記事タイトル:土佐大津城主天竺右近花氏についてその先祖について、教えてください

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お名前: 遊行笑人
土佐の国の中村さま、大変遅くなりまして申し訳ありませんでした!本日メールを受け取りましたので、今後共宜しくお付き合い下さい。今後のことは、改めてお話を致しましょう。ご意向は取り敢えず、個人メールをお送り挿せて頂きますので御検討ください。尚マックさまのお誘いで『日本史のコーナ』にも出ておりますので宜しくお願いします。
[2005年07月10日02時40分]
お名前: SilverMac
私も中村一族です。祖父から天竺神社の話は良く聞いておりました。曾祖父は中村友平と言い、五台山の吸江病院で「異人守護役」を努めていたと聞かされています。祖父は若い頃五台山の泉から高知に出て、下知で商売をしていました。曾祖父友平については「土佐郷土史」という郷土史家が書かれた本で読んだ記憶がありますが、現在は手元にありません。私は長年高知を離れていましたが8年ほど前に帰郷しました。古希を過ぎ、生きている間に先祖のことを調べて、こどもたちに伝えたいと願っていましたが、帰郷後直ぐに病気をしたりで念願を果たしていません。ふとしたことからこの場を見つけて興奮しています。天竺、中村にゆかりのかたがいらっしゃるようですので、情報を頂けたらと願っています。宜しくお願いいたします。
[2005年06月20日10時28分]
お名前: 遊行笑人
健太さん、是非お出ましください!新に天竺花氏(はなうじ)之由縁と中村氏の経緯をお話したき事あり!もし個人的な情報交換が必要なれば、そんし殿に頼み、マックさまを通じても御了解を申し出て下さい。何分にも凡例でなく、個人的内容が存在致します故、ご理解下さい。先祖に行き着くかも?。笑人只今宮崎県在住の或るお方からのご助力を挿せて頂いておりまして、土佐国の大津城の検索を個人的にして居りまして、その中に天竺花氏(はなうじ)の記述に接し、是非健太さんにお伝えしたき事有り。お出まし有らんこと重ねてお願い致します。
[2005年02月10日19時07分]
お名前: 遊行笑人
健太さん、先のご案内の後、土佐国大津村史及び土佐物語等にて、大分、中村氏の由縁の探索が進みました故、順次お知らせ致しますので、お時間が出きればお出まし下さい。お待ちして居ります!来年も宜しくお付き合い下さい。
[2004年12月30日09時37分]
お名前: 遊行笑人
健太さん!お元気ですか。讃岐国の細川氏に追随して来られた高松市在住の御人在り、加賀守土岐氏の末裔の方が、途中で中村姓を名乗り、長宗我部元親の軍勢と戦をされた一族の子孫の方が、別のサイトで遭遇しました。もしお構いなければ、ご紹介を挿せて戴きますので、宜しく、ご意向をお聞かせ下さい
[2004年11月16日15時12分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、お忙しいご様子・何よりです!お気を使っていただき感謝します。
お雪さんなるお方の逝去の事お悔やみ申し上げます。直接接したことは無くても、そんしの御案内で、悟っておりました。合掌
只今、我等天竺細川氏由縁の者が参戦しました豊後国『戸次川の戦』の有り様を探索して居りますので、其の内にこの窓口で紹介させて戴きます。
[2004年11月06日09時57分]
お名前: マック
瓦屋よりみつさん、はじめまして
今後ともよろしくね。

遊行笑人さん、ちょっと時間が取れなくて・・・
というか、文献の買出しの時間がなく、なにより
プライベートなことが激戦のため、、
心苦しくも不義理しています。でも歴史SIGは、
10年が1日というほどで、態勢が整った時点で
必ずresいたします。

こんな言い訳ばかり書いているけど、、
中期経営計画最初の一歩が、どうしてもクリア
出来ない。焦らず時機を待つしかないものです
けど、たいへんなのです。

話はかわりますけど、
ここの古くからの常連だった女性が亡くなり
ました。ハンドルネームは、お雪さん。
彼女が登場してまもないころメールを出して
もろもろのことを相談したことがあります。
あたたかい返事をもらいました。

当時、ADという御老人がいて、このひとに
メールを出しても、お雪さんに出しても同じ
だと思い、メールを出したのですが、
なかなか、温かく興味深いもので・・・
そういったことが記憶に残っています。

当時から、仕事上の問題がわたしには
あって、今ほど深刻ではありませんけど
どうしても片手間になってしまった
ことが残念でなりません。

関係のないことを書いてもうしわけありません
でした。







[2004年11月06日01時54分]
お名前: 遊行笑人
かわらやの依光さん!昨日今日と高知に帰って居りました。鏡川の山内家の宿に泊り、当地特産物のお祭りと、高知城へ登り、遠来の親戚の接待をして返り着き来ました。
ご紹介の事案も、此れから先徐々に周辺の有様を省みる機会・探索を続けましょう!
伊予・土佐の関係は、相当古き時代から二国あわせて『二名嶋』として、一国を形成しておりました由縁なれば、土佐の各地に興味深い史実が見つかると考えて居ます>一緒に遊行・散策しましょう!
[2004年10月25日16時53分]
お名前: かわらやの依光
遊行笑人様

早速のお返事をありがとうございます。
昔から歴史は好きでしたが、このご縁でまた改めて好きになりました。

今までは小説や教科書などで、歴史というものをどこか別次元のものと考えていましたが、今回のことで、今自分の立っている世界と地続きであることを、リアルに実感することができました。

本当にありがとうございます。
今後ともご教示頂けますようよろしくお願いいたします。

取り急ぎお礼まで。
[2004年10月25日10時04分]
お名前: 遊行笑人
瓦屋・依光さま!初めまして。土佐大津城天竺花氏のお話を御覧戴き、今後とも色々と情報の交換をお願いします。
私の学生時代の友人にも、南国市に居られましたT・依光氏が居ましたよ!。
早速ご紹介のHPを拝見しました。ルーツの依光氏の所以は、我家伝来の土佐大津城主細川氏の御縁に依りその後を繋げた、伊予の国越智姓河野氏(河野水軍)の河野通有の三男通種の二男通任の子孫の係累を継ぐ、土佐国越智姓河野・今岡・下村(同姓・同族三家也)の個人の系図に記載されております・細川氏の下にて長宗我部国親の大津城夜襲、落城の際に仕えた家来衆の家名に記されております。(討死の際にも、一族の内其の子達は夫々の家系で、生き延びておる事も史実にて、その後に、元親の時代に、家臣団に属して居りますのも否めません)。
細川氏はご存知通り、四国諸国を勢力下に治めた中央政権幕府管領にて、嘗ては長宗我部氏も家来衆の一氏で有りました。時代を移し、中央での覇権争い、斯波氏等との所以や諸事情により、次第に弱体化も見られ、四国覇者の地位から退く時代を迎える事、逆転の由も皆様の周知の史実也。
我々の先祖も、豊州戸次川の戦(天正十四年戌年十二月十二日長宗我部弥三郎信親君戦死の時、
一処にて戦死す・其の時土佐国城持并侍大将倶41人甲兵二百二十余人・其の外雑兵に至るまで
都合七百余人討ち死にすと記されております。)に出陣して居ります。
大津城には細川氏の譜代家臣も当然従して来て居た故(私の先祖の吉通も細川氏譜代家臣下村氏藤原姓の娘の婿に入る)、落城後に細川左衛門太夫の男(息子)兵部少輔殿者曽我井伊豆供奉京都に立退くと記す。川窪氏と名乗られた御方も大和の国が出自なれば、追従・越して来られた所以の士族と考え、落城後、何かの由縁で依光氏の名を残したと考えると、前後の話に附合することも考えれるのではと!。笑人推測申し上げます。今後の探索の参考にして下さい!
[2004年10月22日01時57分]
お名前: 瓦屋のよりみつ   URL
みなさま。はじめまして。
偶然このHPを発見しまして、非常に興奮しております。

今日天竺神社にふと立ち寄り、その名前の面白さからネットで検索してみたところこのページを発見しました。

私は依光姓なのですが、皆様方のようにご先祖(依光氏)のことについて知りません。
ただ興味はあります。
(ちなみに残念ながら、4代前の先祖が依光さんちに養子に入って、依光姓になったので、正確にはご先祖ではないのですが。)
最初は、知識のない私のようなものが書き込むことに恥ずかしさを感じていましたが、どうしてもお聞きしたくなり、恥ずかしながら書きこまさせていただきます。

2004年07月30日の遊行笑人さんの記述で、落城した際に討死した家臣名前に依光氏とありますが、寺石正路著「土佐名家系譜」による依光氏の由来は、この時代より後となっています。元親の関連で依光姓を名乗り始める?
(この本に依光姓第1号とは書いていませんでしたが、私はそう認識していました)
ちなみにまさるマニアというHPに省略版が載っています。
川窪氏→依光に改名。
http://www2.inforyoma.or.jp/~ota/KtosaK.html#kawakubo

遊行笑人さんの資料が正しければ、依光氏は上記事件前からあったことになり、とても興味があります。

もしよかったらお時間のある時にでも出典資料を教えていただければと思います。

唐突なお願いで申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。

[2004年10月21日23時47分]
お名前: 遊行笑人
健太さん、手持ちの別流河野氏(現在頭主通云々名は伏せます)の系図の中に、伊予国湯築城落城に際し、河野七士落ち延びると言う記述を発見!。一部分読み取れず(ビデオの為)判読できる部分から、下記の通り書かれて居ります。実物も其の方の家に有りますが、現在他県に就職成されており、笑人調査の依頼を受け、解明中の系図の内です。
紹介します『伊予の河野氏、湯築城落城の時、土佐の国幡多郡中村?岡の庄?後香美郡王子(土佐山田か)村に領任、河野弥太郎通?・門田右近通安・中村弥助・島内太郎・河野惣?・山崎式部・立仙(?)四郎・七人是也。後浪?夜須・久枝・山田云々・・・と見れる記述です。
中村弥助に心当たりはございませんか?もしかすれば、中村氏の姓は、伊予河野氏の所以の家系ではないでしょうか?大津城落城後は細川氏の後継ぎのお方は、京都に退くことは我家之系図に記されており、燃しかして私どもとの関係が有るのでは推測して居ります。後は年代を順次追って、照合すれば宜しいかと考えます。待っておりますよ!
[2004年10月11日21時30分]
お名前: 遊行笑人
この程、笑人とまるまるさんとの先祖の照合が終わりました!江戸時代に血を分けました血族でした。此れには驚嘆・歓喜といいましょうか!健太さん、マックさんのご縁のお蔭と改めて御礼申し上げます。その後、日本史のコーナーにご案内を頂き、今後、伊予国河野氏と細川氏の四国での絡み、由縁等を探索・紹介を挿せていただこうかと思いを重ねていきたいと!健太さん、お暇な節には覗いて見て下さい。湯築城落城の折、河野七士が土佐の国に落ち延びた所以の記述を
別の流の土佐国香長平野の土佐山田郷周辺に生き延びた者、土佐国西部幡多郡に名を残す一族を読み取りました。此れから合わせて研索したいと考えております。中村姓に辿り着くかも?
[2004年10月11日09時38分]
お名前: マック
遊行笑人さん、また四国の皆様へ
台風21号、、お見舞いもうしあげます。
どうでしたか 大丈夫でしたか。

今年は、、台風が9本ですか。
おかげで、、名古屋はいつも直撃にならず
おおいに助かりました。

それから日本史ボードですけど、
PC−VAN時代、、おおむねパソコン通信
の時代ですけど、、そのときには数千のログ
がありましたけど、、現在完全インターネット
化からは新しく、、ごらんになられたように
まだ蓄積されたログはありません。

ここの管理人さんにメールを送れば、実費程度
で過去ログをもらえるかもしれません。。
ただし古代史に関しては充実していましたけど、
戦国特に四国関連のものは無かったような気が
します。
とりあえず参考までに・・・・

日本史ボードに、、四国の守護・戦国大名という
スレだけあげてみます。
なにか、、世間話から始めましょう・・・・


[2004年09月30日18時38分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、笑人のレベルを御わかりいただけたことと!。私も定年退職後、一念発起で如何にかこのレベルに辿り着いた状況です。直ぐに御指導の手順で開きました!早速身拝見させて頂きす。
今後共宜しくお頼みします。
[2004年09月21日11時38分]
お名前: マック
ふふふ
遊行笑人さんへ
記事一覧からTOPへゆき、
そしたら、右側にありますよ。

一番ボードの日本史ボードが
孤高を誇ったのは過去のお話で、
頑固でかたくなな歴史おたくは消え、
常識的で立派な人格者だけが残りました。

急がず あわてず まってます






[2004年09月21日03時47分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、一度ご案内のHP,本門の間から覗かせて頂きます!URLをお教え下さい。
皆さんのお話しを見させて頂き、修行中の私が着いて行けるサイトなれば、此方こそ宜しくお願いします。
[2004年09月19日11時11分]
お名前: マック
ちょっとテーマとは関係なくなりましたけど
四国の土佐については、南海治乱記の中巻に
長曾我部氏でもっぱら取り上げられるのみ。

土佐の細川氏は、一条氏を国司として招き
事実上、土佐を譲ってしまった・・・・
という結論のようです。上記の本では


ところで遊行笑人さん・・・・
本館の日本史ボードは、日本史に関して
好きな論説なりを発表して、好き勝手に
関係論を述べて盛り上がるところです。

どうでしょうか、
「土佐天竺一族の興亡」とか
なにか素敵なタイトルでひとつ
読み物的に書いてもらえないで
しょうか。
物語的に作っても・・というと
聞こえが悪いですけど、司馬遼太郎
的にというと良いかも、、、
でも、わかっている史実的にちょっと
でも違うと、反論がきます??。
それもまた面白いのです。。。。

ぜひ おひまなとき よろしく
お願いします。





[2004年09月19日07時51分]
お名前: マック
遊行笑人さん、毎度楽しく拝見させてもらっ
ています。
現在まで、「南海治乱記」を読んで、頭を
フォーマットしていました。
なにしろ、細川勝元、細川清氏、細川晴元、
細川澄元、細川政元、
それから細川頼之、細川持隆など・・・・

体系的に時系列で読んで、、確認しないと
ちんぷんかんぷん・・・
これに三好氏族がからんで、ややこしてなあ。

教育社の原本現代訳の「南海治乱記」全3巻は、
讃岐、阿波を中心に四国の南北朝時代から秀吉
による四国、九州平定までとなります。

[2004年09月19日07時38分]
お名前: 遊行笑人
健太さん、マックさん御久し振りです。細川氏と天竺の名字の由縁に一つ、三河国との由縁の古い時代の実話の情報を発見しました!細川氏三河守、時代は相当遡りますが、桓武天皇十八年の時代出来事ですが、西暦799年、天竺人三河国に漂着す云う史実在り!この縁が有れば、天竺氏を誇らしく、三河国守の方が先祖の由縁を継いでおられれば、天竺細川氏を名乗ったと考えれば、メデタシ目出度しかと!  如何でしょう?
[2004年09月15日20時18分]
お名前: 遊行笑人
なかなかさん、天竺について考えてみました。天竺の語源は中国、日本から古称で天竺と呼んだのは周知の事。私もインドを連想し色々と細川氏の関連を紐解こうと努力しましたが、禅門と言うは、仏門に籍を置く人物なれば、インドに其の名の由来を真理を求める身の有り様で選ばれたのかなー共考えたのですが?一つ広辞苑に興味を引く説文を発見しましたので御披露します!
『天竺浪人』と云うものです。住所不定の浪人。逐電(ちくでん)戦いに敗れ逃れたり、政権争いで権力の座から一時難を逃れた所以と考えれば、細川氏の歴史の中で斯波氏との権力闘争で一時、四国に一族(頼之殿が)身を引いた時期も有り、細川氏の或る方(大津城に由縁)が天竺氏を、粋な感覚で名乗ったのではと分析挿せて戴きました?!。如何でしょう?
[2004年08月28日10時12分]
お名前: 遊行笑人
なかなかさん、土佐大津城の城域と遺構の資料、手元に有りますので、今度お目の掛かる時にコピーをお渡しします。簡単に説明しましょう!
舟入川と明見川の合流点、舟入川の南に東西に横たわる小山丘上にある。『南路志』には
天竺城ハ的カ池として五拾軒四方の泉有、城の麓を東より西へ流れ深き事量なし、西に岩崎とて入海也。塩屋崎津の崎岩崎とて三ツの崎のの其の一つ也、土佐日記にをしと思ふ人やとまるとと読し鹿児崎迄十七八町西南ハ山伝に続きたれど前も後も海なれば西北南の方よりハ船ならて、行きかふ道なし、城の東南は山重て道細く人馬のかけ引き自由ならす、東北のみ平地にて草原篠原鏡野まて続たり天竺(追手)ハおめの橋とて北南大橋を掛けたり(下略)と。
又、『土佐物語』巻二は城の周りの地形について述べ、(上略)此大津城と申すは二十町許東に、的り池とて、五十間四方の泉あり。涌き出でる事、沸湯の如し。其の流滔々として、城の東北の麓を、東より西に流れ、深き事計りなし。切岸高く、屏風立てたるが如し。西は岩崎とて、前は漫漫たる入海なり。塩屋崎・津の崎・岩崎とて三つ崎の其の一つなり。潮の満干、風の順逆によりて、入海ながら、船の往来自由ならず、。漁猟を業とする船人も胸を冷やし肝を消す事多し。(中略)北南大橋を架けたり。此橋を引く時は、船なくして越ゆべからず。誠に堅固な城地なり。(後略)長くなりましたが、原文に忠実に紹介しました。御参考にして下さい!

[2004年08月21日08時36分]
お名前: なかなか
今まで、系図はただの「物語」と思っていましたが、実存する人物に驚いています。
またこのHPで、中村家と島内家が出会えていることも凄い事だと思います。
ところで、私の祖先の下村吉通が天竺城主細川氏の家臣下村の婿となったが、落城時にことごとく戦死、そのなかで息子の通祐も失っている。
本人ただ一人生き残ったが、元親にその剛勇を惜しまれ仕官し、信親を育て上げたが、九州の戸次川で討死している。
この日本の中世期は本当に戦国時代だったんだとつくづく思います。
天竺城の跡地?に天竺神社があるそうですが、そこに落城時の戦死者の供養塔はないでしょうか。
さらに、そこに、「下村志摩越智通祐」の名はないでしょうか。
大津は昔、海だったのでしょうか。
そして、天竺とは何かインドとの関係があるのでしょうか。
昔、歴史、系図は本当にミステリアスです。
それにしても、皆さんの歴史への造詣の深さに恐れいります。


[2004年08月21日07時03分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、御案内感謝!ミスりました件其のままで置いておきます。
なかなかさんとの時空を超えた巡り会い、この窓が取り持つ縁にて思いがけない系図の附合があり、感激の出会いの果たしました。
なかなか様の御予定で十一月には、両人の目ドウリが実現する運びと為りました。感謝!
今後共宜しくお願いします。
[2004年08月20日07時59分]
お名前: マック
なかなか書き込みが出来なくて
もうしわけないです。

ちなみにSIGOPつまり管理者は
そんしさんで、玄関の下の方に
直通メールボックスがあります。
削除依頼はそちらの方でメールを出すしか
ありません。

でも、よほどの理由がない限り、そのまま
にしておいたほうが良いと思います。
これを「枯れ葉も積もる賑わい???」と
いって珍重されるものなのです。

あっ
なかなかさん、はじめまして、今後とも
よろしくお願いします。


[2004年08月20日03時02分]
お名前: 遊行笑人
官位のこと、摂関政治の時代と室町時代では様相が違う感です。公卿の時代は摂政、関白以下参議以上、位階では三位以上を云い、殿上人昇殿を許された四位、五位を雲客と言ったようです。平安以後、鎌倉時代、室町時代と位階の身分、官職、氏長者(各氏族の長老、首長、の最高位に続く、位階を用い、其の順位を表す私的性格が強くなって来たとも否めないと言う)この事も考慮に入れて考える必要があるのではと。

[2004年08月17日19時44分]
お名前: 遊行笑人
マックさんかも?失礼しました。最初の投稿文の内容で早合点しておりました。其れから細川殿のこと、下記の文も系図に記載あり『天竺肥前守殿男(子息)孫十郎後号左衛門大夫殿天文十三年云々と以下少々削除、皆戦死。左衛門太夫殿男兵部少輔殿曽我井伊豆供奉京都立退とあり、落城後、天竺細川氏の後継ぎの人物(子)が一担京都に帰られていろ様です。参考まで。
[2004年08月17日15時02分]
お名前: 健太
遊行笑人様、同じ先祖を持つ方が見つかってよかったですね。実は僕もこのサイトの掲示板を利用させてもらっていますが、残念ながらオ-ナ-ではありませんので、削除できません。たぶんマックさんじゃないか(?)と思ってるんですが??実際のところ私も知りません。あしからず!!
何時も、専門的史実からの情報をいただき、ありがとうございます。定禅の件ですが、1339年12月2日高知城の前身である大高坂城を攻める、翌1340年2月4日同城、ついに落城す。と高知県史(土佐国古城略史の中の高知城の歴史】の中に詳しく書かれています。これが私が知る細川定禅の最も新しい消息です。1347年まで、確認出来ているんですね。でも定禅ほどの人物が生没不明とは??室町七不思議ですね。古文書に有る、弟の細川三位皇海の三位は官位ですね。
ちなみに、細川家資料によると、天竺孫十郎花氏の官位は右近ニ位少将と有り、かなり高い地位であることは、分かりますが、どう思われますか?ちなみに検索で調べたところ室町時代のニ位は、右大臣、左大臣くらいであり、征夷大将軍に次ぐ地位とあり、まちがいないんでしょうか??

[2004年08月17日13時18分]
お名前: 遊行笑人
健太殿、スミマセン!ダブった様です!最初受けつけず、再送しました所、二重の投稿に為った様です?一件消してください。差し支えなければ此の侭でも笑人は構いませんが?
[2004年08月16日09時18分]
お名前: 遊行笑人
健太さんに感状!天竺殿この度、天竺花氏のあなた様のサイトで、時空を超えた出会いが出来ました!。江戸時代に先祖を同じくする『なかなか』様と系図照合の結果、100年以上の時空を超えて、同じ血筋の先祖に行き着きました。此れも健太さんの御先祖様の御縁の由来の賜物と感謝申し上げます!。系図附合により、江戸時代の繋がりの由縁、先祖を同じとする史実が判明しました。此れも健太様のサイトと御先代の方々の『系図の完成の遺言』の所以と感謝申し上げます。貴家の系図完成への助力を惜しみません!今後共よろしく!
[2004年08月16日09時10分]
お名前: 遊行笑人
健太さんに感状!天竺殿この度、天竺花氏のあなた様のサイトで、時空を超えた出会いが出来ました!。江戸時代に先祖を同じくする『なかなか』様と系図照合の結果、100年以上の時空を超えて、同じ血筋の先祖に行き着きました。此れも健太さんの御先祖様の御縁の由来の賜物と感謝申し上げます!。系図附合により、江戸時代の繋がりの由縁、先祖を同じとする史実が判明しました。此れも健太様のサイトと御先代の方々の『系図の完成の遺言』の所以と感謝申し上げます。貴家の系図完成への助力を惜しみません!今後共よろしく!
[2004年08月16日09時06分]
お名前: 遊行笑人
なかなか様、やっと繋がりましたね!メールお送りしました。本当に不思議な御縁とこの時期御盆の由縁かと!出所は同じと信じて居ります。当サイトのオーナーの健太様のご先祖様の御遺言伝承の系図の完成に合わせて、史実の検証に合力お願いします。尚先祖通任殿の討死の城『伊予国白瀧城』を先般湯築城のメンバーのご協力により、探索出来ましたので、御関心が有れば喜んで御案内します。土佐大津城の以前に伊予国最後の居城也。又通任の子孫今岡氏は大三島の沖合い『甘崎城』にも、暫く留まっていたことも確認して居ります。
[2004年08月15日13時03分]
お名前: なかなか
吉通に関しての記載は次のとおりです。
天竺城との関わり、そして落城(遊行笑人さんと同じ記載)
その後は、戸次川で信親とともに戦死(七百余人討死矣)
遊行笑人さんへ直接メールしようとしたところ繋がらなかったので、この欄にメールを記します。
[2004年08月15日11時47分]
お名前: 遊行笑人
なかなか様、貴家の系図の記載内容の内、土佐大津天竺城の落城の所以は書かれて居りますか?このサイトが取り持つ縁が発端ですので、天竺健太殿にも深い御縁を感じ、今後お互いの交流と先祖の有り様の史実に一歩でも近付こうと思いを深くする次第です。尚、私のメールアドレスは『遊行笑人』をクリックして頂ければ、直ぐ繋がりますし、なかなか様のアドレスはこのテーマの基本欄のE−mail欄でお教えください。(差し支えなければ)

[2004年08月15日07時47分]
お名前: 遊行笑人
なかなか様!横瀬里長をして居られた家系の貴家は私の先祖と同一と考えます!。此れも先祖の導きかと驚きました。下村、今岡、河野は同族三家で先祖代々の墓所を守っております。先日も宿毛の墓参に行っておりました。詳しい場所は、私のメールアドレスに連絡下さいませんか?御案内致します。其れと間違い無く同族と確信させていただく事も可能ですので、我が家系図と照合し会いましょう!
[2004年08月14日16時17分]
お名前: なかなか
私も先祖を訪ねる旅行を計画していたところ、このHPに出会いました。
驚いたのは遊行笑人さんの系図が私のと同じらしい。
河野、今岡そして下村と代々【通】がついています。
東京へ来る前は土佐の中村の近くの横瀬に住んでいたらしい。
そこの最後の住人は通重でした。
鶴ヶ城近くの河野、今岡、下村の墓がある場所を教えて頂けないでしょうか。
[2004年08月14日15時49分]
お名前: 遊行笑人
さて、一書御紹介させて頂きます。誤解があるといけませんので、原文で書き込みますので漢文を和文に換えて判読下さい。(三島大祝家文書の一書です)
『伊豫国兇徒蜂起之由、依有其間将軍家御教書如此、為退治所発向也、早相催一族馳参御方、可被致軍忠也、仍執啓如件、 建武三年十月八日 祝彦三郎殿   細川三位皇海(書判)』
この文書の宛名、祝氏は(ほうり)又は大祝家は大三島大山祗神社の神官(神軍)、越智、河野氏の同族縁者、信仰の中心地の神家也。 ご参考にして下さい。この書の皇海殿を禅門と考えられる所以です!

[2004年08月11日12時22分]
お名前: 遊行笑人
ミスりました!前文文中二字、訂正挿せて頂きます。定禅殿の書き込みで貞禅を定禅に、天禅を定禅に訂正致します。すみません。(変換後に気が付きました)
[2004年08月10日07時57分]
お名前: 遊行笑人
健太さん初めまして。系図の完成できること祈念して居ります。土佐大津天竺城主細川氏の動向は、非常に奥深く其の足跡は京都を始め四国全域の土佐、伊予、讃岐にも残すと。定禅殿の生年月日は辞書上でも生没不明と記されており、建武二年(1335年)中先代の乱後、尊氏から讃岐に派せられ、三年正月尊氏軍の関東からの侵攻に呼応して、四国、中国の国人を募り、京都に突入た。翌月一族と共に再び四国に渡り、五月湊川の戦に勇敢に上陸作戦を敢行し、引き続き洛中、洛外などの合戦に活躍し、同四年(1337年)八月に和泉で活躍しているがその後の動向は不明で間もなく没したらしいとの説明です。がしかし!貞和三年、正平二年(1347年)讃岐の小豆島安田城(城主佐々木信胤)を攻めている史実も有り、この年迄は生存しておられたことは、辞書の説明とは異なると云う事に為ります。さて貞禅殿、1342年康永元年四月細川頼春氏が阿波国より伊予に向けて侵攻すると。七月十四日川之江、十月十九日世田山まで攻め入ると、時を同じくして土佐国より定禅氏軍も大舘、河間に進軍と記されております。さて貞冶三年(1364年)伊予の歴史では貞冶四年の戦と云われ、通朝殿の弔い合戦、通尭殿が天竺禅門以下300余を討ち取ると記し、其の後細川頼之殿が、大いに怒り、阿波讃岐の軍勢二万余騎にて道後を打ち越し、大空ノ城に向かうとある。其の事から推測すると、定禅殿は1347年までは生存確認ができるが、1364年とのギャップに多少の疑義が生じる感を残すが、天竺禅門と細川定禅を同一人物と、伊予でも話題に残す。寧ろ天禅殿の弟、細川皇海殿と笑人も前後の書状の遣り取りが見え、この方を深索する必要があると考えます。是非参考にして見てください!
[2004年08月10日07時01分]
お名前: 健太
遊行笑人さん、始めまして!大変貴重な情報ありがとうございます。最近仕事が忙しく、PCから遠ざかっていたもので、失礼いたしました。自分が思ってたことが裏ずけられる内容が随所にあり、今後の参考にさせていただきます。
湯築城の件ですが、伊予支配を狙う細川頼之は貞治3年9月細川軍(大群)を伊予へ出兵させ、河野通朝と交戦、世田山城で通朝公を討取り、その勢いで、通朝の子通あきの守る湯築城を攻め落とす。通あきは恵良城へと逃げ延びる。その時の、細川軍の将が天竺禅門入道。伊予の要である湯築城の城主として禅門が残り細川軍は、解散す。翌貞治4年正月、通あきは自国を奪い返さんと、散りじりになった一族郎党を結集させ、湯築城に攻め込みみごと奪還し禅門を討取る。知らせを聞いた頼之は大群を、伊予へ差し向け、城を奪還。河野通あきは、九州へと、逃げ延び、四国はすべて、細川家の支配下となった。これが真相のようです。
天竺禅門=細川定禅ではないかと思います。しことが一段落したら。。その理由を検証したいとおもいます。
[2004年08月10日03時02分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、勝手な投稿挿せて頂きましたが、此れも御先祖花氏の由縁をお尋ねの念に感じまして、御助力が出来ればと思い我家の系図を基にお話致しました。共通する話として、母君に連れられ、二人の幼子が延命された所以は、附合する点にて時代が下がり、花氏の家名、細川と名乗らず、何がしかの理由も考えられるのでは思われます。(この前の皆様のお話の中にも、記されておりましたね)この二-三日伊予の国、越智河野族、通有の三男通種(後林の祖)の子(今岡)通任(みちとう)の居城(中先代以後の討死の城)の古跡を訪ね終わりました。この子孫吉通殿大津天竺城肥前守殿の譜代相伝之家臣下村弥八郎祖父の慈恵により、藤原姓娘聟となり下村家を継ぎ、今岡六郎左衛門尉後但馬祐越智又は下村但馬祐吉通と云うと。その後の落城の話は前述の如き也と。昨日土佐国旧幡多郡、現宿毛市山奈町山田の鶴カ城(吉名衆)の近くの河野、今岡、下村(順不同)の墓所の墓参を済まし帰って舞入りました。是非今後共よろしく!
[2004年08月09日17時15分]
お名前: マック
遊行笑人さん はじめまして。
長らくアクセスが出来ない状態でした
ので、まずは ゆっくり読ませてもら
います。

歴史は一度 頭の中をフォーマットしないと
それからでないと res文が書けない・・・。

今後とも よろしく お願いします。
とりあえずは 挨拶文のみです。

[2004年08月08日00時16分]
お名前: 遊行笑人
もう一件天竺健太様に天竺禅門(天筑ときしているもありこの所以は伊予道後の湯築城の築城の?によるかと)貞治4年正月16日説と別説もあるが、この湯築城の戦で討死されたと古書の記のあります。と言う事は其の前に、土佐大津から伊予を攻め、占拠していた事も知って置いてください。この戦いのこと貞治四年の戦と云う。この方天竺禅門殿也。
[2004年07月30日16時57分]
お名前: 遊行笑人
其れでは究極のテーマ落城の時は何時か?にお話を進めます。色々伝書に記述あれど、結論から申します。天文十三年辰甲1544年(西暦1544年)、長宗我部国親殿に依る夜襲(この事は皆さんお聞きの話の通り)云々と我家之系図に残る。この時は元親は生年月日1539年なれば、五歳ー六歳(数えと満で)この年齢では無理なこと。国親氏が張本人と考えるのが、妥当と考えます。その他2-3説あれども、此の説が前後の背景から正解の旨確認済みです。参考にして探索して見て下さい。この辺で一段落と言うことで、失礼挿せて頂きますので、何かお手伝いできる事があれば、何時でも書き込み下さい!
[2004年07月30日15時54分]
お名前: 遊行笑人
もう一件参考までに。落城の際に討死された家臣のお名前を系図より見ました所、敬称略、横山、依光、宮地、坂本、長崎、井上皆戦死矣。と記されております。当然城主、私の先祖通祐も討死すれど、十市細川の家老職廣田佐馬祐の娘が嫁で在った為、落城の際幼少の二人の子光祐、弟通重が生き母の里にて、十市城主細川備前入道宗兆殿の家臣広田殿の由縁により、育てられ事を記す。兄光祐は暫く大津に在す。弟は成人した後、宗兆殿に従して、土佐之西の現在の宿毛市山奈町山田(吉奈と言うも、故ありて吉を芳に替える)鶴カ城に配置、居スと(此れは時代が下がり、長宗我部元親殿の家来衆(吉奈衆または芳奈衆125人なり)として、伊予之国、九州への戦に対応していた様です。
[2004年07月30日14時10分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、土佐守頼益殿の家流のこと間違いではなく、天授四年(1378年)細川遠江守頼益土佐ノ守護トナリ香美郡田村ノ城ニ居ル。頼益ハ三河守頼元入道頼円ノ一子ナリと記されておりこの時には、田村の庄の細川館(城)が在った史実がみえますね!。又史書に、『細川頼益公、康暦頃当国守護職に下向、給う香我美郡田村に在城』と在りますので、間違い無いと考えます。この時期は康暦元年京都で斯波氏、一色、赤松等と勢力争いの翌年、管領を辞し一担讃岐国に帰り、落着く後に一族の頼益を守護代(守護は頼之殿)に派遣したと云う。
[2004年07月30日13時07分]
お名前: 遊行笑人
健太さん、マックさん 土佐国大津天竺城主細川氏は細川公頼の舎弟、頼貞氏の子顕氏の弟の定禅氏、もしくは其の弟皇海殿の血筋と考えて良いと思います。所以は伊予之国湯築城の関連資料を参考に研究して見て下さい。其れと大津城の事高知県の生涯学習の窓口担当者からコピーを頂いて見て下さい。高知の従兄弟に以前私も依頼し入手して居ります。それと天竺と天笠の相違は明らかに正解は天竺で天笠ではありません!。お墓の刻字はミスと確信します。系図には中村三郎左衛門花氏(家紋扇)小神次郎兵衛花吉殖田村に住す(家紋井桁)と載せています。我家之系図はその以前からの伊予之国河野氏との由縁から、以後の伝まで、詳しく残しておりますので、分かる範囲で、紹介しますよ!
[2004年07月30日12時16分]
お名前: 遊行笑人
初めまして!先ず自己紹介から致します。笑人土佐国大津天竺城主細川殿譜代家臣下村氏の女に古来の故あって婿になりし、伊予之国河野氏(後今岡氏を名乗る)通任の子孫です。このサイトの他には、伊予国道後湯築城の『文化財フォーラム愛媛』の会委員にて、中先代の乱以降、先述の土佐細川家に後継を繋ぎ、十市細川宗兆殿と共に宿毛市の芳奈の里に『芳奈衆として、河野、今岡、下村同族(順不同)125人衆の一族にて時代を継いで居ります)このサイト今まで知らず、早くから知っていたら、色々と史実のご披露が出来たかと思いますが、此れからお役に立てれたらと、思いを馳せています。宜しく!尚『文化財フォーラム愛媛』でHPを開いて見て下さい。丁度土佐の話をしております。ご自由に参画してください。お待ちしています。
[2004年07月28日19時09分]
お名前: 健太

マックさん・・おひさしぶりです。
天笠と天竺は同一人物に間違い無いでしょう。何らかのことで、単に記録する人が間違えて・天竺→天笠とたのが、古文書に残されたものと推測します。我が家にも天笠と天竺が存在しており、家系図では、天竺花氏であり、最近建立した中村家累代の墓では、大先祖天笠花氏になっていた事を発見・…父が発注時間違えたものなのか?また彫り師がまちがえたものなのか?確認をとりたいと思います。・…大津駅前にある、天竺花氏のお墓はどうなっているんでしょうか?
山崎さん!!
[2004年07月09日04時59分]
お名前: マック
健太さん、毎度どうも

うまくresできませんが、しっかり
読まさせてもらっています。

大津城の城主として、天笠氏という
表記が日本の名族で少し見られます。

天笠と天竺、文献の表記上の間違い
なのか、それともまったく別の氏族
なのか、わからないところです。

山崎大さん、よろしく・・・・・
山崎大さんの調査発表も期待したい
ところです。
角川書店の高知県姓氏歴史人物大辞典
とか。
山川書店の高知県の歴史なんて
調べてみると、面白いのですが。。。
地元の人ならば、図書館で無料で
取り寄せができる??



[2004年04月30日05時19分]
お名前: 健太
天竺家は、いつから細川氏から天竺氏に代わったか?
細川天竺裸門以降、天竺氏を名乗るようになった説は、研究者の間でははぼ一致しており、また、細川家の資料より間違いなさそうです。
では、細川禅門とは誰の流れをくむ、者なのかになると、研究者の間でい1番の関心事であるようで、京兆家、土佐守護の支流ではという意見が一般的のようです。
僕は、色々と調べていく内に、定禅=天竺禅門ではないか(?)と言う気がしてなりません。

[2004年04月30日04時22分]
お名前: 健太
山崎さん、今晩は!!僕は今宮崎に住んでいます。生まれは、僕も両親とも、五台山です。
こちらには、移り住んではや50年,赤ん坊の時移り住んだため、高知の記憶といえば、母親と一緒に里帰りした時の記憶ぐらいです。高知へは、数年前家族で旅行しましたが、竜馬竜馬、一豊で、ちょっと、寂しい思いがしました。
[2004年04月30日03時36分]
お名前: 山崎大
健太さんへ
今日、2週間ぶりに休みが取れたので天竺神社に行ってきました。私も20数年ぶりに足をはこびました。なんとそこは、階段部分がきれいになり、寄進者の石柱がすべてなくなっていました。私が以前行ったときには中村4,島内1ぐらいの割合で寄進者の名を刻んであった物がなくなっていました。そのため、私の記憶違いといわれてもしかたないかな?
今の天竺神社は明治に再建、もしくは建立されたようです。
それと、我が家の家系図では、1600年代に中村家より分家して島内になったように記録されています。ところで、健太さんお住まいは何県?
[2004年04月28日15時12分]
お名前: 健太
山崎さん、失礼しました。父の記憶違いかもしれませんね?ぜひ調査してください。
[2004年04月21日03時09分]
お名前: 山崎大
中村さん、こんばんは。天竺神社、たしかにあります。が・・・私の記憶では建立及び寄進者は中村家と私ども(本名は島内)の2家だったような・・・?
記憶違いかな?私の家から大津までは車で10分。今度、確認します。
[2004年04月20日20時15分]
お名前: 健太
山崎大さん、お宅を尋ねたのは父では有りませんでした!!耳寄りな情報を父より聞きました。
大津城跡のふもとに、天竺神社が有るそうです。しかし最後に行ったのは50〜60年ほど昔のこと、今はどうなってるか分からないとの事です。多分、江戸時代のころ、新しく建てたか、再建したかは、定かではありませんが、中村一族だけで建立した神社だそうで、寄進者は全て、中村性になっているそうです。
[2004年04月20日19時26分]
お名前: けんた
山崎さん今晩は!!中村です。はじめまして!まさか同じ家系図を持つ人がこんなに早く見つかるとは、思いませんでした。でも、お宅にお邪魔した中村さんは、うちの父でも近い先祖でもなさそうです。父に確認をしてみますね。てことは他にも、先祖調べをしている中村さんが、いるってことですね?僕も、先祖調べを始めてまだ2ヶ月足らずです。老いてゆく父が最近中村家累代の墓を建立し、途切れてる家系図が心残りのようで、生きている内に少しでも、調べてやろうかな?てな訳で始めた次第です。
[2004年04月20日02時19分]
お名前: けんた
山崎さん今晩は!!中村です。はじめまして!まさか同じ家系図を持つ人がこんなに早く見つかるとは、思いませんでした。でも、お宅にお邪魔した中村さんは、うちの父でも近い先祖でもなさそうです。父に確認をしてみますね。てことは他にも、先祖調べをしている中村さんが、いるってことですね?僕も、先祖調べを始めてまだ2ヶ月足らずです。老いてゆく父が最近中村家累代の墓を建立し、途切れてる家系図が心残りのようで、生きている内に少しでも、調べてやろうかな?てな訳で始めた次第です。
[2004年04月20日02時18分]
お名前: 山崎大
偶然、ここを発見しました。私の家にも天竺右近花氏を祖先とする家系図があります。私が中学校の頃、中村さんという方が、先祖調べで家にきたことがありました。私は、情報は、ほとんどもっていません。書き込みを観て勉強させてもらいます。よろしく
[2004年04月19日21時46分]
お名前: 天竺健太
岡山県備中町に軽尾城跡がある。…細川天竺三郎の居城・・天竺中書の先祖??
[2004年04月01日03時00分]
お名前: マック
天竺健太さん、こんにちは。

追加の情報が欲しかったもので、
とても面白く拝見させてもらってい
ます。

このテーマは、土佐というお国がら
なかなか簡単にいきません。
周辺情報をこつこつと集めるしか
ないと思っています。

歴史とはミステリー小説みたいなもの
で、調べだすとやみつきになってしま
います。
そんなわけで・・・・
今後ともよろしくお願いします。


[2004年04月01日00時28分]
お名前: 天竺健太
細川家一門の中に天竺家の系図を発見す。細川天竺羅門(1365)戦死より〜1547まで天竺性を名乗ってた。
[2004年03月31日01時37分]
お名前: 天竺健太
大津城落城の不思議1478城主天竺花氏1547城主天竺花氏どちらも、間違いではなさそうです。天竺花氏孫十郎の子は天竺花氏孫八郎であり…細川家人文禄より
父の話では、天竺孫四郎も花氏の別名だそうです。
大津城は年号は不明ですが花氏が築城したとされることから、代々城主は花氏を継称してた可能性も出てきました。天竺家当初から基盤を京都に置き早くから公家しており、領地である大津衰退の一途だったとか?
[2004年03月31日00時50分]
お名前: 天竺健太
天竺性を捨てたのは、元親勢の追ってから、身を隠すためだったと思われます。

史実とは、ちょっと違ってるようですが、ここで、我が中村家に代々語り伝えられてきた
烙城秘話ですが!
国親が病死したため、若くして元親が城主となった矢先に大きな台風が襲来、豊岡城の御神木である大楠の木がばっさりと南向きに倒された。城内何か不吉な事が起こる前触れではないかと、騒然となった。そこで元親が皆を鎮めるために、これは南に向かって攻めよ言う神のお告げであると言って皆の士気を結集させた。台風のドサクサにまぎれて、南に位置する大津城に夜襲をかけた。不意を突かれた、花氏はもはやこれまでと、おさない子と妻を数名の家臣に託し裏山より逃がし、城に火を放し、切腹・・落城となった。……史実では国親に滅ぼされたようになってます。
[2004年03月30日23時37分]
お名前: 天竺健太
あれから、僕なりに、色々と調べてみました。分かったこと、見つけたことを少しずつ紹介ます。

まず、マックさんの、質問で〜〜性は天竺でも、宮地でもありません??
中村です。…大津城落城の折、花氏には、花清と花吉の世継がいました。花清は中村三郎左衛門
と名を変え、花吉は小神次郎兵衛となり天竺性は途絶えたようです。
[2004年03月30日22時24分]
お名前: 天竺健太
色々と情報をいただき、ありがとうございます。特にマックさん、ありがとうございます。
長いこと、ほったらかしてしまって、すみませんでした。言訳になるかもしれませんが、
実は、たまたま見つけたこの掲示板が、何処だったか分からなくなってしまって、てなわ家で申し訳ありません。
[2004年03月30日19時52分]
お名前: マック

岡山県立玉野光南高等学校 教諭 大坂秀樹先生のWEBサイトから
出来るだけ、そのまま引用させてもらいます。中略はかなりあり
ますけど。
まずは紹介して、後日、これを基礎として、いろいろと
考えてゆきたいと思います。もちろん天竺氏についてですよ。
*

これは、土佐守護代、細川氏についてまとめたものです。
この上野氏は細川氏庶流である。『尊卑分脈』『系図纂要』より関係部分
を抜粋すると次のようになり、庶流のなかでも末流の家柄といえる。



  _俊氏_O_O_頼之
  |
  |上野
    宗義_O_義幸_氏世_氏盛_元興_氏盛
       |
       |      1  2  3
        頼元_頼益_満益_持益_勝益_政益

 

 この上野氏は細川氏庶流ということもあり、京兆家と深い関わりを持つ一
族である(54)。まず頼益は応永8年から同19年頃にかけて京兆家分国丹波の
守護代在職が推定されている人物である(55)。
頼益流の満益・持益・勝益については『尊卑分脈』『系図纂要』にそれぞれ
次のような記事が付けられている。

満益 持益 勝益
『系図纂要』 住土佐国 土佐守護 土佐守護
『尊卑分脈』 土佐国守護代 土佐守護(代まか) 土佐国守護代


 このうち持益については、京兆家分国土佐の守護代在職の明徴があり(56)、
勝益の子である政益も永正14(1517)年
当時、土佐守護代であったらしい(57)。即ち、頼益流の上野氏からは京兆家
内衆と化した者が多く出ていたといえる。
 一方、氏世流に目を移すと、この血統からも京兆家当主との被官関係まで
は確認できないものの、京兆家との深い関係を窺うことのできる人物が輩出
されている。
 
 以上、上野氏についてまとめると、上野氏は細川氏庶流としての待遇を受
ける一方で、当初より一族の中からは備後半国守護家、備中守護家や京兆家
の被官と化す者が出ていたと思われる。また分国・分郡を持たない上野氏
は京兆家に慢性的に依存せざるを得なかったと思われ、京兆家・上野氏の惣
庶の結び付きは強かったと考えられる。


以上




[2004年03月18日04時21分]
お名前: マック
ネット上の高校の先生の論文から・・・
前に紹介したアドレスより引用。


(4)天竺氏

 典厩家被官の天竺氏としては、文明18年から翌年にかけてその活動
を確認できる天竺中書がいる(139)。第3章第3節(今回は載せず)で触れ
るが、細川氏庶流の天竺氏は早くから京兆家に対して被官化しており、
文明14(1482)年当時には、京兆家被官として備中国衙領の請代官を務
める者も輩出していた模様である。よって、典厩家の近習、京兆家の
有力被官としての活動時期は極めて近いことになり、天竺氏が両家の
紐帯であった可能性はある。

引用おわり・・・・・・
この先生にメールを出さないといけないかな。
もうちょっと勉強してから、答えられない質問
でもぶつけてみよう??。

天笠と天竺は、別物と考えてもよいかな。

[2004年03月16日18時47分]
お名前: マック
天竺氏の家臣が、またひとつ見つかった。
「石谷(いしがい)」氏。

長宗我部国親の時代、、、
天竺氏の旧家臣で代表者の名前は・・・・

(1)宮地五郎左衛門吉久・・・天笠氏の末裔
(2)石谷民部小輔重信・・・・清和源氏土岐氏の末裔

この2家の知行地を追えば、天竺氏の勢力圏も
わかるかな。

ちなみに(1)の宮地氏の系譜に、坂本竜馬の
父親の実家になるものも有り。

[2004年03月16日18時37分]
お名前: マック
天竺氏の家老である「宮地」氏を発見。
長曾我部の家臣団と日本の名族にも、すこし
だけ紹介されている。

しかし謎は天笠と天竺と2つの表記がなされて
いてますますミステリー帯びてきています。

今、気づいたけど質問者は、質問1発だけ書いて
姿を見せぬなあ。
URLって、ああ、このひとホームページ持って
いるのね。
この質問者に聞きたいことは
 「おみゃあさんの姓は天竺なのか宮地さんか?」
 

[2004年03月16日17時13分]
お名前: マック
以下の論文が、一番 優れている。
目次からクリックして、目を凝らして
よく見ないと、何が書いてあるか、わか
らないけどね。

http://ww3.tiki.ne.jp/~minagi/mokuji.htm

[2004年03月14日16時36分]
お名前: マック

> 文明10年、1478年
> 津野氏により、大津城の天竺氏は滅ぼされる。

自分で書いたものだけど、上記のものは、
どうしても裏が取れない。
ゆえに この部分は削除としてください。

あとは
角川日本姓氏歴史人物大辞典の高知県版でも
買ってもらうしかないね。
定価1万6000円は高いなあ。



[2004年03月13日23時12分]
お名前: マック
続き・・・・・

応援軍は、一条氏の軍勢は見えず。
安芸氏の軍勢は、本当に、やってきます。

「村田文書」
村田氏は香宗我部氏の家臣で、安芸氏に
従属していました。
東部の大忍荘(香美郡物部村)で、
安芸軍から離脱していた、村田氏が
ちょうそかべのために、比類なき働き
をして、安芸軍を撤退させた・・・・と。

ちょうそかべ国親は、村田氏に対して
大津郷中沢で2反ほどの田畑を恩賞として
与えます。
いちおう村田は香宗我部の家臣なんですけ
どね。

[2004年03月13日17時55分]
お名前: マック
もう ちょっとわかりました。

天竺花氏が、大津城(高知市大津)城主として、
ちょうそかべ国親により滅ぼされる。
これだけしか、、、
日本の名族10巻四国編には、登場しない。

でも、大津城の戦いに際して、
一条氏と土佐東部の安芸氏が、大津城を守る
ために応援軍を送っているようです。

大津城が、一条氏の属城であることは
まちがいないみたいです。


[2004年03月13日17時44分]
お名前: マック
細川宗桃で、検索したら、次のことがわかりました。
そのまま、いただき・・・・・


細川定輔(????)〜(????)
【官位】:備後守 【別称】:十市備後守、細川宗桃
■父:細川国隆 
■子:十市備前守、池頼定、細川弥四郎

入道して宗桃と名乗る。父の国隆は長岡郡十市栗山城主で国親に攻略
され軍門に降り、以後細川氏は重臣として活躍する。宗桃は娘を香宗
我部親通に嫁して香宗我部氏と姻戚関係を結んだ。土佐郡神田城主と
なり、一条氏滅亡後に幡多の吉奈城主に任命され伊予南部の勢力に対
峙する。宗桃が吉奈城主となってからは嫡子備前守が十市城主となり
、また次男池頼定が池城主となった。蜷川道標より連歌を学び、名人
と言われた。



--------------------------------------------------------------
------------------

細川正久(????)〜(????)
【通称】:喜兵衛
■父:細川正頼 

細川宗桃の孫にあたる。父正頼は関ヶ原に出陣して行方不明。正久は
朝鮮の戦いに出兵している。長宗我部家改易後は高岡郡用石村にて浪
人していたが、一豊の入国前に土佐に入国した山内康豊を自宅に泊め、
用石村に一町八反の給地を得て庄屋に任じられた。


[2004年03月13日12時40分]
お名前: マック
これは、まさに正統的なというか
筋の通った質問ですね。

しかし難解である。

1713年、江戸中期に成立した
「土佐物語」吉田孝世著によれば、大津城(高知市)
の城主は天竺氏となっています。
土佐物語は、ちょうそかべ元親の一代記ですけど
大津城については異説があるようです。

文明10年、1478年
津野氏により、大津城の天竺氏は滅ぼされる。

1517年、
一条氏の宿将で、戸波城(土佐市)城主、福井
氏は一条氏の援軍とともに、津野元実の来襲を
迎撃し、津野元実を敗死させる。

これにより、津野氏の勢力は落ち、大津城は
一条氏の属城となる。

これが、ちょうそかべ国親が、岡豊城帰城の
1年前の出来事となります。
一条氏の勢力がこの地域に浸透していたから
その庇護を受けた国親が、岡豊城とそれに
属する2郷の知行地を周辺の諸豪族より
返還されたと考えるわけです。

それから29年後
1547年
ちょうそかべ国親は、大津城を攻略
することになます。

このとき大津城城主はいったい誰か
ということですけど。
やはり 天竺氏のようです??。
ここらへんの詳細は、不明。

大津城の周辺では

 介良城(高知市)・・・横山氏
 下田城(南国市)・・・下田氏
 十市城(〃  )・・・細川宗桃
 池城 (高知市)・・・池頼定

上記の中で、大津城の救援に動いた
者もあり、全部、短期間にちょうそかべ
軍により攻略されています。
小さな豪族同士が、同盟軍を作ることは
よくあることで、たんに地縁だけではなく
血縁関係にあることも、よくあることです。
こんなあたりを調べてみると面白いかも
しれません。

いまのところは。こんなところ
です。




[2004年03月13日12時11分]
お名前: ATTILA
 こんにちわ。

 ルーツ調べですか。大変ですね。ルーツ調べのコツは、なんと言っても足で稼ぐことでしょう。巷に出回る文献は、どうしても有名なものに限られますから、その情報では限られます。

 手持ちの情報から、ご先祖ゆかりの地を調べて、まずはそこに行ってみるのが、遠回りのようですが、返って手っ取り早いと思います。

 有力家臣ならば、領地を拝領しているはずです。おの領地のあったところの役場や学校、あるいは菩提寺などを訪ねれば、世情に出てこない文献や情報が見つかることが多いです。

 たとえば、うちの母方ののご先祖?だか、その親戚?だかは、大阪夏の陣で戦死してるのですが、その墓のあるお寺には、数代前から当人までの由緒が書かれた文献があります。
[2004年03月12日17時38分]
お名前: kenta55    URL
我が家は、天竺花氏の末裔です。我が家には系図がありますが、途中から書かれたもので完全なものではありません。史実によると、長宗我部国親に1547ごろ襲撃を受け、破れたそうです。その時花氏は城に火を放ち自害、乳飲み子だった世継は母と数人の家臣と共に城より難を逃れその後、長宗我部氏滅亡後に土佐藩主になった山内一豊に拾われ上級家臣として明治維新まで仕えました。山内家の家臣時代、一度分家となったためそこから系図が始まったためそれ以前が不明です。我が家には、代々伝わる遺言があります。本家を探し出し、系図を写させてもらい、系図を完成させよとのことです。

先祖について分かってきたこと
ネットで調べ始めたばかりですが少しずつ色んなことが分かって来ました。
*天竺家は細川家一門だったこと
*細川天竺禅門から以降天竺を名乗るようになったらしいこと。
*細川(京極家】の流れをくみ、細川頼之の弟、頼元が先祖として有力らしい。
*大津城の落城に際し、資料が城と共に焼失してるため、史実を調べることは難解である。
*天竺家は細川一族の中で細川軍の総大将を任せられてた。そのため戦死者も多くそれが、幸いして、敵方の戦史にも、よく登場している。(敵の大将の首を討ち取った】応仁の乱の、細川軍大将の天竺賢実ほか天竺孫四郎、細川天竺入道(禅門)など、いずれも戦死。。。。が有名。戦国以前までの、戦いは大将が先頭に立っての合戦だったため、両軍大将が戦死する事が多かったようだ。
とにかく、資料に乏しく、些細な記述でも、教えていただければ、ありがたいです。




[2004年03月12日03時25分]
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