【そもそものはじまり】
暑い、夏の昼下がりのことだった。
黒谷ヤマメは、涼を求めて地上の川へと足を伸ばしていた。
涼しさでは地底の方が地上よりは余程マシであり、『涼を求めて』という表現は正確なところではない。暑いのが嫌なら地底に引き籠もっていればいいのだ。
土蜘蛛のヤマメにとってはそちらが本分でもある。
だが彼女がそうしないのは、外の開放感も嫌いではないということと、
「やっぱり山の川は綺麗だねー」
ということに尽きる。
地底の川も決して汚れているわけではないが、地面から染みだすという過程が同じでも地上の方が綺麗だとヤマメは思う。
水の内部に含まれる成分は本当にどちらが綺麗なのか解らないのだが、きらきらと光を反射する川面の眩しさが好きだった。
川幅の中程まで木の枝が張り出している場所を選び、川岸の岩に腰掛けて素足を水に浸す。
足先から伝わってきた冷たさにヤマメは首をすくめ、ひとしきりその冷たさを味わう。
暑い外気でより水の冷たさが際立ち、ここに来るまではうるさく感じていた蝉の声も心地よく思えるほどに格別の気持ちよさだ。
河童たちに言わせれば土蜘蛛がこうしているだけで川が汚れるとのことなのだが、別に病原菌を流しているわけでもなし、河童や山の妖怪の間で川を占有しているのは不公平だ。
とはいえ直接それを言うことはないし、難癖をつけられるのは好きではないので河童が来そうな気配があればさっさと帰ることにしているのだが。
それに、自分が川に入ることを河童が嫌っている理由も重々承知ということもある。
自分の能力は他者から見れば存在しているだけで十分に危険であり、そんな奴が水源にいれば気味が悪いということだ。
病気だの感染症だのを操る能力とは、何とも難儀な能力である。
これで根暗だったらかなり寂しい一生を過ごすハメになったに違いない。知り合いのように妙な捻くれ方をしなくてよかった。
そんなことを考えながら夏にしか味わえない涼を楽しんでいると、不意に大きな何かが地面に落ちる音が響いてきた。
その直前に木の葉が擦れ合うような音もしたので、ある程度の高さだろう。
――落ちた、ってことは河童じゃない、か。
河童なら水の中から出てくる。
落下音がしたのはヤマメのいるところからは少し離れた場所で、藪があるせいで何が落ちたのかが確認できない。
むしろ藪の中に落ちたのかもしれないが。
ヤマメは少し迷ったが、好奇心が勝った。
そもそも落ちる音がしたのに声がしないとは。生き物ではないのかもしれないが、落下音は柔らかい音だった気がする。
何とも面妖だ。
だから確かめねばなるまい、ともっともらしい理由をつけて藪を覗くと、そこには見慣れない服を着た人間が落ちていた。
いや、正確に言えば人間の形をした男、というのが正しいだろう。人型の妖怪には事欠かない幻想郷では見た目で判断するのは難しい。
その人間に見える男は痛い、眠い、などをぶつぶつむにゃむにゃと呟き、なおもそのまま眠ろうとし、
「って暑っ!」
と、かなりの勢いで身を起こした。
それもそのはず、その人間に見える男が着ていたのはヤマメが見たこともない材質の長袖の上着で、それを脱いでもまた長袖、もう一枚脱いでようやく半袖、という厚着だったからだ。夏真っ盛りの幻想郷ではさぞかし暑いだろう。
「――あ、あれ?」
そして我に返ったように周りを見回す。
「どこだココ……」
さてどうしようか、と、その人間(以下略)を見ていたヤマメは身動きせずに脳内で頭を抱えた。もしかしてとても面倒なことに首を突っ込んでしまったのではないだろうか。
それともコレはアレか。ここでぱっくりいって証拠だのなんだのを全て消してしまえという神の思し召しなのか。
いやまだ見つかっていないのだから首を突っ込んだ、と言うには早計だ、とヤマメは自分に言い聞かせる。
しかしここを離れるにせよ襲うにせよ、早く決断しなければならないのは確かだ。
――離れる方が得策だよね面倒なことに首突っ込みたくないし多分アレ外来人だしでも私人間の知り合いとか全然いないから拾ったって助けたりとかできないしじゃあいっそ食べちゃうかってそんなことやったら後々面倒くさいのは間違いないしだったらどうするかって話なんだけど外来人ってどういうのか凄い気になるし……。
この間一秒足らず。
少し違う方向に思考が加速し、ヤマメはちょっと回りすぎる頭が恨めしくなる。
本能のみ、もしくは考えなしに行けば食べる一択なのだ。
妖怪は人間を食べるのだから。
そんなことで悶々としていると、その人(以下略)が脱力したように地べたに横になった。
「何だ夢か……」
「ユメジャナーイ!!」
思わず身を乗り出してツッコミを入れていた、そんなお茶目なヤマメさんだった。
○ ○
で。
ここはどこ、どんな場所、というよくある会話の後。
「うん。よく解りません」
「……そうだろうね……。後、そんな畏まらなくていいって」
そうヤマメが言うと、脱いだ服を横に置いて正座でこちらの話を聞いていた外来人は、ふう、と一息ついたように胡座に座り直す。
変わり身早いよ、とツッコミを入れようかと思ったが、まだ会ってすぐということもあってやめておく。
「そりゃ助かる。……で、とりあえず俺はちょっと違う世界に来てるってことでいいのか?」
「まあそれでいいよ――って解ってるんじゃない」
「いや微妙にえーと……」
言葉に詰まった外来人に、ヤマメは自分の名前を告げていないことを思い出す。できれば言わずにすませたかった気もするが。
「ヤマメ。黒谷ヤマメだけどヤマメでいーよ」
ん、と外来人は頷き、
「ヤマメの言ってる内容とはちょっと違うかな、と思ってたから確認しただけだよ。でも、そうか。別の世界か……」
そう呟いて、考え込むように顎に手を当てる。さほどショックがあるわけでもなさそうに見えるが、その実どうなのかがヤマメには解らない。
――考えてもしょうがないか。
あっさりと思考を放棄して、ヤマメは考え込んでいる外来人に向けて口を開く。
「でさ、外来人の名前は?」
「あ?」
「名前。こっちが名乗ったんだからそっちも名乗ってよ」
「ああ、名前か――」
言いかけて、外来人は眉を寄せ、首を捻り、
「俺の名前何だっけ?」
間抜けな顔で言ってきたのでカチンときた。
「……もしかしなくてもふざけてる?」
「んなこと言われてもなぁ」
襟首を掴むような勢いで詰め寄ったものの、ヤマメはその裏で思考を走らせる。
自分が何者かをよく憶えていないのならば、さほど深刻そうに見えないのも説明がつかないわけではない。
嘘をついているという可能性は消えないが、元々深く関わるつもりもないのだから、相手の名前を知らないということは大して問題にはならないだろう。
「……まあどっちでもいっか。で、これからどうすんの?」
「どうするって言われてもなー。どうすんだろ」
「ちったあ自分で考えなよ」
「考える材料もねえもん」
ダメだこいつやる気がなさすぎる。
とはいえ見捨てるのは可哀想、というか見捨てた場合、運が良ければ友好的な妖怪に出会って人里へ、運が悪ければそこで人生終了である。
そうするとこの外来人は人知れず妖怪においしく頂かれてしまうわけだ。
うーん、とヤマメは頭を捻る。
他の妖怪に食べられてしまうくらいなら第一発見者としておいしく頂きたい。
後々面倒くさくても本音はそうだ。
例えばここでどこかに行けと言ったところで、人里がどこかを知らなければ山からも出られないだろうし、行き方を教えたところでどうにかなるとも思えない。
そうなると妖怪に出会って以下略だ。
残念ながらヤマメには追い払われるのを承知で人里まで外来人を連れて行くような気概はないし、そもそもそんな妖怪が連れてきた人間が信用される気はあまりしない。
現状、この外来人はほとんど詰んでいる。
最初に出会った相手が悪いな、とヤマメは外来人には見えぬように自嘲の笑みを生む。
病気を操る土蜘蛛など、好かれもしないし知り合いが多かろうはずもない。
いや、地下に限れば多いが。
――せめてもうちょっと誰にでも好かれてる奴だったら良かったのにね。
そんな後ろ向きな思考を首を振って追い払い、よし、とヤマメは腹を括った。
「……私が妖怪だったら、どうする?」
「どういう意味だよ?」
「幻想郷では、妖怪は人間を殺して食べるんだよ?」
その言葉にも、外来人はあまり驚いたように見えなかった。
「それは嫌だな。食べられるのは好きじゃないし」
どこか落ち着いた風情の発言に舐められたようにさえ感じ、ヤマメは剣呑な目で外来人を睨んだ。普通でない部類ならともかく、一般の外来人に舐められるのは妖怪としての矜持が許さない。
「――信じてないんだったら、ホントに食べたげよっか」
「んにゃ。ヤマメが自分を妖怪だって言うんだったら、きっとそうなんだろ」
だけど、と力みなく言葉を継いだ外来人は、
「本当に俺を殺すつもりだったら、何の説明もなしに殺してる。だからまあ、襲われたりはしないかな、とも思ってる」
そう言って、どこか困ったように笑った。
殺気を含んだ視線を正面から受ける笑顔、という奇妙な睨み合いは、ヤマメの参ったような長大息で終わりを告げる。
ヤマメは肩を落とし、
「じゃあどうすんの? 元の世界に帰りたい?」
「って言われてもあんまり憶えてないっつーか。なんかスゲエ死にそうになったのはちょっと憶えてる気がするんだけど。だから殺すだのなんだの言われても落ち着いてんのかな」
「……頭のネジが何本か飛んでんじゃない?」
半眼を向けたヤマメは、かもね、と笑った外来人にため息をついた。第一発見者になったのも何かの縁だろう。
とにかく自分の中でそう結論づけ、
「ついてきなよ。ちょっとは安全なところに案内するから」
そして、ヤマメはこの面倒な事態にもう何となく足抜けできないところまで来ている気がして、また大きくため息をついた。