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  死刑制度は必要か


 この回は、死刑制度の意味と必要性について考えました。授業では、日本の死刑制度の状況を解説し、参考意見として代表的な死刑存続と死刑廃止の主張を紹介しました。その後で、アメリカでつくられた死刑囚のテレビドキュメンタリーを見ました。
 
 
ビデオ アメリカ・ルイジアナ州での死刑執行の様子
(アメリカABC制作.NHK「ワールドレポート」1996.8.8放送.30分間)
(NHK「海外ドキュメンタリー」1997.12.12放送.45分間 *上の番組を編集し直したもの)

   アメリカは日本とならんで先進国で唯一、死刑を行っている国だ。州によっては死刑を廃止しているところもあるが、凶悪犯罪の多いアメリカでは、3000人もの死刑をひかえた囚人がいる。アメリカでは、刑の執行について事前に様々な情報が公開される。いつ、どこの刑務所で、誰の処刑が行われるかなどの情報が発表され、マスコミの注目を集める中で処刑はとり行われる。日本の死刑が外部にはまったく秘密にされ、ひとにぎりの関係者しか知らない中でひっそりと刑が執行されるのとは対照的だ。それだけでなく、死刑囚本人が許可すれば、テレビカメラが刑務所内に入り、刑務所内の様子まで報道することができる。このドキュメンタリーでは、死刑執行が決まった受刑者の最後の数週間の様子が紹介されている。
 
 死刑囚の名前はアントニオ・ジェームズ、41歳。2人を殺害した罪で、ルイジアナ州の刑務所に12年間服役している。彼はニューオリンズの貧しい家庭に育ち、幼い頃から街をうろついて問題をおこし、9歳の頃には家を飛び出して捨てられた車の中などで暮らすようになる。17歳の頃には、すでに麻薬所持や盗みで38回も逮捕されている。1979年、24歳の時に、彼は麻薬を買う金ほしさに続けて2件の強盗殺人事件を起こす。最初の犠牲者はわずか35ドルのために頭を銃で撃ち抜かれる。2人目もまた、33ドルのために撃ち殺された。犠牲者の家族たちは、現在でもこの残忍な事件に傷ついている様子で、インタビューの中でジェームズへの怒りをあらわにする。
 現在のジェームズはそうした凶悪な事件を起こした犯人とは思えない物静かな中年の男だ。彼は自分の死刑を決めたふたつの事件について、当時の自分の非を認め、現場にいたことも認めているが、引き金を引いたのは相棒だと主張している。そのため、殺人そのものについては無罪を主張し、この13年間ずっと裁判のやり直しを求めている。彼の弁護士や支援者たちは再審や恩赦を求めて手を尽くしてきたが、ことごとく却下され、万策つきた状況だ。
 刑務所内では死刑の執行を1週間後にひかえて、くり返し死刑のリハーサルが行われている。そんな中、刑務所長はともに12年間を過ごしたジェームズのことを感慨深い思いで見ている。彼はジェームズを「友人とは違うが特別な友情を感じる」と語り、今回の処刑について、更生したジェームズを今さら処刑することには疑問を感じるという。
 
 犠牲者の家族のひとりがジェームズに面会に訪れる。二人は静かに語りあい、ジェームズの「お気の毒なことをしました」という言葉にうなずきあう。しかし、撃ったのは自分ではないとくり返すジェームズに、遺族はやりきれないという様子で彼をなじる。遺族には彼の更生は信用できないようだ。そして、「ジェームズが処刑されることで罪の償いをすることを望む」とテレビインタビューに答える。
 処刑を10時間後にひかえて、ジェームズの家族が面会に訪れる。ジェームズの母、息子、息子の妻、孫、甥、彼らは努めて明るくふるまおうとするが、とうとう泣き出してしまい、結局、ジェームズが彼らをなぐさめる。様々な関係者が取り乱したり、落ち着かない様子の中、なぜかジェームズひとりが悟ったようにたんたんとふるまっている。
 処刑の数時間前、刑務所内ではジェームズと刑務所関係者たちとの最後の晩さんが行われる。ジェームズが軽いジョークを言い、にこやかな雰囲気だが、やはり一同重たい状況に耐えているようだ。彼らの間には、12年間の刑務所生活できずかれた奇妙なきづなを感じさせる。
 午前0時の処刑を数十分後にひかえ、刑務所の内外ではあわただしくなる。刑務所内では、所長が大勢の報道陣を前に記者会見が行われ、外では大勢の死刑賛成派・反対派が刑務所を取り囲み、それぞれ歌をうたったり、無言のアピールをしたりしている。その中にはジェームズの息子や家族もいる。彼は見知らぬ他人が自分の父の処刑を求めていることにいらだち、死刑賛成派のひとりにくってかかる。
 泣きさけぶ家族、静かに歌をうたい続ける人たち、いのりをささげる人たち。そうした中、アントニオ・ジェームズは薬物注射による処刑で、41年間の生涯を閉じた。
 
 このドキュメンタリーと同じテーマをとりあげた映画に『デッドマンウォーキング』というアメリカ映画があります。事実をもとにていねいにつくられた作品で、死刑をめぐって様々な立場の人たちの思いが描き出されています。
 
生徒のレポート
 
死刑制度に賛成
 
●自分の大切な人、例えば家族や友人を殺されたとしても、なお、死刑に反対し続けられるだろうか。そんな人がいるとは思えない。
 殺人を犯したといっても、それなりの事情がある場合は、情状酌量によって死刑になることはないはずだ。死刑の判決が下されるというのは、よほど残忍で犯人に同情の余地がない場合だけだ。そういう殺人犯には、やはり極刑がふさわしいのではないか。そのことを被害者の家族も望んでいるはずだ。
 
●死刑になるということは、それだけ重い罪を犯したということだから、しかたのないことだと思う。
 
●死刑には賛成。はじめから悪いことしなければいいだけのことだ。
 死刑囚の家族の悲しみはわかるが、それだけの罪を犯しているのだから、しかたのないことだと思う。それに、死刑になるほどの凶悪な犯罪を犯したのも、家庭に責任がないとはいえない。死刑を執行することで、死刑囚の家族が犠牲者になってしまうという考え方はまちがっている。
 
(注・村田 犯罪者の家族にも責任があるという考え方は日本の社会に根強くあります。そのため、犯罪者の家族は自分の犯した罪ではないにもかかわらず「申し訳ありません」と頭を下げます。とりわけ、マスコミに注目された事件の場合、しばしば、容疑者や犯人の家族たちは地域や学校、職場でのいじめや嫌がらせにあいます。また、見知らぬ第三者からの嫌がらせや脅迫にも耐えねばなりません。その結果、家族たちは、仕事をやめ、引越をして、社会から身を隠すように生きていかねばならないという状況に追い込まれます。そうしてもなお、うわさやマスコミは追いかけてきます。家族たちは法的には無罪でも、社会的には有罪とされ、社会から抹殺されるわけです。このような「家族が連帯責任をとるのは当然」という考え方は、村社会的な日本の特徴だといわれています。
 しかし、民主社会では、責任や権限は個人にあり、個人に限定されるべきものです。罪も同じように個人に限定され、個人が負うべきものです。例えば、親が殺人犯だという理由で、本人は何も悪いことをしていないのに、生まれながらに犯罪者扱いされることはあってはなりません。犯罪者の家族が嫌がらせや脅迫を受けるというのは、日本に民主主義の考え方が根づいていない証拠だと思うのです。家庭の責任を強調することは、そういう日本の状況を助長する危険性もはらんでいます。)
 
●私は死刑はあっても良いと思います。
 アメリカみたいに、未成年でも殺人などひどい事件を犯した場合は死刑にすべきだと思います。
 悪いことをしたらつぐなうのは当然だし、自分のしたことには責任を持つ必要があるからです。
 確かに、死刑が行われれば死刑囚の家族は悲しむだろうけど、事件の犠牲者の家族も同じように悲しんでいるはずです。
 刑罰が軽くなれば、犯罪者たちはまた同じようなことをしても平気だと思い、犯罪をくり返すでしょう。そうなれば悪いことをする人がどんどん増えてしまいます。
 ただ、刑罰を重くするばかりでなく、刑務所で勉強を教えたりして、罪を犯した人がやり直せるようにするのはとても良いことだと思います。凶悪犯でも刑務所で反省していい人になれたら、その方がいいと思います。だから、この両方を取り入れていくのが良いと思います。
 あと、死刑をするならせめて痛くないようにしてあげたいです。
 
●最初は死刑は国による殺人だと思っていましたが、今はすごく悪いことをした人が死刑という罰を受けるのは当然だと思っています。
 私は、刑務所に閉じこめておくことと死刑とは全く違うことだと思います。死刑というのはこの世からいなくなってしまうことです。無期懲役では犯人は生き続けるわけだし、それでは凶悪犯には甘すぎると思います。
 
●僕は死刑は必要だと思います。
 死刑があることで、多くの悪い人が犯罪を犯すのを防いでいると思います。それに、犯した罪に値する罰は必要だと思います。
 死刑は「社会が殺人を犯す」とか「その人の命を重んじる」という問題ではなく、犠牲者のまわりの人たちが犯人の死刑を望んでいるのなら、死刑は行われるべきです。
 それに死刑に反対している人も、自分の家族や親しい人が殺されたら、犯人の死刑を望むと思います。
 犯人が心から反省していても、そういう気持ちがある以上、死刑は行うべきだと思います。
 
●死刑制度は必要だと思う。凶悪犯を死刑にしないで釈放したら、また人を殺すかも知れないし、危険だ。それに殺された人の家族のことを考えると、やっぱり死刑はあった方がいいと思う。
 人を殺すということはすごい罪の重いことだと思います。だから、罪をつぐなわなければならない。
 いくら殺人犯が刑務所で人がかわったといっても、それは世間には通用しないと思います。
 犯してしまった罪は取り返しのつかないことだし、あとで後悔してもおそい。自分が悪いと思います。
 殺人犯は人を殺すのは平気で、自分が死刑になるとき「こわい」と感じるなら、むしが良すぎる。そういうのが一番むかつきます。
 
●私は死刑はあまりしてほしくないのですが、死刑制度が廃止になるのは良くないと思います。
 もし死刑制度をなくすのなら、減刑や恩赦のない本当の無期懲役をつくるべきだと思います。
 授業でみたビデオに、アメリカの刑務所で大学の授業を囚人にしているというのがありましたが、これには賛成です。そういうことに税金を使うと怒る人もいますが、戦争の道具に使うよりよっぽど良いです。人を殺すためではなく、人が人として生きられるために手を貸すのはずっと良いことです。囚人も育ってきた環境で犯罪者になってしまったのだから、彼らが立ち直れるように勉強させてあげることは良いことだと思います。
 せまい檻の中で死刑になる日をおそれる死刑囚たち。そんな囚人を見ても、犠牲者の家族は死刑にしてやりたいと考える。それならやはり、死刑制度を全面的に廃止するのはやめた方がいいと思う。
 
●私は死刑制度に賛成する。
 たしかに、死刑は国による殺人だという主張はわかる。
 しかし、もしも死刑制度をなくしてしまったらどうなるのだろうか。
 仮に、何十人も殺した凶悪犯が死刑にならず、何十年かたって刑務所から出てきたとする。そして、再び同じように何十人もの人を殺したとする。その場合、あとに殺された人たちは「国によって殺された」ということになるのではないか。
 死刑を完全になくしてしまったら、こういう犠牲者が出てしまう可能性もある。
 国が凶悪犯の命を大切にしたために、大勢の罪のない人たちの命が失われてしまうこともあり得る。
 だから、犯罪者の命を尊重することが、必ずしも「人の命を尊重する」ことになるとは限らない。
 
●私は死刑に賛成です。
 だってそれはしょうがないことだと思うからです。
 自分がしたことには責任をとらなくちゃいけません。
 たしかに無実の人を死刑にしてしまうことはあるけど、それは捜査や裁判を精密に行えばすむことだと思います。
 それに犠牲者やその家族たちがかわいそうだと思います。殺人犯には自分たちと同じくらいの苦しみを与えてほしいと望んでいると思います。
 もし私が犠牲者の家族だったらそう思うだろうし、私が殺人犯の家族であっても、死刑にしてもらって罪をつぐなってほしいと願います。
 
●私は死刑制度は必要だという方に手をあげました。
 授業で配られた資料にもあるように、殺人などの凶悪な犯罪を犯したら、自分の命でもって償うのは当然だと思ったからです。殺された人のこれからの人生を壊したのだから、それくらいのことあたりまえです。犠牲者の親族も悲しいだろうし、犯人を憎んでいると思います。
 もしも、私の家族がビデオのように強盗殺人にあったら、やっぱり犯人を恨むだろうし、憎むだろうと思います。すごく悲しいし、なんて言ったらいいかわからないけど、もんもんとなんかやりきれない気持ちになると思います。たぶん、自分で復讐はしないだろうけど、法律でしっかり裁いてもらってほしいです。
 ビデオに出てきた死刑囚は、「自分は手を下していない。ただそこで見ていただけ」と言っていたが、「ふざけんなっ!」という感じです。見ていたのなら止めればいいことだし、そんな責任転嫁はしてほしくないです。
 
 
死刑制度に反対
 
●死刑制度は必要ではないと思う。死刑を行って、血で血を洗いおとそうとしても、できるものではない。殺人犯を死刑にしても、犠牲者に対してつぐないきれるものではないし、犠牲者の家族の心の傷もいやされないと思う。そういう罪を犯した人を死刑にしてしまわずに、生かして罪をつぐなわせる方がむしろ重い刑罰になるのではないかと思う。
 それに、なぜ殺人犯が人を殺すようになったのかと考えると、その人が育ってきた環境や親の考え方の影響とか、(本人にはどうしようもない)その人なりの事情があるはずだ。人は生まれながらに大きな差をかかえている。そのことを考えると、殺人犯もかわいそうな気がする。
 でも、そうはいうものの、自分の友だちや家族が無差別殺人の被害者になったとしたら、今みたいな考え方を保っていられる自信はない。
 
●死刑制度はなくした方がいいと思う。重い罪を犯した人を死刑にすれば、表向きは決着がついたように見える。でも、それは表向きだけのことで、実際は何も解決していないし、今度は死刑にされた家族が政府に対して悲しみやうらみを向けることになる。それが新たな犯罪を生むことになるかも知れない。
 (ビデオに出てきた人も、今では十分に反省していたみたいなのに、結局、死刑が行われてしまった。その時、家族は泣いて悲しんでいたけれど、彼らには罪はないはずだ。死刑をすることはそういう犠牲者を増やすことになると思う。)
 だから、終身刑を一番重たい刑罰にした方がいい。重い罪を犯した人をそうして生かすことで、犠牲者の家族も文句を言うことが出きるし、本人も反省する可能性もある。
 ただ、ビデオの人みたいに誰もが刑務所の中で反省するというわけではない。オウム真理教の麻原彰晃みたいな人物もいる。サリンを使った無差別テロの手口やその後の麻原彰晃の態度などを見ていると、こういう場合は例外を認めてもいいという気もする。
 
●死刑制度には反対だ。そもそも人が人を裁くことに疑問を感じる。
(注・村田 では、人間以外の何が裁けばいいのだろう。確かに、神話や聖書の世界では、罪を裁くことは神のみに許された行為だけれど。)
 
●死刑制度に反対です。
 (神ではなく人が裁く以上)無実の人に罪をかぶせてしまう可能性があります。もし、無実の人を死刑にしてしまったら、取り返しのつかないことになります。
 それに、死刑制度を廃止すると犯罪が増加するという人がいますが、そうは思いません。多くの場合、犯罪者には目的があるからです。その目的をはたすためなら、刑の重さなんて考えに入れていないと思います。犯罪を犯して得られる利益と刑の重さとをくらべてから、犯罪を実行しようなんていう人はほとんどいないはずです。
 確かに、自分の罪をまったく反省しない犯罪者もいますが、それでも罪をつぐなわせる方法はいくらでもあると思います。例えば、刑務所の中で労働をしたり(懲役刑)、社会奉仕をしたりなどです。
 
●私は最初、死刑制度は必要だと思っていました。でも、この間の授業で考えが変わりました。
 ビデオのアントニオ・ジェームスさんはすごく反省していました。ああいう風に良い人になって、やりなす事ができそうな人でも、死刑にしたらそれでおしまい……。
 それで本当に被害者の家族たちは本当にすっとした気分になるのだろうか?私はそうではないと思います。
 被害者の家族のうらみはわかります。でも、(死刑が行われれば)死刑囚の家族だって、うらみや苦しみ、怒りを心に抱いてしまいます。そんなことでは、犯罪は増え続けてしまうと思います。
 
●死刑なんて絶対反対です。こんな恐ろしい刑は今すぐ廃止してほしいです。
 悪いことをしたから殺すというのでは、あまりにも簡単すぎます。殺してしまえば事件は終わり、そんなことは絶対にあり得ません。
 捜査にも間違いはあります。授業でみたビデオやテレビドラマでも、容疑者がいくら「やっていない」といっても、警察の人は信用しません。それが本当なのかは本人しか知りません。それでアリバイがなかったら、ますます疑われてしまいます。そういう中で間違って死刑が行われれば、取り返しがつかなくなってしまいます。
 もっとみんな命の大切さを知ってほしい。簡単に人の命を切り捨てないでほしい。
 とにかく死刑反対!!
 
●僕は死刑制度を廃止するべきだと思います。
 死刑は犯人がただ死ぬだけです。それは罪のつぐないではなく、被害を受けた人たちの仕返しにすぎません。本当のつぐないは、悪事を反省させることでしかできません。
 刑務所で教育をするとか、ひとつひとつ反省させていけば、どんな悪人だって立ち直ると思います。誰だって良心をもっているはずだからです。
 犠牲になった人たちやその家族も、怒りやうらみを向けるばかりでなく、犯人が「人」としてやり直そうとしていく姿を見てほしいと思います。
 もしそういう犯罪者が本当に反省して刑務所から出てきたら、2度と罪をくり返さないだろう。それに親のそういう姿を見ているその子供も罪を犯さないと思います。
 
●殺人は許されるものではありませんが、命をもってつぐなうのはどうかと思います。
 殺人を犯したから死刑というのでは、さらにもうひとりの命をうばうことになってしまいます。
 殺人犯を死刑にするのも、また、殺人だと思います。
 
●悪いことをした人はそれなりの罪をつぐなうべきだと思います。
 でも、死刑にするということは罪をつぐなったことになるのだろうかと考えました。
 たしかに、うらみは晴らせると思う。だけど、刑務所の中で立ち直った人でも、過去の事件で死刑になるというのは嫌な感じがします。「悪いことをした。これからやり直そう」と未来に向かったがんばろうとか、罪をつぐなおうと思っている人を死刑にしてしまうのは間違っていると気がします。
 死刑を行うよりも、無期懲役で刑務所の中で働いたりして、罪をつぐなった方がいいと思います。
 
●死刑にすることは最初は賛成だった。
 でも、ビデオを見た後、どんな悪いことをした人でも、何十年も刑務所に入っているうちに反省して立ち直る人もいることがわかった。そういう人も死刑にしてしまうのはむごい気がする。
 それに、なかには無実なのに死刑にされてしまう人もいるだろう。
 裁判官は神ではない。容疑者のすべてがわかるわけではない。それなのに、死刑の判決を出してしまったら、もう取り返しがつけない。裁判官は死刑の判決を出すとき、不安に感じたり、おそろしいと思ったりしないのだろうか。間違って無実の人を死刑にしたら、判決を出した裁判官は人殺しではないのか。
 長い間、刑務所に入っていれば、無実の証拠も出てくるかも知れない。死刑囚にどんどん刑を執行してしまったら、そういう道も閉ざされてしまう。
 簡単に死刑にするのは良くないと思った。
 
●たしかに人は自分の行動に責任を持つ必要があると思います。罪を犯せば罰を受けるのは当然です。
 しかし、死刑で殺されてしまったら、その人の人生はそれでおしまいです。死ぬことで罪の責任をとったことにはならないと思います。犠牲になった人が生き返るわけでもないし、犠牲者の家族たちの心が満たされるわけでもない。犯人が犯した罪を反省し、やり直そうとしなければ、罪の責任をとったことにはならないと思います。
 人間は生きる権利があるし、罪を犯した人も「生きてて良かったなあー」って思うときもあると思います。
 ただ、何年も刑務所にいても、全く反省しない人も多いという。そういう人は刑務所を出て、再び同じような犯罪をくり返すだろう。そういう場合には死刑も必要なのかなという気もします。
 とても難しい問題だと思いました。
 
 
保留・その他
 
●死刑と聞くと、ぼくは、マンガ『ワイルド7』を思い出してしまう。その中で、主人公のポリスは容赦なく凶悪犯を射殺していく。すごくスカッとする。もしかすると、人々の死刑を求める気持ちもそれと同じようにスカッとしたいからなのかも知れない。そう思うと人の心にゾッとする。
 いくら凶悪な犯人とはいっても、死刑が殺人であることには違いない。犯罪を取り締まる国家自体が犯罪を犯してどうするという気もする。重い罪を犯したからといって、殺しておしまいというのは、人間として悲しすぎると思う。それに、死刑は一種の仕返しのように見える。
 しかし、一方で、死刑がなくなり、一番重い罪が無期懲役になったとする。その場合、恩赦によって刑が軽くなり、数十年で刑務所から出てきてしまう可能性もある。そうして、凶悪犯を野放しにしてしまうと、次の犠牲者を出すことにもなる。以前、誘拐殺人事件で、子供を殺された親が「どうか犯人には重い罰を」とインタビューに答えていた。重い罰とはやはり死刑だろう。そういう悲しみや憎しみから、犯人の死刑を求めるという気持ちもわかる。もし死刑がなくなれば、あの家族は犯罪者に甘すぎると思うだろうし、くやしい思いをするだろう。
 ぼくは死刑に絶対賛成・絶対反対というのではなく、自分の状況によってかわってしまうと思う。ぼくの家族が死刑囚だったら、死刑反対の立場に立つだろうし、逆に、被害者だとしたら、死刑賛成の立場に立つだろう。今回は立場が決められない。
 
●テレビニュースで殺人事件を見ていると、犯人が憎くなってきて、「こいつなんか死刑だ」と思ってしまう。
 でも、冷静に考えてみると死刑には問題もある。一番の問題は裁判がまちがっていたらどうするのかということだ。裁くのだって人だから、まちがいはある。
 私は、国が犯人を死ぬまで保護して、反省するように再教育してべきだと思う。それをしないで、死刑で片づけてしまうのは、国がこの問題から逃げていることになると思う。
 ところで、死刑が決まった人が裁判をやり直して、無罪になった場合、どうなるのだろうか。それに、まちがった判決を出した人たちは罪にならないのだろうか。
 
(注・村田 無罪だった場合、その人は釈放されます。当然、自由の身になります。おそらく、その人は「今までの人生を返せ」と思うだろうから、慰謝料や国の責任を求めて、再び裁判をおこすことになります。これは今までの裁判とは別のもので、もう一度いちから始めるのです。それをしない限り、国の責任は法的に問えません。
 もし、その裁判に勝って、あきらかに証拠がでっち上げだったことが認められれば、国はその人に謝罪して、慰謝料を支払います。証拠をでっち上げた警察官はクビになったりします。ただ、警察内で互いにかばいあったり、組織の中で責任がうやむやになったりして、捜査に明らかなミスがあったと証明することはとても困難です。また、こうしたえん罪で裁判官が責任を問われることはまずありません。裁判官は証拠と証言に基づいて判断しただけなので、裁判官にはえん罪の責任はないというわけです。)
 
●全体的には死刑に賛成だけど、無実の人をまちがえて死刑にしてしまう可能性を考えると、何ともいえない。
 ビデオに出てきた人のように、自分が無罪だと主張している人の再審を認めずに、刑を執行してしまうというのは問題がある。人の命がかかっていることだけに、後になってから、「まちがいでした、ごめんなさい」では済まないことだ。疑問やまちがいの余地が全くないよう徹底的に調べたうえで、刑を執行するべきだ。それが不可能なら、懲役刑にとどめておくべきだ。
 
(注・村田 とは言うものの、多くの犯罪者は自分が無罪だと主張しています。無罪だと主張し、再審を請求している限り、その要求を認めて再審をしなければならないというのではきりがありません。それではすべての犯罪者が無罪を主張するだろうし、そう主張している限り、永久に刑が執行されないことになってしないます。だから、容疑者本人の自白や主張に関係なく、客観的な証拠こそが刑を決めるべきです。逆に、自白によらないと犯罪を証明できないという場合は、本人がどんなに「自分がやった」と主張しても原則的に無罪です。)
 
●死刑制度を廃止した場合、無期懲役が一番重い罪になる。しかし、無期懲役がきびしい刑罰とは思えないし、社会に何か役立つことをしてつぐなうわけでもない。
 犯罪者に何かつぐないができて、少し苦しみを与えられる刑があればいいと思う。
 
●よくわからない。凶悪犯罪を犯した人は死をもって償うべきという考え方の人もいれば、死刑にしたところで犠牲者が生き返ってくるわけでもないという考えの人もいる。また、犯人を死刑にすれば、犠牲者の家族の復讐心はかなえられるかも知れないが、死刑囚の家族が悲しむことになる。それに、死刑は国による殺人という気がする一方で、では無期懲役にしたら犠牲者の家族は納得しないだろうし、凶悪な殺人をおかした者へ軽すぎる罰のようにも思える。
 
 
■担当者からも一言
 
 死刑制度というのは国家が国民の生殺与奪の権限をにぎるということです。国家に対して絶対的な信頼という裏付けがない限り、死刑を制度とするべきではありません。世界を見回してみると、独裁者が警察国家や軍事独裁体制をしいて、政治犯を次々と処刑している社会がたくさんあります。はたして、日本の国家権力は国民の生殺与奪の権限をあずけられるほど信頼に値するだろうかと考えます。
 
 先進国といわれる国の中で、日本とフランスは警察権力の強い国です。フランスの場合は、国民の徹底した個人主義と強い権利意識が歯止めをかけています。それに対して日本の社会はつい50数年前までは治安維持法があった全体主義の社会でした。個人意識も人権意識も非常にもろいものにすぎません。そういう日本の社会に、死刑制度があることは、権力が独走した時のことを考えると、大きな危険をはらんでいます。したがって、私は死刑には反対です。
 
 まして、日本での死刑執行が、アメリカとは対照的に全くの秘密裏に行われることも、きな臭いものを感じます。いつ誰に刑が執行されるのか事前の通告はまったくなく、何を基準にどのように選んでいるかも明かされないという状況では、すべてが権力を持つ者の腹づもりということになりまねません。権力が独走したときのことを考えると、非常に危険な状況です。
 
 授業の中で、オウム真理教の例を出しました。たしかに、あの毒ガス事件は許せない犯罪です。しかし、それと同時にあのときの警察捜査には教団の犯罪と同じくらいの怖さを感じました。道をあけてくれと警察官をかきわけた信者は「公務執行妨害」、自転車で右側通行した信者は「道路交通法違反」と逮捕され、代用監獄へ送り込まれていきました。オウム真理教を弁護するつもりは更々ありませんが、同時に、日本の警察はいざとなったらあれほどの権限を行使できるのかと驚きました。

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