反照の民族主義?

(bib.deltographos.com 2023/12/11)

このところミカエル・リュケン『ギリシア的日本——文化と占有』(Michael Lucken, “Le Japon grec – culture et possession”, nrf, Gallimard, 2019)を読んでいます。と言ってもまだ冒頭のみですが(笑)。でもすでにして、「おお〜、こりゃおもろいね」という感じになっています。

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ギリシア語やギリシア文化が、かつての日本においても、教養層のあいだで尊ばれてきたのはどうしてか、という問いに、著者は重層的な回答を寄せます。つまり、まずは「ギリシア的な日本」というものが、西欧のジャポニズム、あるいは広義のオリエンタリズムの流れの中で育まれ、それが当の日本において内面化され、取り込まれていった、という見立てです。

西欧のオリエンタリズムそのものが、実は西欧的な優位性の思想を、東洋への芸術や思想の伝播という文脈でもって強化する(つまり、東洋の文化も、つきつめれば出自は古代ギリシアなのだよ、さすが西欧、というわけですね)、ある種の民族主義的な動きだったとすると、今度はそれを内面化していく1900年代初頭の近代化の日本も、やはり同じように、民族主義的な言論・推論に支えられていたようなのですね(ギリシア文化の真の継承者は日本文化なのだ(京都学派とか)というわけです)。となると、そこに見られるのは、たがいの文化の民族主義的な反照でしかなく、いまどきの言い方ならばエコーチェンバー状態で、それぞれの文化が自己言及的にひたすら称揚されていくことになります。

この見立て、とても興味深く刺激的に思えます。流動的な思想が、どのような背景で導かれ、その後に大きく展開して固着していくのか、というプロセスの、新たな解明の試みが、ここにも見いだされる思いですね。

 

SFの黎明から現在へ

(bib.deltographos.com 2023/11/28)

「食客」に続いて、ルキアノスの代表作とされる「ほんとうの話」を読了したところです。例によってLoeb版(第一巻)です。

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これ、いわゆるSFの嚆矢とも言われているものなのですね。基本的には奇想天外な「馬鹿話」(褒め言葉です)で、若者たちがヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を超えて進んでいく、空想的な航海記です。なんと突風で船ごと飛ばされて月まで行っちゃうんですよね。そこでは月世界と太陽世界が戦争をおっぱじめて、彼らも巻き込まれてしまいます。

結局太陽側が勝利して、彼らはその後どうにか海上に戻るのですが、今度は巨大な海獣(鯨?)に飲み込まれてしまいます。そこには陸地とかが出来ていて、いろいろな種族(半魚人とか)が住んでいる、というのです。このあたり、古くはピノキオ、より新しいのならアニメですが『マインドゲーム』などを思い出します。というか、一種の地獄めぐりのような感じですね。

海獣の死に乗じてそこを脱出した後、一転して今度は天国のようなところを旅します。ホメロス以下の著名な故人たちに会うのですね。さらにその後も、イマジネーション豊かに描かれる様々な島をめぐり(さながら煉獄編のようです)、危機を脱しながら、最終的には対蹠地の世界、地球の裏側の世界に到達したところで、物語はいったん終わります(「待て次巻」という含みまで記されています)。

こうしてみると、確かに航海記というのは、今ならばSFというジャンルにつながる基本的なフレームなのだなということがよくわかります。その意味で、これが嚆矢とされるのもさもありなんと思えます。そこにどれだけの馬鹿話、荒唐無稽なめくるめくイメージの数々を注ぎこめるかが、作品の是非を決めていくのでしょう。

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ちょうどこれと平行して、リウ・ツーシン(劉慈欣)の『三体』第二部「黒暗森林」を読んでいたのですが、これなどはまさにそうした、ある種の壮大な馬鹿話の集成にもなっていました。

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第一部は以前、英語版で読んだのですが、個人的には、ちょっとバッドエンディングっぽいギリギリのところで締めくくられた第一部のほうが好きなのですが、この第二部は、途中に中だるみはあるものの、「そうくるか」という終盤の劇的な展開とその華麗な終着点、伏線回収の妙で、また別の味わいをもたらしてくれますね。

勝手に想像させていただくと、ルキアノスの架空の航海記を同時代的に読んでいた読者たちは、私たちがこの『三体』に感じるような面白さに似たものを感じていたのかしら、などと思ってみたくもなりますね。

 

「出来事」への距離感

(bib.deltographos.com 2023/11/23)

イスラエルとパレスチナの紛争。地理的に(心理的にも)遠いせいか、凄惨な映像を見てもなお、この極東の島国では、なかなかその出来事をヴィヴィッドなものとして受け止めることができないように思います。何年か前、南アジアで仕事をしている知り合いに、中東が落ち着いたら旅行にでも行きたいと言って、たしなめられたことがあります。中東が落ち着いたことなどなかったし、これからもない、そんなふうに言うのは典型的な平和ボケ、認知バイアスだ、というわけですね。

しかしながら、私たちには、そうした緊張感を実感できるだけの「基盤」がないことも確かです。もたらされるのは映像や音声、あるいは文字での情報だけです。それらをどう自身の内的な感覚につなげていけるのか。これはとても困難な問いのようにも思えます。

ちょうど、X(旧Twitterですね)で、『記憶/物語』(岡真理、岩波書店、2000)が紹介されていたので、読んでみました。

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著者は現代アラブ文学の研究者です。基本的には、文学や映画などの作品が描く「現実」についての考察です。主要な主題は、作品で描かれた「現実」を、「出来事」そのものとして受け取ってはいけない、ということに尽きます。出来事の記憶は、出来事が圧倒的であればあるほど、文章にとっての、取りこぼされるしかない残滓となるほかない、再現できない外部であり続けるしかない、私たちが分有できるのはせいぜい、自分たちのファンタジーを投影した、安定し安心を与える物語にすぎない、というのです。

では、一般的な読者は、そのような文章にどう向き合えばよいのでしょうか。著者が説いているのは、表象できない「出来事」に、その表象不可能性の痕跡を読み取るような読書、ということのようです。象徴できないものの痕跡をあえて探し出すような緻密な読解。これなくして、出来事そのものの暴力性に、共感できるようにはなりえない、と。安易な物語に回収されないようにすること。しかしそれは、なんとも難しい接し方、構え方と言うほかありません。人文学はそんな読み方を本当に育むことができるのでしょうか……。

 

動物行動学も興味深い

(bib.deltographos.com 2023/11/10)

もっぱら入門書・概説書のたぐいですけれど、たまに動物行動学の本を見るのは、個人的な楽しみの一つです。というわけで、今回はKindle Unlimitedに入っていた、藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(岩波科学ライブラリー、2015)を見てみました。

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ハトの首振りについて、科学的な見地からアプローチしたもの。同時に、ハトやほかの鳥たちの関連した行動(歩行やホッピングなど)についても、様々な考察を加えています。首振りはバランス取りのためというよりも(そういう側面はあくまで部分的なのですね)、視覚による認識に大きく関係していたりする、と。なるほど、これは興味深いです。

著者も記していることですが、こうした動物行動学が面白いのは、ひるがえってそれが、人間の行動の諸側面に光を当てることになる、という逆説があるからです。つまりそれは、ある種の(間接的な)人類学なのだ、と。これこそまさに、膝を打つ一節です。

 

起源を脱神話化するということ

(初出:bib.deltographos.com 2023/11/01)

昨年から今年にかけては、いろいろと面白い本が出ている印象ですが、これもそれに加えられそうです。デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』(酒井隆史訳、光文社、2023)。1ヶ月くらいちびちび読んでいて、まだ半分(苦笑)。でも、人類学がもたらしうる壮大なビジョンに、久しぶりに触れた感じがして、個人的にはとても楽しんでいます。グレーバーは『ブルシット・ジョブ』のあのグレーバーですね。

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というわけで、とりあえず前半というか、冒頭部分について、備忘録的な簡易メモを。この本の基本的なスタンスは、通俗的に受け入れられている社会進化論的な人類史の説を、いくつかの新しい見地から批判し、覆していこうというものです。人類の黎明期に、狩猟から農耕への転換が起こり、定住化によって富の蓄積や社会の組織化が可能になって、各地に文明が築かれることになった、という話は、ある意味普遍的な、揺るぎないストーリーとして受け入れられているわけですが、「いやいや、実際にはもしかすると、それほど直線的で揺るぎないものでもなかったかもね」と、著者たちは言い始めます。

そうしたストーリーは学問的な理論に支えられていると考えられがちですが、実は単なる推論・推察に支えられている部分も多く、ある種の神話、ストーリーにすぎないという側面もあるのだ、というわけです。近代におけるその嚆矢となっているのが、ルソーだったり、ホッブズだったりするわけですが、では、それらの社会進化論の基盤は、いつごろ、どこから出てきたのかというのは、あまり知られていない、と本書の著者たちは指摘します。

彼らによると、それは新大陸発見後に、西欧人たちと先住民たちとが交わした、膨大な議論に端を発しているのだ、といいます。先住民というと、まさに神話的世界に生きている粗野な人々という固定イメージで語られることが多い(今なお)と思いますが、実はそうではなく、西欧人たちの諸制度や宗教などを、かなり批判的に見ていたというのですね。西欧がわがものとして重視する理性への訴えなども、先住民との長期にわたる論争によって培われたものだった、というのです。

西欧の社会進化論は、先住民からの批判への応答としてはじまった————これだけでも、すでにして衝撃的なイントロになっています。話はここから、先住民の社会が、ある種の洗練された、動的なものであったこと、彼らの生活様式が一枚話ではなく、多様なものだったこと、そしてまた、そこに重なるかたちで、社会進化論が語る黎明期の人類というものも、考えられている以上に多様かつ動的なものだった可能性へと、広がっていきます。

その途上、近年の人類史のベストセラー(ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなど)なども批判の俎上に載せられていきます。学問というものが、固着と流動化とのあいだを揺れ動くものだということを、感慨をもって受け止めさせてくれて、なかなかに圧巻です。