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No.31392の一覧
[0] 沢蟹の歩き方 online[バズーソ](2012/01/31 21:05)
[1] 沢蟹の歩き方 online 2[バズーソ](2012/01/31 21:07)
[2] 沢蟹の歩き方 online 3[バズーソ](2012/01/31 21:08)
[3] 沢蟹の歩き方 online 4[バズーソ](2012/04/15 09:02)
[4] 沢蟹の歩き方 online 5[バズーソ](2012/04/15 09:00)
[5] 沢蟹の歩き方 online 6[バズーソ](2012/04/15 09:05)
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[31392] 沢蟹の歩き方 online
Name: バズーソ◆e7c47bb7 ID:d1fe1afc 次を表示する
Date: 2012/01/31 21:05

 泥で濁り水草がうっそうとした水辺。清流とは呼びがたいこの小川は、それでも小魚や水棲の昆虫が生息するには十分な環境だった。
 時々は動物の死骸といったご馳走も流れつき、この水中の小さな命たちに恩恵をもたらしていた。
 すると、餌を探しせわしなく動く水鳥の群れ真下、浅瀬の一角からひときわ大きな水泡が沸き立った。
 一瞬にして哀れな獲物は水中に引きずり込まれ、狙われていたことすら気付かないまま命を絶った。仲間の声なき悲鳴に気付いた他の鳥たちは大慌てでその場を飛び去っていく。


 深い夜の帳の中に残されたのは小川のせせらぎに加えてわずかな咀嚼音。
 今しがた仕留めた獲物を大事そうに抱きかかえ、ゆっくりと岩場へ身を乗り出したその生き物は、まるで大きめの岩といった外観しか持っていない。
 皮膚と思われるおよそ全ての表皮は硬質で角ばり、生気は感じられず、目や鼻はどこにもない。いや、そもそも顔の存在すら怪しい。
 それでも確かに、有機的な動物活動の気配が伺えた。
 地面を這うように移動をしてどんと陣取る。これを可能にするのは左右にせり出した四対の足。
 そしてさらに一対の巨大で頑丈な鋏(はさみ)が"岩"には備わっていた。
 

 そう───この生き物は蟹だった。硬い外殻で身を守り、捕食者から岩場などに隠れて生きる、水底を漁る掃除屋だ。
 だが姿こそ同じであれ、サイズには開きがあった。
 蟹とは元来あまり背は高くない。それは扁平に広がる体の構造から明らかだ。
 しかしこの生き物は立ち上がれば成人男子の膝上をゆうに越え、30センチ以上もある鋏は、威嚇で腕を突き上げれば、人の腰をも簡単に上回る高さまで届くようだった。
 くまなく覆うダークブルーの殻は厚く、体をより頑強にし、闇夜に姿が溶け込むのにも一役買っていた。
 それは近隣の住人が存在を知れば恐怖を呼び起こすであろう"ブッシュシザー"という名の魔物だった。

 森の暗色を凝縮したその巨体は飛びぬけて硬く、片田舎の村人たちは甲羅を貫く武器も、鎧も持ち合わせてはいない。
 彼の気分や腹具合次第で、獲物となった人間の命はもろくも散ってしまうのだ。
 勿論、彼自身そんなことを知る由もなかったが。
 
 几帳面に羽と骨を取り除いて水鳥を食べ終わった彼は、その量に不満を感じながらも、一応は満足したように甲羅に繋がった間接をだらしなく弛緩させた。
 大きな獲物のいないこの辺りの地域はそもそも彼の生息域ではないのだ。仕方が無い。
 暗闇の広がる夜空。水滴を垂らし、それを逆さにしたような蟹特有の形の眼球。見知った星を探すようにただジッと天を見つめる瞳は、容姿に似合わぬ、しっかりとした知性の光を宿していた。
 彼、と呼んだのには理由がある。

 ブッシュシザー ───蟹の元の名は、「上原 文太(うえはらぶんた)」。暦(れき)とした人間である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     沢蟹の歩き方 online
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 今年の春に大学の四年生を迎えた上原文太は、就職活動を間近に控えた学生らしく、学内の一画にある就職課の窓口に並んだチラシをにらみつけていた。
 八月の半ば、殆どの大学生は夏休みに入り、彼の通う大学の学内に人は少なかった。
 廊下に人はまばら。さんさんと照りつける夏の太陽は若者たちを退屈な学び舎にとどめることができず、遊びをしないそれ以外の勤労な学生はと言えば、暑い中重要でもない講義を受けるため電車に乗ることは無い。自宅で勉学に励んでいた。
 そうであるなら今ここにいる者達、先にあげた二つにあてはまらない人間は、簡単にいえば落ちこぼれである。
 就職ではなく、就職活動であるところがポイントなのだ。働きぐちなど無根拠にどうにかなると高をくくり、いよいよ卒業が感じられる四年生まで遊び呆けていた怠け者、それが彼だった。
 少し、甘く見すぎていたか。
「なんだ上原、めずらしく深刻そうな顔をして」
 ふと後ろから、軽く肩を叩かれる。丸めた雑誌の小気味よい音に振り返ると、よく知る友人の姿が目に入った。
「いや、ちょっとね」
 就職課、こんな場所で悩んでいるなら理由も分かるだろう、そういった意味合いも込めて顔を曇らせての反論は、新たな言葉でさえぎられた。
「まあ…おまえのその足じゃ、無理もないか。僕にも手伝えることが何かあれば言ってくれよ」
 ささやかな同情が心にささくれを生む。後ろの相手はその事に気付くことなく、足早な口調でつけたした。
「それと今夜のこと忘れるなよ、午後七時だからな。場所はいつもの通りだ」
 まくし立てるようにそれだけ言って、幼馴染にして旧知の友人は去っていった。


 上原文太には足がなかった。
 正確には幼少の折、相手の前方不注意、とは言っても道路の真ん中にしゃがみこんでいる子供をトラックの運転席から見つけるのは至難であろう、不幸ではあるが避けようもない事故によって両足の機能を失っていた。
 それからの人生は決して楽とも言い切れないが悲観したものでもなかった。
 勇敢にもアスファルトを横断するミミズを観察した幼い日の自分を恨むこともあったが、それは今更な事でもあったし、なにより嘆いたところで仕方は無い。持ち前の気楽さで過去へのこだわりは捨てている。
 歳は23歳、この頃は一緒に轢かれたはずのアイツ(ミミズ)は無事だったのか、などと特に意味もない思考で当時を振り返る余裕もできた。
 車椅子での移動は今でも不便に感じることが多いが。

 慣れた手つきで携帯電話から最寄り駅に連絡をいれる。駅構内の階段ののぼりおりなど、乗車ひとつ取っても何かと人の手が必要だ。
 さて、そんな現実はとりあえず他所に置き、今日も享楽に満ちた仮想の世界にふけるとしよう。
 
 
 World Online  ワールド・オンライン
 ゲームによりリアルな体感、より多くの刺激と快感、そしてより大きな利益を求めた結果がこの強大な娯楽システムだった。
 国営の生態実験シミュレーションコンピュータ。それは地球と異なるさまざまな環境での生物の進化を予想し再現する、また人間の進化の過程、起源を明らかにする有益な研究の産物だ。史上まれに見るハイスペックと消費電力を備えたスーパーコンピュータである。
 今では役目を終え、世界中の人間が知るMMORPGオンラインゲーム「ワールド・オンライン」のサーバーとして再利用されている。
 
 上原文太はさっそくゲームをプレイするためのクレジットを取り出した。ポケットからまさぐったカードを見る。残り時間は7時間、多いとはいえないがあと何日かはチャージの必要はないだろう。
 人間一人をちょうど収容できるサイズの筐体(きょうたい)に潜り込む。
 体を用意されたベルトに固定するとOKの文字が表示され、扉が閉まると、視界は完全な暗闇に落ち込む。
 障害者用の娯楽施設にカスタマイズされた唯一の筐体は、静かに稼動を始めた。


 ワールド・オンラインの世界は実に典型的なオンラインゲームのものだった。
 中世ヨーロッパをモチーフとしたファンタジー物語は東洋人にとって永遠普遍の憧れだ。分かり易い美しさや、荘厳さ、雄大な自然など、若者にとってスケールの大きさは理解しやすい美徳だ。
 どの人間を取り出しても長い手足や高い鼻、恵まれた容姿を持つものが多いとあっては、惹きつけられぬ理由が無い。ストレートな魅力をもっている。
 逆に近年の欧米や西部では、アジアの混沌とした暗黒の文化や雰囲気が好まれる傾向が強い。


 キャラクターネームはウェハブ。変異種と呼ばれる変わり種、悪く言えばネタキャラともいうべき異端の種族が持ちキャラだ。
 変異種はワールド・オンラインにおいて全ての初期種族が特定の条件でなり得る進化、もしくは退化の一形態だった。変異は『天上人』『魔人』『生態』の三種類が確認されていて、それぞれの特徴は大きく異なる。
 『天上人』、『魔人』はゲーム内において最も人気と希少性の高い種族だ。完成された美形のエフェクト、前者は神々しさ、後者は迫力を備えた体つきに加え、両者とも独特で強力なスキルを習得できる。
 ゲーム内での地位が社会的なステータスにもなるほどにオンラインゲームが普及した現代において、それは羨望の的だった。

 しかしウェハブは違う、不人気であり、ある意味最も特徴的ともいうべき変化を遂げる『生態』種は、もはや人の形をなさないのだ。
 エルフや人間、小人、ドワーフといった全初期種族の下位変換と揶揄される使い心地の悪さ。毒や穢れへは強力な耐性が備わるが、数少ない利点であるステータスの高さも殆どの装備ができないことを考えればマイナスだ。

 だが使い勝手の問題を捨て置いても、この手のゲームでは珍しい事はそれ自体が強烈なステータスになるはずだった。

 『生態』種とは、簡単に言えばモンスターになれる種族だ。
 今や上原文太はウェハブとして、完全に敵モンスターとして登場する数々の魔物たちの一匹であるブッシュシザーとなっていた。
 一応はただの雑魚モンスターと違い人間とモンスターが混じったような姿へと変態することはできるが、その姿はとにかく醜悪だ。

 ゲームの最も大きな特徴は膨大な多様性を保っていることだ。
 惑星単位での環境再現を可能にしたコンピュータは、この仮想世界でさえ現実とほぼ同じリアルな環境をシミュレートする。

 仮想の街をいくプレイヤーたちに同じ外見をもったものはいないし、草木の一本さえ同一の形状のものは一つもなかった。
 人手を要さず、必要なデータさえ入力すればゲーム内で使用されるグラフィックは勝手に創造され生み出される。それも、数に限りはない。
 この素晴らしい機能は、プレイヤーを飽きさせないほぼ無限の容姿を生み出していた。
 髪や肌、それに瞳の色。変わった姿を持つくらいではもはやステータスでありえないのだ。
 化物のようなこんな身体になろうなんてのは、物好きでしかなかった。だが、物好きというのはいつの時代のどこにでもいるものだ。

 「さて……笹森との約束は七時だったな…」

 暗闇から一転、眼前に圧倒的な実感を持ったゲーム画面が出現した。
 手袋のようにはめて使用するコントローラーを感覚的に動かし、今や完全にキャラクターになりきったウェハブは四対八本の足で這うように移動を開始した。
 前回のログアウト場所は霧の谷。そこから友人の待つ首都までは周囲のMob(敵モンスター)は攻撃をしてこない。本来はプレイヤーに襲い掛かるはずであるが。

 (こんにちは、同族のみなさん、見回りご苦労さま)

 神聖族の街には入れないなんて制約は受けてることになるが、これだけは役得だな。と、思考をよぎらせてみる。

 乱立する樹林を順調に進む。するとちょうど地形が平原に変わろうとする谷の出口で、前触れもなく突然光の洪水が目を焼く。
 そうして彼は脳を焼ききられ、人としての生涯を閉じた。


 全く同じ瞬間に世界各地で同様の死者が三万人。
 いずれも事故が起こったのは、利用者の眼球にゲーム画面をレーザーで照射し、視認させるタイプだ。
 出力の高い旧型の筐体にのみ起こった惨事で、原因の究明が急がれる。
 世論は21世紀初頭にあったオンラインゲームの存在を否定する倫理的見解と法律の立案をもむし返し、この事件は娯楽設備の事故としては過去最大のものとして大いに世間を賑わせた。
 だがそれはもはや、犠牲者達にはまるで関係のない話だった。






 第一話 ある日、森の中




 おかしい。
 何がどうおかしいのか具体的には説明できないが、拭えない違和感が体中に纏わりついている。
 体の平衡がおかしい。薄ぼんやりとして何かが腑に落ちない感覚は、風呂の中に自分の体を沈めたときのようだ。
 音が消え、視覚は鈍く頼りない。

 目が見えず、瞼を開けようとしても、それがどこの神経を動かし、どうやればいいのかをすっかり忘れてしまっていた。
 水中を漂うように、体を温い膜が包み込んでいる。
 まるで、母の胎内で眠る子供。だが明確には違和感を意識できていない。これは夢の中だろうか。

(確か自分はゲームの最中で)

 そもそも、ここは、どこだ。

 その時点で、一気に意識が覚醒して飛び起きた。
 荒い呼吸が纏わりついている。その場で動悸を抑えるようにうずくまり、目をしばたかせ、落ち着くのを待った。
 なんだ、どうなっているんだ。
 地面には背の低い雑草が生い茂り、周囲にはまばらな樹林がある。どうやら人が通る道ではなさそうだ。
 草、何故か自分は野外にいるらしいが───。

 そこまで考えて突然、手前の茂みに飛び込む。
 何か計算があって体が動いたわけではない。言うならば本能が、見つかってはならない何かから身を隠そうとしての行動だった。
 
 とにかくウェハブは混乱の極みだ。何故俺の身体は勝手に動いた。分からない。ここはどこだ。分からない。
 ただ全身に恐怖が張り付いていた。危険な何かが迫ってくる。近くにいる。
 だからこそ逃走しなくてはならないし、それができないのなら絶対に見つからないようこの茂みで息を潜めるだけ。
 そう、人間なら誰しもとっさに取るはずの行動だったが、おかしい。俺はこんなに素早く動けるわけがない。だって俺の足は──

 心臓が凍った。
 自分の見ているものが、信じられない。
 人を遥かに越える高さを持つ橙色の塊、嗅ぎ慣れない肉の腐臭が、断頭台のように並ぶ牙の隙間から漂っている。
 巨木のような四肢を一歩踏み出すごとに、ミシリと地面が軋む。その足先には巨大な釘のごとき爪が四本ずつ並んでいる。
 長い鼻面に備わった、闇夜の中で爛々と輝く二つの赤い光は正視に耐えない。狩られる側の生き物はあれを見てはいけない。
 唯一あれに見せるのは背中。全力で、ただ逃げるだけだ。
 本能で分かった。あれは死神だ。正面から睨まれれば助からないだろう。
 理性はその存在の否定を繰り返している。あり得ないことであり、自分の知識や常識は決して眼前の光景を認めていない。こんな恐ろしいモノは、嘘だ。
 
 だが現実には、樹木を凌駕する巨大な狼が、こちらに向かって歩みを進めていた。
 
 ウェハブに野外での経験はない。幼少に動物園で触って以降、家猫しか動物との接触はない。
 しかしここで騒ぐことこそ愚かの極みだと理解できた。
 暗闇の中、恐怖で叫びだしたくなる。だがその欲望に安易に身をゆだねれば、待っているのは確実な死だ。
 足音が段々と近づいてくる。現実感なんてすでに跡形もなく消し飛んでいた。しかし混乱もひとまずは、危機を避けるため放り出さなければならない。

 (落ち着け、とにかく落ち着くんだ、まだ見つかったわけではない)

 心臓が破裂しそうなほどはやく脈打っている。
 目的は別の場所。ここはあの狼にとって、進路上にある道にすぎない。きっとそのまま気付かれずに通り過ぎるだろう、そう期待して、とにかく今は身を潜めるしかないのだから。
 狼の重く響く足音の振動が体に伝わってくる。目前を通り過ぎる瞬間の緊張はもはや言葉では言い表せなかった。間近で見るとそれはなんと絶望的な迫力だろう。
 隠れた茂みのすぐ目の前を、巨大な胴体が占領した。吹き抜けるような息遣い、その臭いが濃密に漂う。
 たとえ今、気が緩み、ちょっとでも、体のわずか一部分でも微細に動かせば、自分は死に至るという確信があった。その確信は、全身の時間を止めていた。
 手を伸ばせた触れられそうな距離を、狼が、左から右へとゆっくり足を運んでいく。

 だが、やはり自分が目当てではないようだ。尻尾まで通過して、次第に足音が遠ざかっていく。
 だが安心はできなかった。未だに死の予感が体を包んでいる。
 その場から走り去りたいという、甘い自殺の誘惑を意思の力で跳ね除けた。

(走る。そうだ、俺の体は)

 ふと、目線を下に落とそうとしたところで視界に見慣れない甲羅が飛び込んできた。
 青黒く、無骨。一瞬の驚愕があった。
 しまったと思った時にはすでに時は遅い。
 反射的に体をビクつかせた際、わずかに、ほんのわずかだが潜った茂みから草の擦れる音が漏れた。
 規則正しく小さくなっていたはずの死神の足音が急に止まる。
 気のせいであってくれれば、なんと良い事だろう。地面を踏みしだく音、また、遠くに行けばいいだろう。その空しい願いだけが、思考を占領する。

 ───ミシリ
 地中の湿った層まで圧力を加える体重。
 それは確実に、自分の方へと向きを変える巨大な生き物の着地音だった。

 赤い双眸が、血のように赤い双眸が、おそらく十数秒の後には、四肢を砕いて俺を食らう獣がこちらを伺っている。
 ダメだ。もう助からない。俺はあの爪にいたぶられ、牙で噛み砕かれ千切られて肉片になる。そのことを考えただけで気が狂う。
 何の感傷もなく胃袋に収められて餌になり、捕食者の一時期な空腹を満たす。
 逃げ出そうという気は起きなかった。それはもはや予感というより実感の域に至っていた。

 ただ奇跡的に、それが今回は結果に功を奏す。
 張り詰めた神経が限界を迎えたとき、たった一つ小さな影が目の前に躍り出た。
 手の平だいの大きさ、特に何の特徴もないトカゲ。
 近所の裏山で見かけるような、害もなければ益もないような存在だ。
 一度だけ地面からガサと音を立てて飛び上がり、夜の暗がりに消えていった。
 二つの赤い瞳はその光景を眺めると興味を失くしたように振り向き、わずかな唸り声を喉の奥からもらして、森の奥へと帰っていく。
 偶然近くにいた爬虫類。それが命拾いとなった。


 周囲に何の気配も感じなくなった所で、ウェハブは忘れていた呼吸を再開する。
 体は震え上がり、脅威が去っても隠れた場所から出る気はおきない。泣きそうなほど怯えていた。
 いや、実際に泣くことができるのなら惜しげもなく涙を流しただろう。
 何なんだ一体。あれはなんだ。大きい、ただ怖い、あんなのは知らない。俺はどうなっている、この気持ちの悪い青い甲羅は俺の皮膚なのか。
 恐ろしい疑惑の数々が、次々と思考の海から湧き上がってきた。
 しかし自分のどこか冷静な脳の一部は、あの怪物の正体を知識として知っており、自分自身に理解を促している。
 グシャナウルフ───冷涼なる樹海の南部、霧の谷に生息するウルフ、ハウンド、フォックス系を纏め上げるボスキャラクター。
 狼族全般の高い攻撃力と敏捷値に加え、橙色の毛皮にも示された狐との混生要素で生まれる「狐火」を代表とする魔法攻撃スキル。そして幻覚スキル。
 撃破を望むのならレベル20以上のプレイヤーが4、5人。あるいはそれ以上の戦力で挑まねばならない強敵だ。
 それはよく知るワールド・オンラインに登場する、魔物の一匹だった。

 だが、実際に目の当たりにしてみれば分かる。あれは人が何十人と集まったところで、殺すことなどできはしない。
 ゲーム内のリアルさなどとは桁がまるで違う。乗り越えられない自然界の節理であり、圧倒的な捕食者がそこにいるという原始的恐怖。

 その夜はただ体を震えさせて、眠ることもできずに夜明けまで身を固めていた。
 
 

 
 丸三日が経つ頃には、彼はウェハブというキャラクターの身体にも慣れ始めていた。まず必要だったのは、体の効率的な動かし方だ。
 なにしろ最初は足が絡まり、碌に歩けもしなかった。その場から一メートル移動するだけの行為に要する苦労は、赤子のそれを充分に上回っているように思えた。
 加えて低い視界がウェハブに幾つかの恐怖を呼んだ。まず虫などがすぐにでも目に入り嫌悪感を感じる。
 草木が否応になく行き先を遮り、土くれで体がすぐ汚れた。

 だが、そこには一種のコツがあることも分かった。
 一対のギザギザの棘が備わった鋏は、進路を邪魔する枝葉を、恐ろしいほど効率的に刈り取ることができた。
 地面を穿ちながらカタカタと動く三対の足は、ずんぐりとしていて、これも慣れれば体を確実に安定させる。

(まるで、両手がそのまま刃物になったようだ。しかも、何故か身体の使い方が頭に納まっている)

 狩りをする時のノウハウもそうだった。

 初めて生肉を齧るときこそ感じたのは吐き気だ。だがこれもすぐに、口内を満たすおぞましい美味と空腹には勝てないと分かった。
 主に兎や鼠などの小動物を捕らえて食う。大きい動物は怖い。見つけた小川で水に潜ると、どうやら自分がエラ呼吸ができるらしいことに気付き戦慄した。
 どうにか現状を把握しわけの分からないここでやっていけることはできるらしいが、逆にそのことが彼を追い詰めていた。

 慣れるわけなんてない。化け物め。これは俺じゃない。俺は人間だ。こんなでかくて不気味な蟹、まるで悪魔じゃないか。
 何度願っても悪夢は覚めない。何故だ。ちきしょう。

 目を背けた事実を必死に見据え、認めたくはないが、それでもここは紛れもなく、ワールド・オンラインの世界だった。
 理由など分からないがそれが今の状況だ。ウェハブは幾つかの選択肢から苦しみぬき一つの行動を選んだ。
 誰かに会いに行こう。今の俺を見てどう思うかなんて考えていられない。言葉なんて通じるとも思わない。 
 だけどこのままあと数日人間に会えなければ、俺はおかしくなってしまう。 
 誰かが俺のことを人間だと言ってくれなければ、自分に優しく言葉をかけてくれなければ心が壊れてしまう。

 本当に俺がこの世界に迷い込んだなら淡い希望が生まれる。
 そう、そうだ、同じ境遇にいる人間がいてもおかしくはない、自分が意識を失う瞬間にゲームをプレイしていた人間は他にもたくさんいる。それに人間もいるだろう。
 待ち合わせした友人はどうしているだろう。きっと自分と同じ状況にあるのかもしれない。いや、いるに違いない。
 彼はウェハブが生態種であると知っている。きっと自分を分かってくれるはずだ。
 都合のいい解釈だと心の隅では分かっているが、一抹の希望がわいた。友達に会いたい。 

 
 
 人間と木人の交流する樹海の国、ニルフ領国。
 霧の谷を北へ向かえば、その首都につくはずだ。今となっては無効だろうが、元々そこで待ち合わせをしていた。
 本人が見つからなくても少なくとも人間はいるはずだ。現状の情報も手に入る。
 途中で村があれば、人と会うこともあるだろう。

 そこまでの道は出来る限り泳いで、正確には深さ2メートルほどの川底を歩いて距離をかせぐことにした。
 三日の間、魔物を何匹か見かけたが、こちらに興味がないように無視されて、襲われることはないと分かってはいた。しかし、絶対ということはない。
 あの狼のこともあり、自然に、安全な川にそって移動することに決めていた。


 霧の谷は深い朝もやに包まれ、日の光をまばらに反射している。
 やるべきことはある。さあ、行こう。

 青黒い染みが、透き通った水の中を下流へと、這うように流れていった。



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