っ掛けるだけで、いかにも何者かが敷地内に侵入したように見せかけることもできよう。誤認を引き起こすためなら、そもそも最初から逃走の道具として用意する必要はない。
 単なる証拠と被害だけで、なぜ外部の犯行だと決めつけていたのか?
 逆に内部の者ならば、誰にも怪しまれることなく犯行に及ぶことができる。直接手を出さずとも、不慮の事故に見せかけて意図的に殺害することも可能だ。加えて夜間、昼間などの時間に縛られることもない。そもそも味方を心の底から信じ抜いているからといって、どうして相手もこちらを信頼していると言い切れようか。
 何故、問われるまで気付かなかったのか?
 これほど単純な結論に思い至らなかったのは、訓練団創設以来の出来事だからという理由だけではない。今まで証拠にばかり気を取られ、その確証に基づいた行動しかできずにいたからだ。理屈に凝り固まった思考を改めようともせず、ましてや己の慢心を戒めることもしなかった。ただ敵を捕らえるだけで充分に事足りると思い込んでいた。
 単なる武力による制圧だけでは、今回の一件を解決へと導くことはできない。最も肝要なのは、あらゆる事柄に疑念を抱き続けること。そして必要とあらば、時には〝内側〟を疑うことさえ恐れない心の在り方。
 だが、その事実を理解することはできても――己の心だけは如何ともしがたい。

「それでも、俺は……信じたくありません……」

「……アレン君。確かに僕は、君の考えを聞きたいとは言った。けど、それは君の願いだ。こうであってほしいという、君の願望に過ぎない。僕が君に求めているのは、そんな淡い期待ではなく――君の堅実的な考えだよ」

「ですが……」

「アレン・ルーベンス。何度も同じことは言わない。僕の質問に答えたまえ」

「……ッ」

 メルゼの冷然たる眼差しに睨み付けられては、さしものアレンも従わざるを得なかった。もし少しでも反論の意志を抱こうものなら、今の彼は決して容赦するまい。こちらの反駁はすべて黙殺されてしまうに違いない。

「それでは、改めて君の考えを聞かせてほしい」

「……はい。これは私の個人的な考えですので、あくまで一人の見解として捉えてください。訓練団の内部に裏切り者がいるという可能性は、必ずしも否定できません。確証が持てないうちに断じてしまうのは早計ですが、考慮するだけの価値は充分にあるかと」

「成程。それが君の見解だね。――なら、もう一つ質問するよ。
 もしも二つ目の可能性が存在していると仮定する。その可能性を裏付ける証拠に関しては不明のままだ。それを明確にするためには、まず何を探ることを目的にするべきだと思う?」

「……犯行に使うであろう道具、あるいは侵入者に関連する証拠品などでしょうか」

「そうだね。じゃあ、更に訊くよ。
 仮に君の言う証拠があるとしよう。その証拠を見つけるためには訓練団の内部を探る必要が出てくる。けど、目立った行動を起こそうとすれば裏切り者に勘付かれるかもしれない。そうなってしまったとき、君ならどうやって内側を探る?」

「私なら……まずは現状の把握といった名目を活用して、一度全員を食堂などに集めます。勿論、誰も妙な動きができないように警備を厳重にして。そして、その間に目ぼしい箇所を調べます」

「例えば、どこを調べるんだい?」

 その問いに逡巡するも、アレンは低い声で応じた。

「……修練寮などが最適ではないかと」

「なら、その根拠は何なのかな?」

「食堂やその他の場所では顔を合わせる機会がありますが、修練寮――とりわけ自分の部屋に関しては、余程誰かと親しくない限り、滅多に人を招き入れることがない場だからです。言うなれば、その人物の生活の場そのものでもあります。それ故に気が緩み、何か決定的な発見もあるのではないかと」

 問われるままに答える。無論、メルゼの提案に納得したわけではないが――二つ目の有り得ない可能性を除外するためだ。そもそも、好んで仲間を疑いたいと思うわけがない。

「他人の目に滅多に触れない場所にこそ、むしろ新たな証拠があるかもしれないと。要するに君はそう言いたいわけだね?」

「はい。……ですが、私の案には想定していない事柄が含まれています」

「それは?」

「仮に室内を探ったとしても、既に証拠そのものが存在していない場合です。例えば証拠が紙に綴られた文字とした場合、紙の処理方法はいくらでもあります。誰にも見つからないように焼却するか、あるいは細切れにして隠蔽する……この二つは、いま思いついた方法です。もしそうだった場合、捜索は無駄足に終わってしまうかと」

「簡単なことだよ。――それでも調べるしかない。さっきも言ったとは思うけど、調べること自体は無駄じゃない。調べる前から結果を決め付けてしまうこと……それが何よりも愚かしいことだと、少なくとも僕はそう思っているよ。
 まぁ心配はいらないよ。結果はどうあれ、すべての責任は僕が負う」

 ただ可能性を確かめるためだけに、志を共にする者たちを疑う……何とも漠然とした目的と断じる他ない。まだ完全に決定付けられたわけではない。それにもかかわらず、アレンは同意の有無を通り越して、もはや心痛すら覚えるほどだった。いかな総長の命に従わざるを得ないとはいえ、これでは同志たちへの裏切りにも等しい。
 この男は――訓練団の者たちを、信頼していないのか?
 自らの傍らに仕える者にのみ親愛の情を与え、それ以外は無駄と割り切っているのか?

「メルゼ総長。あなたは……信じていないのですか? あなたを慕う、この訓練団の仲間たちを」

「信じていないわけじゃない。むしろ、何かの間違いであってほしいとさえ思っているよ。でもね、僕は総長だ。彼らの命を預かる立場であることは重々承知している。この訓練団で起こり得る事柄の責任は、すべて僕が負わなければならないことも。
 けど。この一件は、僕が責任を持って解決しなければならない。その所為で、たとえ皆から誹りを受けようとも構わない。使える駒は全て使うのが僕の流儀だ。僕が総長であるうちは、誰にも余計な口出しはさせない」

「……ですが」

「アレン君。今の君は想像もつかないだろうけど――もし君が、僕と似たような立場になったとき、すべての責務を担うのは君だ。君を慕い、力を貸してくれる人はいるかもしれない。志を共にする朋友を得るのかもしれない。でも、最後に判断を下すのは君自身だ。
 今の僕と同じ道に至るのか、あるいは僕とは違う道を見つけるのか。そもそも、その瞬間が訪れるのかどうか。それは僕には分からないけど……少なくとも僕は、〝覚悟〟を決めているつもりだよ」

「……っ」

 覚悟。その言葉通りの意味に、思わずアレンは反駁を呑み込んだ。
 果たして――今のアレンは、この男と同じ言葉を、同じ口調で、同じように言い切れるだろうか。皆から罵られ、蔑まれることを恐れずに我を貫き通せるのだろうか。
 おそらく、できない。
 どんな理由、どんな理屈であれ、同志を疑うことに変わりはない。第二の可能性を否定するという名分のために、彼らに疑念を向けなければならない。だが、そうしなければ彼らの潔白を証明することはできない。
 その葛藤の板挟みこそ、アレンの最も嫌う事態であるというのに……
 それでも、今は縋るしかない。
 このまま悩み続けるしかないのなら――いっそのこと、メルゼの提案する〝賭け〟に乗るしかない。素性の知らぬ敵を斬るのならまだしも、あくまでも可能性に過ぎないというだけで同志を裏切りたくはない。止むを得ないことなのだ。
 つまるところ、今のアレンに残された術は〝妥協〟する以外になかった。
 そんなアレンの内心を知る由もなく、メルゼはひとつ頷いて続きを促した。

「少し話が逸れてしまったね。では、話の続きといこうか」

「……はい。それでは話を戻しますが、私も共に内部を探ればよろしいのですか?」

「欲を言うなら、君にも力を貸してほしい。――とは言うものの、君とクレア君は罰則を言い渡したばかりだ。どんな形であれ、罰則であることに違いはない。それに僕自身が決定したことを安易に覆すわけにはいかない、というのもある。まぁ……この場における処遇としては、別命あるまで待機といったところだね。
 それに何より、君も疲れているだろう? 食事はおろか、まともな睡眠もとっていないはずだ。この話はもう終わりだから、早く身体を休めた方がいい」

「お気遣い、感謝します。……最後に一つだけ、質問してもよろしいでしょうか?」

「何だい?」

「先程の内部を探るという件ですが、なぜ私に相談を持ち掛けたのですか?」

 単なる相談というだけならば、まだ納得の余地もあった。だが、先程までのメルゼとの対話は、もはや相談と呼べる範疇を超えている。作戦の打ち合わせにも等しい、いわば今後の計画を語り合っているも同然だった。
 この重要な対談に、どうしてアレンのような人間が指名されたのか――それだけが、どうしても解せないのである。

「どうしてと言われても、僕にはこう返すしかないかな。
 それはね、アレン君。少なくとも僕が見てきた中で、とりわけ君は仲間意識が高いと思ったからだ。誰よりも訓練団のことを一番に考えていると、そう直感したからさ。誰よりも信頼を知っているが故に、誰よりも信頼に対して過敏だからだよ」

「信頼に対して……過敏? 私が、ですか?」

「そう。以前、君はクレア君と仲が悪くなりかけたときがあったね。彼女は僕の下で動いていることを黙ったまま、実際に僕の口から語られるまで君に一切打ち明けようとしなかった。原因だけを見れば……少し言い方が辛辣になってしまうけど、単純に彼女に非がある。だけど、君は自分にも非があるんじゃないかと思い込んでしまった。違うかい?」

 メルゼの的確な指摘に、思わずアレンは頷いた。

「確かにそうですが、それと何の関係が……」

「どちらか一方が気分を害しただけで、もう片方にも被害めいた影響を与えてしまう……互いの信頼関係が成り立っているからこそ、何となく相手の情動の機微を感じ取ってしまい、自らも同じ心境に陥ってしまう。信頼を〝成し得る〟にはどうしたらいいか、あるいはどうすれば信頼を〝保つ〟ことができるか。信頼に過剰に反応する君だからこそ、その信頼を裏切らない方法を考えようとする。
 今回の相談もそれに似ている。責任は僕が負うと言っているにもかかわらず、なおも君は信頼を損なわない手段を提示した。……君には心苦しい思いをさせてしまったが、それを補って余りあるほどの成果をもたらしてくれた」

 それが答えであると言わんばかりに、メルゼは対談の趣旨を自白した。
 要するに、またもアレンは利用された――
 その事実に思い至りながらも、なおもアレンの胸中を締め上げているのは、他ならぬアレン自身に対する惨めさだった。

「いずれにしろ、対談の結果としては申し分ないものだったよ。今日中にでも作戦を決行するつもりだから、詳しいことは通達書を介して知ってほしい。
 随分と長引いてしまったけど、これで僕の話は終わりだ。お疲れ様、ゆっくり休むといい」



[38832] 序章[16]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/03/02 21:22
 一礼と共に退室したアレンは、見知った少女が壁に寄り掛かっているのを見咎めた。彼女もアレンの存在に気付いたのか、微かに口元を緩めた。――が、いかな穏やかなる笑みで取り繕うとも、その面持ちに浮かぶ疲労の色までは誤魔化し切れるものではない。

「……先に休めって言ったはずだぞ、クレア」

「あなたが出てくるまで、ちゃんと壁に身体を預けて休んでいたわ。それに確かに休めとは言われたけど、どこで休めとは明言されていないもの。それとも、私が出迎えたのが不満だったのかしら?」

「大した屁理屈だよ、まったく……」

 アレンとしては微笑み交じりに返したつもりだったが、喉から絞り出した笑いは思いのほか乾いたものだった。今になって疲労の影響が出始めたのだ。現界に達しかけているのは明白だった。長時間の不眠、食事の断絶――休む暇すら与えられず、ましてや身体を酷使し続けているともなれば尚更だ。
 もちろん、慌てて取り繕うだけの暇はなかった。見る見るうちにクレアは穏やかな美貌を翳らせ、それまで喜色に笑んでいた眼差しは、当然ながら不安の色合いを帯びる。

「……明らかに疲れ切っているわね。医務室に行って休んだ方がいいわ。ここからなら数分程度しか掛からないはずよ。ちょうど私もメデリック医師に用があるから、あなたも一緒に行きましょう」

「大丈夫だって。わざわざ医務室に行かなくても、部屋に戻ればいいだけの話だ」

「戻る途中で倒れないとも限らないわ。下手に無理するよりは、大人しく医務室で厄介になった方がいいわ。あなた自身は気付いていないでしょうけど、今のあなたの足取りは見てて覚束ないもの」

 そこまで指摘されてしまっては反論のしようもない。そもそも今まで倒れなかったこと自体が奇跡なのだ。無理を重ね続けた分の反動だと思えば、むしろ当然の報いである。

「分かった。けど、やっぱりメデリックさんに迷惑だけは掛けたくない。寝るなら医務室の前にある長椅子で充分だ」

「……随分と意地っ張りね。どうせ言っても聞かないでしょうから、せめて毛布だけでもメデリック医師から借りるわ。それくらいなら彼も許可してくれるはずよ」

「それなら別にいいんだが……」

 アレンは内心で胸を撫で下ろした。
 てっきり強引にでも連れて行かれるのかと覚悟していただけに、クレアがあっさりと諦めたことに関しては、正直なところ安堵の溜息を禁じ得ない。どうやら彼女もアレンと同じで、何の益体もない論争に発展して時間を潰すことだけは避けたいらしい。そういった尤もらしい結論を差し引いても、もはや互いの疲労は限界に達しつつあった。大人しく身体を休めるか、あるいは不毛な意地の張り合いを延々と続けるかと問われたら――無論、前者を選ぶ他ない。

「それじゃ、行きましょう。今は身体を休める方が最優先よ」

「ああ……って。おい、何してるんだ?」

 さしものアレンも、クレアの突飛な行動には狼狽した。
 アレンの懐にするりと潜り込んだクレアは、あろうことかアレンに肩を貸そうとしたのである。アレンとて男の身。ましてや騎士を志しているともなれば、当然、己の全てを賭すに相応しい自負心も持ち合わせている。それにもかかわらず、よりにもよって彼女に付き添われるなど――この羞恥に勝るものが他にあろうか。
 これでは、まったく逆の立場ではないか。
 本来の男と女の立場とは、男が女を守り、女は男の背に守られ続けるものではないのか。

「一人で歩けるから大丈夫だって。な? 頼むから離れてくれよ」

「駄目よ。医務室までは後少しだから、それまでは我慢して」

「無理だ。俺にも男としての尊厳というものがある。だから――」

「絶対に駄目よ。これ以上文句を言うつもりなら、あなたを強引にでもメデリック医師に診せるわ。――まだ、何か文句があるかしら?」

「……それは勘弁で頼む」

 その冷ややかな一言を前にしては、もはやアレンに反論の余地はない。この幼馴染が垣間見せる頑なさは並大抵のものではないと、既にアレンは経験から学んでいる。
 ふと窓を見遣れば――とうに暁は過ぎ、今や頃合いは早朝を迎えている。
 微かに聞き咎めた鐘楼の涼やかな響き。新たな一日の始まりを告げる音色。その澄み切った美しさに思いを馳せながらも、なおもアレンの脳裏を絶えず掠め過ぎるのは、先程のメルゼとの談話の一幕。
 ――少なくとも僕は、〝覚悟〟を決めているつもりだよ――
 あの言葉に一切の躊躇いはなかった。在るべき事実を明言したまでのこと。迷うまでもないと。ただ己に課せられた責務を全うするだけだと。その意志を、その我を、ただ貫き通しただけの話である。
 なら、今のアレンはどうなのか。
 もはや妥協するしかないと、そう諦めたはずの問い。先と同じ自問自答の繰り返しであることは充分に承知している。その問答の果てに至る結論もまた、既にアレン自身が己で折り合いをつけた事柄であることも。それでも再び問わずにはいられない。
 どれほどの悔恨に呑まれようとも、決して己の所業を顧みないと誓えるか?
 同志に刃を向ける事態に至ったとしても、決して迷いを抱くことはないか?
 僅かな望みだった。再び自問に向き合った今ならば、もしかしたら納得するに足るだけの答えを得ることができるのかもしれないと。だが――そのささやかな期待すらも、アレンの〝覚悟〟を固めるには至らない。
 己を追い詰めたところで、何か思い至るわけでもない。
 一体、どうしたら……
 そう思い悩みながらも、アレンは黙々と歩を進めた。疲労を訴え掛ける両脚の痛みも、胸中を苛む懊悩に比べれば軽い。何の問題もない。――が、それ故にアレンはまったく気付いていなかった。
 思案に耽るアレンの面持ちを、横合いから見つめる眼差しに。


           ×     ×     ×


 朗らかに笑う眼前の初老――メデリック・アライアンと顔を合わせるのは、これで二度目である。
 クレアが差し出した左腕、そこに深々と刻み込まれた刺傷を凝視しつつ、メデリックはひとつ頷いた。

「――ふむ。傷口が開いておらんところを見る限りでは、あまり無茶なことはしていないようだな。結構、結構。何度も医者の厄介になる者ほど面倒な奴はおらんからな。その点、お嬢ちゃんは物分かりが良くて助かる」

「……ええ、それは何よりです」

 愛想笑いを返しつつ、クレアは左腕に真新しい包帯を巻く。
 診察結果に談笑を織り交ぜるメデリックの物言いは、果たして医学に通ずる者として如何なものか。王都直属の医師に並び立つ腕を持つと評されているだけあって、いざ彼と対面した際の拍子抜けは計り知れない。誉れある印象とは真逆の、唯の人懐っこい老人――わざわざ詳らかにする必要性が感じられないほど、彼の内面性はあまりにも純粋に過ぎた。これで幾多もの戦場を渡り歩いてきたのだから、つくづく人というのは見掛けによらないものである。

「傷口の具合、縫合ともに変化はなし。途中経過は良好。これ以上ないほど順調な回復をしておる。これなら近いうちに傷口も塞がるだろう。また機会ができたら足を運んでくれ。でないと一向に完治できんからな。
 というわけでだ。――ほれ、これを持って行け。毛布一枚で良かったか?」

「ありがとうございます」

 礼を述べ、メデリックから差し出された毛布を受け取る。この毛布を借り受けることになった経緯については、既に彼には諸々の事情も含めて説明済みである。
 何にせよ、僅か数分足らずの診察は終わった。メデリックから必要な物も受け取った。医務室に留まるだけの理由はない。何より彼の仕事の邪魔をするわけにはいくまい。彼には彼なりの都合があるだろうに、それを後回しにしてクレアの再診を担当したのだ。

「それでは、また機会を見て訪れますので。――失礼します」

「まぁ少し待て。まだ話は終わっておらん」
 
 足早に退室しようとしたクレアを、メデリックは片手で制して踏み止まらせた。

「まだ何か?」

「うむ。別に大した用というわけではないのだが……廊下で待たせている坊主、本当に大丈夫なのかと心配でな」

「……それには同意ですが、それを彼に言い聞かせたところで無意味です。メデリック医師の厄介にはなりたくないと言うほどです。他人に余計な迷惑を掛けることを嫌っている以上、彼に無理強いをさせることはできません。それが鬱屈を溜めない一番の方法だと思います」

「そりゃそうかもしれんがな……医者としては休ませたいと思うのが普通だ」
 
 やはり医師であるメデリックからすれば、身近にいる患者候補を見過ごすことはできないのだろう。それが彼の性分であることは明白だった。――が、それは詮無いことだ。あの幼馴染の少年は頑なに拒み続けるばかりで、決して首を縦に振ろうとはしない。それはクレアが誰よりも知っている。
 その厳然たる事実を、果たして彼が理解しているのかは疑問だが、それに関しては心配に及ぶまい。既に彼は医師として大成を遂げた身である。今に至るまで数多の患者を診てきた彼ならば、おそらくその過程の中で培われた心眼の程も並大抵ではあるまい。

「大体、最近の若い者は己の頑健さに頼り過ぎるあまり、身体を休めるということがどれだけ重要なことか理解しておらん奴が多い。それでも少しの無茶程度なら、儂とて成長に必要なことだと思って大目に見る。
 ――が、明らかに具合の悪い患者は論外だ。そういう己を顧みない奴は、強引にでも寝台に縛り付けて治療してやるところだ。坊主については……まぁ言い聞かせるだけ無駄だろうな」

「……そうですね。ですが、メデリック医師の言い分は正しいと思います。今は彼を見守ることしかできません。彼も妥協して医務室の前で眠るようですから、いざとなればメデリック医師に診てもらうことになりますが、そのときはお願いします」

「いざとなる前にできれば診ておきたいのだが……まぁ強引に診察して抵抗されるよりはいいだろうな。嫌がる患者ほど面倒な奴はおらん。そういう輩は身を以て知らんと理解できんからな。
 それを身に染みて理解した患者は、己の身体の些細な異変にも気を遣うようになる。ときには教訓として胸に刻むこともできよう。正直なところ、直接医者が診るより効果的だ。人生で起こり得る経験は、その人物にとっての良薬にも等しい。それは苦いのか、それとも甘いのか、はたまた無味なのかは判らんがな」

 さらりと医師にあるまじき発言を口にしたにもかかわらず、メデリックの眼差しは冷ややかなものだった。患者に対して悪影響を及ぼすよりは、むしろ患者自身が自らの異変を自覚するべきだと――その患者に対する独特な価値観が、彼を一端の医師に仕立て上げたのかもしれない。

「まぁ何にせよだ。身体の異常ともなれば医者の出番だが、それ以外はお嬢ちゃんに任せるとしよう。この老いぼれよりも若い娘の方が、あの坊主も嬉しいだろうからな。
 ――後、お嬢ちゃんは知っておるか分からんが。あの坊主、お嬢ちゃんの処置が終わるまで寝ずに待っていたぞ。自分も疲れているだろうに、それでもお嬢ちゃんのことを一番に考えておった。だからどうというわけではないが……いざというときは、お嬢ちゃんがあの坊主を支えるんだぞ?」

「……それは、医者としての助言ですか? それとも人生の先達としてですか?」

「どちらも……と言うのは、さすがに綺麗事すぎるな。大部分は人生の先達としてだ。伊達に長生きしとらんからな。儂から見て、お嬢ちゃんたちはまだまだ若い。自分の思っている以上に、人生というものは長いようでいて短いものだ」

 達観の相も露わに、メデリックは続けて語る。

「今でこそ医者を名乗っている儂も、若い頃は医学の何たるかも知らん未熟者だった。無論、この手で救えなかった命もある。そのたびに己の無力さを呪った。医者の道を諦めたいと思うほどにな。今にして思えば、儂は随分と打たれ弱い人間だったよ。
 だからこそ、お嬢ちゃんたちに悔いの残る生き方をしてほしくない。棺に片足を突っ込んだ老いぼれはともかく、お嬢ちゃんたちのような若者は〝幸〟を求め続けるべきだと、儂はそう思っとる。……少々、説教じみた物言いになってしまったな」

 そう結びをつけたメデリックは、気恥ずかしさを紛らわすように微笑んだ。数十年もの年月を重ねてきたこの初老の名医は、今までの人生の中で果たして何を目の当たりにし続けてきたのか、それはクレアには到底及びもつかない。ただ一つだけ判ることは――彼の言う通り、為すべき事柄を為すことだけである。
 それを自覚しているからこそ、クレアもまた同意の念を込めて頷いた。

「是非もないことです。いえ、それ以前に――たとえ何があろうとも、彼を危険に晒すような真似はしません」



 身体が重い。眠い。
 完全に無理が祟ったのだと、アレンは散漫とした意識の中で思った。
 抗いようのない疲労と睡魔の両方に押し寄せられては、もはや平静を保ち続けるだけの余裕すらない。いっそのこと、このまま意識を投げ出してしまいたいほどである。仮にそうしたところでクレアは咎めないだろうが、アレンが先に休んでしまっては彼女に申し訳が立たない。
 そんな背反に駆られていると、不意に医務室の扉が開いた。一礼と共に姿を見せたのは、他でもない――診察を終えたばかりのクレアである。彼女が手にしている毛布は、おそらくメデリックから借り受けてきた物であろう。

「……よう。少し遅かったな」

「まだ六分程度よ。それほど経っていないわ。――ほら、ちゃんと借りてきたわよ」

「色々と悪いな」

 差し出された毛布を受け取るや、アレンは長椅子に倒れ込もうとして――そこでふと、堅い板張りとは異なる感触に気付いた。思わず上体を起こしかけたアレンを、背後から伸び迫った柔手が優しく引き戻す。
 再び横たわったアレンを迎えたのは、頭部を受け止める柔らかな心地良さと、そして――瞠目するアレンを穏やかに見下ろす、クレアの微笑みであった。そこでようやく、彼女の膝を枕代わりにしていることに遅まきながら気付き、アレンは狼狽交じりに問う。

「ぇ、な……何で、膝枕を……?」

「……そんなに驚かないでくれるかしら。こうした方が、あなたも寝やすいでしょう?」

 またも伸びたクレアの掌が、今度はアレンの髪に触れる。彼女としてはアレンが眠り易いように手助けしているつもりなのだろうが、こうもゆっくりと梳るように撫でられては、むしろ彼女の手の温かみを意識してしまい、かえって眠ることができない。まるで母親にあやされる幼子のようではないか。

「……すまんが、どいてもらえると助かる」

「絶対にどかないわ。あなたが嫌だと言ってもね。それに今のあなた、明らかに様子がおかしいもの。強いて言うなら……そう、先程のメルゼ総長の一件。それと何か関係があるような気がしてならないのよ」

「……気のせいだろ。お前の考え過ぎだって」

「アレン。――正直に答えて」

「……分かった」

 アレンとて、元より隠し通せるとは思っていない。むしろ分かり切っていたことだ。遅かれ早かれ、いずれは話すことになるのだろうと。何よりも――こうも真摯に問い質されては、咄嗟に言い繕う芸当などできようはずもない。俄仕込みの小細工が通用するほど、眼前の幼馴染の目は曇っているまい。
 何から語るべきか迷うが、まずは――

「……なぁ、クレア。もしもの話だ。この訓練団に、裏切り者……侵入者が紛れ込んでいるとしたら、お前はどう思う?」

 その問い掛けに、クレアは僅かに眉を顰めた。

「……それは可能性の話? それとも私に意見を求めているのかしら?」

「どちらかと言うと両方だ。先に可能性として考慮してから、どうしてそう考えたのかを聞かせてくれ」

「私は……そうね。どう答えたらいいものか、迷うけど……」

 さすがに扱い辛い内容らしい。しばしクレアは逡巡する様子を見せていたが、やがて言葉を選ぶように語り始めた。

「正直なところを言うとね。私自身、昨夜の一件を通して不可解だと感じていたわ。捜索部隊の面々が殺されることなく、無事に生き延びたことも含めてね。
 ……それで、私個人の考えだけど。内部に裏切り者がいるという説は、可能性としては充分に有り得ると思うわ。回収された物的証拠は多々あっても、実際に侵入者を見たという目撃証言は無い。けど、昨夜の一件からしても侵入者は活動を続けている。となると、敵に残された行動範囲は多くはない。森か、内部の二つに絞られる」

「……」

「あなたの問いに沿うなら、この場合は後者の方になるわ。侵入者は訓練団内に紛れ込み、なおも殺害を企んでいると。少なくとも私はこう考えたわ。
 ……あなたがメルゼ総長と話していたのは、その可能性について語り合うため……ではないわよね?」

「あぁ、そうだ」

 そう問い返され、アレンもまた同じように頷いた。

「メルゼ総長と語り合ったところまでは、お前の推測通りだ。けど、その先……いま言った可能性を実際に試すところまで話は進んだ。それを試すための方法や策をある程度固めてな。しかも今日中に文書を介して訓練団に通達、そして実行の段階に移すらしい」

「今日中? それは……さすがに早計だと思うわ。いくら充分な策を練るからといっても、実際に侵入者がいた場合の対策はできているのかしら? 最悪、犠牲者が出かねないわよ」

 メルゼの即断即決には、さしものクレアも驚愕を隠せないらしい。成程、確かに彼女の指摘は最もだ。言い分も理に適っている。――が、その可否を決定するのは彼女でもアレンでもない、メルゼである。

「そうなったときの責任は、すべてメルゼ総長が担うと言っていた。今更俺が意見したところでどうにもならないだろうし、もう決まった事柄なら尚更だ。一度決められたことは変えられない」

「……あなたは、それでいいの? 納得しているの?」

「納得できるはずがない。俺は今でも反対しているんだ。異を唱えることで可能性を否定できるなら、今すぐにでもどうにかしたいと思ってる。
 けど……俺には、覚悟がない」

 己の心境を吐露した途端、アレンは心を抉り取られんばかりの苦痛に晒された。だが、もうアレンは腹を括っていた。己を責め、悩み――それでも至らなかった問いを、アレン自身に対するやるせなさを、もはや隠す必要はないと。

「どうすべきなのか、どうしたらいいのか……俺には分からない。俺は、メルゼ総長みたいに覚悟を固めることができない。同志を裏切りたくない。剣を、執りたくない……」

「……」

「俺は、どうしたらいい。……教えてくれ、クレア……」

 その情けない声音は、咽び泣く幼子のそれだった。
 もう無理なのだと悟った。この終わりのない問いから脱するには、もう一人ではどうしようもない。何もできない。あまりの惨めさに目を背けることでしかできない。剣を執る騎士としての自負も……否、もはや男としての最後の意地すらも擲って、アレンは眼前の幼馴染に縋るしか他になかった。

「……アレン」

 クレアの聞き慣れた声。――が、そこに混じり込んだ驚愕を、アレンは決して聞き逃さなかった。普段とは異なるアレンの様子に、彼女もまた明らかに当惑しているようだった。
 臆病者と罵られても構わない。蔑まれても、嘲笑われてもいい。いつか向けられるであろう嫌悪の眼差しを、浴びせられるであろう侮蔑の一言を、それら全てを甘んじて受け入れるつもりだった。そうなって当たり前のことを、アレンは問い掛けてしまったのだ。
 それ故に――
 クレアの口から思わぬ言葉が飛び出したことには、正直なところ困惑を禁じ得なかった。

「――あなたの、好きなようにしたらいいと思うわ」

「……好きな、ように……?」

 突き放すとも、見放すとも知れない物言い。
 解釈に悩むアレンを余所に、年来の幼馴染は静かに語る。

「悩んで、苦しんで……それでも答えが出ないときは、誰にでもあると私は思っているわ。誰かに助けてほしい。手を差し伸べてほしい。何も好きで苦しんでいるわけじゃないとね。何の悩みもなく、苦しむこともなく、ただ穏やかに過ごしていられたらいいと誰もが望んでいるのかもしれない。
 ――けど、私たちは生きている。この世に生を享けた以上、摂理には逆らえない。どれだけ幸せを願っていても、苦痛からは逃れられない。痛みがあるからこそ、それを忘れさせるほどの喜びがある。それを理解しているからこそ、人は痛みと向き合うしかない」

「……」

「でも、どうしても諦めたくなるときはある。逃げ出したい。目を背けたい。自分だけが理不尽を被るのは嫌だと。それはどんな局面であっても、ふとした瞬間に生じてしまう。乗り越えるのは無理だ。けど、何があっても乗り越えなければならない。その両方に板挟みにされたとき、どう思うのか……たったそれだけのことで、その人の在り方は大きく変わる。
 私自身、それほど長生きしているわけじゃないわ。せいぜい一六年程度。誰かに説法するには、まだ経験不足かもしれないけど……あなたは、あなた自身の思うように行動したらいいと思うわ。周囲に流れずに、惑わされずに、自らの信じた道を貫き通すべきよ」

「自らの、信じた道を……貫き通す……」

「ええ、そうよ。どんなに辛いことがあっても、絶対に逃げ出さないで。剣を執ることを諦めないで。あなたの思い描いた理想、あなたの在るべき姿を思い出して。何もかも一人で抱え込んでは駄目。他のことを忘れても、いま私が言ったことは憶えていて。
 それでも、あなたが屈してしまいそうなときは――私が、ずっと傍にいるから」

 そう語り終えるや否や、クレアはよりいっそう微笑みを綻ばせ――そっとアレンの頬に触れた。掌越しに伝わる、彼女のささやかな気遣い。その言い知れぬ安堵感に心絆されるあまり、自然と睡魔が押し寄せてきたのか、徐々にアレンの視界は朧な輪郭を伴い始める。
 ――今は休んで。大丈夫、私はいなくならないから――
 ――あなたの寝顔を見るなんて、随分と久しぶりな気がするわね。子供の頃以来かしら――
 クレアが何やら呟いているようだが、もはやアレンに応じるだけの気力はなかった。無意識のうちに張り詰めていた気が緩んだ反動か、それとも傍らにいる彼女の存在故か。できれば後者であってほしいと切に思う。
 彼女に打ち明けた甲斐あって、自問に対する答えを得た。ならば、後は――何も迷う必要はない。ただ剣を執り、己の信ずる道を進み続けるだけ。
 ――もしかしたら。
 アレンが密かに負担を抱えていることに、既にクレアは気付いていたのか? だから、わざわざ自らもまた傍らに寄り添うことで、アレンの苦痛を和らげようとしてくれたのだろうか?二人ならば分かち合うことができると。
 もし、そうだとしたら……本当に、彼女には感謝してもし切れない。
 半ば睡魔に委ねかけている意識。そこに残された僅かな余力を絞り出して、アレンは礼を述べた。たとえか細い声であろうとも、言葉に込められた想いは必ず通じるはずだと、そう信じて。
 ……ありがとう、クレア……
 その微笑み交じりの囁きが、果たして彼女に聞こえたかどうかは判らない。ただ――頬に触れる掌のぬくもりに包まれながら、アレンは微睡みの淵へと沈んでいった。



[38832] 序章[17]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/03/09 20:01
 少女の笑顔を守りたいと心の底から思ったのは、幼い少年にとって初めての決意だった。
 決して穏やかな雰囲気を絶やさず、常に少年の隣に居続けた彼女。いくつもの親交を深め合った友人。そして――少年にとって掛け替えのない女性。どんな痛みも苦しみも、彼女の優しい貌を恃みにして乗り切った。
 そんな彼女の微笑みが、今まさに少年の眼前で砕け散ろうとしている。
 彼女の父、クリフ・ブランシャールの死によって。


 父の戦死を知った少女の悲しみは、果たしてどれほどのものだったのか。
 父の墓前を前に落涙し、涙が枯れ果てた後も泣き続けた彼女。両目を痛々しいほどに泣き腫らし、制止に入った自身の母の手すら振り解いて――なおも虚空に向かって嗚咽混じりの掠れ声を漏らし続ける。
 どうして死んでしまったの、と。
 もっとお父様と一緒にいたかったのに、と。
 その儚い懇願は、徐々に勢いを増しつつあった雨音によって呆気なく散った。
 安らかに眠っているであろう少女の父。既に騎士としての役目を終えたその御魂が、彼女の空しい願いを聞き届けることはない。それは成就に至ることすら許されない事柄である。よしんば彼女の父が、とうに人の道理から解き放たれた身であろうとも――彼岸を跨いで彼女の涙を拭い去ることを、まさか生命の理が〝是〟と認めはすまい。
 決して覆ることのない是非に抗いながらも、おそらく彼女の父は後悔しているはずだ。永遠の苦悩に苛まれていることだろう。彼女との約束を果たせずに散ったこと、愛する妻と幼い娘を残して逝ってしまったことを。
 それでも彼女の父は、掛け替えのない家族の〝幸〟を願うだろう。死した後も一人の夫として、そして一人の父として。誰よりも〝責〟を重んじるが故に、彼女の父は為すべき所業を為す。それは尊い在り方であり、悔恨を贖う唯一の方法かもしれない。――が、何よりも報われないのは、他ならぬ彼女自身である。
 誰が受け入れるのか? 誰か救いの手を差し伸べるのか?
 そして何よりも――彼女の願いは、慟哭は、いったい何のためにあるのか?


 止め処なく溢れる少女の涙を知りながらも、少年は遠目から彼女の姿を眺め続けるだけ。
 墓標に刻み込まれた、彼女の父の名。その墓前に添えられた手向けの花々は、だが決して弔いの意味ではない。それは彼を称える栄誉の証。騎士としての任を全うし、戦場にて散華した勇敢なる者への讃美歌代わり――と、村の者たちは口を揃えて言う。泣きじゃくる彼女を慰めんがために。
 だが、どんな慰めも彼女の涙を拭うには至らなかった。
 それも当然のことである。父の死を突き付けられて、どうして涙せずにいられようか。悼まずに、偲ばずにいられようか。大事な人を喪う苦しみは、そう簡単に受け入れられるものではないというのに。
 沛然たる雨。その些細な重みに、少女の矮躯は半ば屈し掛けている。
 真っ先に我が子に駆け寄らなければならないはずの彼女の母すらも、哀しみに咽び泣く愛娘の背を呆然と見つめ続けるばかりで、一歩も進み出そうとはしない。そんな母子の隔てりを凝視する少年もまた同様であった。今すぐにでも彼女に寄り添わなければならないと――そう理解しているにもかかわらず、少年の脚は一向に動こうとはしない。
 仮に少女の元に駆け寄ったとして、何と声を掛ければいい?
 元気付けるために笑えばいいのか。それとも頭を撫でればいいのか。
 立ち尽くす少年の脳裏に閃いたのは、どれもが歳相応の幼稚じみた発想ばかりだった。まともな方法など思いつきもしない。元より人生の先達たる大人たちですら持て余してしまう事柄である。それは年端もいかぬ幼子が担うには、あまりにも不釣り合いに過ぎる役柄であることを示していた。
 何を迷っているのか。大切な人が泣いているのに、このままでいいのか。気の利いた慰めを言えなくとも構わない。ありのままの思いを告げるだけでもいいのだ。言葉にしない限り、この気持ちは伝わらない。
 進め――自らの思念に衝き動かされるまま、少年は少しずつ歩き始めた。絶対に止まるなと自分自身に言い聞かせながら。一歩ごとに胸中に生じかける躊躇いを、己に対する一喝で強引に押し殺しながら。
 やがて少女の母すらも通り越す。それでも脚は止まろうとはしない。
 何を為すべきなのか、何を語り掛けるべきなのか。難しいことは知らないし、解りたいとは思わない。ただ自分は何をするべきなのか、それだけは何となく判っていた。少年は自身に課せられた〝責〟を直感で悟り、そして漠然とした形ながらも理解していたのである。
 ふと、足が止まる。崩れ落ちんばかりに項垂れた、小さな少女の傍らに。

「……クレアちゃん……」

「……っ……ぅ……」

 クレア、と――そう親しみを込めた声すらも、少女の耳には届いていないのだろう。彼女の唇からは押し殺したような泣き声が漏れ出るばかりで、肝心の少年の存在には一切の反応を示さない。
 その無反応に怖じることなく、少年は続けた。

「……クレアちゃんのお父さんが死んじゃったのは、僕も悲しいよ。すごく悲しい……」

「……っぅ……ぅ……」

「僕には父さんと母さんがいるから、クレアちゃんの気持ちはよく分からない。でも……でもね。大事な人を喪ったクレアちゃんの気持ち……僕、分かるよ」

 少女の表情は俯いているせいで窺い知れなかった。それどころか彼女は少年に一瞥も寄越さない。そもそも呼び掛けに応じなかった時点で、既に覚悟を決めていたのだ。対する少年もまた、彼女の反応の有無にかかわらず勝手に続ける所存であった。

「夜に眠るときね、一人でいると考えちゃうことがあるんだ。僕の父さんと母さんが死んじゃったときのことを。独りぼっちになっちゃったときのことを。ずっと大事な人たちを一緒にいられるわけじゃないって思うたびに、どんどん恐くなってきて……つい父さんと母さんの寝台に潜り込もうとしちゃうんだ」

「……ぅ……っ……」

「潜り込んだとき、父さんと母さんは僕を抱き締めてくれるんだ。それで、僕に言ってくれるんだ。大丈夫だよって。恐くないからねって。それだけで僕は恐くなくなる。恐い夢も恐い考えも、全部どっかに飛んでいっちゃうくらい安心するんだ。
 ――でもね。僕を慰めてくれるときにね、最後に父さんと母さんは必ず訊いてくるんだ。『アレンは将来、どういう人になりたいの?』って。すごく優しそうな顔をして」

 脳裏に浮かび上がる情景、両親の顔、そして何よりも少年――アレンの思いを、ただ実直なまでに語る。

「僕はね、最初は必ず『騎士になりたい』って答えるんだ。そしたら父さんと母さんは笑ってね、『アレンの夢の話じゃなくて、アレン自身の話。優しい人になりたいとか、強い人になりたいとか、そういうのだよ』って言うんだ。
 だからね、僕はいつもこう答えるんだ。『僕はね、たくさんの人を助けられる人になりたい』って。それを聞いた二人はね、『アレンなら、絶対になれるよ。父さんと母さんも、アレンを応援するからね』って嬉しそうに頭を撫でてくれるんだよ」

 たどたどしいながらも、それでも少年は懸命に語ろうとする。拙い言い方かもしれない。頭に思い浮かんだことを言葉にしているだけだから、まったくと言っていいほど下手糞なのかもしれない。でも、少しでも伝わる思いがあるのなら――ここで止めたら駄目だ。

「それでね、お話を終わるときに一つだけ、僕にいつも言っている言葉があるんだ。
 ――『アレンは、アレンの思うように生きていきなさい。アレンの幸せが、父さんと母さんには何より嬉しいことだから』って。いつかクレアちゃんが、辛いことを大丈夫って思えるようになったら、きっとクレアちゃんの父さんも幸せだって、そう思ってくれるから……」

「……思う、ように……?」

 雨音に掻き消されるどころか、聞き逃しかねないほどの小さな囁き。辛うじてそれを聞き咎めることができたのは、幾つもの事柄の重なり合いが生んだ〝偶然〟と、そして何よりも少年の必死な〝語り掛け〟があったからに他ならない。

「……思うように生きていけたら……叶うのかな? お父様も、喜んでくれるのかな?」

 誰に問うとも知れない少女の呟きに、少年は半ば確信めいたものを感じた。
 ここだ。ここを誤ってはならない。もし言葉を間違えたら、きっと彼女は悲しんでしまうだろう。彼女を泣かせるのは、たとえ何であろうとも容赦する気はない。それが、たとえ少年自身であったとしても。
 だからこそ、はっきりと自信を込めて言う。

「絶対に叶うよ。クレアちゃんの父さんも嬉しがってくれる。いつか、きっと……辛いことを忘れられる日がくるから、だから……もう、泣かないで。もし恐い思いをしたら、クレアちゃんの母さんや僕がついてるから大丈夫。……ね?」

「……うん」
 
 そう頷いた少女は、微かに口元を緩めてみせた。満面の微笑とは呼べないまでも――僅かな希望を見出したようなその面持ちは、ほんの少しだけ穏やかさを取り戻していた。


           ×     ×     ×


 心地良い眠りから、アレンは目を覚ました。
 最初に視界に映ったのは、他ならぬクレアの寝顔である。長椅子の背にもたれ掛かるようにして寝息を立てている。どうやらアレンが眠った後も、彼女はアレンの傍に寄り添い続けていたらしい。

「……ぅ」

 未だ覚めやらぬ意識のまま、僅かに視線を傾けた瞬間――窓辺から差し込む陽光を直視する羽目になった。その突き刺すような眩さは、寝覚めの催促としては強烈に過ぎるほどである。無論、咄嗟に目を背けはしたものの、瞼の裏に焼き付いた刺激の余韻ばかりは如何ともしがたい。
 クレアを起こさないよう慎重に配慮しつつ、アレンはやおら立ち上がった。そうしてメデリックから借り受けた毛布を、代わりに彼女の身体にそっと掛ける。
 窓の外を見遣る。陽の傾き具合から推測するに、どうやら刻は昼に程近いらしい。相当な時間を睡眠に費やしただけあって、ある程度の疲労は抜け落ちたようである。少なくとも行動に影響を及ぼすことはないはずだ。――が、全快と断じるには程遠いのもまた事実。これからは体調の異変も考慮するべきだろう。
 眠気を完全に散らすためにも、まずは軽い運動から始めねばなるまい。

「……っし」

 アレンは呼気を繰り返して心身を整え終えると、今度は凝り固まった身体の筋肉を解し始めた。行動に支障をきたしかねない部位は徹底的に揉み、あるいは念入りに刺激を与える。最後に何度か屈伸を繰り返し、身体に異常は感じられないかを確かめる。それら一連の運動を終えるや、アレンは再び長椅子――穏やかに眠るクレアの傍らに腰を下ろす。
 彼女の長髪にそっと触れる。もはや滑らかな艶も失せてしまった亜麻色のそれは、彼女の疲労の証拠であった。敵の襲撃よって体力を摩耗したところを、大した休息期間も与えられずに作戦に参加したのだ。こうなってしまうのは無理もない。
 アレンにとって騎士の道が生き様であるように、女にとって髪の手入れは命よりも大事な責務であるという。それは彼女とて例外ではあるまい。そもそも剣を執る以前に、彼女とて年頃の乙女である。美しい物を愛で、見目麗しい殿方の傍らを歩みたいと――それが女としての唯一の幸せであると願っているはずだ。
 それ故に、ふと考えてしまう。
 もし彼女が騎士の家系に生まれなければ。平民出身のアレンと同じように、彼女もまた平民の家柄に生まれて落ちていたなら。アレンたちは巡り合い、何処にでもいる男女として共に歩む道もあったのかもしれない。そうなれば彼女の父は死なず、彼女自身も哀しみに苛まれることはなかったのではないかと。
 無論、それは〝もしも〟の話である。この世に生まれ落ち、騎士を志したからには、何があろうとも騎士として大成を為さなければならない。それは彼女とて同じことだろう。最初から存在しない事柄を望むということは、それ即ち騎士道に対する裏切りにも等しい。己の生きる術は剣以外には有り得ないのだから。
 そのとき、僅かな衣擦れの音を聞き咎めた。

「……ん……」

 微かな呻き声と共に、クレアが目を覚ます。咄嗟に彼女の長髪に触れていた指先を離し、アレンは何事もなかったかのように微笑んで見せた。もしや彼女の髪を触っているのが露呈したのでは――と内心冷やりとしたが、彼女の寝ぼけた様子を見る限り、どうやら気付いていないらしい。

「……おはよう、アレン。……いえ、この場合はこんにちは、かしら……?」

「よう、クレア。意外とぐっすりと眠っていたみたいだな」

「……ええ、そうらしいわね。ずっとあなたの寝顔を眺めているつもりが、逆に眠ってしまったわ。本当に残念だわ」

「そうかい。けど、まぁ……すまなかったな。お前は怪我人なのに、俺に付き添って長椅子で寝させるようなことになってさ。俺は平気だけど、お前は色々と辛いだろ? 今からでも医務室に行って、もう一回寝直した方がいいんじゃないか?」

「平気よ。何処で眠るにしろ、まったく眠らないよりはいいわ。それに体調については問題ないもの。充分な睡眠をとったのに寝させてくれなんて、そんなの惰眠を貪るのと同じだわ」

「……お前がいいなら、俺は別に構わないけどな」

 それ以上は何も言わない。元よりアレンに言及する権利はない。医務室に行こうというクレアの申し出を頑なに断っておきながら、今度は彼女に対して過剰に医務室を勧めるなど、自分勝手にも程がある。

「……で、どうする? メルゼ総長の厳命がある以上、俺たちは暇なわけだが」

「……何かをして暇を潰すしかないわね。私は本を読むくらいしかないけど、あなたは本を読むような性質ではないだろうし……困ったわね。剣の稽古に励むという方法もあるけど、それで疲れてしまったら元も子もないわ」

「なら、食堂は……駄目か。寝起きで腹は減ってないしな。それにメルゼ総長との一件もあるから、下手に出歩いて情報の伝達が遅れると困るからな」

 別命あるまで待機せよ――メルゼから命令が下されている以上、作戦に関わる一切の行動は禁止されている。暇を潰そうにも大して思いつかず、ましてや都合の良い笑具があろうはずもない。折角回復した体調を悪化させては意味がない。この手持ち無沙汰な現状を持て余してしまうのは、むしろ当然の事である。
 と――

「よう、坊主たち。目覚めの気分はどうだ?」

 軋みを立てながら開いた扉。その僅かな隙間から顔を出したのは、誰あろう医務室の主たるメデリックであった。アレンたちが目覚める頃合いを見計らっていたのか、その絶妙な割り込み具合には不審を禁じ得ない。

「メデリックさん……もしかして見ていたんですか? 俺たちが寝ているところ」

「当然だ。医務室の前で寝られたら、儂も医者として見ていないといかんからな。いざというときに対処できるように……まぁお節介だとは思うが、儂なりの無償の心遣いとでも思ってくれ」

「は、はぁ……どうも」

「随分と眠っていたようだが、どうやら体調は大丈夫そうだな。結構結構。医者の出番がないことは良いことだからな」

 感心したように頷くメデリック。いまいち釈然としないものを感じつつも、アレンは再び問うた。

「メデリックさん……何か用事でもあるんですか?」

「ん、実はな……坊主たちが眠っているときに通達が届いた。坊主たちが起きたら渡すようにと、メルゼの使いの者から預かっておる。坊主たちが起きているかどうか確認したのも、そのことを伝えるためだ。中身は見ておらんから、坊主たちで確認してくれ。――ほれ」

 そう訊ねたアレンを見て、メデリックは扉の隙間から一枚の紙を差し出した。
 どうやら思ったよりも早かったらしい。互いに顔を見合わせた後、アレンは差し出された通達書を受け取った。それを見届けたのか、メデリックは「儂からは以上だ」と言い残して扉を閉めた。それ以上の追求は一切ない。
 通達書に記載された内容は、非常に簡素なものだった。
〝緊急通達。訓練団内の者へ告げる。
 連日の侵入者の襲撃と被害、そして今後予期されるであろう敵の動向を伝えるべく、急遽総長であるメルゼ・マクレーンは情報共有も兼ねて現状を公開するとの決定を下した。メルゼ・マクレーンの関係者を除いた訓練団の者は強制的に参加するべし。開始日は本日、集合場所は食堂、刻は昼の頃合い。
 尚、この通達に背いた者は、総長権限を用いて退団処分とするか、あるいは厳重な処罰に課す〟
 アレンは窓辺に歩み寄って、再び陽の傾きを確かめた。既に中天に差し掛かりつつある陽光から察するに、おそらく作戦は始まっている。この通達に従い集まった修練生の多くは、まさか自分の部屋が徹底気に調査されていようとは夢にも思うまい。

「……この通達を読む限りでは、あなたの案をそのまま採用したみたいね」

「……みたいだな。けど、この通達にだってメルゼ総長なりの工夫と意図が含まれているはずだ。そうでなけりゃ、そのまま俺の案を採用したりはしないだろ」

 こうして互いに意見を交わし合いつつも、だがアレンたちが力を貸すことはできない。メルゼが待機命令を解禁する頃には、この通達の内容は遂行済みの案件として処理されていることだろう。
 遅かれ早かれ、今日中にでも判明することだろう。訓練団の内部から、果たして侵入者の痕跡が発見されるのかどうか。そして何よりも――本当に修練生に扮した敵が紛れ込んでいるのか、その結末を。
 このまま、何の証拠も発見されずに無事に終わればいいのだが――



[38832] 序章[18]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/03/16 19:44

 既に人の気はないと知るや、ミーシャ・オルコットは修練寮の内部に踏み入った。その後に続く形で部下たちも寮内に入り、ミーシャの次なる指示を待っている。

「……よし。お前たちは、その場で待機しろ。私は最終確認をする」

 部下たちにそう下知を飛ばしてから、ミーシャは修練寮の全体図を確認し始める。
 現在地は修練寮内部一階。階数は四階まで。各階の行き来には階段を使用する以外に移動手段はなし。一、二階までが下級修練生の部屋。残りの三、四階が上級修練生の部屋。下級修練生の寮部屋の総数は五二、上級修練生の寮部屋は六五。一階の部屋の数は二六、二階も同じく二六、三階は三四、残る四階は三一――
 ミーシャたちに与えられた時間は限りなく少ないのだ。手早い探索を求められる以上、万全を期すに越したことはない。たとえ住み慣れた寮内であろうとも、ミーシャは捜索の手を抜くつもりは一切なかった。
 全体図の各所に印を刻み付けながら、ミーシャは数刻前の出来事を反芻する。
 ミーシャからすれば、俄かには信じ難い話だった。――が、これがメルゼの下した決定ならば是非もない。それにミーシャ自身、昨夜の顛末に納得しかねた一人である。決して無視することのできない疑問を抱えていたが故に、彼の突飛な発言にも同意を示すことができたのだ。
 メルゼから命じられた些細な雑務を済ませ、いざ執務室に戻ってみれば――開口一番に彼は言ったのである。『ミーシャ。突然のことと思うかもしれないけど、落ち着いて聞いてほしい。もしかしたら――この訓練団内に侵入者が紛れ込んでいるかもしれない』と。
 さしものミーシャもこの唐突な切り出し方には当惑し、次いで明らかな怒りの念を抱いた。何しろ一切の脈絡もないどころか、秘書であるミーシャに対する最低限の労いすら欠いていたのである。――が、メルゼから詳しい話を聞くうちに、どうやら彼の発言にはアレンも協力しているようではないか。てっきり彼の独断による提案だと踏んでいただけに、これに関しては驚愕を禁じ得なかった。
 更に詳細な内容に入るにつれ、彼の語る話は現実味を帯び始めた。それは曖昧に過ぎるものではあったが、事の次第を呑み込んでいくにつれて、ミーシャもまた〝内部に潜む敵〟の可能性を試すだけの価値はあると判断し、彼が取り掛かっている計画に手を貸した。三人もの死傷者を出した以上、もう新たな犠牲者を増やすわけにはいかない――そんなミーシャなりの決意と、彼に仕える秘書役としての自負故であった。
 作戦の内容が決定され次第、すぐさま作戦遂行の編隊が成された。修練寮の内部を探る特別部隊に関しては、隊長としてミーシャ、その他一五名の少数編成で行われる。四名で一部隊だと仮定した場合、最大四部隊まで分割できる。既に人員に関しては調整済みのため、これ以上の変動は生じない。
 捜索方法に関しては、四部隊に分割して行うことになった。まず筆頭たるミーシャを第一部隊を除いた、即ち残る三部隊に指揮を執る統率長を配置。更に報告役の兵を各部隊から一名選出することで、より円滑な情報の共有と連携を取り合う。
 最後に指揮系統。部隊の指揮命令権はミーシャが預かり、最終決定権はメルゼが保有する形で取り決めが交わされた。部隊の編成と人数を除けば、それ以外の変更点はまったくなし。
 地図への印を刻み終わり、ミーシャは部下たちを呼び集めて口早に指示を下す。

「これより捜索活動を始める。私が率いる第一部隊は一階の部屋、残る第二部隊は二階、第三部隊は三階、第四部隊は四階を調べろ。すぐに部屋に立ち入ることができるように、全ての部屋の鍵は事前に寮の管理人に話をつけて開けてもらった。何らかの証拠を発見した者は、すぐに報告役を通じて各部隊に報告させろ。
 私たちに与えられた時間は少ない。加えて寮内は広い。常に迅速な行動を心掛けろ。――以上」

 ミーシャの指示を受けて、第一部隊以外の全部隊が階段を駆け上っていく。それらの足音が遠ざかっていった後に、ミーシャ率いる部隊も行動を開始した。手近な部屋から念入りに、かつ手早く探っていく。
 本来、秘書役に任命された者が作戦に抜擢されることはない。重ねて語るならば、ミーシャはメルゼに命令されて部隊長の座に据えられたわけではない。部隊を纏め上げる長に任命してほしいと、ミーシャ自身が彼に申し立てたのだ。
 総長の補佐及び執務の処理。それが秘書たる者の務めであり、それ故に与えられた権限もまた役職に沿ったものである。一例としては、総長不在の際に非常事態に陥った場合、総長が有する最終決定権と同等の権力を持つ〝特別措置権限〟の行使が許可されている。いわば二人目の総長と呼んでも差し支えないほどだ。
 そんな重要な役柄を担っているだけに、自らの立場を顧みずに作戦に加わったミーシャは、歴代の秘書役を務めてきた人物の中でも稀であった。
 傍観しているのが我慢ならなかった、というのもある。だが、何よりもミーシャを衝き動かしているのは、下劣極まりない手段によって散った犠牲者の無念を晴らすという一念だった。たとえ敵を討つことは叶わなくとも、敵を追い詰めるまでに至れば――亡き命の供養になるはずだと。
 今はメルゼが捜索の時間を稼いでいるが、それもいつまで誤魔化し切れるか。今回の一件に関する情報を開示するには、あまりにも証拠が足りないのだ。それどころか情報すら乏しい有様。ありのままの内容を語るとなれば、おそらく数十分ともつまい。
 その僅かな間に片を付けなければならない。このまま手を拱いていては、いずれ新たな犠牲が生まれてしまう。現状を突き崩す一手になるのなら、どんなに些細な証拠であっても構わない。そうでなければ――喪われた命に申し訳が立たない。
 ミーシャは素性も知らぬ修練生の室内に踏み入るや、すぐさま視線を巡らせる。必要最低限の家具はあれど、怪しげな私物の類は見受けられない。外部の興とは無縁の生活を送っているだけに、当然ながら修練生の住まう室内は質素なものだった。普段は殺風景と感じてしまう内観も、捉え方によっては捜索に余計な手間を掛けずに済む。
 一室に掛けている時間は多くない。僅か数分のうちに粗方調べ終わると、すぐに次の部屋へと移る。だが探せども漁れども、確たる痕跡は一向に見つからない。
元より探す当てがあったわけではない。虱潰しになってしまうのは致し方ないと言えるだろう。あくまで〝可能性の一つ〟として示唆されているに過ぎない案件である。そもそも捜索範囲を修練寮内に限定している以上、証拠が存在しているのかどうかすらも怪しいのだ。訓練団全体を調べ尽くせば、あるいは発見に至れるのかもしれないが、それでは膨大な時間を必要とする。半日足らずで終わる作業ではない。
 もしアレンの推測通りならば、既に証拠は破棄されてしまったのではないか。そうなると捜索は意味も失い、ただの盗人紛いの行為に成り果てる。それだけではない。もし修練寮内から何も発見されなかった場合、証拠であった〝何か〟は処分された後か、それとも別の場所に隠匿されているのか、はたまた存在すらしていないかの三つに増えてしまう。順に試していっては更に手間が掛かりかねないのだ。
 このまま、事の成り行きを天運に任せるしかないのか――
 そんなミーシャの懸念を、上階から駆け下りてくる足音が断ち切った。

「――ミーシャ隊長!」

 ミーシャの姿を認めるなり、足早に駆け寄ってくる一人の兵。その意味をたちどころに悟ったミーシャは、第一部隊の面々に作業を続行するよう指示を下してから、改めて兵に向き直った。

「私は、第二部隊の伝達役を請け負った者です。一つご報告したいことがございます」

「何だ?」

「はい。つい先程、一室の天井から血痕が付着した短剣を発見いたしました。発見したのは我が第二部隊、発見場所は修練寮内二階、下級修練寮の第三区画です」

「そうか。――して、その一室の住まう者の名は?」

 ミーシャからすれば、それは当然の問いであった。発見された証拠については、調べない限り知ることはできない。――が、事前に部屋の主の名を知ることはできよう。なるべく手間を短縮したいと考えているのなら尚更である。
 故に――

「はい。その部屋の主の名前は……」

 報告役の兵の口から語られたその名に、ミーシャは動揺を隠し切れなかった。


           ×     ×     ×


 作戦開始から、既に十数分が経過しただろうか。
 ここからでは窺い知ることはできない。だが、作戦終了を告げる報告が届いていないことから、おそらく作戦は継続中に違いあるまい。捜索は難航しているのか、それとも順調に進んでいるのかは不明だが、それについては編成部隊の手腕に掛かっている。手出しはおろか、口出しすらも禁じられているアレンたちには関わりのない事柄である。
 今のアレンたちにできるのは、ただ次なる指示が下されるのを待っていることだけだ。
 作戦に参加できないことを、これほど歯痒いと思ったことはない。せめて少しでも力添えができるならば、まだ待機命令にも納得の余地があろう。――とはいえ、既に誓約を破ったアレンたちには望むべくもないこと。周囲の制止を聞き入れず、己の独断で行動したという結果を覆すことはできないのだ。
 アレンは長椅子に腰掛けたまま、傍らのクレアに向けて問う。

「なぁ、クレア。今回の計画、無事に終わると思うか?」

「どうかしらね。修練寮を調べるとは言っても、部屋の数はあまりにも多いわ。それを徹底的に、かつ短時間のうちに調べ尽くすともなれば、余計な行動は控えるという前提条件がなくては成り立たない。
 残念だけど、私たちには何もできないどころか、そもそも行動することすら許可されていないわ」

「それは……分かっているつもりだけどさ。でも、このまま待っていることはできない」

「我儘を言いたいのは分かるわ。私だって、このままじっとしているわけにはいかないって思っているもの。動くこと自体は簡単よ。けど……さすがに今度ばかりは、メルゼ総長も黙ってはいないはず。ますます待機命令を引き延ばされるかもしれない。そうなると私たちの立場も危うくなってしまうわ。
 ……メデリック医師に毛布を返してくるわ。すぐに戻るから」
 
 クレアは立ち上がると、毛布を抱えたまま医務室の扉を軽く叩いた。アレンの更なる問い掛けを封殺せんがために、彼女は強引に会話を断ち切ったのだろう。作戦の状況を気に掛けてしまわないように、彼女自身、自らもまた馳せ参じたいという衝動に抗おうとしているのだ。
 やがて医務室の扉が閉まり、廊下にはアレンだけが残された。
 彼女の言う通り、今のアレンにできることは何一つもない。行くだけ無駄になりかねない。何よりメルゼの待機命令の禁に背くことになってしまう。それはアレンにとっても本意ではない。それを弁えているからこそ、彼女もまた自身の感情を殺さざるを得ないのだ。だが――たとえ命令に反する形になろうとも、いま行くべきではないのか。何もかも他人に任せてばかりでいいのか。
 たとえ禁則を破ることになっても構わない。このまま傍観に徹し続けるよりは、ずっと――
 微かな足音を聞き咎めたのは、そのときだった。

「――アレン・ルーベンス」

 不意に響き渡った凛冽なる声音。それは誰あろう、ミーシャ・オルコットのそれに他ならない。声の出所を見遣れば、そこには彼女の凛とした佇まいと――相対した者を竦ませるほどの寒気を放つ鋭い眼差しがあった。

「……ミーシャ秘書……?」

 彼女の様子を見るに、どうやら只事ではない。まさかアレンたちに情報が行き届いていないだけで、事態は更に切迫を極めんとしているのではないか―― 

「ミーシャ秘書。何かあったのですか?」

「……」

「……もしや事態が急変したのですか? 一体、何があったのですか?」

 そんなアレンの問い掛けに対する返答は、ミーシャの冷ややかな鞘鳴りの音によってもたらされた。突然の出来事にアレンが言葉を失うのと、虚空に抜き放たれた刺突剣の切っ先がアレンへ向けられたのは、ほぼ同時であった。

「……ッ。何をするのですか……ミーシャ秘書!」

「事態は急を要する。余計な時間を費やしている暇はない。単刀直入に言おう。
 アレン・ルーベンスよ。つい先程、修練寮内の貴様の部屋から新たな証拠が発見された。総長メルゼ・マクレーンとの緊急協議の末、貴様を捕縛するとの合意に至った。申し訳ないが、私たちに同行してもらう」

 無論、断ろうものなら――アレンの身動きを封じるかのように、僅かに刺突剣の刃先が揺らめく。もし逃げるような、あるいは抵抗するような素振りを見せたら、そのときは容赦なく斬ると、ミーシャは無言の警告を発している。
 今のアレンは丸腰である。真剣はおろか、木剣すらも腰に携えていない。ましてや身を守る甲冑すらも纏っていないともなれば、余計な手出しはかえって悪手、あるいは死傷に繋がりかねない。彼女の剣技を身を以て知ったアレンからすれば、あの刺突の一撃は危険極まりない。ならば、この場合は――黙って従う他ない。
 事態を理解する暇も与えられず、何の事情も言い聞かせられず――さりとて弁明するだけの余裕もない。突如として我が身に降り掛かった嫌疑に、ただ為す術もなく翻弄される以外になかった。

 これは過ぎたことだが。
 用を済ませたクレアが医務室から退室したとき、既にアレンの姿はなかった。それから程なくしてクレアの元にメルゼの使いの者が訪れ、そこで初めてアレン・ルーベンス捕縛の報せを知った。
 無論その一報を受けたからには、クレアとて大人しく黙っているわけではない。すぐにでもメルゼの下へ向かい、直談判を行うつもりであった。だが、それをクレアが決意したのは――よりにもよって彼が投獄された後だった。



[38832] 序章[19]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/03/23 20:45

 努めて冷静に、クレアは抑えた声音で問うた。

「――どうしてアレンを捕縛したのですか?」

「……クレア君」

 さすがに呆れ返ったのか、メルゼは小さく嘆息した。さしもの総長たる彼といえども、幾度となく同じ問いを繰り返されては堪らないらしい。その隣に控えるミーシャもまた、決してクレアと視線を合わせようとしない。――が、その程度で諦めるつもりは微塵もなかった。今回の〝不当な捕縛〟についての答えを得られるまで、何度突っ返されても挑む所存である。
 まるで聞き分けのない幼子を諭すかのように、メルゼは静かに語る。

「アレン君の部屋から発見された証拠については、クレア君も聞き及んでいるはずだ。それ以外の室内を調べ尽くしても、彼以外の部屋から新たな証拠の類は発見されなかった、ということもね」

「確かに報告は受けました。決定的な証拠も得ました。ですが、彼を捕縛していい理由にはなりません。あくまで彼の部屋から〝発見された〟というだけで、まだ彼自身が〝犯人である〟という証明にはなり得ません。
 私が申し上げたいのは、大した確証すら得られていないにもかかわらず、彼を捕縛したのは何故か、ということです」

「……」

「メルゼ総長。そうやって黙秘したところで、私は諦めるつもりはありません。彼の捕縛についての返答を頂けるのでしたら、私とて何度も言及することは致しません。不毛な問答を交わし合う必要もないでしょう。ですが、こうも中途半端に話を中断させられては、むしろ作為的な意図を感じてしまいます」

「――クレア・ブランシャール。落ち着け」

 それまで事の成り行きを見守っていたミーシャも、クレアの執拗極まりない物言いには制止を挟まざるを得ないらしい。だがクレアはそれには取り合わず、あくまでメルゼを見据えたまま言葉を重ねる。

「彼と私の関係については、メルゼ総長もご存じのはずです。彼は罪を犯すようなことはしません。ましてや嫌疑に掛けられる謂れもない。それは私が保証します。
ですが、メルゼ総長は何も語ろうとしません。何故ですか? 一介の修練生風情に語る必要はないとお考えですか? それとも――わざわざ小娘一人に時間を割いているだけの余裕はないと?」

「……クレア・ブランシャール」

 なおもメルゼに対して問い続けるクレアに、二度目となるミーシャの諌言が飛ぶ。

「落ち着け、と言っているのが分からないのか?」

「私は、ミーシャ秘書に話し掛けているわけではありません。メルゼ総長に問い質しているのです。申し訳ありませんが、お下がりください」

 邪魔だ――そう告げているも同然だった。クレアの声音に含まれた剣呑たる雰囲気を感じ取ったのか、ミーシャは僅かに眼差しを細めた。この女とて騎士として研鑚を積んだ身、さすがに安い挑発に乗るほど未熟ではないらしい。もし刺突剣の柄に手が伸びていようものなら、それだけで騎士としての底が知れるというものだ。

「……悪いが、私も引き下がるつもりはない。気付いているか、クレア・ブランシャール。貴様の言動は、総長であるメルゼを非難するものに近付きつつある。私は秘書として、それを見過ごすわけにはいかない」

「確かにメルゼ総長を非難しているのは事実です。それは認めざるを得ません。ですが、その責任はメルゼ総長にあります。どういった事情が隠れているのか、メルゼ総長は何も語ろうとはしません。こちらの問い掛けに対しても同様です。既に聞き及んでいる内容を口にするばかりで、一向に現状に関することを明かそうとしません。――それでも尚、非難するなと?」

「そういうことを言っているわけではない。確かに貴様の言い分は正しいのかもしれない。だが、今の貴様は明らかに焦っている。冷静さに欠け、ただ己の思うままに問いを重ねているだけに過ぎない。
 貴様のアレンを想う気持ちは分かる。長年の馴染みに何かあったと知れれば、少なからず不安に心を掻き立てられるだろう。だが、それでも今は落ち着くべきだ」

「……ミーシャ秘書の仰りたいことは分かりました。ですが、私は――貴女の言葉以上に、アレンが、彼が大切です。私にとって掛け替えのない〝宝〟であり、全てを犠牲にしても護り通したい人なのです。いかなミーシャ秘書といえども、こればかりは譲るわけにはいきません」

 ここで諦めるということは、即ち――クレア・ブランシャールという一人の少女にとって、アレン・ルーベンスという存在の価値は、その程度でしかなかったということである。なればこそ、簡単に引き下がるわけにはいかない。
 改めてメルゼに向き直り、クレアは再び申し出た。

「メルゼ総長。もう一度、彼の捕縛についての説明を求めます。納得に値するお答えを頂けるまで、私は立ち去る気はありません。口にできない内容なのだとしても、無理矢理にでも語って頂きます。適当な物言いで誤魔化そうとしても、私の問い掛けを黙殺しても構いません。
 ――その度に、私は何度でも問い質します」

「……」

「メルゼ総長。お願いします」

「……まったく……」

 その切願が届いたのか、メルゼは観念したように苦笑を漏らした。

「クレア君の執拗さには負けたよ。……ねぇ、ミーシャ?」

「そういうお前も、どこまでもお人好しだな。……まぁ仕方あるまいよ。私たち二人を前に引き下がるどころか、ここまで言い切ったのだからな」

 わざわざ微笑を交わし合うあたり、やはりこの二人は〝何か〟を隠していたらしい。だとするなら、今までの奇妙な対応も納得できる。先程のメルゼの曖昧な物言いも、クレアに引き下がるよう告げたミーシャの言も――ただクレアの問答を封殺するためではない。まともに問答に取り合う気はないと、クレア自身に錯覚させるという意図を含んだものだったとしたら。
 決して誤魔化されていたわけではない。ましてや語るに憚られる内容だったわけでもない。
 要するにクレアは――この二人の虚偽に惑わされ、知らず知らずのうちに試されていた。
 しかし、何故? 
 どうして虚言を弄すような真似をしてまで、クレアに捕縛の内容を明かそうとしないのか。

「お二人は、何を考えているのですか。どうして私に嘘をついてまで、彼のことを隠し通そうとしているのですか? 何か疚しいことでもあったのですか」

「そういうわけじゃないよ。ただ君に話を打ち明けたくなかった。決して君を仲間外れにしたいという意味じゃない。むしろ僕たちは、君のことを案じていたんだ。アレン君の捕縛を知った君が、我を忘れて取り乱すんじゃないかとね」

「取り乱す? まさか――」

 そう言いさしたところで、クレアは二人の思惑を悟った。

「……見越していたのですね。彼が捕縛されたということを知った私が、お二人の元に直談判に訪れるだろうということを。焦りで冷静さを欠いているであろうことも。でなければ、わざわざ話を逸らす必要がありません」

「まぁね。アレン君が捕縛されたと知れれば、いくらクレア君でも冷静ではいられない。確実に僕たちの元に訪れるはずだと踏んでいた。そこまでは想定の範囲内だったとはいえ……こうも食い下がるとは思わなかった。
 アレン君は、良い幼馴染に恵まれているんだねぇ……何だか羨ましいよ」

 感慨深そうに微笑むメルゼに、すかさずミーシャの鋭い眼差しが向けられる。

「メルゼ。余計な私情を挟むな。まずは彼女の問答に応じるべきだろう。見ろ、彼女も返答に困っているではないか」

「分かっているよ。相変わらず、ミーシャは固過ぎる。雑務に振り回している手前、僕が言えた義理じゃないけど……君は心に余裕を持つべきだと思うな。いつも気を張っていては疲れるだろうに」

「……誰の所為だと……」

 日頃の心労を漏らすミーシャと、それを更に煽り立てるメルゼの物言い。しばし二人は珍妙極まりない遣り取りを交わしていたが、さすがにクレアの眼前である手前、延々と談笑に興じ続けているのは躊躇われたらしい。緩み掛けていた雰囲気は一瞬にして消え失せ、同時に二人の面持ちも険しいものへと打って変わる。

「すまないね。かなり無駄話をしてしまった。
 さて、クレア君。そろそろ話の本題に入ろうと思っているんだけど……まずは君の問答について、改めて確認させてほしい。君が問い質したいのは、『アレン君を捕縛した理由』で間違いないね?」

「はい」

「そうか。……それじゃ、最初に結論を話しておこう。
 確かに表向きは捕縛ということになっているけど、実際のアレン君は投獄扱いされたわけじゃない。そのどちらも嘘なんだ。侵入者に対する〝保険〟を打つために、どうしても彼には牢に入ってもらう必要があったんだよ」

「――」

 クレアは瞠目した。幾度もメルゼという男の言葉を聞いてきたが、この発言に潜む違和感だけは無視し難い。この男の語る〝保険〟とは何なのか。否、それ以前に――アレンの処遇が捕縛でも投獄でもないとするなら、いったい何に類する処し方だというのか。

「なら、アレンは……何の咎も謂れもないにもかかわらず、投獄されていると?」

「そう。彼は敵の姿を目撃したわけでもなければ、逆に決定的となる証拠を発見してしまったというわけでもない。むしろ彼は被害者に分類されるだろうね。
 けど、それでも敵が狙う動機としては充分過ぎる。もし今回の一件が無差別殺人だとするなら、アレン君の身に危険が及ぶかもしれない。そうなってしまう前に、僕たちは手を打った。彼を捕縛という嘘の名目で投獄させることで、逆に彼を保護しようと決めたんだ。さっき言った〝保険〟というのが、まさしくこれだよ」

「敵の魔の手が、彼に這い寄るのを防ぐために……そのためにアレンを、彼を投獄させたのですか? そんな不当に過ぎる扱いを……」

「その通りだ。そうでもしなければ、彼は無茶をしていただろう。彼の性格については完全に把握できていないけど、それでも彼が侵入者に対して並々ならぬ敵愾心を抱いていることは知っていたからね。
 自身が狙われているのを知れば、彼はそれを逆手にとって敵に一矢報いようとしたに違いない。そんな無謀な賭けを、彼にさせるわけにはいかなかった。だからこそ彼を脅威から遠ざけなければならなかった」

「なら尚更、彼に真実を打ち明けるべきです。彼は何も知らされないまま牢に入り、今も困惑しているはずです。そういった明確な事情があるなら、彼も投獄という処遇について納得するかと――」

「それは無理だね。彼と長い付き合いがある君なら、薄々気付いているはずだよ。仮に事情を知ったところで、彼は納得の意を示さないことを。むしろ余計に敵に対する執着心を煽り立てかねない。違うかい?」

「……」

 そう問い返されては、反論のしようもなかった。
 アレン・ルーベンスという男の在り方。それを知っているのは、何もクレアだけではないのだ。

「火を見るよりも明らかな結果を、みすみす招くわけにはいかないと?」

「そうだ。死ぬと分かり切っている人間を、敵の潜む庭に放り込めるわけがない。今回の一件に自ら関わろうとする彼の〝心意気〟は立派かもしれない。そう思ったからこそ、僕は彼を仲間に引き入れた。
 ――けど、それだけじゃ足りない。いくら崇高な志を抱いていようとも、それが自身の力で叶えられないのなら無意味にも等しい。実力を備えていない未熟者に万事を託せないのと同じことだよ。心の在りようで如何様にもなるのなら、そもそも力を磨き上げる必要はない」

「……では、どうするおつもりですか。釈放の許可を下すこともできず、真実を明かすこともできない。今すぐに片付けられる案件でないことは、メルゼ総長も充分に理解しているはずです」

「ああ、それは理解しているよ。だからというわけじゃないけど、クレア君に一つ頼みたいことがある。
 ――君を投獄中のアレン君に引き合わせるよう手配する。君は彼と対面して、彼が抱えているであろう不安や焦りを和らげてほしい」

「っ!?」

「……おい、メルゼ!」

 瞠目するクレアを余所に、ミーシャは尖り声と共にメルゼに詰め寄った。この予期せぬ出来事は、どうやら当の秘書ですら把握できていなかったらしい。――が、それ自体が想定の範囲内だったのか、自らの秘書役に対するメルゼの反応は、あくまでも平然としたものだった。

「どうしたんだい、ミーシャ。そんなに大きな声を出して」

「とぼけるな。先程の話、私はまったく聞かされていないぞ」

「言っていないからね。当然のことだろう?」

「それでは理由にならない。私はお前の秘書だ。それにもかかわらず、お前は私に相談の一つもしない。先程の勝手な面会許可といい、以前の独断といい、もう我慢ならん。いい加減、自分を中心に物事を進めるのはやめろ」

「それらに関しては、申し訳ないことをしたと思っているよ。僕自身、反省してはいるんだけど……如何せん、情に訴えられてしまうと……ねぇ?」

「お前の物言いには、まったくと言っていいほど反省の雰囲気が感じ取れん! いいか、メルゼ。お前は訓練団を背負って立つ人物だ。人を纏め上げ、それを律するだけの力を与えられている。――だがな、己に与えられた権利を思うがままに揮うのは、それは暴君の行う治世と何ら変わらない。それは、断じて人の行いではない!」

「言い得て妙だね。とすると僕は、君の言うところの暴君なのかもしれないね。民草の総意を担う名君と、万事に対して横暴なる気位を揮う暴君――前者は優れているが、後者は劣っているというのは偏見的な見方に過ぎない。全てに於いて優れている名君よりは、どれか一点に於いてのみ突出している暴君の方が、あらゆる無理難題を突き通せるだけの強引さがあると思っているよ。
 尖端が丸く潰れた剣と、逆に鋭利なまでに磨き上げられた剣。どちらがより殺傷に向いているかなんて訊くまでもないだろう? それと同じことだよ」

「名君と暴君の相違を語り合っているのではない。お前は、いつもそうやって人の話を――」

「ミーシャが反対したところで、僕の一声で許可を下すことができる。――何なら、君の有する〝特別措置権限〟でも使うかい? 総長不在時以外での権限の使用は、紛れもない訓練団の総意に背くことになるけど……それでもいいのなら、僕は一向に構わないよ」

「……! メルゼ――お前は……お前という奴は……ッ」

 ミーシャの憤激に歪む眼差しを、メルゼは情動の窺い知れぬ面持ちで受け止めている。両者の論争は既に正否の領分を超えており、もはや留まるところを知らない。それどころか激化の兆しすら見せ始めている有様である。傍目から両者の対峙を見守るクレアも、こればかりは両者の間に折り合いが生まれるのを待つしかなかった。そもそも仲裁に入るだけの余地などあろうはずもない。
 と――

「……もういい」

 真っ先に論の矛を収めたのは、意外なことにミーシャの方だった。もはや論を重ねるに値せずと悟ったのか、あるいは単に諦めたのか、溜息交じりに言い捨てた。

「我儘な総長を持つと色々と苦労するというのを、改めて思い知った気分だ……」

「……それはすまないね。けど、ミーシャの言い分は尊重するよ。僕も少し勝手が過ぎたみたいだからね。これからは、なるべく相談するように努力しよう」

「〝なるべく〟か……随分と勝手に過ぎる口約束だな。何と言うかな……お前との言い争いは無駄に疲れるから好きではない。秘書の座を他の者に明け渡して、のんびりと過ごしたいくらいにな」

「それは困る。僕みたいな暴君の秘書の適任は、君以外には有り得ないと思っているからね」

「どうだろうな。……それよりもだ。許可を下したのなら、早く説明した方がいい。私たちのくだらない言い争いの所為で、客人に機嫌を損ねられては堪らないだろう?」

 やや棘を残した物言いではあったが、それでもミーシャのささやかな気遣いは感じ取れた。折角本題に入りかけていたにもかかわらず、それを余計な論争の所為で取り潰してしまったことに、少なからず負い目を抱いているらしい。
 ようやく注目を浴びたクレアに対して、メルゼが改まったように姿勢を正した。

「そうだね。いや、一度ならず二度までも恥ずかしいところを見せてしまったね。クレア君。僕たちの至らなさに関しては、本当に言い訳のしようがない」

「いえ、お気になさらず。それで先程の話についてなのですが、一つだけ訊いてもよろしいでしょうか?」

「あぁ、うん。何だい?」

「彼と面会することに関しては、私としても願ったり叶ったりです。ですが、彼は未だ混乱しているはずです。まず間違いなく、彼は私に投獄された理由を問い質してくるでしょう。真実を打ち明けられない場合は、どう応じるべきでしょうか?」

「どう応じると言われたら、どうにかして誤魔化すしかないだろうね。正直なところ、それは僕も危惧していることなんだよ。
 ――そこでだ。君は僕たちと口裏を合わせてほしい。もし彼に訊かれたら、これから僕が語ることを君なりの言葉に置き換えて言うんだ。『アレン・ルーベンスの処遇については、現在審議中である。決定次第、結果が届く手筈になっている』とね。牢獄の見張り役を担っている兵にも事前に今の内容を伝えておくから、後は君が嘘を見抜かれないようにするだけでいい」

 その俄仕立ての嘘が、果たして牢獄の彼に通用するのか。クレアは甚だ疑問だった。

「通じるのでしょうか。ああ見えて、彼は意外に鋭いところがありますから……」

「一番いいのは、彼に現状を包み隠さないことなんだけどね。けど、こればかりは僕も譲るわけにはいかないよ。彼の身を思えばこそね。
 何はともあれ、君にしか任せられない頼みであることに違いはないんだ。――よろしく頼むよ」



[38832] 序章[20]
Name: 麦◆4f3abe50 ID:8a0165d8
Date: 2014/04/06 21:12

 総務室へと続く廊下。その道中を華やかに彩る調度品の数々。
 とある一枚の絵画の裏には、地下室へと下る階段の仕掛けが施されている。
 設計当初の図面にすら記載されていない、完全なる秘匿性を保った場所。一部の特殊な例外を除き、決して公にしてはならないとの禁則すら課せられた。無論、その義務を弁えているのは総長たる人物と、その長の傍らに仕えることを許された者たちだ。
 だが――その地下室とは別に、もう一つの〝部屋〟に関しては、既に訓練団の者たちにとって周知の事実となっている。
 その場所へと通じる方法は一つ。執務室へと向かう廊下に隠された絡繰りを作動させるしかない。より正確には、廊下の一角に鎮座する壺――その底に隠された極小の鎖を引っ張ることで床の絡繰りが連動する仕組みとなっている。
 あくまでその存在を公にしているだけであって、その詳細な場所を知るのは同じく総長に連なる者たちに限られている。――が、それが知り亘っている甲斐あってか、訓練団内での悪事の横行に対する抑止力の代行となっているのは事実である。
 訓練団内における支配は、あくまでその〝部屋〟の存在から生じた副産物でしかない。本来の用途は一点のみ絞られており、それは修練生たちの間で一つの総称と共に密やかに呼び習わされている。
 訓練団内部で罪科に値するだけの事案が発生した場合、その首謀者及び関係者などを一時的に閉じ込め、王都から派遣された囚人護送用の馬車が到着するまで管理する場所――
 曰く、〝エインズの地下囚獄〟と。


 四方から迫る暗闇。それを懸命に払い除ける蝋燭の小さな火は、壁の隙間から流れ込む冷気に煽られて危うげに揺れる。それが消え失せかけるたびに火を両手でそっと包み込み、外気の侵略から守る。
 それがアレン・ルーベンスにとって唯一の安楽の縁であることは、当人以外には決して知り得ないことであった。牢内を照らす灯りは一本の蝋燭のみであり、牢越しに見える松明の灯火には、そもそも手を伸ばすことさえ叶わない。

「……」

 手首を僅かに動かす。それだけの動作であるにもかかわらず、いちいち石畳に擦れ合う鎖が鬱陶しい。
 両手両足に嵌められた重々しい枷は、だが決してアレンの動きに支障をきたすほど強固なものではない。――が、こうも不快感を掻き立てられては、もはや微かな身じろぎすらも億劫に感じてしまう。座していたところで何も変わらず、だが少しでも身体を動かそうものなら四肢を戒める鎖の存在に縛り付けられる。碌に動くこともままならない。
 別段、苛立ちを感じているわけではない。元より暗闇の中で何ができるわけでもないのだ。それよりも考えるべきは別にある。
 侵入者の姑息な罠にまんまと陥ったこと。ミーシャに刃を向けられたこと。それらは充分驚愕に値することだが、何よりも気に掛かったのは、何故アレンは捕縛されなければならなかったのか、という疑問だった。
 新たな証拠の存在が示唆され、それが偶然にもアレンの室内の天井から発見された――なるほど確かに辻褄は合うかもしれない。捕縛されるに足るだけの充分な正当性もあろう。だが、それだけでは真の理由たり得ない。
 そもそもアレンは無実を訴えるどころか、未だに聴取の一つすら受けていない。ただ捕縛され、投獄されただけである。それだけでも異例であるというのに、その不可解な処遇に対する説明は一向に行われる気配がない。煩瑣な事柄に忙殺されているというのなら、まだ納得のしようもあろうが――これでは生殺しもいいところではないか。

「あの……少しいいですか」

「――何用だ」

 暗闇の奥から返ってきた低声は、誰あろう牢獄の見張りを担当している牢番である。薄気味悪い牢屋の監視を命じられたことに対する苛立ちか、あるいは元来の性分なのか、アレンに対する物言いは冷ややかなものだった。

「用があるのならば手短に済ませろ。ないのならば大人しくしていろ」

「二つほど教えてほしいことがあります。まず一つ目なのですが……私の処遇について、何か聞き及んでいることはありませんか?」

「またそれか。私に課せられた命は、お前を監視するということだけだ。それ以外の通達や報告は何も受けていない」

「……分かりました。では、二つ目の質問をしてもよろしいでしょうか?」

「返答に値する問いならば、私も応じよう」

「ありがとうございます。それでは……少し前に来た牢番の方は、あなたに何を伝えたのですか?」

 アレンの牢屋を監視していた牢番の元に、見知らぬ牢番が所用の一件で訪れてきたのは、つい先程の出来事だった。アレンとて他人の関係に口を挿むほど無粋ではない。――が、その二人はあろうことか、わざわざアレンから離れた場所で言葉を交わし始めたのである。囚人として収容されている者に聞き咎められないための配慮なのか、それとも単純に知己同士の対話なのか、はたまた堂々と語り合うには憚られるような内容なのか。いずれにしろ、問い質さずにはいられなかった。

「教えていただきたい。お二人が語り合っていた事柄……それは私に関係していることではないのですか」

「違う。単に交代時間の確認を行うために来ただけだ。他人の事情に口を挿むな。身の程を知れ、囚人風情の小僧が」

「……申し訳ありません。以後、余計な質問は控えるようにします」

 素直に非礼を詫びたアレンに対して、牢番はこれ見よがしに鼻を鳴らした。どんな酷薄な扱い方をされようとも、この貴重な繋がりを手離してはならない。既に幾度も交わされた殺伐とした遣り取りすらも、今のアレンにとっては訓練団の内情を知る重要な情報源であることに違いはないのだから。
 静まり返る牢内。それまで鳴りを潜めていた寒風の音も、再び染み入るような冷たさを伴って隙間から押し寄せる。反射的に両掌で火を覆う。掌越しに伝わる僅かなぬくもりに言い知れぬ安堵を抱きながらも、尚もアレンの胸中に居座る不安感は留まるところを知らない。
 このまま大人しく待ち続けていたとして、果たして現状は変わるのか?
 否、そもそも牢から解放されるのだろうか?
 何よりも――クレアは今頃、どうしているのだろうか?
 次々と湧き上がる疑問。それらを確かめようにも、忌々しい鎖の拘束を抜け出す術はない。唯一の繋がりは牢番だが、どうせ頼み込むだけ無駄に違いない。にべもない物言いで一蹴されるだろう。今回の一件が収束を迎えてしまう前に、何としてでも己の無実を直訴する機会を得なければならない。
 いつしか隙間風の唸りは止み、アレンは掌の中のか細い揺らめきを見つめた。せめて手足の枷の鎖を焼き切ることができるなら、まだ僅かな望みもあるのだが、如何せん蝋燭の火程度では時間が掛かるだろうし、何より牢番の監視を誤魔化せるとは到底思えない。脱獄を計ろうとしたことが露見しようものなら、ただでさえ曖昧な投獄期間が余計に延ばされかねない。
 一体、どうしたらいいのだろうか――
 それまで密かな思案に耽っていたアレンは、不意に微かな足音を聞き咎めた。階段を下りてくる何者かの気配に気付いたのか、牢番もまたやおら立ち上がり、厳かに姿勢を正した。

「……あの、誰が来たんですか?」

「お前には知る必要のないことだ。黙っていろ」

 そう切り捨てられては、もはや問うことはできなかった。――が、牢番の厳かな口ぶりから察するに、どうやら牢獄の関係者であることは明白だった。まさか、アレンの処遇が決定したのだろうか。それとも、端からアレンの言い分を聞き入れるつもりはないという意味なのか。

「――ここの牢番として、私が〝客人〟を迎える。お前は大人しくしていろ」

 どうやらアレンに口を挿む間を与えるつもりはないらしい。牢番は自ら階段の手前まで歩み出て、階段を下り終えたばかりの何者かを出迎えた。まるで貴人の類を遇するが如き慇懃たる一礼は、この陰欝な場所に於ける仕草としては、あまりにも場違いなものだった。先程までの牢番然とした冷徹な態度は見る影もない。

『――』

『……』

 緊張に強張るアレンを余所に、客人を呼称される人物は牢番と幾つか言を交えているようだった。何を語り合っているのかを知ることはできないが、おそらくアレンの処遇に関係する事柄だろう。せめて遠目に顔を窺うことはできないかと必死に目を凝らすも、生憎と牢番の背丈に隠れているため見ることは叶わない。
 やがて対話を終えたのか、牢番に招かれる形で客人は牢に近付いてきた。ついに何かしらの処遇が言い渡されるのだ――そう無意識のうちに身構えていたアレンは、牢越しに対面した来訪者の見慣れた面持ちに、思わず驚愕を露わにした。

「……く、クレア……か……?」

「わざわざ訊く必要はないでしょう? それとも、私に会えたから嬉しいのかしら?」

 アレンの頓珍漢に過ぎる物言いに、眼前の幼馴染は微苦笑を浮かべた。

「……どうして牢獄に? まさか、お前が俺の処遇を伝えに来たのか?」

「あなたの問いに答える前に、少しだけ待ってもらえるかしら」

 アレンとの対話を断ち切り、クレアは牢番の方を向いて言った。

「できれば彼と二人だけで話を交わしたいので、申し訳ありませんが、牢番の方は下がってもらってもよろしいでしょうか? ほんの少しの間だけですので、それほどお時間は取らせません」

「分かりました。――では〝通達〟の内容通り、囚人アレン・ルーベンスとの面会と、牢屋の内部に立ち入ることを許可します。但し、囚人の枷までは外しませんので、どうかご理解下さい」

「はい。それで構いません」

 それまで二人の対話を眺めていたアレンも、これには瞠目せざるを得なかった。このまま牢屋で過ごすかと思いきや、予想外の機会がもたらされたのだ。これを僥倖と言わずして何と言おうか。

「それでは、解錠させていただきます」

 そんなアレンのささやかな驚愕を知ってか知らずか、牢番は心なしか足早に牢屋に歩み寄ると、慣れた素早い手付きで解錠した。その間、アレンとは決して目を合わせようとはしない。
 牢番はクレアの元に歩み寄り、淡々と口を開いた。

「それでは、私は下がります。無論、先程の〝通達〟については遵守いたしますが、それはブランシャール様も同様であることをお忘れなきように。もし通達違約と判断されかねない行為に及んだ場合、即座にブランシャール様も相応の処罰を受けることになりますので、くれぐれもお気を付け下さい」

 そう告げるや否や、牢番は踵を返した。まさか持ち場を離れるつもりなのか――遠ざかっていく牢番を訝しげに凝視していたアレンだったが、その革鎧に包まれた後姿がぴたりと立ち止まったのを見る限り、どうやら単にアレンたちから距離を取っただけらしい。つくづく牢番らしからぬ律義さである。

「話の通じる牢番で良かったわ……」

 アレン同様、クレアも牢番の動きを目で追っていたらしい。再びアレンの方を振り向いた彼女は、幼馴染の無事な姿と改めて対面できた喜びからか、小さく安堵の溜息を漏らしていた。そうして牢屋の中に踏み入り、アレンの眼前で柔らかく微笑む。

「あなたが無事で、本当に安心したわ。――大丈夫なの? その手足の枷は」

「大丈夫じゃないな。むしろ邪魔に感じる。できれば外してほしいんだが、そんな提案を聞き入れてくれるほど甘くないだろうしな……愚痴の一つでもこぼしたい気分だ。
 まぁ、それは別にいいんだ。――そろそろ、さっきの質問に答えてくれるか」

「……ええ、そうね。今のあなたは色々と情報が不足しているだろうから、むしろ現状を把握するには丁度いい頃合いかもしれないわね。
 まずは、あなたの一つ目の問いに答えるわ。私が牢獄に来た理由だけど、これは単純にメルゼ総長に取り計らってもらったからよ。あなたが捕縛されたというのを知った私は、メルゼ総長に直接談判をしに行ったわ。その際、あなたと引き合わせてくれるようにメルゼ総長が許可を出してくれたの。
 そして二つ目の問い。あなたの処遇に関してだけど、これはメルゼ総長から直接聞かされたわ」

「……その結果は、どうだったんだ?」

 息を呑むようにして問い掛けたアレンに、クレアは「落ち着いて聞いて」と静かに前置きしてから、おもむろに告げた。

「あなたの処遇については、今も審議が交わされているわ。決定次第、すぐにあなたの元に審議結果が届く手筈になっているそうよ」

「……そうか。まだ、決まってないってことか……」

 良かったと思うべきなのか、それとも焦るべきなのか。それすら判然としないまま、アレンは強張っていた身体の力を抜いた。己の処遇の是非について一度は覚悟を決めたにもかかわらず、いざ処断が間延びしたと知れた途端に酷く安堵するとは――これが刑期を待つ囚人の心持ちなのかもしれない。

「クレア。今も審議を重ねているってことは、それだけ俺の処遇は重いってことなのか?」

「違うわ。今のあなたの立場は特殊なものよ。だからこそ、より慎重に審議を交わし合う必要があるのかもしれない。一人の行く末を左右しかねない事柄ともなると、そう簡単に決められるものではないわ」

「俺は聴取すら受けていない。それどころか未だに捕縛された理由すら聞かされていない。本来の審議っていうのは、もっと正式な手順を踏んでから行われるはずだ。囚人の言い分を聞かずに行う審議があるわけがない。
 審議は総長と教官たちで行われるはずだ。俺の処遇保留以外に、メルゼ総長は何も言わなかったのか?」

「ええ、何も言わなかったわ。あくまで決定するまでは全てを明かすつもりはないみたいね。さすがのメルゼ総長と教官たちも、今回の一件だけは慎重に審議せざるを得ないのかもしれないわ。訓練団創設以来の大事、それ故に対処する術を模索するしかない……これ以上の犠牲を出すわけにはいかないと、彼らも必死になっているのよ」

「だとしても、今回の審議はどこか妙だ。このままだと新しい犠牲者が出かねない。けど、見ての通り俺は囚人扱い。おまけに俺の言い分を聞き入れる機会すら与えられない。幽閉されている限り、俺は黙って事の成り行きを見守るしかない。
 ……なぁクレア。どうにかしてメルゼ総長に掛け合って、俺を一時的に釈放するように計らってもらうことはできないか?」

 僅かな希望に縋るのならば、それは今を置いて他にない――そう判断した上での申し出だった。いつ終わるとも知れない審議を、もはや悠長に待ってはいられない。自らの処遇がどうなろうと知ったことか。たとえ一時であろうとも構わない。その間だけ自由の身になれさえすれば、せめて敵の手掛かりを見つけることはできるはずだ。それが達成できたのなら、どんな処罰も甘んじて受け入れるつもりだった。
だが。

「――駄目よ」

 それを快く承諾してくれるほど、幼馴染の少女も甘くはない。

「あなたの言っていることは、自ら命を投げ出すことと同義なのよ? そんな馬鹿な頼事、私は絶対に承諾しないわ。今すぐに考えを改め直して」

「……なら、俺の言い分を聞き入れてくれるよう代わりに計らってくれ。囚人を差し置いて審議を勝手に行うなって」

 一時的な釈放が認められないのなら、せめて無実を訴えるだけの自由は与えてほしいと。それが最大限の譲歩であることは、クレアも理解しているらしかった。彼女はしばし考え込む仕草を見せた後、小さく肯定の意を示した。

「分かったわ。その程度なら請け負うけど、良い返答は期待しない方がいいわ。たとえメルゼ総長が決めたとしても、それに対して教官たちが異を唱えるかもしれない。……もし駄目だったときは、潔く諦めるのよ。いいわね?」

「ああ、それでもいい」

 どんなに小さな取っ掛かりでも構わない。縁となり得る繋がりを持つことが、今のアレンにとっては内部の実情を知る近道になる。

「……そう。なら、あなたの言葉を信じるわ」

 ひとまずは妥協に落ち着いたことを悟ったらしい。途端にクレアの眉間から険が抜け落ち、代わりにその口元に微かな笑みが戻る。そうしてアレンの隣に腰を下ろし、穏やかな声音で語り掛けてきた。

「なら、もう話は終わりでいいかしら。あまりにも殺伐としすぎていて、何だか逆に疲れてしまうわ。その代わり、何か別の話でもしましょう。私が牢獄に来たのだって、元々はあなたに会うためだもの。ね?」

「……そうだな」

 この牢獄独特の薄気味悪い雰囲気に中てられてか、アレンもまた内心で奇妙な不快感を覚えていたところである。それを一斉に払い落とす機会を、みすみす逃すわけにはいかなかった。
 何より。
 クレアとの他愛ない会話が、アレンの胸中に蟠った憂いを雪ぎ落してくれる――そんな気がした。


           ×     ×     ×


「――お前がメルゼ総長の下で働き始めたのは、一体いつの頃からだったんだ?」
 
 あまりにも唐突に過ぎる問いだったのか、それとも期待していた内容の話題とは遠く掛け離れていたのか、クレアは困惑も露わに小首を傾げた。

「えっと……どういう意味かしら?」

「いや、何と言うか……ふと疑問に感じてな。ついでだから訊いておこうと思ってさ」

 咄嗟に弁解するも、その言葉には力が籠っていない。
 いつもならば話題の一つや二つは簡単に浮かび上がるものだが、今は笑具に興じるほどの気力が湧かない。慣れない牢屋の雰囲気に馴染めないどころか、度重なる当惑に晒され続けたのだ。誰であろうと精神的に摩耗するのは当然である。だが、それが今頃になって表れ始めたのは、アレンにとっても予期せぬことだった。もしかしたら、クレアとの面会をきっかけに張っていた気が緩んだのかもしれない。
 気分転換に何か楽しい話でもしようと、そう提案してくれた彼女の意に反する真似をしてしまった。これでは彼女の心遣いを無下に扱ってしまうのと同じである。せめて無理矢理に話題を絞り出そうとするも、浮かび上がるのは何の脈絡もないことばかり。これでは折角の対話も成り立たないと踏んだからこそ、先程の問いを発したのだ。
 無論、何の意図もなしに問い掛けたわけではない。ましてや、ただ間を持たせるためでもない。
 アレンには問い質しておきたいことがあった。それが先の問いである。如何にして彼女がメルゼの膝下に降ったのか。今まで問い質すだけの余裕がなかったからこそ、尚更この絶好の機会を逃す手はないと思ったのだ。――が、彼女の気遣いよりも我欲を優先してしまったのは、もはや言い訳のしようがない。

「是非とも教えてくれ。今みたいな纏まった時間が、次もあるとは限らないんだ。無理を言っているのは分かっている。勿論、お前が嫌だって言うなら無理強いはしない。何か別の話題でもしようと考えているところなんだが……」

「ふふっ。今のあなた、すごく必死な顔をしているわ。……そんなに焦らなくても大丈夫よ」

 言い訳を捲し立てるアレンの面持ちが滑稽だったのか、クレアは小さく噴き出した。

「いや、けど……お前の提案を無視するような質問だから……」

「心配しなくてもいいわ。別の話をしようと提案したのは私だけど、無理に楽しい話題を提供しようと思わなくてもいいのよ。それに丁度いい機会だと思うわ。あなたには、私の全てを知ってほしいと思っているから、ね……」

「……なら、聞かせてもらうぞ」

 こうも面と向かって言われては、むしろ同意を示さないわけにはいくまい。自ら問うた身である以上、折角のクレアの心意気を二度も無駄にしてはならない。そう密かに心に誓うアレンを横目に、彼女は静かに語り出した。

「何と言い出せばいいのか、迷うけど……そうね。掻い摘んで言うと、私がメルゼ総長に勧誘されたのは、ちょうど訓練団に入団して間もない頃だったわ。入団前に行われた適正試験の成績を買われてね。あなたも経験したでしょう?」

「口問口頭と実技のことだろ。後者はともかく、前者は個人的には苦労させられた。思い返しても嫌な記憶しかないな。で、お前は――入団志望者の中でも堂々の一番だったか。そりゃ勧誘されるのも当然だろうな……」

 蘇りかけた過去の汚点を頭から振り払おうとするアレンに対して、クレアは謙遜も露わに苦笑した。

「当然かどうかは分からないけど……単に私の成績を見た上で判断したわけじゃないわ。後になってメルゼ総長に訊ねてみたら、どうやら私が騎士家系出身であることを知っていたみたいなの。入団する前に経歴を調べられるから、当たり前といえば当たり前かもしれないけどね」

「成績だけじゃなくて、経歴も考慮した上で誘われたんだ。これからの期待と剣技の腕を買われたってことだろ。尚更凄いことだと思うぞ」

「凄いことじゃないわ。ただ、私は……父の願いを叶えるための近道だと思っただけよ。総長職を務める人物に仕えていれば、いつか私にも何かしらの機会が訪れるかもしれない。そういう明確な思惑があったから、私はメルゼ総長の勧誘を承諾した――と、私の話はこれで終わりよ」

 父ですら至らなかった大願を、自らもまた思い描いた理想を、ただの絵空事では終わらせないと――そう語るクレアの決然たる思いに、アレンは感服の意を禁じ得なかった。これほどの大望を叶えんと邁進する彼女ならば、きっと自ら進むべき道を迷うことはないと。対するアレン自身は、迷って悩んでばかりの道だというのに――これもまた、明確な志を抱いているか否かの違いなのだろうか。

「やっぱり、お前は本物だよ。ちゃんと自分の姿を思い描いて、それを叶えるために騎士を目指しているんだからな。剣技の腕前や立ち振る舞いも、単なる憧れだけで騎士を目指している俺とは大違いだ。
 立派な夢を抱いたわけでもなければ、ましてや人に誇れるほどのものもない。……唯一あるとするなら……せいぜいが〝あの日〟のことくらいだしな……」

「――〝あの日〟?」

 アレン自身、最後の囁きに関しては意図的に口に出したわけではなかった。漫然とした囁きを虚空に向けて吐き出した程度だったが、どうやら傍らの幼馴染ははっきりと聞き咎めていたようである。
 思わぬ発見をしたりと言わんばかりに、彼女の眼差しに純粋な好奇心の色が宿る。

「さっきの囁き、初耳だわ。私に話していないような秘密でもあるのかしら?」

 もはや密着しかねないほど静かに詰め寄られ、アレンは咄嗟に目を逸らした。その興味に弾む眼差しとは、絶対に目を合わせてはならない――そんなアレンのささやかな抵抗の意は、彼女にとっては不満に値するものだったらしい。すぐさま正面へと移動した彼女は、真横を向いたまま微動だにしないアレンの頬に柔手を添えるや、強引に自分の方に振り向かせた。

「どうして顔を背けたのかしら。さっきの思わせぶりな発言の意味、詳しく教えてもらおうかしら……?」

「別に大した発言じゃない。ただの子供の頃の思い出みたいなものだから、あまり気にしないでくれると助かる」

「子供の頃? だとすると……あなたの言う〝あの日〟って、あなたのご両親が言っていた事かしら。私が村に引っ越してくる前の話だとは聞いていたけど、もしそうだとしたら初耳じゃないわね……」

「――何?」

 さらりと核心を突かれたという事実よりも、アレンの両親が彼女に〝例の一件〟を仄めかすような発言をしていたこと自体に驚いた。彼女の確かめるような反応を見る限り、流石の両親も内容までは詳らかに明かしてはいないようだ。――が、既にそれを聞き及んでいるということは、即ちアレンの必死な誤魔化しも通用しないという意味ではないのか。

「いつ、両親から聞いたんだ?」

「確か……私が村に引っ越してきて、半年経った頃だったと思うわ。あなたの家に遊びに行ったとき、あなたが用事で家を留守にしていたときがあった。丁度そのときに、ご両親から話を聞いたのよ。『クレアちゃんが村に来る少し前にね、アレンは大変なことに巻き込まれかけたのよ』とね」

「お前のことを偉く気に入っていたからなぁ、俺の親は。だから聞かせたんだろうな、お前になら少しくらい明かしても大丈夫だって思って」

「……ごめんなさい」

 アレンの微苦笑交じりの発言を、クレアは別の意味として受け取ってしまったのだろう。それまで穏やかだった顔は、代わりに痛苦に苛まれるそれに一変した。

「さっきはつい興味本位から問い質してしまったけど、どうやら聞かない方がいい類の話みたいね。もし気分を害してしまったのなら、もう一度謝るから……さっきの発言は忘れてくれるかしら」

「――いや、別にいいさ。聞かせるよ、あの出来事の内容を」

 既に彼女に露見している以上、わざわざ隠し通す必要はない。むしろ打ち明ける以外に有り得なかった。彼女ばかりが身の上話を明かし続け、アレンは一方的にそれを聞き続けるなど不公平も甚だしい。真に彼女に憧憬の念を抱くならば、アレンもまた対等な立場に上がるのが筋というものだろう。

「どうして? あなた自身は語り聞かせたくないと思っているのでしょう? 別に無理して私に聞かせる必要はないわ。それに私自身、あなたの過去を掘り返すみたいで嫌だわ……」

「大丈夫だ。あの出来事を秘密にしてほしいと親に頼み込んだのは、他でもない俺自身だからな。別に親が他言無用にすると誓ったわけじゃない。それに仮に明かしたところで、俺にとって都合の悪いことが起きるわけでもないんだ。ならいっそ、お前に全部打ち明けてしまった方が、俺としては色々と楽になれる」

「だからって……」

「頼むよ、クレア。俺はさ、お前に申し訳ないと思ってるんだ。お前は親父さんの話をしてくれたし、自分自身の心境や決意も明かしてくれた。それなのに俺が隠し事を明かさないっていうのは……互いの釣り合いが取れないと言うか、自分が狡い奴に思えると言うか……まぁあれだ。
 それだけじゃない。この話を通して、俺は騎士の道を志そうと決めたんだよ」

 そんなアレンの思わぬ吐露を耳にして、クレアは驚愕の念を露わにした。

「あなたの話は、あなたが騎士を目指すきっかけでもあると……?」

「ああ、そうだ。そのきっかけは、俺の人生に転機を与えてくれた。そして、村に越してきたお前や親父さんの剣を執る姿を見て、それに後押しされるような形で本格的に騎士を目指そうと思った。だからこれは、お前にとっても決して無関係じゃないんだ。
 だからこそ、お前には聞いてほしい。……それでも駄目か?」

 それはアレンの偽らざる本心でもあった。そこに思惑や虚偽は一片もない。彼女が自分の全てを知ってほしいと言ったのと同じように、アレンもまた己の思いを彼女に知ってほしいと願っている。

「……分かったわ。あなたが、心からそう決めたのなら……私が反対する余地はどこにもないわね。なら、お願いするわ。
 ――あなたの話を聞かせて。あなたの全てを、私に打ち明けて」

 アレンの懇願にも似た申し出を、クレアもまた真摯に受け止めると決めたらしい。澄み切ったその声音には、先程までの重々しい苦渋の色は微塵も感じられない。アレンを見据える眼差しもまた同様であった。
 それを理解しているが故に、アレンは一切の躊躇いを抱かずに済む。後は全てを事の成り行きに任せるだけでいい。アレンに課せられたのは、ただ一つ――脳裏に浮かび上がる過去の情景を、言い知れない畏怖を、ただ語り聞かせることのみ。
 まるで過日の自分自身に衝き動かされるように、アレンはゆっくりと語り始めた。

「あれは――」


 もはやアレン自身の意志とは無関係ではないかと錯覚するほど、アレンの口は滔々と言葉を紡ぎ出す。
 身売りの賊に攫われてしまった幼い頃のアレンは、まったく見知らぬ洞窟に放り込まれ、そこに隠れ潜んでいた賊どもに怯えたこと。
 己の人生を呪い、もはや全てを諦めかけたその瞬間、偶然にも洞窟の傍を通り掛かったであろう騎士に助けてもらったこと。そこから一瞬のうちに繰り広げられた、血飛沫舞い散る剣戟の音、賊どもの苦痛に満ちた絶命の叫び……子供心ながらに凄惨たる恐怖を味わったこと。
 それらを語っていくにつれて、クレアはたびたび驚愕の相を露わにし、あるいは幼少のアレンに自分自身を重ねているのか、強張った面持ちのままアレンの話に耳を傾けていた。そんな彼女の忙しない感情の移入たるや、語り聞かせているアレンですら微笑ましいと感じるほどであった。
 話が後半に移るに従って、アレンの語りに微かな熱が混じり始める。
 全てが終わった頃になって、自分を助けてくれた騎士と幾つか言葉を交わしたこと。血に濡れ光る甲冑姿を目の当たりにして、その在り方に憧憬の念を感じ、自らもまた騎士の勇姿を司る一人になりたいと思ったこと。
 そんな心地良さに抱かれながら、自分は意識を失い、そして次に目覚めたときには見慣れた自分の部屋の寝台の上で寝ており、そこで心配顔の両親と対面したこと。泣き腫らした顔の両親に強く抱き締められ、アレンもまた堰を切ったように泣いたこと――
 夢に見た記憶、そしてその後の顛末すらも語り聞かせるに至り、そこでようやく独白は終わりを告げた。


           ×     ×     ×


「――とまぁ。そんな経緯があったから、俺は騎士を目指そうと決めたんだ」

「そんなことがあったのね……初めて詳しい話を聞いたわ」

 全てを語り終えたアレンに対して、クレアが漏らした言葉は感嘆に満ちたものだった。彼女はしばし熱に浮かされたように漫然と虚空を見上げていたが、やがて独白の余韻を充分に味わい尽くしたのか、次に紡ぎ出された囁きは幾分かの平生を伴っていた。

「その騎士っていうのは、一体誰だったのかしら……?」

「さぁな。さすがに名前までは聞けなかったし、それに十年くらい前の話だ。今頃は一線を退いているはずだ。……もちろん、戦死していなければの話だけどな」

 結局、あの騎士は誰だったのか……それは今でも不明のままだ。だがアレンは、わざわざそれを確かめようとは微塵も思っていない。あの惨劇からアレンを救い出してくれたことには、勿論多大な恩義を感じてはいるが、だからと言って他人の素性を洗い出すような真似に及ぶわけにはいかない。思い出は思い出のまま、ありのままの形として残しておくべきである。唯一望むとするなら――あの白銀の勇姿には、せめて幸多き生涯を送ってほしい。

「……何だか不思議ね。騎士に助けられたあなたの元に、同じ騎士家系出身の私たち家族が引っ越してきて、そうして互いに強く惹かれ合って……今では、互いに切磋琢磨し合いながら騎士を目指しているなんて……これが必然というものなのかしら」

「かもな。それに今じゃ、お互い腐れ縁の仲ときたもんだ。たとえ生まれや育ちは違ったとしても、俺とお前は根本からして似た者同士なのかもしれないな」

「似た者同士……なのかもしれないわね、私たちは。あなたと巡り合って、こんな風に言葉を交わしているんだもの……本来の人同士の結びつきっていうのは、こうした境遇や立場を度外視できる関係のことを指しているのかもしれないわね。
 ――でなければ、こうして触れ合うこともできないもの」

 クレアは静々と持ち上げた手を、アレンの手の甲にそっと添えた。薄闇の中にあって認識できるほど、彼女の柔手は仄かな熱を帯びている。それをまざまざと実感しつつも、アレンもまた彼女の手を握り返し、そのぬくもりに心を致す。

「……あなたの手、不思議と安心するわ。何と言うか……私の父みたいな優しい感じがして」

「そうか。……まぁ俺も、お前の手を握るのは嫌いじゃないな。上手くは言えないが、隣にいてくれるだけで心が安らぐし、その……お前と一緒にいるだけで、どんな困難も乗り越えていけるような、そんな感じがする」

 そんな気恥ずかしい言葉を口走ってしまうのも、彼女が傍らにいるからだろうか。それとも握った彼女の手から伝わる、彼女自身の穏やかな意志に感じ入っているせいだろうか。どちらにせよ、今味わっているこのささやかな〝幸〟こそが、アレンの意志を繋ぎ止める縁なのかもしれない。
 ――そんな幸福に満ち満ちた瞬間も、そう長くは続かなかった。

「――ッ! 何だ?」

「……!」

 突如として身体に伝わった激しい震動、その後に起こった揺れの連続に瞠目する。咄嗟に牢の隙間から上階を見遣れば――先程の不可解な震動の正体は、どうやら地下牢獄を抜けた先で起こったものらしい。あくまで大まかな推測でしかない。地下からでは外部の現状を知ることはできないが、少なくとも只事ではないことだけは確かである。

「――クレア・ブランシャール様。お怪我はありませんか?」

 騒ぎを聞きつけたらしい牢番が牢屋の中に踏み入り、アレンの傍らのいるクレアに歩み寄った。態度こそ客人である彼女を気遣うものだが、その眼差しは、先の冷徹さなど比較にならないほどの凄味を帯びていた。伊達に牢獄の監視役を務めてはいないようだ。

「私は大丈夫です。アレンは――」

「俺も平気だ。ただ……上で何が起きたのか気になるな。またさっきの揺れが起きる前に、今すぐにでも調べに行った方がいいと思うが……」

「――当然だ。そんな当たり前のこと、わざわざ囚人風情に言われるまでもない」

 アレンとしては彼女に向かって進言したつもりだったのだが、それに真っ先に応じたのは、意外なことに牢番だった。単にこういった突発的な事態に対して鋭敏に過ぎるだけなのか、あるいは牢番にも、この牢獄を預かる身としての自負と誇りがあるのかもしれない。
 牢番はクレアを見据えるや、酷く落ち着き払った口調で告げた。

「ブランシャール様。客人をお待たせするようで心苦しいですが、上階の確認には私が向かいます。申し訳ありませんが、ブランシャール様はこの場にお残り下さい。もし上階で何か騒ぎがあった場合は、さしもの私でも即座に引き返すことは叶いませんので、どうかご注意下さいますよう……」

「分かりました。くれぐれも気を付けて下さい」

 最後にアレンの方を睨み付けた牢番は、「くれぐれも無礼を働こうとは考えないことだ」と圧迫感を含んだ諌言を言い残してから、松明を片手に階段の方へと向かっていった。その後姿が完全に闇に消える頃には、牢屋は再び凍えるような静寂を取り戻していた。

「……なぁクレア」

 自身の声音に剣呑たる鋭さが帯びるのを意識しながら、アレンは傍らのクレアへと語り掛けた。

「さっきの震動。もしかしたら――」

「ええ、おそらくは……敵の仕業かもしれないわ」

 クレアもまた既に思い至っていたのか、同意を示すように頷いて見せた。
 いよいよ次なる策に移すべきだと、敵はそう判断したのかもしれない。今度はどんな下卑た小細工を弄すのかは知ったことではない。何よりも肝要なのは、新たな犠牲者が出るか否かと一点に尽きる。
 まさか――こんな非常事態に限って、よりにもよって何もできないとは。
 四肢を拘束されている状態のアレンでは、当然ながら身動き一つすらままならない。己が身を戒める鉄の拘束具を、これほどまでに煩わしいと感じたのは初めてだった。せめて今の間だけでも自由になれたらと思うものの、クレアに頑として拒否されてしまった手前、まさか彼女との約束を違えるわけにもいくまい。ましてや牢番に頭を下げて頼み込むなど論外だし、現に今は出払っている。肝心の鍵がなくては、そもそも釈放も何もあったものではない。
 つまり今のアレンにできることは、ただ事態が収束されることを願うことだけ。このまま手を拱いているなど――こんな理不尽なことがあっていいのか。

「どうしようもないってのは……嫌な気分になるな」

 そう吐き捨てたアレンの肩に、不意にクレアの手が触れる。

「仕方ないわ。何もできないあなたの代わりに、私があなたの分まで働くから。だから、あなたは……」

 そのまま、大人しく眠っていてくれるかしら――
 その囁きを耳にするよりも早く、アレンの後頭部を強烈な衝撃が奔り抜けた。それが長剣の柄の一打であると知ったのは、遅れて響き渡った鞘鳴りと虚空に散らされた金属音、そして何よりも――端正に過ぎるであろうその面持ちを、明らかな嘲弄に歪ませたクレアの姿を見咎めたからである。
 クレ、ア――
 彼女の名を呼ぶことはおろか、もはや悲鳴を上げる暇も与えられないまま、アレンの意識は一瞬にして刈り取られた。


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