誰にも共感させないし、誰にも同情させない。危うく共感したり、同情しそうになるとなると「わたし、そういうタイプの人間ではないので…」とばかりにスルッとかわされてしまう。すべての行動が、あくまで打算的でしたたかな選択の結果でしかない。そんな裏社会の話だったはずなのに、では何故辰巳はほぼ何の利害関係もない葵を救おうとしたのか。道理からポンと飛び出してしまった事態に狼狽えている、そんな台詞で物語を終わらせてみせるスマートさがここにある。
京子の話は言い訳として口の端に上るが、そもそも「仁義」なんてものすらオールドスクールになった現代の物語。「俺たちみんな、カネがない」そんな世の中で、すべては「道理」の話になる。いわゆる「家族」の論理でいえば、竜二や取り巻きは「正しい」ので、彼らの不条理な暴力に嘆いてみせたとしてもそれに抵抗する理屈が存在しない。「優しさ」は鍵となるが、ふとこぼしてみせた「お前はいい奴だからな」という台詞(行間に「俺とは違って」が隠れている)からも分かる通り、無私の優しさは理屈に合わな い。理解が出来ない。
冒頭からまるでクライマックスのような風の音。シャブ中だった弟の死がぶっとい補助線。本来組織に属しているはずの人間が、守るべきと組織に決められた倫理とは外れた、もう一つの倫理をずっと心に秘めていて、ふとしたきっかけにそれが爆発してしまう。そのトリガーを引くキャラクターとして、周囲に文字通りツバを吐き続ける葵のクズさ、手のつけられない横暴さは必然のように感じた。役者は総じて素晴らしかったが、ここは特に森田想さんの役割が非常に重要だったと思ってる。
俺たちの上海小吃が、ヤクザの根城に変わる。ディアオ・イーナン『鵞鳥湖の夜』とか、ナ・ホンジン『哀しき獣』、そして何と言ってもヤン・イクチュン『息もできない』のような、アジアンノワールの系譜に堂々と名を連ねる傑作。劇中でたった三回、流れる涙が持つ別々の意味を、ずっと咀嚼していたい。
ようやく 初めて井上尚弥の試合を(ほぼ)リアルタイムで観れた。第1ラウンド、びっくりするぐらい硬かったので何があったのかと思ったんだけど、ダウンしてからゆっくりカウント待ってから立ち上がって、後半調子を上げ、第2ラウンド以降は完全に場を支配してしまった。そこからは、いつ、如何に、倒すか、というショー。一試合通しで観たのは初めてだったので、圧倒されてしまった。「トドメ!」という感じのラストの右も見事。そらみんな熱狂するわな、とGW最終日に納得してた。
下高井戸シネマでビクトル・エリセ『瞳をとじて』。またしても満席。『悲しみの王(Triste le Roi)』と呼ばれた邸宅が粗い16mmフィルムに焼きつけられており、その時点でなんというか、もう、ガッツポーズというか。これだけの年月を経ても、『ミツバチのささやき』『エルスール』と地続きの質感で安心して観られるというか。「瞳をとじて」というタイトルが見事で、「映画」という視覚メディアをして、「瞳を閉じる」という行為が何を意味するのか、という当事性が潜んでいる。視覚を遮断する代わりに、「記憶」が立ち上がるだろう。
『別れのまなざし』という劇中劇で、劇中の探偵への依頼は「娘を捜すこと」。その探偵を演じた主演俳優が撮影中に謎の失踪を遂げてから20数年。その娘アナ(アナ・トレントがまた「アナ」を演じる!)は、幼い頃に僅かな時を共に過ごしただけの父親との再会を、半ば諦めたような心持ちで過ごしている。
劇中劇で探偵に与えられたほぼ唯一の手がかりは、娘チャオ・シューの写真。その写真は時を経て、記憶から追放された娘の手触りを残して続ける。視覚と記憶の混淆が、映画の可能性を拡張してみせるような設定にも思える。
かくして、映画は現実的な力を持ち始める。決して完成しなかったフィルムが、埃だらけの映画館のスクリーンに投影される。そこで瀕死の父は、娘の化粧を拭い落とすと、流れるアイシャドウに「悲しみ」が演出されているように見える。「奇跡など起こらない」と断じてみせた、その言と裏腹の「祈り」は如何にこの数奇な物語を完結させるのか。ドライヤーまで引いてみせたそのやり口の割に、その「奇跡の所在」について描ききらなかったのはやや不満ではあった。
『民藝展』を観るために世田谷美術館へ。
民藝についての基礎知識をパンパンにした状態で広がるショップの光景は圧巻。購入意欲満々の猛者共が群がる。が、朝から洗濯機が壊れていて、その修理代に幾ばくかの金銭が必要になることを考えると財布の紐が開かなかった。無念。
昼飯に食べたピザが大変美味かったです。
朝から『辰巳』、『システムクラッシャー』、『ピクニック at ハンギング・ロック』とハシゴして、ジーニアス太一さんと方南町で飲酒。映画はどれもすんばらしかったし、酒も美味かったなー。どうしても最近は、酒を飲むと政治の話になってしまう、という件が今日も発動していた。
映画館の中で、亡くなった母親の誕生日だったことに気づく。母親は小さい頃から頻繁に俺を映画館に連れて行ってくれていたので、こんな人生になった。生まれて初めて観た映画は『オズの魔法使』。そんなことをスクリーンの明かりを前に思うなんて、なかなか良い経験だったな。
GW後半戦初日は、家族で蔵前散策。古いビルを活かして、モダンなスポットを作る見本のような場所が多く、上の写真はなんと小学校。圧倒されてしまった。透明書店やFrobergueなどの本屋、ウグイスビルという洒落た大人な店ばかりが集まった場所、ぬいぐるみの店、タイ料理の店「ガパオ」など、「残念なところがない」と妻が呟いていた通り、うちの家族好みのストリートで最高だった。
そのまま徒歩で浅草まで来ると、ここはやはり記憶通り、好きだけど「残念なところがいっぱいある」街。すぐ近所なのに観光スポットか否かでここまでの差が出るものなのだな。東京三大どら焼き「亀十」も、行列できてて買えなかったしなー。
極楽というものがあるのだとしたら、浅草ROX「まつり湯」がそれに最も近いであろう。15時ぐらいに着いて、喉も乾いたので少し休憩してから、入浴〜サウナ2セット。むすこがクレーンゲームに夢中になってる間に、俺はパロディウス。一つ階を下ると、大量の漫画が読めるスペースがあるので、『ワンピース』(←知ってます?おもしろいよ)を読みながらうとうと。
起きると19時ぐらいだ ったので、もう一風呂浴びてすっきりした後に、施設内にある居酒屋で夕食食べながらビール。最後にもう一回長めのサウナ決めて帰宅。外に出ればもっと美味い店は沢山あるのに、あえて中で食べるのはこの最後の一風呂がたまらないからである。
風呂の種類も豊富だし、外気浴出来るスペースに露天風呂もある。サウナは普通のドライサウナに、ミストサウナもある。入浴料も割引とかあって、なんだかんだで一人2000円程度。通おうと心に決めました。
突然混線したかのように、適当に聞き流していた長話の友人からの電話が、夫が浮気をしているという密告の電話に切り替わる。不安な妻を追い詰めているように思えるほど、家には不自然なほど大量の電話があり、その受話器一つ一つを取り上げて放置しておくと、帰宅した夫は訝しげ。それでも安心した妻と抱擁を交わしていた夫は、気がつくと俺達の知らない中年のおっさんに変わっている。
さっきまで触れていた人が、別の人に入れ替わる。写真の人物が、突然現れる。なかったものがある。いなかった人がいる。殺した人間が生きている。鏡や窓が映す自分の影も複製のように存在感を保っているので、放っておくと、大量の幻影を前に現実との境が判別不能になってくる。ベルイマン作品のようなジトッと湿った雰囲気の中、主人公はそこに飲まれているかと思うと、次の瞬間にはその状況を不自然なほど完全に理解しており、自らが殺した男の死体がある現場に子どもを案内したりして、この状況が現実ではないということを受け入れてしまっている。
しかし、その幻影の嵐の中、唯一、少しずつ少しずつ着実に距離を詰めてくるのが、己の影。目的地である別荘を高台から見下ろしていたかつての自分と、その自分が見ていた現在の自分。取り残されたかのように今も高台にいた過去の己は、いつの間にか少しずつ、あわせ鏡を近づけるように現実の自分に近づいてきている。幻影と戯れていることで現在まで引きずり続けている不安定な自分の姿を、過去の自分が終わらせに来ているような印象を受ける。
神経を逆撫でするような不協和音が印象的な音楽は、ツトム・ヤマシタとジョン・ウィリアムズが担当。必ずしもソフィスティケートされた表現とは言い切れないが、明らかに過剰で不気味な初期アルトマンの傑作であると思う。
『ヘレディタリー』や『ゲット・アウト』『スマイル』などの海外ホラーを紐解くまでもなく、今一番怖いのは突き抜けた笑顔であることは間違いない。勝手に「暗がりであれば、笑顔も怖いよね」とか無邪気に信じてると、いやいや真っ昼間の笑顔も相当怖い。下津優太監督作『みなに幸あれ』では、「白昼の交差点で老人が笑顔でおかしなことを口走るのが、怖い」というところまで事態が進行してしまっている。
「ごめんね。わたしたち年寄りのために、若い人たちが犠牲になって」
「台詞回し、間違ったのかも?」とか訝しくなってくるぐらいおかしい。怖い。
古川琴音演じる主人公「孫(としか名前が与えられて ないっぽい)」は、祖父母の住む田舎に帰省する。暖かく迎えてくれる祖父母であったが、どこか様子がおかしい…。というありがちな「田舎帰省系ホラー」、もう俺たちも慣れたもんで「様子のおかしさ」にも耐性ついてるんはずなんだけど、それにしても「様子がおかしい」。様子のおかしさが、おかしい。
この「おかしさ」はどこに起因しているんだろう…?とか考えてて、行き着いたのが、古川琴音以外のほぼ全てのキャストの壊滅的な素人演技。今どき、力を抜いて普段着のように演じることだって選択肢として取れるだろうに、変に力の入った素人演技が、かえってどこか浮世離れしたような雰囲気を映画全体に漂わせる。
「異常」と対峙してから、反応がどこまでも横滑りし続けるのがこの作品の肝。凄惨な事故も、決定的な犯罪の証拠も特に問題にはならず、まともであろうと思った人たちも当然まともではない。それどころか観客の心情と寄り添っていたであろう主人公の行動も、どこか浮世離れしたものと変異していく。その変異においては編集が大きな役割を果たしており、ここで確実に発生したであろうイベントがすっ飛ばされて、次の瞬間、主人公の何らかの決定が映し出されているのであるが、その決定にまつわる時間がすっぽりと切り落とされているが故に、この物語における理が我々の手からこぼれ落ちていってしまうのが面白い。
全体を通して『ブラック・ミラー』の一挿話のような強度ある不条理ホラー作品で、Jホラーの歴史をささやかに前進させ るだけのポテンシャルを持った表現だと思った。ただし、エンドロールであんま作品世界にマッチしない音楽が流れたのは大変遺憾でした(Base Ball Bearは、下津監督が受賞した「日本ホラー映画大賞」の審査員を務めていた)。
色恋動機で入部してチャラけてたひかり(広瀬すず)が、戦力外として一人外された舞台。円陣でいつも通りメンバーを勇気づけてから大舞台に送り出すと、その背中を眺めながら涙がこぼれないように天を仰ぐ。無難な監督ならもう5秒早く切るし、無難な役者ならこの5秒は持たなかった。終始、この手の信頼感をバトンのようにして繋いでいった結果、序盤の浮ついた演出も、いつの間にかシリアスの影をまとい、俺はもう正座で号泣でした。つか、前半と後半で、監督変わってない??
いやいやしかし、浮ついているように見える前半から既に、種はしっかりと蒔かれているし、一見説明台詞過多に見えるが、大事なところは視神経を通して心に伝わるように出来ているのが凄い。そもそも、真剣佑を国立で応援するという不純な名目で入部するチア部であるが、そのひかりの亡くなった母親(鈴木杏)が実は元チア部であることも実家の写真で提示される。その家に「太りやすい体質」のひかりと共に残されたのは、唐揚げを得意料理とする太った父親(TKO木下)。ひかりのバックボーンを説明台詞なしでしっかりと観客に印象付けている。
更に、この物語全体を通して「人間は行動を以て成長していく」という原則が忘れ去られることは決してない。山崎紘菜はストリートでのダンスを通して笑顔の理由を見出すし、荒れた家庭環境の犠牲となっている富田望生は遂に母親に言い返す(この「遂に」と当然のように信じ込ませるのも高等テク)。全治2ヶ月の怪我を負ったひかりも、遅れを取り戻すべく必死に稽古しなければ絶対にチームに戻ることは叶わない。そして、絶対的チームリーダー足るあやの(中条あやみ)は言わずもがな。ビリビリに破けて、テープで補強してある「夢ノート」に、その徴がある。
そして、その裏返しになるが「行動なくして栄光なし」という現実も同時に突きつける。ダルいから一歩を踏み出さなかったひかりの友人二人は、チア部を応援することしか出来なかったし、当然、柳ゆり菜がそのバレエのスキルを全世界に披露する機会も与えられなかった。なんとなくの平等に帰着 するのではなく、行動と結果をセットにして提示するやり口、賛否両論あるのだろうが俺は好きだ。
若い役者陣の熱演(マジで熱演)に、受けの演技を崩さなかった天海祐希の演技と、そのバックグラウンドが徐々に明るみになってくる終盤の展開は、誤解を恐れず言うなら「圧巻」。ベタベタな「種明かし」に見えるかもしれないが、そのベタさを真正面から受け止めつつ、円陣の際の微妙な距離、手の位置、背後に配置した人物の表情、などで裏側でも巧みにオーケストレーションしてみせる。
どうか、前半の印象(世界一ダサいタイトルフォントとか、どんくさい効果音とか、怪しい福井弁とか、不満を記号化したような「リンダリンダ」とか)で諦めずに、最後まで観て欲しい。数年ぶりに観てハラハラしていた俺も、やはり後半はその見事さに(泣きながら)感心していた。
借家の軒先に青いケーブルで吊るされた雀を見た時から、形而上の世界が少しずつ現実を侵食し始め、主人公の言動も周囲のそれも果たして何を言っているのか判然としなくなるのだが、それでも不思議と狂気は感じられない。微妙に失調し続ける現実と、登場人物たちがほのめかす演劇的現実の針がピッタリと合っている、そんな雰囲気がそこはかとなく冷えた画面の安定をもたらしているようにも感じる。ズラウスキーの遺作となった2015年の作品『コスモス』。ゴンブローヴィッチの同名小説を原作としているが、作中でゴンブローヴィッチの引用が為される時点で、本作のねじ曲がり具合が想像出来るだろう。
主人公ヴィトルドは、借家オーナーの娘レナの美しさに狂おしいほど惹かれ、惹かれると同時に詩的で曖昧な文句を並べ立ててその気分を撹拌させようとするのだが、一方で唇のねじれた女中・キャサレットに執着する友人・フックスの陰謀論めいた説によって、この土地に根ざした謎が物語の一つの軸として浮かび上がってくる。その軸に沿った形で展開していく物語は、あまりに不条理な腰砕け状態で放棄され、出奔するように土地から逃れようとする人々は「より大きな獣」として、妄想の中に閉じ込められてしまったように見える。
そう考えると終始一貫して、表象は何かの隠喩として機能し、物語上の時制のどこかと連関している。文学とレナの美しさに没入するヴィトルド、興奮すると固まってしまう女主人と何の役にも立たない妄言吐きのその夫・レ オン、口唇裂で唇の捻れた女中、美しすぎて誰のものにも収まらない人妻・レナとただ美しく優しいその夫・リュシアン。手のイボに塩を撒き、パンにはナメクジが這い、傘を差したまま海に入り、レモンの皮は床にピン留めされ、卑猥な壁のシミは矢印を形作り、動物たちが吊るされ、グリーンピースが床に散らばり、決定的な言葉にも女は叫び声を上げたまま。数度見ないとこれらの連関〜曼荼羅〜コスモスは正しく理解できないだろうが、一度見ただけである中心に向けて強烈な磁場が働いていることに気付かされるだろう。こうした、一種の「真実」を希求する圧力が物語の場を支配していて、その過剰さがこの不条理劇にコメディ的な表層を与えている。
件の宿から数歩離れた屋敷。本作の物語を経て、主人公はその地に終着するが、そこにはもう一つの可能性も偏在している。この物語は、形而上学〜隠喩〜言語がもたらす可能性を秘めた現実についての実験のように思えた。
GW前半は妻の実家への帰省で無事終了。2日間も「望岳の湯」でサウナ三昧だったのが嬉しい。義実家の庭にある池がドブのようになっていたので、鍬を持ってどぶさらい。へとへとになりながらコットン村に行くもお目当てのカレーにはたどり着けず、家に帰って爆睡。地元の中華チェーン「みんなのテンホウ」で食った台湾ラーメンが非常に美味かった。ちんたら動く「天空のカート」に乗って八ヶ岳の絶景を見渡す。など。
帰宅して、上京していた久永家のみなさんと下北沢で少しだけお茶。おっさん同士で話すと、健康の話、育児の話、などに花が咲く。それでも這々の体でディスクユニオンに行くも、なかなか貴族の遊びであるわい、と手が出ず。しかしながら、スティーブ・ペリーのソロ作LPなんかは、現在底値中の底値で、今度買っていってもよかろうとか思った。
ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』、結局一気に読み終えてしまった。数年前に起きた失踪事件の犯人とされている被害者のボーイフレンドが、実は真犯人ではないと信じる主人公が、「自由研究」と称して真犯人を暴こうと奮闘する。良質なミステリーにおいて譲れない要素、奇妙な謎、多様な登場人物、幾度となく変化する状況、危険、意外な真相…などが不足なく詰め込まれているのだが、冒頭数ページで目が離せなくなるのはそれ以上に、探偵役の女子高生ピップのキャラクターに依るところが大きい。あまりに陽気で、快活で、公正。全然変わり者じゃない探偵が珍しいのは、多くの場合単にキャラクター造形に失敗しただけで心に残っていないからだろうと思うが、ピップやその友人たちに関してはむしろ平和な時のなんでもない話も読ませて欲しい、と思うぐらいキャラが立っていて本 当に素晴らしい。小さな街の友人たちを巻き込んだ事件であるから、少なからずビターな展開になることは避けられないが、それでもその清々しさは薄れず読後感は爽快であった。三部作、すぐに続きが読みたくなりましたので、また後ほどお会いしましょう。
衆院補選で自民・維新が全敗。助かった。助かったなーと思った。このボロボロの状態を政権交代でおっ被せられ、上手く行かずに国民の反発を招いた結果、より盤石な自公政権が成立する…という悲観的な見方には乗らない。何度も失敗して、何度も政権交代出来るような状況になればいいなと思う。
今日は朝からゴリゴリ動いて、夜は超のんびり。故あって日記はあっさり。また明日。
GW初日。日記は後でまとめて書こうと思う。ホーリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』を読み始める。最高にアッパーな主人公と、それに輪をかけて愉快な父親。あんまり探偵役で見ない人柄で、いやいやこれは楽しいぞ、と、50ページぐらいで一気に引き込まれています。U-Nextで短編日本映画を2本観る。