深夜の森に歌が響き渡っていた。
大きな声ではない。
寧ろ、眠っている他人に迷惑をかけないようにと、それは小さいものに抑えられていた。
だが、その声はよく響いていた。
音が、ではない。
歌に込められた感情が、そこに表れる魂の形が、森の中に朗々と響き渡っていた。
それは歌手として望むべき一つの極致であっただろう。
そこに技巧はない。子供の歌としては上出来だが、それだけだ。プロとして活躍している者たちとは比べ物にならない。
だが、そこには確かに美しさがあった。心が込められているが故の美しさが。そうであるが故にそれは歌としての一つの極致だった。
だから、これは当然の出会いだったのだろう。
その歌は、始祖精霊が一柱、《紅の殲滅姫》コーティカルテ・アパ・ラグランジェスが聞くに値するほどの価値あるものだったのだから。
孤児院の屋上で、少年は、美しき精霊と出会う。
少年の歌が、そう導いた。
それは一つの物語の始まり。
故に、もし、その始まりでの出来事にズレが生じれば、それは物語全体に大きな波紋を齎す。
これは《紅の従者》と呼ばれたラグランジェス・フォロンの物語。
もしかしたらありえたかもしれない、IFのお話。
フォロンは孤児院の中で震えていた。
外からは、爆音や破壊音が聞こえてくる。
自分の歌を褒めてくれた、初めて自分を必要としてくれた『精霊のコーティお姉ちゃん』が戦っているだと、幼いながらにも彼は理解していた。
「お前は中で隠れていてくれ」
彼女の言葉が頭を過ぎ去る。
自分を始めて必要としてくれたコーティお姉ちゃんが戦っているのに、自分はこんな所で一人震えているだけ。
彼女の言葉を裏切りたくはない。けど、それで本当に良いのだろうか?
自分にも何かできることがあるのではないだろうか?
ふと、フォロンは以前読んだ童話の内容を思い出す。
その童話では、主人公の少女が歌と音楽で精霊に力を与えていた。
自分もあの少女のようにコーティお姉ちゃんに歌と音楽で力を与えられるのではないだろうか?
その考えは急速に彼の脳裏を占領した。
元々、フォロンには一度考えたら何処までも突き進むような頑固なところがある。
それは今回も同じだった。
彼は自身の思いつきに従って、ピアノが置いてある部屋へと走る。
そして、椅子の高さを調節して子供の身長でもピアノを弾けるようにした後、自分の歌声に合わせてピアノを弾き始めた。
以前に教えてもらったピアノの弾き方を懸命に思い出しながら、自分の歌声に合うように指と腕を動かして音楽を作っていく。
自分の耳だけを頼りに、ピアノの音を調整し、声に合わせていく。
楽譜も何もない。ただ感性を頼りに音を作っていく。
それは常人にはとても成し得ないことだ。
だが、フォロンにはそういった、『音』を俯瞰する天性の才能があった。尤も、彼自身はこの才能が凄い物だとは気が付いていなかったが。
「コーティお姉ちゃん、頑張れ」という純粋な気持ちを込めながら、その為だけに音を紡ぎだしていく。
寝ている孤児院の他の人たちに迷惑になる、などという考えは完全に抜け落ちていた。
声もピアノの音も全開である。
そして、彼の気持ちが込められた音色は、開け放たれた窓から外に流れ出し、戦闘中のコーティカルテに届いた。精霊に力を与える神曲として。
フォロンは音を紡ぎ続ける。部屋が何時の間にか明るくなっているのにも気が付かぬまま、コーティお姉ちゃんの為だけに神曲を奏でる。
エレインドゥースとシダラ・レイトスのコンビに刻一刻と追い詰められていたコーティカルテにとって、その神曲は正しく起死回生の一手となった。
コーティカルテの力が一気に膨れ上がる。
消耗していた力が回復していく。
とはいえ、その力はクチバ・カオルとコンピを組んでいたときと比べれば弱い。
神曲の奏者が未熟な子供で、しかも、歌声とピアノの二重奏に過ぎないのだから当然だ。
だが、その様子を見るシダラ・レイトスとエレインドゥースの表情は険しかった。
実のところ、コーティカルテを追い詰めていたレイトスとエレインドゥースも限界ギリギリだったのだ。
クチバ・カオルとの激戦は、レイトスに致命傷と言って良いダメージを与えていた。
コーティカルテの力が尽きかけていたからこそ、どうにか追い詰めることができていたのだ。
しかし、コーティカルテは何処からともなく聞こえてきた神曲によって、ある程度とはいえ、その力を回復してしまった。
「中で隠れていろ、と言ったのだがな」
此処に居ない彼を咎めるように、そうコーティカルテは呟く。
しかし、そこには隠し切れない喜びが多分に含まれていた。
「だが、良い曲だ、フォロン」
コーティカルテは心地よい神曲に身を委ねながら、続けて褒めるようにそう言う。
「今の私は気分が良い。
せめて苦しまぬよう、一瞬で決めてやろう」
その言葉と共に、コーティカルテはレイトスの方を向くと、右手に凄まじいばかりのエネルギーを内包した精霊雷を発生させる。
そして、それをレイトス目掛けて放った。
「レイトス様!」
悲鳴にも近い声を出しながら、エレインドゥースがレイトスに駆け寄り、精霊雷による防壁でその攻撃を防ごうとする。
力と力がぶつかり合う。
コーティカルテとエレインドゥース。上級精霊の中でもなお規格外の力を持つ二柱のぶつかり合いにより、世界が光に包まれた。
赤と緑の光が乱舞する。
それは幻想的な光景であった。
「逃げたか」
コーティカルテの言葉どおり、光が終息したとき、そこにはレイトスとエレインドゥースの姿はなかった。
コーティカルテは彼らを追撃しなかった。
そんなことよりも、エレインドゥースとレイトスの接近のせいで、途中で打ち切ることになってしまったフォロンとの契約の続きを早く行いたかったのだ。
完全な契約を結んでいないのに、まだ殆ど彼に合わせた調律をしていないのに、彼の神曲は、自分に此処までの力と悦楽を与えた。
傷ついていたとはいえ、相手は四楽聖の一人と自分の姉妹である精霊である。それを退けられるほど彼の神曲は優れていたのだ。
まだ未熟とはいえ、その才能は計り知れない。
自分が彼を選んだことに間違いはなかった。
そのことが嬉しくて、そんな彼を見つけられたことが嬉しくて、彼を自分だけのものにしたくて、コーティカルテは始めて恋をした女学生のように浮かれた足取りで、フォロンのもとに向かった。
この後、フォロンの神曲に惹かれて彼の周りに集まった無数の精霊に対して、「これは私のだ!」とコーティカルテの怒りが爆発し、孤児院が半壊することになるのだが、まぁ、それは余談である。
後書き
短いですが、プロローグということでお許しください。
基本的に、この話のフォロンは神曲や音楽に関することは天才だけど、それ以外は並以下という設定です。原作通り、変な意味で間違った方向に暴走したりもします。
なので、かっこいいフォロンが見たい、とかそういうご意見にはそえないかも。
後、嘆きの異邦人(第二次)は、原作ほど活躍しません。
次の話で、ある重要物がコーティカルテによって差し押さえられてしまうので。
そんなお話なのですが、気に入ってくれたのなら今後とも読んでいただけると幸いです。